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 彼女には自分自身の名前がない。
 元から無かったわけではない。名を呼ばれていた記憶はあった。
 ただ、必要がなくなったから失われた。それだけの事である。
 背までのびたプラチナブロンドの髪。身を彩る鮮紅色のスーツ。タイトスカートのスリットから伸びる白く長い足。小ぶりな顔には、すっと通った鼻梁に、肉感的な唇が丁寧に配置されている。深蒼の瞳が、目の前の荘厳な天井画を物憂げに眺めていた。
 通りすぎる人々の目を惹かずにおれないその美貌は、しかし同時に近寄り難い雰囲気をも彼女に与えている。
 その身に纏う空気はまるで炎。惹かれずにはいられないが、引き寄せられれば身を焼かれ滅ぼされるのではないか。見る者にそういう錯覚すら抱かせた。彼女を知る者ならば、それが錯覚でない事を溜息交じりに伝えることであろうが。
 無論、それも彼女にとってはどうでも良い事だった。たまたまそのように生まれて、持っていても邪魔にならないから持っている。ただそれだけの事に過ぎないのだから。
 元より日の当たる場所に出る事も稀な身である。自らの机に積み上げられた書類は毎日山の如し。たまの外に出る仕事も、日付の変わる頃から東の空が白み始めるまで駆けずり回るようなものしかない。
 物憂げに左腕に巻かれた腕時計に視線を落とし、再び天井画に目を戻す。
 ドイツ南部。オーストリアとの国境沿いに聳え立つ幽玄の城、ノイシュヴァンシュタイン。
 一八六九年、後に「狂王」と渾名されたバイエルン王ルートヴィヒ二世の命によって作られ、王の死と共にその建設を放棄された悲運の城である。 
 ついに玉体が置かれる事の無かった玉座の間に描かれたのは、地上の王、自らを生みし母、そして天の御使いに祝福をうけし神の子(キリスト)の絵姿。世界をあまねく慈愛で包んでいると信じられている存在。
 彼女の唇の端が薄く上がる。声にならない呟きが、彼女の口をついて出る。
 ――本当にそうであったのならば、さぞかし私の仕事も楽であったろうに。
 現実は違う。
 世界は悪意に満ちていて、救われるものなど一握りの砂ほども存在はしない。
 元より彼女に救う意思も無い。人々を救うなどという御高説は、彼女にも、彼女なりに愛してやまない部下にも唱えている暇はなかった。そんな物は着飾った表の同僚たちにに任せておけば良い。彼女はそう教えらえてきたし、そう教えていくつもりだった。
 彼女がなすべき事。そう信じている事はただ一つ。
 闇に住まう穢れたイキモノ達を、一人残らず狩り尽くすことだけ。
 例え人々が残り一人になろうとも、彼らを狩り尽くす事こそが勝利。それが彼女の司る組織の教義であり。
「やぁ、待たせたねナルバレック」
 彼女の身に宿る信念でもあった。



 振り向いた彼女の視線の先には、黒のインバネスにステッキを持った人物が微笑んでいた。頭に乗せている真っ白なベレー帽のアンバランスさが、殊更に人目を引く。
「声を掛けておいて待たせるとはな。リタ・ロズィーアン」
「ごめんごめん。ミュンヘンから慌てて戻って来たんだ。少し多めに見てくれると助かるんだけどね」
 抑揚の無い冷たい響きに、しかしリタは悪びれる様子もない。
 リタ・ロズィーアン。死徒二十七祖が十五位。ナルバレックにとっては怨敵たる存在である。しかし今の所両者に流れる空気には敵意も殺意も含まれてはいない。
 ただ、ひどく居心地が悪いだけであった。
 ねとりと、肌にから見つくような重い空気。ぬめった水の中に漬けられたような重苦しい空気に耐えかねた観光客達は、一人、また一人と姿を消していく。
 閑散としてしまった玉座の間に、かつんかつんと足音が響き渡る。部屋を一巡するように、リタは興味深げに歩きまわり、調度品に目を向けていた。
「懐かしいね。ルートヴィッヒ坊やの生きていた頃と変わらないよ。人間達には感謝だね。こんなに綺麗なまま、ちゃんと残してくれるなんてさ」
 この城を作り上げた王を坊やと呼び、悦に入ったのか、篭った笑い声を立てる。その様を、大して興味も無さそうにナルバレックは眺めていた。
 実際彼女にとってどうでも良い事であった。
 リタのいた所と自分の根城、その丁度中ほどにこの城が存在していた。それだけに過ぎない。場所の美醜など、話し合う内容にいささかの影響も及ぼすものではないのだから。
「キミも良い趣味をしてるよ。教会で話し合うとか言われたらどうしようかとか思っちゃったけど。うん、ここなら文句なし。話を持ちかけた甲斐があったな」
「ならば時間くらいは守るべきだと思うがな」
「あは、確かに「会いたい」っていったのはボクだけどね。こんな昼日中に話し合いの時間をセットするキミだってヒドイんじゃない? 良い死徒()は寝る時間なのにさ」
「私は自惚れてはいない」
 リタの軽口にもナルバレックの言葉は冷たく、硬い。
「死徒の祖が一人と身一つで会わねばならるのに、夜中にのこのこ出掛ける真似はせんよ」
「ボクはしがない帽子屋だよ? あんまり買い被られると照れちゃうな」
 リタはサングラス越しの目を細めて、口の端を上げる。唇の端から、ちらりと発達した犬歯が顔を覗かせた。
「それに身一つ? よりにもよってナルバレックたるキミが身一つとはね。面白すぎる冗談だよ」
 本当におかしそうに体を折って笑う。
「何代かナルバレックには会ってきたけどね、キミの冗談が一番面白いよ。うん、最高だ」
「貴様を滅する事が出来なかった先祖の無能は、厳に反省すべき所だな。それで、用件は何なのだ」
「うん、実は我が王から大事なお知らせを言いつかってきてるんだ」
 リタはコートの内ポケットに手を入れる。ややあってひょいと引き出された右手には豪奢な装丁のファイルが握られていた。
「口頭だと不安だから、文章にしたってさ。どうも信用が薄いね、ボクも」
 苦笑を浮かべて手渡してきたファイルを受け取ったナルバレックは、中の文章に意識を落とす。
 今の時代に似つかわしくない、流麗なペン使いで書かれた文章。読み進めるに従って、能面のようだったナルバレックの眉が顰められた。
「……本気か?」
「ボクが王の直筆の書状を持ってきた。その事自体が答えになると思うんだけど」
 何時の間にか彼女の背後に回っているリタが、すっと身を寄せてきた。ナルバレックも女性としてはかなり背が高いが、リタはその上をいく。形良い耳元に口を寄せて、甘く蕩かすような声で囁きかけた。
「面々と受け継がれてきた歴史を変える気はないかい? 闇よりなお深い闇。埋葬機関が一位、第二十六代ナルバレック殿」
「ふむ……」
「月の映し身、二つの神秘。黒と白の美姫を、貶め犯し滅ぼす。ああ、想像するだにゾクゾクしないかい?」
 リタの手が伸びる。ナルバレックの腕の下を通り、彼女を抱き止める。鮮紅のスーツを豊かに押し上げる胸に、しなやかな指が吸いつき沈みこむ。
 もしこの場に目撃者がいれば、息を飲むような扇情的な光景であった。紅と銀の美姫に絡み付く黒い蛇。蛇の口は耳元から下がり、ナルバレックの首筋に寄せられている。伸ばされた真赤な舌が、ぺろりと彼女の白い肌を這いまわった。
「うん、でも目の前のこの真赤な果物もとても美味しそうだね。食べちゃっても良いかな?」
「……あいにくと、我らが教義では女色は禁忌ゆえな。その手の趣味は持ち合わせていない」
 しかし自らの体をはい回る指の動きにも、吸血鬼が喉元に牙を寄せている事実にも振り向きもせず。身じろぎすらせず。ナルバレックはファイルに視線を落としたまま呟いた。
「それでも欲しいと言うのならくれてやるが。代金は払っていってもらうぞ、帽子屋」
「んー、ケチ。つまみ食いもダメなんて厳しすぎるよ、ナルバレック」
 這い回る指と舌の動きは止まったが、抱き止める事自体はやめる気はないらしい。より強く、自らの胸のふくらみを押し付けるように腕を回すと、リタはナルバレックの肩に顎を預けてクスリと笑った。
「じゃあ交渉は決裂かな? 埋葬機関長どの」
「まさか。これほどの好機は他にあるまいよ」
 ナルバレックはファイルを閉じて、リタに視線を向けた。そこには初めて熱のような物が篭っていた。
 その口元が美しい半円を描く。
「白翼公にお伝え願おうか。承った、と」







 ベルヒテスガーデン。
 ドイツ南東部。アルプスの麓に位置する景勝地であり、かの独裁者アドルフ・ヒトラーの別荘が有った場所でも知られる。
 豊かな自然を多く残したこの地こそが、アルトルージュの領地の一つ、彼女の住まう世界であった。 
「もう。この景色こそ、ここの見所なのにね」
 自らの小さな肩に頭を預けて、すやすやと寝息を立てているアルクェイドの顔を横目に、アルトルージュはすねたように呟く。無論本気で腹を立てているわけも無く、子供のように安らいだ顔で眠る妹を見る目はどこまでも優しい物だ。
「アルトルージュ様こそ、よろしいのですか? 到着までは今しばらく時間が掛かります。日の光はあまり入らぬ細工はしてありますが、お体に障る可能性も……」
「大丈夫よ、エルウィン」
 ハンドルを握る忠実な執事の気遣いに、彼女はにこりと微笑む。
「昨日の夜は結局話しこんじゃって、お互いにあんまり寝てないんだけどね。城についたら少し休ませてもらうから」
「そうでしたか。それは何よりでした」
「どうしたの? 何か嬉しそうだけど」
 アルトルージュから顔が見えるわけではないが、声の調子でどんな表情を浮かべているかくらいは判る。訝しげに問われたエルウィンは、咳払いを一つして答えた。
「いえ、私はアルトルージュ様にお仕えしてまだ二百年ほどですが。今のように、本当に楽しそうな御様子を拝見したのは初めての事でしたので。我が事のように嬉しくなってしまったのです」
「あら、私はいつもそんなに気難しい顔をしているのかしら」
「い、いえ! 決してそのような事は」
 わざと真顔で言うアルトルージュの言葉に、あわててそう取り繕うエルウィン。その様を見て彼女は、少女のようにくすくすと笑いだした。
「ふふ、冗談よ。だからそんなに畏まらないでいいわ」
「は……」
「でもね、楽しいってのは本当」
 ふわりと下がってきたアルクェイドの髪を、二度三度、手で梳くように弄ぶ。
「バールやヴラドには迷惑を掛け通しだけど、もうしばらくワガママさせてもらおうかしら」
「いえ、シュトラウト様もスヴェルテン様も常日頃から「アルトルージュ様はご自愛があまりに足りな過ぎる」と仰っておられました。ですから、ワガママなどと仰らずに、心ゆくまでお楽しみくださいますよう」
「ありがとう。二人がそう言ってたならその言葉に甘えちゃおうかな」
 アルトルージュは窓の外に目をやった。
 街を取り囲むように聳え立つ、白く染め上げられた山々。この土地は、数百年も前から彼女の物であった。そこに住む人が移り変わっても、目に移る建物が変わっても、大地そのものが大きく変わる事がないように、彼女もまた変わる事がなかった。幾度となく見つづけてきたこの眺めを、胸に留める事がなくなってどれくらい経っていたのだろうか。そんな色あせていた筈の景色が、今は新鮮な色を持って脳裏に刻まれていく。
 妹が変わったように、自分も変わった。それだけで見る物すらこれだけ変わっていくのだろうか。
 幸せそうな顔で無邪気に眠っているアルクェイドの顔に視線を戻して、アルトルージュは目を細めた。暫時その寝顔に顔をほころばせていた彼女だったが、すぐにその顔を引き締める。
「……エルウィン。城に戻ったら全力で白翼公達の行動を洗いなさい」
「かしこまりました。それと昨日の件に関しましては、真に申し訳有りませんでした。償う術もございません」
「そんなに自分を責めなくてもいいわよ。相手がリタじゃしょうがないもの」
 アルトルージュの顔に、隠しようもない嫌悪と憎しみの色が浮かぶ。その口からぞっとするような冷たい響きがもれ出した。
「……トラフィムったら、分かってて私に向かってリタを送って来るんだものね。必ずお礼はしてあげないと」
 ハンドルを握るエルウィンの背中を粟立てるほどの鬼気が一瞬車を満たすが、アルトルージュの溜息と共に平静を取り戻した。
 こういう状況でなければこちらから仕掛ける手もあるのだろうが、彼女としては妹との旅行という貴重な時間をそちらに費やしたくはなかった。打てる手は全て打っておくが、後は向こうの出方次第。白翼公の行動は腹立たしかったが、それに意趣返しするのは今でなくてもいい。
 それまでは、存分にこの旅行を楽しむ事のほうが重要だ。
「そうだ。折角ここに来たんだから岩塩鉱山に寄ってちょうだい。ベルヒテスガーデンの名所だもの」
「は、今からそちらに向かうとなると、少し道を戻る事になりますが」
「構わないわ。あなたもさっき言ったじゃない。羽を伸ばせって」
「かしこまりました。そう言うことでしたら謹んで」
 エルウィンの腕がなめらかにハンドルを操り、彼女たちを乗せた車は大通りからわき道へと飛びこんでいく。
 アルトルージュはアルクェイドの肩に手を掛け軽く揺さぶった。
「ほら、アルクェイド。そろそろ目を覚ましなさいな」
「ん……? あれ、もう着いたの?」
「ううん、ちょっと見せたいものがあるから寄り道よ」
「ん、それなら着くまで寝てるぅ……」
 目をしばたたかせ、きょろきょろと車内を見まわしたアルクェイドは、猫の様に手の甲で目をこすりつつ、再びこてんと横になってしまった。
 ――アルトルージュの膝の上に。
 その様に思わず吹き出したアルトルージュは、バックミラー越しに何とも言えない表情を浮かべているエルウィンに笑い掛けた。
「エルウィン、お願いがあるんだけど良いかな?」
「は。――それでは一時間ほどでよろしいですか?」
「ええ、お願いね」
 アルトルージュは膝枕をしながら、妹の艶やかな金糸を梳き撫でる。
 ここからならば目的地まで三十分は掛からない位置だったろうが、もうしばらくこの気ままな白猫を膝の上で寝かせておきたい。何よりその無防備な寝顔は何物にも勝る絶景であったから。
 そんな、どうしようも無く妹に甘い主人の意を受けて、車はゆっくりと市内の周遊へと向かった。





 
 
「それじゃあね、ナルバレック。楽しかったよ」
 リタは振り返り、後ろに立つ彼女に向かって親しげに手を振る。ナルバレックは何も言わず、ただ口元に薄く笑顔を浮かべただけだった。
「結果は追って連絡するよ。だからここしばらくは予定空けておいてね」
「努力しよう。もっとも、貴様らが大人しく穴倉に篭っていれば私も、部下も随分と楽を出来るのだがな」
 いささか刺の混じった返礼は、しかしリタにはいささかの痛痒も与えた様子はなかった。元よりナルバレックも皮肉を込めていったつもりはなく、純粋にそう思っただけだったのだが。
「ははは、それは厳しいなぁ。大体、大人しくしてたってキミたちは狩り立てに来るのに。まぁもっとも……」
 リタが口元に手を当てて、目を細める。その視線はナルバレックではなく、どこか別の者を見てるようだった。
「キミやキミの可愛いお友達に狩られるならともかく、無能な代行者達に遅れを取るような死徒なんか要らないけどね」
「随分と手厳しいな」
「使えない駒なんか要らないよ。ゲームをするのに邪魔なだけじゃないか。それはキミも同じだろう、ナルバレック」
「それは違うぞ帽子屋。私にとって要らない駒など存在しない」
 同意すると思っていたのに意外な返答が返ってきて、リタの整えられた柳眉が跳ね上がった。
「おや、おやおやおやおや。キミがそんなに博愛主義だとは知らなかったよ」
「博愛ではない。役に立たない駒でも、処分する楽しみには使えるだろう?」
 ナルバレックの視線もまた、リタを見てはいなかった。彼女の後ろ、城を取り囲む深い森の奥に視線が向けられていた。
「なるほどなるほど、恐ろしいね、全くもって恐ろしい。正にナルバレックの中のナルバレックだ、キミは」
「世辞は良い。そら、腹が空いているのなら存分に味わうが良いさ。ただし食べ残すなよ? 後始末が面倒だからな」
 その言葉が合図となった。
 音も立てず、色も変わらず、しかし確実に彼女たちの周りの空気が変容する。それに慣れた者ならば、迷う事無くこう表現しただろう。殺意、と。
 いつのまにか人々の姿が消えていた。観光客達が必ず出入りする、城の入り口と言う場所にも関わらず、ナルバレックとリタの他には動く者などいなかった。
 そこに足音も、葉擦れの音もなく森の中から体格の良い男たちが滑り出してくる。その数六人。彼らの手には一様に、肘ほどの刃渡りの小剣が握られており、その切っ先は迷う事無く二人に向けられていた。
 黒鍵と呼ばれる投剣、これを武器とする集団は非常に限られている。
 すなわち、教会の『代行者』と呼ばれる異端狩りである。
  「お友達?」
「まぁ、こいつらの上司の顔は知っている。部下の統率もできんとは、役に立たん輩だ」
 意地の悪い微笑を浮かべてるリタに、ナルバレックはそっけなく答えた。
 二人のやり取りを耳にした男達の間に、怒りの波が広がっていく。
 同じ代行者の中でも、ある種特別な位置付けにある『埋葬機関』。それだけでも腹に据えかねるというのに、そこの長が事もあろうに滅すべき死徒と良からぬ企みを持っている。
 彼らにとって、これは決して許されない裏切り行為であった。
「何か不穏な動きを取っているかと思えば……ついに尻尾を出したな、女狐」
「申し開きがあるならば、聞くだけは聞いてやるぞ。埋葬機関長」
「その責務にありながら、汚らわしき死徒と席を共にするとは何たる堕落か」
「灰は灰に。塵は塵に。神聖なる職務を忘れた愚かなる女に鉄槌を」
 口々に突きつけてくる弾劾の言葉は、しかしナルバレックの精神に刃をつきたてるには至らない。中身の伴っていない糾弾など、まともに取り合う心の隙間は彼女には存在しないのだから。
 そもそも、ただ力のみで死徒全てを葬り去れるのであれば今の世に彼らの住処など存在していないのだ。打てる手を全て打ち、時には敵の敵と手を取り合う。その程度の思考すら出来ない猪武者など、栄光たる代行者の地位につけておくのもおこがましい。
 表情は微塵も変えず、彼女は内心で溜息をつく。
 本当に質が落ちたというべきか。結果が分かっている勝負など、楽しむ余地すらありはしない。隣の道化者に贈りつけるくらいが精々の使い道、といった所だろう。
 もっとも、ナルバレックがそれを口にする前に、リタの方で目の前の生贄の処遇は決めていたらしい。
「ん、あんまりおしゃべりなの嫌いだよ。男は聞き上手じゃなきゃね」
   そう言い終えるやいなや、リタはたん、と。軽くスキップするかのように地を蹴った。
 ただそれだけで、彼らの間にあった十数メートルほどの間合は零となる。
 影すら映らなかった。
 太陽の下という、死徒にとっては最悪の条件の筈であるのに、リタの動きは彼らの想像のはるか高みであった。
 驚愕に凍りつく代行者達。そんな彼らを見回して、にこりと微笑むリタの顔には一点の曇もない。曇る筈もない。
「やあ、初めまして。名なしの代行者殿」
 それはただ一色。無限の悪意に塗りつぶされた、邪な笑顔。
「な……」
 目の前に向かい合われた男が、まともな声すら上げられずにうめく。
 それが彼の生涯最後の行動になった。
 風が突き抜ける。
 左手でだらりと持っていた筈の彼女のステッキが、いつのまにか男の左肩口にすっと差し伸ばされていた。
「そしてさようなら、いただきます」
 その言葉がスイッチだった。
 ころりと、まるで大きすぎる花が額からもげ落ちるように、男の首が胴と別れを告げた。
 一瞬遅れて吹き上げた盛大な血飛沫が、彼女のま白いベレー帽を、そこから伸びた髪を真紅に染め上げていく。
 男の首を右手で受け止めたリタは、理不尽な運命に凍りついたままの顔に深く口付ける。口元に流れ出ていた血を舐め取り、より深く味あわんと、その口の中まで舌を滑り込ませ蹂躙する。
「あは、あははははは。この味は……なんだキミ童貞だったんだ。料理する前につまみ食いしておけば良かったかな」
 首から滴る血に舌を這わせ、もう満足とばかりにそれを放り捨てる。
 とろんと潤んだ瞳で、リタは残る五人に微笑みかけた。唇から覗く牙が血に塗れて妖しく光り輝いた。
「さて、こんなお日様の高い時に動いてるから、ボクはとてもお腹が空いてるんだけど。次に食べて欲しいのはだぁれ?」
 その言葉は、終末を告げるの鐘の音。
 今だ何が起きたのかま、ともに把握できていない五人。彼らに向かってリタがコートの裾を翻す。
 ごとん、ごそり、ごと、ごろごろ、ぼと。
 ただそれだけの行動で、三つの首が落ち、一人の右腕ともう一人の左腕が、胴より永久の別れを告げた。
「ありゃ、殺りそこねちゃった。ダメだね、どうも昼間は」
 心底残念そうに呟いた、リタのその言葉が二人の呪縛を解き放った。
「あぁああぁっ?!」
「腕が、俺の腕があいつの首が腕が首がぁっ?!」
   意味をなさない悲鳴が、辺りの空気を汚く染め上げる。彼らの全身を突き抜ける焼けつくような肩口の痛みが、人間の本能を最高速で加速させる。
 死。死ぬ。確定の死。絶対の死。目の前の存在は死神。
 いかに昼間であろうと、リタは二十七祖だという事をまざまざと見せつけられた。
 必勝の策なく戦いを挑んだ所で、敵う訳が無かったのだ。
 恥も外聞も無い。叱責も降格も命には代えられない。腕一本で悪魔から身を隠せれば御の字だ。
 逃げる。そのために踵を返そうとした一人の動きがぴたりと止まった。
 胸が熱い。指先に力が入らない。足が動かない。視界が狭い。口元から何かあふれ出てる。
 ただ自分の胸元を見る。それだけの行為に全身全霊の力を込めた彼が目にしたのは、ぽっかりと自分の体に空いた空洞だった。
 もう少し頭を下げれば自分の背後も覗けそうなくらい大きな穴。丁度心臓のある位置に空いた、あってはいけない穴。
「あ……あああああ………ああああああああああああーっ?!」
 もはや声など意味をなさない。唯一残った腕で、必死に失われた胸を掻き抱く。
「黙れ、耳障りだ」
 ナルバレックの声。その声と同時に、彼の頭が吹き飛んだ。
「な……何だ何なんだお前らは一体何なんだー?!」 
 唯一人残った男は、まるで子供のようにぺたんと尻餅をつき、吹き飛んだ左腕の付け根を抑えながら必死に後退っていた。逃げる、というよりはもはや本能的な反応。自分の視界に映る、黒と赤の二人の悪魔から必死で距離を取ろうとする涙ぐましいい努力であった。
 勿論、悪魔相手に努力など報われる訳も無い。
 ナルバレックは最初の位置から全く動いていない。しかし何時手に入れたというのか、彼女の手には細長い棒が握られていた。華美な装飾も何も無い、二メートルほどの無骨な槍らしきもの。
 もしそれが槍だとしても、普通に使って届く間合いでは無い。彼我の距離は二十メートルほどもある。投げれば届く間合いであろうが、頭を吹き飛ばされた男の周りには、そのような物は転がっていなかった。
 だがしかし。
「では、な」
 情も熱意も篭っていない。淡々としたその一言と共に、男のわき腹と胸にぽっかりと穴が空いた。
 音も無く、前触れも無く。まるでそこに元から穴があいていたかのようだった。
 ぱくぱくと、声にならない悲鳴を上げる男。しかしそれも一瞬の事。
 次の瞬間、やはり音すらなく男の頭は永遠にこの世から姿を消していた。
 噴水のように盛大に血を吹き上げる男の姿をつまらなそうに睨めつけると、ナルバレックはリタのいた場所に振り返った。
 そこは正に血の海とでも言うべき光景。積み上げられた三つの首の無い死体からは止めど無く、紅い液体が流れ続け大地を染め上げている。それに背を預けていた黒い道化はナルバレックの視線に気付くと、牙を突きたてていた生首から顔を上げ艶然と微笑んだ。赤く染まりきった顔の中でなお朱いその瞳が、彼女の身を舐めまわす。
「ふふふ、彼が一番綺麗な顔してたからね。うん、美味しかったよ」
「後片付けはきちんとしておけよ? 死者を作られてはかなわん」
「わかってるよ。恐れ多くも埋葬機関長殿の前で汚らわしい化け物を増やす真似だなんて、とてもとても」
「ならばいい」
 そう呟くと、もはや用事は済んだとばかりにナルバレックは踵を返した。手にしていた槍のような物も何時の間にか姿を消している。
「でも意外だったな。まさかボクの目の前で『槍』を使うとは思わなかったよ」
「どうせ知られている代物だ。これ以上知れたところで害も益も無い」
 リタの言葉に一度立ち止まったナルバレックは、興味なさげにそう呟く。
「あれ、どこにいくんだい?」
「折角穴倉から出て来たんだ。たまには息を抜きたくなる。もう一度この城を観光して来るだけだ」
「息抜き、ね。それだったらボクの宿においでよ。イヤって程汗を掻かせてあげるからさ」
 どこまで本気なのか、リタは艶のこもった視線でナルバレックを見つめたが、彼女は何も答える事無くそのまま城の中に消えていった。
「あらら、振られちゃった。だめだね、最近は連戦連敗。もっと女を磨かないとダメかな」
 心底残念そうにそう呟くリタだったが、その顔も一瞬の事。
「ねえ、キミはどう思う?」
 手にした血袋を愛しげに撫でまわし、彼女は再びその首筋に深い牙を突きたてた。







 地元の人間ですら、そこに何があるのかは知らない。
 そこに何かがある事すら知らない。
 降り積もる雪に閉ざされた深淵の地。森の彼方の桃源の世界。澄みきった水が深々と湛えられた湖の湖畔にその城は佇んでいた。
 天に届かんと聳え立つ尖塔。広げられた鷲の翼のごとき姿。月光に照らし上げられし白と黒の織り成す交響が、名も無きその城を主に相応しい至高の座に変えていた。
 こここそがアルトルージュの居城。欧州の裏を見据える場所の一つなのである。
「……すごいね。千年城も、ミュンヘンで見た教会も大きいって思ってたけど」
 城門の前に立ったアルクェイドは、目の前に広がる威容に思わず感嘆の溜息を漏らす。
「ありがとう。まぁ、見栄の部分も大きいんだけどね。私も立場が立場だし。あんまり貧相な所に住む訳にもいかないのよ」
 苦笑を浮かべたアルトルージュが、妹の背中を押すように歩きはじめる。
「ちょ、ちょっと姉さんったら!」
  「さぁ、入って入って。予定より大分遅れちゃったし、きっと皆痺れを切らしてると思うから」
   急かす姉と戸惑う妹、そんなちょっとチグハグな二人の歩みにあわせるように、ゆっくりと城門が開かれた。
 呆れるほどの広さと高さを持つ回廊には、手入れの行き届いた絨毯が敷き詰められている。せわしなくそこを行き交う幾人もの召使たちは、いと高き自らの主の姿を認めると、膝をつき頭を垂れる。
 そんな中、ただ三つの影が、自然に直立し二人の姫を出迎える。
 一人はアルクェイドですら見上げるような巨躯であった。恐らく二メートルを超えているであろうその体を、隙なく重厚な鎧で包んでいる。外に晒されたその顔から見て取れるのは、まるで巌のような強固な意志を秘めた瞳である。短く刈り込まれた髪と、固く結ばれた口元もその印象を強めていた。
 その隣に立つ男は対照的だった。背も頭一つ分ほど低く、しなやかな印象を与える体つきはむしろ細い方だろう。白いスーツを隙なく着こなした様は正に貴公子然としている。後ろに流された曇無いブロンドの長髪もその印象に一役買っていた。
 二人の共通点は一つ。どちらの瞳も真紅に光り輝いている事。
 そしてもう一つの影は、人では無い。四つ足で立つ、その姿ですら黒い男の胸ほどまでに頭が届こうという、純白の巨狼であった。しかし狼というのはあくまで外見から受ける印象だけの物。その瞳からも雰囲気からも、ただの獣のように野生に引きずられた様子は感じられなかった。
「ただいま、ちょっと待たせちゃったわね」
「お帰りなさいませ、姫様」
「無事のご帰還、我ら何事にも勝る喜びです」
 そう声をかけたアルトルージュに向かって、彼らは胸に手をあて礼をとる。その自然な様子が、彼女と彼らの関係を如実に表していた。
 アルクェイドの背中に軽い緊張が走る。アルトルージュの話をすれば、必ず共に名の上げられる存在。自らも優に広大な領地を治められる身でありながら、その剣を黒の姫君に捧げし者たち。
 黒騎士、リィゾ=バール・シュトラウト。
 白騎士、フィナ=ヴラド・スヴェルテン。
 そしてガイアの怪物。人の懲罰者、プライミッツ・マーダー。
 もし一斉に掛かってこられれば、今の自分では膝を折るより他ない祖の超大物たち。自然、どこか身構えてしまうアルクェイドに向かって、フィナが柔らかく微笑みかけてきた。
「そしてお待ち申し上げておりました。アルクェイド・ブリュンスタッド殿。姫様の妹君として、出来る限りの歓迎をさせていただきますよ」
「真祖の姫君よ。アルトルージュ様の客人であるならば、我ら一同、全霊を持って歓迎させていただく故。そう肩肘張らずにお過ごしいただけるとあり難い」
 リィゾもまた外見に違わぬ重厚な声でそう言うと、アルクェイドに対して礼をとった。
「バール、あなたがそう言う風に言っても説得力無いわよ」
 謹厳実直を体で表す黒騎士の様をそう茶化すアルトルージュに、すっと音無くプライミッツ・マーダーが体を寄せて来る。その様は主人の帰還を喜ぶようでもあり、また自分を連れていかなかった事に対するやっかみも入った甘えでもあるかのようだった。 「ごめんね。プライミッツ・マーダー。でも人の子に会いに行くのに、あなたを連れていくわけには行かなかったのよ」
 拗ねた子供をあやすように、アルトルージュはその首にそっと手を回し、顎の舌を優しく撫で続けた。主の手優しい抱擁に彼の機嫌も直ったのか、目を細めて気持ち良さそうに唸り声を上げる。その様には「霊長の殺害者」の雰囲気はまるで感じられない。
 その巨狼の視線がふとアルクェイドに向けられる。上から下まで、ゆっくりと一瞥した後、つまらなそうに一度唸り声を上げた彼は、またアルトルージュの手に身を任せていた。
「……私も大歓迎だ、って」
「……あんまりそうは聞こえなかったけど」
 互いに顔を見合わせたアルトルージュとアルクェイドは、ぷっと吹き出してお互いに笑い出す。
 その様に軽い驚きの表情を浮かべているリィゾとフィナに向かって、アルクェイドはにぱっと笑いかけた。
「ありがとう。本当はわたしは場違いな存在なのかもしれないけど、そう言ってもらえて嬉しいな。これからしばらくお世話になるね」
 一面に華が咲いたかのような笑顔。それをみて、今度こそ驚きのあまり、二人の騎士は言葉を返すことが出来なかった。
「もう、そんな畏まらなくていいのよ。いる間は自分の家だと思って、羽を伸ばしなさいな」
 プライミッツ・マーダーから離れたアルトルージュはアルクェイドに向き直った。彼女もまた華のような笑顔で、歌うように告げる。
「だから――ようこそ、アルクェイド。私の城へ。心から歓迎するわ」






続く