「おや、阿良々木先輩ではないか」
 そしたら、ランニング中の神原に遭遇した。
 神原駿河。
 僕の後輩。
 というよりも――戦場ヶ原の後輩と言うべきか。
 とはいえ、最近は戦場ヶ原と合わせて清風中学のヴァルハラコンビと呼ばれるよりも、単純に神原・ハラスメントを略してヴァルハラと称されることに定評のある少女である。
「敬愛する阿良々木先輩のご用命とあらばその称号を名乗ることにいささかもためらいはないが、できればそういうコンビ解散後も未練がましくユニット名を名乗り続ける芸人のような扱いは避けてほしいものだ」
 珍しく、若干顔をしかめる神原である。
「そこはするがハラスメントとでもしてもらわねば、私がピンで目立てないではないか」
「自己主張しているようで微妙にできてないぞ」
「がハラと中に入れておくあたりに私の戦場ヶ原先輩への愛がうかがえる、非常に奥ゆかしいネーミングセンスだと思うぞ」
「ハラスメントと苗字を結合されるくらいならきっぱり排除してくれって言うだろうよ」
 ちっとも普及しないガハラさんのあだ名だが、こんな不名誉な広まり方はしてほしくない。
「ふむ。では、こういうのはどうだろう」
 ぴょこり、と最近伸ばし始めているお下げ髪を揺らして、神原は言う。
「阿良々木駿河」
「結婚してるじゃねえか!」
 脈絡もなく僕の苗字を取り入れるんじゃねえ。
「つい最近求婚されて以来、紙切れに阿良々木駿河と書いて悦に入るのが最近の私の趣味だ」
「……お、おお」
 胸を張ってそんなことを言われても困る。
 ちょっとした冗談だとはわかっているものの――不覚にも、ちょっと可愛いとか思ってしまった。
 ……まあ、仮定に仮定を重ねた上での話なら、正直、神原はいい嫁さんになりそうだ。
 色んな意味で生活能力は破綻しているが、少なくとも僕が世話を焼けるような人間って、今のところこいつ以外にはほとんどいないんだよな。
 戦場ヶ原にせよ羽川にせよ、出来すぎた人間だから。
 それこそ、お節介ならともかく。
「ちなみに、その紙切れとは婚姻届のことだ」
「突然生々しい単語を出すな! 犯罪の香りがする!」
「阿良々木駿河。特技は阿良々木先輩の筆跡を再現することだ」
「それは有印公文書偽造という犯罪すれすれの特技だ!」
 実際は、役所が提出された書類の筆跡まで確認することなんてほぼしないらしいけれど。
「心配せずとも、証人欄にはお祖父ちゃんとお祖母ちゃんに署名捺印をしてもらっている。あとは阿良々木先輩の胸一つだ」
「外堀が完全に埋まっている!」
「私は一人娘なので、神原暦というのもありだな」
「婿養子にするつもりか……」
「ぶっちゃけ、阿良々木ひたぎや戦場ヶ原暦では物々しすぎて微妙だと思う」
「すげえディスりよう!」
 今日のこいつは出会い頭からやけに飛ばすな。
 冗談なのはわかっているが、時々その境界が判断できなくなるから怖い。
「まあ、私は愛人にしてもらう予定なので、こういったプレッシャーを時折かけて阿良々木先輩に正妻との離婚を促す役どころというわけだな」
「結婚もしてない状態で離婚を迫られてもどうしようもねえよ!」
 何だその先行入力は。
「まあ、挨拶はこのへんにしてだな、ところで阿良々木先輩。今日はどうしたのだ? いつもであれば、この時間にこのコースを走っていても、私が阿良々木先輩に鉢合わせることはなかったように記憶しているが」
 無論、こうして出会えたことはとても嬉しいけれど、と神原。
 神原を相手に言葉を濁す気にもなれなかったので、僕は正直に心境を吐露した。
「いやさ、今日は模試だったんだけどな。けっこう勉強して自信があったわりに、思ったより手ごたえがなくて、反省がてらぶらぶら散歩していただけだよ」
「模試というと、大学受験のか」
「そう。予備校でな。――まあ、それこそ、これまで真面目に勉強をしてた連中にしたら、三年の、しかもここ二、三ヶ月の間にやる気を出した僕が上等な結果を出そうなんざ、ふざけるなって話なんだろうけどさ」
「なんと」
 神原は大げさに目を見開いた。衝撃を受けた様子で口元を隠し、おののくように呟く。
「誰にでも調子の悪い時というのはあるが――阿良々木先輩ほどの方でもその例外ではなかったということだな。私の口から軽々な言葉は言えないが、弘法大師でも筆を誤ることはあるという。千載に一隅の厄日に突き当たってしまうとは、いやはや運の悪いことだ」
「……」
 まあ。
 神原が僕をいやに持ち上げるのは今更のことではあるんだけど。
 実態は、弘法も筆の誤りというより、猿が木から落ちただけだ。
 こいつが、どうやら本気で向けてくれているらしい尊敬を裏切ってしまったような、そんな理不尽な後ろめたさがある。
 分不相応っていうのは、こういう場合にも言うんだろうか。
「阿良々木先輩に私ごときがこのようなことを言うのはおこがましいことだと十分に理解しているが、こと努力に関しては、この神原駿河には一家言ある」
 やおら真摯な面持ちで、神原は僕を見つめた。
 眼差しが、一瞬だけ、包帯の巻かれたままの左手に落ちていた。
 猿の手。
 願望をこの怪異に実現させないために――歪んだ形ではあれ、神原が努力を積み重ねてきたことは、これは紛れもない事実である。
「阿良々木先輩。私はこう思う。努力が必ずしも報われるとは限らない」
「ああ……」
「しかし――成功したものはすべからく努力している」
「臆面もなく超有名な名台詞をいかにも自分が考えましたみたいにパクってんじゃねえ!」
 確かにいい台詞だけどさ。
 ちなみに、編集部にはこの台詞を紙に書いて貼り付けているらしい。
「そして――この『すべからく』は誤用だ」
「したり顔でやり尽くされてる突込みまで入れやがった!」
 いいんだよ。
 言葉なんてものは、時代とともに意味も響きも移り変わっていくんだから。
 役不足とか力不足とか。
 それはともかく、と神原は咳払いした。
 冗談めかした表情を和らげて、一歩距離を詰めてくる。
 この真夏に走り通しである以上、その皮膚となく服となく汗まみれだというのに、不思議と神原からは爽やかな雰囲気しか伝わらない。
「学業に関しては、学年が違うこともあるし、今さら私などが阿良々木先輩に何を言っても的外れになるだけだ。特に、戦場ヶ原先輩や羽川先輩がついていることだしな」
「いや、そうとまでは言わないよ。面映い話だけど、その気遣いには感謝する」
「私から言えることは、ひとつだけだ」
「ああ」
「もし先輩がことごとく受験に落ちて戦場ヶ原先輩や羽川先輩と気まずくなりご実家にいられなくなっても――うちに来ればいいではないか」
「冗談にならなそうな現実的な仮定で僕を堕落に誘うな!」
「むしろ、先輩の衣食住など全て私がまかなおう」
「僕は確かに半分人間を辞めているが、そこまで駄目になる気はない!」
「というか、もう受験勉強なんか辞めてしまってもいいのではないか?」
「大前提をひっくり返しやがった!」
 もう止めてくれ。
 悪魔の囁きなんか聞きたくない。
 いや、僕の決意は一ミリたりとて神原の甘言に揺れたりはしてないが。
 ……本当に。
 しかしな――と困り顔で、神原。
「私とて、戦場ヶ原先輩と同じ大学に行きたいという阿良々木先輩の気持ちは十分以上に理解しているつもりだが」
「ああ、そういや、お前はその件については僕の先輩だったな」
 憧れて。
 追いかけて。
 拒絶され。
 諦めて――諦め切れなかった。
 そして、紆余曲折を経て、追いついた。
 そんな往時を、神原はさっぱりとした顔で振り返っている。
「仮に、仮定の話――万が一だが、阿良々木先輩。先輩がいざ受験をするという時、またしても怪異を巡る事件に『身内』が巻き込まれるようなことがあれば、どうする?」
「……本気で嫌な仮定だな」
 というか、耳が痛い仮定だ。
 夏中とは言わないまでも、この夏休みだって、不肖の妹二人にかかずらわって、ちょっとした時間勉強を疎かにしてしまった事実がある。
「そんなの、受験を優先するに決まってるだろうが」
「私は、阿良々木先輩は受験を放棄するに決まっていると考える」
 断言する神原だった。
 議論の余地などまるでないと言わんばかりに。
「そうしないと思っているのは――きっと、阿良々木先輩だけだ。そして、私はそれでなければ阿良々木先輩ではないと思う。きっと、戦場ヶ原先輩も同じように思っている」
「お前にせよ戦場ヶ原にせよ、そいつは僕を買いかぶり過ぎてるってもんだ。僕はそこまで達観できてもいないし、本当に嫌なもしもだけれど――仮に受験との二者択一を迫られるような場面になったって、嫌らしいくらいみっともなく、最後まであがくさ」
 それで何とかなればよし。
 何ともならなければ――まあ、それはそれで、致命的なことでは、きっとない。
 無論、そんな言い訳に甘えて落ちるつもりはさらさらないけれど。
「それに、もし一年浪人したとして――しちまったとして、そしたら僕は、神原、お前と同級生になるんだぜ。戦場ヶ原や羽川とは三年間同級生だったから、今度はお前と四年間同級生をやるっていうのも、それはそれで、面白そうじゃないか」
 それを受けて神原は、一瞬黙り込んだあと、
「否定しがたい魅力があるのは事実だが、それは困る」
 と、言ったのだった。

「――そんなことになったら、また魔が差してしまわない自信がない」

 
 
 【続く】  
 
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