■ あなたにあいたくて ■




 僕、阿良々木暦には、切っても切り離せない特別な間柄の女性がいる。
 血縁関係というわけではない。あのかしまし過ぎる妹二人――約一人は実は血の繋がりがなかったらしいのだが――とはもちろんこの先もずっと兄妹という間柄だけど、この場合彼女たちは関係ない。
 彼女というわけでもない。隙あらば僕の口の中にホッチキスの針を突き立てたり拉致監禁したりするメンヘラ処女(自称)だったあいつも、色んな意味で「だった」に成り果て、現在僕とは絶賛馬鹿ップル継続中である。喜ばしい事なんだけど、出会った頃を思い出すと「誰だお前」と突っ込みたくなる時も多々あったりなかったりする。
 僕が返しきれない恩を抱えている、生まれながらの委員長とも、はたから見れば普通な関係とはいえないかもしれない。もちろん彼女は僕にとって理想そのものなので、何が何でも切り離されたくはないけれど、それでも「切っても切り離せない」とまでは言い切れない。
 レズでマゾで部屋を片付けられない露出狂の後輩や、引っ込み思案だけど妙に押しが強い妹の友達、それに地縛霊から浮遊霊に二階級特進したボキャブラリー豊富すぎる永遠の小学生とも仲がいいとは思うけど、それでもまだ彼女たちとは常識的な友人関係なのだと思う。
 でも、その女性と僕との関係は、そのどれも当てはまらない。まあそれも当然の話。そもそもにして彼女は人間ではなく、僕もまじりっけのない人間とは言い難い。
 怪異と怪異の絞りかすの繋がりなのだ。それは特別な物に決まっているのだろう。
 僕が死ねば、彼女も死ぬ。
 僕が彼女を見捨てれば、彼女は死ぬ。
 そして僕が彼女を見捨てるような事をすれば、それは僕が僕でなくなる。
 彼女と、ずっと共に在り続ける事。
 僕は全てを彼女から奪い取ったから、その制約から逃れる事は許されない。そしていい加減極まる僕にとって数少ない、自ら望んだ誓約だ。
 だから。
 忍野忍という名前を与えられたその女性と、僕との関係は、他のどの人間とも当てはまらない特別な物なのである。







「のう、あるじ様よ」
 何の前触れもなく僕の影からぬうと顔を突き出した忍が、不機嫌そうな声を上げた。
「どうした、忍。あと出来れば影になってたからってそこから顔を出すのは止めてくれ。問題が全く見えないんだが」
 スタンドライトの明かりで出来た僕の影が、ちょうど参考書の半分くらいに掛かっている。そこから突然忍が現れたので、問題を解くどころの話ではなくなってしまっている。
 傍目には、机の上に突然生意気そうな金髪美少女の首が生えたわけである。知らずに見ればどんな太い肝を持った人間だって、間違いなく泡を吹いて倒れる事だろう。だが事情を知っている僕からすれば、ただ邪魔なだけである。
 しかし忍はこちらの言う事に聞く耳など持たず、よっこいしょなどと呟きながら影から自分の体を引っ張り出した。勉強机が彼女の椅子に早変わりである。もう邪魔とかそういうレベルですらなくなってしまった。
「いや、てか。僕は今全力で受験勉強の真っ最中なんですが。なんでそんな所で寛ぎだしてるんだよ」
「つれない事をいうでないわ。従僕がこうして暇をもてあましているのだから、あるじ様としては少し気を使ってお茶請けを手に入れるためミスタードーナツに行こうと言う気にならんか?」
「ねえよ。一体どんな主従関係だよそれ」
「今日はゴールデンチョコレートではなくポン・デ・リングの気分じゃの」
「しかも話聞く気すらねえっ!?」
 僕の周りの女性陣は大概人の話を聞きやしないけれど、忍はまた極めつけの部類ではなかろうか。
「かか。まあ、そういいながらもお前様もそろそろ休憩したいと思っていたのじゃろうが」
 口元に意地の悪い笑みを浮かべる忍を見て、僕は深いため息をついた。
 時計の針はちょうど夜九時を指した所。早めに夕飯を済ませてからずっと机に向かっていたので、まあいい区切りではあったと思う。
「だとしても、もう少し出てくる時は気を使ってくれ。もしここに火憐ちゃんや月火ちゃんが来てたら、僕はもう色んな意味で言い訳が聞かなくなる」
「儂をあんまり舐めるではないわ。その程度の気配を感じ取れずして何が怪異殺しか」
「その割にいつぞや風呂場では大変な目に遭いかけた気がするんだが……」
 あの時の事はあまり思い出したくない。
 ババア臭いキャラ作りに相応しく、実際五百年を生きたという怪異の中の怪異である忍なんだけど、今の外見は八歳の幼女である。
 確かに自分の兄とそんな外見の幼女が一緒に風呂に入っていれば死ぬほど驚くだろうけど、だからと言って一足飛びに包丁持って戻ってくるようなメンタリティの妹には、その将来に一抹どころではない不安を抱かざるを得ない。その再現は断じて御免被りたい所である。
 大体にして、僕はまだ戦場ヶ原だって二人に紹介していない。自分の彼女より先に金髪幼女を紹介して、妹たちに兄ちゃん手遅れ疑惑を掛けられるような悲しい未来は勘弁してもらいたい。
「……何やら言いたい事がありそうじゃの」
「とりあえず机から降りてくれれば、他に何にも文句はないっての」
 ジト目で忍を睨み付けながらも、僕は椅子から立ち上がって伸びをする。まあ仕方ない。一服するにはいい切欠だったと思うしか。
 そのままベッドの端に腰掛けて、僕は忍に向き直った。
「で、いったい何があったんだ?」
「ん?」
「お前、用が無ければ影の中に潜りっぱなしじゃないか。それに基本的に僕が勉強してる時は姿現さないだろう? なのにわざわざ顔をみせたってのは、よほどの用事なんじゃないのか?」
「ふむ――」
 僕がそう言うと、忍は目を閉じてしばし考え込み、
「――ミスタードーナツの百円セールがな、確か今日までなのじゃが」
「お前もうずっと影の中から出てくるなよ!」
「何を言うか! 儂はかつて言った筈じゃぞ! ミスタードーナツがある限り人間を滅ぼさぬと。つまりお前様が儂にミスタードーナツを振舞うのは、人界を守るために必要不可欠な行為であろうが!」
「お前がドーナツ食えないくらいで滅ぶ人類なんかとっとと滅んでしまえ!」
 こちとら年中無休で金欠病罹患中の高校生である。人類の未来を僕の財布に託されたってどうしようもないわけなんですが。
「まあそれは冗談なのじゃが」
「掛け値なく本気の目だったよな、お前」
「じゃがまあ、暇を持て余しているのは本当なのじゃ」
 そう言うと、忍ははしたなくも僕の机の上で胡坐をかいて、にやりと笑う。改めて言うまでもない事なのだが、忍の格好は薄いワンピース一枚である。目のやり場に困る事この上ない。
「じゃからのう、あるじ様よ。儂とちょっくら祭に行く気はないか?」
「……はい?」
 祭って言うと、アレだよな。
 神社の境内とか、商店街とか。そういう所で屋台で提灯で神輿とか喧嘩とかが華だったりする。
「いやちょっと何言ってるのか意味分からないんですが忍さんや」
 突然そんな事を言われて、思わず僕がそう呟くと、何故だか忍は随分と神妙な顔で僕を見つめてくる。
「むう……あるじ様の友達無さ加減はこの儂をしてもいささか同情せざるをえなんだが。しかしいくら一緒に行く相手がいなかったとは言え、よもや祭という言葉すら忘却の彼方に送りこもうとは……すまんかった。気遣いが足りなかった事を謝ろうではないか」
「喧嘩売ってるんだな!? 喧嘩売ってるんだな忍!? お前の中で僕はいったいどんなレベルで友達がいないんだよ!」
「ならば聞くがな。いったいこれまでの人生であるじ様は家族以外の誰と祭に行った事があるというのかの?」
「ぐ……!」
 いませんでした。
 火憐ちゃんと月火ちゃんがまだ小学生の時に、一緒に近所の神社のお祭に行っただけでした。
 一言だってそんな事を忍に話した事はないというのに、なんだってこいつは正確に見抜いてくるのか。さすが怪異殺し。いや、何が流石なのか僕にもよく分からないけれど。
「ゆえにじゃ」
 忍の口元が釣りあがる。八歳児の外見には不釣合いな妖艶さを纏わりつけ、かつての怪異の王は僕に囁いてくる。
「従僕であるワシが、あるじ様を慰めるために付いて行ってやろうというのだ。人生初のお祭デェトと言う奴じゃ。有難く思うがよいぞ」
 たとえ彼女の正体を知らない者でも、その言葉に頷かずにはいられないだろう。ましてや、かつて彼女の従僕であった僕なのだ、一も二もなく従う以外、出来よう筈がなかった。
 そう、ゴールデンウィークの頃だったなら。
 だが、しかし。
「だが断る!」
「何じゃと?」
「くははは、断るのさ! 断ると言ったんだ忍。今の僕はそんな悲しい過去や記憶など、笑いながらゴミ箱に丸めて捨てられるぜ!」
「あ、あるじ様よ……突然どうした?」
 こみ上げる笑いを抑える事ができない。怪訝そうな表情で見つめる忍だって、今の僕なら寛大な心でスルーが出来る。
「なんたって今の僕にはガハラさんがいるからな。しようと思えば二人でいちゃラブしながらいくらでもお祭デートして来られるぜ!」
 一月くらい前の戦場ヶ原に向かってそんな事を頼めば、まず間違いなくホッチキスの針と一緒に罵詈雑言が飛んできながら首に縄をつけられて引っ張っていかれただろう。
 しかし今の戦場ヶ原はツンのツの字も見当たらないドロドロのデレデレなのである。余計な付随物なしに、本当に恋人らしくデートを楽しむ事ができる筈なのだ。
 さぞや悔しがっているのだろう。そう思って忍の顔を見れば、訳知り顔でうんうんと頷いている。
 今度は僕が怪訝な表情を浮かべる番だった。
「……忍?」
「うむ、よく分かるぞあるじ様。初めて出来た彼女との初めてのデートであれば、それはそれは楽しみであろうことは儂にもよく理解できる」
「だ、だろう? だからお前に憐れまれる必要も、ましてや積極的についてきてもらう必要も無いわけなんだけど」
「そうじゃろうなぁ?」
 何やら堪えきれないといわんばかりに、忍が肩を震わせて口元をニヤニヤさせているかと思ったら、
「あるじ様ときたら、いつもいつもあの女の部屋でばかりじゃからな、たまには場所を変えてみたくなる気持ちも分かるというものじゃ。おお、若い若い」
「ちょ、待て、待て待て、何を言いたいのか僕にはさっぱりですよ!?」
 何を突然口走るんだこの吸血鬼!?
「皆まで言わせたいのかの? まあ、覚えたてのガキンチョどもじゃ、自制しろと言う方が無理な相談だとは思うが。まあ外でするのなら虫刺されと出歯亀にはせいぜい気をつける事じゃの」
「いやいやいやいや、てかなんでそんな事をお前がーっ!?」
 冷や汗が止まりません。
 その、こう。
 色々乗り越えた戦場ヶ原と僕は、まあその何というか色々と仲良くなったわけである。訳ではあるが別にそんな事は周りに吹聴して回るような事じゃないので、少なくとも僕の口から誰かに言った事など一度たりとてないわけですが。
 もっとも戦場ヶ原はまあ多分神原辺りにそれはそれは楽しそうに話したんじゃないかな。何かここの所神原の僕らを見る目が妙に生暖かいし。
 まあそれはともかく! 
 断じて忍にそんな事を話した事がないのに、なぜそんなに訳知り顔なのかこの外見幼女は。
「やれやれ、忘れっぽいあるじ様を持つと苦労するのう」
 腹の立つ仕草で一度肩をすくめた忍は、自分のこめかみの辺りをとんとんと指で叩いて言う。
「あるじ様と儂の感覚が繋がっておると言う話はしたじゃろうが。アノ最中は生物として一番本能がむき出しになっている状況じゃぞ? 覗き見なんて可愛いものではなく、目の前で壁も窓も挟まずに行われているようなもんじゃ。お前様がどう言う手順で始めてどう果てるか、今ではそらでも言い当てられるわ」
「勘弁してください。何とかせめてその時だけでも回線叩ききって下さい忍さん」
 土下座した。
 するしかなかった。
 その瞬間を見られているよりも、多分改まってこう言われる方が拷問だと思う。
「まあそれは無理な相談じゃ。どうしても嫌ならば、儂を見捨てて人間に戻るより他ないの」
 机から降りた忍が、胡坐を掻いて僕の目の前に座りこむ。口元は未だににやけているが、僕を見上げるその目は真面目な物だった。
「……それは」
 出来ない相談だった。
 戦場ヶ原を好きになった事とも、羽川に返さなければいけない恩義とも違う。忍との関係は、僕が一生背負わなければいけない特別な制約でもあるのだから。
「まあ、そこで首を縦に触れるならば、そもそもお前様はとっくに人間じゃな」
 困ったような、恨めしいような。複雑な色が入り混じった表情を忍が浮かべる。しかしそれもすぐに引っ込んで、忍は意地の悪い微笑を浮かべる。
「次善の策としては、あの娘と別れてワシと怠惰に耽り情欲を貪ると言うのも――」
「無理ですから! 殺されますからガハラさんに! 二人まとめて!」
 いくら今の戦場ヶ原がドロドロだって、それは僕も戦場ヶ原の方向を向いているからドロドロなのである。
 彼女を捨てて忍に走るなんて所業、想像するのも恐ろしい。
 そもそも僕はロリコンではない。つるぺたな体になど興味がないのである。
「と、とにかく。その事に関しましては出来るだけ見ない振りをしていただく方向でお願いしたいわけです」
 床に額をすり付けてお願いする、僕の背中に重みが掛かった。
「安心せい、別にお前様とあの娘のデートの邪魔をするつもりはないわ。馬に蹴られるのは御免蒙る」
「……忍?」
 感触からすると、どうやら僕の背中に圧し掛かっているらしい。
 でも、何でそんな事を?
「儂が言っているのはな、あるじ様。四の五の言わんと今夜の祭に少しばかり付き合え、という話じゃよ」
「……今夜?」
 今夜なんか、別に祭をやっているなんて話は聞いた覚えがないんだけど。
 そう思った僕の首筋に、刺し貫かれる痛みが突き抜ける。
「し、のぶ……!?」
 言い掛けた僕の意識が、甘く気だるく塗りつぶされていく。
 身に覚えのあり過ぎる、それは忍の生命維持活動。そして普段行われるものより、はるかに強く、量の多いものであった。
「……少しばかり遠出するでな。普段より多めに頂かせてもらうとするぞ」
 そんな忍の声がもう遠い。
 あっさりと、僕の意識は闇の底へと溶け込んでいってしまった。







 目が覚めたら、見知らぬ山の中だった。
 通りすがりの吸血鬼に血を吸われて、目が覚めたら見知らぬ廃屋の中だったことはある。最愛の彼女に突然頭を殴られて、目が覚めたら同じ廃屋の中だったりした事もある。けど、山の中と言うのは新しいパターンだった。
「どこだよ、ここ」
 思わず呟いた。尻が冷たい。石畳に尻餅をついたままなせいなんだろうけど、全身がだるくて立ち上がるのが億劫だった。
 九十九折と言うのだろうか。視界の先には曲がりくねった急勾配の石段と、それをまたぐようにして鳥居が無数に立ち並んでいる。僕らはその入り口にいるらしい。何故って、目の前に不釣合いなほど立派な大鳥居が聳え立っているんだもの。夜の闇の中、鮮やかに浮かび上がるその姿は正直怖いわけですが。
 もっとも、そんな事よりも問題は僕らの置かれた現状だ。
 こんな場所で途方にくれる羽目になった加害者は、僕の隣で傲然と胸を反らして、その鳥居を見つめている。ついさっきまで僕の半分くらいの身長しかなかった外見幼女が、僕が座っているのを差し引いたって、見上げなければ顔が見えにくい位まで成長なさっておられる。腰まで伸びた目の覚めるような金色の髪に、羽川をも凌駕するケシカラン胸とか胸とかおっぱいとか。そんなワガママ極まる体のラインがくっきりと浮かび上がる赤いドレスは懐かしく、そして堪えようのない胸の痛みを僕に向けて呼び起こしてくる。
 鉄血にして熱血にして冷血の吸血鬼。かつてそう呼び表されていた怪異の王が、あの名前に近づいた姿で、そこに佇んでいる。
 頭がくらくらする。僕から血をすえば吸うほど、彼女の力は元に戻っていく。そして僕は反比例するように人間側から遠ざかる。
 自分で自分がどうなっているのかは正直良く分からないけれど、おそらくは神原と殴りあった時よりもはるかに人間を止めているのだろう。
「よく眠っておったな、あるじ様よ」
 ようやく気がついたのか、はたまたさして興味がなかったのか。多分後者だろうけど、のんびりと僕を見下ろした忍が唇の端を吊り上げた。
「まあ運んでる最中に暴れられても困るからの、儂としては助かったが」
 成長した今の姿によく似合う皮肉げな微笑みに、僕も嫌そうな表情で返す。
「お陰さんで気持ちよく眠らせていただきましたが、どんだけ僕の血を吸いやがったんだお前は」
「は、お前様は今まで揉んだ乳房の数を覚えているのか?」
「勝手に元ネタ改変するなよ!? ていうかそんな忘れるほど数こなしてねえよ!」
「ああ、そうじゃったな。つい一週間ほど前まで童て……」
「お前ちょっと黙っとけよ! ていうか、ここはどこなんだよ!」
 跳ね起きて忍に詰め寄った僕は、石畳の続く山の上を指差した。
 目下の問題はそこなのだ。今まで僕が揉んだおっぱいの持ち主が誰だったかとかどうでもいい。どうでも良いったらいいのだ。
 しかし忍は腕組みをして二度三度首を振ると、
「知らん」
「待てこら」
 勝手に人を連れ出しておいて、それだけは一番口にしてはいけない台詞だろ!
「いやいや、意味分からないから! お前がここに連れてきたのに知らんとか、どういう事ですか忍サン」
「落ち着け。早いだけなのはともかく、せっかちなのは嫌われるぞ、あるじ様」
「……オーケー。じゃあ説明を頼む」
 何かと含む所しか感じない物言いだったが、ここでそこにまで突っ込みだすとさっぱり話が進まない気がしてならない。ぐっと飲み込んで僕がそう言うと、忍はすっと目を細めて言った。
「あの若造がな、いつぞや話しておったのじゃ」
「忍野が?」
 この世のどんな人間も基本食料品としか見ていなかった忍があえて「若造」と呼ぶ相手は、一人しかいない。
「例によって聞き流している中で、たまたまこの場所の話をしおった。それが儂の知っている話と重なってな。正確な地名など儂の知った事ではないが、とにかくこの場所は分かった。儂にはそれでいい」
「ああ、なるほど。そういう事か」
 確かに忍にとって町や村やその山の名前とか、大して意味がない事なのだろう。力を取り戻せば数キロ単位の距離をホップステップで飛び越えてくる存在なのだから。
「……んで、ここで何があるって言うんだよ」
 僕の呟きに、忍は呆れ顔で、
「先ほど言ったと思ったがの、あるじ様。儂はお前様を祭に連れて行くと」
「いや、でも」
 祭なんて行われている気配はないんだが。
 僕の目の前には、深々と広がる森の中に伸びている真っ白い石段と、それを囲んで連なる赤い鳥居の姿だけだ。祭に付き物の喧騒が、いや、そもそもあるべき人の影がここには見当たらない。
「なああるじ様。今は真夜中じゃぞ? 何故、鳥居の色や石段が、見えるのじゃ?」
「何故って、それは……」
 こんなにも鮮やかに、闇の中に浮かび上がっているから。
 忍にそう言われて、初めて僕は気がついた。
 それぞれの鳥居の根元に、古めかしい提灯が据え付けられている。薄橙のその明かりが、僕たちの目の前に山頂までの道を指し示している。
 最初からあった筈なのに、忍にそう言われるまで全く視界に入らなかったらしい。あるいはそれがある事が、あまりにも自然すぎたのだろうか。
「誰も彼もが立ちいる事の出来る祭ではないという事じゃ。儂には資格があって、まあ、お前様は儂の関係者じゃから入るくらいは大丈夫なのじゃろうな」
 くく、と喉を鳴らした忍が、すっと僕の目の前に左手を差し出してくる。
「ん?」
「エスコートはしてくれぬのか? そのように気が利かぬままでは、あの娘との恋仲も先が思いやられるの」
 それでようやく彼女の求めてる事に思い至った。
 日本のどこぞ山奥の、どことも知れぬ神社への石段だ。赤いドレスの金髪美女など、アンバランス極まりないはずなのに、忍のその仕草はあまりにも堂に入った物だった。
 怪異殺しと呼ばれて血なまぐさい世界に在り続けてきた筈の彼女も、僕の知らない姿が沢山あるという事なのだろう。
「……悪かったな」
 頭を掻きながら、僕は彼女の手をとる。部屋着の大学受験生では格好つかない事この上ないが、その辺は目をつぶってもらうより他はないという事で。







 五百を越えた辺りから数えるのを止めた石段をひたすら上り続けて、何分くらい経ったのだろうか。
 突然、目の前が光に包まれた。
 それは色の洪水とでも言うのか。
 今までの道のりが嘘のように開けた境内の中ほどで、焚かれた炎が夜空に届きそうなほど爛々と燃え盛っている。その奥に組まれた櫓の上で、規則正しい太鼓の音色が響いている。
 櫓から四方に伸びた縄に吊るされた提灯が星のように浮かび上がっている。いつぞや戦場ヶ原に贈られた星空に比べれば騒々しいけれど、今この場所にはこれくらい主張が強い方が相応しい。
 火の周りには、無数の人影がある。
 桔梗が咲き、菖蒲が揺れる。向日葵もあれば、百合や朝顔だって花開いている。皆が皆、思い思いの浴衣に身を包んで、太鼓のリズムに合わせて輪を作り踊っている。
 祭に付き物の屋台は見当たらない。そんな物が不純物なのだという事は、鈍い僕にだって察しがつく。
「ほう……」
 感心したような忍の声が耳に届いて、彼女もこの光景に見入っていたのだと気がついた。
「すごいな、忍。これを。この光景を見に来たかったのか、お前は」
 そう呟いたけれど、僕の視線は人々の輪に向けられたままだった。いや、違う。この場所、この光景そのものを見つめ続けている。逸らしてしまうのが惜しい。そんな思いに頭の中が埋め尽くされている。
「は! まあ、間違ってはおらぬ」
 呆れたような忍の声も、今は気にならなかった。
「ところでな。気付いておるか、主様よ」
「何がだ?」
「今のお前様は、ずいぶんと吸血鬼よりじゃ。その視力も人の物とは明らかに異なっておる。鳥居を照らす明かりに気付かないほどに夜目が利いておるわけだが」
「それがどうしたよ」
「ほれ、あそこで踊っている人間たちの顔が、見えるかの?」
「は? そんなの……」
 今の僕には彼らが着ている浴衣の柄だって見えるのだ。人の顔くらい見えないわけが無い。
 そう思って目を凝らして、僕は言葉を失った。
 分からなかった。
 見えないのではない。人の頭ははっきりと見える。髪形も髪の色も分かる。男か女かだって分かる。でも、どんな顔をしているのかが理解できない。その目鼻立ちを見分ける事が出来ない。
 そこにいて、踊っている。ただの一人も、悲しみや怒りに包まれている人はいない。皆が皆、心の底からこの場所で踊っている事を楽しんでいるのが分かる。
 なのに、その顔を見分ける事が出来ないのだ。
「どういう、事だ……?」
 かすれた声で呟いて、僕は忍に向き直った。
 腕組みをした彼女は、挑戦的な視線を踊りの輪に向けている。ぞっとするほど美しいその横顔は、しかし何故だかとても寂しそうにも見える。
「それはな――もう一度逢いたいと思う人間が、今のあるじ様にはいないという事じゃ」
 普段の茶化したような声でも、高圧的な物でもない。忍の言葉は、出来の悪い生徒に教え諭す教師のように、静かで重いものだった。
「……逢いたい人が、いない?」
 別にそんな事はないだろう。そう言いかけた僕の言葉を遮って、忍は言う。
「のう、あるじ様よ」
「うん?」
「確か今の時期のこの国は、お盆と言う奴であったな」
「ああ、うん」
「全く、この国の人間は面白い風習を考え出すものよ」
 くく、と、忍は喉を鳴らす。
「儂の生まれた国では、死者など神の身元に叩き返してそれきりじゃ。惑ったモノは恐れられ祓われるか、世の闇を押し付けられ、怪異に成り果てるのが関の山」
 儂は別格じゃったがな。などと忍は肩をすくめる。
「しかしこの国はどうじゃ。死んだ者も変わらず家族と認め、あまつさえ生者の側に招き入れる。一年のうちで四日間、境界が酷く曖昧となり、しかも互いにそれを望む節すらある」
 それでようやく、僕は今日がどう言う意味を持つ日なのか思い出した。
 八月十三日は迎え盆である。彼岸から、ご先祖様の里帰りをお迎えする日だ。
 日にちややり方が異なれば、同じ風習がある国は他にもあるかも知れないけれど、こういったオカルトめいた儀式が宗教ではなく風習として根付いていると言うのは、確かに忍からすれば面白い国なのかもしれない。
「……まあ、ご先祖様を大切にしたいっていう感情は多分どんな日本人も大なり小なりもってはいると思う」
 もっとも戦場ヶ原辺りは母親の事があるし、羽川はご先祖含めて家庭環境が微妙かも知れない。それでも、亡くした家族を大切に思うという感情が全くないという日本人は、忍の言う通りほとんどいないんじゃないかなと思う。
 無宗教だ何だといわれがちな日本人だけど、それは多分間違いで、何に信仰を感じているかと言う、ただそれだけの問題なんじゃないか。
「そうは言うてもな。今ここで、亡くした者の顔が見えない辺り、あるじ様の先祖を敬う気持ちはなかなか怪しいものかも知れんがな」
「そこは突っ込まないでくれよ」
「もっとも、それは儂もさして変わらぬわ」
 再び忍の顔が、踊りの輪に向けられる。しかしそれも一瞬で、忍は何かを決めたように一つ頷くと、僕の手を取った。
「ほれ、さっさと行くぞ」
 僕の返事を聞く事もなく、忍はゆっくりとそちらに向かって歩き出した。
「お、おい?」
「あるじ様もついて参れ」
「い、いや。でも」
 そう僕が言ってももちろん忍は止まりもしない。そして人々の流れを避ける様子もない。
 そこが無人の広場であるかのように、忍は僕を引っ張り胸を張って突き進む。
「お、おい……ぶつか……?」
 僕の言葉は途中で止まる。
 僕たちの体をすり抜けて、輪は続いている。皆、不自然に避けるわけでもないのに、その中心に立つ僕たちに、誰もぶつかる事が無い。
 こうしてすぐ傍まで来ても、浴衣姿の男女が皆楽しんでいるという事しか分からない。どんな顔をしているのか、年をとっているのか、まだ若いのか。そういう事を認識する事が出来ない。奇妙というのにも程があるのに、それを恐ろしいと思う感情は全く沸いてこなかった。
「じゃから言ったろう。会いたい人間がいない儂らにとって、今この場所はただの見物席じゃ」
 僕の手を握ったまま、忍は呟いた。
「たとえ手の触れるほど傍まできたとしてもな、彼岸と此岸の隔たりは、招かれなければ触れ合えぬ」
「そういうモノなのか」
「あるじ様の恋人が囚われていた怪異を思い出せ。あのお節介な蟹に、お前様は触れる事も出来なかったろう」
「……確かに」
「偶々じゃ。偶々時期と場所が重なり合い、今の儂らには見えておる。ここで踊っておる彼らは、そういう存在に過ぎん。そうと分かった以上、ここに居続ける道理は無いわ」
 そう言って、再び忍は歩き出す。
「――本当に、薄情な事よ」
 祭囃子に掻き消されるほど小さく、そんな言葉が僕の耳に届いた。
 忍は僕を振り返らない。僕は彼女の手に引きづられるまま、ついていくより他なかった。







「……墓?」
 目の前に立ち並んだ物を見て、僕はそう呟いた。
 不思議な祭が続いている境内から、僕は忍に連れられて、小さな社を挟んだ真裏に来ていた。
 表側の喧騒がまるで幻のように、ここには何も届かない。夜の静寂と薄暗闇が辺りを支配している。
 そんな中で目の前の光景がよく見えるのは、大概に僕も今は吸血鬼側に足を突っ込んでいるという事なのだろう。
 ちゃんと名前が刻まれた、立派な墓石もいくつか並んでいる。けれど半分近くはただ大きな石が申し訳程度に積まれている様な、寂しい姿を晒している。その中の大半は酷く苔むしたり皹割れ、場合によっては真っ二つに割れているものすらある。手入れなどされていないのが明白で、そもそもこんな場所に普段人が訪れているのかすら怪しいものだった。
 そんな中で、一際古びた石の前に忍は立っていた。
 腕組みをして、まるでそれが親の敵か何かのように、きつい眼差しで見つめている。
「……その墓石がどうかしたのか、忍」
 返事は返って来ない気がしたけれど、それでも僕は聞いてみた。
「なあ、あるじ様よ」
 意外な事に忍は僕に向き直って、口元に淡い微笑を浮かべる。そう言う表情をするとこいつは、吸血鬼でも怪異でもなく、とびきり綺麗などこぞのお姫様に見えてしまう。
「いつぞや、お主が儂の血を与えた二人目だという話はしたと思うんじゃがな」
「――ああ」
 それは春休みのことだ。
 忍が忍ではなく、僕は完全に人間を辞めていて、似合わない学園異能バトルの真っ只中だった、あの時だ。
 僕は神妙な面持ちで、その墓石に向き直った。
「それじゃあここは、お前の一人目の眷属の墓、なのか?」
「そんな訳がなかろう」
 ずっこけた。
 後ろの墓石に盛大に頭をぶつける羽目になった。
 夜空に嫌ってほど瞬いてるのに、目の前にいくつも星が飛ぶ位痛かった。
「何にもない所で転ぶとは、あるじ様はほとほと器用な真似をするのう」
 あげく、悪びれる様子もなく、忍はしれっと言いやがった
「違うのかよっ!? お前がそこ突っ込むのかよ! ていうかそんな羽目になった原因だよ!」
 跳ね起きて捲くし立てたけれど、暖簾に腕押しだった。そもそもにして、今の僕より忍の方が背が高い。立場上今は僕が主従の主かも知れないけれど、その前は逆だったし、とにかく成長した彼女の威圧感は半端ないのだ。何より両胸に圧倒的な存在感を主張する二つの凶器が反則だ。羽川以上だぞ? そんなの勝てる気がしない。
「ただまあ、あ奴の一族の墓ではあるらしい」
「うん?」
「人として生まれた時から、このような怪異の吹き溜まりが終の棲家に定められるとはな。ほとほと、儂の眷族として生まれてくる定めであったのだろうよ」
「なら、やっぱりその彼の墓って事じゃないのかよ? もうずっとずっと前に死んでいるんだろう?」
 僕がそう言ったけれど、やっぱり忍は首を横に振った。
「骨の一欠片も、ここには納まっておらん。人が死んで最後に残す物の在り処が墓だという事ならば、ここはあ奴の墓ではあるまいよ」
 二度、三度。ヒールの先で忍は墓石を蹴り突付いた。本気で蹴り上げればこの場所はおろか海まですっ飛んで行きそうな気がするから、彼女からすれば撫でたようなものなのだろう。
 もちろん、そんな不躾な真似をしても反応は返ってきはしない。鈍い音だけが、無言の抗議のように響いているだけだ。
「何も残らんのじゃよ、あるじ様よ」
 僕に向かって言っているようで、実際は独り言なのかも知れない。忍は墓石を手荒く撫でながら呟いている。
「儂ら怪異が滅ぶ時は、塵一つもこの世に残らぬ。ご立派に用意されてはいても、墓に骨など納めようもないわ」
 一方通行のコミュニケーションに飽きたのだろうか。はたまた疲れ果てたのか。忍は振り上げた足をゆっくりと下ろして、そのまま地べたに座りこんだ。
 豪奢なドレスに身を包んだ、金髪のとんでもない美人が、目の前で墓石に背中を預けて座りこんでいる。日本のどこかの神社の光景としてはシュール極まりないし、目の前で見ていても本当の事なのかどうかはなはだ怪しい気がする。
 それでも、僕は忍に向かい合って腰を下ろした。
「……結局さ」
「うん?」
「どうしてお前は今日ここに来たんだ、忍」
 僕がそう聞いても、忍は口を結んで遠くを見つめたまま。ほんの少し前まで、忍野忍となったばかりの頃の彼女のようにだんまりである。
「まあ、言いたくない事の一つや二つあるのは分かるけどさ。さすがにあんなに血を吸い上げられて、こんな何処とも知れない場所まで連れてこられたんだ。理由くらいは聞かせてもらいたいわけなんですが」
 恨みがましく言ってはみたけれど、どうせ答えなど返ってくるわけがない。そう思っていたのに。
「あやつがな、最初に儂を連れてきた祭がここじゃった」
 僕の目をじっと見つめて、忍はそう言った。
「「死ぬ時はどうせお前の目の前なのだから、私の生まれた場所を知っておいて欲しい」――などと、似合わん臭い台詞を言っていた気がするがの。ともかく、記憶もあやふやになるくらい昔に、儂はあ奴にここに連れてこられた」
 くく、と忍が喉を鳴らす。
「あ奴が言う事には、昔からこの場所は、怪異の吹き溜まりなのだそうじゃ。一年に一度、この時期に、向こう側とこちら側が繋がりあう。大切な親に、子供に、伴侶に先立たれ心の隙間を抱えた者たちが、限られた時間だけ再会する事が出来る。そんな場所なのだそうじゃ」
「ああ。やっぱりそういう事か」
 だから、僕にはあそこで踊る人たちに触れる事が出来なかった。
 そこにいる事は分かっても、それが誰なのか認識する事が出来なかった。遠くで見上げる花火のように、その姿を綺麗な物だと見つめるしか出来なかった。
「あるじ様よ。今あそこで踊っておる者たちの半分はただの人間じゃ。ただ一時、怪異の生み出す祭に取り込まれておるだけ。夜が明ければ、そこに居た事すら記憶の底から消え去っておるじゃろうよ」
 そう言って、忍は自らの胸に右手を押し当てた。
 僕が何を言う間もない。そのままずぶずぶと、冗談のように彼女の手が肘まで体の中にめりこんでいく。同じ光景を一度見てなければ、あまりにもスプラッタなその光景に叫びだしてしまいそうだった。
 やがて、自らの血で真っ赤に染まったその手に導かれて、一振りの巨大な刀が彼女の中から生み出されていく。
 傷は一瞬でふさがり、彼女の手も白皙のなめらかさを取り戻している。夜の闇の中で怪しく輝く、人の身長ほどもあるその刃を天に翳し、忍は立ち上がった。
「結局あ奴がこの世にいた証は、余計な記憶とこの刀だけじゃ。『心渡』とはまた小憎らしい名前と言うべきかの」
 とん、と。忍がつま先で大地を蹴った。
 赤いドレスの裾を翻し、金色の髪を夜に靡かせて、忍は振りかぶった刀を鮮やかに振り下ろした。
 何一つ、音はしなかった。
 時間が凍りついたように、忍は刀を振り下ろした姿で動きを止めている。
「薄情者めが」
 かすれる様な声で忍は呟いた。
 それが合図だったのか。墓石に斜めに筋が入り、そしてゆっくりとずれていく。一度動き出した石はもう留まることなく、ついに上半分が転がり落ちてしまった。
「お、おい。忍……」
「義理堅い男だと思っていたのじゃが、顔を見せに来る様子もないとはの。本当に薄情者じゃ」
 僕をその言葉と背中で切り捨てると、忍は小さなため息をついた。
「付き合わせたあるじ様には悪い事をしたのう。まあ、喉に刺さっていた小骨がとれた。もう来る事はあるまい」
 肩をすくめて、忍が僕に向き直った。
 その顔が、酷く年老いているように見えてしまった。
 普段の忍は五百年の時を生きた風格など欠片も見せやしないし、その表情だって外見相応の子供のようだ。
 ミスドの百円セールのドーナツにかぶりついて「ぱないの!」などとのたまう姿に、威厳を感じろという方が無理な相談で、だからこそ今こいつが見せているような疲労と諦観が入り混じった表情には、違和感しか感じられない。
 彼女がこんな顔を僕に見せたのは、多分二回だけだ。
 それは忍野忍が忍野忍に成り果てる前の物語。
 僕が真紅の吸血鬼『キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード』に出会い、彼女の願いに身を差し出した時と、彼女の最後の願いを無残に踏みにじった時だけだ。
 僕が彼女をキスショットと呼ぶ事は、もう許されない。
 だから、キスショットが浮かべていた表情を見続ける事も、きっと許されない事なのだ。
「――また来年、会いに来ればいいだろう?」
「うむ……?」
 自然と口をついた僕の言葉に、忍の眉が震える。
「別に、お盆は今年で終わりって言うわけじゃないんだ」
 滑らかに斬りおとされた墓石を指差して、僕は意地の悪い笑みを浮かべる。
「たまたま今年は気づかなかったかもしれないけど、今そうやってこの国にお前がいる事を教えたんだからさ。そいつだって来年は気が付いて、慌てて駆けつけてくるんじゃないか?」
 あんまり似合わない事を口にしている自覚はあるけれど、目を丸くしている忍などというものが見れれば、ペイだろう。
「ひょっとして……儂に気を使っておるのか。あるじ様よ」
「悪いかよ。あいにく、生まれてまだ二十年と経ってない身なもので、お前のそういう感覚を理解できるわけじゃないけど。でも、それを感じる事はとても大事な事だろう」
「似合わんのう」
 突っ込まれたよ。
 自覚していても、突っ込まれるとそれはそれで気恥ずかしいんですが。
「お前様が気にするべきは儂の気持ちなんぞより、恋人の乳の揉み方じゃろうが。それなりの大きさと硬さだからと言って、あんな勢いで揉みしだけばせっかくの形が悪くなるぞ?」
「そこまで話戻すなよ!?」
 てか感覚共有どころか実はしっかり見てるんじゃないのかお前!
「まあ、じゃからと言って妹相手に乳を揉む練習はお勧めせんが」
「しねえよ! これから先何があったってあいつら相手にそんな練習してたまるか!」
 だってこう、洒落にならない。
 なにせあの歯磨き事件以降、特に火憐ちゃんの様子が色々と変な気がするし。
「って言うか! 僕の妹やガハラさんの乳の話はどうでもいいんだよ! とにかく、来年また来るんなら、今度は事前に言ってくれればちゃんと付き合うぞって言う話なんだ」
 このまま放っておいたら、何処まで話がそれてすっ飛んでいくか知れたものじゃない。
 顔をしかめてそう呟いた僕の顔を、冷たい風がつき抜けた。
「へ……?」
 鼻先に触れるか触れないかの位置で、鈍く輝く刃が止まっている。
 獰猛な、肉食獣のような笑顔を浮かべた忍が、僕に向かって刀を突きつけている。
「えーと……忍……?」
「あるじ様に気を使わせたのは心苦しい限りじゃがな。しかし、まるで自分には関係ございませんというばかりのその言い方は少しばかり腹が立ってのう」
 鼻の頭に、何かが触れた気がする。切っ先が当たっているのだろうか。しかしあの切れ味なのだ。気付かないだけで、もうとっくに僕の鼻の穴が一つ増えてしまっているのかもしれない。
「百年はいらん。五十年でも長いな。そうじゃの、人間同士ならばせいぜい三十年じゃ」
「……何の事だよ、それは」
「決まっておろう。時間じゃ!」
 夜を震わせて、忍が吼えた。獰猛に伸びた犬歯がきらめく様は、一匹の赤い美獣そのままだ。
「互いの時の歩みが違うと言う苦しみは、あるじ様が今考えているよりよほど苦しいものじゃ!」
「ガハラさんとの事か……ッ痛っ!?」
 間違いなく今、めり込んだんですが!
「たわけが、それに限らぬ! お前様の親兄弟、はたまたずいぶん増えた友人ども。取り巻く者全てがお前様を置き去りにしていってしまうのはな、想像以上に辛く苦しく恐ろしい事じゃと言っておる!」
 僕の顔につき立てられていた『心渡』が離れていく。それを両手で構えると、一転、静かな声で忍は言う。
「あるいは今儂がここで素首を落としてやるか。あるじ様の事は憎くてたまらぬが、嫌いではない。それが情けかもしれぬしの」
 忍の目は本気だった。
 間違いなく、返答次第で僕の首はそこの墓石よろしく転がる羽目になる。
 だから僕は、
「それはない」
 忍に向かって踏み出した。
「知ってるだろう、忍。ガハラさんは、とんでもなく性質の悪いメンヘラなツンデレさんなんだ」
「あの娘がどうしたんじゃ。今まな板に乗っておるのは、お前様の首と命じゃぞ?」
「いいか、忍。僕がもし誰かに殺されたら、彼女はどんな事があってもその犯人を殺しちまう。僕は何があってもあいつより長生きしないと、犯罪者一人野放しにする羽目になるんだよ」
 大真面目だった。
 相手が怪異だろうが怪異殺しだろうが関係ない。戦場ヶ原ひたぎは、こと僕の事に限ればタガが外れっぱなしで何でもする女だ。重すぎる愛の代償の取り立て相手は、例え忍だって例外ではないのだから。
「そう言うわけで、僕はガハラさんの大往生と真人間ぶりを見届ける義務がある。見届けて、そしてまあその後は、この場所でも何処でも良いんだけど、とにかく年に一度は会いにこなければいけないわけだ」
「ほほう。何の力もない小娘が、儂を殺すと。そうあるじ様は言うわけだな」
 忍は微動だにしない。一つの完成された彫刻のようにぶれなく美しい姿で僕と向かい合っている。
 その目が、構えている刃のように細められる。
 ごめん。ぶっちゃけ、涙が出そうなくらい怖い。
 それでも、ここは逃げ出せる場面ではないし、口にした言葉は紛れもない本心なのである。
 吸血鬼の残りかすである僕が、忍のように不老なのか実際怪しいものだと思うけれど、その覚悟を持っていなければいけない事は間違いないのだ。
「恐ろしい事に、間違いなくガハラさんはヤル。いかなる手段を用いても、あいつはヤルんだよ」
 緊張で喉がからからで、血の気が引きすぎて眩暈がしそうです。
 次の瞬間、僕の首と胴体が別れを告げてしまうかもしれない。しかしそんな事になれば都合三つの死体が転がる羽目になりかねない。
 ……いや、あんまり後追いとかはしそうにないなぁ。かといっておとなしく警察に捕まるような性格でもなさそうだしなぁ。そうなると転がる死体が三つじゃきかなくなりかねないわけで。
「とにかく、そんな恐ろしい事にガハラさんの手を染めさせるわけにもいかないし! お前との間で超常バトルを僕が死んだ後に繰り広げられても非常に困ります! 僕ひとつの命でそんな事まで責任は持てん!」
「ならばあるじ様よ。一体お前様はどこまで責任を持つつもりじゃ?」
「……とりあえず憎まれ口を叩かれながら、ガハラさんの大往生を見届けるくらいまでは頑張って」
 死にたくないわけがないし、不老不死という響きに何の憧れもないかといわれれば嘘になる。でもそれは僕一人で過ごしても意味がない。
 これから何十年も経てば、戦場ヶ原と一緒に同じ時間を歩んで欲しくなる事があるかもしれない。しれないけれど、戦場ヶ原はあくまで人間のまま、人間らしい一生を送ってもらわなければ意味がない。
 彼女が巻き込まれる怪異は、もう僕で打ち止めにしておかないといけない。
「――忘れておるのか、それとも考えないようにしておるのかは知らんが。お前の思い描いているその未来には、儂もセットでくっついておるのじゃがな」
「立ち位置が違うんだ、忍。お前と、ガハラさんの場所は違う」
 僕の隣に立っているのが戦場ヶ原ひたぎで、僕の影の中にいるのが忍野忍。
「お前の事は、責任を持つとかそういう事じゃない。お前を生かし続ける事は、僕の制約で誓約だ。だから僕が責任を持つのは、ガハラさんだけなんだ。それを果たし終わった後ならもうしょうがない。首を落とされても文句は言いやしないよ」
「ふむ――」
「だけどまあ、そうなる前にはお前と共々、一度くらいはここに来れりゃ良いな、と思ってるけど」
 一人目がどんな顔なのか僕は知らないし、ガハラさんがあの輪の中で楽しげに僕と踊っている姿と言うのはなかなかに想像しづらいものがあるけれど。
「お互いに会いたい人間がいれば、あの輪の中にだって入れるだろ、う……」
 一体今日何度目だったろう。
 忍の目が丸くなって、『心渡』を取り落とした。そんな光景は僕だって絶句するには十分だ。
「…………あれじゃな」
 どのくらい、お互い間抜けな表情で向き合っていたんだろうか。
 深い、深すぎる溜息をついて、忍が肩をすくめた。
「お前様のような大馬鹿者のために、儂が一々色んな事まで考えるというのは、随分と馬鹿らしい事な気がしてきたわ」
 疲れた感じの声でそう言うと、忍は転がっていた『心渡』を拾い上げる。
 出た時同様、スプラッタ極まる方法で体の中に収めると、忍は僕に向かって意地の悪い笑みを浮かべた。
「それだけあの娘っ子の事を好きなくせに、自分の周りに女子が多すぎる理由を、一度あるじ様は真剣に考えた方が良さそうじゃぞ」
 すっと伸ばされた忍の右手が、僕の首筋をとんとん、と叩いてきた。
「儂が落とす前に、はて、一体どの女子に寝首を掻かれるか」
「あのな、怖い上に意味の分からない事を言うなよ」
 ようやく緊張から解き放たれて、僕も苦笑いを浮かべた。確かに今は羽川とか神原とか千石とか、少し前まで話す機会がなかった相手とよく遊んだりしてるけどそれはたまたまなのだ。そもそもそれ以外に友達がいないのだから、多すぎるも何もないわけで。
 ともあれ、忍の用事というか話したい事も終わったらしい。
 受験勉強から一息入れようとしただけだったのに何やらとんでもない事になったけれど、流石にそろそろ家に戻らなければ。明日のスケジュールもばっちり組まれてしまっているし。
「なあ、忍。そろそろいい時間だし家に帰ろう……」
 そう言いかけた僕の目に映ったのは、僕の影にもう首の下まで沈めてしまっている忍の姿だった。
「まったく。柄にもなく下らない事を色々考えすぎて、儂ももう疲れたわ」
「え、ちょ、忍?」
「もうしばらくすれば夜も明けるからの。それではお休み、あるじ様」
 そう言って、あっさりと忍は僕の影に引っ込んでしまった。
「いや、あれ? 忍さん……?」
 僕の声だけが空しく響き渡る。
 影から返事が返ってくる様子は、ない。って。
「ちょっと待てーっ!?」
 叫んだ。
 そりゃー叫ぶさ! だってそもそもここ何処だよ!?
 例えるならば、突然気絶するほど殴られて拉致られてとんでもない所まで運ばれたような物である。て言うか例えるまでもなくそのままだった!
 彼女に引き続いて、運命共同体の見た目少女にまでそんな無体な真似されるとか、僕が一体何をした。
「いや、忍。頼むから出てきてくれ! せめてここが日本の何処なのか、僕に教えてから熟睡しろ!」
 自分の影に向かって膝をついて頭を下げて必死でお願いしていると、眠そうな表情の忍が再び顔を出した。
「うるさいのう……」
「お、おお! 良かった忍、頼むから僕の……」
「おお、あるじ様。大切な事をひとつ言い忘れておったわ」
 どうやら連れ帰ってくださるつもりは欠片もないらしかった。
 しかし、ここがどこか分かるだけでも大きな収穫だと、前向きに考える事にする。しなければ泣きそうだった。
「来年の夏は、今度はあるじ様が儂をここに連れてきてくれるのじゃろう? 楽しみにしておるわ」
「……え?」
 それだけ言って、忍は再び影の中に引っ込んでしまった。
 いや。
 いやいやいやいや。
「それはないだろ忍ーっ!?」









「ねえ、阿良々木君」
 向かい合って鉛筆を走らせている戦場ヶ原が、不意にその手を止めて呟いた。
 あの山奥置き去り事件から三日経った日の午後だった。
 帰りつくまでにえらい騒ぎだったが、何とか無事に帰ってきたのが昨日である。家族への説明のでっち上げにそれはそれはえらい目に合ったのだが、まあ何とか納得してくれたのはおおらかなのか僕に関心がないのか。今までの自分の言動を鑑みると多分後者なのだけれど、ともかく平穏無事な毎日のリスタート一日目である。
「どうした、ガハラさん」
 僕も手を止めて顔を上げると、戦場ヶ原はにっこりと微笑んでくる。
 髪を気って棘の抜けた彼女に、そう言うやわらかい顔を浮かべられると、途端にこちらの心も蕩けそうになってしまうが、それは今我慢しなければならない。何せ予定から二日遅れてしまった。僕みたいな劣等生は、その遅れを取り戻すだけでも一大事なのだから。
「知っている? 神原、部活を止めた今でも自主トレーニングを続けているのよ」
「へえ、そうなのか」
 突然あの問題児過ぎる後輩の話を持ち出されて、僕としては間抜けに相槌を打たざるをえない。もっとも、あの無駄にパワーが有り余っている変態さんが、部活を止めたからと言っておとなしく家でBL小説だけを読み漁っている姿と言うのも違和感があるので、トレーニングをしているのと言うのは自然な事なのだろう。
「でも、それが一体どう……」
「あの子、主に走るのは夜なのだけどね」
 ぞくりとした。
 何故だか、こう、致命的な寒気が頭の天辺から腰までつき抜けていく。
「その日もいつものように走っていたら、見たそうなのよ」
「な、何をさ?」
「赤いドレスをはためかせた金髪のものすごい濡れてしまうような美人が、阿良々木君を抱えて民家の屋根を飛び回っている所を」
 ばっちり目撃されてやがるんですが忍!
 しかもそんなシュールな光景を自然に受け入れやがる神原も神原なんだが濡れてしまうって何がだ! どこがだ!
「――ねえ、阿良々木君」
 戦場ヶ原の微笑みは崩れない。
 何が怖いって、目もしっかり笑っている。傍目には嬉しくてたまらないと言うその表情がなんだってこんなに恐怖しか産み落としてくれないのか!
「あの忍とか言う吸血鬼の事とは、私の立ち入れない事情があるのだろうから少しは大目に見るつもりなのだけれど」
「お、おう……」
「あの少女が、実は大人になれたりとか、あまつさえその女にお姫様抱っこをされていたと言うのは、少しばかり看過できない状況だと思うのよね」
 私もしてもらった事がないし。などと言う戦場ヶ原の台詞に、僕の背中から額から冷や汗が止まりません。
「いやいやガハラさん。聞いていただきたいと言うか言っておきたいというか、それ僕の意思が欠片も介在していない状況だったんですが!」
「いえいえ、遠慮しなくていいわ、阿良々木君」
 戦場ヶ原の両手が、僕の肩に掛けられた。
「私も、容赦しなければいいだけの話なのだもの」
 戦場ヶ原の目の色が変わっている。
 冷徹とか、酷薄とかじゃなくて、餌を見つけた肉食獣が血走ってたり興奮して蕩けそうになっている感じ。
「その体に、教え込んであげるわ阿良々木君」
「何をですか!」
「自由に休んだり寝られるのって、実はとても幸せな事なんだって」
「てめえ忍! 今すぐここに出てきて、あの状況の説明しやがれ頼むからーっ!」



 ――もちろん忍が出てくる事はなかった。
 結局、僕の勉強計画はさらに二日遅れた。
 戦場ヶ原ともども正座に土下座で羽川から説教されたのはまた別の話。
 もう少しだけ、僕は人間関係と責任について考えて見るべきなのかも知れないと、畳に頭をこすり付けながらそんな事を思ってみたりしたのだった。



【おしまい】






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