泡沫の夢




 はらり、はらりと舞う雪は、地につく前に湯気に巻かれ、風に流れて消えてゆく。
 薄白いカーテンを割り割いて、すっと差し伸べられた細い腕。たおやかに指が開かれて、その掌が儚く消えゆくその細工をふわりと受け止めた。
 雪の雫は一時形をその目に晒して、すぐに物言わぬ水の珠へとその姿を変えてしまう。
 幾度も幾度も。その様を眺めていた手の主が、陶然とため息を漏らす。
「これが雪なのですね。初めて見ました、宗一郎様」
「そうか、お前は見た事がなかったか」
 宗一郎と呼ばれた男は、岩壁に背を預け目を閉じたまま、そう呟いた。
 雪間に浮かぶ露天の泉。冷えた肌を温めるのにはややぬるい温度ではあったが、互いに寄り添いあう二人にとってそれは問題ではなかったかもしれない。
「ええ、とても綺麗ですね」
 もう一度、噛み締めるように女は呟く。
 キャスターとして現世に呼ばれ続けていた時も、メディアとして神の気まぐれに翻弄され続けた時も。このような景色を見る事はなかった。
 岩も、草も大地も。地を全て染め上げる白い、白いカーペット。
 自分が目にするには、あまりにも綺麗過ぎる光景。
 隣で湯を浴む男は、こうしている時も表情を変えることは無い。しかし突き放す事もなく、ただ、彼女の傍に居てくれていた。
 その事が、彼女の心を安らげててくれていた。それが、どうしようもなく嬉しかった。
 彼女は腕を伸ばして男の身にしなだれかかると、そっとその耳に囁きかけた。
「ごめんなさい、宗一郎様。あなたを、このような所に連れてきてしまって」
 彼と共にある事は、彼女にとって例えようも無い幸せであった。
 そしてそれゆえに、彼の歩むべき道を狂わせた悔恨が、どうしもうもなく彼女の心に巣食っている。
 ――私のマスターになどならなければ。
 憂いと悔恨を込めた言葉。しかしそれは、どうしても口に出す事が出来ない。
 彼にはなじり、罵る権利がある。でも、彼にだけはそれをされたくなかった。
 引き裂かれた心のまま、彼女は男にしがみつく。回した腕に力を込めて、離れたくないという思いを身で表すかのように。
 しかしそれに対する応えは、簡潔極まるものであった。
「何故謝る。お前の願いは叶えると言った」
 視線を合わせることは無い。声の調子が変わることも無い。
 ただ、淡々と彼は己が思うことを口にするのみ。
  心をくすぐるような美辞麗句ではない。
 体を熱くするような視線も無い。
 しかしそれこそが何よりも男の本心であると分かったから、彼女は目を閉じて、宗一郎の肩を抱く手に顔を埋めた。
「ありがとう、ございます……」
 それより先は言葉にならない。ただ心に突き上げた暖かい思いに突き動かされるまま、彼女は声を上げて泣きじゃくった。
 彼はそれを止める事も無く、ただ静かに肩を貸し続けていた。


「お恥ずかしい所を」
 頬を赤らめ、涙に赤く染まった眼をぬぐった彼女は、その口元に柔らかい微笑を浮かべる。
 そのまますっと腰を浮かせ宗一郎の頭に手を回すと、硬く引き締められたその唇に、自らの濡れた唇を重ね合わせた。
「愛しています、宗一郎様」
 彼が応える事は無い。それが分かっているかのように、彼女は想いを声に繋げ続ける。
「あの場で言う事は出来ませんでした。あのまま寄り添う事は出来ませんでした。ですが今、私はこうしてあなたの傍に居る事が出来る」
 一度離した桜のような唇をわななかせ、彼女は再び男に口付けた。
 先ほどの軽い口付けとは違う。身の内より沸き起こる情熱に突き動かされるまま、男の唇を吸い求める。
「だから今はそれに甘えます。それに付き合ってくださった宗一郎様に、甘えてさせてください」
 たとえ返事をもらえなくても、そう言わずにはいられなかった。
 唇を離し、荒い息を付きながらそう呟いた彼女の耳に、思いもしなかった声が届いた。
「あの場で死して朽ちた筈の身だ。お前と共にここに在るのも悪くはない」
 そう呟いた宗一郎は、そっとキャスターの背に腕を回した。 ほっそりとしたその裸身を、自らの胸に引き寄せる。
「え……」
 予想もしていなかった宗一郎の行動に、思わず彼女の動きが固まってしまった。
 温かい。
 彼の腕が温かいのは、決して場所のためだけではないだろう。
「そういちろう、さま」
「戯れだ。嫌ならばもう……」
 最後まで言わせる事は無かった。
 三度目の口付け。先ほどと違うのは、朴訥ながらも男も求めに応じてきた事。
 荒々しいその舌の動きに陶然となりながら、彼女は男の頭を引き寄せ自らの舌に思いを込め、応え続けた。


 ――それは死したる魂の集う地が見せた、泡沫の夢。
 しかし生きとし時も、死して走狗となりし時も夢を見る事の叶わなかった女にとって、それは奇跡。
 聖杯ですらも叶える事の出来ない夢であった。






 バルハラ温泉にて。きゃすたーさんと宗一郎。
 この二人は、こうして人目をはばからずいちゃついてる姿が似合う気がするのです。
 現世では叶うことのありません夢でしたが、せめてこちらでなら良いのではないかと。