■ きゃっと☆ぱにっく ■





/1 鮮花の場合



  朝、目が覚めたら猫になっていた。

いや、何を言っているのかと自分でも思う。思わずにはいられない。いられないんだけど、脱衣場の鏡に映る自分の姿はどこをどう見ても一匹の黒猫だった。
 最初は自分がまだ寝てるのかと思ったけど、足や手に伝わる感触は異常にリアルすぎる。時折夢の中で自由に動き回れる事があるのだけど、その時だって暑さや寒さや匂いと言うものは感じられなかった。でも今はしっかりと掌や足にホーローの洗面台の冷たさが伝わってくるし、事務所に染み付いたコーヒーと煙草の匂いも感じられる。
 何より、掌にぷにぷにと柔らかい肉の塊がついている。洗面台に押し付けると妙に心地いいのが、なんとも切ないんだけど。
 そんなわけで目の前に聳え立つ鏡の向こう側では、一匹の黒猫が所在なさげに視線を右へ左へと彷徨わせている。悲しむべき事に、それは僕の目の動きと完全に一致しているのですが。ご丁寧に左目が開かないのまで再現されているし。
 ……そもそも、そこに至るまでに洗面台によじ登らなければいけなかった時点でいろいろとアレだったけどさ。
 嗚呼、寝る子は育つと言うけれど。
 不肖この黒桐幹也、とうとう人間から猫にまで成長してしまったらしいです。
「いやおかしいよそれってっ!?」
 思い切り叫んだ筈の自分の声は、切なげな「にゃー」と言う鳴き声に変わっていた。何というか、口を出る瞬間までは思ったとおりの言葉なのに、聞こえるのが猫の鳴き声というこの状況がシュールすぎる。
 そうじゃなければいいなぁと思ってたけど、どうやら僕は皆に助けを求める事も出来そうにないらしい。
「って、どうすればいいのさ!」
 にゃーにゃーと響く自分の声は聞かなかった事にしておきたい。
 これでも、橙子さんの元で働き出してから不思議な体験を重ねてきたつもりだ。つい最近は死ぬような目にもあったし、その代償として僕の左目はもう世界を見ることが出来ない。不便じゃないと言えば嘘になるけど、後悔があるかといわれれば、胸を張ってノーだと言える。我ながら頼りない背中だけど、式の分の罪を背負うと決めた、証なのだから。
 でも、こんな体で一体どうしろというのか。
 式は女の子だし軽いけど、これじゃ流石に支えられない。せめて猫ではなく犬だったら。いや、でもセントバーナードでも人間の体を背負える構造はしていないと聞いたような。
 いや待て。落ち着くんだ僕。考える方向が違うだろうそれは。
 とにかく、誰かにこの状況を伝えないと。でも僕のこの異常を一体どうやって伝えればいいのか。
 ただ声が出ないだけなら、いくらでも手段はある。手っ取り早いのは筆談だ。同じ日本人なのだから、文字を見ればわかってもらえる文化は素晴らしい。
 でもそれは人間同士の場合に限られる。
 鏡の中で黒猫が、軽く持ち上げた自分の右の前足を見つめてる。目に映る肉球と、その先にちょこんと付いた短い指。ああ、本当に爪の出し入れできるんだなぁ。不思議だなぁ、猫の手って。でもどこからどう見てもどんなに頑張っても鉛筆を持つようには出来ていないよね。
 どうすればいいんだろう。
 橙子さんなら、一目見れば僕の正体を見抜いてくれるだろうか。
 何せあの人は魔術師なのだ。それも大勢の観客の前でマークされたトランプの在りかを当てたりするのではなく、どちらかと言えばとんがり帽子に黒いマントをたなびかせて、箒に乗って空を飛ぶのが似合いそうな方。
 洗面台から飛び降りた僕は、応接間に向かおうとして、そしてふと足を止めた。
 ――もしこの犯人が橙子さんだったら?
 なにせあの人は魔術師なのだ。
 そもそも彼女の昔の同僚だという赤い人に殺されかけた身としては、無条件に橙子さんが白だとは思えない。魔術師は身内に甘いと橙子さんはよく口にするけれど、本当にそうなら僕の給料何ヶ月も飛ばされたりしないと思うし。
 いや、甘いことは間違いないだろうし、悪意があってこんな事をする人じゃないとは思う。給料がすっ飛ばされるのもやむにやまれぬ事情の場合が多いのだけど。
 でもなあ。面白そうだと思えばこんな事をしかねない人ではあるんだよなぁ。
「ははは、すまんな幹也。とんでもない掘り出し物が出ていたので仕方なくな」とかのたまって、目の前に不気味なブレスレットが置かれた時は、さすがに途方にくれたっけ。あれ、それってつい最近の事じゃなかったっけ?
 だめだ。頼らなければいけないはずなんだけど、なんというか、こう、頼りたくない。
「……でもなあ。一体どうすればいいんだろうなぁ」
 にゃー。
 ああ、ちゃんと猫の声も落ち込むと暗くなるんだなぁ。
 どっと沸いて出た疲れに押し流されて、壁にもたれかかった僕の耳に、その声が聞こえてきた。
「兄さん? 橙子さん? 居ないんですか?」
 聞きなれた少女の声が、事務所の方から響いている
「鮮花?」
 思わずつぶやいた僕の声も、割と静かなこの場所では、思ったより大きく響いて。
「え、猫?」
 そんな声と共に、パタパタと足音が、こちらに向かって近づいてくる。
 ど、どうしよう。
 こんな姿を妹に見られるのは兄として! 兄として!
 慌てふためいたまま思わず脱衣場に舞い戻ったのだけど、何せ狭い事務所でしかもこの場所は行き止まりである。
 曇りガラスのはまった窓は、換気のためにわずかに開いている。この体なら何とかよじ登って、すり抜けられそうなくらいの隙間に見える。
 でもなあ。
 ずいぶんと小さくなってしまった僕の口から、消え入りそうなため息が漏れた。
 この伽藍の堂は、橙子さんが建築途中の廃ビルを買い取って使っているものだ。一階は倉庫で二階と三階は橙子さんの作業場。
 つまりはまあ。
「……さすがにビルの四階から落ちたら、猫でも死んじゃうよね」
「あーっ!」
 肩を落とした僕の背中に、甲高い声が重なった。
 恐る恐る振り返ると、グレイのロングスカートに赤紫のベストを身に着けた長い黒髪の少女が肩を震わせて僕を見つめている。言うまでもなく、僕の妹であるところの黒桐鮮花である。
「や……やあ、鮮花」
 声を掛けては見たところ、通じたとはとても思えない。何せ普段見た事がないくらい血走った目で、きっとこちらを睨みつけているではないか。
 あれ? 鮮花って、猫が嫌いだったっけ……?
 身の危険が具現化したような状態の妹から目を背けて、僕は右を見た。洗面台がある。飛び乗って壁伝いに逃げ出すには、猫生活一時間にも満たない僕ではなんともかんとも。左側はシャワールームに通じる扉があるけど、無情にもガラス戸は硬く閉ざされている。付け加えるならば、そこに飛び込んでもさらに追い詰められるだけなんだけど。
 そして唯一の入り口には猫が嫌いだったらしい我が妹が、鬼神のごとく目を血走らせながら荒い息をついてにへらにへらととろけきった表情で……え?
「きゃー、きゃー! かわいーっ!」
 ものすごい勢いで伸ばされた彼女の手が、がっしりと僕の体を押さえつける。
「あ、鮮花ぁっ!?」
 思わず叫んで身をよじって逃げ出そうとしたけど、巧みに押さえ込まれて背中をお腹を撫で回される。
「いや、待って。待って鮮花! くすぐったいっ! くすぐったいからっ!」
「ねこちゃーん、いったいどこから入ってきたのかにゃー?」
 兄の必死の訴えも、ニャーニャーという泣き声では妹に通じてくれないらしい。
 うん、というかものすごく恥ずかしいんですが。
 顔から火が出そう。絵図を思い浮かべたら死にそうになる。だってそうだろう。子供のように相好を崩した妹に寄り添って、兄貴が裸で寝そべって背中とか腹とかなでられてるってどうなのか。
 でも悲しい事に、猫の本能なのか何なのか。むやみやたらと気持ちがよくて、手や足から力が抜けてしまう。逃げ出したいのは山々なんだけど、どうにもそれが果たせない。
 ああ、人間に撫でられてる猫ってこんな気持ちなんですね。
「んー、気持ちいいんですかー?」
 そんな姿を全面的幸福と見て取ったのか、鮮花はついに両の手で僕の顎の下までまさぐりだしたーっ!?
「いや、やめろ、やめてくれって鮮花!」
「ふふ、ごろごろと喉まで鳴らしちゃって。そんな切なげな声を出してー。気持ちよさそうですねー猫ちゃん?」
 いやそれはあくまでこの体の反応なんですが。でも気持ちよすぎて兄として本当にだめになりそうなので勘弁してーっ!?
「ふふふ? ここかにゃー? ここがいいのかにゃー?」
「や、やめ、そこはだめだ。しっぽのつけねとか、アッー!」


 ……二つわかった事があった。
 我が妹はかなり全力で猫派所属であったこと。
 そして、多聞に漏れず、猫を可愛がる猫派の人間は容赦がないということ。
 ……僕、僕もう、お婿にいけないかもしれません。



「でも本当、どこから入ってきたのかしら、君は」
 事務所のソファに腰を下ろした鮮花が、小首をかしげて呟いた。疑問の対象であるところの僕は、妹の膝の上でおとなしく座り込んでいる。
 ……いや、逃げたいのは山々です。でもゆるく抱いてるように見せかけて、鮮花のやつってばがっちり僕の背中を押さえ込んでます。絶対逃がすもんかという固い意志をひしひしと感じます。そんな感情を兄にも猫にも向けないでほしいです本当に。
「ここって、野良猫がほいほい入ってこられるような場所じゃないと思ったのに」
「うん、その疑問はとてもいい所ついてるから。だからまずは橙子さんをね」
 頼りたくないと思っていたけど、この新手の拷問から逃げ出せるならもう何でもいいや。
 何とか彼女を呼んでくる事に思いを巡らせてもらえないだろうか。そんな僕の願いはやっぱりにゃーにゃーとしか音にはならず。
「まあいいか。猫ちゃん可愛いしねー」
 獲物を見定めた猫派にはやっぱり通じませんでした。
 しかしそうなると、僕はこのまま橙子さんが起きてくるまで鮮花の膝の上なんでしょうか。それはそれで何かと困るんです。何が困るって、生地の薄いスカート越しに伝わるわが妹の太ももの感触とか熱とかが妙にやわらかくてぬくといから。
 ……なんでこの年になって妹に膝枕というか、膝の上で寝かしつけられる羽目になってるんでしょうか。
 学人のやつには「お前あんなにかわいい妹さんがいるとか、うらやましいなぁ」とか何度も言われたけど、どうも妹のいない人間は大きな誤解を抱いている気がしてならない。鮮花は確かに可愛いけど妹なのだ。出来損ないだけど兄である身としては、ある程度の威厳というか立場を保っておきたい相手だし、そうなるとこの状況は非常によろしくない事この上ない。
 まあ、それだけ今の僕が完璧に猫になってしまっているという事なんだろうけど。
 でもなあ。そもそもなんで猫なんだろう。
 心当たりというものがまったく思い浮かばないんだけど。
「あれ、君ひょっとして……?」
 あてどなくめぐらしていた僕の考えは、しかし横槍を入れられてしまった。不意に体重が無くなる感覚とともに、体が持ち上げられる。
「うわっ!?」
 思わずじたばたと体を振った僕の前に、目を寄せてこちらをじっと見つめる鮮花の顔がある。
「やっぱり。左目が見えてないんだ」
 心配そうな顔で、鮮花がゆっくりと僕の左の瞼の辺りをなぞる。僕は動く事もできずに、彼女のなすがまま。
 縮尺が変わりすぎてしまったのでものすごく大きく見えるのもあるけど、こんなに間近に妹の顔を見た記憶がなかった。何より、こんな表情の妹を見た記憶があまりなかったから。
 伽藍の堂に出入りするようになって、鮮花は怒った表情が増えてしまっていた。それだけ式と相性が悪いって言う事なんだろう。いつかはもう少し仲良くなってもらいたいけれど、果たして僕が口を出して何とかなるだろうか。そもそも魔術の勉強などという物を止めてくれるのが一番なんだけど。
 そんな僕の思いなど気づく様子もなく、鮮花は僕の体を抱き上げながら、しきりに頷いている。
「ん、真っ黒な毛並みもそっくりだしね。決めたわ」
「うん?」
「今日から君の名前はミキヤよ! 決定!」
「…………え?」
 寄せられていた眉が緩んで、鮮花の表情はさわやかな笑顔に変わっていた。
「何とか叔父さん説得できればいいんだけど……それまでは橙子さんに何とかお願いするしかないかな。でも、その手の事に疎そうだし」
「いや、その。鮮花……?」
「おー、君もどうやら気に入ってくれたみたいね! 良かった」
「いやおかしいから。よりにもよって猫に兄の名前とかそれどんな新手のいじめなのさっ!」
 しかもどう考えても間違ってるのに、どうにも逃れようがなく正しい名前だって言うのが救われない。
 妹のセンスの斜め上振りを嘆けばいいのだろうか。そんなものに刺し貫かれてしまった自分の不運を嘆けばいいんだろうか。
「ひょっとして、気づいてるのか? 僕だってことに気づいてるんだろお前!」
「ん、どうしたのかなミキヤ?」
 小首を傾げる鮮花の様子を見て、僕はがっくりうなだれた。
「なぁに? そんなにしょんぼりして。実はミキヤって名前嫌なのかしら?」
 いや嫌じゃないんだけど、ものすごく困るだけなんだけどね。
 そもそも見知らぬ猫に兄の名前をつけるとか、お前の中で僕の扱いというのは一体どうなっているんだ。
 問い詰めたい思いは山々なんだけど、何せそれを伝える手段がないのが恨めしい。それにそろそろ宙ぶらりんのこの体勢もつらくなってきてるんだけど。
 何とか身をよじって逃れようとしてみても、鮮花の手は相変わらずがっちり僕の体を確保している。
「ああ、ごめんごめん。痛かったねー?」
 でも気づいてくれたのだろうか。鮮花はすぐに僕の体を自分の膝の上に戻してくれた。いや、それはそれでどうかと思うんですけどね。
「でもね、ミキヤ」
 鮮花の手が、また僕の背中をなでおろす。
「この名前、とっても大事な名前なのよ?」
 不意に雰囲気の変わった鮮花の声に、僕は身を固くした。
 さっきまでの正に猫なで声とはうって変わって、ゆっくりと、しみこませるような呟き。家族の話を僕とする時とかの雰囲気に近い。
 今の姿勢だと、鮮花の顔は見えない。ちょっと頭をよじって見上げれば見えるかもしれないけど、なぜかそれをする事が憚られた。
「ミキヤっていうのはね、わたしの一番大切な人の名前なんだから」
 ……猫に語りかけているのだとはわかっているつもりだけど、やっぱり居心地が悪い。
 兄として妹に大事に思われているのはそりゃ悪い気持ちはしないけど、大学を勝手に辞めたり親と大喧嘩をした不良息子としては、あまり目標とかにされても困る。
 だからまあ、「一番」なんてご大層な修飾は取っ払ってもらいたいんだけどなぁ。
 小さくため息をついて、僕は身を丸めた。
「そうよ。わたしの一番大切な人よ」
 気のせいだろうか。
 なんだか背中を撫で下ろしている鮮花の手に、力が篭っている気がする。
「あんな男女に……あんなつるぺたニートに負けてたまるもんですかっ!」
 ……もしもし、鮮花さんや?
「大体兄さんも兄さんよ。死にかけたのよ!? 左目なんかもう見えなくなって、それでもあんな女についていくっていったいどんな了見よ!」
 ……返す言葉もございません。いや返したくてもニャーとしか聞えないだろうけど。
 でも僕はこうして無事に生きているし、式は僕のためにもう自分を背負えなくなってしまった。だから僕が式を背負うのは至極当然の結論なわけで、こればっかりは何度鮮花に言われてもーっ!?
 ぐいと背中に力をこめられて、僕は思わず悲鳴を上げた。
「聞いてるの、ミキヤ? 大事な話なんだからねっ!」
「みゃーっ!?」
 聞いてる! 聞いてるからとりあえずその手の力を緩めてほしいんだけどっ!
 痛みに耐えかねじたばたしたけど、どうしても逃げられない。ひょっとして変な魔術でも使われてるんじゃないかって思うくらいに。
「隙あれば礼(う)園(ち)の備品のナイフまで持ち出すくらいに手癖が悪いし! 何かにつけオレオレと、口が悪いったらないし!」
 いや後ろの方はちゃんと理由があるんだよ鮮花。話したら式に怒られるし前者には弁護の余地がないんだけど。というかそんな事してたのか式。君押しも押されぬお嬢様だろうに。
 でもそれはそれとして頼むから鮮花、手を緩めて……
「どうして兄さんはあんな女の方ばかり……」
 ようやく押さえつけてきていた手の力が緩むのが感じられる。代わりに体が浮き上がる感覚に包まれる。どうやらまた鮮花に抱えあげられたらしい。
 空気が重い。居慣れた事務所の中が、まるで初めて足を踏み入れた営業先のようだった。雑然として足の踏み場もないと思っていた場所なのに、どれもこれも遠くに感じる。それは僕の体が小さくなったからだけじゃないはずだ。
「いい、ミキヤ。しっかり聞いておきなさい」
 再びアップで鮮花の顔が迫る。さっきよりもさらに近い。お互いの鼻の頭が引っ付きそうなくらいだ。不機嫌そうに眉を寄せている。いや、違う。これは真剣な時の鮮花の癖だ。
 背中を冷たい物が走り抜けた。聞いてはいけない。これは多分僕が耳にしちゃだめな事だ。
 そんな気がとてもするんだけど、この手では耳をふさぐ事ができない。何の意味もない事だけど固く目を閉じるしかない。今のこの妹の顔を、じっと見ていられる度胸がなかった。
 誰か、助けてくれ。
 神様に祈る習慣なんかないけど、今だけはたとえ藁にだって縋ってみせる。縋らせてください本当に。
「君の名前の主の事をね、わたしは……」
 くぅー。 
 ――唐突だった。
 何の前触れもなく、軽く情けない音を立てたのは僕のお腹だった。一瞬言葉を失い、目を丸くした鮮花だったが、すぐに我に返って大声で笑い出す。
「何? 君、そんなにお腹すいてたの?」
 どうやらそうみたいです。
 目じりに涙を浮かべて笑っている鮮花から、そっと目をそむけた。数秒前までの重苦しい空気が完全に吹き飛んで、いつもの雰囲気が戻って来てくれたのはありがたいけど。でも他に何か方法はなかったんですか神様。
 今だけは。今だけは、顔がこんな黒い毛で覆われていて良かったと思う。今の僕は間違いなく耳の先まで真っ赤になってる気がするから。
「ちょっと待っててね、ミキヤ。今ミルク探してくるから」
 喜色満面のまま、鮮花は僕をソファの上に戻して立ち上がると、台所の方に向かって歩き出した。その背中を見送って、僕は深い深いため息をついた。
 逃げ出すなら今かもしれない。もう一度先ほどのような目にあったら、もうどうにもできないし。
 一瞬思い浮かんだその考えを、しかし頭を振って追い払った。
 たとえば監禁されてて、犯人が隙を見せたとかそういう状況なら何の迷いもなく逃げられるけど。なにせ今僕がこのまま逃げ出したら、この先ずっと猫としての道を歩んでいかなければいけないのだ。
 道端をのんびり歩いたり寝そべったりしている猫を見て、気楽でいいなぁと思う事は良くある。でもそれは人間が自分勝手に旗から見ているだけのせいだ。猫には猫の命がけの生活があるはずで、一朝一夕でそんなものを見つけ出す自信はない。
 最悪……考えたくはないけれど、本当に最悪、そのスキルは必要になるのかもしれない。でも今はまだ! 今はまだ!
 再び小さく鳴ったお腹の音に、僕はがっくりとソファの上に崩れ落ちた。
 ……一応つい昨日まで人間をやっていた身としては、ネズミを生で捕まえて齧るのは最後の手段にしたいのである。










■ 間章 1



 初夏に入りかけた日差しが降り注ぐ道を、浅上藤乃はゆっくりと歩いていた。行き交う人々の口からはしきりに「暑い」という言葉があふれ、頬や首元を拭うしぐさが見受けられる。
 日傘の端からのぞく抜ける様な青い空と太陽を仰ぎ見て、彼女は小さく息をついた。どうやら今日は、過ごし難いほどに暑いらしい。
 藤乃の体は暑さを感じる事が出来にくい。寒さも、風がそよぎ肌を撫でていく様も感じ取る事が困難だ。痛みを感じ取る事ができない彼女は、ともすれば在る筈の世界から切り離されている錯覚を覚える事がある。
 それは、治療がうまくいっているという証でもあるのだが。
 週一回の通院。今の彼女の生活の中で、外界の空気に触れるのはこの瞬間だけだった。他の時間は礼園の寮か、実家の人間に与えられたアパートか。そのどちらかに息を潜めて暮らしている。
 藤乃は足を止めて、辺りを見回した。せわしなく行き交う人々は、彼女の存在が無いかのように、足を止めることなく通り過ぎていく。
 藤乃の口から、小さなため息が漏れた。彼らは決して気づく事がないのだろう。今こうして歩道にたたずむ少女が、七人もの男の命を奪った殺人鬼だという事を。
 無残に凶げ折られた男たちの手足や首の感触が、藤乃の中には今も焼きついている。自らの手で捻りきったわけではない。しかし耐え難い腹部の痛みとともに取り戻していた力は藤乃自身にも消せない傷跡を残していた。
 今のこの社会では、藤乃を裁く事はできない。しかしそれは許されるという事を意味してはいないのだ。自らの命をもって償う事も許されない。降ろす事のできない荷物を背負い、生き続けなければいけない。皮膚ではなく、心で感じるその痛みを。苦しみを。
「わたしは、受け入れられるようになったのでしょうか」
 呟く藤乃の言葉を聞くものは誰もいない。小さくため息をついて、再び彼女は歩き始めた。
 通院先の医師は、人間の出来ている相手だと藤乃は思う。たとえ内心でどう思っていようと、包み隠さずかたる彼女の言葉を、すべて受け入れ真摯に耳を傾けてくれている。いずれは、こうして外を出歩く事もできなくなるのかもしれない。心に癒えぬ傷を負っているとみなされ、終わりのない治療を受け続ける事になるのかもしれない。
 それでも、痛みは人に訴えるものだと教わったのだ。
 あの時から久しく顔を合わせる事のない、黒髪の青年の顔が藤乃の頭の中に思い浮かんだ。
 恋だったのだろうか。幾度か自分に問いかけた答えは、やはり今も得られる事はなかった。
 その人の事を思えば切なさに胸が押しつぶされそうになる。その人を手に入れるためならば、他の何を失っても惜しくはない。友人が彼女に表現した「恋」という感情が、藤乃には半分ほどしか当てはまらなかったか。心の奥底に感じる疼きはおそらく前者なのだろうが、そのために大切な友人を失うのは避けたいと思ってしまう。
 ただ、会って話がしてみたい。そう思うのもまた確かだった。
「あら……?」
 耳に届く喧騒が遠ざかるのを感じて、藤乃は我に返った。
 日傘をたたんで左右を見回してみるが、見覚えのない景色が広がっている。
 小さな町として機能する事を見込まれた住宅街なのだろう。そびえる数階建てのマンション棟とテナントビルが大地に影を伸ばし、藤乃を飲み込んでいる。無秩序にベランダに干された布団や洗濯物が人の存在を主張しているが、まばらなその数が見る者に不安を呼び起こさせる。寂れて色を失っていく世界を思い起こさせるその光景に、藤乃は体を縮こまらせた。
 考え事をして歩いているうちに、どこかで道を間違えてしまったらしい。小さく頭を振って、彼女が元来た方向へ足を向けたその時だ。
「え……?」
 ビルとビルの間の、人が二人並んでは通り抜けられないくらいの空間だった。重なり合う影が作り出す昼間の闇の中に消えていく人影が、藤乃の中で記憶の人物とおぼろげに重なっていく。
 吸い込まれるようにして、藤乃はそちらに向かって歩き出す。
 仰ぎ見れば、掴めそうなほどに近かった今日の空が遠い。そびえるコンクリートの壁に挟まれた空間が、少年たちを追い込み、そして殺していった風景と重なり、藤乃の足に鉛のようにまとわりつく。
 後ろから誰かが来る気配はなかった。しかし不埒な輩がもし迫ってきた場合、この場所では他に逃げる隙間もない。その事に思い至った藤乃が、思わず足を止めた時、
「幹也さん!」
 地べたに座り込むその姿をついに見つけだし、藤乃は声を上げた。
 かつて互いに名前も知らないままであった時のように、黒一色の服装に青年は身を包んでいた。やさしげな雰囲気をいや増す眼鏡も変わらず、しかし左目を覆うように前髪は長く伸びている。
 だらしなく地べたに座り込んで、幹也は無邪気な笑顔を浮かべていた。雨に濡れる自分を包み込んでくれたものとは違う、本当に童のような表情。記憶の中の姿とのずれに、藤乃は小さく眉を寄せる。
「幹也さん! どうしたんですかこんな所で」
 もう一度藤乃は呼びかけた。しかし彼女の声に反応するそぶりも見せず、幹也の視線は自分の足元のあたりに向けられたままだった。
 よく見れば彼の右手もそのあたりに伸び、、何やら熱心に動かし続けている
「……幹也、さん?」
 小首をかしげてそちらの方に視線を向けた藤乃は、そこで行われている事を認識して。
「きゃぁぁぁぁぁっ!?」
 自分の記憶にないくらいの大声で、彼女は悲鳴を上げたのだった。










/2 式と鮮花の場合



 何だろう。
 全身を走りぬけた悪寒に僕は体を震わせた。
 何故かはわからないけど、ものすごくいやな予感がしたのだ。自分の尊厳とか存在意義とかそういうのが揺らぐぐらいの大ピンチが迫ってるんじゃないかなとか。いやまったく根拠はないんだけど。
 もう一度体を震わせて、僕は視線を前に戻した。
 虫の知らせもものすごく気になるんだけど、問題は目の前にも広がっているのである。
 底の浅いトレイにミルクが注がれて、床に置かれている。先ほど盛大に鳴り響いた僕のお腹の音に対する、鮮花の回答がこれだった。
 軽く温めてくれたのだろう。独特の匂いが鼻先をくすぐって、食欲を刺激してくださる事この上ない。普段はそんなに牛乳好きなわけじゃないんだけど、体に引きずられているのだろうか。ものすごく美味しそうに見えてしょうがない。
 いや嬉しいんだけど。嬉しいんだけどね、鮮花。
「お代わりもあるからね? たくさん食べなさいねー、ミキヤ」
 ソファの上から楽しそうな鮮花の声が降ってくる。上を見上げなくてもわかる。さぞ興味津々の表情で僕の食事風景を眺めているに違いない。
 鮮花からすれば、可愛い(らしい)お腹を空かせた黒猫がミルクを目の前にして舞い上がっているように見えるのだろう。でも待ってほしい。僕からすると、妹の前で裸で四つんばいになって床に置かれたミルクを舐める訳である。
 ……これっていったいどんな倒錯プレイなんでしょうか?
 というか、そうなのだ。裸なのだ!
 猫の普段の気持ちはわからないし、見られてるのは猫の体なのはわかってるんだけど、でも中身の意識は人間で、そしてヌーディスト嗜好は欠片もないのですが僕には。
「いや本当、誰か助けて……」
 そんな魂の叫びもにゃーにゃーでは締まらない事この上ないです。
 逃げ出したい。今すぐここから脇目も振らずに走り去ってしまいたい。
 でも悲しいかな、食欲に引きづられたこの体は、梃子でも動いてくれません。というか目の前の白い液体が、何にも代えがたいご馳走に見えてきてしまいました。
 皿の前に座り込んだ僕は、そっと舌を伸ばして、ミルクを舐める。
 甘みが舌先から、ゆっくりと全身に染み渡っていくようだった。猫に味覚はあまりないと聞いた事があるけど、これは僕の記憶と意識が感じているという事なんだろうか。
 もう止まらない。ぴちゃぴちゃと音を立てて、僕は一心不乱に皿の中のミルクを舐め続ける。
「うん、やっぱりお腹減ってたんだね。そんなに美味しそうにして」
 上からは楽しそうな鮮花の声が聞こえる。ちらりと視線を向けると、本当に幸せそうな笑顔で僕のところを見つめてる。
 うん、鮮花。お前はそういう顔がとても似合うと思うんだけど、実は今、裸で四つんばいの兄貴の食事風景を……
 いや、止めよう。これ以上考え始めると本当にどつぼにはまってしまいそう。
 しかし、もし鮮花が後で真実を知ったらいったいどんな反応するんだろう。文字通り猫っ可愛がりしていたのが実は兄貴だったとか。ものすごく怒り出しそうな気がする。そしてその矛先がきっと僕に向くのだ。
 理不尽だよなぁ。
 ため息をついて、僕は目の前の皿に意識を戻した。今はとりあえずお腹を満たす事だけを考えよう。空腹じゃろくなアイデアも浮かばない事は残念ながら何度も経験済みなのだ。決してミルクの魅力に全面降伏したわけではない。ないったらない。
 断固たる決意で視線を皿に戻したその時だった。
 背後から規則正しい足音が聞こえてくると、鮮花があわててソファの上で向きを変えたのが伝わってきた。つられて視線を上げると、先ほどまでの笑顔はどこへやら、眉をひそめた鮮花が入り口の方を見つめている。
「……何しにきたのよ、式」
 え、式?
 鮮花の言葉に振り返ったけど、ソファが陰になって見えやしない。仕方がないので、ソファの上に飛び上がって入り口の方を見た。
 浅葱色の着物の上に赤い革ジャンを羽織り、不機嫌そうに口元を歪めている少女が立っている。見ようによっては少年のようにも見えるその顔立ちを、僕が見間違える筈もない。
「……お早うでもこんにちわでもいいんだけどな。せめて挨拶くらいはしようぜ、鮮花」
「する相手は選ぶ事にしてるんです。残念ながらあなたはそこに入ってないのよ、式」
「は、相変わらずだな、お前は」
 肩をすくめた式が、のしのしとこちらに近づいてくる。
「ちょっと、何でこっちにくるのよ」
「ソファがそこにしかないんだから仕方ないだろ。そもそも俺はトウコに呼ばれてきてるんだ。お前みたいに暇に飽かせて怪しげな魔術の勉強してるのとは違う」
「ニートに片足突っ込んでる不良娘がよく言うわ。それにその場所はミキヤの先約です」
「は?」
 鮮花の言葉に怪訝そうに眉をひそめた式が、ソファの上に視線を向けてきて。
 そして僕としっかり目が合った。
「……なんだ、お前?」
 幹也です。不本意きわまる事に鮮花の紹介してくれたとおり。
 しょんぼり答えてみたけれど、多分伝わったとは思えない。それが証拠に式は訝しげな顔のまま、無造作に僕に向かって手を伸ばしてくると、そのまま首筋を摘みあげられた。
 って式、そんな持ち方は止めて欲しいんだけどっ!
「ちょっと式! 乱暴なまねはしないで」
「何だよ、猫なんだからこうやって持つの当たり前だろ?」
「しっかり体支えてあげなさいよ! 痛がってるじゃない!」
「母猫だって子猫の首噛んで運ぶじゃないか。どうなんだ、痛いのか、お前?」
 それを猫に聞いてどうするのさ、式。
 首筋をつかんで吊り上げたまま顔を寄せて来る式は、まったくの真顔だった。本当に何の疑いもなくそんな事を思っているのかもしれない。
 そしてびっくりする事に、本当にたいして痛くなかったりするのだ。
 すごいなぁ、猫の体って。体験してみなければ絶対に分からなかった。せずにすむなら永劫したくなかったけど。
「とにかく、ミキヤに乱暴な真似するのは止めて!」
 伸び上がって式から僕を奪い取ろうとした鮮花だったけど、あっさりかわされて僕は式の腕の中に納まってしまう。
「やれやれ。お前、ミキヤなんて名前つけられたのか」
「……何か文句あるのかしら、式?」
「いや、文句はないけどな。問題はあるんじゃないかって言いたいだけ」
 式は僕の両脇の下に手を通して、鮮花に向かって突きつける。ひんやりとした手の感触が心地いい。いやそこは喜ぶべき場所じゃない気もする。
「お前、トウコもそうだけど幹也が来たらどうするつもりだ? 兄貴の目の前で猫に兄貴の名前で呼びかけるって、相当おかしいだろ?」
 いや目の前どころかそのものなんだけどね。呼ばれる度に恥ずかしくて死にそうです。
「何がよ。大切な人の大事な名前なんだから、お気に入りの物につけたっておかしくないでしょ?」
「……お前、自分の部屋のぬいぐるみとかにも幹也とかつけてるんだろ」
「失礼ねっ! そんな事してるわけないでしょ」
 からかうようにそう言った式に向かって、鮮花は胸を張ると、
「礼園の寮はそういうの持ち込みにくいんだから!」
 ……明確な否定がないあたりが兄として非常に不安に駆られるのだけど、兄としてここは妹を信じておきたい。
「まあいいや。それで、トウコは?」
 小さくため息をついた式は、鮮花から少しはなれた所に腰を下ろした。僕はまだ彼女に抱き上げられたまま。完全に物扱いですね僕。
「……まだ寝てるみたいよ」
「人に日時指定しておいて、ひどいやつだな。ちょっと起こしてきたらどうだ?」
「お断りよ。わたしはまだ死にたくありません」
「大げさだな」
「式は橙子さんの寝起きの悪さをあんまり知らないから、そういう事を言えるのよ」
「そんなやつを師匠呼ばわりしてるお前も大概だと思うけどな」
「うるさいわね。貴女に勝てるようになるまで、手段を選ぶつもりなんてないのよ!」
 お互いの間の空間が、心の距離なのかもしれない。物騒な会話を繰り広げる二人の姿に、少し頭が痛くなってくる。
 どうして、こうも二人は仲が悪いのだろう。
 僕にとって式は大事な、かけがえのない女性なのだ。同時に、鮮花だって大事な大事な妹なのである。無二の親友になって欲しいとまでは言わないけど、こうして二人でいる時に火花を散らしあうような関係は、さすがに殺伐としすぎていると思うのだ。
 この場に橙子さんがいれば、さぞ面白がって煽り立ててくるんだろうけど。燃やすだけ燃やして面白がるだけだからなぁ、あの人は。
「失礼な。ちゃんと後のフォローは考えているぞ。コントロールしない炎は焚き火じゃなくてただの放火だろう」とか言いそうだけど、あの人のフォローは、粉が出るかどうか分からない消火器を僕に押し付けるのが関の山なのだ。薀蓄とからかいの言葉だけじゃなくて、もう少し給料と思いやりも円滑に出てもらえると本当に嬉しいんだけど。
 この場に居ないわが雇い主様に抜けていくばくか思いを馳せている間も、式と鮮花の言い争いは続いていたらしい。気づけば鮮花がにじり寄って、式に向かって手を伸ばしていた。
「いい加減気が済んだでしょう? 早くミキヤを返しなさい」
「うるさいな。コクトーのやつ、もふもふして気持ちいいんだよ」
 ……あれ?
 気のせいかな。今何か、式も妙な事を口にしたような?
「な、何勝手に名前を変えてるのよ! その子はミキヤよ! さっきわたしが決めたんだから」
「野良だったんだろ? そもそもお前が飼うのかどうかもはっきりしてないんだから。別にオレが連れ帰って飼ってもいいんだぜ?」
「貴女の家なんて、あの殺風景なアパートじゃない! そんなところでミキヤを飼うなんて、餓死させるつもり?」
「あいにく、実家なら飽きるほどに部屋も食い物も庭もあるからな。今だって数え切れないくらい住み着いてるぞ。大体それを言うなら、寮暮らしのお前がどうやってコクトー飼うつもりだよ?」
「礼園にだっていくらでも抜け道はあります! それに、いざとなれば橙子さんに頼み込んでここでだって飼ってみせるわっ!」
「冗談。あんな社会生活不適格者の傍にコクトー置いておけるか」
 いつの間にやら式の腕に力が入って、僕の体をぎゅっと抱きしめてる。よく見れば、式の僕を見る目がとても優しいものに変わってる。
 今の今まで気づかなかったけど、どうやら式も猫派の人間のようだった。
 いや、嫌われるよりは好かれる方が嬉しいし、僕の名前を使ってくれるのも喜んでいい事なんだろうけど。何と言うか、ものすごく恥ずかしい。
 それにね、二人とも。
 大声で僕の名前や苗字を呼び合って飼う飼う連呼するのは、さすがにどうかと思う。
 普段の僕が首輪を付けられて、鎖につながれてる。それが二股に分かれてそれぞれ先っぽが二人の手に。そんなイメージがいやになるくらい鮮明に浮かんでしまって、素で落ち込みそうになる。
 ……今だって式に借金抱えてるんだから。一ヶ月ならともかく、二ヶ月連続で給料飛ばされるとさすがに生命の危機だったのだ。
 冷や汗をかきながら二人の姿を交互に見やる。僕に向けてたのと違って、本当に火花が散りそうなほど鋭い視線で突き刺しあってる。
「返しなさい、式」
「そもそもお前のものじゃないだろ、こいつは」
「この男女、また横取りするつもり!? 兄さんだけに飽き足らずミキヤまでっ!」
「またも何も、幹也だって別にお前の物じゃなかっただろうが」
「うるさいわね! 妹と兄の間には、余人の割って入れない強い絆と思いがあるんだから! それをぽっと出の泥棒猫がっ!」
 待て。落ち着こう、鮮花。
 確かに血のつながりと家族の情は、他の人にはどうしたって割って入れないけど。でもそんな顔で言うと、まんま昼メロの敵役の台詞に聞こえるじゃないか。
 目を吊り上げて、今にも式につかみかかろうとしてる鮮花に向かって訴えては見たけど、通じているとは言いがたかった。
「ほら見なさい! ミキヤだって嫌がってるじゃない!」
「違うだろ? このヒステリー女が怖いだけだよな、コクトー」
 子供をあやすように僕の体を持ち上げて、式がにっこりしている。
 でも式、気のせいかな。目が笑ってないよ?
 異常に迫力のある笑顔に思わずこくこくと頷きそうになった瞬間だった。
「いい加減にしなさいっ!」
「あっ!」
 僕の体から一瞬重力が消えて、すぐにまたぬくもりに包まれる。びっくりするほど素早い動きで、鮮花が僕を式から奪い取ったのだ。
「よしよし。あんな洗濯板に抱きしめられて怖かったですねー、ミキヤ」
「……いい度胸じゃないか、鮮花」
 これ見よがしに胸元に僕を抱きしめて、鮮花が言う。顔をうずめられてしまっているので表情は見えないけど、さぞ勝ち誇っているのだろう。何に埋まっているのかとかそういう事は、兄として全力で回答を拒否したい。
 ……式は本当に、成長してないんだなぁ。
「貴女にはいろんな意味で決定的に母性って言うものが足りてないんだから。ミキヤは任せられません。とっとと用事を済ませて帰ったらいかが?」
「だから言ってるだろう。トウコが起きないと話にならないってな。それに……」
「きゃっ!?」
 突然鮮花が悲鳴を上げたかと思うと、また僕の体が舞い上がった。
「よっと」
 そのまま僕はまた、式の腕の中へと。
「……ったぁ……」
「足元がお留守だな。そんな注意力散漫のやつにコクトー預けておくなんて出来るかよ」
 意地の悪い笑い声を漏らす式の言葉に視線を動かすと、床に倒れこんだ鮮花が頭と腰を摩りながらよろよろと起き上がってきたところだった。
 どうやら、式に強烈な足払いをかけられたらしい。
 って、式! いくらなんだってやりすぎだよこれは!
 じたばたと体をよじって叫んでみたけれど、式はきょとんと僕を見下ろすだけ。
 ああ、この体が! この声が本当に恨めしいんだけど!
「何だよ、そんな声出して。オレはお前を守ってやったんだぞ?」
「ふ……ふふ……式、ミキヤには分かってるみたいよ? あんたが凶暴でとっても預けられるに値しないという事がね」
「よく言うぜ。お前の方だって、そろそろ着込んだ猫の皮剥がれてきてるぞ?」
「被れもしない貴女に言われたくはないわね。ついでだから、ご丁寧に着込んでる女の皮も引っぺがしてあげる」
「……コクトー、ちょっと離れていろ」
 ぞっとするほど冷たい声でそういうと、式は僕をゆっくりと床におろした。
 いや、ちょっと待ってよ。
 式も鮮花も、いったい何をするつもりなんだ。
「ちょっと待ってなさい、ミキヤ。すぐに迎えに来てあげるから」
「屋上でいいな? 前に片付けたから、そこそこスペースはあるぞ」
「ここでも構わないけど、何か壊して橙子さんに怒られるのは避けたいわね」
「怒られる心配より、治療費と休学届けの心配しておけよ。殺しはしないが、思ってるより遥かに痛い目にあわせてやるから」
「換えの服は持ってきた? 素っ裸で泣いて帰るのもそれはそれで面白そうだけど」
 いや、だから君たち一体何の話をしてるのさっ!
 止めようよ! 女の子じゃないか二人ともっ!
 物騒極まりない会話を繰り広げている二人に向かって叫んだけど、聞く耳すら持ってもらえない。こんな体じゃ立ちはだかって止める事も出来ないのだ。
 打ちひしがれる僕の視界から、段々と二人の姿が遠ざかっていく。
 ……無力だ。
 派手な音を立てて閉められるドアの音と一緒に、僕は床に崩れ落ちた。
 願わくば。願わくば二人とも生きて帰ってきますように。
 ……なんでそんな事を、妹と恋人の喧嘩で願わなければならないのか、ちょっと真剣に考えたい所なんだけど。




■ 間章 2



 戦いは、小康状態を保っていた。
 全身を包む虚脱感に任せたまま、藤乃はその場にへたり込む。その目の前では黒桐幹也がやはり四つんばいで彼女に向かい合い、小さくうなり声を上げている。その目は鋭く、今にも彼女に飛び掛らんばかりだった。
 明らかに様子がおかしい。藤乃の記憶の中にある幹也と、今の彼とはまったく重ならない。彼女を陵辱した獣のような男どもと幹也は対極だった。しかして今は獣そのものではないか。
 横目でちらりとソレを見た藤乃の背中を怖気が走る。散々弄ばれたのだろう、元ネズミだったと思しき物はかなり悲惨な状態になっていた。手遅れにはなっていないと彼女は信じたい。幹也の口元に何か毛のようなものがついているのは目の錯覚だと信じている。
「幹也さん。一体、どうしたんですか……?」
 何度目かの藤乃の呼びかけにも、幹也は背を丸めてうなり声を上げたまま。決して藤乃から視線をそらさない。足腰にはまだ力が入らない。背を向けて逃げ出したいのは山々だったのだが、まずは立ち上がるのが難題に思われた。
 獣同士の戦いは目を逸らした方が負けだという。藤乃が彼から目を逸らせないのは、半分は恐怖からだった。そしてもう半分は。
「……幹也さん、そういうの似合わないですよ」
 思わず漏れそうになる笑いを押し殺して、藤乃は呟いた。
 今の幹也はまるで猫そのものだった。彼が自分の意思でこんな真似をしているようには見えない。何度も呼びかけたのにまったく反応がないところを見ると、言葉が通じているようにも思えない。
 異なるのは体の大きさだけで、それが今の藤乃にとって大問題なのだが。
 何かよくない事に巻き込まれてしまったのだろう。藤乃の頭の中に、幾人かの顔が思い浮かぶ。
 幹也自身はどこまでも普通の人なのに、彼の周りに集まる人間は、普通とは言いがたい者ばかりだった。
 自分を止めた、あの黒髪の殺人鬼。コインの表裏のようによく似ていて、だからこそ決して重なる事はなかったあの少女。
 他ならぬ幹也の妹であり、友人である鮮花もまた、礼園で大立ち回りを演じたというではないか。
 そして何よりも、藤乃自身が、普通という枠から大きくはみ出してしまっている。
 だからこそ。
「幹也さんは普通でいてもらわないと、困るんです……!」
 ビルの壁に手を当て支えにしながら、藤乃はゆっくりと体を起こした。
 荒れ狂う大海原の中で道を指ししめす光のように。たとえ身を焼かれると分かっていても、、飛び込まずにはいられない闇夜の炎のように。
 藤乃はブラウスの右の袖をつかみ、力任せに引き下ろす。薄いその生地は、彼女の力でもなんとか引き破られ、無残な紐のような姿をさらす。
「あくまで代用品ですけれど……」
 藤乃は小さな声で呟いた。
 あの忌まわしい力を今は使う事ができない。構わなかった。藤乃の望みは、幹也を助ける事だ。事情は分からなかったが、今の彼は明らかに普通ではないのだから。
 左手に握ったブラウスの袖を、彼女は腕を伸ばしてゆっくりと振る。右から左へ、そして左から右へと。ブラウスの袖が風に乗り、ひらひらとはためく。
 向かい合う幹也の変化は、劇的であった。
 うなり声は止まり、そして視線が藤乃から外れて、ゆっくりとその先を追っている。やがてその動きは頭全体へと及び、彼自身の頭がメトロノームのように一定のリズムを刻みだした。
 気を抜く事はできない。出来なかったが、藤乃は心の中で小さく安堵のため息を漏らした。
 やはり、今の幹也は猫なのだ。
 猫であるならば、これに抵抗できるわけがない。
「はいっ!」
 掛け声とともに、藤乃がひときわ大きく腕を振る。その瞬間、幹也の体が大きく舞い上がった。












/3 式と橙子の場合




 どれだけ時間がたったのだろうか。
 出ていった時と同じように、やっぱり派手な音を立てて入り口のドアが開け放たれた。
 顔を上げた僕の目に、しかめっ面をした式の姿が映る。
「……あー、畜生。お気に入りだったのにな、これ」
 しきりに革ジャンの右の袖のあたりを気にしている。僕の目にもはっきりと分かるくらい、大きな焼け跡がついていた。
 鮮花の姿はまだ見えない。来る気配も伝わってこない。どうやらわが妹は、式に一矢を報いたもののあえなく敗戦となった模様である。
 ……喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、本当によく分からないんだけどこれ。
「ほら、おいでコクトー。オレがお前のご主人様だぞ」
 手招きをする式に、果たして寄っていってもいいんだろうか。
「もう、何を怯えてるんだよ、お前は」
 悩んでいるうちに、しかし大股で近寄ってきた彼女によってあっさりと掴みあげられてしまった。
「安心しろって。鮮花の奴は気ぃ失ってるだけだし、たまにはあいつにも撫でさせてやるからさ」
 いやそこも心配なんだけど、でもそこだけじゃないんだけどね。
「しかしまあ、だんだん鮮花の奴も強くなってきてるな。オレもあんまりうかうかしてられないかも」
 いや何でそんなに嬉しそうに言うのさ式。
 というか式にそんな事を言わせるようになってきてる鮮花に対して嘆くべきなんだろうか。順調に淑女の道というか人間の道を踏み外してるような気がしてならないんですが。親父やお袋が知ったら卒倒するんじゃないだろうか。
 葛藤する僕を抱き上げたまま、式はソファに座り込んだ。
 彼女の指が、ゆっくりと僕の頭から首筋を撫で下ろしていく。幾度も幾度もほっそりしなやかなその指が僕の毛並みを書き分けていくその度に、とろけそうな心地よさが体を包んでいく。
 ああ……これはダメだ。まずい。全部どうでもよくなってしまう。
「何だお前、そんな声出して。気持ちいいんだな?」
 楽しそうにいう式の声にまで、自分の中の恥ずかしい部分を曝け出されていく感じだ。
「よしよし、ちょっと待ってろ」
 式がそういうと、背中の感触が変わった。ひんやり吸い付いてくるのは、ソファに横たえられたかららしい。お腹を向けたまま僕はぼうっと式の顔を見上げていた。
 式の手が伸びてくる。細くて白いその指が、そっと僕のお腹を撫でる。最初は触れるか触れないかくらいの感触で。でも段々とその指が大胆に僕の下腹部を這い回り、掌でやわらかく揉み解してくる。
 手足から力が抜けてしまう。もう動けない。違う、動きたくないんだ。
 手と手で触れ合った時とは違う。式の手はまるで一匹の生き物のように縦横無尽に弄んでくる。それが、とても気持ちいい
 僕のそんな反応が楽しくてたまらないのだろう。式はその口元を緩ませて、
「ああ、やっぱりお前オスなんだな。よかった、コクトーって名前でもぴったりだな」
 ――一発で何もかも吹っ飛んだ。
「な、何を言い出すんだ式っ!」
「あっ!?」
 思わず跳ね起きた僕は、ソファの隅で体を丸めて式を睨み付ける。
 いやそりゃ確かに猫だから裸だし! お腹見せてればそりゃ全部丸見えだろうけど!? それにこれは僕本来の体じゃなくて猫なんだから見られても仕方ない筈なんだけどなんだけど!?
 何ていうか、ものすごく恥ずかしい。
 顔が真っ赤になるとか、そういうレベルじゃなくて。燃え上がって炭になってしまいそうだった。
「どうしたんだよ、コクトー。オレ、変な所触っちまったか?」
 頭を掻きながらまた手を伸ばしてくる、式の言葉が今の僕にはまともに聞こえない。
 そんなつもりで言ったんじゃないだろうけど、「変な所」という言葉がさっきの言葉とつながって、もう恥ずかしくて死にそうだった。
 逃げよう。とりあえず今は逃げて頭を冷やそう。
 そうしないと何も出来なさそうだったので、僕はソファから飛び降りようとして、
「……ちょっと、あなたたちさっきから一体何を騒いでるのよ」
 聞きなれた女性の声を背中に受けて、僕の動きは止まった。
「なんだよ、やっと起きてきたのかよトウコ」
「もう少し寝てるつもりだったわよ。まったく、騒ぐのなら上か下で騒いで欲しいわね……」
 欠伸交じりなのだろう、震えた声で式にそう答えるのが聞こえてくる。僕は振り返ってそちらの方を見て……別の意味で顔が赤くなった。
 わが雇い主の橙子さんが、気だるげに壁にもたれかかっている。赤みがかったロングヘアをラフにまとめているのは普段と変わらない。機嫌は悪そうだったけれど、口当たりが柔らかいのは眼鏡をかけているせいだろう。
 それはいい。そこには何の問題もないんだけど。
 何でワイシャツ一枚なんですか橙子さん。
 ご丁寧に1サイズ大き目のものをゆったりと羽織っている上に、ボタンは申し訳程度にしか留めてなかったりするんですが。一応敬愛する雇い主のそんなあられもない格好を目の当たりにすると、従業員としては非常にリアクションに困るんです。
 というか今の僕の目線だと、ちょうどワイシャツの裾と太ももの辺りが正面に来るんです。隙間からちらりちらりと翳ってるような物が見えるのは、そういう色の下着を付けているのだと信じてます。信じてますから橙子さん!
 嗚呼。今日始めて、猫で良かったと心の底から思う。普段のなりでこんなものを目にしたら、本当にどう対処したらいいのか分からなかった気がする。
 振り返れば、式も僕と同じ心持だったらしい。唖然とした顔で橙子さんの姿を見て、そして深い深いため息をついていた。
「……なんでそんな格好してるんだよ、トウコ」
「三日間徹夜して、ようやく眠れたのよ。自分の事務所でどんな格好してようと構わないじゃない」
「オレが見たくないんだよ。人前出てくる時くらいは気を使え」
「はいはい、考えておくわ……あら?」
 肩をすくめて歩き出した橙子さんがこちらに目を向けてきて、そして僕と目が合った。
「どうしたの、その子」
「鮮花が連れ込んだみたいだぞ。もっともあいつは飼えないだろうから、オレが引き取るつもりだけど」
「困ったものね。曲がりなりにも魔術師の工房なんだから、あんまりほいほい外の者連れ込まれても困るんだけど」
 唇を尖らせた橙子さんが手を伸ばしてきて、僕はまた吊り上げられた。しげしげと眺めてくる橙子さんから、ついと目をそらす。だってそうしないと半壊したワイシャツの中のふくらみが! 谷間が!
「ふうん、男の子なんだ」
 って、どこ見てるんですか橙子さんまでっ!
「そいつ、恥ずかしがりやらしいぞ。撫でてたら逃げていった。割と綺麗な顔してるし、将来はメス泣かせになるんじゃないか?」
 肩を震わせてる式を見て、橙子さんは目を丸くしている。
「あら、式。あなた実は猫が好きだったの?」
「嫌いじゃない。実家にはかなり住み着いてるからな。もっとも世話はほとんど兄貴か秋隆がやってたけど」
「意外ね。同族嫌悪するものだとばかり思ってたけど」
「……どういう意味だよ、トウコ」
「そのままの意味よ。だってあなた、見るからに猫気質だし」
 いやどっちかというと式はうさぎだと思うんです橙子さん。死んじゃうかどうかは分からないけど、寂しがりやだし。
「あのな、あんまりくだらない事言ってないでそいつ返せ」
「この子、名前はないのかしら?」
「鮮花のやつはそのものずばりミキヤって呼んでたな。あの変態、本人来たら一体どうするつもりなんだか」
 いや、自分の方はどうなのさ式。
「まあ、それはらしいというかそうじゃないとおかしいと言うか。それで、当の鮮花ちゃんは?」
「屋上でひっくり返ってる。そろそろ手加減するのが辛くなってきたからな、もうしばらく寝てるんじゃないか?」
「その袖を見る限り、一発は食らったのね? 彼女にすればがんばった方じゃない」
 橙子さんに視線で右腕の不覚の印を指され、すねたように式は言う。
「組み打ちは兄貴のほうが得意なんだ。大体、刀持ち出したら怒るのはトウコの方だろ」
 止めてください。兄として妹を真っ二つにされるのは全力で勘弁して欲しいです。
「そうね。結界張りなおす羽目になるのは勘弁して欲しいわ」
 そして突っ込みどころはそこなんですか、橙子さん!
 今更ながらに、自分の今いる場所の異常性に気が遠くなる思いです。もちろん猫になってる時点で自分が一番異常なんだけど。
「あらあら、やっぱり私の腕の中は不満なのかしら」
 僕の抗議の声を、違う意味に取ったのだろう。眉を寄せた橙子さんは、僕を式に向かって差し出すと、そのまま自分のデスクに向かって歩いていく。
 再び僕の居場所は式の腕の中へと変わった。
 考えてみれば、こうやって式に抱きしめられたりするのは初めてなんだよなぁ。逆は数えるほどとは言えあるけれど、照れ屋の彼女が自分からこういう親愛を示してくれるのは、多分貴重な体験なのだと思う。だからといって猫のままで居たいとは思わないけれど。
「と言うか着替えてこいよ、いい加減」
「先にコーヒー一杯欲しいところなんだけど……」
 椅子の背もたれに体を預けて、橙子さんが伸びをする。んー、と妙に艶かしい吐息が聞こえてくる。もちろんそっぽを向きましたが、僕は。だって見えちゃうし。
 ややあって体を戻した橙子さんは、思い出したように呟いた。
「……ところで、幹也君は?」
「……休みじゃないのか?」
「十一時出勤で良いとは言っておいたけど」
 橙子さんの視線につられて、式と僕も壁の時計に目をやる。
 十一時半。社会人としては許されない、遅刻確定の時間です。
 いや遅刻どころかちゃんと橙子さんの目の前にいるんですが。
「……困ったものねぇ」
「どうせ夜中までこき使ったんだろ? たまには寝かしといてやれよ」
「プライベートならいくらでも気を使ってあげたいけどね。経営者で雇い主としては、そういうわけにも行かないでしょう?」
「ちゃんと給料払ってから経営者顔しろよ。あいつがオレに金の事で泣きついてくるって、よっぽどだぞ」
 本当ですよ、橙子さん。
 なけなしでも男にはプライドというものがあるんだから、僕だって式にはあんまり頼りたくないんです。
「あらあら。猫ちゃんにまで怒られちゃったわね」
 僕と式の二重奏に苦笑した橙子さんは、ばつ悪げに机の上を見回して、不意にまじめな表情に戻る。
 小首をかしげながら、引き出しを開けたり書類をどかしたり、真剣に何かを探しているようだった。
「どうかしたのか、トウコ?」
「ねえ式。あなた、この上に置いておいたブレスレット知らない?」
「知るわけないだろ。オレだってここに来たの一時間くらい前だ」
「そうよね、鮮花ちゃんは私の私物に触れたりはしない子だし……」
 口元に手を当てて、橙子さんは何やら真剣に考え込んでいる。
 そしてその言葉に、僕の体が引きつる。
 心当たりがあった。
 昨日の夜中まで確かに橙子さんのテーブルの上に古ぼけた銀細工のブレスレットが置かれていた記憶がある。先日オークションで手に入れたものだと、口にしていた気がする。
 しかし、それを僕は一体どうしたのだろう。
 その後の記憶が抜け落ちていた。
 橙子さんの私物に勝手に手を触れるような恐ろしい真似、僕だってする筈がないのに――




■ 間章 3



 やってしまった。
 目の前の惨状に藤乃は頭を抱えた。
 即席の猫じゃらしで気を引くのはいいアイデアだったと思う。目論見どおりに気を惹かれた幹也は引きちぎったブラウスの袖めがけて飛び込んできたのだから。
 ただ、自分の体のサイズにどうやら幹也自身が気づいていなかったようだった。
 勢いよく飛び込んできた彼の体は、そのまま受身を取る様子もなくビルの壁に突撃して。
 そして今、藤乃の目の前で大の字になって目を回している。
「……幹也さん、その、大丈夫ですか?」
 恐る恐る藤乃は呼びかけたが、もちろん答えが返ってくる様子はない。よほど勢いよくぶつかったのだろう、少し彼女が見ただけで分かるくらい、額の辺りが腫れ上がり膨らんでいる。血が流れている様子がなかった事に安心したが、逆にうっ血してる方が危険だっただろうかと、不安が頭をもたげてくる。
「どうすればいいんでしょう、これ……」
 途方にくれた藤乃が呟いたが、もちろん返事は返ってこない。
 もちろん救急車を呼ぶのが一番だろう。しかし藤乃は、今自分のいる場所がよく分からなかった。どこか住所の分かる場所を見つけ出して、そこから掛けるべきだろうか。
 いつの間にか足元に落としていたハンドバッグを拾い上げ、藤乃は中から携帯電話を取り出した。以前は持っていなかったものだが、通院生活を始めるようになってから、周りに持たされた代物だ。自分から掛ける事は殆どなかったが、今この時ばかりは安堵する。
 幹也の起き上がる気配はなかった。恐る恐るの足取りで藤乃は元来た道を引き返し、路地まで戻ってくる。相変わらず人通りはなかったが、街灯のひとつに備え付けられたプレートで、住所の確認は取れた。
 ディスプレイのバックライトはちゃんと灯っている。幸いにも今の立ち回りで壊れたという事はなかった様子だ。
 救急番号を入力しようとして、藤乃はその文字に気がついた。
 ディスプレイの左上に小さく、しかし見間違えようもなく映し出されている。
――『圏外』。
「なんて……こと」
 絶句した藤乃はあわてて辺りを見回すが、近くに公衆電話も見当たらない。肩を落とした彼女は再び路地裏へと戻っていく。
 幸い、という表現が間違っている自覚はあったが、幹也は未だ気を失ったままだった。電話で助けを求める事が出来ない以上、何か別の手段を探し出さなければならない。
 背負って、通りすがった人に助けを求めようか。真っ先に思いついたそのアイデアを、藤乃はすぐに投げ捨てた。幹也の体格は大柄というわけではなかったが、それは藤乃も変わらない。抱えていた病気は式によって取り払われていたとはいえ、そもそも彼女は活動的というわけでもない。一人の成人男性を抱えてどれだけ動けるかといわれれば、自信はなかった。まして触覚が極端に鈍い身の上である。背負っているつもりでいつの間にか落としてきてしまったという事にもなりかねない。やはりここに誰かを呼んでくる方が良いように思われた。
 投げ捨てていた、ブラウスの袖だった物に藤乃は視線を落とす。
 誰かを呼んでくるのならば、幹也がどこかにいかない様にしておかなければならない。頭のこぶも大問題だが、むしろその前の状態こそ、医者に見せなければならないものだろうから。
 しかしそれはそれで問題があるようにも思われる。
「事情を知らない人を案内してきて、拘束されている男の人が地面に転がっているというのは、一体どう見えるのでしょう……?」
 そんな経験をしたことがない藤乃だったが、少なくともあまり好意的な絵には見えないように思われた。自分自身ならともかく、後々幹也に不利益が降りかかりそうな意味で。
 しかし現状、他に手段は思いつかない。
「すみません、幹也さん。必ず、必ず助けますから……!」
 覚悟を決めるように唇をかみ締めた藤乃は、ブラウスの左の袖も引き破った。
 その時、藤乃の目にそれが映った。
 向かい合っている時は緊張しているせいなのか気づかなかったが、幹也の腕に見慣れないブレスレットが嵌っている。
 幅は2センチメートル程だろうか。銀の光沢を放つ金属に、複雑な意匠が掘り込まれたそれは淡い輝きを放っている。
 以前藤乃が一度顔を合わせた時には、彼はこういう物を身に着けてはいなかった。その時の印象も、後に鮮花から聞いた人となりを照らし合わせても、幹也はこういう物を身に着ける性格に思えない。
 もちろん人間の考えなどというものは猫の目のように変わるものだ。彼の趣味思考がそう変わった可能性もあったが、デザイン自体がずいぶんと奇抜で、あまり似合っているようには見えなかった。
「本当、変わったデザイン……」
 気がつけば藤乃は彼の傍らに座り込み、じっとそのブレスレットを見つめていた。
 二匹の蛇が互いの尻尾を喰らいあい、絡み合っている。その目には小さな宝石がはめ込まれている。種類は分からなかったが、煌きはそこから放たれているようだった。
「綺麗……こんなの、初めて見ました」
 声を震わせた藤乃の手が、ゆっくりとブレスレットに伸びていく。震える指先が蛇の頭に触れる。
「……あっ!」
 そこで、彼女は我に返った。
「や、やだ。わたしったら一体何を……」
 よりにもよって、幹也の身に付けているものに勝手に手を触れようとするなんて。自分がしようとしていた事に気づいて、藤乃が恥ずかしさと自己嫌悪で顔を真っ赤にした時だった。
 噛みあっていた蛇の顎が外れて、幹也の腕から滑り落ちた。
 呆けた藤乃が呟いたのと同時であった。引っ込め損ねた彼女の手を、二匹の銀の蛇が這い登ってくる。
「ひ、あ……っ!?」
 感触は彼女に届かない。それゆえにたとえようもなく恐ろしい。
 手首に絡みついた蛇が、鎌首をもたげて彼女を睨みつける。
 藤乃の記憶に残っているのは、そこまでだった。