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 耳障りなほど甲高い音が、部屋の中に響き渡った。
 砕けた硝子の欠片が、光に煌きながら寝台に降り注ぐ。遅れて壁を伝った琥珀色の波が、もたれ掛かるリタの髪を、肩口を濡らしていった。
 羽織っていた純白のYシャツが体に張り付き、その下の肉感的な肌を露にする。頬を伝う雫を舌を伸ばして舐め取り、リタは無法の主に向かって口元をゆがめた。
「随分と久しぶりに会ったってのに。感激の抱擁より先にお酒かい? もう少し優しく手渡してくれると嬉しいな」
「ふんだ、あたしとあんたがよぉ? 今更感激の涙を流しながら抱擁するような間柄だったかしらぁ?」
「心外だなぁ。ボクは何時だって君を一番大切に思っているってのに」
「あはははは! あんたあたしを笑い死にさせる気かこら。そう思ってるなら身なりくらい整えて出迎えろってのぉ」
 それだけで普通の住宅がすっぽり入りそうなほど、部屋は広い。
 その中央に据えられた、巨大な寝台の更に先。リタと向かい合う女は、心底可笑しそうに身を捩って笑い出している。
 それだけの距離を隔てていてもよく通る、澄んだソプラノ。女の容姿も、その声に見合った物であった。
 ゆるく波打ち腰ほどまで伸びた淡い紫銀の髪は、まるで水に濡れたような艶を放っている。すっきりと抜けた鼻梁も、その下の小ぶりの唇も精緻な均衡を保っている。やや目じりが垂れ気味だが、それが逆に彼女の女らしい魅力を醸し出している。頬には赤みが差し、瞳はひどく潤んでいる。女が深い酔いに身を任せているのは明らかだった。
 久方ぶりの邂逅にも関わらず、彼女の湛えた美しさに翳りはない。リタのように闇の中で映える物ではない。自ら内より光を放っているかのような、陽性の美。煌くシャンデリアの下、豪奢なドレスに身を包んでいればさぞかし場をにぎわす花となった事だろう。しかしそんな自分の持ち味など興味ないとばかりに、今の彼女を包んでいるのはレザーのビスチェに着崩した男物のジャケットとホットパンツ。あげく口を大きく開けてけらけらと笑い続けている。
 それを眺めているリタは、感嘆と少しばかりの落胆を込めて呟いた。
「身なりはお互い様だろうに。そんな可愛いのにもったいないよ」
 しかしそんなリタの言葉など関係ないとばかりに、女はくたりと入り口の壁にもたれ掛かり、腕組みをしている。細くしなやかな指が、まるでワイングラスを持つようにウィスキーのボトルの首を摘まみ上げ、玩んでいた。半分ほど残った中身が、振られるたびにちゃぽちゃぽと音を立てる。
 先ほどまでの笑顔が一転し、女の顔には今や不機嫌そうな表情が刻み込まれていた。
 酔っ払いにありがちな移り気に、リタは苦笑した。彼女は昔からそういう人物だったし、確かに彼女の言うとおり、自分の格好もだらしのない事は間違いない。
 お互い、今更言っても詮無い事なのだ。遥か昔から、彼女とはそういう気の置けない付き合いをしてきたのだから。
「今更気にするような事じゃないだろう? 君とボクの仲なんだから」
 悪戯っぽい笑みを浮かべながら、リタは投げ出されていた足を持ち上げた。そのままくいくいと、手招きするように膝を屈伸させてみせる。
「ほら遠慮せずにどうぞどうぞこっちへおいでよ。ベッドの中はあったかいよー?」
「ばーか。あたしゃあんたみたいな変態じゃないのよぉ。女の裸なんか見たって、嬉しくも何ともないってのぉ」
「ちぇ、つれないね」
 悪巧みが空振りに終わり、肩をすくめたリタは残念そうに立ち上がった。
 Yシャツの前は閉じられていない。確かな膨らみを見せる形良い乳房もその先の桜色の突起も、すらりと伸びたしなやかな足もその付け根の翳りも全て露になっていたが、気にも留める様子は無かった。
 そのまま寝台から降り立ったリタは、スキップするように軽く床を蹴る。
 ただそれだけで、彼女の体はふわりと空を舞う。
 入り口までの距離は、十メートルを優に超えている。羽織っただけのYシャツがはためく様は、まるで彼女の背中に翼が生えたかのよう。
 一瞬の飛翔は、着地まで流れるように決まっていた。
 女も随分と背が高かったが、リタには及ばない。音も無く女の前に降り立ったリタが、覆いかぶさるように身を寄せて、女に囁きかける。
「グラスを投げつけるだなんて、挨拶にしては随分過激だったけど。君らしいね、スミレ」
「それこそ今更いまさら。むしろ当たっておけば良かったのにねぇ。そうすればさぁあんたの腐った頭も少しマシになったのにぃ」
 スミレと呼ばれた女は、とろんと潤んだ目を細めると上目遣いで毒づいた。顔に似合わぬその口の悪さに懐かしさと心地良さを感じて、リタは顔を綻ばせる。
 水 魔(ウォーターボトル)スミレ。
 彼女はリタが先代から地位を継承する前から祖の地位にあった大死徒であり、そしてその頃から付き合いを続けていた、リタにとって唯一友と呼べる存在だった。
 流れ水を克服し水に棲む彼女は、丘に上がる事は稀である。祖として君臨している以上、自らの領地と城を持ってはいるのだが、そこに留まる事などほとんどない。故に聖堂教会すらもその行方を掴めず、彼らをして自嘲交じりに『永遠の放浪者』と吐き捨てられていた。
 その性格は極めて気まぐれで自堕落。そんな彼女が自らの意思で地上に姿を現す理由はただ一つ、自分に会いにくる時だけだとリタは知っている。
 再会を喜び合い、浴びるほど酒を飲み、適当に見繕った獲物の首筋に牙を付きたてる時もある。かと思えば、些細な諍いから疲れ果てるまで殺し合いをする事も一再ではなかった。
 果たして今日はどちらのつもりで来ているのか。
 リタは笑顔のまま小さく肩をすくめた。折角来てくれたのに、本当に間の悪い事だと嘆息する。
「本当に相変わらずで嬉しいよスミレ。ボクもこのまま君と遊んでたいんだけどなぁ」
「んぁ? 折角来てやったってのに歓迎は無しかこの甲斐性なし」
「気持ちは溢れるほどあるんだけど。残念ながらボク、これから仕事に行かなきゃいけないんだよ」
「は、仕事ぉ? あんたみたいな遊び人があくせく働いてるだなんてぇ一体何の冗談かしらぁ?」
「ひどいなぁ。実はボクは勤勉極まりないのに」
 リタは苦笑して手を伸ばすと、指を彼女の頬に這わせる。
 ひんやりと冷たく、しかし指先が溶け込みそうに柔らかい感触に、リタはひどく心が揺さぶられる想いだった。これから始まる事に向けて、どうやら少なからず緊張していたらしい。それをスミレも察しているのだろうか。
「……あんたさぁ、馬鹿だ馬鹿だと思ってたけど。そんなに馬鹿だったってのは今日初めて知ったわよぉ」
 耳に届く声が、どこか耳障りだと感じた。リタとしては不本意極まる感情が、その声には込められている。
 友達と呼ぶ女に似合わない気遣いをさせるなど、彼女の流儀に反する事夥しい。
「全く……こんなに可愛い顔をしてるのにねぇ。その口の悪さはどこから来るのかなぁ?」
「茶化すな、馬鹿。うっとうしいから」
「あー、また馬鹿って言ったな?」
「うっさい。わざわざ死にに行くなんていってる友達見つけて、馬鹿だと言って何が悪いのよぉ?」
「んー、何の事さ? まぁ君に心配してもらえるのは嬉しいけど」
「だから、茶化すなって言ってるの!」
 乾いた音が響き渡った。
 組んでいた腕を解いたスミレが、頬を撫でるリタの手を払いのけたのだ。目を丸くするリタを尻目に、彼女はするりと腕の檻から抜け出ると、そのまま手にしたボトルをラッパ飲みで煽ってみせる。とても上品とはいえない光景なのに、その仕草はひどく似合っていた。
 深いため息をつき、再び壁に寄りかかって苛立たしげに自らの髪の毛を弄ぶ。傍から見れば酔っ払いの行動そのものだったが、スミレの顔からはいつの間にか酒精は抜け落ちていた。
「確信犯にわざわざ言うのも馬鹿らしいんだけどさ」
 つい先ほどまで間延びしていた口調も、はっきりとした滑舌に変わっている。
 茶化して煙に巻くなど許さない。変わることのない矢のような視線が、そう言うかのように向かい合うもう一人の吸血姫を射貫いていた。
「あのさ、『白き姫には近づくな』――それがあたしらの不文律でしょーが。なのによりにもよってアルトルージュの姫さんの城で、一戦交えたって、あんた正気? いくらトラフィムの狸オヤジの命令だからってぇ、やりすぎだってのよ馬鹿馬鹿この馬鹿!」
「あれ、全部お見通し? 君こういうのに全然興味ないって思ってたのに」
「興味なんてあるわけないでしょーが。そんな面倒事なんか、側によるのも真っ平ごめん。だけどねっ! あんたがあれだけ派手に動けば全部伝わってくるっての! 救いようのない大タワケかあんたは!」
「うーん。君の馬鹿って言葉もずいぶんと懐かしいけど、あんまり言われると本当にボクが馬鹿なんじゃないかって思っちゃいそう」
「はンっ! 意味のない自殺志願者なんか、馬鹿以外の何者だっていうのよ!」
「意味がないわけじゃないさ。それどころか、千載一遇のチャンスだって思ってる」
「はぁ? 何わけの分からない事を……」
 スミレの罵倒を遮るように、リタは口元を吊り上げた。瞳からはいつの間にか笑いの色は消えて、スミレの視線を揺らぐことなく受け止めていた。
 確かに自殺に等しい行為かもしれないね。
 リタの呟きは音にならずに、口の中で消える。
 もう一人リタがいれば、冷たい視線で自分の行動をせせら笑っていた事だろう。それでも、彼女はこのチャンスを逃す気はなかった。まずは目の前の酔いどれ分からず屋を説得すると言う高いハードルがあったとしても。
「じゃあ聞くけど。君は今までに飲んだ事もないような美味い酒が、手の入りそうなところに在ったらどうする? それはとっても大事に保管されてて、ちょっとやそっとじゃ手に入らない。でも頑張ればひょっとしたら、ひょっとしたら手に入れられるかもしれない。それでも君は回れ右出来る人だったかなぁ?」
「む。それは……」
 その言葉にスミレは思わず詰まった。その顔を見て満足そうな笑みを浮かべると、リタは濡れた髪の毛を掻き揚げながら艶の篭った熱い息を漏らした。
「ほら、出来るわけないよね? ボクにとっても同じ事。僕はどうしてもアルトルージュが欲しいんだから、アルクェイド・ブリュンスタッドと戦うのだってしょうがないじゃないか。それにご執心の人形を壊されれば、アルトルージュの綺麗な綺麗な顔も、苦痛と絶望に歪むに決まってる。あは、想像するだけで体の奥が熱くて熱くて、濡れてきちゃうね」
 思い浮かべた想像に刺激され、リタの笑顔が陶然とした物に変わる。身をくねらせながら、空いたもう一つの手を下へ下へと滑らせていく。滑らかな下腹部を通り過ぎ、さらにその下へと。
 一瞬呆けていたスミレが、その様に我に返った。
「あ、あ、あ、あんたって奴はぁっ! 本当にそれしか考えられないのかこの変態両刀色情魔っ!」
 部屋を揺るがすような怒声が響き渡った。
「死ね、今死ねすぐ死ね百回死ねっ!」
 叫び声と共に、空気の壁を破るような勢いで酒瓶が飛んでくる。
「きゃっ!」
 互いに腕を伸ばせば届きそうな距離。普通ならばかわせる筈もない。
 それでも、投げた方も投げられた方も常識の反対側にいるような存在だ。おどけた悲鳴を上げながらも、リタは易々とそれを顔の前で受け止め、唇を尖らせた。
「こらスミレっ! グラスも酒瓶も投げるもんじゃないだろう。当たったら怪我しちゃうよ」
「殺すつもりで投げてるんだから、大人しく怪我位しろっ淫乱女! そうすりゃアホな事もできないだろうからっ!」
「うわ、ひど。あんまりにも友達思いの発言で、涙が出てきそう」
 眉を顰めたリタは、やれやれと首を振ると手にした酒瓶を呷った。
 口元に溢れた琥珀色の筋が顎先を伝い、白い肌を滑り落ちていく。
 上等な酒など飽きるほど飲み干してきた筈なのに、その味はひどく彼女の喉に染みいってくる。
 指先で口元を拭って、スミレに向き直ったリタの顔には、もはやおどけた様子は微塵も無かった。
「大体さ、君はボクが何でこっち側にいるのか、よく知ってるだろう?」
「忘れたわよ綺麗さっぱり。あんたの考えてる事なんてどうせ大したことじゃないんだから」
「嘘つき。嘘を付いた時の色は良く知ってるよ」
「……勝手に覗くなこのすけべっ!」
「そんな事言われてもねぇ。『視』えちゃうんだからしょうがないじゃないか」
「……ふん」
 小さく笑ってつぶやいたリタに向かい、何か言いかけたスミレは口を閉ざし、睨みつけるだけ。
 そんな、友の不器用な気遣いがひどく重かった。
 壁に背を預けたリタは、髪を掻き揚げ気だるげに上を向く。
 磨きぬかれた石造りの天井。淡い光を放つ燭台。長き時にあかせて掻き集めた芸術品。見飽きるほど眺めた自らの部屋は、どれだけ見つめたとてもはや何の感慨も彼女には抱かせない。
 寄り付いてくる、有象無象たちの心のように。
 向かい合う相手の心が見える――リタの能力は彼女に多大なる栄光と、同じだけの失望をもたらしていた。
 贄にした獲物の心も、彼女に媚びへつらう俗物の心も、見えるたびに彼女を退屈させていく。
 だから彼らと異なる輝きを放つ心は、それだけでリタにとって至高の宝石にも似た魅力で誘いを掛けてきた。長き生命を天秤の片側に乗せても惜しくないほどに。
 無論、そんな輝きを見せてくれた相手など片手の指ほども居なかった。
「まぁ、恋をしない君には分からないかもしれないけどね。惚れた腫れたに理屈なんてないんだよ」
 部屋の空気に溶け混ざるには、その呟きは熱が篭りすぎていた。
 スミレは纏わりつく音を振り払うかのように、苛立たしげに頭を振った。
「理解できないわ。したくもないけど」
「そう?」
「そうよ。そこまでしてアルトルージュが欲しいなんて、そんな変態趣味理解したくもない。命投げ捨ててまであんな女に色ボケしてるなんて、あんた本当に、本当に大馬鹿よ。信じられないわ」
「あんな女、か……手厳しいね、スミレ」
「当たり前よ! あんたもいい加減目を覚ませっ!」
 乾いた音が部屋に響き渡った。
 スミレはたおやかな小さい手を震わせている。
 リタの頬に朱が走った。遅れて伝わってきた熱と痛みが、スミレに頬を張られたのだと理解させた。
 気だるげだったリタの瞳に、徐々に熱が戻っていく。目の前の友人と同じ、怒りの光が灯っていた。
「……君の事は大好きだし、君の気まぐれはいつもの事だけどさ。ボクは仕事の前に君と殺し合いはしたくないんだけど? 疲れちゃうし」
「あっそう。怒るくらいの意思はあるんだ?」
「……何が言いたいんだい、スミレ?」
「あんたが自分一人で自分の意思で好き勝手やってるんだったら止めやしないわ。だけど今のあんたはトラフィムの爺に利用されてるだけじゃない。あいつがブリュンスタッドに喧嘩売るのは勝手だけど、あんたが手足のように使われてどうすんのよ。カッコ悪過ぎだってのよ馬鹿っ!」
 スミレの細腕が再びうなりを上げるが、今度は目標には届かない。
 鈍い音と共に掴まれたスミレの腕が、小刻みに震える。食い込んだリタの指の爪が皮膚を裂き、深々と潜り込んでいた。
 溢れ出した紅い血が、互いの手首を伝っていく。しかしスミレは眉一つ動かさず、火の出そうな視線でリタを睨みつけている。
 リタもそれを受け止め、手に更に力を込めていく。誰よりもよく知っている目の前の分からず屋が、こんな程度で音を上げる訳もないのだから。
「誤解してるね、スミレ」
「はっ、何が誤解なんだかっ。図星付かれて腹立ててるんでしょうが」
「誤解さ。王様(トラフィム)が何を思おうとも関係ないんだよ。ボクを利用したければするがいいさ。ボクだって王様を利用してるんだからね」
「ふん、物は言いようって言うかなんていうか。ネロ=カオスだってきっとそう思っていたでしょうよ」
「ああ、彼は残念だったよね。でもそんな事はそれこそ知ったこっちゃないんだよ。ボクは必ず彼女を手に入れるって決めたんだ。あんなお人形さん(アルクェイド・ブリュンスタッド)になんか渡すものか。アルトルージュがお人形さん遊びにご執心なら、首輪でもつけて引き釣り倒すさ。障害は大きいほど燃える性質なんだよボクは」
 押し殺した怒りを言葉に代えるように、リタがまくし立てた。
 スミレは答えず、ただ奥歯を噛み締める。鈍い音が互いの耳を打つ。
 組み合ったまま絡まった視線から、炎が湧き上がりそうだった。
 沈黙が場を支配し、空気が張り詰める。ぽたりぽたりと肘から滴り落ちたスミレの血が、床に真紅の模様を付けていく。
 それが互いのつま先を汚しだした頃、深い溜息が緊張を打ち砕いた。
「残念、そろそろタイムリミットみたいだ」
 口元を優美に吊り上げて、リタは握りしめていた手を離した。赤黒く穿たれていたスミレの腕の傷は、瞬時に癒えていく。
 スミレはやはり口を開かず、ただ掴まれていた腕をそっと撫でさすっていた。その仕草に、彼女が本当に頭に来ているのだと理解する。
 このまま彼女と怠惰と血に塗れた生活を過ごせれば、どれほど楽だろうか。
 自分も、彼女も一介の死徒ではない。身の振り方は些か難しくなるだろうが、トラフィムとも、アルトルージュとも距離を置いた在り方を選ぶ事とて可能だろう。
 可能だろうが、それを自分が選ぶ事など有り得ない事もまた、リタは分かっていた。
 手を伸ばせば届くかもしれない。足を踏み外して、奈落にまっ逆さまに落ちようとも、目の前にちらついている最高の物に目をそむけて、別の物で代償するなど出来ない相談だった。
「この続きは帰ってきた時にしようよ。君も負けっぱなしはイヤだろうからさ」
 肩をすくめて、胸の痛みには蓋をしてしまう。優雅にYシャツの裾をはためかせ、リタは踵を返した。
 さあ、身だしなみを整えて、帽子とステッキを忘れずに。トモダチと過ごす怠惰な自分自身は、そろそろ投げ捨てていかないといけない。
「……今度は何処へよ?」
「うん?」
「今度は何処へ行くのかって聞いてるのよ!」
 背後から投げつけられるスミレの声は、リタには何故だかひどく弱々しい物に聞こえた。
 そんな彼女の顔など、頼まれたって見たくない。
「ちょっとシュヴァルツヴァルトへね。待ち合わせしてる埋葬機関の連中はどーでもいいんだけど、あんまり待たせちゃうと、アルトルージュに嫌われちゃうもの」
 リタは振り向かず答える。その口調は普段の調子を取り戻していた。
「ちょっと待てこら」
 はらはらと芝居掛かって手を振るリタに向かって、スミレが足を踏み出した。
 伸ばされた腕をかわそうとしたリタだったが、スミレの動きは素早い。先ほどの意趣返しとばかりに左腕を掴まれたリタは引き込まれ、無理やりに向き直らされてしまった。
「おや、情熱的だねスミレ。別れのキスは、頬と口どっちがお好み……」
「は! さっきは随分と生易しい扱いだと思ってたけどね。あんた、体の中ひどい状態も良いとこじゃない。本調子から比べれば、一体どれだけ落ちてるのやら。これでアルクェイド・ブリュンスタッドやら、あの騎士たちやらを相手にする? 冗談も大概にしときなさいよ?」
「あのね、いくらボクだってさすがに全部なんか相手はしないさ。アルトルージュは支配者だ。城を全部開け放って、手駒全てを引き連れてくるわけがないだろう?」
 力任せに、鼻がぶつかるほど側に引き寄せられる。リタの目に映るスミレの顔は、今まで彼女が見たどんな顔よりも儚げで、そして真剣な物だった。
 茶化しては逃げられない。
 そう悟ったリタは、いつに無く真面目な顔で真っ当な予測を口にする。
 ――口にしてしまった。
 スミレは一瞬呆気にとられた表情を浮かべ、次の瞬間爆発した。
「……もう一度だけ言うわ。あんた、死にたくなければトラフィムの命令なんかすっぽかせ!」
「そんな事したらボク、後で王様に縊り殺されちゃうよ」
「しなけりゃ今ここであたしが八つ裂きにして寝かしつけてやるわよ。後でのたれ死ぬくらいなら今ここで殺してやるっ! あんたの最後はあたしが見取るって決めてる。あんたの墓でげらげら笑いながら浴びるほど酒飲むって決めてるんだ! だからあたしの目の届かないところでなんか、絶対、絶対死なせるもんかっ!」
 顔をひどく紅潮させたスミレが、再び握った拳を振り上げる。
 しかしそれは振り下ろされる事なく、リタの手がその拳を包みこんだ。
 互いの息が感じられる程顔を寄せ、再び二人は向かい合う。
 瞬きもせず睨みつけるスミレの、紅く澄んだ瞳に映る顔。
 そこには普段と変わらぬ、笑顔を張り付かせた道化者の顔があった。
 もう大丈夫。何も普段と変わりない。
 安堵の溜息を漏らすように、リタの口から柔らかい呟きが流れる。
「残念、ボクの方こそ最後の楽しみは君の墓参りなんだよ。アルトルージュに首輪をつけて、アルクェイドの首を手土産に最高のお酒を飲むって決めてる。だからまだ死ぬわけないし、君の望みも叶わない」
「え……?」
 リタの呟きを耳にした瞬間、一瞬呆けたようにスミレの手から力が抜けた。
 それを見逃さず、リタはつかまれた腕をひねり、スミレの足を払う
「よっと!」
「あっ!」
 観客がいれば感嘆の叫びを上げただろう。きれいな弧を描いてスミレの体が宙を舞っていた。
 それでも体勢を立て直して、無様に叩きつけられなかったのはさすがだが、その数瞬はリタにとっては十分すぎる時間だった。
「ちょっ……待てこの馬鹿っ!」
 我に返ったスミレが跳ね上がるが、視界を白い闇が閉ざす。
 それはリタが羽織っていたYシャツだと、果たして気付いたかどうか。慌てて腕を振り回したが、指先に伝わるのは空を舞う布の感触のみ。それもするすると彼女の腕から逃れていく。
「このっ……リタぁっ!」
 怒声とともにスミレが視界を取り戻した頃には、リタは既に用意を終えていた。
 漆黒のスーツにインバネスコート。シルクハットを頭に載せた、彼女の正装に着替えて。
「それじゃあスミレ、また後でね。ああ、僕の部屋のお酒なら好きに飲んでて構わないよ? ある程度お眼鏡にかなう品揃えはしてるつもりだし」
「待ちなさいこらリタっ! 行かせないっていってるでしょっ!」
 叫ぶや否や、スミレが床を蹴った。
 部屋が揺れる。紫銀の髪がシャンデリアの光に煌き、空を流れる。
 爆音と聴きまごうかのような、すさまじい踏み込みだった。
 互いの距離は僅かに五歩。それを一息で詰める足捌き。
 しかしその距離はリタには十分であり、スミレにはあまりに遠かった。
 細くたおやかな指が空を切る。目標を見失っても、付き過ぎた勢いは消せるものではない。
 つんのめって無様に転ばなかったのはさすがの一言だが、もはや失った時は絶望的。スミレにとっては屈辱以外の何者でもなかった事だろう。
 スミレに勝る速度でその場を飛び退っていたリタは、部屋を抜けてベランダの縁に立っていた。
「あはは、それじゃーね!」
「こん……のっ、大馬鹿おんなー!」
 ベランダから身を乗り出して拳を振り上げるスミレ。友の罵声を背中に受けながら、リタは闇の中に身を投げ出した。
 耳元でうなりを上げる風の中、確かに聞こえた「馬鹿」と言う単語が、ひどく心地良かった。
 地面に叩きつけられる寸前、城の壁を蹴りつけて体勢を立て直す。音も無く地に舞い降りたリタは、一瞬も立ち止まることなく駆け出していた。
 目の前に広がる、深く暗い夜。これより向かう先は深遠に届くほど深く、光すら逃れ得ないほど昏い森。
 道化の舞にはおよそそれ以上の舞台はないだろう。
「あははは、楽しみだ、ああ楽しみだねアルトルージュっ!」
 リタの口から飛び出した悦楽の叫びは、静寂の帳の中に溶け消えていった。







「リタ殿から先ほど連絡が。これから向かうそうですぞ」
「そうか」
 小さく呟いたトラフィムが、盤上に手を伸ばした。
 ヴァン=フェムの操る黒の王は左端で孤立している。そして黒き女王もまた、二人の白い騎士に追い詰められていた。
 トラフィムの指が白い騎士をつまみ上げ、女王を倒す。澄んだ響きと共に、女王は遊戯板の上に転がった。
「これで勝負が決まるなら、どれほど楽か」
「決めきれない、と?」
「かつて貴公が教えてくれた通りだろう。王手を掛けた瞬間が一番脆い。こちらは手札を出しつくした。晒し尽くしたわけではないが、突付かれれば脆さは変わるまい」
「さてはて、それは仕掛けている側の視点だとは思いますが。ですがこの盤面は勝負を決められてしまいましたな」
 禿頭を撫で上げ、肩をすくめる。ヴァン=フェムの言葉にもトラフィムは笑みを浮かべなかった。
「打てる手は全て打ち、今のところは全て順調。王よ、さすがにこれ以上を望むのは罰当たりかもしれませぬぞ」
「かも知れぬな」
 駒から手を離して、トラフィムは豪奢な椅子に身を沈めた。空になっていたグラスを、気だるげに弄ぶ。
「むしろその状態まで持ち込めた事が僥倖か。しかし、打てる手を打ちつくしてなお恐ろしいのだ。認めよう。私はあの二人のブリュンスタッドを、心の底から恐れている」
 呟く言葉とは裏腹に、トラフィムの顔に動揺も怯えもなく、視線は向かい合うヴァン=フェムを捕らえている。
 ヴァン=フェムは満足そうに酒盃に手を伸ばして、ゆっくりと呷った。
「その恐れている相手に対して単身相対されるとは、王の剛毅には尊敬の念を禁じえませぬ。正直申し上げれば、陛下が席を並べておられる間、私は気が気ではなかった。かの姫のこと、万に一つとは申せども、仇敵が手の届く所に在れば暴挙に及んでも不思議はありますまい」
「それが必要であるなら、危険は冒すとも」
 グラスを弄ぶ手を止めて、トラフィムはわずかに眉をしかめた。その口元から、確かに溜息が漏れ出でた。
「元よりブリュンスタッドを滅ぼすなど、夢想を超えた妄想と言われても仕方ない。血にでも酔わねば踏み出せぬ一歩だと思わぬか、ヴァン=フェム」
「同意しましょう。ではこの先、足を踏み外された場合はどうなさるおつもりですかな、王よ」
 どこか面白そうにそう問いかけたヴァン=フェム。トラフィムの口元に笑みが浮かぶ。
「さてな。最悪の最悪を引けば、狂った姫君と共にこの世界ひとつが失われる。最上の最悪ならば、我らそろいて枕を並べて討ち死に。どちらも、宴の幕引きには相応しかろうよ」
「それはそれは。どちらにしても最悪は引きたくないものですな」
「生きている間ならば、打てる手は打つ。だが志半ばで倒れ尽きた後の事までは、万全の手は打てぬ。そも、最悪の最悪とていずれ必ず来る未来だ。多少早めたところで罰は当たるまいよ」
「……真祖の姫は、必ず堕ちる、と」
「堕ちぬわけがなかろう」
 手にしたグラスを、トラフィムは投げ捨てた。それは澄んだ音と共に千の欠片となり、細やかな光と共に床に散らばる。
「人を愛するなどと戯言を示している以上、あやつの体には消して消せぬ吸血衝動が積もり積っていく。それがゆえにアルトルージュもまた、こちらの誘いに乗ってこざるを得ないのだからな」
「しかし……黒の姫自ら、シュヴァルツヴァルトに来ますかな? 白と黒、二人の騎士を抱えている彼女が、自ら来る必要などありますまい」
「来るとも。あやつは必ず来る」
 大きくもなく、熱もこもっていない声なのに、トラフィムの言葉は反論を許さぬ力を秘めていた。
「そもそもあの場に来た事が異常なのだ。あれを見た瞬間、確信した。アルクェイドも、そしてアルトルージュも変わってのけた。留まる我らを尻目に、あの二人のブリュンスタッドは、変わったのだ。それを是としている以上、愚かしさを理解していても来ないわけにはいくまいよ」
 ヴァン=フェムの問い掛けに目を閉じて、トラフィムは顎に手を掛けた。整えられた顎鬚を弄びながら、静かに、低い声で呟く。
「故に我らも尾を巻く理由などは存在しない。座して死を待つか足掻くかと問われれば――答えなど決まっているとは思わぬか」
「……我らがかつて千年城から抜け出した時より、その答えは決まっておりますとも。もはやあの屈辱を身に刻んでいるのも、この世に三人だけではありますが」
 温和な笑顔を浮かべていたヴァン=フェムの表情に、一瞬剣呑な光が走る。
 それを見たトラフィムの口元がかすかに歪んだ。
 盟友の心中もまた、自分と同じであった。自分が抱き続けている感情を、ヴァン=フェムもまた抱えている。その事に彼は確かな共感を覚えていた。
 腹の底から湧きあがる感情に突き動かされるまま、トラフィムは笑った。
 部屋を揺るがすほどの音声で、彼は哄笑した。
 ヴァン=フェムの目が驚きで軽く見開かれる。記憶にある限り、見た事のなかったトラフィムの心の底からの笑いだったからだ。
 彼の視線に、トラフィムは人の悪い笑顔を向けた。
「そんな顔をするな。どれだけ綿密に計画を練り、周りを抱き込みにじり寄っても。我らの抱えた行動原理は結局の所、恐れと怒りであるのだからな。数千年生きても変わらぬ性根、もはや笑う他あるまいよ」
「それは、ずいぶんと身も蓋もありませぬな」
「一生に幾度もない、己の命を掛けた勝負だ。この時くらいは、己に忠実であっても構うまい」
 呟いたトラフィムの顔からは、再び表情が消える。身の内の熱を全て吐き出しきったかのように、彼の顔は白磁のような色を取り戻す。
「歯車はもはや回り出した。アルトルージュが足掻くのならばそれもいい。しかし変わらぬ意思もまた脅威である事を、あやつ等の命を持って知らしめてみせよう」
 その言葉を最後に部屋は再び沈黙する。
 入れ替わるように、遊戯板の上を滑る駒の音が部屋に満ちていった。







 額を伝わり落ちる血潮を、エルウィンは剥ぎ取るように拭いとる。
 逆立った金髪は赤と泥に塗れている。身に纏っていた服も、もはやぼろ切れと言っても差し障りはない。しかし彼の瞳は猛き輝きを失ってはおらず、目の前に立つ男を射抜かんとばかりに睨みつける。噛み締めた唇の端から、まるで野獣のような唸り声が漏れた。
「メレム・ソロモン! これは一体何の真似だっ!」
 血を絞り出すような声で、エルウィンは叫んだ。
 彼の周りには、数多の男たちが倒れ伏している。ある者は頭が失われ、またある者は胴から二つに断たれ投げ捨てられている。血と脂に塗れた肉槐と化し、辛うじて残されていた衣服で人間だったのだと分かる死体もあれば、四肢をもぎとられて恐怖と絶望を顔に張り付かせたまま息絶えた者もいる。流れ出した血が積もる雪を赤く染め上げて、白と黒の静寂に異質な色を混ぜていた。
 彼ら全てが、エルウィンの率いていた兵であり、そして掛け替えのない仲間だった。
 黒の姫君の旗の下、共に積み重ねてきた数多の歳月が、瞬き程の時で無と消え去っていた。
 目の前に立つ、男の力によって。
 年恰好は彼とさほど変わりはない。張り付いたような笑みを湛えた、司祭服の青年。ただ細められた目から覗く紅い瞳が、彼の異常を物語る何よりもの証拠だった。
 埋葬機関が五位、「王冠」メレム・ソロモン。それが男を示す名だ。
「何故なんて、決まっているでしょう。私は埋葬機関の人間です。掛値なく君らの敵なのだから、出会ったら殺しあうのが常道でしょう」
「くっ……」
「さて、君で最後なのですが。大人しく神に懺悔してから情け容赦なく殺されるのと、生き汚く逃げまわってから私に追いつかれて玩ばれ殺されるのとどちらがご所望ですか? 私としては後者がお勧めですけどね。追いかけっこも楽しそうだ」
 声だけは無邪気に、しかしその瞳には些かの容赦もなく、高らかに謳うメレム・ソロモンの言葉に、エルウィンの背中を冷たい汗が伝った。
 彼の言葉に偽りなどない事は、目の前の光景を見れば明らかだった。
 しかし、それで諦める事など出来よう筈がない。臣として、この危険を主に伝えなければならない。例えどのような目に遭おうとも、必ず生きて城へと帰らねばならない。
「どちらも断る! いかに死徒の祖と言えど、私をそう簡単に殺せると思うなよ魔獣使い!」
 吐き捨てたエルウィンの言葉に、メレムは口元を吊り上げると、ゆっくりと右腕を上げていく。
「なるほど。そちらを選んだ貴方の選択に、神のご加護があらんことを」
 笑いと共に、メレムの影が伸びていく。
 闇深き森の中。薄闇に影など飲まれてしまう筈の場所で、メレムの影だけが色濃く、そしてその大きさを増していった。
「な……」
 絶句するエルウィンの目の前で、異常なる影が盛り上がっていく。メレムをも超えて、周りの木々をへし折り倒し、散らばった死体を端から飲み込み、そしてエルウィンを見下ろすほど巨大に。
 あえて例えるならばそれは、犬の姿をしていた。のっぺりとした黒い肌を持つそれは、四足を地に付いて唸り声を上げている。顔に当たる部分には、目も鼻も耳も存在しない。ただ、ただ巨大な顎を地に届かんばかりに開いて、鮫のように無数に並んだ牙をぎらつかせている。口元から滴り続ける唾液は、獲物を目の前にした歓喜ゆえだろうか。
「ははは、最近ろくな餌を上げていませんのでね。ナリはこんなですがなかなかに美食家だ。精霊の化身、真狼種なら御馳走でしょうな」
 勝利を確信したメレムの哄笑を無視して、エルウィンは目の前の魔獣に全ての意識を傾ける。
 右へ、あるいは左へ、少しでも動くそぶりを見せる度、魔獣の顎がエルウィンの動きを追っている。
 隙など欠片も存在しない。目の前の魔獣は、逃がしてくれる事は無いだろう。無い筈の瞳が、じっとこちらの動きを観察しているのが感じ取れる。
 後ろに飛んでも、左右に逃げても、一秒後には暗く深い胃袋の中だ。
 ならば、とれる手段は一つだけ。メレムが油断をしている、今この瞬間しかありえない。
 気合と共に短く呼気を吐き出す。それが合図。
 勢いよくエルウィンは大地を蹴り、跳んだ。
 ――真正面へ向かって。
「なっ?!」
 虚を付かれたメレムの叫びすら遅い。身を縛る衣服を弾き飛ばし、エルウィンの体が刹那に変貌を遂げていく。
 人の肌を金毛が包み込み、その姿を変えていく。
 闇を一筋の光が裂き貫いた。
 黒き巨獣も木偶ではない。振り払った前足が風を裂き、雪を舞い上げ、触れた樹木は木っ端と化す。その僅か下を、金色の狼が潜り抜ける。爪が掠めた背中から、鮮血が飛び散り花となる。激痛を覚悟でかみ殺し、巨顎の下を一瞬ですり抜けたエルウィンは、メレムの前へと飛び出した。
 悲鳴を上げる暇など、与えはしない。
 刃と化した牙をメレムの首に付きたて、彼は躊躇う事なく噛み砕いた。
 驚愕の表情を顔に張り付かせたまま、メレムの生首が宙に舞う。一瞬遅れて、盛大な血潮をぶちまけながら縮まった体がくずおれた。
 勢いのまま死骸の後ろに着地したエルウィンが、唸り声を上げながら振り返る。主を失った影の魔獣もまた、形を失い元の姿へと戻っていくのが瞳に映る。
 訝しげな唸り声が、彼の口から漏れた。
 確かに虚は突いた。彼の牙には仕留めた感触が鮮明に残っていた。
 しかしあまりにもあっけがないと、疑念が彼の頭を掠め――
 瞬間、三条の灼熱がその体を刺し貫いた。
 悲鳴すらもかき消すような爆音が森に響き渡る。意識すら弾け飛ばしそうな程の激痛。遅れて次々と体に響く衝撃。その時になって初めてエルウィンは、自分の体が空を舞っている事に気付いた。
 無数の樹木をなぎ倒し、森の奥へと吹き飛ばされていく。ごろごろと無様に大地を転がり続けていく中、エルウィンの霞む視界に映ったのは、闇の内より現われた、法衣姿の女。
「新、手……か……」
 その呟きに答える者は無い。
 身を刺し貫く痛みの中、エルウィンの意識はゆっくりと砕けて消えていった。



「気を抜きすぎなんじゃないですか、メレム」
「君に言われると腹立つなぁ。だけど確かに、左腕の魔獣一体潰されちゃうとは思ってなかった。さすがはアルトルージュの側近だね。すごいすごい」
「貴方が敵を持ち上げるのは大抵、自分のミスを隠そうとする時ですね」
「……シエルさ、君最近ナルバレックに似てきたよ」
 後ろから響く拗ねた少年の声に、シエルは溜息をついた。負け惜しみでも、あの女に似ているといわれるのは酷く腹立たしいものがある。それでも怒りに任せて無闇にがなり立てたりはしないのは訓練の賜物か。彼女の視線は森の奥を見据えたままだった。
 手応えはあった。放った黒鍵は三本、間違いなくあの金狼に命中していた。並の『魔』であれば十分以上に致命傷の一撃。しかし彼女の目には安堵も弛緩も感じられない。
 なぎ倒された木々の跡は、森の闇へと飲まれている。今すぐ追えば、手負いの得物を見つけ出す事が出来るだろう。
 だが、いくつかの理由が彼女の足をここに縫い付けていた。
「追わないの? 前哨戦の獲物としては十分だと思うけど」
 彼女の横に並んだ金髪の少年が、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべている。その法衣にも体にも一片の傷も存在していなかった。ただ、左の袖だけが風に揺られてはためいている。
 この姿こそが真の『王冠』。シエルは秘されたその真実を知る、数少ない者の内の一人であった。だからと言って有り難味を感じた事など一度もなかったわけだが。
「手負いの獣に迂闊に手を出して、怪我をした人をつい今しがた見ましたからね。同じ轍を踏んでは、埋葬機関の名折れでしょう?」
「ふーん、でも逃がしちゃったらそれこそ名折れだろ」
「良くも言うものですね。あの先に逃げ道など存在しないくせに」
「あはは。確かにそーだ」
 肩を竦めたメレムが、シエルの前に出るとちょこんと腰をかける。いつの間にか彼の腰の下には影が盛り上がり、即席の椅子を形作っていた。それも何かの魔術か、それとも彼女が未だ知りえない魔獣の一匹なのか。
 この森に入る前、目の前でメレムが鼻歌交じりに紡いでいた魔術を思い出し、シエルは眉を顰めた。森一つを囲い込む程の探知の結界。それだけの物をたやすく張ってのける目の前の少年が、何かと比較するのもおこがましい程の規格外だと、改めて思い知らされる。
 こうして軽口を叩いているのは、半ば強がりの意味が強い。彼がその気になれば、自分の命はたやすく吹き飛ばされる事だろう。
 それを面白い事だと思えば、彼は一秒前の味方に容易に牙を向く存在だと、シエルはよく知っている。
「追う気がないんならさ、もう少しここでゆっくりしてようよ。リタの奴も来てないのに、僕らばかり働くなんて、割に合わない事この上ないね」
 だがさし当たって今の少年にとっては、こちら側についている方が面白いらしい。子供が駄々をこねるように、ぷらぷらと足を振りながらメレムはシエルに笑いかけてきた。
「前から聞こうと思っていたんですが」
「ん、何?」
「貴方、随分とリタ・ロズィーアンの事を嫌ってるみたいですね」
 シエルが口にした名前に、メレムはあからさまに不機嫌そうな表情を浮かべた。
「白翼公と黒の姫君の件は別格としても、別に死徒の祖同士が仲良しこよしだなんて妄言は考えてなどいませんよ。ですが退屈を嫌う貴方にとって、似た者同士のリタは歓迎すべき相手では? 絵図を描いたのがトラフィム・オーテンロッゼだとしても、彼女の裏方の働きがなければ、今日のような事態は引き起こされなかったわけですし」
「……ねえシエル。君ひょっとして、僕とリタの奴が同じだなんて思ってたりしない?」
「違うんですか?」
「うあ最悪。君に今まで言われた悪口の中で、一番傷ついた」
 シエルの答えに、メレムは顔をしかめて唸った。
「違うと言うなら説明を求めたいところですが。私には同じようにしか見えませんよ」
「……あー。どうやら目が節穴らしい君にも分かるように言うとね」
 苛立ちを隠さない様子で、メレムは吐き捨てる。
「あいつは不純極まりないんだ」
「……は?」
「あいつはアルトルージュに執着してる。その目的が至上で、そのためならば何でもする。そりゃ純粋なんじゃないかって? 違う違う。ぜんぜん違うね。同じように道化呼ばわりされるけど、あいつの道化っぷりは、自分のその目的をぼかす為の単なるカモフラージュなんだ。ほら純粋じゃないだろうに。だから僕はそれがすんごく気に入らない。道化舐めるなっての。やるなら徹底的にやれって声を大にして言いたいね!」
 メレムは頬を紅潮させてまくし立てる。その様はどこか外見どおりの少年のようなもので、シエルも見た事が無いほど熱の入ったものだった。
 普段見た事がない顔だけに、シエルの心に少しばかりの悪戯心が芽生える。どうせいつも向こうがからかってくるのだから、たまには矛の向きを変えても構うまい。少しばかり危険なのが悩みどころだが。
「ですが、本当に欲しい者にそっぽを向かれているあたりは、やはり似ているんじゃないですか?」
 シエルの言葉に、少年の素顔は消えてしまう。残されたメレムの顔には、再び微笑みの仮面がはめ込まれていた。
「……シエル、やっぱり君僕のこと嫌いだろ? 僕は君の事、姫様の二十番後くらいには大好きだからいいけど、そうじゃなかったら食べちゃうよ? そんな事言われたら、さ」
 風は止み、雪がはらはらと舞い降りる。寒さなど意識から締め出せる筈のシエルの背中を、怖気が走りぬけた。中身のない筈のメレムの左袖が、ゆらゆらと蠢いている。
「……失言でした。謝りますよ、メレム」
 並の者ならば心臓を握り潰されてしまいそうな重圧の中、眉一つ動かさずシエルは少年に頭を下げた。想像していた以上に、メレム・ソロモンという死徒にとってアルクェイド・ブリュンスタッドという存在は大きなものであったらしい。これ以上機嫌を損ねるような真似は止めておいた方が賢明なのだろう。シエルは心の中で、何度も繰り返した言葉を呟く。
 彼女のその態度に拍子抜けしたように、メレムは肩を竦めた。
「まぁいいさ。君にだって僕にだって大事な物はあるものね。せいぜいあの嫌味な引きこもり女から守り抜けるよう頑張らないと……む」
 訝しげな呟きを漏らしたメレムは、空を見上げた。それに釣られてシエルも視線を上げる。
 延び放題に茂った枝に隠されて、夜空はまばらにしか見る事が出来ない。星は雲に隠されて、ちらつく雪の粉も色を失ってしまっている。
 その中で一際濃い闇が一つ、虚空を駆けていた。木々を揺らし積もった雪を舞い上げて、それは信じられない速度でシエルたちに向かって迫ってくる。
 とっさに身構えたシエルを、メレムが目で制した。表情には疲れと嫌悪が半々で入り混じっている。
「噂をすればなんとやら。歓迎せざるキャストがようやく到着したよ。まったく、主役気取りで遅刻して何様のつもりなんだか」
「――相変わらずだね、メレム。それとも『王冠』? はたまた『フォーデーモン・ザ・グレイトビースト』? ボクは君をなんて呼べば良いのかな」
 メレムの呟きを幕開きとするかのように、影は静かに二人の前に降り立った。
「好きに呼べばいいさ、帽子屋。僕も勝手に呼ばせてもらう」
「じゃあ『第五位』に『第七位』、と。ああ、この呼び名は実に君らに合っているね」
 くすり、と。メレムと、そしてシエルに目を向けてリタは忍び笑いを漏らした。込められた嘲笑に反応しかけたメレムにそっと手を伸ばして、シエルはリタに向き直った。
「お名前はかねがね聞いています、リタ・ロズィーアン。こうして刃を交える以外の関係を持つことになるとは思っていませんでしたが」
「あははは。今にも刃交えたそうな顔してるよ、第七位」
「そうですね。それはまたいずれ。この場所この時以外にしておきたいものですが」
 シエルの視線はリタからずれて、森の奥に向けられていた。先ほど自らの手によって、敵を一人叩き込んだ森の奥へと。
「……確認しておきたいのですが」
「なんだい? 第七位」
「我々と貴女は、アインナッシュの打倒において手を携える。その文言に間違いはありませんか?」
「うん、その通りだね。互いに手に手を取り合って、この森の奥の奥を目指すのさ。まぁ……」
 シエルの視線に釣られて、リタもまた森の奥へと振り返る。
 そこは夜の闇よりさらに昏く、深い。そして確かに息づきを見せていた。
「その過程の障害物をどうするかは、お互いの判断次第だろうけど、ね」
「食い違いを見せないことを祈りたいものですね」
 互いに視線を絡める事はなく、二人の女は呟く。
「無駄話はもういいだろう? 君の声を聞くだけで僕は退屈してくるんだよ、帽子屋」
「おや怖い怖い。それじゃ第五位の機嫌を損ねない内に、始めた方が良さそうだね」
 獣から飛び降りたメレムは、苛立たしげに頭を振った。その様にはらはらと手を振ったリタは、先んじて歩みを進めていく。その後ろから付き従うメレムとシエル。
 闇が一際大きく身じろぎする。
 それは獲物の到来の歓迎なのか。はたまた招かれざる敵への警告か。シエルには判断が付かなかった。いや、その必要を感じなかった。
 彼女は口中でかみ殺すように、体に染み込ませた言葉を呟く。
「……まだ、死ぬわけにはいきませんから」
 成すべき事を見出している今、シエルは死ぬわけにはいかなかった。
 トラフィムの書いた楽譜で、ナルバレックのタクトによって踊っている自分。しかし最後まで踊りぬいてみせる。踊って、踊って踊りぬいて根負けさせてみせよう。
 それこそが、彼を守る唯一の術だと、シエルはそう信じていたのだから。







 永遠なる千年城。
 真祖の生まれた地。アルクェイドの在るべき所。
 全てが朽ち果て、時に飲み込まれていた城の中で、そこだけはアルトルージュの記憶と違わぬ姿だった。
 膝裏と背中に手を回して抱えていたアルクェイドを、そっと玉座に座らせる。少女の姿ゆえの身長差が些か手に余ったが、代わりに運ぶと申し出た騎士の言葉に、アルトルージュは耳を貸すつもりなどなかった。
「ん…………」
 眠り続けるアルクェイドの口から薄い吐息が漏れ出でて、固く閉じられた瞳を彩る睫が二三度揺れる。一瞬浮かべたアルトルージュの期待は、しかし叶えられる事はなかった。それでも、自分の城に居た時よりは明らかに容態が安定しているのが分かり、彼女は胸を撫で下ろした。
 ここに居るままでも、いずれ彼女は失った力を取り戻す事だろう。しかしそれでは、ここから出ることは叶わない。永劫この城に縛られたまま、明けぬ夢を見続ける事となる。
 アルクェイドに寄り添うように、アルトルージュは玉座の背にもたれかかった。
 このような形で、ここに戻るつもりなどなかったのに。自らの不覚で、掛け替えのない時を奪ってしまった。アルクェイドの。そしてあの少年の。
 果たしてそこまでの効果を、トラフィムが狙っていたのかどうか。だが事態はアルトルージュにとって最悪の方向に向かっており、失った流れを捻じ曲げるには、最大の危険を冒すより他なくなっている。
 千年城に向かうより前に、フィナは強張った表情でアルトルージュに告げていた。
 先にシュヴァルツヴァルトに派遣していたエルウィンの連絡が途絶えた、と。
 常の彼女であれば静観を選んでいただろう。しかしそれを許さない状況があの森の主には存在している。
 舞台を用意されて、それに上らざるをえない。それを屈辱とは彼女は思わなかったが、ひどく不愉快ではあった。
 苛立たしげに二度三度、アルトルージュは頭を振る。
 それに応えるように背後より足音が響く。アルトルージュが顔を上げると、黒き衣に身を包んだ魔道翁が、固い面持ちで階の下に佇んでいた。
「不謹慎かも知れぬが、懐かしいですな。この部屋にアルトルージュ殿の姿を見出すのは」
「……ええ、本当に。ここに立つと八百年前の事を思い出してしまうわね」
 彼を見るアルトルージュの顔には、寂しげな微笑みが浮かんでいた。
「あの時、この子は正にあの人の写し身だったわね。この部屋の中にいるだけで、心臓が握りつぶされてしまいそうだった。でもこうして見てみると、同じ娘だとは思えないわ」
「あの時の事は、今でも時折夢にうなされる。後にも先にも、絶対に勝てぬと思ったのはあの時だけでしたからな」
「あら、あの人に挑んだ時はどうだったの?」
「ふむ……あの時の私は良し悪しにつけ若かった。勝ち負けの分など、考える気にもならなかったよ。忌々しい代償を背負わされはしたが、まあこの位は仕方あるまい」
 よく整えられた顎鬚をしごき、ゼルレッチは紅い目を細めた。その様がどこか拗ねた少年のように見え、アルトルージュは小さな笑い声を上げた。
「本当にあの時と同じ娘だとは思えないわ。こうして見ていると、まるでただの女の子。そういう意味では、随分と弱くなってしまったわね、アルクェイドは」
「……また変わられたな、アルトルージュ殿は」
「何が、かしら?」
「今の貴女はそれが喜ばしいと、そう言っている様に聞こえるよ」
「……どうなのかしら」
 老人の呟きに、アルトルージュの微笑が翳る。
「真祖が力を失うという事は、それだけ寿命も短くなるという事よ。大事な妹が早く死んでしまうことを喜ぶ姉など、居る筈ないじゃない」
 彼に背を向けて、再びアルトルージュはアルクェイドに向き直った。そっと手を伸ばして、頬に掛かった金髪を梳き上げる。
 反応は、ない。
 深い眠りは覚める事なく、アルクェイドは夢を見続けている。
 寂しげな笑みを浮かべたまま、アルトルージュは手慰むように妹の髪を玩んでいた。
「だけど、その在り方が充実しているのであれば、短い生でも構わないと思うの。だから出来る限りこの子の望むようにさせてあげたい。ここを離れて志貴君と一緒に居たいのなら、そうさせてあげたい。それがあの子の命を削る事だと、分かっていてもね」
 そう、アルトルージュの口から漏れる、小さな呟き。それはゼルレッチに聞かせるものではなかった。自らに言い聞かせるように、その唇はゆっくりと動いていた。
「……やはり、ご自身も向かわれるのかな」
 彼の問いもまた、確認。
 名残惜しげに一度妹の頬に指を這わせて、アルトルージュは顔を上げた。そのまま玉座から一歩足を進めると、彼女は眼下の彼に向かい力強く頷いた。
「上に立つ者としては失格ね。だけどこれだけは譲れない。私のせいでこうなってしまったのだから、責任は取るわ。あの古狸の罠など、叩いて砕いて進んでみせる。私には黒き剣も白き盾もある。大地の守護者もいる。負ける道理などがあるのなら、そんなもの捻じ曲げるだけよ」
「なるほど。その覚悟があるのならば、私が何を言おうと余計なお世話に過ぎぬな。ならばアルクェイドの事は任せておくがいい」
 玉座の下、ゼルレッチは不敵な笑みを浮かべた。
 ゆっくりと階を降りたアルトルージュは、彼の横に立ち足を止めると、その肩に軽く触れた。
「一刻後にはここを経つわ。彼らにそう伝えておいて頂けるかしら」
「ふむ。ではアルトルージュ殿は?」
「もう一箇所だけ……寄りたい所があるの」
 かすれるように小さな声で、アルトルージュはそう呟いた。





 朽ちたる城内と同じように、アルトルージュの目の前に広がる庭園もまた、死に絶えていた。
 かつて月下の下咲き乱れていた白き花々は影も形も無く、星空を写しあげていた湖も干上がり無様な湖底を晒している。
 一歩一歩、アルトルージュが足を進める度、乾き朽ち果てた大地が砂埃を巻き上げる。
 かつて黒騎士に手を引かれ連れ出された、この千年城の庭園。初めて世界は美しいものだと、彼女に教えてくれた光景は、今は残滓すらも存在しない。
 否、たった一つだけ変わらず在り続ける物があった。
 死に絶えた世界を、アルトルージュは無言で歩き続ける。その足が、不意に止められた。そのままゆっくりと、視線は空に向けられる。
 アルトルージュの口から、感嘆の溜息が漏れた。
 これだけは、変る事がなかった。世界でもっとも月に近いこの地の中でも、この場所から見上げる月が一番美しい。
 初めてアルクェイドと出会った時、彼女もまたここから月を眺めていた。心を解き放つ術をまだ知らなかった彼女が、我知らぬまま月に魅せられていたのだろう。そうアルトルージュは思っている。
 自分も、彼女も月より産み落とされたのだから――
「このような形で、お前の姿を目にする事になろうとはな。アルトルージュよ」
 それは、あまりにも突然の呼び声だった。
 音も無く、気配も無く。不意に背後から掛けられた声に、アルトルージュは小さく息を呑む。
 ありえる筈がない。彼女は一瞬そう思いかけたが、自らのいる場所を思い出し納得した。
 ここは彼が生み出し君臨し続けた土地なのだ。後継たるアルクェイドが玉座に在り、後継になりえなかった失敗作がここに在る。ならば例え肉体が滅びを迎えていようが、泡沫の時に合間見えることなど不思議でも何でもないのだろう。
 ゆっくりと振り返るアルトルージュ。
 視線の先に佇んでいた者は、白と群青のドレスに身を包んでいたアルクェイドの姿をしていた。風に遊ぶその髪は腰より下に届くほどに長く、身を刺し貫いてくる視線は魂が凍りつきそうなほどに冷たく鋭い。
 口元に薄い笑いを浮かべている、アルクェイドの姿をした何かに向かい、アルトルージュもまた微笑みを浮かべた。
「その姿で現われたという事は、やはり器の可能性はあの子が一番高いという事なのね」
「元より壊れた器と、完全なる形に多少の瑕が入った器。どちらかを選ばねばならないとあらば、後者を選ぶのが当然であろう」
「そう。夢の残滓にしては、随分と丁寧にあの人を真似ているのね。口調も、その目もそっくりよ。褒めてあげる」
「ほう、そなたはこの身が真なる物ではないと申すか」
「当然ね。あの子は堕ちた訳ではなく、ただ眠り続けているだけ。千年城は常なる世界ではなく、滅びた貴方の夢の欠片。ここでしか存在出来ない姿など、残り滓以外の何者でもないでしょうに」
「言うようになったものよな、我が娘よ」
「あら、千年以上も経って娘とようやく認めてくれるのね。光栄だわ」
 肌を刺す、真冬の夜気。それすらも生ぬるくさせるような空気を漂わせて、二人は向かい合っていた。
「それで、一体何の御用なのかしら。朱い月(ブリュンスタッド)
 静寂を破ったのはアルトルージュだった。互いに伸ばした手が触れ合うか会わないかの距離。望むならばお互いの首を瞬き一つほどの間に跳ね飛ばせる間合いで、彼女は両の手を後ろに回す。向かい合うブリュンスタッドもまた、体の前で重ね合わせた手を動かす様子はなかった。
「ひとつ、尋ねようと思った事があってな」
 血のように赤い唇を開いて、ブリュンスタッドは応えた。
「私はアレの中で全てを見続けてきた。歯車の壊れたアレも、徒労を重ねるお前の姿もずっと見続けてきた」
 能面のように変わらぬブリュンスタッドの表情が、その瞬間形を変えていた。
「問おうぞ、我が娘よ。何故無意味なことに力を傾ける。アレが人の子を愛すれば愛するほど、堕ちる時が近づくぞ。私を遠ざけようとしてるお前が、何故私を近づける真似を続けている」
 哄笑が大地に満ちた。気高く、尊大に笑い続けるブリュンスタッドの瞳は、蔑みの色に満ちていた。
 道化を見つめる王侯の視線で刺し貫いてくるブリュンスタッドに、アルトルージュもまた目を細めた。
「答えなど決まっているわ、ブリュンスタッド」
 彼女は身を翻す。長い、長い黒髪が空に舞い、衣のように彼女の姿を覆い隠す。
 時が止まったかのような空白が、場を支配する。再びブリュンスタッドに向かい振り返ったアルトルージュの姿は、もはや少女のものではなかった。長くしなやかに延びた手足に、年を重ね深みを重ねた玲瓏なる美貌。それは、目の前に立つブリュンスタッドに変わらぬ美と尊厳を兼ね備えた、黒の姫の姿だった。
「ほう。その姿、何度見ても惜しいと思わせられるな。アレに勝るとも劣らぬ。それが常で在るならば、器としては十分であった物を」
 揶揄するように呟くブリュンスタッドに向かい、アルトルージュは高らかと謳い上げた。
「人の子を愛する。それがあの子の望んだ事だからよ!」
 その瞳が金色に染まる。目の前に立つ、ブリュンスタッドのように。
 青白き月が紅く染まる。
 赤茶けた大地がただ紅く、紅く染まっていく。
 アルトルージュより後ろは花咲き乱れる命ある世界。
 ブリュンスタッドの後ろはひび割れ朽ち死に絶えた世界。彼が望み続ける真なる世界。
 異なる二つの世界がぶつかり合い、互いを喰いつくさんと絡み合う。
 腕をかざしたのはどちらが先か。かざした掌を、淡い光が包んだのは果たしてどちらが先だったか。
 互いの間の空気がたわみ、軋んで、あっけなく限界を迎えた。硝子の砕けたような甲高い音が、紅い世界に響き渡る。
 轟く音を破るように、ブリュンスタッドのかざした手から、濁流のように鎖が生まれ出でる。絡み合うそれはまるで大蛇のように鎌首をもたげ、アルトルージュに襲い掛かった。
 アルトルージュは一歩も引かない。ただその場で、振るった腕が弧を描く。
 瞬間、生まれた光が三十六。鎖を飲み込み打ち払い、闇を白色に染め上げる。
 のたうつ鎖のかけらが花びらを舞い上げ、反らされた光の帯が大地を抉り取る。立ち上った砂埃が、金と黒の髪を舞い上げ弄んだ。
 風が流れ込み、立ち込めた煙が薄らいでいく。そこに在るのは寸毫も動かず、一筋の傷もない二人の姿。
「力も変わらぬな。いや、元に戻ったというべきか。堕ちていくアレに、力を裂く必要がなくなったものな」
「あの子は堕ちないわ、私が守ってみせる!」
 未だ掲げた腕を下ろさず、口元を吊り上げアルトルージュは叫んだ。
「よくぞ言う。だがそれは本当に、お前自身の真なる思いであるのかな?」
「戯言を! もうこんな見世物は沢山、疾く闇に還りなさい!」
「戯言なものか。優しさ? 慈悲? お前がそんな感情など持っているわけがなかろう。無駄を省きただ私の後継足るべく作り上げた、愛しい愛しい我が道具(ムスメ)よ。だがそれも成功していればの話。お前には今も昔も価値は無い。価値の無いお前は、価値のあるアレをただ羨み嫉妬しているだけに過ぎぬ。道具ですらない不良品。それがアルトルージュ、お前の真実だ」
「何、を……!」
 釣りあがった口元から、鈍い牙が覗いている。叩きつけられた無慈悲な言葉に、思わずアルトルージュは息を呑む。
 一瞬彼女は反応が遅れ、その間隙が致命となる。
 ブリュンスタッドは蔑みの視線を湛えたまま、軽く地を蹴った。するりと伸びた手がアルトルージュに絡みつき、白くしなやかな手が彼女の顎に添えられる。
「お前は何も成し得ぬ。水面に映った自分に愛を囁く、哀れな水仙よ。私になどは成れぬ。アルクェイドにも成れぬ。足を進めて溺れる前に、尾を丸めて逃げ帰るがいい。これ以上半端が主役面で囀るは、不快ゆえな」
 顎に掛けられたブリュンスタッドの指に力が篭る。鈍い痛みがアルトルージュを打ちすえた。
 痛みは顎だけではなかった。
 ブリュンスタッドの手から生まれた鎖が、アルトルージュに絡みつき締め上げていく。
 天に伸び上がった鎖が、紅い世界に浮かぶ月に絡みつく。花咲き乱れる大地は枯れ果て砂となり、ひび割れた素肌を無残にさらけ出していく。
 鎖同士の奏でる甲高い音の中、みしりみしりという鈍い音が、確かに響いていた。
「く……」
 体全てが鎖の海に飲まれた中、かろうじて浮かび上がったアルトルージュの顔が苦悶に歪む。視界の下で自らを見上げるブリュンスタッドの顔には、嘲笑と侮蔑が浮かび上がっていた。
「自ら消えぬと言うのであれば、せめてこの姿を以って別れを告げさせてやろうか」
 高らかと響く声が、戦いの終わりを告げようとしていた。
 身を締め付ける鎖がアルトルージュの体を、吐き出す言葉が心を無残に切り刻んでいく。
 アルトルージュを取り巻く鎖は朱に染まり、苦悶に満ちた口元から血が滴り落ちた。
 しかしその光景を見つめるブリュンスタッドこそが、訝しげな顔を形作っていた。
「なぜ、折れぬ」
 鎖にかかる力は変わらない。たとえどのような者であれ、巻き込まれれば塵も残さず磨り潰される事だろう。だがその中にありながら、アルトルージュは微笑んでみせた。自らの血に塗れ、美貌を汚しながら、父に向かい娘は高らかに謡ってみせた。
「……貴方の言う言葉など、何一つ認めるつもりなどなかったけれど。一つだけ認めてあげるわ」
 終焉は、始まりと同じく唐突。鎖の海の中から、繊手が浮かび上がる。破れて襤褸切れと化したドレスをまとった体が、それに続いて引き出されていく。
 両の手は無残につぶれ、その足も鮮血に染まっている。それでも確かにアルトルージュの姿は、鎖の上へと現れていた。
 瞬間、虚空に浮かぶ鎖は砕け、幻のように露と消えた。
 乾き枯れた大地に、ゆっくりとアルトルージュが降り立つ。その場所から再び命が取り戻されていく。
 ブリュンスタッドの世界が、アルトルージュの世界へと変わっていく。
「答えよ、アルトルージュ。何故、お前は未だ在る。何故我が世界(イシ)が変容する」
 眉を顰めるブリュンスタッドに、アルトルージュは嫣然と笑った。
「確かに貴方の言う通りよ、ブリュンスタッド。私はあの子に嫉妬していた。いえ、今も妬んでいる。完全として作り上げられ、愛を向けられる。誰かに求められる存在であるあの子を、羨ましく思っていた」
「答えよ、我が娘よ!」
「貴方には、理解出来などしないのよブリュンスタッド。完全であり一人である貴方には、大切な誰かなど存在しない。妬む相手は、同時に私の変わらぬ憧れよ。その誰かを守るために命を掛ける素晴らしさなど、理解出来はしないのよ!」
「世迷言を性懲りもなくっ!」
「何度でも言うわ。あの子を守りぬける事、それを誇りに思う私の心だけは、貴方になど汚させはしない。それをあざ笑う、その事こそおぞましいっ!」
 その叫びと共に、アルトルージュの腕が、刹那に振り上げられた。
 舞踏のように優美で、しかし無慈悲な一撃。月光に煌く五条の路が、ブリュンスタッドの体を走り抜ける。
 悲鳴も無く、血も流れない。
 まるで元からそうであったように切り裂かれた自らの体を、他人事のように見つめながら、ブリュンスタッドは呟いた。
「乱暴なものよな。だがこれでは存在は望めまい。この場は私が去るより他はないようだ」
「疾く去りなさい、ブリュンスタッド。ここにも、人の世にも、そして輝く天空の月にも、もはや貴方の場所など存在しない。させはしないわ!」
「あまねく世界全てが敵と申すか。だが私の唯一の友は、それを補って余りあるぞ。幾百年か、それとも幾十年の午睡か。そなたの言が道化に堕ちる様、見届けさせてもらうとしよう」
 薄氷が陽光に溶けていくかのように、ブリュンスタッドの体もまた闇に消えていく。睨みつけるアルトルージュに無言の嘲笑を浮かべて、ブリュンスタッドは完全に姿を消していた。
 紅い月も姿を消し、夜空に浮かぶは青白い硝子のような澄んだ月。
 正常を取り戻した世界の中で、アルトルージュは深いため息をついた。ぼろぼろに傷ついていた体も服も、今は元の姿を取り戻している。
 もう二度と、あの月を呼び戻すわけにはいかない。
 世界の滅びを防ぐため。母なるガイアの過ちをもう二度と繰り返さないため――そんな大層な理由など、彼女は考えていない。
 ただ、もう二度と涙は見たくないだけだった。
 夜空を見上げたアルトルージュは、きつく、きつく唇をかみ締めた。
 遠くから足音が、彼女の耳に聞こえてくる。騎士たちか、それとも異常を察した宝石の老人か。いずれにせよ、まどろみの時を覚ます合図には違いない。
 黒い髪をなびかせて、ドレスの裾を翻し、アルトルージュは朽ちた庭を後にした。







 月が雲に飲まれ、夜の帳が見渡す限り降りている。
 車の窓から見える景色は黒く塗りつぶされている。すれ違う車ももはやまばらで、街の灯はすでに遠い。
 銀のメルセデスは、矢の様に道を駆け抜ける。
 ハンドルを握るは黒き騎士。後部座席にもたれかかる、アルトルージュの足元に付き従うはガイアの怪物。今のアルトルージュが用意出来る、それが最大最高の布陣だった。
 整えられる準備はすべて整えた。後はただひとつだけ。
 深い息をついたアルトルージュは、手の中に収まった携帯電話を開いた。
 一週間ほどの旅だった筈なのに、随分と長くなってしまったものだ。さぞかし彼らは心配しているに違いない。今は深夜の二時を過ぎた所。日本は朝の十時頃だ、問題はないだろう。
 整えられた爪で、彼女は小さなキーを押していく。無機質な呼び出し音が、車中に響いた。
"――はい、遠野でございます"
 アルトルージュの耳に届いた少女の声は、受話器を通してもその快活さは失われていない。和装の少女の笑顔を思い出して、アルトルージュの頬が少し緩んだ。
「もしもし、琥珀ちゃんね。私、アルトルージュだけど」
"あ、アルトルージュ様ですね!"
 電話の向こうの声が、幾分トーンを上げる。
"どうなさったのですか? 予定より帰りが遅くなられたみたいで、こちらも少し心配していました"
「ごめんなさい。アルクェイドと二人だと思うと、楽しくなっちゃって」
 すらすらと出てくる自分の言葉に、アルトルージュは眉をひそめた。それは事実であり、しかし真実の全てではない。真実を全て、彼女たちに伝える訳にはいかない。そう、これから話す相手にも。
「えと、志貴君はまだ家にいる?」
"はい、かしこまりました。少々お待ちくださいませ"
 琥珀が答えると、受話器から単調な和音のメロディが流れ出す。アルトルージュは瞳を伏せた。これから自分は、またひとつ罪を抱え込むことになる。すでに数え切れないほど抱えた身に、ひとつ積み重なるのだ。
 彼女は随分と長い事待っていた気分だったが、実際は一分にも満たない時間であったろう。勢い込んだ足音とともに、メロディが途切れて低い声に変わる。
"もしもし? もしもし、アルトルージュさん?"
「志貴くんね。ごめんね、勉強の邪魔だったかしら」
"そんなの、気にしないでください。アルクェイドは? あいつは迷惑かけてませんか?"
 真っ先に彼の口から出てくる、愛しい婚約者の名前に。アルトルージュは小さく微笑んだ。
「それがね、掛けられ通し――とか言ったらどうする?」
 悪戯っぽく笑う声は空虚に車に響いた。これが電話でよかったと、彼女は心の底から思った。実際に顔を会わせて話したのであれば、完全に取り繕うことができたかどうか。
"良かった。その様子ですと、本当に楽しそうですね。迷惑掛けた分は、こっちに戻ってきてからあいつの分まで謝りますから"
「良いわ、そんな事気にしないで。それも楽しいもの」
"すみません、本当に。あ、今、アルクェイドそこにいます?"
「――ごめんなさい、あの子ったらはしゃいで飛び回っちゃってて。今ちょっとここにはいないの。本当、元気よね。付いていくのも大変よ」
 プライミッツ・マーダーが、訝しげに唸り声を上げた。自らの背を触れる主の指が、震えていたからだろう。
 アルトルージュは唇を噛み締める。何か追求されても、絶対に、はぐらかさねばならない。
 彼の元に、アルクェイドを連れて戻る。その時には真実を告げよう。そして彼に謝らないと。
 だけどそれまでは、偽りで覆い隠さねばならない。絶対に。
"そうですか、まあ元気なら何よりです。ああ、あいつが戻ってきたら、俺に電話くれるように伝えてください。楽しんでるのは構わないけど、予定変わったのなら連絡くれなきゃ困るって"
「……本当にごめんなさいね。ちゃんと伝えなければいけなかったのだけど」
"そんな、アルトルージュさんが謝る必要はないですよ"
「いえ、本当に……ごめんなさい……」
 アルトルージュは目を閉じ、顔を伏せる。
 ごめんなさい、アルクェイドを守ることが出来なかった。
 そう言いかける唇を、彼女は必死で押さえ込んだ。言って謝ってしまえればどれだけ楽か。だけどそれは許されない事だ。人には告げるべき真実と、告げてはいけない真実がある。今の彼に、真実を告げても、何の解決にもならない。彼の性格であれば、必ずこちらに来ると、そう言い出すに決まっている。
 そんな事を、させるわけにはいかない。みすみすトラフィムの手の届く中に彼を呼び込む真似など、出来る筈がないではないか。
 頬を伝わる銀の雫が、一滴彼女の膝を濡らした。
"アルトルージュさん、アルトルージュさん? どうかしました?"
 姿は見えない。見える訳は無いのだが、電話の向こうの不穏な様子を嗅ぎ取ったのか、志貴の声が訝しげに変わる。
「……いえ、何でもないわ」
"それなら良いんですが。まあ、あいつとアルトルージュさんに何かなんか起こるわけないとは思いますけど、もし何かあったら連絡しっかりくださいね"
「ええ。分かったわ。三日後……そうね、三日後にはそっちに戻るから。心配しないで志貴君は勉強頑張ってね」
"うぁ、それは言わない約束でお願いします"
 志貴の苦笑が伝わってきて、アルトルージュの声にもほんのかすか、笑いが混じった。
「それじゃ、ね。志貴君。秋葉ちゃんや翡翠ちゃんにもよろしくね」
"ええ、それじゃ――"
 細い指が電源ボタンを押し、志貴の声は途絶えた。
 そのまま両手で携帯電話を抱え込んで、アルトルージュは俯いていた。ハンドルを握るリィゾも、そして足元に傅くプライミッツ・マーダーも一言もしゃべらす、車中に闇のような沈黙が落ちる。
「……シュトラウト。プライミッツ・マーダー。あなた達に命令しておくわ」
 沈黙を破ったのは、アルトルージュの澄んだ呟きだった。伏せていた顔を引き上げ、背筋を張る。目元には涙の後などなく、前を見据えるその視線は、真っ直ぐで揺るぎない物だった。
「私と共にアインナッシュの中心にたどり着き、私と共に戻りなさい。いかなる理由があろうと、私を置いて死ぬ事は許さない。どんな罠であろうと乗り越え、必ず皆でヴラドの守る城に戻るわ」
「御意。アルトルージュ様の前に立ちはだかる者があれば、必ず我が剣にて滅びを与えましょう」
 ハンドルを握るリィゾは、バックミラー越しに主に頷いた。
「剣が主の望みより先に折れては、務めは果たせませぬ。決して折れぬ事、改めて誓いますゆえ、存分に振るわれますよう」
 彼の言葉に続いて、プライミッツ・マーダーも低く唸り頷いた。アルトルージュは手を伸ばして、巨狼の首筋をそっと撫で上げた。
 彼らの言葉に頷いたアルトルージュは、視線を窓へと向けた。
 雲は切れ、夜空には再び月が白い姿を見せている。
 夜の帳を柔らかく押しのけ、地に向かい等しく輝き続ける。
「待っていて、アルクェイド……」
 ゆっくりと、謡うようにアルトルージュはその名を紡ぐ。
 月を想い、祈りを捧げるかのように。





月想夜曲 終




to be Continued next Chapter "Schwarz Wald"








・後書き

 十話から実に4ヶ月以上。随分お待たせしてしまいました。まずはその事に関してお詫びさせてください。ちょうど十話の前後あたりからリアル生活が大幅に変化して適応が遅れたと言うのもあるのですが、やはりお待ちくださった皆様への期待へ中々応えることが出来なかったのが心苦しいです。
 そしてものすげえ所で切りではありますが、これにて第三章「月想夜曲」は終幕にございます。
 もちろんこれは当初から予定していた事。このまま続ける事も確かに可能なのですが、次章より主軸が大幅に変わるためいったんはここで章を閉める方がよいだろうと、これは「月想夜曲」書き始めの時からの、変わらぬ考えでしたので。

 それにしても第一話を書いたのが2004年1月。それから実に一年半。テキスト量としては全部で360KB程なのですが、返す返すも自分の遅筆さに呆れ果てる次第です。
 ここまでお付き合いくださった方には、「ありがとう」と、「申し訳ない」を合わせて言うより他ありません。

 さて、この「月想夜曲」。終わってみればそれまでの1、2章以上のボリュームがあったりする、「おいおい今までのはなんだったんだ?」という突っ込みを食らってしまっても、不思議じゃない量まで増えてしまいました。
 そもそもアルクェイドと志貴の結婚において、様々ある障害と出来事、それを乗り越えていく様を書くと言うのがこの「結婚協奏曲」のコンセプトであり、前章「雪月華」は志貴側の障害と、それを乗り越えるきっかけをつかませる話でした(今見ると出来とか話の流れとかに赤面物ではありますが、ですが確かに欠かせない話なのです)。
 そうなればこの「月想夜曲」は、新婦であるアルクェイド側の障害を描くのは必然。ただ、TYPE-MOON世界において「ブリュンスタッド」という名が周りに与える重さは、遠野のそれとは比較にならないと言う認識がMARの中に在りまして、それが「雪月華」に比べて、これだけの量の差が出来てしまった理由だったりします。
 後は、実質主人公であったアルトルージュ、そして悪役として頑張ってくれたリタ嬢を初めとする死徒二十七祖。彼女たちのような半オリジナルなキャラクターたちを動かす事が楽しく、それで量が増えてしまったと言うのも否めません。こういうキャラを動かす時は、バランスをとるのが難しい。理解しているつもりでも中々実践できず、結果二次創作としては微妙なラインに立ってしまったのも事実ですね。
 それでも、もし彼女たちが読んでくださった方々に少しでも受け入れられる造形であったのならば。そしてこの「月想夜曲」が読んでくださって楽しめる作品であったのならば、書き手としてこれに勝る喜びはありません。

 「結婚協奏曲」は後二章。
 次章、そして終章までの到達はやはり少し時間がかかってしまうと思いますが、お付き合いくだされば幸いです。
 最後に、ちょっとしたおまけとして次章予告を用意いたしました。ややネタバレの部分もありますがこの下の「Next」を押して下さればお読み頂けます。
 それでは、次の作品でまたお会いしましょう。


2005/7/7 MAR