受験勉強という戦いに身を投じる事となった僕は、夏休みという言葉とは無縁な生活を送ることを余儀なくされていた。中学生まではそれなりの優等生で、高校生になってからは落ちぶれる一方だった阿良々木暦は、当初は卒業すらも危ぶまれてはいたけれど。それも今はどうにか改善の兆しを見せている。今は、どうにか大学生活を送れるように、必死に机にかじりつく毎日だ。
 それもこれも、僕の目の前で静かにテキストを追っている彼女のおかげ、なのだろう。
「……なあ、羽川」
「まだ時間内よ、阿良々木君」
 ペンが止まってしまったせいで、集中が途切れた僕が思わず話しかけようとすると、けんもほろろに切って捨てられた。
 視線は僕を見ようともしない。手元のテストを解くために与えられた制限時間は四十分。ケータイのタイマー機能が示す残り時間は、まだ十五分ほどの時間を残している。これで回答欄が全て埋まっているのなら、まだ格好もついたのだろうけれど、残念ながら穴だらけときた。
 ううん、と一つ唸って意識をもう一度問題に振り向ける。
 窓の外ではセミが大合唱を繰り返し、照りつける太陽は地球温暖化を促進させんとばかりに本日も最高気温を塗り替えている。
 無論、僕とて不真面目に勉強に取り組んでいる訳ではない。少なくとも、羽川が自分の時間をこうして費やしてくれている限り、僕は不真面目で居られるわけがないのだ。ただ、それでも。どうしたって、気分が乗らない瞬間が存在するのは、仕方のないことだろうと思う。
「ここの所、色々あったし。ちゃんとして取り戻さないとね」
「まるで僕がサボっていたとでも言いたげじゃないか、羽川」
 いや。実際のところ、色々あって確かにサボり気味ではあったのだが。蜂とか不死鳥とか、色々あったのだ。しかも蜂の話は、羽川自身だって一枚噛んでいた。それでも僕は単語帳は手放さなかったし、なるべく机にかじりつくようにはしていたのだけれども。
「……はい。無駄話はおしまい。集中集中」
 ポン、と両手を打ち合わせて、羽川。
 だけどな、羽川。そんな事を言われても無理なんだよ。僕の目の前にいるお前が、果たしてどんな格好をしているのか。それを分かっていて、僕にテストに集中しろと言うのなら、お前は僕を見誤っているし、自分を低く見過ぎなのだ。
「キャミソール。スカート」
 スカート自体は、別に初めて見るわけじゃない。むしろその中も見たことがある。けれど、制服というどこか禁欲的なデザインのそれとは異なる、オシャレのための服。ひらひらとした軽い素材で出来たそれは、まるで僕を誘うようにふんわりと広がる。
 そう。羽川の私服、なのだ。夢にまでみた、それこそこれを見るまで死ぬ訳にはいかないとまで思わせた、羽川の私服。繰り返すのは大事なことだからです。
「――なによ。藪から棒に」
 困惑した羽川の表情が、またなんとも言えない。僕は羽川に怒られるのも、褒められるのも大好きだが、こうやって戸惑わせるのも大好きらしい。Mカッコイイが僕の基本だと思っていたが、こういうときはSも良いんじゃないかとか思わなくもない。基本的にこれまでS担当だった戦場ヶ原がデレたおかげで、この物語にはツン要素が無くなったというか、ツン自体はまだ居るがSが居なくなったのは確かなのだ。
 これからの作品世界を支えていく中で、SとMの需要と供給は大切なことだと思う。Mだけでは世界は成り立たないし、Sだけでも世界は成り立たないのだ。両雄相並ぶという奴である。
 キャミソールからは白く華奢な肩が剥き出しになっていた。おまけに、制服では分かりづらかった羽川の凄いのが、下から持ち上がっている。というか、谷間が見えている。
 かつて、触って、揉もうとしたこともあるそれ。押しつけられたりもした、マシュマロとか、つきたてのお餅のような感触。ところで餅を突くをエロワードだと断言した某後輩の言葉には深く頷くものである。突くという言葉がすでにエロいと思う。
 それはさておき。
 本来、キャミソールというのはほどほどのバストの持ち主が着るものだと、僕は思う。まったくのぺったんこならば貧相に見えてしまうし、あり過ぎると今度はただの凶器になってしまうからだ。具体的に言うと、僕の目の前のそれは凶器を通り越して大量破壊兵器である。むちっとした白い水蜜桃がこれでもかとばかりに僕の目の前にあるのだ。たまに羽川が腕を動かすだけで、ぽよん、と揺れるのだ。振動が伝わる様が、こうも人間の目を惹き付けるものかと感嘆してしまう。
 紳士を自認する僕、阿良々木暦だからこそ、この誘惑に耐えられるのだ。これがもしも、その辺の有象無象の飢えた男どもや神原であれば、何一つためらいなく目の前の兵器の起爆スイッチを押していることは間違い無い。
「……阿良々木君の目が怖い」
「何を言うんだ、羽川! 僕ほどの紳士は居ないぞ!」
 叫ぶ僕に、羽川はじっとりとした目を向けてくる。
 無言の視線は僕をジクジクと苛み、そして僕は土下座した。
「ヘタレなだけです。すいませんでした」
 頭上では「はぁ」というため息が聞こえる。だがしかし羽川よ。お前は僕を甘く見すぎているのだ。僕らの位置はテーブルを間に挟んだ対面。つまるところ、僕の前には羽川が座っている。そして今、僕はテーブルの下に頭を置いているのだ。これまでも消しゴムを落としたとか、色々な理由をつけてテーブルの下に頭を入れてきたが、いつも失敗に終わった。それは校則通りの長さのスカートという、現代においてはもはや鉄壁と言わざるをえないスカート丈によるガードの硬さだったが、今日の羽川はそのガードがないのである。
 ひょい、と視線を上に向けると――。
「ぐ」
 むっちりとした太もも。その白さは、この真夏の日差しの侵略を受けることなく、僕の視界を焼き尽くす。丈の短いスカートの薄暗がりの中で、ほんのりと輝いてすら見える白に、息を呑んでしまう。
 ここ数日は、毎日のように拝んでいた白い足。あくまで制服姿であったけれど、それでも女子の制服はスカートだったし、これくらいの部位までならば見たことはあったはずなのだ。だというのに、いつもと違うスカートで、いつもと違う暗がりなだけで、こうも僕に衝撃を与えるとは――さすが、羽川。
「阿良々木君?」
「あ、いや! うん。なんでもない!」
 勢いよく頭を上げて、努めてなんでもないアピールを繰り返す。
 別にスカートの中が見えた訳でも、そもそもスカートの中だって見たことはあるのに、この動揺。我ながらチキンだと思う。そういえばこの前、コンビニで店員が「骨なしチキンのお客様ー」と呼ぶのを聞いて、ものすごく罵倒された気がした。
 閑話休題。
「どうしたの?」
「どうしたのっていうかさ。羽川の私服を初めて見たから。すごく動揺してる」
 ははは、と苦笑いをしてみせると、羽川は少しだけ困ったように眉を寄せた。
「似合ってない?」
「いいや、そんな事はないね! その服が羽川のためだけに生み出された服だと言われても僕は信じるよ!」
「それは言い過ぎ」
 僕の力説を苦笑いで窘めて、それでも羽川は嬉しそうに笑った。
「ちょっとさすがにね。日差しが熱すぎるから、制服も辛くなっちゃって」
 へへ、と笑う羽川に、僕はただ小さく頷く。それが嘘だろうと、僕にはなんとなく分かってしまうから。彼女は嘘をつかない。そう思っていた頃もある。むしろ彼女と出会って半年ほどしか経っていない事を考えれば、彼女のことを分かっている、などと言うことのほうがおこがましいのかもしれない。
 それでも僕は、彼女の言葉が嘘なのだろうと、そう分かるのだと言い張るのだ。
 本当に暑いと思ったのだとしても、彼女は図書館のようなクーラーの効いた場所で勉強をするのだろうから。そしてそれは、外気温の不愉快さなど無関係な象牙の塔なのだから。
 だから、彼女が今日、私服でいるという事実には、なにがしかの理由があるのだ。きっと。
「……そっか。でもよく似合ってるよ。本当に」
 ちょっとテンションが高すぎたかと、クールダウンしつつ褒める事は止めない。だって、実際にとてもよく似合っているのだから。世界で一番かわいい女の子は羽川翼だと、常々から発言することに躊躇いのない僕、阿良々木暦だけれど、羽川の私服姿をずっとずっと見てみたいと本編でも繰り返していた僕なのだけれど。実際に見てみれば、それはまるで夢のような姿なのだ。具体的には谷間の陰影とか、細い首から肩にかけてのラインだとか、鎖骨のくぼみだとか。そういう物全てが僕の視線を引き寄せてならないのだ。
 そりゃ猫が現れた時、パジャマ姿だとか色々見てはいるけれど。それとこれとは別というか、晒すことが前提の服と、たまたま見えてしまっただけ、では歴然とした差があるのである。
「ありがと」
 はにかんだ羽川さんとか、マジ可愛い。にへら、と頬が緩むのが分かるのだが、そんな羽川は次の瞬間には笑みを消してしまった。
「はい、時間切れ」
「え」
 気がつけば時計の針はテストの予定終了時間を指していた。そして僕の目の前には穴だらけの回答用紙が一枚。そりゃそうである。さっきまで羽川の水蜜桃とか、お餅とかのことばかり考えていたのだから。
 羽川は僕の手元から解答用紙を取り上げると、そのまま採点を始める。
 結果は、正直、予想できていた。むしろ、これで高得点が取れたのだとしたら、僕は受験会場に羽川を連れて行くことを考える必要がある。
「……五割正解」
「ぐう」
 そりゃ八割程度しか空欄を埋めていないのだから、当然の結果である。そこで五割しか取れないのが、僕の現在の限界なのだろう。
「それじゃ次はこのプリントね」
 そして差し出されるのは新しいテスト用のプリントである。羽川の綺麗な筆跡で書かれたそれは、彼女の手作りなのだと僕に思い知らせる。つまるところ、そんな彼女の労作を放って僕は彼女の私服に「うつつ」を抜かしたわけで。いや、僕としては彼女の私服をうつつだなんて言うつもりはないが、羽川自身の評価ではそうなってしまうだろう。
 僕の不真面目さを怒ることなく、羽川は自分の問題の不備を検討しているのだろう。そんな彼女の真剣さに、僕は頭が下がってしまう。というか、明らかに僕のせいなのに羽川に余計な気を遣わせてしまうのは、問題だ。
「……ごめんな。ちゃんとやるよ」
 だからそう言うと、シャーペンを握る指に力を込めた。
 羽川は、そんな僕を見て少しだけ目を見開いて、そして微笑んだ。
「じゃあ、これは二十分間ね。――初めて」
 ケータイのアラームをセットし直した羽川の合図に、僕は意識を問題に没頭させた。

 
 
 【続く】  
 
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