月想夜曲       


作 MAR





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 ドイツ南部、広大なバイエルン州の州都として栄えるミュンヘン。日本からの国際線も繋がっているこの都市は、ビールとBMWで名を馳せるドイツ有数の古都であり、そしてこの国の数多ある古城・名勝への中継地でもある。
 毎年数多く訪れる観光客で賑わうこのミュンヘン空港も、この時期はアルプスでのスキーを目的とした客などで一際喧騒に包まれている。
 その人波が、ある一部で静まりを見せていた。まるで波が浜へと押し寄せるかのように、一定の方向へ流れていく静寂。その速度は人の歩く早さに等しい。
「……だれだ、あの娘達は」
「モデルじゃないのか? きっと撮影の為にここに来たんだろう」
「本当に綺麗。あんな人たち、見た事ないわ……」
 静寂が過ぎ去った後、例外なく人々の間で交わされているそんな言葉。
 ちょっとした騒動の中心となっている二人の女性は、勿論そんな事は気にも止めずに歩いている。
「十二時間かぁ。やっぱり地球の裏側まで来るとなると結構時間掛かっちゃうわね。退屈しなかった? アルクェイド」
「ううん、そんな事ない。今日は本当に楽しかったよ」
 黒髪の少女が微笑み交じりに、隣に立つ金髪の女性に話し掛けた。アルクェイド、と呼ばれた彼女もまた、にっこり笑って頷き返す。そんな、ちょっとした所作ですら、この二人の行動は周りの目を引いていた。様々な人々が途切れる事無く訪れる国際空港と言う場所でも、彼女たちの姿は群を抜いていたのだ。
 もし彼女たちが人間でないと知れば、ここにいる人間達はどういう反応を示すであろう。
 多くの者は一笑に伏しつつも――やはり心のどこかで納得しただろう。
 そのどこか人間離れした美しさと、雰囲気ゆえに。
 死徒二十七祖が九位。『黒の吸血姫』アルトルージュ・ブリュンスタッド。
 肉持ちし精霊の姫。『真祖の姫君』アルクェイド・ブリュンスタッド。
 人ならざる二人の姉妹は、人の憧憬をその身に受けつつ、ただ自然にその歩みを進めていった。
 その先に佇む一人の男。年は二十代半ばか。隙なく三つ揃いを着こなし、くすんだ感じの金髪を後ろに撫で突けている。整った顔立ちをしているが、どこか人を寄せ付けない雰囲気は、その鋭すぎる眼光ゆえだろうか。彼は二人の姿を見てとると、深々と礼をもって出迎えた。
「待たせたわね、エルウィン」
「いえ、勿体無いお言葉です。アルトルージュ様」
 エルウィン、と言うのがその男の名であるらしい。アルトルージュの言葉に慇懃に応えた彼は、傍らに立つアルクェイドにその視線を移し……その動きが止まった。アルクェイドも彼の姿に驚きを露にする。その目を見開いて、意外そうな呟きを漏らした。
「驚いた、生粋の真狼種の姿を目にするとは思わなかったわ」
「んー、さすがにアルクェイドにはわかっちゃうわね」
「やはり……貴女様があの……」
 隠し切れない戦慄を帯びた呟きを漏らすエルウィンに、悪戯が決まった少女のようにくすくすと笑いながら、アルトルージュがアルクェイドの腕を引く。
「実際に会うのは初めてだろうから紹介しておくね。アルクェイド・ブリュンスタッド――私の、大事な妹よ。そして……」
 今度はエルウィンを指し示してアルクェイドに向き直る。
「彼はエルウィン。私の身の周りの事を引きうけてもらってるの。真狼の長からお預かりした、大事な一族のプリンスよ」
 真狼――欧州の深き森が自らを守るために生み出した、大地の守人とも言える種族。人狼などと混同される事があるが歴とした幻想種であり、その成り立ちは半ば精霊に近い。
 それゆえ受肉した精霊であるアルクェイドは彼らにとって同族、それもより母なる大地に近い彼女は、彼らにとって敬うべき存在なのである。
「エルウィンと申します、アルクェイド様。アルトルージュ様の妹君、そして真祖の姫君と言う事であれば、私にとっては主人も同然の方。以後何なりとお申し付け下さいませ」
「アルクェイドよ。よろしくね、エルウィン」
 にぱ、と微笑みかけるアルクェイドに、彼は少々面食らった様子で礼を返す。彼の知識にある『真祖の姫君』という存在との微妙な違和感に戸惑いを覚えているらしい。
「さて、立ち話もよろしくないわね。詳しい事は体を落ち着けてからにしましょう。随分と人目を引いてしまったみたいだし」
 苦笑交じりに、アルトルージュが妹の背を軽く叩いた。
 足を止める者、興味深げに振り返りつつも通り過ぎる者、そんな周りの人間達の行動で、彼女らの周りにはいつのまにか人だかりが出来ていたのだ。
「かしこまりました。ホテルの手配等はすべて済ませてあります。それではこちらへ」
 踵を返した彼が、野次馬達の群れを掻き分けるかのように進み出す。その後ろを優美な足取りでついていくアルクェイドとアルトルージュ。
 と、アルクェイドが不思議そうな顔で姉に向かって問いかけた。
「あれ、ホテルって。このまま姉さんの城に向かうんじゃないの?」
「最初はそう思ってたんだけどね。折角の旅行なんだし色々余裕を持って見て回りたいでしょ? だから今日はここで一泊。良い都市よ。素通りしちゃうのは勿体無いくらい」
「そっか、それは楽しみね」
 アルトルージュの言葉に、興味深げにふんふんと頷いて見せるアルクェイド。その様が外見に似合わずどこか子供の様で、思わず彼女の口元にも微笑が浮かぶ。
 妹の前に一歩立ち、アルトルージュは歌うように言った。
「ようこそ、アルクェイド。私の国、歴史の息づくこの土地へ」






 ミュンヘン空港から車で三十分ほど、二人を乗せたBMWが郊外を抜け、ミュンヘン市内を走り抜けていく。
「わ、すごいねあの建物。千年城みたい。どうやってあんなの作ったんだろう」
「あれはこの街の市庁舎ね。作られ始めたのが百五十年くらい前で、出来るまでに四十年も掛かったのよ」
「四十年! すごいね……途中で諦めようとか思わなかったのかな。あ、あれは?」
「どれどれ? ああ、あれはね……」
 忠実な従者の静かな運転の元、車中には溌剌とした声と、しっとりとした艶のある声が途切れる事無く満ちている。
 すれ違う車、窓から見える目に止まった物。興味を引かれた物全てに目を向けて、そして分からない事があれば隣に座る姉に尋ねるアルクェイド。
 ほんの一年ほど前。志貴に出会う前の人形だった彼女は、世界になど興味を持たなかった。彼女にとって世界とは、ロアのいる場所と千年城。その二種類しかなかったのだから、興味など覚える必要が無かった。
 目覚めて、蛇を狩り、再び眠る。それ以外に動く理由を持たない彼女にとって、他の世界など知る必要のない事だった。
 それが、断ち切られた。
 他の誰にも出来ない方法で彼女の鎖を断ち切った男。彼を愛し始めたその日から、アルクェイドにとって世界は光に満ち溢れ、知りたい事だらけの物になったのだ。
 目に映るもの全てが新鮮で、そして彼女を満たしていく大事な中身。それが分かっているからこそ、そんなアルクェイドに優しく教えていくアルトルージュもまた、どこか満ち足りた表情で彼女に接していた。
 こうして一つ一つ教えていく事で、豊かな彼女の心を作っていく事が伝わってくる。そしてその中に、彼女自身の事もまた加わっているのだから。
 今まで生きてきた中で一番幸せな時間。
 使い古された筈の言葉が、新鮮な響きを持ってアルトルージュの胸の内を満たしていた。
 そんな彼女の物思いが、ややすまなそうに掛けられたエルウィンの言葉で破られる。
「アルトルージュ様」
「……どうしたのかしら、エルウィン」
「はい、本日のアルトルージュ様、そしてアルクェイド様の宿泊先に到着いたしました」
「ん、もう! もう少し街中流してくれても良かったのに」
 ちょっぴり残念そうに呟くアルトルージュ。
「は……それは考えが至らず。まことに申し訳ありませんでした」
「いいわよ、あなたのそう言うところは嫌いじゃないもの。それにほら、見てみて、アルクェイド」
 アルトル―ジュの言葉に、アルクェイドも窓の外に目を向ける。五階建のその建物は、派手さは感じられないが、来る者にもそれなりの心構えを要求するような、そんな風格を兼ね備えていた。
 静かに入り口の前に止められた車から降り立ったエルウィンが、丁寧に後部座席のドアを空ける。すっと伸ばされた足から上品に車外に降り立つアルトルージュとは対照的に、ぴょんと飛び出したアルクェイド。あまり行儀がよろしいとは言えない行動だが、彼女の陽性の魅力を損なうものではなく、むしろ見る者に微笑ましさを呼び起こす光景であった。
 車の中からでも伝わってきたその建物の威容は、実際に目の当たりにすると更に強いものとなる。思わず感嘆の溜息を漏らすアルクェイド。
「なんか、凄いホテルだね。でもとても良い雰囲気がする」
「そうね、歴史も古いしミュンヘンで一番と言う評判のホテルだから。先先代くらいの支配人の頃からよくお世話になってるけど、本当に良い所よ」
 さらりと言ってのける。実際、手馴れたものなのだろう。走りよってくるドアマンたちの態度も、お得意様に対するそれの雰囲気がある。
 彼らに運びこむ荷物の指示をテキパキとこなしたエルウィンが、アルトルージュに向き直った。
「アルトルージュ様。実はここに予約した際頼まれた事がありまして。ホテルの支配人が是非ともアルトルージュ様に御挨拶したいとの事なのですが……」
 その言葉に、彼女の柳眉が寄せられる。
「本当に? 困ったわね……その間アルクェイドを待たせておくのも、ねぇ」
 額に手を当て、考えこむアルトルージュの肩を、ツンツン、とアルクェイドが突つく。振り向いた姉に向かって、両の手を合わせてお願いのポーズをする妹。
「それだったらさ。わたし一人で街の中見て回ってきても良いかな? そんなに遠出するつもりは無いから、あなただったら居場所わかるでしょ?」
「それはダメよ、もし何か……」
 言い掛けて、アルトルージュは苦笑を浮かべた。
 一体、どこの誰が彼女をどうにか出来るというのだろう。心配なのは迷子になる事位だけれど、それだったら自分が頑張って捜せば良いだけの事。それに、小猫の様にうずうずと初めての場所に惹かれているアルクェイドの気持ちを摘み取る真似は、残念ながら彼女には出来ない相談だった。
「ね、お願い?」
「もう……分かったわよ。だけどあんまり遠くへは行かないでね?」
 妹に甘すぎる自分に内心吹き出しそうになりながらも、彼女は頷いてみせた。
「うん! それじゃ、また後でね」
 言うが早いかくるりと回れ右して二人に手を振ると、アルクェイドは軽やかに街の中に溶け込んでいった。自分より明らかに年上に見えるであろう彼女が、童女のような仕草で自分に頼み事をしていく様は、傍から見ればどんなものなのだろう。そんな事を思い浮かべたアルトルージュは、あっけにとられた顔をしたエルウィンに気付く。どうやらここにその絶好のサンプルがいるみたいだ。
「どうしたの? そんな顔しちゃって」
「はい……まことに失礼ながら、伝説に伝え聞くあの方の姿とは随分と、その、差があるというか」
 言っていいものかどうなのか、口篭もりつつもそう漏らしたエルウィン。
「『白の姫』『魔王殺し』――我々の一族に伝わるあの方の話は、そういった畏怖と共に称えられるような物であったので。正直驚いています」
「ふふ、そうだと思った」
 艶然と、口元に手を当てて笑うアルトルージュ。少女のような外見に似合わぬ筈のその仕草は、しかし彼女には不思議と似合っていた。
「昔の彼女は正にそのとおり。あんな風に笑う事も、ああやって溌剌と飛びまわる事も無かったの。淡々と、与えられた仕事をするだけのお人形。それが、彼との出会いで変わったの」
「彼……ですか?」
「そうよ。アルクェイドの未来の旦那様」
「……未だに信じられません。よもや真祖の姫君が、よりにもよってヒトと結婚するなどと……」
「でしょうね。私も最初はそうだったもの。だけど自分の目で確かめて思った。アルクェイドの旦那様は、彼じゃないとダメなんだって。本当によかったわ。妹がそう言う人にめぐり合えて」
 その言葉に、どこか隠し切れない寂寥を感じ取れたのは、エルウィンが彼女に長く仕えてきた故かもしれない。しかし口に出しては何も言わず、ただ静かに頷くのみであった。
「さて、それじゃこちらの用事も済ませてしまいましょう」
 その気使いを感じ取ったか、そう言うとアルトルージュはホテルの中に向かって歩き出していったのだった。









「うぁー、大きい。どうやってこんなの作ったんだろう」
 アルクェイドの目の前に聳えるのは巨大な双塔。ミュンヘンのシンボルであるフラウエン教会を、感嘆の呟きを漏らして彼女は見上げていた。
 冬の日としては珍しい、柔らかい日の陽射しが街を包んでいる。
 石で組み上げられた――そんな印象を与える重厚な町並みの中で、躍動的な彼女の姿はより際立って見えるようであった。
「実際に寒くなくても着てなさい。ただでさえ、貴女は目立つんだからね」
 旅立つ前、そんな台詞とともにアルトルージュに着せられたラビットファーの白いコートも、彼女の美しさをより際立たせていた。選んだ姉の選美眼の確かさを証明する物であったが、少しばかり正しすぎたらしい。事あるごとに満ち行く男に声をかけられ、アルクェイドとしては少しばかり閉口していたが。
「あ、これ上に上れるのね。せっかくだし……」
 観光客にミュンヘンの眺望を提供する、その教会のサービスに気がついた彼女がそちらに足を向けた時。その耳に小さな悲鳴のような声が聞こえてきた。
「誰か、お願い……!」
 何事かと振り向いたアルクェイドの目が捉えた、百メートルほど離れた所の光景。
 十歳を少し越えたくらいだろうか。一人の少女が街路樹を見上げて途方に暮れている。その視線の先には、風にでも舞い上げられたか、枝に帽子が引っかかっていた。彼女は何度も飛びはね、頑張ってそれを取ろうとしているのだが、残念ながらその手を届かせるには引っかかっている枝が高過ぎるようであった。
 道ゆく人々の中には立ち止まる者もいるのだが、その枝の高さを見ると皆一様に首を振り、再び足早に立ち去ってしまう。
 やがて少女は俯き、とぼとぼとその街路樹を後にしようとした。
「……うん。やっぱり放っとくのはよくないよね」
 一人頷いたアルクェイドは、すぐさまその少女を追いかける。彼女にとってこの程度の距離の差は無いに等しい。他の人が不自然に思わない程度の早さではあったが、すぐに少女に追いつくとその肩をぽんぽん、と叩いた。
「……え?」
 赤く泣き腫らした目で、何事かと振り向く少女。アルクェイドはにっこりと笑いかける。
「お姉ちゃんが取ってあげようか? あなたの帽子」
「ほんとう?!」
 途端に明るくなった顔が、すぐにまた暗くなる。
「でも……お姉ちゃんじゃきっと無理だよ。あんなに高い所にあるんだもの……」
「任せて! こう見えてもお姉ちゃん、ちょっと凄いんだから」
 得意げに胸を叩いて、アルクェイドは枝に引っかかった帽子に目を向ける。彼女が手を伸ばした上、一メートルを少し越えたほどの高さと言った所であろうか。勿論彼女にとってはなんでもない高さである。その気になればこの街路樹の天辺にですら一息で飛び上がれるのだから。
 ――まぁ、このくらいの高さならそんなに変に思われないわよね。
 内心呟くと、軽く助走をつけて、全力で飛び上がる振りをする。跳躍とも言えないような力で地を蹴った彼女の手は、それでも軽々と帽子に届いてみせた。
 枝に軽く掛かっていたお蔭だろうか。薄いピンクのリボンの掛かった白のカサブランカ帽は、どこにも傷も汚れも無い状態であった。
「はい、どうぞ」
 すっと帽子を差し出すアルクェイド。それを受け取った少女の顔が、花が咲いた様に明るくなる。
「わー、ありがとうお姉ちゃん! 凄いね、あんなに高く飛び上がれるなんて!」
「へへー。言ったでしょう? 任せてって」
「お姉ちゃん、スポーツ選手だったんだ!」
「あはは。うん、そんなような物かな。いい、今度は気をつけなきゃだめだよ?」
「うん、本当にありがとうね、お姉ちゃん!」
 今度はしっかりと片手で帽子を押さえて、もう片方の手でアルクェイドに手を振る少女。駆け出していった彼女の姿が見えなくなるまで、アルクェイドも笑顔でその手を振っていた。
「見たか今の。凄いジャンプだったな」
「バレーの選手かな?」
「でもあんなに綺麗な選手いたなんて初耳だぜ」
「いるんだねぇ、ああ言った優しい人間も」
「凄いぞ、ねーちゃん! よくやった」
 いつのまにかアルクェイドの周りには人だかりが出来ていた。
 好奇、感嘆、賞賛……様々な視線が寄せられてる事に気付いた彼女は、照れ笑いを浮かべつつも思わずそこに立ち尽くしてしまう。
「もう! あなたを探すのって苦労しないわね」
 そんな人の山からひょっこりと出て来る黒髪の少女。
「ねえさ……アルトルージュ! もう用事は終わったんだ」
「うん、思ったより早く済んだの。さぁ、行きましょ」
 苦笑交じりにそう言うと、アルクェイドの手を取り歩き出す。突然現れた黒髪の美少女に再び感嘆の声が上がったが、さすがに彼らも行く手をさえぎるような事は無く、二つに分かれた人の群れの中を二人は小走りに抜けていった。
「でも意外だったな。わざわざ帽子とってあげるなんて」
「なんだ、見てたんだぁ」
 アルトルージュの言葉に、えへへ、と照れたように言うアルクェイド。
「んと、志貴ってああ言う風に困った人がいる時って、絶対に何とかしてあげようとするんだ。そう言うのいつも見てたら、つい、ね」
 屈託無く笑うその様に、つられてアルトルージュも笑い出した。
「そっか、確かに志貴君ならそう言う事しそうね」
「うん、前もそれで木に攀じ登って、落ちそうになったんだから。わたしが代りにやるって言っても、「いいの、こういう事は俺がやるもんだ」って言って聞かないんだよ?」
 ころころと表情を変えてその時の様を説明するアルクェイドの様は、本当に楽しげであった。
 でも、きっとそれは自分の最愛の男の事を話しているから。
 その事に気付いたアルトルージュの心に、影がよぎる。
「ごめんね、アルクェイド……」
「いきなりどうしたのよ?」
「やっぱり本当は、志貴君と来たかったんでしょ?」
 目を伏せてポツリとそう呟いたアルトルージュ。その手が、すっと柔らかく握られる。彼女が視線を上げると、そこには頬を膨らませたアルクェイドの顔が。
「もう! わたしだって本当に楽しくないなんて思ってれば、来るわけないじゃない。志貴とはちゃんと新婚旅行するんだもの。今は姉さんとしっかり楽しみたいの。そんな顔されちゃったらこっちまで哀しくなっちゃうよ?」
「アルクェイド……」
「わたしこの街の事ほとんど分からないのよ? 案内してくれなきゃ困っちゃうんだからね」
 その顔に、アルトルージュの顔が恥ずかしさで赤らんでしまう。
 自分は何を馬鹿なことを言っていたのだろう。どうにも、妹のことが絡むと冷静な自分でいられなくなってしまうようだった。そんな気持ちを振り払うかのように、握られた手をそっと握り返して、一歩前に出る彼女。
「ごめんなさい。それじゃ飛び切りのお勧めルートで案内してあげるわね」
「うん! よろしくお願い、姉さん」
 そう言って、二人は顔を見合わせて笑いあった。







 少女の心は、今にも体から飛び出していかんばかりに弾んでいた。
 誕生日に母親から買ってもらった帽子。
 店で一目見て気に入ってしまった事を、大好きな母は覚えていてくれて。家はそんなに裕福ではない筈なのに、朝起きたら枕もとに置いてあった、本当にお気に入りの帽子。
 なのに風の悪戯で、高い、高い木の枝に引っかかってしまって。
 自分では届かない。誰も助けてくれない。もう諦めるしかないんだろうか。
 そう思っていた時に、まるで御伽噺の魔法使いのように現れた、金髪に赤い瞳の綺麗なお姉ちゃん。あの人のお蔭で、またこうしてこの帽子を被る事が出来るんだ。
 幸せは体も軽くしたのか、少女は軽やかに路地を舞い歩いていた。
 だから大通りから家のある細い路地に入った時。
「可愛い帽子だね、お嬢ちゃん」
 そう声を掛けられても、何の疑いもなく少女は屈託ない笑顔で振り向いた。
「うん、可愛いでしょう?」
 少女の目に映ったのは、すらりとした体躯の若者だった。
 黒いインバネスに身を包み、シルクハットを頭に乗せている。今時街中ではお目にかかれない格好が、妙に似合った人物であった。
 優しくて綺麗な目鼻立ちは、男のようにも女のようにも写る。薄い色のついたサングラスをかけてニコニコと微笑みかけてくる笑顔は、どこか少女の心を落ちつかせるものであった。
「実はさっき通りかかった時、凄く困ってるようだから。ボクも助けてあげようと思ってたんだよ」
「え、ほんとうに? お兄ちゃんもあんなに高く飛べるんだぁ」
 とりあえず少女は男の人だと思う事にしたらしい。大きな目を丸くして、驚きの表情で青年を見つめる少女。その素直な表情に、その人物は苦笑を浮かべる。
「う〜ん、ボクにはそれは無理だなぁ。だけどね……」
 コートの中に手を入れた青年が取り出したのは、色は異なるが少女の持つのと同じデザインの帽子。それだけではなく、形の違う様々な帽子が五つほど、魔法の様にその手に現われていた。
「わ、すご〜い!」
「ボクは帽子屋だから、代りの帽子をあげられるよ? もっと可愛い帽子だってある。そうだ! キミのと交換しないかい?」
 その言葉にしばし目を伏せて考えこんだ少女は、首を横に振った。
「ううん、これはダメ。これは大事な帽子なの」
「そうか、それは残念だな」
 溜息をついて帽子を再びしまいこむ彼。そのままそっとかがみこんで、少女の目線まで自分の顔を下げてきた。
「でもよかったね。その帽子、無くさないですんで」
「うん!」
「あの親切なお姉ちゃんのお蔭だね」
「うん……あ!」
 頷きかけた少女の顔が、見る見るうちに暗くなる。
「どうしたんだい?」
「お母さんに言われたの。「人から親切にしてもらったら、後で必ずお返ししなさい」って。だけど、あのお姉ちゃんの名前聞くの忘れちゃった……」
 しゅんと顔を伏せてしまう少女。実際は名前を聞いただけではお礼のお返しは出来るものではないだろうが、少女にとってそれは重大な問題だった。
 その顔を見た青年は、サングラスを外して柔らかく微笑んだ。艶のある切れ長の目。その中の瞳は、透き通るような赤色。
「お礼、したくないかい? 帽子を取ってもらった」
 その笑顔が悪戯っぽいものに変わっている。だけど少女にはそんな事はわからない。ただ、先ほどのお姉ちゃんと同じ色の目を見ていると、なぜか安心できたのだ。
「お兄ちゃん、あの人の事知ってるの?」
「知ってるとも。とてもよく知ってる。だからキミがもしまた会いたいのなら、会いに連れていってあげるよ」
「本当に?!」
 少女は目を輝かせた。頭にほんの少しよぎった、「知らない人に付いていっちゃダメだ」という母親の言葉も、すぐに脇に追いやられてしまう。
 もう一度あの綺麗なお姉ちゃんに会いたかったし、目の前の青年も悪い人には見えなかったから。
 この人なら大丈夫。こんなに綺麗な目をした、綺麗なお兄さんだもの。きっと良い人だ。
「さぁ、付いておいで」
 そう言って彼が差し伸べてきた手に、少女は何の疑いも抱く事無く掴まった。
「ねえ、あのお姉ちゃん、名前はなんて言うの?」
「ふふ。あの人はね、アルクェイドっていう名前なんだ」
「あるくぇいど?」
「そう、アルクェイド・ブリュンスタッド。綺麗で、本当に綺麗で怖い、月の国のお姫様なんだよ」
 詠う様に言葉を紡いだ青年は、優雅にその身を翻す。はためいたインバネスがふわりと、少女の姿を包みこんだ。
 



続く