僕、阿良々木暦には、切っても切り離せない特別な間柄の女性がいる。
 血縁関係というわけではない。あのかしまし過ぎる妹二人――約一人は実は血の繋がりがなかったらしいのだが――とはもちろんこの先もずっと兄妹という間柄だけど、この場合彼女たちは関係ない。
 彼女というわけでもない。隙あらば僕の口の中にホッチキスの針を突き立てたり拉致監禁したりするメンヘラ処女(自称)だったあいつも、色んな意味で「だった」に成り果て、現在僕とは絶賛馬鹿ップル継続中である。喜ばしい事なんだけど、出会った頃を思い出すと「誰だお前」と突っ込みたくなる時も多々あったりなかったりする。
 僕が返しきれない恩を抱えている、生まれながらの委員長とも、はたから見れば普通な関係とはいえないかもしれない。もちろん彼女は僕にとって理想そのものなので、何が何でも切り離されたくはないけれど、それでも「切っても切り離せない」とまでは言い切れない。
 レズでマゾで部屋を片付けられない露出狂の後輩や、引っ込み思案だけど妙に押しが強い妹の友達、それに地縛霊から浮遊霊に二階級特進したボキャブラリー豊富すぎる永遠の小学生とも仲がいいとは思うけど、それでもまだ彼女たちとは常識的な友人関係なのだと思う。
 でも、その女性と僕との関係は、そのどれも当てはまらない。まあそれも当然の話。そもそもにして彼女は人間ではなく、僕もまじりっけのない人間とは言い難い。
 怪異と怪異の絞りかすの繋がりなのだ。それは特別な物に決まっているのだろう。
 僕が死ねば、彼女も死ぬ。
 僕が彼女を見捨てれば、彼女は死ぬ。
 そして僕が彼女を見捨てるような事をすれば、それは僕が僕でなくなる。
 彼女と、ずっと共に在り続ける事。
 僕は全てを彼女から奪い取ったから、その制約から逃れる事は許されない。そしていい加減極まる僕にとって数少ない、自ら望んだ誓約だ。
 だから。
 忍野忍という名前を与えられたその女性と、僕との関係は、他のどの人間とも当てはまらない特別な物なのである。







「のう、あるじ様よ」
 何の前触れもなく僕の影からぬうと顔を突き出した忍が、不機嫌そうな声を上げた。
「どうした、忍。あと出来れば影になってたからってそこから顔を出すのは止めてくれ。問題が全く見えないんだが」
 スタンドライトの明かりで出来た僕の影が、ちょうど参考書の半分くらいに掛かっている。そこから突然忍が現れたので、問題を解くどころの話ではなくなってしまっている。
 傍目には、机の上に突然生意気そうな金髪美少女の首が生えたわけである。知らずに見ればどんな太い肝を持った人間だって、間違いなく泡を吹いて倒れる事だろう。だが事情を知っている僕からすれば、ただ邪魔なだけである。
 しかし忍はこちらの言う事に聞く耳など持たず、よっこいしょなどと呟きながら影から自分の体を引っ張り出した。勉強机が彼女の椅子に早変わりである。もう邪魔とかそういうレベルですらなくなってしまった。
「いや、てか。僕は今全力で受験勉強の真っ最中なんですが。なんでそんな所で寛ぎだしてるんだよ」
「つれない事をいうでないわ。従僕がこうして暇をもてあましているのだから、あるじ様としては少し気を使ってお茶請けを手に入れるためミスタードーナツに行こうと言う気にならんか?」
「ねえよ。一体どんな主従関係だよそれ」
「今日はゴールデンチョコレートではなくポン・デ・リングの気分じゃの」
「しかも話聞く気すらねえっ!?」
 僕の周りの女性陣は大概人の話を聞きやしないけれど、忍はまた極めつけの部類ではなかろうか。
「かか。まあ、そういいながらもお前様もそろそろ休憩したいと思っていたのじゃろうが」
 口元に意地の悪い笑みを浮かべる忍を見て、僕は深いため息をついた。
 時計の針はちょうど夜九時を指した所。早めに夕飯を済ませてからずっと机に向かっていたので、まあいい区切りではあったと思う。
「だとしても、もう少し出てくる時は気を使ってくれ。もしここに火憐ちゃんや月火ちゃんが来てたら、僕はもう色んな意味で言い訳が聞かなくなる」
「儂をあんまり舐めるではないわ。その程度の気配を感じ取れずして何が怪異殺しか」
「その割にいつぞや風呂場では大変な目に遭いかけた気がするんだが……」
 あの時の事はあまり思い出したくない。
 ババア臭いキャラ作りに相応しく、実際五百年を生きたという怪異の中の怪異である忍なんだけど、今の外見は八歳の幼女である。
 確かに自分の兄とそんな外見の幼女が一緒に風呂に入っていれば死ぬほど驚くだろうけど、だからと言って一足飛びに包丁持って戻ってくるようなメンタリティの妹には、その将来に一抹どころではない不安を抱かざるを得ない。その再現は断じて御免被りたい所である。
 大体にして、僕はまだ戦場ヶ原だって二人に紹介していない。自分の彼女より先に金髪幼女を紹介して、妹たちに兄ちゃん手遅れ疑惑を掛けられるような悲しい未来は勘弁してもらいたい。
「……何やら言いたい事がありそうじゃの、」
「とりあえず机から降りてくれれば、他に何にも文句はないっての」
 ジト目で忍を睨み付けながらも、僕は椅子から立ち上がって伸びをする。まあ仕方ない。一服するにはいい切欠だったと思うしか。
 そのままベッドの端に腰掛けて、僕は忍に向き直った。
「で、いったい何があったんだ?」
「ん?」
「お前、用が無ければ影の中に潜りっぱなしじゃないか。それに基本的に僕が勉強してる時は姿現さないだろう? なのにわざわざ顔をみせたってのは、よほどの用事なんじゃないのか?」
「ふむ――」
 僕がそう言うと、忍は目を閉じてしばし考え込み、
「――ミスタードーナツの百円セールがな、確か今日までなのじゃが」
「お前もうずっと影の中から出てくるなよ!」
「何を言うか! 儂はかつて言った筈じゃぞ! ミスタードーナツがある限り人間を滅ぼさぬと。つまりお前様が儂にミスタードーナツを振舞うのは、人界を守るために必要不可欠な行為であろうが!」
「お前がドーナツ食えないくらいで滅ぶ人類なんかとっとと滅んでしまえ!」
 こちとら年中無休で金欠病罹患中の高校生である。人類の未来を僕の財布に託されたってどうしようもないわけなんですが。
「まあそれは冗談なのじゃが」
「掛け値なく本気の目だったよな、お前」
「じゃがまあ、暇を持て余しているのは本当なのじゃ」
 そう言うと、忍ははしたなくも僕の机の上で胡坐をかいて、にやりと笑う。改めて言うまでもない事なのだが、忍の格好は薄いワンピース一枚である。目のやり場に困る事この上ない。
「じゃからのう、あるじ様よ。儂とちょっくら祭に行く気はないか?」
「……はい?」
 祭って言うと、アレだよな。
 神社の境内とか、商店街とか。そういう所で屋台で提灯で神輿とか喧嘩とかが華だったりする。
「いやちょっと何言ってるのか意味分からないんですが忍さんや」
 突然そんな事を言われて、思わず僕がそう呟くと、何故だか忍は随分と神妙な顔で僕を見つめてくる。
「むう……あるじ様の友達無さ加減ははこの儂をしてもいささか同情せざるをえなんだが。しかしいくら一緒に行く相手がいなかったとは言え、よもや祭という言葉すら忘却の彼方に送りこもうとは……すまんかった。気遣いが足りなかった事を謝ろうではないか」
「喧嘩売ってるんだな!? 喧嘩売ってるんだな忍!? お前の中で僕はいったいどんなレベルで友達がいないんだよ!」
「ならば聞くがな。いったいこれまでの人生であるじ様は家族以外の誰と祭に行った事があるというのかの?」
「ぐ……!」
 いませんでした。
 火憐ちゃんと月火ちゃんがまだ小学生の時に、一緒に近所の神社のお祭に行っただけでした。
 一言だってそんな事を忍に話した事はないというのに、なんだってこいつは正確に見抜いてくるのか。さすが怪異殺し。いや、何が流石なのか僕にもよく分からないけれど。
「ゆえにじゃ」
 忍の口元が釣りあがる。八歳児の外見には不釣合いな妖艶さを纏わりつけ、かつての怪異の王は僕に囁いてくる。
「従僕であるワシが、あるじ様を慰めるために付いて行ってやろうというのだ。人生初のお祭デェトと言う奴じゃ。有難く思うがよいぞ」
 たとえ彼女の正体を知らない者でも、その言葉に頷かずにはいられないだろう。ましてや、かつて彼女の従僕であった僕なのだ、一も二もなく従う以外、出来よう筈がなかった。
 そう、ゴールデンウィークの頃だったなら。
 だが、しかし。
「だが断る!」
「何じゃと?」
「くははは、断るのさ! 断ると言ったんだ忍。今の僕はそんな悲しい過去や記憶など、笑いながらゴミ箱に丸めて捨てられるぜ!」
「あ、あるじ様よ……突然どうした?」
 こみ上げる笑いを抑える事ができない。怪訝そうな表情で見つめる忍だって、今の僕なら寛大な心でスルーが出来る。
「なんたって今の僕にはガハラさんがいるからな。しようと思えば二人でいちゃラブしながらいくらでもお祭デートして来られるぜ!」
 一月くらい前の戦場ヶ原に向かってそんな事を頼めば、まず間違いなくホッチキスの針と一緒に罵詈雑言が飛んできながら首に縄をつけられて引っ張っていかれただろう。
 しかし今の戦場ヶ原はツンのツの字も見当たらないドロドロのデレデレなのである。余計な付随物なしに、本当に恋人らしくデートを楽しむ事ができる筈なのだ。
 さぞや悔しがっているのだろう。そう思って忍の顔を見れば、訳知り顔でうんうんと頷いている。
 今度は僕が怪訝な表情を浮かべる番だった。
「……忍?」
「うむ、よく分かるぞあるじ様。初めて出来た彼女との初めてのデートであれば、それはそれは楽しみであろうことは儂にもよく理解できる」
「だ、だろう? だからお前に憐れまれる必要も、ましてや積極的についてきてもらう必要も無いわけなんだけど」
「そうじゃろうなぁ?」
 何やら堪えきれないといわんばかりに、忍が肩を震わせて口元をニヤニヤさせているかと思ったら、
「あるじ様ときたら、いつもいつもあの女の部屋でばかりじゃからな、たまには場所を変えてみたくなる気持ちも分かるというものじゃ。おお、若い若い」
 
 
 
 【続く】  
 
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