彼方を継ぐ者




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 暗く、冥く。冬木の街にぽっかりと暗闇の穴が開いていた。蝙蝠が言葉を持つなら、そう言うだろう。
 夜空より暗い漆黒の正体は、約十年に起きた大火災の焼け跡である。現在は公園として放置されている土地だ。自生の植物はまだ背が低く、木と呼べる程成長したものは他から移したものだけである。
 開発が入らず、入れずに見捨てられた土地だった。大火災により一族郎党が焼死した場合も少なくない。土地の権利は宙に浮き、そもそも何処までが誰の所有であったかすら判断尽きかねる。
 結果として大火災の跡地は、二十年は見棄てられなければならなかった。所有権やら不法行為への請求権の消滅など、社会の理によって惨禍の傷跡は晒され続ける。
 無人の森林である筈の場所に、二棟の塔が聳えていた。
 急造のマンションである。薄っぺらい外壁に白々しいレンガ色のペンキ、存在感の希薄な建造物は、しかし不思議にも威風を保っている。
 望遠鏡で覗き込んだ月の様でもあった。
 今、まさに深夜零時を時計が刺した。安物の外壁を、遡る闇がある。
 墨汁を滴らした生きた砂じみていた。耳障りな悲鳴を上げて、重力に逆らいマンションをよじ登っている。総重量は数トンに達するだろう。
 汚濁と呼んでいいそれの中心が、突如爆ぜた。
 いや、爆縮した。空間が一瞬、凹レンズと化し、引っくり返って周囲数mを全て飲み込み、プレスした。汚濁は一層五月蠅い悲鳴をあげ、血飛沫を撒き散らし、逆流をやめない。
 砂の一粒は、穢れた蟲が一匹だった。
 次々と空間の一点が潰れていく。蟲の大群は血肉を撒き散らしながら、圧死した数を膨大に上回る数の暴力に頼み、ビルの屋上に立つ人影へ殺到していく。
 遂に登りきる。黒光りする津波に人影が巻き込まれる。寸前で人影が消える。
 無人の一角を押しつぶし、蟲どもは屋上の約三分の一を覆い尽くした。
 人影は、蟲達とは丁度真反対の場所に忽然と顕れる。
「……久しいの、破戒僧よ。最早お互い人の体を棄てたか――カカカ、いや健在で何よりよ」
 蟲達が人の言葉を話した。タールの水溜りに似た群の中心が盛り上がり、一人の枯れ木となった老人の姿を採る。一方話しかけられた人影、筋骨逞しいのがコートの上からも解る、壮年の男は苦悶の皺を顔中に刻んでいた。
 傷を負ったのではない。この男は過去二百年余り同じ表情をしていた。恐らく存在する限り、延々と苦悩と苦悶を抱え続ける。
 男は、値踏みしながら答えた。
「肉体など消費すれば変えればよい。息災など、我ら魔術師に問う価値はなかろう。老いたな、マキリ――間桐臓硯」
「いや手厳しい。ほんに息災であったようじゃの、荒耶宗蓮」
 間桐臓硯はぴしゃりと額を叩いた。
「して何用よ。ここは二百年前の協約により、魔術師の争いを禁ずる地。大儀式の他には許されぬ場所よ。大掛かりな工房、否神殿を拵えて何用よ。聖杯が目指す神秘、貴様には意味がないと百五十年前に結論は出た筈。返答如何では許すまいぞ、密教僧よ」
 冥い面差しを荒耶に向けた。
 過去を揶揄する旧知に、荒耶は動じない。
「既に彼の協定は破られたとしてよかろう。大儀式は終了を向かえ、聖杯は器に血を注がれずに荼毘に伏せた。もはや遠坂の霊地を守護する義は無かろう」
「黙れ、愚物が。魔都の狸どもや、遠阪の小娘――アインツベルンの聖杯に何が判ろうか!」
 完全に人の姿を採った間桐臓硯は、手にした杖で床を力任せに叩いた。
「大聖杯は生きておる。まだ動くとも! 儂は未だ成しておらぬとも! 愚物どもの言など聞くに値せぬ、アレは儂の物じゃ」
「妄執に囚われたか」
「黙れ!」
 荒耶宗蓮は一笑に付したつもりだったのだろう。辛うじて頬が痙攣した程度だったが。
「堕したな、マキリよ。二百年前捨て去った妄念に取り付かれたか、或いは自我が磨耗したか。魔術師としてすら堕したか、間桐」
「なんじゃと……儂が魔術師ですらないと言うか」
「然り。何故手段を選んだ、マキリ」
 臓硯は怪訝に眉を顰めた。
 老魔術師にも自覚はある。己が魔道左道に身を窶しているなど百も承知だった。無垢だった養女を陵辱し尽くし、変質させ、己が道具としたのだ。
 体を維持するために、夜道を歩く一般人を食い尽くす。
 他者を貶め、弄んで躍らせる。
 果たして、何処が手段を選んでいるとするのか。
「……私は大聖杯が機能を停止したとは口にしておらぬ」
「ぬ――そうか、ならば貴様も奪いにきたか。だが時は満ちておらぬ」
「それこそ堕落。目的のために手段を選ぶ等、魔術師ではないわ」
 魔術師にとって極限の目的に達する以外に価値あるものはない。世の悉くは手段として捧げる為にある。
 間桐臓硯には理解できなかった。何故、時が満ちるのを待つのすら否定するのか。
 苦悩の魔術師は聊かも揺るぎなく、
「数万程度の魂、何故用意しなかった」
 虐殺を提案した。
「カ、カカカ! 永過ぎる時は精神を風化させるが、お主の場合は人ですらなくなったか」
「元より。互いに人の身体は棄てた筈」
 間桐臓硯は哄笑を止め、苦虫を潰した。
「協会の制裁より逃れられると思うたか、貴様」
「目的を果たせばよかろう。こちら側に残る肉体など捨て去ればいい」
「戯けめが。狂ったか」
 こつんと床を杖で叩くと、蟲達が一斉に戦慄きだした。
「堕したな、不浄」
 もう交わす言葉は無い。汚濁の虫たちは一斉に蜂起した。大蛇のように持ち上がり、鎌首を擡げる。間桐臓硯は下半身を蟲の蛇に溶かし込みながら、吼えた。
「もう良いわ。二百年に渡る放浪、ここで途絶えさすがいいわッ」
 臓硯とその使い魔である蟲達は、荒耶を意趣返しとして圧殺せんと圧し掛かってくる。突風を追い越す速度。荒耶宗蓮はじっと間桐臓硯を見定めて、開いた右手を突き出した。
 殺意を、唱える。旧知であり、嘗て理想を論じ合った、変わり果てた魔術師へ呪文を唱えた。

「――粛」



/1



 卒業を間近に控えた衛宮士郎は、最近学友より『ロリコンめ』という罵倒に晒されていた。元凶は無論、彼の手を引く小さな雪模様の少女である。レインコート姿が無邪気だ。
「ねえ、おにいちゃん? 早く帰らないと雨がに変わるわ。わたし寒いのきらーい」
「……ああ」
 ついでに逆玉の輿とも言われている。
「エミヤ様、とっとと歩いてもらわねば。いつまでお嬢様を寒空の下に曝すつもりです?」
「……ミカン。コタツでミカン食べたい、ミカン」
 二人のすぐ後ろに、白装束のメイドがしずしず付いて回るからだ。
 溜息は白く、重い。何も十二月の温度が原因の全てではなかった。
 士郎は頭を振って、傘の縁から家路の最後に待つ坂を見上げた。
「なあ、イリヤ。なんで最近こんなにべったりなんだ?」
 右腕にぶら下がった妹のような姉のような、幼子のようでありずっと年上みたいな、『女の子は不思議な魔物です』と身体全体で体現するイリヤを持ち上げた。
「んー? んー」
 イリヤは桜色の唇に指先を当てて、
「理由は無いよ?」
 あっさりした調子で微笑んだ。
「そうか……」
 切なげに士郎は瞑目した。この数日、イリヤは士郎の周りをほぼ二十四時間離れていない。
 二十四時間である。例外はトイレと風呂である。ここだけは死守する心積もりであった。 まあ、理由が無いわけない。
 振り向けば、リズとセラが表向きだけしずしずと、控えめに士郎とイリヤに付き従っていた。セラは魔力を発散しなくとも練りながら、リズは例の化け物ハルバートを担ぎながらである。
(魔術で認知されていないっても、人にぶつかったらどうするんだアレ)
 メイド二人は臨戦態勢だった。不届き者がいたならば、瞬殺の構えである。士郎は犠牲者が自分にならないよう祈るばかりだった。
 綿菓子みたいな嘆息をして、再度士郎は坂を見上げる。
「ん? お客かな」
 ストレンジャーには事欠かない彼の自宅である。今もトラ姉を筆頭に、桜やバゼット、遠坂が居間で寛いでいるだろう。此処最近は、霊地の管理者である遠坂を訪問する客が多かった。そういった連中に、士郎は遠坂とバゼットに「あまり出てくるな」と申し付けられてあったので、簡単な応対しかしなかったのだが、後で説明を受けたところ、倫敦からのメッセンジャーだという。
『どうして協会の魔術師達が、わざわざ日本に?』
『ちょっとね。聖杯戦争の後片付けよ』
 ああ、と士郎は得心した。協会が要する大儀式の一つが、完全に幕を閉ざしたのだから、手続き等多いのだろう。
 浮世離れした魔術師達が事務仕事に忙殺された挙句、極東に出張してくる姿は滑稽でもあった。
 あそこに立っている、長身痩躯の男も同類だろう。雨に打たれても傘一つ挿さない辺り、変わり者には違いない。
 安易な判断をしたのは、士郎だけのようだった。
「リズ、セラ」
「うん」
「はい、お嬢様」
 簡潔な号令を受け、二人の人工妖精が進み出た。セラは黄金の象嵌が美しい、ガントレットを突き出す。恐らくは魔術を補助する機能があるのだろう。リズは言うに及ばず、軽々と銀と赤が交差するハルバートを構える。
「――うぇ? おい、イリヤ!?」
 華奢な肩に手を置こうとして、痺れた。士郎が驚くのも無理は無かった。イリヤは、電気を発する如くに魔力を漲らせている。
 一体何事だろう。あの男がまるで仇敵だとばかりじゃないか――。
 士郎は再度、坂の上を見上げた。瞬間、戦慄が走る。
 男と目が合ったからだ。士郎は無常に塗りつぶされた、凝り固まった激しさを感じ取った。眉間に刻まれた、百年の苦悩を見て取った。
 陰鬱な気配を漂わせる男は、前髪より雨粒を垂らしながら口を開いた。
「イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。そして衛宮の後継か」
「……ッ」
 嘔吐を催した。反射的に士郎は悟る。悟らざるを得ない。あたかも言峰綺礼と初めて出会った時と同じだ。
 コイツは、敵だ。
「イリヤ、後ろに! 投影――なっ」
 士郎は素早く動いた。敵意の察知に遅れたものの、動作は速く鋭く、素人のものではない。更に俊敏に、セラが魔術を発動し始め、リズが駆け出そうとする。
 四人の誰よりも、敵対する魔術師は速かった。弾丸となり、坂を瞬きの間に駆け下りて、リズへセラへ士郎へ、そしてイリヤへ肉薄する。
 対応できたのはリズだけである。無表情を苛立ちで幽かに染めて、ハルバードで薙ごうとする。
 しかし、それよりも魔術師は更に速い。
「――頂経、王顕」
 そして、言葉すら静止した。
 時間すら凍りついた空間で、魔術師だけが機敏に動いている。
 陰鬱に呟く。
「他愛ない。その姓、警戒しすぎたか」
(姓だって?)
 男が無造作に、鋭利に蹴りを放つ。セラやリズを無視して、まずは士郎へと。
 直後、士郎の記憶はぶっつりと途絶えた。



/2



 記憶が接続される。覚醒した士郎の目に飛び込んできたのは、よく知ってはいるが毎日は見上げない居間の天井だった。
「……なんで、俺。――そうだ、イリヤ!……ッ痛!」
 士郎は飛び上がろうとしたが、激痛に思わず身を強張らせる。
 まるで肋骨に皹が入っているみたいだ。
「元気ね。肋骨を五本折られ、肺に刺さりそうになってて、挙句内蔵を傷めていたとは思えないわ」
 冷やかな皮肉の主に、士郎は渋面のまま気が付いた。
「カレン? どうして家に」
 冬木の代理監督者であるカレン・オルテンシアは仏頂面を崩さず、士郎の体を布団へ押し戻した。
「凛に呼び出されたのです。どうも一人では手が回らないというので。手間は掛かりましたが、まったくもって頑丈なのね、貴方」
 見れば上半身は裸で、包帯やら湿布、ルーンの文様が刻まれた護符だのと、雑多だが手厚い治療が施されている。
「今、時間は。俺はどれ位気絶してたんだ? イリヤ達はどうなった? あの魔術師は――!」
「落ち着きなさい、衛宮士郎。まだ日は変わってません。ホムンクルス達は離れで治療しています。尤も、彼女らは人ではないので困難な一面もあるのですが」
「イリヤは」
「拉致されたようです」
 事務的な報告に、士郎はまたしても立ち上がろうとした。
「止めなさい、闇雲に立ち回っても傷を悪化させるだけです」
「そんなのどうでもいいだろ! イリヤが連れ去られたんだぞっ、早く助けに行かないと」
「貴方が地べたを這いずり回る姿は、それはそれで祝福しますが。無駄で無意味な行為は凛に止められると思うけれど?」
「……地べたって、カレン」
 毎度とはいえ、士郎は悪口に一瞬あっけにとられた。
「まあ、無駄は取り除くべきね」
 がらりと襖が開いて、居間に凛が入ってくる。後ろからバゼットも続いていた。
「遠坂、リズ達は無事なのか」
「多分ね。ホムンクルスは専門外だけれど、出来るだけはしたわ。相手も完全に破壊する気はなかったんでしょう。明日にはイリヤの城に移すわ」
「彼女達はある種世界の触覚ですので、適した霊地で休息した方がいいでしょうし」
 バゼットが説明を継いだ。凛は素早く士郎の隣に膝をつき、
「士郎、説明しなさい。出来るだけ詳しくよ、些細な事も漏らさないで頂戴」
「遠、坂……?」
 士郎は気圧されて、微かに腰を引いた。気心知れた士郎でさえ、圧倒される程に凛は殺気立っている。
 士郎は唾を一つ飲み込んだ。
「……突然だったし、俺なんてあっという間に昏倒されたんだけれど」
 解る事柄、見た内容をこと細かく伝える。凛は頷きもせず耳を傾けていた。
 彼の魔術師が二言だけ唱えた途端、奴以外の誰もが動きを止めたという件で、凛はバゼットを振り向いた。
「恐らく呪縛か、結界の類。イリヤスフィール達の意識すら瞬時に封じるというのは考え難いので、後者が有力でしょうか。とすると……相当な使い手でしょう。相手にはしたくない輩です。が――」
「決まりね」
 凛は立ち上がると、士郎を省みもしないまま出て行こうとする。
「お、おい遠坂」
「士郎は休んでいなさい。後は私とバゼットで片をつけるわ」
「……心当たりがあるのか」
「あるわ。士郎の説明で確信になった」
 士郎が殺気立つ番だった。ならば、と士郎は凛を追って、今度こそ立ち上がろうとする。激痛が走るも、構っていられない。
 凛は士郎を目の端で捕らえ、機嫌の悪い声で言った。
「カレン、お願い」
 突如、士郎の視界を赤一色が覆い尽くした。
「うわ……っ、おい、カレ――っッッ」
 マグダラの聖骸布がこの場で唯一の男性を拘束するべく、巻き付いたのだ。士郎は抵抗出来ぬまま、あっという間に赤いミイラになって布団に転がった。
「……ホールド」
 死者に手向けるよう、カレンが祈る。膝元では士郎がモガモガとのたうっていた。
「士郎、アンタは今回大人しくしていなさい」
 襖に手をかけつつ、凛は告げた。
「――そうする必要があるのよ、アンタには」
 刃物と化した気配のまま、凛は廊下に出て行く。
「……では後はよろしく頼みます、カレン」
 バゼットはカレンと士郎を見回した後、凛に続いた。



/3



「言い過ぎではないですか」
 静まり返っていく住宅街を歩きながら、先行く凛にバゼットは声をかけた。
「あの位素っ気無くしないと、尺取虫になってでも付いて来るわよ、アイツは」
 確かに、とバゼットは苦笑した。付き合いは長いようで短いが、衛宮士郎の気質は良く知っている。
「十秒、か」
 続く凛の言葉に、バゼットは柳眉を曇らせた。
 二人は一路、かの公園へと向かっている。約十年前の惨禍が傷跡、サーヴァントをして異界と言わしめた場所である。
 凛は深紅のコートを翻させながら、肩を怒らせていた。
「ねえ、バゼット。貴方、ここに来る時に"認識して"いた?」
「いいえ。ですが、サーヴァント達すら騙し遂せたとは考え難い。恐らくは第五回聖杯戦争の終結後でしょう」
「なら、貴方でさえ目を覚ましてからこれまで、"気づかなかった"訳か……」
 忌々しい。凛は歯軋りしながら視線を上げた。
 バゼットもそれに倣う。
「にしても疑問は残ります。あれ程の建築物、一年弱の施工期間では足りない」
「流行の手抜き工事かもね。そもそも誰かを住まわせるんじゃなんでしょうし」
 だが、とバゼットは思う。少なくとも魔術的措置を取れば、手抜きと評価は決して出来ない。寧ろ逆だろう。彼のマンションは一年近く遠坂凛を、半年に渡り元執行者たるバゼットを騙してきたのだから。
「異物を認識させない暗示、結界。これ程のものを構築するは……!」
 二十階はあるマンション二棟が、二人が立つ坂の上から望める。夜闇を超えて尚暗い森林の闇より生える塔。恐らくはあそここそ、イリヤが拉致され、バゼット達に敵対する魔術師が構える工房だ。
 魔術師が動いた後には、香水の香りの如く魔術の残滓が残る。例え一級の魔術師でも完全に消せはしないものだ。冬木の地に見知らぬ魔術師が現れたとバゼット達が気づいた瞬間、例のマンションは忽然と認識内に顕れた。
 『在る』という認識があれば、認識を騙す結界を越えうる。『警戒するべき魔術師がいる』と知った故に、『魔術師が存在する工房など無い』という暗示を打ち破った事になる。尤も、相当の力量である魔術師でしか、この程度の些細な情報では結界を破れなかっただろうが。
 だとしても、彼女らから巨大な建造物を隠し通した手腕は、並大抵のものではない。
 士郎の証言から、相手は高確率で結界使いだと判明している。最近許可無く策動している魔術師の存在、マンションを隠蔽してきた巨大で高度過ぎる結界。全てが符合しているのだ。
 彼女らに仇成す結界使いは、火災地獄の跡にいる。
 凛は不意に足を止めた。バゼットが不審に思うと、ぽたりと血の一滴がアスファルトに落ちた。
「十秒よ。もしあの子が十秒、持ち応えられなかったら士郎達は間に合わなかったかもしれない」
 凛は文字通り、血が滲むまで唇をかみ締めていたのだ。とうとう噛み千切ってしまったのだろう。
 バゼットは悔やむように、義手である方の腕を抱き寄せた。
「私がもっと速ければ」
「いいえ、違うわ。バゼットの行動にはミスもロスもない。士郎達を責めている訳でもない。ただ、あの子が十秒、たった十秒耐え忍んだというだけよ」
 バゼットは衛宮邸の外で発動した魔術の気配を捉え、躊躇無く飛び出した。寛いでいた居間から庭へ飛び出し、壁を乗り越え、坂の下で横たわる士郎とセラ、リズを確認し、イリヤスフィールの小柄な身体を抱える魔術師を認め、そして――。
「……まだ見習い程度だってのに、士郎達を物ともしないレベルの魔術師相手に、あの子が――桜が、たった十秒足止めできたってだけだわ」
 その十秒が果たしてどれ程莫大な意味を持ち、また永劫に等しかったか。
 士郎は未熟者だが、素人では決してない。聖杯戦争を生き抜いた経験は千の演習に勝るし、今では投影魔術において稀有な才能を示している。ギルガメッシュが披露した宝具の一部を、使用可能な域にまで再現できる程だ。魔術回路に負担が大きく、不安定な一面も大きいが。
 セラとてアインツベルンのホムンクルスであり、一介の魔術師になど引けを取らない魔術の腕前を誇る。
 リズについては説明するまでもない。イリヤを保護する為に与えられた戦闘力は、サーヴァントを相手取る可能性すら視野に入れたスペックだ。
 士郎、セラ、リズを一蹴する相手。バゼットには想像がつかない。どうやって間桐桜が十秒もの間、結界使いを釘付けられたのか。
 結界使いはバゼットの姿を認めると、応戦せずに退いた。目的を果たしたならば危険を冒す必要は無いと考えたのだ。
 合理的な判断を下せる強者相手に、桜がどう足掻き、バゼットが到着するまで時間を稼いだのか。
 恐らく凛にも解らないのだろう。
「――だからもう、士郎を矢面には出さないわ。私が全部片をつける」
 故に、敵対する結界使いが許せはしないのだ。
「凛、思いつめるのは危険だ。私もいると忘れないで欲しい」
 バゼットは担いだ長筒状のケースを揺らして見せた。
「……そうね、頼りにしているわ。元協会屈指の執行者がこっちにはいるんだものね。何処の輩か知らないけれど、さっさと片付けましょ。気分が悪いわ」
 決然とマンションを睨みつける。バゼットが横に並ぶのを認めると、凛は再び先を急ぎ始めた。



/4



 バゼット達は公園の森を抜け、二棟のマンションの前に居た。
 敷地を囲む壁はなく、一昔前のニュータウンに多かったタイプの建造物だった。どっしりとした感はなく、不思議と希薄な存在感しかない。部屋の窓に明かりは殆どなく、人の気配は皆無だ。
「さて、凛。本当に足を踏み入れますか」
 ここまで来て、何を。凛は唇を尖らせた。けれどバゼットもただ確認の為に尋ねた訳ではない。
 バゼット・フラガ・マクレミッツにとっては、他者の工房への突入という一見無謀な行為も、日常茶飯事の一幕だった。そも彼女は魔術師としては最悪の部類に入る、封印指定の確保を生業としていたのだ。
 彼らの業績は素晴らしく、恐るべきものであった。それらのデータは協会に大部分が保存されている。だが、バゼットにとっては役に立たない情報だった。
 執行者が追うのは、あらゆる道徳を無意味とする、果てを目指す背徳の賢者達。
 彼らが姿を消していた間の進歩は、協会に属していた時期を圧倒的に引き離している場合が大半だった。
 どの系統の魔術を好んでいたか、得意とする術式は。過去の資料から類推して、この程度だけでも判明し、且つ正解であったならば僥倖。
 士郎の言、そして眼前のマンションから、相手は高々度の結界使いと判明している。バゼットにはそれだけで十分だ。
 では、遠坂凛はどうか。
 彼女は純粋な戦闘者ではない。強力な魔術師であるのには間違いはないが、圧倒的不利を背負ってまで、敵対する相手を打ち破れるか。
 凛はバゼットの杞憂を鼻で笑った。
「何日間睨み合ってたと思っているのよ。一向に尻尾を見せなかった相手が、やっと手品を披露してくれた。いいチャンスよ、ここで躊躇していたらイリヤの身の危険どころか、何をしでかすか解らないわ」
 そう、凛達は既に敵の存在に気づいていた。故にこのマンションに直行したのだ。見知らぬ魔術師の気配を察知した瞬間から、残滓の主が正体・目的・力量を探っていた。
 管理者として、無作法者に臨戦態勢を敷いていたのだ。
 イリヤが二人の手勢を率いて、士郎から離れなかったのは、その為だ。
 凛達の中で、最も戦力として不安定な士郎を、最も安定した戦力であるイリヤ達が保護する。桜は見習い以下であり、真っ当な魔術師が見れば構う価値はない。だが士郎は聖杯戦争の勝者である。策謀の対象に成り得ると凛は考えていたのだ。
 イリヤが士郎を庇護し、また学校について行く――動いて見せる。注意を引き付けている間に、凛が敵の懐を探る。バゼットはジョーカーだ、まさか協会屈指の戦闘者が滞在しているとは思うまい。
 最後に、桜は巻き込まない。これが凛の布陣だった。士郎が知らない場所で、情報戦は始まっていたのだ。
 結果は燦々たるものとなってしまったが、それで終わる彼女ではない。
「魔力の残滓から、回路の規模は知れる。恐らく術の巧妙さで非力さをカバーする性質でしょうよ。相手の動力を封じる結界かしらね? そんなものを恐らくは下準備なしで、瞬時に構築する腕前は大したものだわ。けれど流石に広範囲には張れない。敢えてリズへ接近したのが証拠よ」
「ええ。ですが油断は禁物です。ここには攻性の結界があると見て間違いない」
「百も承知よ。その為のコートだわ」
「自信の一品のようですね」
 バゼットは安堵しながら返答した。
「芯は冷えているようで、安心した」
「私は魔術師よ。それ以上でも、それ以下でもないわ」
 得心の首肯で応じて、バゼットはマンションを見上げる。
「私達の来襲はもう補足されている、奇襲は通じない。ならば選択肢はありません。一棟ずつ二人一組で攻略する他ない」
「正攻法ね。反論はないわ、別行動する意味なんて……っ!?」
「……これ、は」
 宣戦布告として、マンションの敷地内に足を踏み入れた瞬間だった。唐突に、本能的に、反射的に。二人は揃って頭上を仰ぐ。
 二棟の四角い塔の間に、奇抜な物体が浮かんでいた。
 マンションの屋上、想像するに四隅から伸びるポール。それらの対角線上へ張られた計四本の鎖。吊るされているのは、豪奢な象嵌を施された小さな塔。逆さ吊りにされた舎利塔。それが魔術師二人の眼を呪縛する正体だった。
 凛は怖気を、バゼットは戦慄を払いながら小さく叫んだ。
「……素早く行動を起こして正解だったわね」
「全くだ。一体何を考えている……っ」
 逆位置。天ではなく地の底を刺す聖なる小塔は、不吉なる触の星と化して二人を睥睨している。
 いわば、其れは。
「この街の住民全てを呪殺でもするつもり?」
 呪詛で編み上げた核だった。
「バゼット、アレが何だか解る?」
「――確証はありませんが」
 バゼットには空より伝わってくる、背筋を嬲る気配に覚えがあった。
あれは幾千幾万幾億か繰り返した、再生の儀式における代償だった。バゼットが死からの覚醒前に泳いだ、人間のあらゆる悪徳を押し付け、蔑し、糾弾し、侮蔑し、否定し怨む思念の海に似ている。
「この世全ての悪――馬鹿な、何故現実に」
「そういえば大量に零れ出たらしいわね……聖杯が消滅した際、消え去ったと思ってたんだけれど」
 何物かが回収し、育て上げていたのか。あんな劇物中の劇物、如何するつもりなのか。
 凛の瞳が険を帯びた。
「ねえバゼット。アレ、何時まで保つと思う? 相当強固な加護を以って封じているみたいだけど。多分、同じ意見になるけれどね」
 バゼットは無言で頭を振った。もう数時間、否数十分も"もたない"。一目瞭然だった。
 既に聖者の加護には、皹が縦横無尽に走っている。
 そう、と凛は静かに嘆息した。
「――二手に分かれての、二方面作戦しかない、か」
「危険ですが、相手は虐殺すら厭わないらしい」
 舌打ちはバゼットのものだ。この段階で、相手の意図は読めた。
(壊れ穢れ、ついに機能しなくなった筈の聖杯に無理やり生贄を注ぐつもりか)
 一瞬、敵方の魔術師の狂気を疑った。だが直ぐに腑に落ちる。
 今回の相手は極端だとは言え――根源を目指す魔術師は、犠牲など厭わないものだと。



/5



 マンションの中は絵の具で塗り潰されたように、見事な暗闇だった。非常灯だけが無愛想に輝いているのは、何かのジョークなのか。
 バゼットは自身の周囲に点滅する紫電を回転させながら、彼女には珍しく皮肉めいた。
 主の衛星となって巡る鋼鉄の球体、フラガラックはマンションの敷地に踏み入ってから、発動寸前の状態で放電していた。予期していた事態ではある。結界に秀でた者の工房に侵入したのだ、相手の切り札に反応するのは当たり前だ。
(やはり何らかの攻性結界か。まだ発動していない自律型ではないのかもしれない)
 消えかけのネオンに照らされる横顔は、真剣であり慎重の色が濃かったが、恐怖はなかった。足音は規則正しく、潜めるどころか寧ろ大仰に鳴り響く。侵入者というより警備員の態度だ。
 無人なのか否なのか、判断付きかねる集合集宅の内部を、階毎に廊下を渡りながら上に登っていく。廊下の左右には勿論、様々な家庭へ繋がるドアが規則正しく並んである。子供が泥だらけにした三輪車があり、クシャクシャに畳んだ折り畳み傘が壁によりかけられている。回覧板が掛かったドアノブもあった。
 まるで図書館の奥にある閉架式書庫だというのが印象だった。或いは、生物の標本が生前と詰まった倉庫。
 身に迫る生活感はなく、しかし誰かが生きている――生きていた痕跡が鮮やかに存在している。剥製で歴史の一幕を再現した博物館でもいいかもしれない。
「気にいらない」
 ぼそりと呟いて、バゼットは階段を上りきった所で足を止めた。丁度十階だった。
 暗闇にも濃淡がある。無である闇は、有によって遮られた闇程は濃くはない。ただ深いだけだ。
 バゼットから凡そ15m離れた場所に、人型の無明が在る。
「どうやら、私が当たりでしたか」
 義手の爪で空中に『<(kenaz)』を描く。生身の腕と見分けが付かない彼女の爪は、機能性を重視してかルーンを刻む秘爪になっていた。
 人影とバゼットの中間点に火が環を描き、蟠っていた闇を取り除いた。
 筋骨逞しい長身、何より苦渋の皺で占められた壮年らしき男が姿を現す。否、正確な年齢は解らない。光の角度次第では、老齢の域にも映る。
「協会の手の者か。まさかこの様な時期に居合わせるとはな」
 魔術師は皺を幽かに深くし、思慮する素振りをする。
「居合わせた、とは正確ではありません。私は以前よりこの街に滞在している。そして私は恩人が害されて尚、無関係を装う人間ではない」
 コンクリートの床に散らばっていた砂埃をじゃりっと鳴らし、バゼットは足を開いた。右肩からラックを外し、床に落とす。左右不揃いの皮製手袋を丁寧に嵌め、拳闘の構えを採る。
「――成る程。計画に綻びが生じたかと危惧したが、杞憂だったか」
 魔術師はゆっくり頷くと、右腕を地面と平行に上げる。掌は開いたまま、狙いをバゼットに定める。
「名を問おう、ルーン使い」
「墓標の為なら、そちらが名乗るべきだ」
「――魔術師、荒耶宗蓮」
 苦笑もせず、魔術師は端的に答え――次の瞬間、戦いの火蓋を切った。


「わたしが当たりだったって訳ね。よくもまあ、私の土地であんな大仰で危なっかしいものを醸成してくれたわね。名刺なんて心の贅肉はいらないけど、名乗る位したらどう?」
「魔術師、荒耶宗蓮。貴様が冬木の霊地が管理者、遠坂の当主か」
 凛は夜風に髪を洗れながら、マンションの屋上への扉が閉まる音を聞いた。重苦しい鉄の響きだ。
 荒耶は屋上の中心で、空に釣り下がる聖人の骨を収めるべき小塔を観察していた。
 ビル風がけたたましい。体温を奪っていく冷気は、両者の間に蓄積されていく敵意と嫌悪の前に溶けていく。心臓を圧迫する気配は全てが凛からの一方的なもので、荒耶は微風とも認識していない。
「あら、わたしの顔は知っていたんだ? なら菓子折りぐらい持ってくるのが筋じゃない? いいマンションじゃない、収入もたいした額になるんでしょうね――人が本当に住んでいるなら」
 荒耶から返答はなかった。凛は形のいい鼻をふんと鳴らし、一歩前に出る。
「それ以上進むなら、思念に当てられよう。両儀を模した世界の更に四方、守護司る方位より編し結界をしても、この集積されし悪意は封じ切れん。唾棄すべき醜く下種な人間が吐き出した汚物だ、当然ではある」
「自分が掻き集めたんでしょうが。溝浚いの愚痴は結構よ。……答えなさい、何時これ程の呪い、柳洞寺から掻き集めたのよ。私に勘付かれず、また消滅するはずだった聖杯の泥を確保するなんて」
「否。私が摘み上げたのは、ほんの一滴。それ以上を手にしたなら、この魂も悪意に融解させられていたであろう」
「……じゃあどうやって、此処まで育て上げたって言うのよ。大体正気? ただの人間の魂を、しかも数万数十万を掻き集めて、魔力に変換できるなんて思っているわけ?」

「人間の魂は空気に触れた瞬間飛散し、根源へ落ちる。そも第一要素たる魂は、本人でなくば他に変換しようのない存在。問うまでもなかろう」
「なら虐殺が目的って訳? 態々こんな手間をかけて。それに最初の質問に答えてもらってないわ。どうやって聖杯の毒を増幅させたの」
 誰何しながらも、凛はコートのポケットに手を入れ、宝石を三粒握り締めていた。どれも大玉、バーサーカーを一度殺した宝石の規模には及ばないが、人間相手であれば一蹴できる自負がある。
 荒耶宗蓮は初めて凛を眼に捕らえた。途端、凛は刹那肩を震わす。
 未だ出会った経験がない、透明で鋭利に過ぎる妄念が宿っている
「気が付かなかったか」
「――アンタが悪趣味なのは解ったけど?」
 荒耶は目を細めた。懐かしい光景に邂逅した際の仕草だ。
「いずれ解る。もう時間だ、その才を無駄に散らしたくなければ大人しくしているのが上策だ」
「待つ気はないわ。これっぽっちもね。当然黙っているつもりも全くない」
 わずかに腰の位置を下げ、
「わたしはね、アンタをぶちのめして、木っ端微塵にしてやって、厄介な汚物の処理をしてから出来の悪い弟子の世話までしないといけないの。……妹の治療もね。狂った魔術師の戯言に付き合ってなんてられない」
「其の覇気、意気、才気。未熟ではあるが良し。思い出させるものが在る。だが、」
 ゆるり、陰鬱げに右手を凛へ向けた。
「身の程を知るがいい」
「どっちが――!」
 両者、同時に叫ぶ。そして荒耶はたった一言、呪を口に乗せた。


「――粛」
 決定的な魔術を放つ、最短の詠唱。魔術師にとって最適の解はしかし、
「後より出でて」
 最適を超えた理不尽に蹂躙される。
「先に断つもの――!」
 逆光剣。人間が存在する事象の規模では、ほぼ不可分である時間と因果律を腑分け、時間を逆行せしめる事で因果を反転させる、魔法の領域。
 バゼットの拳から湯気が立ち上る。一条の閃光は、荒耶宗蓮の心臓を完全に打ち抜いていった。
 顔の筋肉を痙攣すらさせられないままに、苦悩の魔術師は緩やかに崩れ落ちる。
「……最高の一手を以って、初撃に切り札を放つ。貴様が合理的な魔術師で幸運だ。私とは相性がいい」
 深呼吸をしながら、バゼットは手向けとして告げた。
 静かに死体を見下ろす。フラガラックを受けて無事な者など、人間どころか霊長には居ない。
「さて、後は屋上に出て、凛と協力しますか」
 まだ処理すべきは山積していた。イリヤスフィールの保護、『この世全ての悪』の処置。特に後者は、『彼』と幾千万の夜を越えたバゼットにとって許しがたい。
 だが、一人では手に余る。彼女の仕事は九割が破壊であって、巧緻極まる術の行使ではないのだ。
「急がなくては。時間は余りない」
 バゼットはラックを担ぎなおそうと背を屈めた。
(――ッ!?)
 本能か、或いは磨き上げ鍛え続けた戦いの直感故か。
 前に飛ぶ。振り向く。出来うる限りの右を放つ。
 次の瞬間、バゼットは温度の違う二種類の血飛沫を、頬に受けた。