/4 女三人の場合



「今度は一体どんなガラクタを買ったんだよ、トウコ」
 身だしなみを整えて戻ってきた橙子さんに向かって、式が言う。ちなみに僕はまだ式の腕の中。
「ガラクタとは失礼ね。ちゃんと由緒正しい品だったんだから」
「魔術師の使ってる道具なんかに由緒も何もあるのかよ」
「あなたが趣味で集めてる刀だって、古ければそれに比例した由来や力がこもっているでしょう? そもそも両儀の家だって、あなたに至るために何代も何代も積み重ねてるじゃない」
 うん、と椅子の上でひとつ伸びをした橙子さんは、眼鏡をはずした。その瞬間、雰囲気が変わったのが分かる。
「何度も話したと思うがね。魔術師というのは「」に至るのが悲願であり存在理由だ。一人では到底辿り着けないその場所に至るため、親は子に、そして子が親となってまた子供に。時には外から別の血を入れて先を目指し続ける。歴史の長さはそのまま、彼らのもつ力に繋がるんだよ」
 まるで中身が入れ替わったかのように、橙子さんの口調も、声色も変わっている。眼鏡を鍵にして切り替えているのだといっていたけど、正直それにどんな意味があるのか僕には分からない。
「私が今回買ったアーティファクトも、そんな古い魔術師の家から出た逸品なんだ。ドイツに根を張る一族でな。積み重ねた時は優に千年を超えているとかいないとか。普通ならそんな家の持ち物が市場に流れる事はないんだがね。たまたま目にしたのは僥倖という他なかったな」
「相変わらず話が長いな。それで、その自慢の品は一体どんな物なんだよ?」
 式の口調には苛立ちが混じっている。橙子さんが話好きなのはよく知ってる筈なんだけど、なかなか本題に入らないのがじれったくてしょうがないらしい。
 でも興味があるのは僕も一緒だった。一体どんな物を買ってきたのか。僕の体がこんな事になった原因なのかもしれないし。
「ふむ、知識のない人間に話すとなると、少し長くなるぞ」
「じゃあ簡潔にしろ。要点だけわかればいいんだ、オレは」
「せっかちだな。もらいが少ないぞ?」
 つまらなそうに呟いた橙子さんは、机の上に投げ出されていたタバコを拾い上げ、一本取り出すと口に咥えて火をつける。喫煙しない僕にはその味は分からないけど、慣れた様子で美味しそうに吸う橙子さんのしぐさは様になってると思う。
「簡単に言うとね、意識を入れ替える魔術なんだ」
「は?」
 何ですって?
 橙子さんの言葉に、僕も思わず声を上げた。
「御伽噺にもあるだろう? 悪い魔女によって、哀れな姫君や王子がカエルや鳩に姿を変えられてしまうなんていう話が。一人の人間の姿そのものを別の存在に変えるというのは難しいが、限定的な時間の意識の入れ替えなら、それほど難しい話じゃない。この一族はその手の事を研究してきたらしいからな。もっとも、調べてみた限りは発動条件が厳しくてな。残念ながらあのブレスレットだけではガラクタに近い代物だったんだが」
 橙子さんの吐き出したタバコの煙が、天井まで上り、そしてかすれて消えていく。
 体が震えて、毛が逆立つのを感じた。
 僕には魔術の事はよく分からないけれど、それでも想像のつく事くらいはある。
「……橙子さん」
 式の腕の中からすり抜けて、僕は橙子さんのデスクの前まで歩いていく。
「おい、どこにいくんだお前」
 ようやく猫の体にも慣れてきた。僕はぴょんと床から飛び上がって、橙子さんのデスクの上に飛び乗る。
「おや、どうしたんだ。私はそこの式のようにキミがそれほど好きなわけじゃないんだがね」
 訝しげな表情を浮かべているのを無視して、僕はきつく橙子さんをにらみつけると。
「何で……!」
「うん?」
「何でそんな危ないものを放り出しておくんですかっ!」
 喉が枯れるほどの大きな声で、僕は叫んでいた。
 うん、分かってるんだ。どうせニャーニャーとしか聞こえてないって事は。
 それでも言わずにはいられなかった。残念ながら記憶にないから、ひょっとしたら僕が興味本位で嵌めてしまったのかもしれない。それとも、全然別の理由でたまたま僕が巻き添えになってしまったのかもしれない。もちろんその腕輪と僕のこの惨状には何の関係もない可能性だってある。
 でも、何の魔術の知識もない人間がこんな目にあう代物だったんなら、幾らなんだって橙子さんがうかつすぎると思うのだ。
「僕なら良いです。迂闊なだけだったかもしれません。でも僕じゃなくて式や鮮花がこんな目にあってたら、一体どうするつもりだったんですかっ!」
 立ち上がれれば。両手が使えれば掴み掛かっていたかもしれない。でも今の僕に出来るのは、橙子さんの目の前で鳴き散らす事だけ。
 それでも、唖然とした表情で橙子さんと式が顔を見合わせているのが見えた。
「式。これは一体どういう事だ?」
「知るかよ。大方お前のタバコの匂いが嫌で嫌で堪らないんじゃないのか?」
「犬相手にその理由で嫌われるんなら分かるんだがね。だとしてもその場合、尻尾を巻いて逃げていくのが筋だろう。まさか猫相手に立ちはだかられてにらみつけられる羽目になるなんて、想像もしてなかったんだが……」
 その時だった。
 入り口の方から大きな足音が響いてくるのが、僕たちの耳に届いた。
「今度は何だ……?」
 困惑した橙子さんの呟きをかき消すように、ドアがものすごい勢いで開け放たれる。
「しきーっ! 勝ち逃げする気っ!?」
 振り向かなくても声の主は分かった。どたどたと豪快すぎる足音を立てて、鮮花がこちらに向かって駆け寄ってくる。
「第二ラウンドよっ! 今度こそミキヤを取り返して……って、橙子さん!?」
「ずいぶん勇ましいが、とても礼園の生徒には見えないな、鮮花」
「別に構わないけどな。とりあえず着替えてきた方が良いんじゃないのか?」
 呆れたように呟く式の言葉通り、鮮花はひどい格好だった。ベストもその下のシャツも盛大に破れてるし、髪も派手に跳ねたりよれたりしている。どう贔屓目に見ても、式に完敗したとしかいえない状態だった。
 ……一体何をやってるんだ、お前は。
「す、すみません、橙子さん。これにはいろんな事情があるんですって、ミキヤ! そんな所で一体何をしてるの!」
 デスクの上に飛び乗っていた僕の存在に気づいた鮮花が駆け寄って、手を伸ばしてくるが、あわてて飛びのいて、その手をかわした。
 ここで捕まえられて猫かわいがりされてしまったら、話が先に進まなくなってしまう。
 しかし。
「ふむ」
 後ろから伸びてきた手に、僕の体はがっちりと掴み上げられてしまった。
「鮮花、お前今こいつの事を何と呼んだ?」
「何てって、その、ミキヤって」
 掲げられた視線の先で、ばつの悪そうな様子で鮮花が呟く。改めてそう思うなら、幹也なんて呼ばないで欲しかったんだけどね。
「よくよく愉快な名前を付けるな。愛されているのか何なのか。本人がこの場にいないのが残念でならないね」
「そ、そりゃ兄さんがもしいるんなら、もちろん呼び方変えてましたけど!」
「どうかな、鮮花の事だからな」
「うるさい、式!」
 すまん、鮮花。兄はすぐお前の目の前にいるぞ。
 うなだれる僕の体が、右に左に揺れる。ああ橙子さん楽しそうですね。
「しかしひとつ聞きたいんだがな、鮮花。何でまたミキヤなんだ?」
「何でと言われても……その子、なんとなく雰囲気が似てませんか? 黒いし、左目も見えないようですし」
「理由がそれだけなら、黒猫は皆お前の手にかかればミキヤということになるんだがね」
 からかうような橙子さんの口調に、鮮花は口ごもってしまう。式も不機嫌そうにそっぽをむいて、この話題にはかかわらない事に決めたらしい。
 そうだよね、同レベルだったものね。
「なるほどなるほど……」
 そんな二人の様子が面白かったのか。呟いた橙子さんは、くるりと僕の体を回転させた。至近距離で鋭い視線に射抜かれて、思わず身がすくむ。
「しゃべれというのは無茶な話だからな。そうだな、イエスなら右手を上げろ。ノーなら左手。といっても、一発でけりがつくとは思うがね」
 薄く紅の引かれた口元がつりあがると、橙子さんは朗らかに言う。
 その言葉で、僕も全てを察した。
 どうやら。どうやら橙子さんは気づいてくれた。今朝から今までの苦労が、報われるようだった。
 ……ですよね? 期待して良いんですよね?
「お前、黒桐幹也じゃないのか?」
「……え?」
「トウコ、お前一体何を……」
 いまいち疑念のぬぐえなかったけど、それすらもお見通しだったのだろうか。
 あっさり言った橙子さんの言葉にあっけにとられた声を出して振り向く式と鮮花。
 その前で、僕は力いっぱい右手を上げてみせた。

『……え、えぇぇぇぇぇっ!?』

 ――これほどまでに式と鮮花のリアクションが重なったのを見たのは、初めてだったかもしれない。
 こんな目に遭わなきゃ見れないというのなら、願い下げだったのだけれど。



「まあ、普通の人間同士では互いの無意識の精神抵抗があるから、意識を入れ替えるなんて事はそれなりに難しい作業なんだがね。どうやら疲労の限界だった幹也が触れた時に、ちょうど適当な対象としてその黒猫が入り込んでいたという事らしいな。まったく、お前の間の悪さはいっそ見事だな、幹也」
「トウコは黙ってろ。一から十まで全部お前の仕業って事じゃないか」
「そうです! あのまま気づかなかったら大変な事になってたんじゃないですか!」
 車座だった。
 上座に橙子さんが座って、その両側に並べられたソファにそれぞれ向かい合って式と鮮花が座ってる。僕はといえば、真ん中に備え付けられたテーブルの上で鎮座まします羽目になっている。
 式も鮮花も、耳の先まで真っ赤だった。それはそうだろう。ただの猫だと思ってあんな事やこんな事をしていた相手が僕だと分かったのだから。
 もちろん僕も耳の先まで熱くて火が出そうなんだけど。
「そ、それよりひとつ疑問があるんですけど!」
「何だ、鮮花」
「兄さんより先に、橙子さんはダウンして寝てたという事ですよね。それなら橙子さんと兄さんが入れ替わる可能性だってあったということですよね? むしろそっちの方が自然だったと思うんですけど、人間同士なんだし」
「ゼロだ。私を誰だと思ってる。たかが寝てるくらいで精神作用系の魔術をかけられるようでは、時計塔で研究なんて出来やしない。比喩ではなくヘッドハンティングするような外道が両手両足の指では足りん位いる場所だからな。それなら今この場で鮮花、お前と幹也を入れ替える方がよほど容易いだろうよ」
「まあ、どんな連中がはびこってるのかはお前や荒耶を見てれば想像がつくんだけどな」
 深いため息をついた式が、きつい視線を橙子さんに飛ばした。
「幹也の中身はいい。今ここにあるからな。問題は外側だ。今どこにいるんだよ!」
「お望みとあらば、一週間ほど時間をくれれば新しく作ってみせるが……冗談だ。ナイフをしまえ式。まだ動き出したばかりだ、次を起こす羽目になるのは勘弁してもらいたい」
 抜く手も見せず式が突きつけたナイフの先を指でつまみ上げて逸らすと、橙子さんは新しい煙草に火をつけた。
 ……いつもならいろいろ言いたい事はあるけど、今日この場に限れば、式のその反応はとても嬉しい。予想通りだったけど、橙子さんの反応はあんまりである。
「少し時間をくれれば、何とかしてみせるから。だから鮮花も幹也もそんな目で睨まないでくれ。まるで私が諸悪の根源みたいじゃないか」
「そのものじゃないですか! 橙子さんがそんな危険なものを投げ出しておくから、兄さんがこんな目に……」
 僕を見つめる鮮花の視線は、悲しみと哀れみが入り混じってる。妹にそんな目で見られるのは、やはり兄として切ないし、情けない。
 ……最初にこの姿の僕を見つけたときの同じ視線も混じってる気がしたけど、それは気のせいだと思おう。
「さっきも言ったがね。基本的にこの伽藍の堂にいるのは私だけなんだ。だから幹也がいくら触れたところで意識交換が成立しないのだから本来発動する筈がないんだよ。むしろ最近のお前と式のじゃれあいで結界にがたが来てたから、猫なんぞが入り込む。むしろ悪いのはお前たちじゃないか」
「戯言はいい。とにかく早く幹也の体を見つけ出せよトウコ。ここに今ブレスレットがないって事は、幹也の体が嵌めてるって事じゃないのか? 厄介事がこれ以上広がったらどうするつもりだよ」
 苛立ちを隠さずに言う式に向かって、橙子さんは肩をすくめて煙を吐き出した。
「おそらく大丈夫だろう。まあ中身が中身なだけに奇行が行われているかもしれないが、逆にその方が見つけやすくなるだろうしな」
 ……それはあれですか。体が戻ってきても、僕はこの近所から白い目で見られるって言う事ですか。
 ひどい話すぎる。一体何をしたっていうんだ、僕が。
 未来予想図に頭痛を覚えてテーブルの上にへたり込む。
「まあ、今の幹也のように人間臭い動作をする猫というのはなかなか見ものだがね」
 橙子さんの上げる意地の悪い笑い声は、不機嫌そうに呟いた式の声にかき消された。
「……オレは魔術のことはよくわからないけどな、トウコ。でもこれは間違ってないと思うけど」
「うん?」
「ブレスレットを嵌めている幹也の体の中身が猫なんだろう? それは人間同士より簡単に意識交換が成立するって事なんじゃないのか? 現に気絶したのか寝ただけの幹也と猫の意識が入れ替わってるんだから」
 式の言葉に、きょとんとした表情を浮かべた橙子さん。


「……あ」


 いや、「あ」ってなんですか橙子さん!?
 ひょっとして気づいてなかったんですか橙子さん!
「そ、それって大問題じゃないですかっ!」 
「むぅ、完全に失念していたな。私とした事が」
「分かりましたっ! もう待っていられません! こうなればわたしだけでも探しにいってきますからっ!」
「ちょっと、待てよ鮮花っ! 探しに行くって、手がかりも何にもないだろっ!」
「それでも、ここで手をこまねいているよりましでしょっ!」
 式が呼び止めるよりも早く、鮮花は身を翻して駆け出していってしまう。
「まったく、せっかちな奴だな、あいつは。一体誰に似たんだ」
 まあ、僕じゃないのは確かだと思うけど。
 あくまで態度の変わらない式と妹の様子に、溜息と涙が止まらない。
 ……大丈夫かな、僕。ちゃんと元に戻れるんだろうか。
「しかしそうか。交換対象が動物であればこれほど簡単に意識が入れ替えられるのか。なかなかどうして、使いでのあるアーティファクトだったって事か」
 そして人事のように感心してないでください。あえて呼びますけど。そこの諸悪の根源の橙子さん。





■ 間章 4



 目を覚ました藤乃の目に映ったのは、切り取られた空だった。
 そびえる壁に狭められているからこそ、目に飛び込む青は鮮やかで、深い。
 まぶしさで目の奥を焼かれる痛みに、彼女は目を細めた。
 地面に寝転がっているのだろうか。背中に、腕に、足にひやりとした感触が伝わってくる。両の手足は鉛が詰まっているように重かったが、何とか藤乃は上半身を起こした。
 じんじんと鈍く疼く額にゆっくりと手を伸ばして、指先でなぞり上げる。とたんに鮮明になった痛みに彼女は顔をしかめて。
 そして、愕然として叫んだ。
「痛い……っ!?」
 ありえない事だった。それは、力とともに手放した筈の感触ではなかったか。
「どうして……?」
 感じ取る事の出来ないはずの痛みを噛み締め、震える声で藤乃は呟く。それがひどく低かった事に気がつき、違和感に彼女は思わず自分の体を抱きしめた。
 自らの指が、腕を握り締めている感触が伝わる。その事に眩暈がするほど驚くが、握り締めている腕がずいぶん太く逞しい事に気づき、彼女は眉をひそめた。
「一体……何が起きてるの……?」
 頭を振った藤乃は何気なく自分の右隣を見て、顎が外れそうになった。
 自分が寝転がっていた。
「……………………え?」
 うつぶせに横たわって、目を閉じている。規則正しく寝息が聞こえるので、命に別状はないらしい。しかしその長い黒髪も、両の袖が引き千切られたブラウスも、どちらも間違えようがないほど見覚えのある代物だ。
 どうして。
 そんな疑問符すら言葉にならなかった。藤乃の頭の中はこんがらがり、明確な答えがまったく導き出せないでいる。恐怖と困惑が交じり合い灰色になったまま、彼女はよろよろと足元に転がっていたハンドバックに手を伸ばした。
 震える手でハンドミラーを取り出すと、硬く目を閉じて、ゆっくりとカバーをあける。
 すぐに確認する勇気などなかった。目を背けてはいたが、先ほどから視界に入る自分の手も明らかについ先ほどまでとは異なっていたのだから。
 二度、三度。深呼吸を繰り返し、そして藤乃はゆっくりと目を開く。
 ぼやけた視界が徐々に鮮明な像を結び、そして彼女の目に映ったのは、驚愕の表情を浮かべている黒桐幹也の顔だった。
「ひゃ、あ……ぁぁ……!?」
 悲鳴すら掠れてまともな音にならない。ぺたぺたと、空いた手で頬を頭を撫で回す。指先には少しざらついた肌の感触が伝わってくる。抓り上げれば、ちゃんと痛みがある。失っていた筈の感触が伝えてくるのは、紛れもない現実だった。
「嘘……ですよね。だって、そんな事。ありえない……」
 抱き合って神社の境内の階段を落ちたわけでもないのに。
 昔見たテレビの場面を思い出して、ぶんぶんと藤乃は頭を振った。
 日常から足を踏み外した世界を通り抜けてきた。手は拭い落とせない血で汚れているし、背負った罪は消える事はないと分かっている。
 それでもこれはあんまりだと思う。
 会って話がしてみたいと思ってはいた。だから、姿を見かけて追いかけたのだ。何やら人目を憚らなければいけない状態に陥っているようだったが、だからこそ助けたいと思った。
 だからといって今の状態は、どうなのかと。
「こんなの、一体どんなお医者さんに見てもらえばいいんでしょうか」
 失意にうなだれた藤乃の目線の先で、何かが動いた。
 倒れ寝息を立てていた自分が、ゆっくりと瞬きをしている。
 藤乃は息を呑んだ。中身は今ここで絶望に片足を突っ込んでいるのだから、必然的にそこにいる藤乃は別人である。可能性で考えれば、この体の元の持ち主である場合が高い。
 ひょっとすれば、入れ替わったショックで、正気に返っているかもしれない。そうすれば互いの境遇について話し合う事もできるし、何かいい知恵が思い浮かぶかもしれない。
「あの……先輩……?」
 声色は優しかったがやはり太い声にショックを受けながらも、藤乃は目の前の藤乃の体に呼びかける。
 寝ぼけ眼だった藤乃の体は、その声に反応したのか、首だけを上げて左右を見回す。やがて両の手を顔の前に突き出して、背中を逸らして伸びをした。
 その姿をみて、藤乃の心を絶望が覆い尽くしていく。
 それでも、一縷にまで磨り減った希望にすがり、彼女はもう一度呼びかけた。
「あの、先輩。大丈夫ですか?」
「にゃー」
「…………ですよねー」
 終わった。
 色々と終わった。
 百パーセントの絶望に埋め尽くされて、藤乃の頬を熱い物が一滴、伝わり落ちた。



 体育座りでビルの壁に背を預けて、虚ろな瞳をしたまま藤乃は深いため息をついた。肝心の彼女の体は今、足元に丸まって背中を摺り寄せている。どうやら人懐っこい性格であったらしい。逃げ出すのを追い掛け回す心配だけはせずにすみそうで、その事だけは明るい材料に思えた。
 藤乃は丸まった自分の体の背中を撫で下ろす。嬉しそうに目を細めるその表情は、久しく自分では浮かべた記憶のないものだった。
 藤乃としては認めたくはなかった現実だったが、とにかく今の彼女と黒桐幹也は、精神が入れ替わっているらしい。
 もっとも、その理由については彼女にも心当たりがあった。もちろん確証は持てなかったが、自分の体の左手首に巻きついているブレスレットを見やり、彼女は深い深いため息をついた。
 アレに巻きつかれて藤乃は意識を失い、そして気がつけばこの状態だった。証明は出来なくても、あのブレスレットが限りなくクロに近い想像はつく。
 そして同じ状態が、おそらく幹也本人と、藤乃の体の現住人との間でも行われたのだろう。
 最初藤乃は、幹也の意識が催眠術のようなもので猫の真似をしてしまっているのだと思っていた。しかしこの状態を見るに、猫そのものであると考えた方がよさそうだった。
「そうすると、今頃先輩は猫の体になってしまっているという事なんでしょうか……?」
 ちょっと見てみたい。
 少しだけ口元を緩ませ、藤乃は空を仰ぎ見た。
 今になってようやく藤乃は気づいたが、幹也の体は今、左目が機能していない。自分で見るよりはるかに狭い空だったが、感じる美しさは変わらないものだった。
 その時、藤乃の足元の猫の様子が変わった。
 何かをひどく我慢しているように、目を閉じて顔をしかめている。藤乃の手を離れて、四つんばいに立ち上がった猫は、きょろきょろと周囲を見回している。
「猫さん、どうしたんですか? 」
 思わず声を掛けた藤乃だったが、次の瞬間、ある事に思い至る。
 そして、顔から血の気が引いた。
「ま、まさか……」
 猫は生き物である。
 生き物である異常、生理現象から逃れる事はできない。人間ならある程度我慢できるかもしれないが、猫にそれを期待するのは酷な話だ。
「だめ、駄目です! 絶対駄目!」
 しかし体の本来の持ち主として、そのような自体を許容できるわけがない。たとえ今の見た目がひょろ長い眼鏡の青年であっても、乙女心は変わらない。意地と尊厳が、今この瞬間にかかっているのだから。
「絶対駄目なんですっ!」
 慣れない体、慣れない感覚だという事を投げ捨てて、藤乃は猫めがけて飛び掛った。
「にゃー!?」
 意表を突かれたのだろう。逃げる事もできずに猫は藤乃に押さえ込まれてもがく、もがく! なんとしても逃れようと暴れ続ける。切羽詰っている野生はいつだって手加減を知らない本気である。
「駄目です! 逃しません! わたしの体で、そんな、そんな事絶対にっ!」
 押さえ込む藤乃も必死だった。
あの不良たちを追い掛け回している時だって、これほど必死ではなかった。見られたら死ヌ。生きていけない。何かに触れているという感覚に慣れてない彼女にとって、力をこめて押さえつけるという行為は違和感との戦いである。それでも、負けるわけにはいかなかった。
 もし逃したら。あまつさえ見失ったら。
 飼い猫なのか野良猫なのか分からない。飼い猫であるならば、飼い主の家で。野良猫ならば、そこらへんの道端で。何のためらいもなく生理的欲求を満たすわけである。外見は藤乃のままで。
「そんなの……」
罪を購う手段があるなら、命を投げ出す事だってできる。そう、藤乃は思っていた。
 でも人間の尊厳はまた別問題だ。羞恥プレイは勘弁願いたい。
「絶対にさせません! わたしの命に代えても!」
 墓に持って生きたい秘密は誰にだってある。死んでも見られたくない姿だって、同じくらい存在するはずなのだ。
 藤乃はうつぶせに自分の体に覆いかぶさって、腹の辺りに手を回す。おぼつかない手取りで、それでも何とか手首をそれぞれ反対の手で握り締め、がっちりと押さえ込む。
「にゃー! にゃーっ!」
「逃がしませんから!」
 現状の解決にならないのではという疑問は少しだけ浮かんだが、それでも他にいいアイデアなんか思い浮かばない。額に玉の汗を浮かべて押さえ込みを続けている、その時だった。
「…………何をしてるんだ、お前」
 聞き覚えのある声だった。
 上から降り注いだその言葉に、藤乃は顔を上げる。
 最後にあったその時と、変わらぬ格好をしていた。浅葱色の着物の上に、赤い皮のジャケットを羽織っている。肩口で切りそろえられた黒いつややかな髪に、刃物を思わせる、研ぎ澄まされた体の輪郭を兼ね備えている。
「両儀――式さん」
 あのブロードブリッジで命のやり取りをした時と、変わらぬ姿で女は藤乃を見下ろしていた。
 ――ただ違うところがあるとするならば。
 その手には割と大きめの黒猫が抱かれていて。
 そして彼女の目には、黒縁の分厚い牛乳瓶の底のようなレンズの嵌った眼鏡が掛けられていたということだ。


/5 式と藤乃と猫と幹也と



 話は少し前に遡る。
「お前さんの魔眼は、生きている物の終わりを見てしまうなんていう出鱈目だ。それはつまり、あらゆるものの繋がりが、綻ぶ所を認識しているという事だろう」
 何本目かのタバコを押しつぶして、橙子さんはにっこりと微笑んだ。僕も式もよく知っている、それは不吉きわまる物事の前兆である。
「……それで、オレに何をさせようって言うんだ?」
「話が早くて助かるね。特定の物をゼロから捜索するというのは、魔術でも科学でも困難きわまる。警察の捜査も、聞き込みからというだろう? 人間は生きている限り痕跡を残すもので、それをたどればおのずと終着へと行き着くわけだ。それは魔術でも変わらない」
 そういって橙子さんは、式に向かって何かを差し出した。
 長さが二十センチ少々。厚さと幅が七〜八センチほどの黒いプラスチックのケースである。
僕にはとても見覚えのある代物だったが、式は小首をかしげる。
「これは?」
「開けてみろ」
 いわれて怪訝そうに小首をかしげながら、式はそれを開ける。
 果たして中に入っていたのは、僕の想像通り。眼鏡であった。
「お前さんの魔眼にちょっとした方向性をつける。幹也と野良猫の中身が入れ替わった以上、互いの間には切り離せない繋がりが生まれているはずだ。その眼鏡をかければ、不可視のそれが一本の糸として見えるはずだ。鮮花のように何の当てもなく彷徨うよりは、はるかに効率がいい筈だぞ?」
 じっとこちらの顔を見て言う橙子さんの姿に、式は心の底から嫌そうに顔をしかめた。
「……もうちょっとましなデザインはなかったのか」
「仕方ないだろう。たまたま別件の作業をしている時の副産物だ。デザインにまでは気を配れなかったよ」
 ケースから取り出した眼鏡を見て、式はため息をつく。横から見た僕としても、おおむね彼女の意見に同意だった。黒縁は太すぎるし、レンズの厚さはまるで何かの冗談だ。ふた昔前くらいのドラマで、典型的ないじめられっこが身に着けている眼鏡そのものではないか。
 ……もちろん、僕の小学校時代も似たような眼鏡だったわけですが。
「……まあいい。四の五の言っても始まらないからな。こんな面倒な事はとっとと済ませる」
 乱暴にそれを掴んだ式は、もう片方の手で僕の体を掬い上げ、踵を返したのだった。



 ――確かに橙子さんのいうとおりだった。眼鏡をかけた式は驚くべきスピードで走り回ると、あっさりとこの路地裏にたどり着いた。
事務所からは2ブロックほど離れた場所で、大人の足で十五分ほどの所だった。
 考えてみれば僕が猫の体に慣れてないのと同じくらい、猫だって人間の体の使い勝手には四苦八苦しているはずだ。そんな状態で遠くに出歩けるわけもない。それでも式でなければ、これだけの速さでたどりつく事も事なかっただろう。
 と入っても、目の前の光景は予想外に過ぎた。
 僕が、見覚えのある女の子を路地裏で押し倒しているというのは。
 必死の形相で掴みかかっている僕(の体)の下で、顔をくしゃくしゃにして悲鳴を上げているのは藤乃ちゃんだった。あの事件から顔を合わせる事はなかったけど、まさか再会がこんな形だなんて。
 ……って、式! そんなぼうっと見てないで助けないと!
 彼女の腕の中でじたばたと暴れて訴えてみたけど、式はため息をついたまま、動く様子がない。
「……ああ、手遅れだったのか」
 え?
見も蓋もない事を呟いた式は、僕を地面にそっと降ろすと、つかつかともつれ合っている二人に歩み寄る。
「浅上藤乃、だな」
 疑問ではなく、確認する口調で式は尋ねた。
 圧し掛かっている僕の体に向かって。
 ……って、それは一体……?
「式……さん」
 僕の体が答えた。
 表情は、自体が飲み込めないのか茫洋としている。でも声にはしっかりと、人間の意志がこもっていた。
 僕と入れ替わっているはずの猫では、決して答えられないはずの、意思のある答えだった。
「久しぶりの再会がこんな形で不本意なんだがな。とりあえずお前に起きている状態は分かってる」
「それじゃ、その。今あなたの足元にいる猫さんが」
「ああ、幹也だ。それで今、お前が押さえつけてるのが」
「多分、その猫さんの本当の中身、だと思います」
 押さえつけられている藤乃ちゃん(の体)は、ものすごい形相で、僕(の体)から逃れようとして暴れている。
 理由はよく分からないけど、藤乃ちゃんは僕の姿を見つけて、異常に気づいて、そしてその異常に巻き込まれてしまったらしい。
 ……橙子さんがこの場に居れば、さぞ喜ぶんだろうなぁ。全部あの人が原因なのに。
「立てるか?」
「えと、体の方は大丈夫、なんですが。でも今立つと、その、わたしの体が……」
「大丈夫だって。仮に逃げ出したって見失いやしない。伊達や酔狂でこんな変な眼鏡をかけているわけじゃない……」
 不機嫌そうに呟いた式の、言葉の最後の方はかすれて、多分藤乃ちゃんには聞こえなかっただろう。

「幹也の体で、そんな真似をされてるのを見てたくない」

 言葉の裏の意味を感じて、僕の体が熱くなる。そう言ってもらえるのがとても嬉しかった。
「とにかく、半病人にそんな真似をさせておけるか」
頭を振って吐き捨てた式は僕の体に向かって手を差し出した。
「すいません。それじゃ……」
 実は体力的に限界だったのだろう。よろよろと藤乃ちゃんが式に向かって片手を差し出した時だった。
「にゃーっ!」
拘束が緩んだ藤乃ちゃんの体から伸びた手が振り回される。
 式には届かない。上に圧し掛かっている僕の体にも届かない。何かを狙ったわけではなく、たまたまその手の伸びた先には僕がいた。
「えっ……」
呆然としていて、とっさに反応が出来なかった。
 スローモーションのようにせまる、細いむき出しの女の子の手。そこには、見覚えのある意匠のブレスレットが巻きついていた。



「……いじょうぶか?」
 遠くから、式の声が聞こえる。
 ああ、大丈夫だよ。うん、大丈夫。
 軽く手を振る。それで直前の事を思い出した僕は、ゆっくりと起き上がった。
 猫が入っていた藤乃ちゃんの体に殴られた。その瞬間までは覚えている。痛みはなかった。それに、さっきまでに比べてずいぶんと視線が高い気がする。
 もやのかかっていた視界が、ゆっくりと焦点を結ぶ。目の前には不機嫌そうな表情を浮かべた式の顔と、今にも泣き崩れそうな表情を浮かべた僕の顔があった。不可抗力で入ってしまってる藤乃ちゃんには悪いと思ったけど、自分の泣きそうな顔というのは、なんだかとても可笑しかった。
「ああ、うん……大丈夫」
 思わず呟いて、気づいた。猫のままじゃ二人に伝わらないじゃないか。右手を上げれば分かってもらえるかな。
「ええと、どうしようかな……」
 高く澄んだ声が自分の口から出て、そしてようやく気づいた。
 何をどう間違えても、猫の体からこんな声は出ないだろう。
 思わず自分の両手を見た。細く白い、抜けるような肌に、小さく滑らかな手。猫の手では断じてない。そして僕の体だって、こんな綺麗な肌も手もしていない。
「……えと。その」
「とりあえず、猫は体を取り戻して逃げていったぞ。まあ、それで繋がりも切れたから問題はないと思うけどな」
「……そうすると、つまり?」
 いや、分かってるんだ。
 分かってるんだけど、あまり認めたくないというか。認めてしまってはいけないというか。
「すいません、幹也さん。ちょっと、使いにくい体かもしれませんけど……」
 深々と藤乃ちゃんに頭を下げられる。
 いや、藤乃ちゃんに謝られても。悪いのは僕と言うか、巡りめぐれば橙子さんと言うか。
 朝起きたら猫になっていて。妹や式に散々恥ずかしい目に遭わされて。そして終着点が藤乃ちゃんとか。
 僕が一体何をしたって言うんだろう。何の厄日なんでしょうか、これは。
「……とりあえずトウコの所に戻るぞ。ブレスレットは今そこにあるし、入れ替わってるのはお前と浅上だけだからな。そこを何とかすれば問題解決だろ」
「そう、ですね。何とか幹也さんにこの体をお返ししないと……」
 うん、それはまったく同感。
 でも、それはそれとして。
「あの、藤乃ちゃん。それに式……実は言いにくい事が……」
 いや、当然あるべきだったというか。むしろ今までそれに襲われなかったというのが幸運だったのかもしれないけど。でもよりにもよって今来なくてもっ!
「どうした、怪我でもしたの……」
「わーっ! 駄目です! お願いします幹也さん頑張ってっ!」
 怪訝そうに呟く式の言葉をさえぎって、藤乃ちゃんがしがみついてきた。
 いや気持ちは分かる! 僕も頑張りたいしそんな恥ずかしい目には遭いたくないけどっ!
「いや、お願いだから藤乃ちゃん揺すらないでっ! 我慢できなくなりそうっ!」
「そこを何とかっ! 先輩にそんなことされたら私もう生きていけませんからーっ!」
「……さっきから何を言ってるんだ、お前ら?」







/エピローグ



 わきわきと、拳を握って、開いて、感触を確かめる。
 ああ、懐かしくも嬉しい我が家への帰還である。たった半日くらいだったのに、ずいぶん長かったよなぁ。
 左側の閉ざされた懐かしい視界には、雑然とした仕事場の光景が映っている。憮然とした鮮花と、笑いをかみ殺している式が向かい合って座って、その真ん中に僕がいる。いつもどおりの光景で、異なる点は僕の向かいに藤乃ちゃんがいる事だろう。
 代わりに橙子さんは席をはずしている。いろんな理由で。とりあえず朝くらいまで。
「最初はびっくりしました」
 ティーカップを片手に、藤乃ちゃんがどこか遠い目をして言う。
「路地裏に幹也さんの姿が消えていったと思ったら、まさかあんな事してるなんて。あわてて止めなければ、どうなっていたか」
「……何をしていたのか、聞いてもいいかな、それ」
「聞かない方がいいと思います。いくらお腹が空いていたんだとしても……わたしも正直、忘れたいですから……」
 ……僕の体を使って、一体何をしていたのかな、猫さん。
 なんとなく想像がつくけど、多分あんまり深く考えたら負けだと思う。僕はまだ人間の尊厳を保っていたいし。
「浅上にとっては本当に災難だったんだな」
「でも、おかげで幹也さんにまた会えましたから」
 カップをソーサーに戻して、藤乃ちゃんがにっこりと微笑む。
 ……気のせいか、ちょっと部屋の気温が下がったような。
「ただ、今日みたいな形は不本意きわまりますから。また改めて御礼を言わせてください」
「ああ、それは構わないけど。僕も、ちょっとね。さすがに今日みたいなのは恥ずかしいし」
 苦笑いを浮かべて、僕は手を振った。
 生理的危機から、体を戻すまでの顛末はあまり思い出したくない。女の子にも男の子にも、触れて欲しくないし見みなかった振りをしたい部分はいろいろあるのである。
「それにしても、結局鮮花はどこまで行ってたんだよ」
「……ここと兄さんの家を二往復したわよ」
 苛立たしげに呟いた鮮花が、急に僕を睨みつける。
「兄さんも薄情じゃないですか!? 家族の絆より、そんな男女の変な眼鏡にふらふらとっ!」
「いやそれ僕がどうにかできる領分じゃないだろ!?」
「何の当てもなく鉄砲玉だった自分が悪いんだろ。落ち着けよ」
「うるさいわね! 大体何よあの眼鏡。いまさらそんな属性獲得しようったって手遅れよ。ああ、コメディアンに転職するって言うんなら止めないわ。兄さん置いてどこへでも行ってちょうだい」
「……猫に兄貴の名前つけて頬ずりするような奴に、ファッションセンスのあれこれは言われたくないけどな。大体デザインはトウコだ」
「溢れんばかりの親愛です。家族の愛です。他人のあなたには分からないでしょうけど」
「……武士の情けで一応言わないでおいてやるけどな。特殊性癖の考える事を理解しようとは思わないぞ」
 ものすごい勢いで鮮花と式の間の温度が下がっていく。僕に出来る事はただ、見守る事だけ。下手に手を突っ込んでひどい目に遭ったのも一再でないのだ。さすがに今日そんな目に遭うのはごめんこうむりたい。
「それにしても、黒桐さんも両儀さんもそんなに猫が好きだったんですね。わたしも、ゆっくり見てみたかった気がしますね。幹也さんが猫だった姿」
「……勘弁して欲しいな。もうあんな経験はこりごりだよ」
 冗談半分だろう、そんな藤乃ちゃんの言葉に、僕としては苦笑するしかない。
 違う誰かや何かになってみたいという想像をしたことがない人はいないと思うけど、やっぱりそれには違和感ばかりが付きまとうわけで。まして無理やりなんてのは、悲劇しか生まれないと思うのだ。
 まあ、関係ない第三者にとっては、こちらの悲劇は喜劇でしかないわけなんですが。
「ところで兄さん」
「なあ、幹也」
「ん?」
 不意に会話を振られ、思わず言葉に詰まった。見れば鮮花と式が、なぜだかじっと僕の所を見つめているではないか。
「わたしと式、どちらに撫でられたのがより気持ちよかったですか?」
「鮮花に悪いし、聞くまでもないとは思ってるんだが、一応はっきりさせておきたくてな。」
「……は、ぃ?」
 なんだか想像もしない方角から、とんでもない球を投げつけられてる気がするんですが。
「庭で何匹も放し飼いしてるような無責任女とは年季が違います。いろんな愛情しっかり込めて撫でてあげたの、兄さんならきっと伝わっていたと思うんですが」
「そんな邪な感情込めて可愛がるもんじゃないだろ、猫ってのは。そのあたりはちゃんと分かってくれると思ってるんだけどな、オレは」
 いや。その。
 何かがおかしいと思うんだ。ものすごく問題がずれまくってる気がするんだ。明後日の方角に。
「さあ」
「なあ」
『どっちだった?』
 思わず藤乃ちゃんの方を見たけど、ものすごく丁寧に視線をそらされてしまった。
 ……だよね。うん。その反応はとっても正しいと思う。
 さっきはあんな事を言ったけど、今だけは前言を翻したい。
 ああ、こんな板挟みに答えずにすむのなら、猫になって逃げ出したいです。本当に。










/おまけ



「うん、確かに出しっぱなしにしていたのは私が悪かったと思うんだけど。でもそれは私がいじっても起動しなかっただけで別に悪気があったわけじゃないんだけどなぁ。それにその後幹也君の体を捜す手伝いをちゃんとしてあげたじゃない。そりゃ、その端々で思わず楽しんでたのは否定しないけど、それは私の性格から来るものだから、それこそ悪意なんかないのに」
 作りかけで打ち捨てられた伽藍の堂の屋上を、ひときわ強い風が吹き抜ける。
 その中央、折れ掛けた鉄骨の根元で、蒼崎橙子は一人ごちていた。
 日は沈み、夜空には星が瞬いている。夏の入り始めのこの季節、夜の寒さは少しばかり身にこたえる時期だ。
 彼女の周りに置かれたのは、トレイに注がれたミルクと、砂の引きつめられた大きなお盆だけ。首には頑丈な首輪が掛けられ、そこから伸びた鎖が鉄骨にしっかりと結び付けられている。
「あー、もう。だから反省してますから。そろそろこれ外してちょうだいー!」
 がっくりうなだれた彼女の悲痛な叫びが、夜闇に飲み込まれて消えていく。もちろん反応は返ってこない。
「ちゃんと給料も出しますからー! と言うか寒さとかでいろいろ乙女の危機だから、本当に許してーっ!」
 声色が切迫してきたが、階段を上ってくる足音は、未だない。
 それが本当に来るのかどうか、当の橙子自身にもあんまり自信はなかった。



「……そもそも首輪を付けて柱につなぐのは猫じゃなくて犬でしょうに! いろいろ間違ってるんだから! 早急に待遇の改善と要求します許してー!」





【おしまい】