◆ 共に在る場所 ◆





 目の前に突き立った剣は、正に墓標だった。
 荒い息をつき、セイバーは泥の中から立ち上がる。刹那の差で命を奪いかけた刃の輝きが、彼女の目を灼く。太陽剣(グラム)と呼ばれる竜殺しの宝剣だと、彼女の直感が告げていた。
 歯噛みして、セイバーは首を回した。黒き泥に満たされた大地に、無数の剣が、槍が矛が斧が突き刺さっている。それらの根元にはへし折られた斧剣が、魔槍が、杓杖が無残に転がっている。持ち主たちの姿はもう残ってはいない。ほんの少し前までセイバーの目の前に立ちはだかっていた彼らは、一瞬に引き裂かれて消え去っていた。
 彼女の命を奪わんと、聖杯の泥の中より生み出されたかつての英霊たち。いずれも規格外の力を持つ筈の彼らが、物言う間もなく滅ぼされたのだ。
「かわしたか。ふん、堕ちたりとはいえ剣の英霊よな」
 聞く者の魂を震え上がらせるような、冷たく低い声が洞穴の中に響き渡った。
 闇が盛り上がり、人の形を成す。それが数瞬前の惨劇を生み出した者だと知り、セイバーの背中が粟立った。
 見覚えのある姿だった。
 十年前にやはりサーヴァントとしてこの地に呼び出された時、最後に刃を交えた男。くしくもあの時も、生れ落ちる寸前の聖杯の前であった。
 異なるのは、お互いに汚濁に飲まれた姿を晒しているという事。
「貴様、何故ここに……」
「掃除だ。我の庭に不要な物が増えたようだからな」
 男は轟然と胸を張る。自らの引き起こした虐殺を見回し、満足そうにうなずいた。
「亡霊どもが生き汚い姿を晒しているのは、目に余るとは思わんか?」
「否定はしない。だが、共に聖杯の同胞と生まれた者を、そうもあっさり切り捨てるか」
「同胞だと?」
 白磁のように色の抜け落ちた、男の肌に憤怒の朱が差す。
「我と共に立つ者など、この世界に生まれる事を許した覚えはない。いらぬ事を囀る、その口から砕いてやろうか?」
 元は豪奢であったろう、全身を覆う鎧は大地を浸す泥よりも尚黒い。十重二十重に胴に胸に巻きつけられた黄金の鎖が、奇妙にも男の右腕にも巻きつきその自由を奪っている。くすんだ金髪の下、セイバーを射抜く赤眼が、この場の何よりも眩しく強く、そして無慈悲な光を放っていた。
 片腕を封じた男の姿に、セイバーの嫌悪感がいや増す。目の前の男の実力は良く知っている。他の黒化したサーヴァントを一蹴したことでも明らかだ。しかしそれでも、彼女の矜持を汚す行動に、怒りが掻き立てられる。
「砕くだと? 片腕で私に勝てるとでも思っているのか。舐められたものだな」
「聖杯の泥に犯された端女が。良くも囀る。そのような姿、我の前に晒す事すら罪深いぞ」
 男は嘲笑うように口の端を吊り上げた。
 確かにセイバーが身に纏う漆黒の鎧には、隠しようのない亀裂がいく筋も走っている。むき出しの両腕は止まらぬ血で赤く染め上げられた。体を流れる魔力の残りなど、笑ってしまうほど心許ない量だった。
 戦いを続けられる状態などではない。それはセイバー自身が良く分かっていた。
 しかし退く事など出来はしなかった。
 セイバーはきつく唇を噛み締めた。足に絡みつく汚泥が鬱陶しい。それを生み出す源は、今も視界の端で悲鳴を上げ続けている。求め続けた聖杯は、今は汚染されこの世全ての悪を生み出す揺り篭だという。今の彼女にとってはどうでも良い事だった。共に黒く染め上げられた今、もはや自分自身の望みなど彼女は持ちえよう筈がなかったのだから。
 ――あの輝きを目にする前は。
 セイバーは視線を横に流す。ライダーは無事に桜と凛を連れ出しただろうか。
 大空洞は広い。彼女の足でも二人を抱えたとなれば、外に出るまで五分は掛かるだろう。それだけの時間を、目の前の男から勝ち取らなければならない。
「余所見か。返す返すも舐めた真似を」
 感情の篭らぬ、凍てついた男の声がセイバーの耳に届く。
 泥を踏み潰し、歩みを進めた足が止まる。彼女の足で十歩。それだけの距離を隔てて男が向かい合った。
 口元に皮肉げな笑みを浮かべて、男は自由な左腕を虚空に掲げる。
「王の馳走だ、残さず喰らえよ!」
 男が叫んだその瞬間、セイバーの目の前に光の壁が出来ていた。
 否。それは壁などではない。そう錯覚を覚えるほどの、眩い武具の群れが男の背後に一瞬で生み出されていたのだ。
 そのどれもが、並みのサーヴァントであれば必殺されうる珠玉の宝具。その数、確認しうるだけで六十余。
 セイバーは小さく息を呑む。背中を冷たい汗が流れ落ちる。戦いに身を置き続けて、ついぞ感じたことのない感覚だった。
 戦場で数限りなく彼女を救ってきた直感も、何一つ好意的な未来を指し示してはくれない。ただ一つ確実に告げる事は、この場に留まり続ける事の愚かさだった。一斉に打ち出されて、果たしてどれだけ打ち払えると言うのか。一本でも受け損なえば、その瞬間勝負は決まる。
 それでも、セイバーは剣を握り締める手に力を込めた。
 今は見る事が出来ない、背中に受ける温もりを守るために。
 失い続けたものを、今度こそ守るために。
「言うまでもない事だがな、女。後ろの塵を守ろうなどとは思わぬ事だ」
「――塵と言ったか。シロウを、その汚らわしい口で塵と罵るか下郎!」
「すでに事切れ動かぬ雑種が、塵以外の何だというのだ。そんな物にかまけて、我にこれ以上の無様を見せるというのが我慢ならん」
 抑揚の消えた声で、男はセイバーを睨みつける。
 その通りだ。セイバーは下唇を噛み締める。シロウはもう動かない。他ならぬ自らの手でその命を奪ったのだから。
 だからこそ、彼に無様を見せるわけにはいかない。彼の願いをこの穢れた手で受け取ったのだ。もう手放す事は許されない。
 セイバーは泥を掻き分け、一歩足を踏み出した。
 目の前には金と漆黒に包まれた王。それを取り巻き守る鋼の精鋭。この程度、突破せずして何が剣の英霊だというのか。
「その程度かギルガメッシュ! その程度の軍勢で、我が首取れると思うならやってみるが良い!」
「――泥に犯され穢れた娼婦が我の名を呼ぶとは。まこと身の程知らずよな」
 男の目が残酷に細められ、掲げた手の指が高らかに鳴らされる。
「疾く滅べ、妄念」
 その瞬間、二人の間の大気が爆ぜた。
 銅鑼を打ち鳴らすような轟音と共に、四方から死の煌きがセイバーに襲い掛かる。一歩後ろに跳び退った瞬間、元いた場所を朱槍と漆黒の矛が砕き穿つ。それを確かめもせずに彼女はエクスカリバーを右へなぎ払う。腕がもげそうになるほどの衝撃に、顔をしかめる暇もない。弾き飛ばした剣は三本か四本か。その勢いに任せて体を捩り、左側から飛び掛る巨大な斧を打ち落とした。
「この程……がぁっ?!」
 しかしその影に隠れていた、片刃の長刀を打ち落とすには力が足りなかった。
 背中を掠めた刃は易々とセイバーの鎧を切り裂き、赤い花を空に散らした。目もくらむような激痛。だが動きを止めるわけにはいかない。雨霰と降り注ぐ宝具の群れを、渾身の力でセイバーは切り払う。
 だが天から絶え間なく降り注ぐ雨を、手で振り払い続ける事など出来はしない。意志なき暴兵の群れが、徐々にセイバーの体を犯していく。
「く、ぅぅ……」
 小さな悲鳴がセイバーの口をつく。
 腕も、足も胸も腹も頬も首筋も、染み出た血が黒い鎧を染めている。傷を負っていない場所など皆無であった。
 まだ足が動くことは、傍目には信じられない奇跡だったろう。だが動く事をやめれば、確実な死に受け止められる。背中を向けて逃げ出せば、残された者が暴虐に撃ち砕かれる。
 だからセイバーは無謀に踏みとどまり、その剣を振るった。
「存外耐える。だがな、女」
 ギルガメッシュの口元が歪む。
「お前には何も守れはしないのだ」
 男の指が、セイバーの背後を指し示す。剣が剣を跳ね上げる甲高い金属音の中で、その言葉だけは無情にセイバーの耳に届いた。
 新たに放たれた剣が一本、光となり駆ける。
 狙いは明白で、それだけは絶対に防がなければならなかった。その思いが一瞬、セイバーの足を止める。
「な……ぁっ!」
 予想外の急激な方向転換。それは瞬きにも見たない時間だったろうが、無数の刃に囲まれた状態ではあまりにも迂闊で、そして致命的な間隙となった。
 それでも雨霰と降り注いでいた剣を、五本まで切り払ったのは英霊ゆえ。しかしそこまでが限界だった。
 剣とどかぬ背中から打ち下ろされた巨大な戦槌に、彼女の体が弾き飛ばされた。
 轟音とともにセイバーの体が洞穴の壁に叩きつけられる。そのまま真っ二つにされていても不思議ではない衝撃だった。口から血の塊を吐き出して、彼女の体がぼろ屑のように泥を跳ね上げ転がった。
 散り散りに飛びそうになる意識の中で、セイバーは自分が弾き飛ばされた場所を確認して――凍りついた。
 ここにはシロウの体を横たえていた筈なのに。
 かすんだ視界の真ん中には、岩肌に突き立った一本の剣しか映っていなかった。
「シ、ロウ……?」
 よろよろと伸ばされた手は虚空を掻き抱く。指に触れるのはざらついた岩の感触だけ。
 踝までを浸す泥のあちらこちらに、へし折れた無数の剣の欠片が浮かんでいる。
 見間違いであって欲しい。その希望もはかなく消える。黒くひずんだ汚泥の中で、ちぎれた赤い布はあまりにも目に鮮やかだった。
「シロウ……シロウ……シロウっ?!」
「肉塊ですらないか。我よりよほど人間離れしていたようだな、その雑種は」
 肩を揺すりながら、笑い声を上げてギルガメッシュが近づいてくる。それに構わず、狂ったようにセイバーは少年の名を呼び続けた。
 元より答えなど返る筈もない。そして今、セイバーの指先には彼の感触すら感じられなかった。
 守る事が出来なかった。何度も、何度も失い続けて、そしてまた目の前で失った。
 セイバーの視界が歪む。泥と血に塗れた頬を、熱く悲しい流れが伝わり落ちていく。
「シロウ、申し訳ありません、シロウ……私は……」
 張り詰めた糸が切れたように、セイバーの手足から力が抜けていく。霞む視界の中で最後にセイバーの脳裏を掠めたのは、少年が最後に浮かべた顔であった――









 最後に彼が口にした言葉を、聞き取る事が出来なかった。
「シロウ、何故ですか――」
 セイバーは、茫洋とした瞳で呟いた。
 腕の中に抱える男から答えは無かった。当然だ。剣士として狙い誤る事などありえない。セイバーの剣は寸分違わず衛宮士郎の心臓を射抜いているのだから。
 甲高い音が洞穴に響き渡る。足元に目を向けたセイバーの口から、小さな、小さな溜息が漏れた。
 力尽き、手から滑り落ちた彼の最後の魔術は、自らの勝利を約束する一対の短刀ではなかった。
 彼の手に生み出されたのは、複雑に刀身が曲がりくねった、一本の儀礼用の短剣だった。
「何故、貴方は勝ちを捨てたのですか」
 聞こえる筈の無い声を、セイバーは士郎の耳元に囁く。
 理解できなかった。
 あの一瞬。布石に注ぐ布石を打たれ、確かに敗北の奈落へ叩き落されていた。投影するのがあの夫婦剣であったのならば、間違いなく今ここに倒れ付していたのは自分だった。
 しかし現実は違う。彼は一瞬の投影に手間取り、そして心臓を貫かれた。
 余力など残すな。自分の言葉に、彼は応えた筈だった。
 あの一瞬まで、確かにお互い相通じるものを感じていた筈だった。道は違え、交わすのは言葉でも抱擁でもなく刃であっても、確かに考え求めていた物は同じ筈だった。
 なのに、何故。
 湧きあがる感情に突き動かされ、セイバーは奥歯を噛み締めた。剣から手を離し、士郎だった物の襟首を捻り上げる。彼の体から突き出した、無数の刃が手甲を擦る。鎧の隙間から潜り込んだ刃先が皮膚を削り肉を刺す。構わなかった。今の彼女にとって痛みなど、怒りの炎を沸きたてる薪でしかない。
「貴方にとって私は、その程度の存在か! 自らの命よりも勝利よりも、尚大事なものがそこにあったというのかっ!」
 金の瞳を燃え上がらせ、セイバーは吠えた。
 吊り上げられ、揺さぶられた士郎の口元から滴った血が、セイバーの頬を濡らす。かすかな温もりが命の残滓を彼女に伝えて、殊更彼女の苛立ちを募らせた。
 答えなど返る筈も無い。死に絶えた体はあと数秒もすれば温もりも消えうせる。もうこれには価値など何一つ無い。
 激情のままセイバーは、手にした剣を振り払った。
 岩壁に叩きつけられた士郎の体は、耳障りな金属音を洞穴の中に響かせる。かつて主だった男は、もはや肉の塊ですらないのだろう。
「見ていますか、シロウ」
 壁にもたれかかるようにして崩れ落ちた士郎に向かって、セイバーは呟いた。
「貴方は負け、そして凛も負ける。桜を救おうとした貴方の願いは全て果たされる事なく、今私の手によって摘み取られるのだ」
 彼女は一歩、足を踏み出した。黒く染め上げられた鉄拵えの軍靴が、小石を踏み砕く。
「恨むなら己の未熟を恨みなさい。全てを投げ打たなかった、己の未熟を――」
 象牙のように白いセイバーの肌には、血の色が感じられない。愚者の屍を見つめる金の瞳からも、熱はもう消えていた。
 これで踵を返せば、全てが終わる。彼の存在は記憶の奥に埋もれ消えて、この身は桜に振るわれる剣に変わる。永遠のような一瞬は、一方的に幕を引かれたのだ。出来損ないの劇の中身など、もう思い出す必要はない。
 時間が惜しかった。桜からの思念は随分前に途絶えている。既に向こうは終わったのか、それとも思念すらこちらに振り分ける余裕がないのか。
 セイバーは頭を振り、踵を返そうとした。
 その足が、止まる。
 彼女の視線は士郎の体に釘付けられていた。
 胸元には、彼女の剣により穿たれた虚ろな穴が開いていたはずだ。それが存在しなかった。傷跡からもう血も滴り落ちていない。
 セイバーは眉を顰める。妙な話だった。貫いたのは紛れもなく心臓だ。この程度の出血で済む訳が無い。剣に変わりつつある体には、もう血が流れていないのだろうか。否だ。現に貫いた瞬間の手甲は、あんなにも朱で染まったではないか。
 だが傷口から新たな血は流れない。それどころか、彼女の目の前で体の傷が、確かに塞がれつつある。
「こ……れ、は」
 言葉を失ったセイバーの前で、士郎の体から全ての傷が消えていた。慌てて屈んで、彼女は胸元に耳を押し当てる。
 鼓動は刻まれていない。衛宮士郎は確かにここで死んでいる。
 代わりに彼女の頬に伝わってきたのは、懐かしい温もりだった。
 朽ち果てた士郎の体を形作る、無数の剣の煌きの中から、見間違えようもない姿が顔を出している。
「そんな……まさ、か……」
 自分の目が信じられない。震える唇から滑り落ちたセイバーの声は、錆付き軋んでいた。
 かつてそれを手渡した魔術師は、決して失うなと念を押していた。今手にしている剣など、それに比べればいかほどの価値もない、と。
 その通りだ。決して失ってはならぬ物から手を離したからこそ、自分は国すらも失ったのではないのか。
 全て遠き理想郷(アヴァロン)。一度手放したその場所には、もはや二度と手が届くことはなかった。
「シロウ……貴方が……貴方が私の鞘だったと、言うのですか……」
 震える指先で、セイバーは士郎の頬をなぞった。その瞬間、支えを失ったように崩れ落ちる士郎の体を彼女は抱きとめる。
 漆黒に塗れた鎧越しに、失った熱が染み込んで来る。凍てついた筈の心が、無理やり融かされ炙られる。しかし、男の背中に触れる指先から、熱が伝わることはない。苦痛の呻きがセイバーの口を突いた。まるで煉獄の炎だ。救われぬ罪に落ちた魂を、永劫焼き続ける神の怒り。異なるのは、先に決して救いなど待っていないということだ。
 決して失わないと誓った物を、幾度手放したと言うのだろう。
 鞘を失い、妻を失い、我が子を手にかけた。忠実なる円卓は分かたれ、そして今、鞘だけはこの手に戻ってきた。
 頬が熱い。士郎の刃が突き刺さっているのか。そう思ったセイバーは顔を上げる。しかし熱は引く様子がない。視界が滲み、足元が定まらず、剣を杖に彼女は洞穴の壁に背を預けた。
 一際大きな轟音がセイバーの耳を貫いた。数限りない戦場を駆け抜けた彼女の勘と経験が、戦いの終わりを告げている。
 自分はまだここに在る。つまりは、マスターも共に在ると言うこと。
 全てを失った筈の手の中には、唯一つ、桜とのつながりが残されている。
 ならば、成すべき事は決まっている筈だ。
「シロウ……知っていますか」
 力の篭らぬ体を奮い立たせ、セイバーは足を踏み出した。
「敗者の願いは、勝者に踏みにじられる。永劫に叶う事はないのです」
 セイバーは掠れた声で、そう呟いた。









「なぜ、ですか」
 呟く桜の声は震えていた。
 大空洞に穿たれた、巨大な黒い揺りかご。大聖杯と称される、巨大な魔術回路。
 バイザー越しの狭められた視界に、セイバーは怒れる『母』の姿を見た。
 彼女の足元には、やはり見覚えのある少女が崩れ落ちている。左腕には魔術刻印が未だ淡い光を放っているのが見える。いまだ息はあるようだった。しかし腹部に穿たれた傷からはとめどなく血が流れ続けている。長くはもちそうにない。
 セイバーが想像したとおりの光景が、そこには広がっていた。
 衛宮士郎が自分に負けたように、遠坂凛は間桐桜に敗北したのだ。
 セイバーがここに辿り着いた時、桜に勝利の高揚は感じられなかった。立ち尽くし、姉の姿を見つめて嗚咽する。そこには黒い聖杯の主たる強さは微塵も感じられなかった。
 愛する男を抱えてきたセイバーを認めて、桜は破顔した。それが憤怒に変わるまで、そう時間は掛からなかったが。
 震える主の姿に、セイバーの口端が僅かに歪む。
「何故、とは。質問の意味がわかりかねます、桜」
「何故殺したんですかっ! 何で生かしたまま連れてこなかったんですかっ!」
 絶叫とともに桜の纏った影が刃となり、セイバーのこめかみを切り裂いた。くすんだ金髪が朱に染まり、頬を伝った雫が彼女の口元を汚す。舌の先に広がる錆びた鉄の味に、彼女は眉をひそめた。こんな体に落ちて尚、血の味が変わる事はなかったらしい。
「答えなさい。次は首を飛ばします。何であなたは、わたしの言いつけを守らなかったんですかっ!」
「――それは心外だ。私はあなたの言いつけに背いてなどいない」
「まだそんな事をっ!」
 今度は左のこめかみだった。鋭い痛みにセイバーは口元をゆがめる。慈悲深い主だ。幸いにも、まだ首と胴はつながっていられるらしい。
「私は貴方の剣だ。そして貴方は邪魔者に向けて剣を振り下ろした。振り下ろされた剣を止める技量があなたにあるのですか、桜」
「なん、ですって……」
 三度目は眉間だった。放たれた影の刃がセイバーを撃ち抜く寸前、虚空に止まる。突きつけた指先を震わせて、桜はセイバーを睨み付けた。
「わたしが先輩を殺したと、あなたは言うんですかっ!」
「違うのですか。私をこのような姿に変えたのはあなたの望みだったのでしょう。あなたのための忠実な剣に変えたのだから、私はあなたの望む事をしたに過ぎません。それを何故とは、心外極まる」
「――死にたいんですか。もう少し力を込めれば、あなたの頭は吹き飛んじゃうんですよ?」
 怒りを押し殺し、奥歯をかみ締め桜は呟いた。
 セイバーの口元に笑みが浮かぶ。その言葉は嘘ではないだろう。もう少し桜が指に力を込めれば、自分の頭など影も残らず消し飛ぶに違いない。
「何が可笑しいんですか。死ぬのが怖くないんですか。跪いて非礼をわびなさいセイバー。そうすればわたしの気が変わるかもしれませんよ!」
「それこそ今更だ。壊したいなら壊すがいい。だが次の私が、今の私と変わる所があるとは思えませんが」
 セイバーは桜から目をそむけ、己が両手を見つめた。
 この身が英霊と化す前は、国を守る事が望みだった。自分の死は国の死だと信じ、後ろを振り返ることなくこの手で剣を振るい続けた。
 英霊となり、衛宮切嗣に呼ばれた時も。そして此度衛宮士郎に呼ばれた時も、この手で聖杯を得んがために敗北を恐れた。
 死を恐れるのは、失う物がある者だけだ。手ずから全てを投げ捨てた自分が、もはや一体何を恐れると言うのか。
 そうだ。人は願い半ばに倒れる事こそ、何よりも恐ろしいのだから。
 セイバーの目が、倒れ伏した衛宮士郎に向けられる。
 彼もそうだったのだろうか。この剣に貫かれる瞬間、彼も死を恐れたと言うのだろうか。
 ならば何故、彼は勝利を投げ捨てたのだろうか。
「私が貴女に壊されると言うのなら、その前に逆に問いましょう」
「……何のつもりですか、セイバー」
「他意はありません。ただ知りたいだけです」
 再びセイバーは桜に顔を向けた。バイザー越しの視線に、命を握っている筈の桜が息を呑む。
「――桜。貴女の願いは一体何なのですか」
「なに、を……」
「今の貴女に出来ない事など、そう多くはない筈だ。それを望むなら、あなたを愛し永久に付き寄り添う人形として、シロウを動かせばいい。生きているも死んでいるも、大した差ではないでしょう」
「何が言いたいんですか。一体、あなたは何がっ!」
「世界を滅ぼす事を望むのですか? あるいは自らに優しい世界で、一人幸せな夢にまどろむ事を望みますか? どちらももうすでに叶っている。もはや貴女に立ちはだかる者などいない。貴女を責め苛む事が出来る者などこの世のどこにも存在しないのだから」
「黙りなさいっ!」
 桜の叫びと共に、伸びた影の腕がセイバーの腹を殴りつけた。鎧越しでも中の体が潰されそうな衝撃に、セイバーは小さく呻く。しかしその足は確かに大地に踏みとどまり、膝を着く事はなかった。
 喉元をこみ上げてくる血の塊を無理やり飲み下し、セイバーは士郎の体を指差した。
「貴女のために、シロウはそのような体に成り果てた。彼の望みは唯一つ。貴女を救う事でした。命を賭して願った事は、あなたをここから救い出す、ただそれだけの事でした」
「人事のようにっ! あなたが殺したんじゃないですか! あなたが先輩を!」
「それが貴女の願いだと、邪魔する者をすべて排除することが、我が使命だと思っていました。でも違うと言うのならば、真実、貴女は何を願っていたのですか!」
「ど……道具が! 道具に過ぎないあなたに、わたしの何が分かるって言うんですかっ!」
 今度は右肩を殴りつけられ、セイバーの体がよろめく。粉々になった鎧の欠片が、まるで黒い雪のように舞い上がった。
 影の一撃はただの破壊だけではない。触れる度に身に満ちた魔力をこそぎ取っていくそれは、傷以上にセイバーの命をすり減らしていく。
「誰も! 誰もわたしを見てくれない! 誰もわたしの言う事なんか聞いてくれない! こんな力なんかいらなかったのに! わたしは先輩と一緒にいられれば良かったのに! もう誰もいないじゃないですか! 苛める人も話を聞いてくれる人もわたしの作ったご飯を食べてくれる人もわたしの話を聞いてくれる人もみんなみんないないんです!先輩をあなたが殺しちゃったんです!」
 影を纏い歩み寄ってきた桜の手が、セイバーの首を締め上げる。大した力など篭ってはいない。しかし纏った影が、砂漠の砂のようにセイバーの魔力を吸い上げていく。
「さ、くら……」
「ええ、こうなったらただ殺したりなんかしない。ギリギリまで魔力を搾り取ってあげる。永遠に満たされない喉の渇きに呻いて、跪きなさい。でも許してあげませんから。だってわたし一人じゃ、いくら苦しんだって辛さを分かってもらえないでしょ? だからあなたにわたしの苦しみを、全部味わってもらいます」
 とろんと嗜虐に目を潤ませて、桜はセイバーの耳に囁いた。あるいはその脳裏に、責めさいなまれるセイバーの姿を思い浮かべているのかもしれない。
 しかし、音がするほどきつく奥歯を噛み締めて、セイバーは桜を睨みつけた。怪訝そうな表情を浮かべる桜の手に、自らのそれをそっと重ねる。
「ならば何故……あなたはそれを口にしなかったのですか」
「何、ですって」
「語られぬ願いなど、叶える事が出来るわけがない。願いを持たぬ者の願いなど、果たしてどう叶えろと貴女は言うのか」
「セイバー! あなたっ!」
「そこに倒れ臥している凛も、自らの願いに殉じたシロウも、皆あなたの言葉を聞く耳は持っていた筈だ。貴方は一言言えば良かったのだ。助けて欲しいと、縋ればよかった。その願いを拒む者など、誰一人いる筈が無かったでしょうに」
「知った風な口をきかないでっ!」
 桜の右手が閃いて、影の拳がセイバーの頬を張り飛ばす。跳ね上げられたバイザーが、砕けて大地に転がった。
「だからって、今更どうすればいいというの! わたしには何も出来ないのっ! こんなになったわたしが、この後何を望めばいいというんですかっ!」
「……桜。あなたはまごう事無く此度の聖杯戦争の勝者だ。敗者の願いは勝者に踏みにじられる。ですが、敗者の願いを汲み上げることが出来るのも勝者の権利なのですよ」
 ゆっくりと語りかける、セイバーの視界が歪む。肉体の傷などどうという事はない。だが魔力を奪われすぎたと彼女は自嘲した。どの道、長い事在り続ける事は出来ないだろう。魔力が尽きて消え去るか、桜の怒りに飲まれて泥の中に還されるか。どちらの道をたどるにしても、堕した自分には相応しい末路であろう。
 だが、これだけは伝えなければならないと、彼女は思った。
「シロウは、私に勝つ事を引き換えにして私に()ったのです。貴女を救うために、私を殺す千載一遇の好機を彼は投げ捨てた。私は彼を殺して、そして彼に負けた。敗者である私は、彼の意に従うだけだ」
「何が、言いたいんですか。貴女は、一体何が……」
 セイバーの言葉に、振り上げた手を桜は下ろすことが出来ない。わなわなと体を震わせて、ただ己の従僕を睨みつける事しか出来なかった。
 セイバーは一度背中に回した手を、そっと桜にむかって伸ばした。そこには複雑に曲がりくねった短剣が握られている。
 びくり、と体を振るわせる桜。だがサーヴァントが直接マスターに手を上げることは出来ない。虚勢を含んだ声で彼女はセイバーをあざけった。
「……そんな物でわたしをどうにかするつもりですか、あなたは。いくら剣の英霊でも、令呪で制約を掛ける方が早いですよ」
「勘違いをしないで欲しい。これは、シロウが貴女のために最後に残した物です。私が百万の言葉を弄するよりも、これに込められた思いを視る方が重い筈」
 その一言で、桜の目の色が変わった
「先輩、が……わたしに?」
 セイバーは頷いた。
 声にならない思いを、視線の端の男に向かって送る。
 これで良いですね、シロウ。
 もう、失ってはいけない物を手放すつもりはありません


「さあ、マスター。あなたは何を望むのですか。私は貴女の剣だ。伝えられた望みを、今度こそそれを叶えてみせましょう」







 ――大聖杯から際限なく溢れだす泥は、倒れ臥したセイバーの体を半ば飲み込んでいた。
 堕ちていなければ耐える事など出来ない、吐き気のするような温もりの中で、それが彼女の右手の指に触れた。
 力の篭らぬ指先に、懐かしい感触が伝わってくる。身を切られるような冷たさは胡乱な頭の中の毒を洗い流し、折れそうになる心を容赦なく責めたてていた。
 セイバーの目に、士郎が呟く顔が映る。夢だと、幻だと彼女は自嘲する。記憶の底から、彼の顔が浮かび上がってきただけなのだ。
 だが声が聞こえない。最後の言葉を思い出せないから、声を聞く事が出来ない。
"――、む。セイバー……"
 あの時彼女の手に伝わる感触は、慣れ親しんだ肉を裂くものではなかった。
 金属を擦り合わせた甲高い音が彼女の耳を汚し、巨大な岩に刃を付きたてたような、鈍い手ごたえ。それでも柄元に滴り落ちてきた赤い雫のお陰で、狙いは誤らなかったのだと彼女は理解したのだ。
 ――思い出せ。
 冷たさに厳しさに凍えそうな指先から、腕を通って肩まで。筋肉に力を込めるだけで引き裂けそうな激痛が全身を突き抜ける。その痛みを活にして、セイバーは己の体に熱を戻していく。
 ――あの時、シロウはなんと言った。
 口の中に潜り込んだ泥を吐き出し、彼女は体を引き上げる。
 体を覆う漆黒の鎧が重過ぎるから、魔力を解いて霧散させた。もう無駄に出来る力など一片もありはしない。どの道降り注ぐ宝具が当たれば、鎧などたやすく撃ち砕かれる。
 重すぎて閉じたままの瞼を無理やりこじ開ける。闇に閉ざされた彼岸から、光射す此岸へ意識を引き戻した。
 白く朧に包まれた、世界の輪郭が形を取り戻していく。荒い息をつくセイバーの目の前に、士郎がいた。
"桜をたの、む。セイバー……桜を……"
 記憶の中の士郎の声が、今、彼女の耳に届いた。
 それは岩穴を風が通り抜けたに近い。意味を持つ言葉に聞こえたのは奇跡かも知れなかった。かつてマスターと呼び仕えた男が、自らの命を奪った女の名を呼び、その腕の中に崩れ落ちたのだ。
 そして今、一振りの剣がセイバーの目の前に突き立っている。
 闇と泥に包まれた、むせ返るような汚濁の中で、黄金の剣の輝きは色あせる事無くセイバーの目を焼いていく。
「カリ、バーン……」
 震える声で、セイバーはその剣の銘を呼んだ。ある筈のない物が今、目の前にある。恥ずべき自らの行いのせいで、二つに折れた選定の剣が、今彼女の目の前にある。
 士郎の亡骸は、もうどこにも見えはしない。左腕を包んだ赤い布も、もはや泥に飲まれて消えていた。
 だが士郎はここにいる。共に戦えと彼女に呼びかけている。
「これを……この剣を振るえと、あなたは言うのか」
 セイバーはよろよろと伸ばした右手で、柄を握り締めた。瞬間、炎で包まれたかのように全身を衝撃が駆け巡り、彼女は小さく息を漏らした。
 分かっている。本当に焼かれているわけではない。責めさいなんでいるのは己自身の心だ。王たらんとしたあの時の少女が、相応しくないこの体を断罪しているのだ。
 手を離せば楽になる。しかしそんな事など思うことすらおこがましい。頭を擡げる惰弱な心を、セイバーは音を立てて奥歯で噛み潰した。
 間桐桜は聖杯の頸木から解き放たれた。おそらくはライダーが無事に連れ出してみせるだろう。
 だが未だ聖杯戦争から解き放たれたわけではない。
 再び戦いに巻き込まれる事など、士郎が望むはずがない。
 丸太のように重かった左腕にも熱が戻る。セイバーは両の手でカリバーンの柄を握り締め、泥の中から引き抜いた。
 太陽より尚眩い煌きに彩られた剣が、沸き立つ泥と影を焼いていく。磨き抜かれた刀身に映るセイバーの顔からは、迷いも憂いも悔恨も、全て消えうせていた。
「サーヴァント・セイバー。此度最後の戦いを、シロウ、貴方に捧げましょう」
 呟いて、目を閉じたセイバーは祈るように剣を天にかざした。その瞬間、風を裂く音が彼女の耳を打つ。
 振り向き様に振るった剣は、放たれた魔槍の柄を違わず斬り飛ばしていた。
「ようやく目が覚めたか。女」
「目覚めぬまま首を切り離されるかと思っていましたが。存外情け深いのですね、ギルガメッシュ」
 十歩の間合いを保って、漆黒の王がセイバーの前に聳え立つ。セイバーの言葉に皮肉げに口を歪めて、ギルガメッシュは再び左手を掲げた。
「たわけ。このような醜悪な茶番の幕引き、せめて我の思うがままにせねば腹の虫が収まらぬ。あの穢れた呪いの壷の底を抜き、我の世界を炎で焼き尽くしてくれる。この世全ての悪? 笑わせる。そのような物、新たに生まれる意味もない。目に映る者遍く全てを我は背負う。焼き尽くすも作り直すも、思うがままだ」
 金色に穢れた瞳で、ギルガメッシュはセイバーを射抜く。その背後には再び鋼の近衛が整列する。そればかりか、既に大地に突き立ち命を終えていた筈の刃たちまでもが、浮き上がり、再びその切っ先をセイバーに向けていた。
 完全な包囲に、セイバーは小さく肩をすくめた。
 逃げ場などどこにもない。これだけの数の宝具が一斉に打ち出されれば、髪の毛一本すら残さず塵と化すに違いない。自分どころか、この大空洞すら崩れ落ちるかもしれない。
 ギルガメッシュはゆっくりと左手をセイバーに突きつけた。
「戦いになどならぬ。あるのはお前の一方的な死だけだ。不愉快なその殻を、撃ち砕いてくれるわ道化」
 それが開戦の合図だった。
 命乞いすら許さぬと、王の兵士が猛りセイバーを圧倒する。
 先ほどの攻撃が豪雨ならば、今のこれは正に暴嵐。カリバーンの一振りで、払いきれる量ではない。闇に囚われ重い体で、かわし切れる量でもない。
 だからセイバーは迷わなかった。
「シロウ、私と共に!」
 叫んだ彼女は、己が半身を虚空へと掲げた。
「な、に……?!」
 ギルガメッシュの目が、驚愕に見開かれた。
 鞘が金色の衣となり、セイバーの体を包み込む。降り注ぐ宝具の雨は何一つセイバーの体を貫く事無く、光に飲まれて消えていく。
 防御などという生易しいものではない。現世よりの完全なる遮断。
 それはギルガメッシュが唯一つ知らぬ至高の一、セイバーが仰ぎ見た遠き理想郷だ。
 アヴァロンの光に包まれて、セイバーが大地を駆ける。その手に握られたカリバーンが黄金の煌きを放ち、ギルガメッシュに向かって振り下ろされる。
 雷光のような一撃は、先にあるもの全てを斬り裂く必殺。
「舐めるな、女ぁ! そのような紛い物でっ!」
 だがそれよりも早く、ギルガメッシュは背後の空間から一振りの剣を引き抜いた。
 火花を散らし刃同士がこすれあう。鋼同士が悲鳴を上げる音が互いの耳を焼く。形を捨て全力で打ち下ろしたセイバーの一撃を、なんとギルガメッシュが凌いだのだ。
「貴様、その剣はっ!」
「舐めるなと言ったぞ女。「勝利すべき黄金の剣」――なるほど、蛮族の王器には相応しかろうよ」
 左手一本とは信じがたい膂力が、徐々にセイバーの体を押し込んでいく。
 セイバーの背中を、冷たい汗が伝わりおちた。
 ギルガメッシュは恐るべき英雄王であるが剣士ではない。左手一本で剣士たるセイバーの一撃を凌ぐなど、出来るわけがないのに。
 ギルガメッシュが一歩踏み出した。逆に押し込まれ、セイバーの口から焦りの吐息が漏れる。
「その原型、我は既に持っているのだ。子が親に勝てる道理などあるかっ!」
 今手にしている剣がそれだと言うのか。セイバーは歯噛みしながら両の手に力を込めた。武器に劣っても斬り合いならば容易に凌駕しうる筈だった。だが現実は死の縁に踵が掛かってしまっている。それほどまでに、今の自分から魔力が失われているという事か。
 もはや一瞬たりとも力を抜く事が出来ない。受け流そうと刃を滑らせれば、その瞬間、ギルガメッシュの剣に両断されるだろう。
 技量を凌ぐ武器の差に勝利を確信し、ギルガメッシュの表情が残酷に歪む。
「諦めろ。堕したお前に何かを成す事など出来ぬ。原罪(メロダック)の痛みを身に刻み、闇に還れ」
 耐えるセイバーを押しつぶそうと、ギルガメッシュが体格を利用して圧し掛かる。じりじりと迫るメロダックの刃が、セイバーの額の皮を裂く。
 滴り落ちる血に視界が霞み、セイバーはきつく唇を噛み締める。
 負けるわけにはいかない。だが意志に体がついてこない歯がゆさに、セイバーは臍を噛む。
 勝てないというのか。目の前の敵に、力及ばぬと言うのか。
 セイバーの頭を、絶望の影が掠めた瞬間だった。
「何……?」
 驚愕の呻きを、ギルガメッシュが漏らす。
 剣の力でも、残した魔力でも圧倒的に差がある筈なのに。しかしカリバーンはギルガメッシュの圧力を撥ね退け、徐々に、だが確実にメロダックを押し返していた。
「うぬぅっ! 女、一体どのような小細工をっ!」
 憤怒の叫びを上げるギルガメッシュ。しかしセイバーが答えられるわけもない。既に剣は重みが変わった天秤のように、ギルガメッシュに向かって押し込まれている。
「な……ぜ……」
 迫る死を跳ね返したカリバーンに顔が映りこみ――セイバーは息を呑んだ。
 雪花石膏の肌。くすんだ金の髪。病的に赤い唇。
 そして眼前の英雄王を睨みつける――澄んだ、ヘイゼルの瞳。
 錆びた金の瞳が、穢れた自分の象徴ではなかったか。何故あの時と同じ瞳を、取り戻しているのか。
 そう思った瞬間、掌を焼く熱に、セイバーはその意味を悟る。
「そういう、事ですか……」
 彼女の口元に、小さな微笑が浮かんだ。それを見たギルガメッシュの表情が憤怒に変わる。
「愚弄するか女! この程度でお前の運命など変わらんぞっ」
「どうかな。確かに私一人では貴様に届かないかもしれない――」
 セイバーの言葉に、ギルガメッシュの怒りの表情に困惑が混ざる。それが次の瞬間、驚愕へと変わっていた。
「だが、貴様は一人で我らは二人だ。その差を己が身に刻めっ!」
 竜の咆哮だった。裂帛の気合と共にセイバーが、ギルガメッシュの剣を跳ね上げる。
 それは瞬きほどの時間。渾身の力を跳ね返されたギルガメッシュの動きが、この瞬間だけ零となる。それでも両手であれば。右腕を縛り付けていなければ。崩れた体勢を立て直す構えだけでも出来たかもしれない。
 だが現実に跳ね上げられた左腕の下、ギルガメッシュの半身は完全な無防備を晒していた。
「"勝利すべき――」
 セイバーの唇が、真名を紡ぐ。
 手にしているカリバーンは、本物ではない。取るに足らない一人の少年が、命と引き換えに生み出した贋作だ。だがそれゆえに、この剣には彼の思いが全て込められている。
 ―― いっしょに、戦うんだ。
 それは純粋にして単純な、唯一つの願い。セイバーが果たすことの出来なかった、あの夜の誓い。
 勝者は敗者の願いを越えて先へと進む。汲み取られるかどうかは問題ではない。だが敗者は敗者に成り果てた瞬間、勝者に願いを託すのだ。
 衛宮士郎を殺した罪。衛宮士郎を守れなかった罪。誓いを果たせなかった罪。幾重にも折り重ねられた罪の衣を、脱ぎ去ることなど出来はしないのだろう。
 だが士郎は、セイバーに全てを託した。だからセイバーは、彼と共に戦わなければならない。取り戻したヘイゼルはあの夜士郎が見た顔だ。今共に在るという、証なのだ。
 セイバーの視線が、ギルガメッシュのそれと交錯する。
 永遠とも思える一瞬。
「セ、ィバァァァァァッ!」
 英雄王の絶叫が響く。
 初めて彼女を剣と、敵と認めた瞬間を、
「"――黄金の剣"――!」
 黒き衣の騎士王が、渾身の一撃で斬り裂いた。









 奇妙な静寂が、大空洞を満たしている。
 聖杯の縁より溢れだしていた泥がいつの間にか止まっていた。
 洞穴の壁に背を預けて、セイバーは荒い息をつく。左手には士郎の心を。そして右手には半身たる聖剣を抱えたまま、彼女はじっと黒い繭を見つめていた。
 後一つ、仕事が残っている。
 今にも消えてしまいそうに儚く脆い体だが、それ位は出来る筈だった。例え受肉していようとも、彼女にとって魔力は命そのものだ。桜とのラインも、聖杯の加護も消えれば、魔力を使い果たしたセイバーに待っている未来は、消滅をおいて他にない。
 それでも、やると決めた。
 壁にカリバーンを立てかけて、セイバーはエクスカリバーを構えた。淡い微笑を浮かべて、彼女は魔力を解き放つ。
 刹那、黒き繭が震えた。
 自らの運命を悟った赤子の恐怖か抵抗か、聖杯の縁から伸びた影が無数の触手となり、セイバーに向かって襲い掛かった。
「くっ!」
 小さい舌打ちと共に飛び退る。泥を巻き上げ岩肌を砕き、影の鞭が唸りを上げて伸びていく。
 閃いたエクスカリバーが、影の先を切り裂いた。しかしその瞬間、分かたれた影は相首の蛇となり鎌首を擡げる。
 驚愕の叫びをしかし途中で飲み込み、セイバーは転びそうなほど身を倒して、その牙を交わした。だが次の瞬間、後ろから伸びた影が彼女の背中を打ち据える。
「が、ぁぁぁっ?!」
 大地に叩きつけられた彼女の体が、手毬のように二度三度弾んだ。泥を巻き上げながら転がった彼女の体が壁に叩きつけられようやく止まる。
 飛びそうになった意識をかき集め、口から血の塊を吐き出しながらセイバーは身を起こした。朦朧とする視界の中で、影の蛇が周りを取り囲んでいる事に気づく。
 繭の姿は見えない。蛇を全て切り払い進むには、魔力も体力も足りない。
「ここ、まで……ですか」
 追い詰められ、自嘲の笑みを浮かべるセイバー。
 眼前に広がる黒い絶望が、その瞬間霧散した。
「な……?」
 呆然とその様を見つめるセイバーの前で、無数の触手が撃ち砕かれている。或いは剣で、あるいは斧であるいは槍で、飛びかう数多の宝具が、影の蛇をことごとく滅ぼしていた。
「下郎が……無様を見せるな」
 不意に投げかけられた声にセイバーが振り向く。そこには両断され泥に飲まれていく英雄王が、顔を顰めて彼女を見上げていた。
「ギルガメッシュ……貴様、何故……」
「ふん、堕ちたお前がどうなろうと興味はない。だがな、お前は我を乗り越えたのだ」
 それは死にゆく者の顔ではなかった。巌のような視線で、ギルガメッシュはセイバーを射抜く。
「王を乗り越えた者が、あのような物に志を砕かれるなど虫唾が走る」
 忌々しげに舌打ちをし、ギルガメッシュは泥の中から腕を引き上げた。半ば解け崩れた指が、確かに黒い繭を指し示す。
「往け、セイバー」
 再び彼女の名を呼ぶ、彼の表情が一瞬、童のようにあどけない笑みを浮かべていた。
 ――貴様への礼だ。
 声にならない男の言葉に、頷きもせず、何も言葉にせず、セイバーは彼に背中を向けた。万の言葉も同情も、ギルガメッシュが望むものではありえない。
 王の誇りには誇りで。
 小さく息をついたセイバーは、エクスカリバーを上段に構えた。
 自らの手で聖杯を破壊すれば、もはや二度とサーヴァントとしてこの戦いに関わることはないのだろう。あの湖の辺に、戻れるのかも定かではない。堕ちた自分の還る先は、澱んだ暗いあの泥の中なのかもしれない。
 それでも、この穢れた手でも残せる物はある。
 桜や凛への未来を。そして――
「"約束された――"」
 真名と共に、剣が眩い光に包まれていく。
 頬を伝う熱い流れに、セイバーは気づいた。視界が潤んで見えるのは、魔力が尽きそうなせいだけではないらしい。
 ――見ていてくれましたか、シロウ。
「"勝利の剣"――!」
 聖剣から生み出された光が、澱んだ闇を弾き飛ばし、大空洞を白く染め上げていく。セイバーの叫びすらかき消して、轟音が洞穴を揺るがす。
 黒き繭、そして生れ落ちる筈だった赤子は、産声を上げる事無く黄金の光に両断され。 
 その瞬間、全ての力を使い果たしたセイバーは仰向けに崩れ落ちた。
 かすんだ視界に映るのは、崩れゆく大空洞の天蓋。
 そこに、見える筈のない者を彼女は見た。
 力強さを内に秘め、しかしまだ僅かに幼さの残る男の手が、自分に向かって差し伸ばされる。
 ”ありがとう、セイバー。お前のお陰で皆助かったんだな”
 白い朧に包まれて、その顔が見えない。しかし浮かんでいる表情など一つしかない筈だ。
「いえ、シロウ。私ではありません。私と貴方が、成し遂げたのですよ」
 指先一つ動かすことが出来なかった筈の右手に、熱が戻っていた。セイバーはゆっくりと、ゆっくりとその手を伸ばしていく。
 たとえ幻でも良い。消え行く自分の未練が映し出した夢でも良い。セイバーは少年の笑顔に答えるように、柔らかく微笑んだ。
「シロウ。剣は今ここに。鞘の元に還ります」
 呟き、目を閉じたセイバーの指先に、懐かしい温もりが確かに伝わっていた。






【Fin】



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