■ 月奏 サンプル2■







「――志貴さま、起きてらっしゃいますか?」
 開けられた窓から吹き込む、朝の爽やかな風を感じながら目を覚ます。
「そろそろお起きになりませんか? 秋葉さまもお待ちですし……」
 まだ覚醒しきっていないのか、翡翠の遠慮がちな声がいつにも増して遠くから聞こえる。
「わかった。起きるよ……」
 そう答えて体を起こし、眼鏡をかける。
「おはようございます」
「うん、おはよう」
 そして毎朝起こしてくれていることに対する、せめてもの感謝の気持ちを込めて翡翠の方へと顔を向けると――
 そこには誰もいなかった。
「え?」
 意味がわからなかった。一応目を逸らしてみてからもう一度見てみたが、やっぱりそこには誰もいない。
「……翡翠?」
 不安になってそう声をかけてみると、少し間はあいたけど答えが返ってきた。
「着替えはご用意させていただきましたので」
「うん、ありがとう……っていうか、なんで外に?」
 そう、部屋の外から。よく見てみると部屋の入り口の扉は少し開けられていて、翡翠はその向こうに立っているみたいだった。
「申し訳ありません、ちょっと今は志貴さまの前に出られるような状態ではなく」
「そうなの?」
「はい。本当に申し訳ないのですが」
 考えてみれば、翡翠は俺なんかとは違って忙しいのだ。休日だからといってだらだらとしているわけにはいかず、それだというのに主である俺は惰眠を貪り起こしに来るのを待っている。翡翠に対しては感謝の気持ちこそあれ、姿を見せないぐらいで責めたりすることなんてできるわけがない。
「うん、わかった。俺も着替えたらすぐに行くよ」
「もう少しゆっくりしていただいても」
「……うん?」
「いえ、なんでも」
 翡翠はそれでは、と一声残してから結局その姿を見せることなく去っていってしまった。
 少し様子がおかしかったような気もするけど、ここで考えていても始まらない。
 確かに着替えは用意されているし、サイドテーブルには冷えた水の入った水差しとグラスが置かれている。ここまでして貰って、それで文句を言えるほどこの遠野志貴の神経は図太くないのだ。というか、万が一にもそんなことをしてしまった場合にどんな目に会わされるかなんて、想像したくもない。
 もちろんその場合も翡翠が何かするというわけではなく、怖いのは秋葉と琥珀さんなわけなんだけど。
「よし」
 一つ大きく伸びをしてから冷たい水を飲み、目を覚ます。
 せっかく翡翠に起こして貰ったというのに、不必要にのんびりして秋葉の機嫌を損ねる必要はない。
 機嫌を損ねていなくてもそれはそれで小言めいたことを言われるだろうけど、それはもう日常の一風景というか――言ってみればお約束という奴だ。有彦あたりに知られたら変な目で見られるかも知れないが、それがこの遠野家でのなんの変哲もない朝の風景というものなのだ。
「それじゃ、行きますか」
 着替えを終えたところで何とはなしにそう呟いて、今日もいつもと変わらない日常を味わうために部屋から出るのであった。
 廊下には窓から心地よい朝日が――まだギリギリ朝日といっても許されるだろう光が降り注ぎ、心地よい空間を作り出している。
 綺麗に掃除された廊下は裸足で歩いても決して足の裏が汚れたりはしないし、逆に絨毯の感触が気持ちいいぐらいだろう。もちろんそんなことはしないけど。というか前に一度したら怒られたので、もうやらない。
 そんなどうでもいいことを考えながら廊下を進んで階段を下り、ロビーを通ってリビングへと向かう。
 そして出来る限り朗らかに、秋葉の機嫌を少しでもいいものにするために朝の挨拶をする。
「やっ、おはよう」
「おはようございます、志貴さん」
「おはようございます、兄さん」
 いつも通り笑顔の琥珀さんと、珍しく嫌みの一つも言わずに素直に挨拶を返してくる秋葉。
「……えっ?」
 うん、秋葉と琥珀さんだ。秋葉は俺と違っていつも早起きだし、琥珀さんもそれと同じくだ。だから俺が起きてくる時間には当然二人とも起きていて、ここにいることは俺だって予想していた。
 だがしかし。
「何ですか、兄さん。比較的早く起きてきたと思ったら間抜けな顔をして」
「あらあら志貴さん、まだ寝ぼけてらっしゃるんですか?」
「いや、その」
 秋葉の言う通り、今の俺はさぞかし間抜けな表情をしているのだろう。
 だって、今自分が置かれている状況が理解できないのだ。
 場所は我が家のリビング、目の前には秋葉と琥珀さん。なんてことのない朝の風景、それらを構成するものが眼前にあるんだけど――
 とうとう俺の眼か、ひょっとしたら脳がいかれてしまったのかもしれない。もとよりガタの来ていたこの体だ、何かちょっとした切っ掛けで異常をきたすことには慣れている。
 だけど、いくらなんでもこの状況は想定外だ。
「ほら、いつまでも突っ立っていないで座ったらどうですか?」
「それじゃあ朝ご飯の前にお茶でも用意しましょうか」
 何も変わった様子を見せず、いつも通りに振る舞う秋葉と琥珀さんが。
 二人揃ってYシャツ一枚しか着ていないなんて。





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