/6



「では一度教会に戻ります」
 カレンはそういい残すと、居間の電気を消して出て行った。残ったのは赤い木乃伊、にしては意気が良すぎる士郎の成れの果てだけだった。
 もがもがと諦めず暴れる姿は、茹でられてもまだ足掻くロブスターそのものだった。乱暴に座卓を蹴っ飛ばし、落とした湯呑みが割れなかったかと心配する。
(くそっ、こんなときに寝ている場合じゃないのにっ……)
 聖骸布は一向に解ける気配がない。男性にのみ神聖にして犯されざる概念武装は、持ち主の性根通りに士郎をがっちりホールドして離さない。
(あのサドマゾ毒舌シスター! 絶対状況を楽しんでやがるな)
 悪口も「もがもがふがふが」と意味不明な呻きにしかならず、ますます哀れさを醸し出していた。
 焦燥に焦がれている士郎は、静かに襖が開いたのに気が付かなかった。隣に座る衣擦れも聞き逃してしまう。
 海老状態の士郎を、暗闇の中でじっと眺める人影があった。その膝に、士郎の膝がどんと派手に当たる。
「あ、酷い先輩。大人しくしてないと駄目ですよ?」
「ファ、ハフハ?(さ、桜?)」
 士郎はやや怪訝に声を上ずらせる。桜にしては声がくぐもっているし、そもそも魔術と係わり合いがない桜に今の奇抜な様相を目撃されるとは。
「大丈夫ですよ、先輩」
 察したのか、桜は酷く儚げな声で、
「わたしも……魔術師ですから。見習いだけれど」
「――は?」
 呆然と、士郎は動きを止めた。
「あまり詳しい事は聞かないでください。その代わり、顔から其の布、取って上げますから。いいですか、先輩?」
 士郎は一瞬逡巡してから、一つ頷いた。
 柔らかい指が恐る恐る頬をなでつつ、聖骸布を解いていく。
「ぷはぁっ! 助かったよ桜。……桜?」
 深呼吸して見上げた桜の表情は、よく窺えなかった。真っ暗闇だからというのもあるが、桜は室内で目深くパーカーのフードをかぶっていた。
 士郎は眉を曇らせた。
「どうしたんだよ、桜。まるで顔を隠しているみたいじゃないか」
「あ、ひどい先輩。傷ついちゃいますよ?」
「ち、違う違う。そんな意味じゃあ」
 慌てて首を振る。くすりと笑う気配がした。
 同時に、薬品の匂いもまた。
 士郎は怪訝さを際立たせて、縛られたままの身体を懸命に起こす。フードを覗き込もうとするが、桜は腰が引けるように下がってしまう。
 けれど、うっすらと。いやに膨れ上がった輪郭がぼやけた。桜が困った風に笑ったのが伝わる。
「桜」
 士郎は怒りでぞっと血が下がり、すぐさま沸騰するのを自覚した。
「――あのヤロウ、桜にまで手を上げやがったのかぁッ! 舐めやがって畜生が!」
 鼻の奥で血の匂いがする程、感情が猛然と爆発した。四肢に込められるだけの力を込める。
 邪魔だ。聖骸布が、自由を奪う枷がこの上なく邪魔だった。引き千切ってやる。駆け付けて、あの糞野郎を叩きのめしてやる。
 聖なる繊維はびくともしない。
 桜は怒り狂う士郎の様子をじっと見詰めていた。暗闇の更に奥で、ひっそりと微笑む。
「先輩、怒ってくれるんですか?」
「当たり前だ、当たり前だろう桜! 糞、どうして外れないんだ今畜生……ッ」
「赤い布を外しちゃったら、先輩はどこにいっちゃうんですか?」
「決まってる、あの魔術師をこの街から叩き出してやる」
「どうしてですか? 何故そんな危ない事をするんですか?」
「……は?」
 虚を突かれ、身動きをやめた士郎を桜が凝っと見つめていた。夜闇の中、フードの奥で彼女の双眸はより暗い。
「遠坂先輩やバゼットさん、イリヤちゃんを援ける為ですか……?」
 ゆっくりと、そうっと吐息と共に流れてくる疑問に、士郎は目をしばたかせた。本当に意表を衝かれたのだ。
「決まっているじゃないか、桜。イリヤも助けないといけない、遠坂達も手伝ってやらないといけない。桜を傷つけた報いも受けさせないといけない――アイツは危険な奴だ、性質の悪い企みを抱いていかもしれない。皆の為に確かめないと、万が一のときは止めないと」
 桜は息を詰め、一瞬の後に安堵と呆れを混ぜこぜにした嘆息をした。微かに首を振って、
「やっぱりそうですか? ――そうですよね、先輩ですものね。ずるいなぁ」
 子供をあやす手付きで、士郎の襟元に手をかけた。
「今解いてあげます。どうして先輩には無理なのか、解らないくらいゆるいですよコレ」
「嘘だろ? カレンの仕業なぞ? 絶対ギチギチに締めているって」
 聖骸布は桜の言葉通り、すんなりと解けた。士郎は赤い布が畳にとぐろを巻く真ん中で喜ぶどころか、寧ろ呆然としてしまう。
 桜は膝を突いたまま、立ち上がった士郎を見上げていた。
「……先輩」
 士郎はしっかりと首肯した。
「ああ、行ってくるよ、桜」
 言い終えるやいなや駆け出す。足元に転がっていたトレーナーを掴み、巻かれた包帯を晒しつつ廊下を走り抜ける。靴を履くのもつっかけるようにして、無理やりに。玄関の引き戸を跳ね飛ばす如く開ける。玉砂利を踏みしめ、門戸を飛び越えて。

「着ましたか。思ったより早かったのね」

「え――」
 目と鼻の先に、銀細工のような少女が居た。カレンは尼の格好ではない。レオタードと変わりない黒の衣に、欧州の音楽隊にあるような帽子を被っている。彼女の本職、悪魔祓いの祭祀服だ。
 士郎は唖然としながら、
「カレン、その格好は」
 カレンは微かだが、つんと顎を反らした。
「衛宮士郎。貴方が何らかの手段で拘束から抜け出すとは解っていました。あの程度で黙っている玉ではないと」
「タマって……カレン。というか、まさか」
「ええ。私も同行しますが、何か。言っておきますが抗議は受けられません。わたしは代理とは言え、この地の監督者。教会が認定せず破棄したとは言え、聖杯の名を関する存在を悪戯に触れようとする輩を放置できません。……色々ばれると面倒です」
 ひょろりとカレンの背中から、聖骸布が蛇の真似をして出てくる。
「男性ではわたしに触れることすら叶わない。わたしが許さない限り、ですが」
「……それは半分脅迫してないか」
「事実を述べているだけよ。そもそも、貴方。凛達が何処へ向かったかも解らないでしょうに」
 うっと一頻り唸ってから、士郎は諦観した。飽くまで拒絶したら、また聖骸布で雁字搦めにされ、今度は拉致されるのがオチだ。
 頭を振って、カレンを睨みつける。真剣極まりない調子で、
「言っておくけれど、無茶をするなよ」
「そっくりお返しします」
 カレンは動じもせず、冷静に。告白に応える神職者の威風で告げた。
「行きましょう、衛宮士郎。貴方は未だ闘ってもいないのだから」




/7



 バゼットの拳は人間相手には、必殺としていい。ルーンで強化された威力、磨き上げた反射神経によって、究極のカウンターを可能にする凶器は、確かに敵の頭蓋を砕いた。
 マンションの壁から生えた、荒耶のをだ。 苦悶する魔術師の上体は、最初からそこに設えられていた彫像のように、不自然な姿勢で且つ確固としていた。海底に生息する、肉食の磯巾着に似てもいる。
 壁を透過して、背後より不意打ち。戦闘を本分とする者でも、反応速度に長けた、或いは予知能力じみた直感を持たなければ対処できない。
 バゼットは見事に反撃して見せた。砲弾と変わらない彼女の拳は、荒耶宗蓮に致命傷を与えてた。
 誤算があったならば、
「……かはっ」
 荒耶宗蓮その人もまた、近接戦闘の達人であったと察知できなかった事だ。鋭く伸ばされた手刀が、バゼットの腹部を容赦なく抉っていた。
 右の側頭部を失った荒耶が、感嘆に瞳を細めた。
「二体、葬られたか。流石は執行者、赤枝は現代においても猛者である」
 呟くと同時に、機能を停止した。首から力を失い、ウツボカズラじみて垂れ下がる。
 生命を失ったに飽き足らず、遅れて意志もなくした荒耶の人型に、バゼットは悔しげに唇を噛んだ。
 これは。そして先程の身体も人形か……!
「くっ……攻性ではなく」
 己と自在に一体化する結界だったのか。
 バゼットは自分の意思ではなく、膝から力をなくして後ろに下がった。荒耶の人形の手が、柔らかく細い腹部から抜ける。血が一挙に零れた。
 まずい。バゼットは傷に手を当て、急いで処置しようとした。視界がぼやけ、霞む。眼球だけ水中に没したかのようだ。
 たたらを踏んだ挙句、尻餅をつきながら悪態をつかざるを得ない。失態だ。ここは相手の居城、どんな手を使うか知れたものではないのに。
 フラガラックを頼りすぎただろうか。絶対必殺の宝具を。人間相手ならば絶対に倒せる神秘であると、奢ったのだろうか。
「しかも、手の内を相手に知られた……か」
 赤枝と呼ばれた意味は重い。近接戦闘のスペシャリスト、迎撃武装の使い手、ルーンの専門。バゼットのカードは全て明かされたも同然だ。
常の彼女なら、だからなんだ、力で捻じ伏せるまでと開き直るまでもなく考える。だが、この傷は深い。戦闘の続行は可能だろうか――。
 荒く息をしながら、バゼットは義手で傷口に癒しのルーンを重ね書きする。肩が上下するというより震えてしょうがない。
 痛みは無視できる。けれど、失血はいかんともしがたい。一体退くべきだが、時間はないのだ。
 バゼットはなんとか立ち上がった。ふらついて掌で血を塗りたくった壁に、肩を凭れ掛けてしまう。
 変わらず視界は正常ではない。バゼットは千鳥足で歩き始めた。義手でラックの肩掛けを握り、引きずる。額の辺りが焦燥で疼いてしょうがない。
(不味い。あの魔術師が相手では、凛では――)
 恐らく、荒耶宗蓮と互角に争えるのは、バゼットだけだ。凛が幾ら優秀な魔術師であっても、相性が悪すぎる。
 敵の工房内、自在に自身と一体化する結界、見事な人形。そして未だ見ぬ、たった一言で発動する切り札たる魔術。
 急がなくてはならない。しかしバゼットの、身体は言うことを聞かなかった。
「はぁ、はぁ……、このまま、では」
 私も、危険か。
 口内に逆流してきた錆鉄の味にバゼットは苦渋した。
 解っている。先刻の一撃は、致命傷になりかねない。適切に、篤く手当てしないと落命しかねなかった。
 不意に、視界が灼熱した。
「な、まさか」
 突然、マンションの各部から灼熱の色があふれ出たのだ。云わずともいい、火災だった。真っ白だった壁は瞬時に黒く煤けていく。 あらゆる所から阿鼻叫喚が響き始めた。
「住民が居た……!? 彼らごと火責めにするつもりっ」
 手負いの彼女を警戒したのか。バゼットの手元にはまだ宝具が存在する。安全に仕留めようと、己の工房に火を放ったのか。
 魔術師であるバゼットは困惑した。
 また拭い切れない違和感が生じる。
(何を考えている? 工房に人を住ませ、また自ら破壊すると――?)
 有毒性の煙が充満する。その向こうから火達磨になった男性が狂乱して駆けてきた。バゼットは口と鼻を掌で覆いながら、助けようと手を差し伸べ、ルーンを。
「――っ、どういう」
 そこで、バゼットは決定的な違和感に気がついた。


「畜生、どうなってやがる!」
 士郎は弐柱の巨大なホウラクと化したマンションへ全力疾走していた。神の怒りを買ったと言わんばかりの業火は、二棟の間に吊り下げられた漆黒の呪から吐き出されたように、士郎には思えた。
 細部は違う。だが、見覚えがある光景だった。
「カレン、そっちは手前のマンションを! 皆を非難させるんだ!」
 もう外まで絶叫は響いている。士郎は振り返らず、返事も待たずにエントランスへ飛び込んだ。
「うっ、クソッたれ! もうこんなにかよ!」
 咄嗟に腕で顔の下半分を覆った。視界は殆ど利かないくらい、煙は空間を塗りつぶしていた。そのくせ、黒煙の裏側ではくっきりと業火が揺れているのが解る。
 一瞬、足が竦んだ。本能なのかトラウマなのか。が、真実一瞬だった。士郎は愚直に奥へと走り出す。
「おーい、こっちだ。出口はまだ火にまかれていない!」
 大声を上げる。悲鳴がする先へと進み続ける。違和感を感じながらも、今はそんな場合じゃないと士郎は必死だった。
 黒煙が晴れる。正しくは天井を張ったまま降りてこない。士郎は足を止めざるを得なかった。――業火だ。眼前に火の壁がそそり立ち、猛然とあらゆる物を飲み込んでいた。姿を変え続ける、まるで火蜥蜴の体内には、
「あ、あ――ぁあ」
 人の形態を失いつつある人影が、踊り狂っていた。
 呆然とする間に、一体どれだけの人間が焼死したのか。士郎の視界の中で、幼子が、其の子を抱いた母だろう人間が燃え尽き、倒れた。歳ごろがもうわからない男性が両腕を胸の前で掲げるようにしながら、膝を突き、崩れ落ちた。
 住民達はもう炭化して言っているのに、悲鳴だけは鮮明に上げ続けている。
 知っている。士郎はこの光景を良く知っている。
 言葉にならない悲鳴が、喉から零れ、膨れ上がって絶叫になった。必死に左右を探し、消火器を握り締める。無駄だとわからないまま、業火に突進して真白い消火粉を撒き散らす。
 自身の声で、耳を脳裏を精神を占める被害者の声を掻き消そうとする。
 気がつけば、消火器は空になっていた。何度降っても同じだった。士郎は消火器を投げ捨てると、また周囲を見渡した。
 今や、士郎自身も業火の中に居た。比喩ではなく、事実として火に飲まれていた。やっと自分が置かれた事態に気がついて、士郎は目を剥いた。
「……なんだ、なんなんだ、どういう事だ!」
 違和感の正体がコレだった。熱くない。マンションを燃え焦がす火は、士郎の肌も髪も服さえも、素通りしていた。煤さえつかない。煙の刺激臭さえしない。熱くない。
 この火災は、幻影だ。
 足元に転がる焼死体を見る。確かに焼け死んでいた。形を崩した体から、奇妙に磨き上げられた歯車が覗いている。
 人形だ。
 マンションにおける大惨事は悉く茶番だった。ただ、
「クッ……くそぉ」
 四方の壁に反響する阿鼻叫喚だけが、本物だった。火災は幻で、被害者は人形であるが、苦悶激痛生への渇望死への絶望祈り呪い諦観理不尽への恨み、全ては真実だった。
 何故なら士郎は、それらを知っているからだ。
「なんだ……どういうことだ……」
 士郎は頭を抱え、蹲った。
 どうして、救えない過去が再現されているんだ。
「ふ――ふざ、ふざけるなぁ!」
 堪え切れずに走り出す。一秒たりともここに居たくなかった。許せなかった、この魔塔の主が。
 ここはあの男の工房ならば、全ての元凶はアイツに違いない。
 理由は解らないが、あの男は、このマンションで十年前の大火災を再現しているのだ。あの火炎地獄を。
 幻の炎を潜り抜け、息をするのも忘れて士郎は急いだ。煙で充満した階段を抜ける。何階も上る。各階で上演される悪夢を目に焼き付けながら、一路上へと向かう。
 あの魔術師が何処に居るか。理屈ではなく直感で知る。
 再現ならば。
 聖杯の正体であった黒い太陽を頂く場所に居る筈だ。言峰は、聖杯に地獄を願った。だったら、聖杯を掲げていたに違いない。
 あの魔術師も似た真似をしている。
 少しでも早く終らせるつもりだった。足を止める気などなかった。しかし、士郎は、
「――あ」
 残り火と灰だけになったフロアで、ある一室からふらりと、今にも絶命しそうに思える少年の姿を目の端に捉えて、全身を凍らせた。階段に片足をかけた姿勢のまま、踊り場より窺える場所にいる、"かつて一番身近であり、同時に実は余り目にしない"容貌に心臓を握られた。
 少年はまだ年端もいかない。虚ろな瞳をして、全身を煤だらけにしており、足を引きずって当てもなく歩いていた。
 奥にある、小さな共用スペースへと結果的に行っている。
 士郎は言葉も忘れて、後を追った。少年が現れた部屋の標識を見上げる。

『**』

「あ」
 読めない。正しくは理解できない。マジックで達筆とは行かないまでも丁寧に書かれたその線の集合体が文字であり、日本語であるとは分る。一語一語がどんな漢字であるのか、読みは、意味は解る。しかし二つ並べて、どう読むのかが認識できない。脳が拒む。精神が首を振る。衛宮士郎が生きた時間が受け入れない。
 日本には良くあるだろう名字。あの少年の家になかったのなら、読めた名前。
 『衛宮』士郎は霊能力者ではないから、前世など窺う余地はない。
 ただ思考にならない、言葉を放棄した魂とでもするべき部分の片隅だけが知っている。 **士郎。この姓名は、死んだはずの自分を表す名前だと。
 信じ難いものと出会ってしまったように、ゆっくりと首を巡らせる。
 **士郎は、今にも倒れそうになりながら、黒焦げになった誰かたちに腕を伸ばされ、懇願されながら歩いていく。無為のまま、死を待つ時間を彷徨っている。
 衛宮士郎はついて行く。夢遊病者の如く、嘗ての自分が死ぬまでの時間を辿っている。 十畳ほどの多目的スペースにたどり着いた**士郎は、とうとう力尽きて倒れた。衛宮士郎は結末を知っていた。**士郎は空へ向けて手を、ぎこちなく切実に、意味を知らずに伸ばす。衛宮士郎は呼吸を失う。空がない場所での、少年の最後の仕草に、心音ですら静寂に帰させる。
 士郎は知っている。これが十年前の再現なら、士郎は**士郎に訪れる未来を識っている。
 
 まるで灰を被った、灰そのものとなった独りの男が、少年の傍に立った。
「じい、さん」
 切嗣は応えない。ただ黄金に輝く何かを手に現す。
 士郎は目撃していた。

 己の死と再生の瞬間と、出遭っていた。




/8




 天才には二種類ある。
 一つは、例えるならば玉である。完全な形状に類似した才能だ。万能の天才とされる。才に含まれるあらゆる事象を理解し、ほぼ全ての技術を可能とする。新しい可能性を呼び寄せ、形にする。
 天才とされるに相応しい、尊敬されるべき形だ。
 もう一方は違う。歪である。玉とは違い、不完全に過ぎる。たった一つしか成しえない程に狭く、矮小である。時に意味すら持ち得ない。例えるなら、針のように先端を細くした錐だ。時代によっては、狂人と呼ばれる。 だが錐の天才は、極点にすら届きうるかもしれない。玉の才では、その器量の大きさ故に達せない領域へ、針の穴を開けるかもしれない。
 では、こう問われたならどうか。玉と錐、果たしてどちらが優れているのか。大抵の場面において、玉が上回るに違いない。ただ一点を除けば、結果は明らかである。
 遠坂凛は、紛れもなく前者、玉の天才だった。資金と幸運と時間に恵まれたなら、第二魔法の真似事くらいは実現できるだろう。
 彼女なら、先頭だろうと研究だろうと、多くの有象無象を圧倒できよう。
 対して荒耶宗蓮は天才と呼ぶには余りに不完全で、欠陥だらけだった。魔術師として最もわかりやすい魔術回路も多くはない。手にした秘術も、限定的な分野でしかない。ありていに言えば、凡庸な才能しか持ち合わせていない。
 だが彼は天才であった。努力できる天才、ではない。執念を維持するという一点においてのみ、余人を寄せ付けない。彼が成しえる神秘は全て、執念によって束ねられた時間によって構成されている。
 遠坂凛ならば、荒耶宗蓮とて退けられたかもしれない。遭遇戦ならば、条件が五分ならば可能性は決して低くなかった。
 しかし、玉は時に、錐の先によって穿たれてしまうのだ。
 荒耶宗蓮は、十五メートルほど離れた屋上の端で、襤褸雑巾と見間違う姿に成り果てた遠坂凛を眺めていた。無関心が彼の双眸を占めていた。微かに惜しむ光の欠片がある。
 興味は長くは続かず、荒耶は悲鳴の洪水が絶えたのを確かめ、頭上にある逆さ吊りの舎利塔を仰いだ。
 聖人の骨を収めるべき塔は、全人類の悪意を包んで、必死に耐えている。
 それも限界か。
 荒耶は崩壊寸前である、『この世全ての悪』を封じる結界を意識で撫でて確かめた。
「今宵、吸い上げた妄念で熟したか」
 荒耶は重々しく頷いて、突如鋭く裏剣を放った。手の甲が、固体になる寸前まで凝縮された、黒いガス塊といった魔術を打ち壊す。「まだ動けたか」
 ガントを一蹴した荒耶は眉すら微動だにさせず、振り返る。
 凛は、うつ伏せになったまま、左腕だけを差し向けていた。瞳だけがまだ意志の炎に燃えている。
「な……に、を」
 するつもりなのかと問うているのだろう。 もう喋るのも困難な状態だった。肋骨はひび割れていない、または折れていないものがいくつあるか。右腕は計四箇所、間接ではないところで曲がっている。両足は力なく、浜辺に打ち上げられた流木のようだった。
「この二つの箱は、死を蒐集する為に用意した。これ程の数が同一の時間、空間にて同じ死因で事切れた事例は、流石に珍しい。だが、それだけに用意したのではない」
 荒耶は学問の討論でもするかのように、律儀に返答した。
「聖杯の泥によって、この空間が有する時間は大きく歪み、またずれたのだ。捩れの基点となった災害の時がぶり返し、再現されることとなった。その浮かび上がる記憶に一体一体人形を与えたまでの事」
 凛は睫を振るわせた。知っていると言わんばかりだ。
「意味はある。幾ら人形とはいえ、奴には及ばぬとはいえど、私にも先達の業がある。記憶を与えられた人形は、人に近しい妄念を放つ。この世全ての悪に食い尽くされた者の呪いは、六十億の悪に溶け合い、一つとなっては膨張する」
 つまりは、生贄である。
「貴様は勘違いをしているのだ。私は、この呪を持って死した魂を用いるのではない。それは贄。霊長の守護者を呼び寄せる因でしかない」
 守護者とは、人類の存続を強制的に強いる抑止力の、最後の手段である。理論上人類全てを呪殺するまで膨張するこの世全ての悪が放たれたなら、顕現するだろう。呪の毒を上回る力を有し、また消滅させるに最適の守護者が。
 けれど、本来なら守護者が現れる前に、呪の醸成は頓挫するのが抑止の理である。
「我が工房は、完成系たる大極図の体現には至らぬ、両儀の具現なれど一つの異界。抑止に気づかれてはいない。呪がここまで熟したのが証左である。故に、顕現する守護者もまた、私と私の異界を認識するのは、現世に固定化した後だろう。ならば、或いは打倒しえる。……守護者の魂という一つの強大な魔力塊ならば、アインツベルンの聖杯で回収できよう。それを以って、大聖杯という異界にて、根源への道を拓く」
 苦悶の魔術師が語る計画は、狂気そのものであった。
 霊長という世界に対抗するために三つの異界を用いる。一つは守護者を呼び、欺く。例え最適の力を持ってはおらずとも、守護者は強大無比。仮に打倒しえたとしても、最初の異界も道連れだろう。
 逆に霊長からすれば、異界だけ滅ぼせばいい。己が世界を奪われた魔術師など、通常の抑止の理でどうにでもできよう。
 荒耶宗蓮は、だからもう一つの異界、イリヤスフィールという個人の内面世界を通じ、三つ目の異界、大聖杯へと企みを逃がすのだ。大聖杯もまたアインツベルンの聖女が自身を展開させた大魔術陣である。
 聖杯戦争という儀式に頼らずとも、荒耶宗蓮は自力で根源への儀式を成立させられる。彼は何度も、開けはしたのだ。その都度、守護者によって阻止され、生き延びるのが精一杯であったものの、儀式自体に問題はない。エネルギーも十分ある。
 語り終え、荒耶は凛を省みた。ぴくりともしていない。何処まで耳にしていたのか。凛は気をとうに失っていた。
 荒耶は気に留めず、『この世全ての悪』へ向き直る。さあ、六十億を食らう泥を解き放つ時間が近づいている。
 彼にとって最大の闘争が待ち、最後の儀式が彼を待っている。
 来るべき螺旋の終着、荒耶宗蓮の望みの決着を迎える。その前に、
 慌しく、荒々しい足音が響いてくる。
「邪魔が入ったか」
 階段を、荒耶が立つ場所へ向かって、駆けて来る呼吸が聞こえてくる。
「――愚かな」
 屋上への鉄扉が蹴り開けられ、一人の少年が現れる。
「見つけたぞ、魔術師」
 衛宮士郎は荒耶宗連を前にして。
「テメエは、絶対に許さねぇ――!」
 十年前、火炎地獄からの生存者として、怒りを込め、決然と咆哮した。




/9



交わす言葉など、最早絶無。
 士郎は全力で駆け出した。今は、聖杯じみた黒い呪は無視する。極度の集中力で視界は狭まり、荒耶宗蓮だけが捕らえられている。指先から髪の毛が揺れるまで、完全に動きを把握する。
 脳裏に浮かべるのは一振りの剣。聖杯戦争が終って以来、投影の修行を続けた。士郎が創れる剣群の中、未だ以って最高の精度と最強の威力を持つ聖剣。
 走る脚には決意を込めて。投げかける視線には怒りを認めて。魔術回路には全魔力を注ぎ込んで、士郎は荒耶までの距離凡そ二十メートルをひた走る。
 荒耶宗連は動じない。彼は自身の勝利を信じている。真理として受け止めていた。
 彼が右腕を上げ、ただ一言告げれば全てが終るからだ。
 常の動作として、荒耶宗蓮は士郎が五メートルを走ったところで、
「――粛」
 右手を握り締めた。
「が――っ」
 途端に士郎の体が軋む。両足が床より離れ、虚空を泳いだ。身体は圧縮されたように句の字に折れ曲がる。凛とは違い、士郎は魔術的なしなによる防護を施していない。
 勝負は一瞬、たった一撃でついた。
「強化、開始」
 かに、思われた。
 士郎は一瞬前に詠唱していたのだ。
 自身の身体を強化するという、成功した試しのない、分の悪い賭け。だが両足は、確かな力を持って床を踏みつけるられた。両眼に湛える力の光は、些かも変わらない。
「――耐えたか」
「う――おおおおぉおぉぉ!」
 再度駆ける。足取りは多少怪しいが、速度は落ちていない。距離を縮める。八メートル、七メートル。六メートルと。
「粛!」
 右手を開いて、閉じるだけの行為に、再度空間が圧縮する。
 今度は、士郎の体が縦に飛び跳ねた。巨人が握り締めたようだった。喉から鮮血が搾り出される。
 一発目よりも強力。相手が灰色熊でも背骨を追って内臓を吐き出させる威力だった。
 あと五メートル。長剣の間合いならばあと数歩というところで、士郎は致命に至ろうとする。
 だが、それでも。
「投影、か――」
 衛宮士郎は諦めない。この瞬間死んでいたとしても、士郎は自分がどう蘇生したのかを、目に焼き付けたのだから。
「――開始っ!」
 胸に当てた右手から、淡く黄金の光が零れる。光の源はすぐさま胸の奥へと解けていった。
「ま、まだ……」
「何――」
「未だだ、魔術師ぃ!」
 低く跳ぶ、詠唱する、手に顕す。士郎はカリバーンを握り締め、ついに間合いへと入る。
 荒耶は苦悩を刻んだ顔に驚愕を浮かべたが、しかし焦燥はない。彼は格闘の達人。そして三重の結界がある。
 荒耶の周囲を、六つの円が水平、垂直に半分ずつ展開する。
 士郎が握るカリバーンが、一層眩く光り輝く。
 刃音が響く。
 士郎の全力は断つ。一陣目は易々と、弐陣目は重い手応えで、最後の陣を決死の気合を込めて斬ってみせる。
 そして、カリバーンは深々とコンクリートの床に斬り込んだ。




/幕外




 イリヤスフィールはメビウスの環、或いはクラインの壷に閉じ込められていた。
 外見はありふれたマンションの一室である。まだ壁紙も張っておらず、コンクリートむき出しの壁には一つだけドアがある。
 イリヤは扉を開けて逃げようとはしなかった。もう試してみたのだが、向こう側はこちら側だった。
 空間が湾曲し、閉じ込められているのだ。もしこの矛盾した牢獄を破壊するのなら、魔法級の秘儀が必要だ。無論、イリヤに打つ手はない。
「シロウ、大丈夫かなあ」
 両足を放り投げるようにイリヤは冷たい床に座り込んでいた。ソファといった気の利いた物はない。そもそもこの部屋には家具がなかった。明かりもなく、イリヤは目を閉じたまま、ぼうっと呟いた。
「人間じゃ勝てなんだから。リンでもシロウでも殺されちゃう。バゼットなら……勝てちゃうかもしれないけど」
 望みが薄いには違いない。
 不意に物憂げになり、両膝を抱えて顔をうずめた。
 もし、希望があるならただ一つ。
「頼んだからね」
 イリヤは暗闇の中、赤い瞳を遠くへ向ける。空間の牢獄を越え、彼女達が住まう家へと。
「サクラ――」




幕外、終/




 カリバーンは、結界を切断した後、すぐに床へとたどり着いた。人を斬った手ごたえは、ない。
「なっ」
 そんな馬鹿な、と士郎は首を巡らせた。苦悩の具現たる男が、見当たらない。
「粛」
 突如、八方全てから車に跳ねられた衝撃に襲われて、士郎は「かっ」と悲鳴にならない呻きを零した。
 がっくりと膝をつく。背後を見上げると、屋上の出入り口付近に荒耶宗蓮が立っていた。
「い、何時の間に……まさか、空間転移……?」
 魔法もどき以外に考えられない。士郎は極度の集中力で相手の動きを完全に把握していた。にも関わらず、瞬時に見失ったのだ。
 荒耶はやや忌々しげな表情をしていた。
「貴様もまた宝具を有していたか。その剣の威には、我が魔術も掻き消されるかと見える」
 士郎は何故、今また相手方の攻撃を受けて生きているのか悟った。
 魔術はより強い神秘に打ち消される。恐らく士郎を打ち付けた三度目は、必殺の一撃だったに違いない。だが、付近にあったカリバーンはより重い神秘だった。
 だとしても、不可視の圧迫を跳ね除けるのはカリバーンであり、士郎ではない。神秘同士が干渉しあう範囲に近かったから、いくらか軽減されただけに過ぎない。
 もう一発食らったらば、まずい。
 士郎は必死に体制を整えようとした。膝が振るえ、上手く身体を起こせない。
 歯を食いしばり、荒耶をねめつける。そこで、やっと士郎は視界の端に赤い、どこか歪になった人影を認めた。
 心臓が止まりかける。
「と――遠坂!? て、テメエ、遠坂までっ」
 かっと血が頭に上る。腹の底から力がわきあがり、士郎は立ち上がる。
 けれど、もう走れる程ではない。近づく前に生肉のスクラップ塊にされるだろう。万が一、間合いに入れたにしてもまた空間転移で逃げられるのみだ。
 八方塞り、打つ手がない。
「衛宮か」
 荒耶が厳粛げに目を細めた。
「その名を聞けば、私も手を出せなかった。魔術師であるならば、誰であってもそうだろう。だが貴様は、その姓を継げなかったと見える」
「なん、だと」
「幾ら名剣魔剣を揮おうとも、貴様のような未熟者に荒耶宗蓮は敗れぬ。ここで息絶えるがいい」
 そうして、幾度目か荒耶は右手を突き出す。
 ふざけるな。士郎は奥歯を砕けんばかりにかみ締め、怒りに身体を熱くしていた。
 じいさんの夢は継いだ。継いで行く。さっきだって、見た。じいさんがどう俺を助けてくれたのか。あの笑顔をもう一度見れた。
 ここで倒れるなんて出来ない、認められない。衛宮の名を告いだのならば、遠坂を、桜を、イリヤを皆を傷つけた相手に屈するわけにはいかない。
 ならば。
「ふざけるな、届くまでやってやるだけだ――!」
 無謀にも、しかし他に手段などなく、士郎は再度駆け出そうとした。

 その時、異変は起きた。




/幕裏




 幻の大火は消え、マンションは再度暗黒の塔へ戻っていた。時折、怒鳴り声が遠くで響く以外、完全に沈黙していた。
 微かにしか伝わってこない怒声では、誰の声音か判別し難い。だが桜には解った。あれは先輩が必死で戦っている証拠だと。
 桜は、士郎達より遅れて、荒耶の異界が麓に着いていた。
 まだ一歩も踏み入れていない。ここが桜にとって最善の位置だからだ。
 桜はダッフルコートのフードを目深に被って、マンションの屋上を見上げていた。
「先輩」
 桜は静かに呟いた。ほんの少しだが、嬉しさが滲んでいる。
 そっと両手を胸の前で合わせた。すると、彼女の体から凛に匹敵する魔力が立ち昇る。視線はずれて、マンションが吊り下げる聖杯の泥へと向けられる。
 桜は知っている。あの呪の正体を誰よりも知っていた。何故ならば、常に彼女の隣、否体内にあったものだからだ。
 聖杯戦争が完全に終結してから、桜と聖杯との黒い水脈は枯れ果ててしまったけれど、繋がっているには違いない。呪層界と呼ばれるカナートは存在し続けている。
 桜はふと、恐れるべき祖父を思った。
 祖父は落命したのだろう。わたしを縛っていた蟲の楔が消滅したのが証。多分、あの男が滅ぼしたのだ。聖杯を巡って。
 それにしても、刻印蟲もまた祖父の体の一部であったとは。桜は身震いしながらも苦笑した。祖父は、わたしをいずれわたしの体をのっとるつもりだったのだ。
 次に、イリヤスフィールを思った。あの魔術師の姿をした存在に殴打され、気を失う前に、真っ直ぐ真摯に見つめてきた深紅の瞳を。形・性質は違えども同じ聖杯同士だから出来た事があった。
 士郎を想った。今も、決して勝てない相手に、必死に抗う思い人を考えた。
 最後に、また祖父を脳裏に浮かべた。穢され、犯され、傷つけられた日々が泡となっていく。
 桜は微笑んだ。
「おじいさま。憎くて恐ろしいおじいさま。桜は、生まれて初めて、たった一度だけ貴方に感謝します」
 だって、わたしは貴方によって引き裂かれ、器となった醜い瑕によって。
「先輩を救えるのだから」
 とある魔術を解放する。刹那だけ、ダッフルコートが真黒い布を何枚も重ね合わせたようなワンピースに変化した。桜と六十億の悪に間にある、枯れた水脈にある魂が流し込まれていく。
 桜は祈る。不安はある。イリヤは何処でこんな魂を手に入れ、隠し持っていたのだろう。けれど、彼女が浚われる瞬間に手渡した切り札なのだ。信じよう。きっと、大丈夫。
 桜は瞑目し、祈り続けた。
「お願い、先輩を助けて。お願い――見知らぬ、心優しい悪魔」




幕裏、終/




「う、あ……ううん」
 バゼットはゆっくりと意識を覚醒した。瞼を開け切った途端に思考は明晰さを取り戻し、状況を確認しようとする。頬が冷たい。視界は90度回転している。知らぬ間に力尽き、昏倒していたようだ。
「気がついたようね」
 小憎らしい、綺麗で冷たい呼びかけに、バゼットはむすっとした。
「カレン……貴方に助けられるのは二度目ですか。礼は言っておきます。本当に癪ですが」
「感謝をしているとは到底思えませんが、される謂れもないわ。行き倒れに救いの手を差し伸べるのも、私の労働の一つですから」
 まるで人を乞食か何かのように。バゼットは言い返そうと身を起こそうとして、腹部に熱い引きつりを感じ、動きを止めた。
「無理はしないことね。全く衛宮士郎といい、貴方達は頑丈です。腹部に孔が空いても生きているのですから」
 見下ろすと、バゼットの鳩尾の下当たりは真っ赤だった。血液が染込んでいるのではなかった。
「……やはり礼は言わねばなりませんね。まさか、聖骸布の包帯とは」
「他に手ごろな物がなかっただけ。これからは晒しを巻いてくれると助かります」
「私は別に男装しているわけではありません」
「似たようなものじゃない」
 ぼそりとカレンが言った当たりで、バゼットは余裕と冷静さを取り戻した。最低限の動きで立つと、まだ屈んでいるカレンを見下ろした。
「貴方一人ですか。そのような訳ないでしょう、士郎君をひっぱってきましたね」
「人聞きの悪い、私は彼の希望を叶えただけです」
「怪我人を戦場に連れてくるのが、教会の教えですか? 違うでしょう。何を考えているのですか、貴方は」
 カレンは厳かに目を瞑った。
「衛宮士郎にとっては、己の生命の安全より、他者のために血を流すことが望みでしょう。我慢できない人だから」
「だからといって……!」
 激昂しかけて、バゼットは頭を振った。言い合っている場合ではない。昏倒してからどれ位時間が過ぎたのか。もう凛は荒耶と交戦した後だろう。こうなれば、凛が持ち応え、また士郎が間に合っており、二人で時間を稼げているという幸運を願う他ない。
 可能性がないわけではない。自分が止めを刺されず、またカレンが無事にいるのが根拠である。
「カレン、貴方がここに着てどれ程時間が経ちましたか」
 暫く考えてから、カレンは十五分ほどだと返した。
「ぎりぎり――と信じたいところですね。貴方は退避して」
「相手が逃がしてくれるとは思い難いですが?」
「……足手まといは困るのですが」
 バゼットはカレンとにらみ合った。カレンは平然と見返してくる。
「監督者としては、傍観するのは職務に反します。だいたい敵地で二手に分かれるのは……っ!?」
 白磁のようなカレンの顔色が、唐突に真っ青になった。びくりと細い肩を揺らし、苦渋し始める。脇腹に手を当てて、蹲った。
 焦ったのはバゼットだ。
「どうしました、まさか此処に来るまでに手傷を」
 カレンは小刻みに首を振った。下唇を噛み、よろよろと背中を壁に押し付ける。右の脇腹からは血が滲んでいた。
「これは……」
 バゼットは思い出した。カレンの特殊体質を。
 彼女は、悪魔の存在を感知する肉体の持ち主なのだ。


「なんだと!」
 初めて、荒耶宗蓮が感情を露にしたのを、士郎は目撃した。
 何事か、と士郎も不気味な胎動を察した。落雷の後、天を仰ぐように、頭上に吊られている塔を望む。
 舎利塔は急速に罅割れていっていた。次に起こる光景を想像する暇もない。塔は真っ二つに裂け、ついで粉々になる。
 溢れ出たのは聖杯に湛えられていた、六十億の悪が具現。
「んな!?」 
 士郎もまた度肝を抜かれた。まだ魔術に疎い士郎では、決壊寸前である事実を見抜けなかった事もある。
「粛――!」
 荒耶が士郎を無視して、零れ落ちようとする呪いの塊へ空間圧縮をかける。泥状の呪いは球状にゆがみ、固定された空間に収められた。
 だが、大半の泥は空間の檻に閉じ込められるのを脱していた。まるで生命を持っているよう、雨となるのではなく蛇となって、たった一点へと降り注いでいく。
「いっ――くそおっ」
 士郎へと、落下してくる。勿論士郎は逃げようとしたが、脚は駆け出せはしなかった。 あっけなく、大量の呪に押しつぶされる。世界が赤を混ぜた漆黒に閉ざされてしまう。
 やばい。士郎は言峰綺礼との争いで、この呪いの恐ろしさを骨の髄まで味わっている。しかもこれ程の量、一刻も早く脱しないと骨まで、いや魂まで強酸に焼かれ、溶かされる。
(……あ、あれ)
 呪いは、士郎を焦がしてはこなかった。周囲は信じがたい悪意と怨念で充ち充ちている。けれど、士郎を侵食してこようとはしなかった。
 士郎を包み込む暗黒に、見知ったような人影が浮上してきた。
現在、一番身近であり、同時に実は余り目にしない容貌に、だ。
『よう、久しぶり――って会ったことないっけか』
 人影は、何処が下衆な笑い声を上げる。
(……誰だ、お前)
『誰でもいいって。まあ、一方的に知り合っている間柄なのさ。ストーカーじゃないけど。あってるよね、言葉の意味』
 同時に何処かしら子供っぽい響きがある。『困るんだよなあ、正義の味方。よりによってオレかよって感じ。頼むよマジで。あの二人だけなんだからさ、オレが居た証って。まあ、片っぽはぜーんぜん覚えてないわけだけどよ』
 士郎が言葉を返す前に、つらつらと良く喋ってくる。やや呆然としてしまう。
『ということで。オマエはちょっと死んできてくれる? 大丈夫大丈夫、生き返るから。ちゃんと自分の能力、知ってきてくれ』
 ぽん、と人影は士郎の肩を押した。士郎はバランスを崩し、一歩後ろに下がってしまう。そこには地面がなかった。
(ちょ、待てオマエ――!?)
 落下しながら慌てる士郎の瞳に映ったのは、
『まー、その間遊んでてやるから。感謝しろよ?』
 黒鉛の鏡に映った、自分だった。


 悪性の泥が、乾いていく。否、一人の人間に染み渡っていく。
 荒耶宗蓮は怪訝げに注視していた。
 不可解だった。あの泥は解放された途端、犠牲を求めて拡散していくはず。たった一人を食い尽くそうと群がらないし、個体の一つなど瞬時に溶かし尽くす。何故、衛宮へ収縮して行っているのか。
 あれでは寧ろ、逆に飲みつくされているようではないか。
 荒耶宗蓮の眼前で、呪いの泥が人の形になる。じわじわと衛宮士郎に吸収されていく。 服は大部分が溶けてなくなっていた。肌はどす黒くなり、また呪いが肌の下を這い回って、複雑怪奇な文様になる。瞳の色は変わり、危なげな光を放ち始める。
 漂う気配、誇示される存在感が一変し、異質になる。生きている人間の物ではなくなる。
 変わり果てた衛宮士郎は気だるげに、
「あー……久しぶり?」
 手を上げてきた。
 荒耶は、怪しげに問い質した。
「貴様、何者」
「あ? 名乗るんだったら自分からだろ? まあいいや、多分お前は知ってるよ。だってオレって、お前が一番嫌いな存在だから」
 両手を広げる。顕れたのは、獣か悪魔の爪を模倣した野蛮な短剣が二振り。
 にやりと、口の端を吊り上げる。

「一応――『この世全ての悪(アンリマユ)』ってんだ」






【続く】