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「……チェック」
 その言葉と共に響く軽く、澄んだ音。薄闇に包まれた部屋に、軽い緊張が走り抜けた。
「むぅ……これは」
 うなり、その音の元を見つめる男。彼の視線の先には、モノクロに塗り分けられた遊戯台。その上に乗る、オモチャの兵隊達。
 兵士、騎士、城壁、僧侶、女王。彼らを手駒にし、自らの王を守りつつ相手の王を刈り取る遊戯。
「……参りましたな」
「たまには私に勝たせておかぬか。貴公の遠慮会釈のない攻めは嫌いではないが、あまり負けが込むと気が滅入る」
「さりとて手を抜けば不機嫌になられるでしょうに」
「当然だ。勝負をするからからには全力を尽くしてもらわねばな。それで、どうするのだ?」
「ふむ、これではどうしようもない。お手上げです、王よ」
 降参を示すように両手を広げた男に、向かい合う男が愉快そうに笑う。
 負けを認めた男は、半ば禿頭と化した頭を短く刈り込み、シンプルなデザインの丸眼鏡をかけている。初老、と言う雰囲気の紳士だが、その目に浮かぶ光は鋭く、強い。
 王と呼ばれた男は豊かな白髪を後ろに流した、顔立ちの整った壮年。身にまとう純白のスーツは、シンプルだが手のかけられた意匠が施されている逸品であり、『王』の呼び名に相応しい装束であった。
 互いに豪奢な椅子に腰掛け、時折笑いを浮かべながらチェスをする男達。ありふれてはいないがありえなくはない光景だ。
 二人の瞳が、真紅に輝いていなければ。
 普通の人間には持ちえない、血の様に朱い瞳。人と『魔』を分けるもっとも分かり易い隔たりである。
 二人の『魔』が、ボードの上で駒を操る。
 駒は現実の予想。勝負の結果は導きたい未来。
 人ならざる身で人の世を操る事を望み、そしてそれが許される。
 この二人は、そう言う存在であった。
「……現実もこの通りいくのならば、言う事は無いのだが」
 再び駒を並べながら、白い男が呟く。
「やはり私が向かった方がよろしかったですかな」
「……貴公も何かと忙しかろう。そういう訳にもいくまいよ」
 椅子に深く身を沈め、顎に手を当て考え事に耽る。ややあって、自らを納得させるかのような口調で呟いた。
「まぁ、あれの力は申し分ないが。何分遊びが過ぎるのが困り者よな」
「それが持ち味なれば。むしろそれを抑えつけてしまえば、成果は望めますまい」
「わかっておる」
 頷き、彼は指を鳴らす。従者であろうか、傍らに控えていた老齢の男が一礼し、部屋を後にする。
「信用はしておるが信頼がなかなか出来ない、それに悩まされてるだけだ」
「ふむ。王という役割も大変ですな」
 揶揄するような丸眼鏡の男の言葉に苦笑する。美しく整えられた顎鬚に手をやりながら、彼は目の前の駒を動かす。
「好んでする苦労よ。それが楽しくもある」
「楽しいとはまた、頼もしい」
 その言葉に深く頷く白い男。
「ようやく。数百年の膠着がようやく動き出すのだ。これを楽しいと思わずして、一体何を楽しめようか」
 暫時顔を伏せる。そこから漏れ聞こえる押し殺した笑い声。抑え切れぬ喜びが漏れ出したようなそれは、端正な紳士の仮面が拭い去られた獣の表情。しかしそれも一瞬の事、再び顔を上げた時には元の余裕ある顔を取り戻していた。
「すぐに酒も届く。肴の代わりに、もう一勝置いていってもらうとしよう」
「いえいえ。折角の王の振る舞い、どちらも存分に堪能させて頂きますぞ」
 そのの言葉に、冗談めかした声で返す丸眼鏡の男。瞳に笑いと、そして鋭い光を湛えて。彼もまたゆっくりと駒に手を伸ばした。








 時折響く談笑の声も、どこか落ちつきと品に溢れている。その事が、ここに集まった客たちの質を物語っていた。
 楽しむ者はいても、騒ぐ者はいない。ウェイターも、ソムリエの動きも無駄がない。ホテルの格式に相応しい客と、それを迎えるレストラン。
 その中心、特別に誂えられた席は、主の到着を今や遅しと待っているかのようであった。
「ねぇ、アルトルージュ。本当にこの服じゃなきゃだめなの? なんか動き辛いんだけど」
「ダメよ。ここのレストランは正装しないと浮いちゃうもの。そのために何軒もお店回ったんだからね?」
 自らの格好に視線を落として不平を漏らすアルクェイドを、腰に手を当て揶揄を含んだ口調で諭すアルトルージュ。実際それは注意というよりは半ばからかいを含んだやり取りだった。
 体のラインがくっきりと浮かび上がる、白いノースリーブのドレスに身を包んだアルクェイド。紫のロングスカートに白のサマーセーターといういつもの格好とは対照的な、シンプルながらも華のあるデザインのそれは、彼女の秘めた別の魅力を存分に発露している。一方のアルトルージュも、普段より凝ったワンピースドレスである。黒一色の中、胸元の薔薇をあしらったリボンの鮮紅が目を惹くデザインだ。
「……どちらかと言うと楽しんでるのはあなたの方だったみたいだけれど」
「そんな事無いわ、気のせいよ」
 妹の追及をさらりと躱す姉だったが、視線をそらしてなければもう少し説得力があったかもしれない。もっともアルクェイドも本気でこの服がいやだという訳ではなく、ただ単に着慣れていない気恥ずかしさからくる台詞であった。
 ウェイターのリーダーであろう、初老の男のエスコートの元、そんな事を言いあいながら二人はその席へと腰を下ろした。
 既に出される料理は決まっていたのだろう、入れ替わりで訪れたソムリエに、アルトルージュはワインの指示をする。詳しい事までは聞いていなくても、上からの何らかの指示があるのか、明らかに年若い少女である彼女の言葉にもソムリエは迷う事無く頷き、時折アドバイスを加える。
 そんなやり取りを不思議そうに見ているアルクェイドの視線に気付いたアルトルージュは、彼女に向き直った。
「どうしたの、アルクェイド? ………それじゃワインはそれでお願いね」
「かしこまりました」
 一礼し、下がる彼の姿に一瞬視線を送ったアルクェイドが、心底感嘆の声を上げる。
「何か、慣れてるなって思って。この店の事だけじゃなくて、こういう事全てに」
「ふふ。まぁ、あなたから見ればそうかもね」
 口元に手を当てて、アルトルージュは品の良い笑いを浮かべた。
「私も立場が立場だし。この程度の事は嗜みとして憶えてないといけないのよ」
「……わたしもそういうの、憶えないといけないのかな」
「そうねぇ。志貴君とディナーするにも、マナーの一つは憶えてないと恥ずかしいわよね」
「う……やっぱり?」
 その言葉に顔をしかめるアルクェイドに向かって、神妙な表情を浮かべて顔を寄せる。
「新婚旅行に行った先、美しい夜景の見える素敵なレストランで美味しい食事。シチュエーションがバッチリ整ってても、あなたがあんまりお行儀悪かったら、志貴君もきっと呆れちゃうわよね。ひょっとしたら嫌われちゃうかも」
「えー! そんなのやだよ。志貴に嫌われるなんてイヤ!」
 途端、泣きそうな顔でぶんぶんと首を振る。その百面相振りに、アルトルージュは思わず吹き出しそうになった。
 本当に、裏表のない子供のよう。いざ戦いの際には機械の様に冷徹になれる癖に、普段はどうしようもなく無防備に感情を振りまいている。それを見守ってる自分は、姉と言うよりまるで母親な気すらしてくる。
「大丈夫よ。しっかり一から丁寧に教えてあげるから安心なさい、アルクェイド」
「……本当?」
「ええ。どこに出しても恥ずかしくないレディに仕立ててから、志貴君に渡してあげないと。姉の沽券に関わるわ」
 にっこりと浮かべた笑顔が、どこか悪戯っぽい表情になったのはまぁ不可効力というものであろうか。その笑顔に少し不吉なものを感じつつも、神妙に頷くアルクェイド。
 そんな他愛のないやり取りがお互いに楽しかったのだろう。
「お待たせしました。食前酒をお持ちしましたよ、お姫様」
 澄んだ良く通る声。それが掛けられるまで、テーブルの側に人が歩み寄ってきていた事に二人とも気付いていなかった。
「あら、早かったわね…………」
 言い掛けたアルトルージュの言葉が止まる。アルクェイドの表情も真顔に戻る。
 二人は同時に声の先に振り向いた。
 そこにいたのは先ほどのソムリエではなかった。
 アルクェイドよりも更に少し背が高い。左腕に黒いインバネスコートを引っ掛け、右手にはワインボトルを持って二人に微笑みかけている。アッシュブロンドのショートヘアに縁取られた顔は、中性的な美貌の持ち主であった。しかし名のあるブランドの逸品であろう黒のタキシードを押し上げる胸のふくらみが、女性である事を声高に主張しているようだった。
 男装の麗人。そう言った表現の良く似合うその人物を殊更特徴付けているのは、頭に乗せられた白い子供用のカサブランカ帽。あまりにもアンバランスで似合わないその姿が、道化めいた印象を醸し出している。
 そして、邪気のない笑顔で細められた目から覗く真紅の瞳。それこそが彼女の正体を声高に物語っていた。
「リタ・ロズィーアン……」
 押し殺した声でそう呟いたアルトルージュの言葉には、はっきりと嫌悪の色が含まれていた。






 アルトルージュと共に裏の世界を二分する死徒の王である、白翼公トラフィム・オーテンロッゼの勢力の重鎮。そして自らも二十七祖の一角を担う魔人。
 脳に刻まれた、狩るべき敵としてのデータを目の前の女性に当てはめ、アルクェイドは慄然とした。いかに話に夢中になっていたとはいえ、自分も、そしてアルトルージュもこの距離に至るまでその存在に気付かなかったのだ。それだけで彼女の力が伺える。
 そんな彼女の衝撃に気付かぬように礼をするリタ。意図的なのか否か、その視線はアルトルージュにのみ向けられている。そして大仰に、ゆっくりとした動作はどこか相手を小馬鹿にしたかのようなものであった。
「お久しぶりだね、アルトルージュ・ブリュンスタッド。お目通りが叶って恐悦至極だよ」
 あくまでその声色そのものは涼やかなものであるのに、聞く者の心をざらつかせるヤスリのような不快な響き。その声も仕草もまるで忌まわしい転生無限者の姿のそれのようで、アルクェイドは思わず顔をしかめた。それを見て、初めてその存在に気付いたかの様に、リタはアルクェイドに恭しい礼をする。
「そして初めまして、アルクェイド・ブリュンスタッド。我らが宿敵――そしていと高き真祖の姫君」
「……初めまして、リタ・ロズィーアン。出来る事なら会いたくなかったわ。あの陰険狸の手下なんかに」
「『帽子屋』と呼んでほしいな。所詮ボクはしがない道化者。それに恋人以外に名前を呼ばれるのは好きじゃないんだ」
 張りついたような笑顔を崩さずアルクェイドにそう返したリタは、アルトルージュに意外そうな声を掛けた。
「それにしても、どういう風の吹き回し? 死徒の女王ともあろうあなたが、真祖の姫とディナータイムだなんて。教会やうちの若手が見たら、腰を抜かすんじゃないかな」
「貴女には関係のない事でしょう、帽子屋」
 素気無く言い捨てるアルトルージュ。その言葉からも態度からも、先ほどまでアルクェイドに向けられていた優しさは全て抜け落ちていた。それはアルクェイドが久しく目にすることの無かった顔。死徒二十七祖が九位、アルトルージュ・ブリュンスタッドとしての顔であった。
「それに――食事の席に無理やり押しかけるというのは、『お目通りが叶う』とは言わないわよ」
 アルトルージュの目が細められ、視線が目の前のおどけた闖入者を貫く。直接向けられた訳ではない者ですら慄然とする、見えざる槍。しかしそれを受ける彼女はいささかの痛痒も感じていないようだった。
「ははは、手厳しいなぁ。キミと僕の仲なのに。それに道化者をはべらすのは、貴人の嗜みだよ、アルトルージュ?」
 まるでこの世全ての絶望を身に受けたかのように、顔を伏せ落胆の様を見せるリタ。その仕草も一々芝居掛かったものであったが、その目は笑っていない。冷静に、二人の姫の一挙手一投足を観察しているかのようだった。
 三人の間の空気が張り詰める。先ほどまでの和やかで温かい雰囲気は遠い地平へと飛び立ち、変わりに場を支配するのは敵意と殺意。
 しかし他の客達も、側を通るウェイター達も、それに気付く様子がなかった。まるで最初からこの場所がないかのように振舞っている。
 その事に気付いたアルクェイドは、目の前の道化者への評価を間違えていた事を自覚する。
 結界ではない。こうして話している間にそれを行った素振りはないし、いくら気が緩んでいても自らの周りでそのような不埒な行いを見逃す筈もない。
 恐らくは暗示なのだろう。ただ、周りの人間全てに瞬時に掛けうるそれがどれほどの技かは言うまでもない。
 目の前にいる女は道化の皮を被っているだけだ。
 同じ二十七祖でも、強さだけなら間違いなく『混沌』の方が上であろう。しかし、目の前の女には、『混沌』が持ちえなかった底の知れない闇が見え隠れしている。
 決して油断してはならない相手。
 知らず、アルクェイドは自分の背中を汗が伝っている事に気付く。
 そんな彼女を庇うかのように、アルトルージュが静かに立ち上がった。
「……あの狸から何を仰せつかってきたのか知らないけれど。そうまでして話すことなど私には無いわ。お帰りいただけるかしら」
「うん、怒った顔も本当に可愛いね、アルトルージュ」
 はぐらかすかのように、クスクスと笑い声を上げるリタ。
「――帰りなさい。そう言ったわよ」
 横で聞くアルクェイドが驚きの顔を浮かべるほど、それは冷たい声であった。
 空気すらも凍てつかせるような殺気。しかしリタはその言葉に身を震わせ、恍惚とした視線で目の前に立つ少女をねめつける。驚くべき事に、身を切り刻むほどのアルトルージュの言葉も、彼女にとっては快感を呼び起こす淫靡な囁きでしかないようだった。
「ああ、姫君、わかってないなぁ。あなたの言葉がどれだけの炎なのか。哀れな羽虫はそれに逆らうことなど出来ずに引き寄せられるんだ」
 リタはアルトルージュの前に片膝を付き、上目使いに見上げてみせる。まるで貴婦人に愛を呼びかける騎士の役を演じるかのように。
 大仰な仕草は全て相手の怒りを掻き立てるための物。もってまわった物言いは、心を抉るための錐。相手の怒りを、困惑を引きずり出すためのお芝居を、嬉々として演じる舞台役者。
「真祖と死徒、二つの器を行き来する不安定な造形品。淫猥な本性を清楚な美貌に包んだ、月の王の愛玩品。でもそれゆえに、キミはどうしようもなく美しいんだよね」
 あくまでさらりと口にする言葉は、隠し様も無い嘲笑。他人の焦燥と怒りを愉悦とするかのように、リタは憚る事無く相手を汚し堕とそうと言を紡ぐ。
 アルクェイドの中に、怒りがふつふつと湧き上がっていた。
 自分に言われた事なら我慢出来るかもしれない。しかし大事な人を傷つけられるのだけは我慢ならなかった。
「あなた……いい加減にしなさいよ!」
 椅子を蹴り、リタに飛びかかろうとするアルクェイド。そのたおやかな指は既に鋭い鍵爪に変わっている。
 リタは動く気配は無い。ただ不敵な笑みを浮かべているだけ。
 そのままであれば次の瞬間には物言わぬ肉塊と化すに違いない。
 その運命を捻じ曲げたのは、アルトルージュの叫び声だった。
「ダメよ、アルクェイド!」
 その一言で、動きを止めるアルクェイド。死を招く爪は、ぴたりとリタの鼻先に突きつけられたままだ。
「姉さん、どうして! どうしてそこまで言われてるのに!」
「……リタが白翼公の懐刀だからよ。どうせ表向きは特使か何かの名目でここにきているんでしょう? そんな相手を殺したとなれば、あの古狸は喜び勇んで私を引き摺り下ろそうとするでしょうね」
「さすがだね、アルトルージュ・ブリュンスタッド。やっぱりこの程度の安い挑発じゃダメか」
 にやりと口の端で笑みを形作り、リタはゆっくりと立ち上がった。その言葉にアルクェイドが鼻白む。暗に自らの心の未熟を指摘されたような物だからだ。
「もっとも、正式な特使としての仕事は、あなたの城へとお伺いしてから。だから今日は本当に通りすがりの挨拶だよ」
 笑いが堪え切れない。そんな様子で彼女は口元に左手を当て肩を揺らす。
 その仕草は艶かしく、男装の彼女にアンバランスな魅力を与えていた。
「それなら……」
「だったら、今来る事はなかったんじゃない! ネロといい、あなたといい、あの引きこもりの手下はどうしてそう性格が悪いのかしら!」
 アルトルージュの言葉を遮ったのは、アルクェイドだった。もはや我慢の限度は越えたとばかりにリタに向かい吠えるように言いつのる。その様に一瞬目を細めたリタは、薄く笑う。
「だって、正式にお城に行ったら、きっとあなたの存在は隠されてしまうからね。ボクはキミにも用事があったんだ」
「わたしに何の用があるってのよ!」
「ふふ。その前に……折角用意したんだ。これをどうぞ」
 何時の間にか彼女の手には二つのワイングラスが現われていた。
「さぁどうぞ、お姫さまたち」
 そのまますっと、二人の前にグラスを並べると、小気味良い音とともにボトルのコルクが引き抜かれた。優美な仕草でグラスに注がれる真紅の液体。
 それを見た二人の顔色が変わった。
「……これって!」
「……どういうつもりなのかしら、帽子屋」 
 グラスの半ばほどまで注がれ波打つそれは、彼女達にとって見間違え様も無い物だった。鼻をくすぐるさびた鉄のような匂いは、どうしようもなく二人の奥底を刺激する。
 それはまごう事の無い、人間の血液であった。
「どう言うつもりも何も、死徒にとってこれこそが最高の御馳走じゃないか」
 心外だ、と言わんばかりに胸に手を当て残念そうな顔をするリタ。その唇の端がいやらしく上向いた。
「ああ、そうか。真祖の姫君にはこの味を堪能して頂けないんだったね。ああ、本当に残念だ」
 そのまま自らの顔を隠すように手を当てて、リタは可笑しくてたまらないという様に体を折って笑い始める。
「ははははははは! 可哀想に! 折角あのお姉ちゃんにお礼をしたいって言っていたのに、その『お礼』が受け取ってもらえないだなんて」
「何……ですって。今、あなた何て言ったの?」
 かすれた声でそう呟くアルクェイド。その視線が、リタの頭の上に吸い寄せられた。
 彼女の服には到底合わない白いカサブランカ帽。巻かれたリボンは薄いピンク。
 それほど珍しいデザインでは無いが、しかし、それはつい数時間前に目にしたものに良く似ていた。
 あまりにも似過ぎていた。
「リタ・ロズィーアン……あなたまさか!」
「くふ……くふふふふ、やっと気付いた? 真祖の姫君。いつ気付くかなって思ってたのに、ちょっと鈍いんじゃない?」
 顔を覆っていた手を外し、リタはアルクェイドに向き直る。
 その顔つきは何時の間にか変化を遂げていた。
 帽子が取れずに泣いていた、そしてアルクェイドに向かって花のような笑顔を向けてくれた少女の物に。
「お姉ちゃん、大事な帽子を取ってくれてありがとう」
 それは奇妙な光景だった。その体はあくまでリタの物であるのに、にこにこと笑う顔だけがあの時の少女そのもので。その声色までも、アルクェイドの耳に残る少女の物である。
 しかしその仕草も、裏に透ける悪意も全てはリタそのもの。
 ぎり、と奥歯を噛み締め睨みつけるアルクェイドの視線に、たまらない愉悦を感じているようだった。
「お母さんに言われたの、親切にしてもらったら、必ずお礼をしなさいって。だから、私の血をあげるね、お姉ちゃん。採れたてだから、きっと美味しいよ?」
 ころころと少女の顔のまま楽しげに言う、その言葉の一つ一つが、アルクェイドの心を鑢のように削っていく。
「何で……そんな事を。あなたに何の関係も無い子供じゃない!」 
「うん、関係無いね。でもそれがどうかした?」
 あっけらかんと言ってのけるリタ。
「たまたまこの子がキミに会っていて、たまたまこの子が僕の目に適う帽子を被ってた。理由なんてそんなもんだよ」
「そん、な……理由で?!」
「ああ、もう一つあったな」
 少女の顔から表情が抜け落ちた。冷ややかな瞳でアルクェイドを見据えて言う。
「キミに教えてあげるためさ。自分がどれだけ忌まわしい存在なのかを。ただ在るだけで全ての者に厄災を招く者――それがキミなんだよ、アルクェイド・ブリュンスタッド」
「どう言う事よ!」
 爆ぜた感情のまま、アルクェイドが叫ぶ。その目の前から、リタの姿が消えうせた。
「?!」
「まだ分からないんだ? キミの行く所にはこんなにも死が満ち溢れてるってのに」
 慌てて辺りを見まわすアルクェイド。その肩に、そっと腕が回される。
 彼女の知覚すらも超えて、リタは背後に回りこんでいたのだ。そのまま耳元に甘く囁かれる言葉が、酸のように彼女の心を犯していく。
「遠いニホンのミサキチョウとやらのホテルの人達も、キミがいなければ死なずに済んだ。キミがこの土地にこなければ、この子も死なずに済んだ。挙句真祖の癖にヒトを愛し、結婚するだって? はは、笑わせないで欲しいな。欲望の赴くまま、いずれ牙をつきたてる血袋を手に入れただけだろう?」
「違う、わたしは志貴にそんな事なんかしない!」
「違わないね。所詮キミにとって人間なんかどうでもいい存在なんだから。この子の事だって、気にしてるフリをしてるだけさ」
 少女の顔をした道化者の言葉がアルクェイドの中に広がっていく。目を背けていた事実を突き出され、弾劾される痛みが彼女を打ちのめす。
 志貴を愛すれば愛するほど、心が侵食されていく。その様を強引に見せつけられ、彼女の体が小刻みに震え出した。
「違う……違う違う……そんな事無い!」
 少女の目が細められる。その顔に浮かぶのは、堪えようの無い愉悦。自分の思い描いた結果を確信した、メフィストフェレスの微笑み。
「本当にそう思うのだったら、罪悪感で押し潰れなよ、真祖の姫君。それがないなら、キミは人形。どんなに人間のフリをしたって、人形は人間にはなれないよ」
「う……るさい、うるさいうるさい。黙れ! あっちいけー!」
 まとわりつく毒婦を振り払おうと、アルクェイドは背後に向かって肘打ちを叩きこむ。防ぐ事など到底出来ないであろう神速のそれは、しかし空しく空を切った。一瞬早く、風に流される落ち葉のように、リタはアルクェイドの体から離れていたからだ。
 ふわりと音も無く着地する彼女。その首筋に、ひやりと冷たく、そして柔らかい感触が突きつけられる。
「いい加減になさい、もはや見苦しさにも程があるわよ、帽子屋」
 絶対零度の言葉の剣が振り下ろされる。リタの背後に回りこんでいたアルトルージュが、その繊手で彼女の首筋を掴んでいたのだ。
「これが最後よ。その姑息な面を外してとっとと帰りなさい、リタ・ロズィーアン。正式な訪問なら私の城で受けつけるわ」
「ん〜、イヤだといったら?」
「このまま頭を吹き飛ばしてあげる」
「――正気かい? 戦争の引き金を引く事になるよ、アルトルージュ」
「構わないわ」
 静かな恫喝を、冷然とアルトルージュは切って捨てる。
「お前は私の妹を、ブリュンスタッドを侮辱した。これ以上の侮蔑には、王族として、しかるべき手段で報復するだけよ」
「ふふふ、真祖の姫君なんかを庇って、公然と牙を剥こうとするだなんて。変わったね、アルトルージュ」
 右手で顔を覆って、苦笑するリタ。しかしそれも一瞬。すぐに降参とでも言うかのように両手を上に上げた。その顔も元の彼女の物に戻っている。
「おーけー。今日の所は退散させてもらうよ」
 その言葉を聞き届け、ようやくアルトルージュはその手を離した。その行動に驚きの声を上げるアルクェイド。
「姉さん! そんな奴をこのまま逃がす気なの?!」
「……彼女が約束を果たす気なら、今ここで殺すことは出来ないわ」
「っ?! で……でも!」
「だからあなたも手を出しちゃダメよ」
 椅子から立ち上がって今にも飛びかかろうとするアルクェイドの前に、アルトルージュが立ちはだかる。それはリタを守っているようでもあり、そしてリタから彼女を庇っているかのようでもあった。その様を見て、リタは口笛を吹きつつコートを着こむ。その帽子も何時の間にか、服装に会わせた黒いシルクハットに変わっていた。
「姉さん、ねぇ。ふふふ、姉妹ごっこは楽しいのかい? アルトルージュ」
 一瞬、道化の色が抜け落ちた真面目な表情で、リタは呟く。
 それはあまりにも小さな声で、ただアルトルージュの耳に微かに入っただけだった。
「――帰りなさい。そう言った筈よ」
「分かってるよ、アルトルージュ。それでは、ごきげんよう」
 アルトルージュの言葉に慇懃に礼を返したリタは、忍び笑いを漏らしたまま、レストランの出口へと消えていった。






「どうして逃がしたのよ! あんな奴を生かして帰す理由なんか無いじゃない」
 目の前に立つ姉にアルクェイドは詰め寄った。怒りのあまりその瞳が潤んでいる。
 ホテルの最上階、二人の為に用意された最上級の一室である。
 結局、無粋な闖入者のあった後では落ちついてディナーを楽しむ事など出来るわけも無い。暗示が解けたのか、訳がわからずうろたえるウェイターやソムリエたちを適当に言い含めて、二人はその部屋に引き上げていた。
 柔らかく豪奢なソファに腰を下ろしているアルトルージュは、目の前の今にも爆発しそうな妹の姿を見て溜息をついた。
「ばか、大有りよ。ここでもし事を構えたら、このホテルは壊滅する。何人ヒトが死ぬと思うの?」
「それ……は、でも!」
「あなたは関係無い少女が巻きこまれたから、あれほど腹を立てたのでしょう? 同じ事を自分がするつもり?」
 納得できない、そんな表情で見つめてくるアルクェイドから目をそらさず、アルトルージュもまたじっとその瞳を見つめた。
 かつての『無駄』を知らない彼女であれば、そもそもこの事で怒りを覚えることすらなかっただろう。
 リタに言わせれば『ヒトの振りをしている』、今のこの姿こそが、彼女を輝かせているのだから。それは今だ原石の輝きだけど、磨く手助けは自分達がしてあげれば良いだけの事。
 だから間違ってる事、直さなきゃいけない事はしっかり指摘してあげないといけない。
「ちょっとここに座りなさい、アルクェイド」
 自分の隣をぽんぽんと叩いて、側に来る様に促した。何か言いたそうな顔をしているアルクェイドも、彼女の真面目な顔を見て、こくりと頷いて隣に腰掛けた。
「いい? あの道化者、そして裏で糸を引いてる狸にはしかるべき報いを与えるつもりよ。だけどそれは今ここで安易にやれる事じゃないの」
 教師が生徒に説明するように、指を立て真剣な表情でアルトルージュは言う。
「しかるべき時に、出来うる限り完全に体制を整えて。ぐぅの音も言わさず一気に叩き潰さないといけないの。少なくともそれは今ではないわ」
「むー、だけどあんな事言ってたのに。それでも我慢して言いたいように言わせておかなきゃいけないの?」
 頬を膨らませて不満を露にする彼女はまるで本当に純な子供のようだった。思わず吹き出しそうになったアルトルージュだったが、説教中だと言う事を思い出して慌てて表情を取り繕う。 
「ええ。あの程度を我慢できないようじゃこの先生きていけないわよ? あなたは肉体的には文句なしなんだから、もっと精神的に強くならなきゃダメ。いくら強くても、あの手の挑発で律儀に怒ってたら、良いように絡めとられてしまうんだから」 
「……姉さんだって十分怒ってるように見えたけど」
 心外だ、と言わんばかりの声が上がる。一瞬自覚があるだけに赤くなったアルトルージュだったが、認めてしまったら何の為の説教なのかわからなくなってしまう。
「腹を立てるのと、怒りで我を忘れるのは全然違うの! どれだけ怒りを感じても、常に冷静に周りを見つめる自分を中に作っておきなさい。それが出来れば、あなたは誰にも負けないわ」
 自分でも言い訳めいてるな、と思っていたのだろう。妙に早口でそうまくし立てると、これでお終いとばかりにアルクェイドの背中を軽く叩いて、アルトルージュは離れようとする。と、その手をアルクェイドがきゅっと掴んだ。
「ちょ……どうしたの? アルクェイド」
「……ねぇ、わたしのせいなのかな」
「え?」
「あのホテルの人達が死んだのも、さっきの女の子が死んじゃったのも、全部わたしのせいなのかな」
「アルクェイド……」
「あいつの言った通り、やっぱりわたしは人形で。本当はこんな所にいちゃいけない存在なのかな……」
 寂しげな声が、アルトルージュの耳朶を叩く。その顔は今にも泣き崩れそうなほどに弱々しかった。
 アルトルージュは溜息をつき、彼女の頭を軽く叩く。
「痛っ!」
「もうっ、本当にバカなんだから。そんなわけないでしょう!」
「……でも」
 なおも不安そうな声でそう呟くアルクェイドの手を引いて、自分の胸へと引き込んだ。
「きゃっ!」
「あなたは考え違いをしてる。神様でも人間の守護者でもないのに、目に映る人間全ての人間の死に責任を感じる必要なんか無い。だからリタが無理やりに背負わせようとした責任をしょいこむ必要なんか無いの」
 道化の盛った毒は、まだ世の深遠を知らないアルクェイドには強すぎるものだった。
 だからしっかりと抜いてあげないといけない。驚いて目を丸くしてるアルクェイドの背を、アルトルージュはそっと優しく撫でる。自分の温もりがしみわたるように。
「確かにあなたは人形だったかもしれないけど。今も人形のままだったらそんな事で悩むわけないでしょう。安心なさい。あなたはちゃんと中身を手に入れてるのよ。『アルクェイド・ブリュンスタッド』という中身を」
 そう言うと、アルトルージュは回した腕に力をこめて、きゅっと強く抱きしめる。自分の考え、教えなければいけない事をしっかりと染み渡らせたかったから。
「だから、あなたが背負わなければいけない責任は一つだけ。志貴君を悲しませない事よ」
 その言葉に、はっと顔を上げるアルクェイド。その額をアルトルージュが手の甲で軽く小突いた。
「志貴が……悲しむ?」
「そうよ。あなたがいる事で志貴君は幸せなの。志貴君だけじゃない。志貴君の周りの人達も、私も……沢山の人が幸せになってる事も忘れちゃダメ」
「本当に? 本当に姉さんも、志貴も幸せなの?」
「ええ。前にあなたは言っていたでしょう? 私達がいる事が自分の幸せの理由だって。それと同じ。私達にとって、あなたがいる事が幸せなの。だからもっと自信を持ちなさい、アルクェイド!」
 アルクェイドの目をじっと見つめて、キッパリとアルトルージュは言った。
「……うん」
 頷くアルクェイドの目にも、強い光が戻っている。それを見たアルトルージュは満足そうにその頭を撫でると、彼女の体を引き起こした。
「良かった、もう大丈夫そうね」
「うん、もう大丈夫」
「良かった。それじゃあ……」
「……ねぇ、わたしも姉さんにして欲しい事があるんだけど、良いかな?」
「え? 何?」
 彼女からそんな事を持ちかけてくるのは珍しい。意外そうな顔で見つめるアルトルージュに、アルクェイドが言った。
「姉さんの方こそ、何かあってもあんまり自分一人で抱えこまないでね? 話せば楽になる事だって、きっとあるんだから」
 その言葉に、アルトルージュの胸がどくりとざわめく。
 一つ、抱え込んでいる事があった。
 それはアルクェイド自身に関わる、大きな秘密。
 その秘密を抱える事はアルトルージュにとって重荷などでは無かった。彼女と妹を繋ぐ、大事な、大事な絆なのだから。しかしアルクェイドがその事を知れば、悲しみ自分自身を責めさいなんでしまう事も分かっていた。
 ゆえに彼女は、決して言う事は出来なかった。
「ええ、勿論よ。色々ストレスたまる生活だからね、沢山愚痴っちゃうわよ?」
 だから、わざと茶化した調子でそう言うしかなかった。
「むー、それってわたしの事なの?」
「さて、どうかしら?」
 案の定、頬を膨らませる彼女に向かってアルトルージュは意地悪な笑顔で応える。
 それは重苦しい部屋の空気を拭い去るスイッチでもあったのか。一瞬の間の後、互いに顔を見合わせて吹き出していた。
 あるいはそれは、自分自身に対する発破であったのかもしれない。
 自分と一緒にいる事で、アルクェイドが余計な厄介事に巻きこまれるのではないか。旅に来る前から頭のどこかにこびり付いていた不安は、今日のリタの登場で現実になってしまった。
 これから先の旅路も平穏無事と言う訳にはいかないだろう。だけど、巻き込んでしまった申し訳なさと同じ位、一緒にいる幸せが彼女の心を満たしている。
 だからせめて志貴のいない間、妹の身は何があっても守り切ろう。
 眼の端に涙を浮かべて笑いながら、アルトルージュはそう胸に誓っていた。





続く