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 それだけで一つの部屋ほどもありそうなベッドの上で、何か大きな物がもぞもぞと動いている。
 ベッドの豪奢さに見合った、薄く滑らかなシーツを巻き込んで、右へごろごろ、左へごろごろ。寝返りというにはいささかぶしつけな動きだが、時折漏れる唸り声から、寝ているわけではない様子であった。
「うぅぅ……」
 一際大きな声と共に、ベッドの主が包まったシーツから顔を覗かせた。部屋の調度が色あせるような鮮やかな金の髪。肩口ほどで切りそろえられた、それに縁取られた顔もそれを受け止められるだけの品と艶を溢れんばかりに備えている。
「……むみゅ……」
 猫の様な目を細め、ベッドの上の羽枕を睨み付けて。アルクェイド・ブリュンスタッドの口からそんな意味不明の呟きが漏れた。
 しゃがんだまま手を前に突き出し、背筋を伸ばした様もまるで猫のよう。身に絡まったシーツを跳ね除けて、彼女は気だるげに部屋の中を見回した。
 広い。
 中ほどに置かれた黒檀のテーブルは、片の手に余る者の会食が優に行えるだけの大きさがある。その上に吊り下げられたシャンデリアの水晶細工が、差し込む月光に淡く煌いている。
 ベッドの向かい側には、人の数人もすっぽり入れそうなほどのクローゼット。その横に並べられた本棚も劣らず巨大な物。それらの調度があってなお、息苦しさを覚えないほどに大きい部屋。

「一応城で一番良い部屋を用意したつもりなんだけど、もし気に入らなかったら遠慮なく言いなさい? すぐに別の部屋用意するから」

 アルトルージュの言葉を思い返して、アルクェイドは唇を尖らせる。すらりと伸びた足を跳ね上げて、ベッドから立ち上がった。
 その身に纏っているのは男物のワイシャツ一枚のみ。派手に開いたボタンの合わせ目から、こぼれんばかりの乳房の谷間がまろび出ている。いささかはしたない格好であったが、これが彼女の寝巻きである。
 彼女の愛する男、ぬくもりを感じていたい男は今遠い日本の地にいる。だからせめて寝る時位はその存在に包まれていたかった。ゆえに彼女は志貴のワイシャツ一枚という寝巻きを愛用しているし、それを変える事はこれから先も無いであろう。
 アルクェイドはそのまま部屋を横切り、バルコニーへと繋がる窓を押し開いた。夜風がカーテンを、そして彼女の髪を舞い上げて、肌を撫でていく。寝起きで少し火照りを見せていた肌に、ひやりとした風が心地よかった。
 目の前に広がるのは、鏡のような静謐さを湛えた大きな湖。それを囲むように広がる森は薄闇に包まれている。それはまるで、城を俗人の目から守り通す無言の兵士のようでもあった。
 天に浮かぶ月と、水面に移る月が静かに城を照らしあげる。
 バルコニーの柵にもたれ掛かり、組んだ腕に顔を埋めながら、アルクェイドはその幻想的ともいえる眺めを見つめている。その口元から悩ましげなため息とともに、呟きが漏れた。
「……志貴、今頃何してるのかな」
 どれだけ目の先の光景が美しくても、空から見守る月の光が優しく彼女を包んでいても。話す者もなくただ一人でそれを見続ける事は、アルクェイドの心に深い寂寥を呼び起こしていた。
「志貴と一緒に来たかったな……」
 今頃は妹と、そして忠実な従者二人と共に旅行をしている愛しい男の顔が彼女の脳裏に浮かぶ。
 今回はお互いに家族と過ごしてもらおう。そう決意したのはつい先日の筈なのに、それでもこうして離れてしまうとどうしようもなく寂しかった。
 この旅に不満があるわけではない。
 姉であるアルトルージュの優しさは彼女の心を満たしていたし、リィゾ、フィナを初めとするこの城の住人たちも、非常に温かく彼女を出迎えてくれていた。
 真祖の姫という、死徒にとって最大級の厄札であるはずの自分。ともすれば自らの主を危険に晒すかもしれない相手を温かく迎え入れた彼ら。
 自らの主に対する絶対の信頼。それだけの関係を配下の者と築きあげてきた姉に対する憧憬と、そしてどこか気後れめいた感情を覚えて。
 それだけに――もっとアルトルージュの事を知りたい。そういう思いが彼女の内に芽生えていた。
 人形ではない、アルクェイド・ブリュンスタッドという一つの存在になって一年と少々。彼女にとってアルトルージュは、いささかに愛情あふれる姉としての面だけを見せてくれていた。
 死徒の姫。二十七祖第九位としてのアルトルージュは目にする機会がなかったのである。
 向こうは自分のいろんな面を知ってるのに、こちらは知らない。そう思えば思うほど、それは随分と不公平であるように彼女には思われた。
「むむむ……」
 眉をひそめて考え込むアルクェイド。
 一番アルトルージュに長く仕えている者としてリィゾ=バール・シュトラウトが頭に浮かんだのだが、いささか話相手としては実直すぎるように思われた。この二日間、彼が「御意」「否」という言葉以外を口にしている所を彼女は耳にしていない。
 次に彼女が思い浮かべたのはフィナであったが、彼相手の話は巧みに確信をそらされてしまいそうな気がした。その枝葉の話が面白いゆえにより性質が悪いとも言える。残るプライミッツマーダーは、そもそも言葉を喋る事がない。
 いきなり計画が頓挫して、アルクェイドは深いため息をついた。
 きゅっと袖を握る手に力を込め、水面にうつろう月の影を見つめる。
「姉さんは、どんな人だったんだろうね」
 そっと呟くが、無論その呼び掛けに応える返事は無い。
 真祖は月の王様の欠片だという。だから月からすれば全ての真祖は子供である筈なのに、ただ静かに彼女を、この城を見つめているだけだった。
 子に厳しい親の視線を振り切るように、アルクェイドはその目を閉じる。
 そこに響き渡った乾いたノックの音。彼女は我に返ってそちらに振り返った。
「アルクェイド様、お食事の支度が整ったのですが」
 ドア越しに通る少しくぐもった声は、この二日彼女の身の回りの事も受け持っている、忠実な姉の従者のものであった。
「いいわよ、エルウィン。入ってきて」
 相当に距離は離れているが、互いに耳の良さは人と比較するべくも無い。丁寧にドアが開かれて隙なく身なりを整えた男が姿を現した。
「どうしたの? こっちにいるんだけど」
「……失礼いたします」
 アルクェイドの言葉に、ややのためらいを見せて入ってきたエルウィンは、バルコニーにたたずむ彼女の姿を見て思わず声を失っていた。
「ん、どうかした?」
「いえっ! そのっ! 失礼いたしましたぁ!」
 眼を逸らして一秒で回れ右をしようとしているエルウィンの姿を見て、アルクェイドは自分がワイシャツ一枚だという姿だと思い出した。
 足の付け根がギリギリ隠れるか隠れないかほどの裾。ボタンの合わせ目は臍の辺りまで下がっている。振り照らす月の光が、ワイシャツごしに彼女の体の線を浮かび上がらせていた。
 なるほど職務に忠実な執事に見せるには、いささか目の毒な光景であったろう。
「あはは、ごめんね? すぐ着替えるから」
「も、申し訳ありません! 外でお待ちしておりますゆえ、整いましたらお声をお掛けくださいますよう」
「別に気にしなくていいわよ。それより、姉さんはもう待ってるの?」
「いえ……今日はどうしても片付けねばならない案件があるゆえ、申し訳ないが先に食べていてくれないか、とのことです」
「むー、姉さんたらご飯も一緒に食べないなんて」
 すまなそうに告げる執事の言葉。アルクェイドは不満げに頬を膨らませた。
「それだったら会議が終わるまで待ってるわよ。一人でご飯食べたってつまんないもの」
「かしこまりました。ではそのように伝えておきましょう」
 彼女にとって、食事というものは純粋に娯楽である。楽しめない食事など取る必要がない。
 もともとお腹が空くという体質ではないのだ。少々時間が遅れた所で問題はなかった。
 問題があるとすれば、いつ終わるかわからぬ会議をまた一人で待たねばならないということであろうか。
 こういう時こそフィナがいればいいのに。そう思ってアルクェイドは内心嘆息する。アルトルージュが会議をしているというのであれば、その傍らに忠実なる二人の騎士が控えていないわけがない。
 眉宇を寄せ、彼女は静謐を湛える森に目を向ける。
 穢れのない、澄んだ力を秘めた良い土地であった。真祖の庭たる千年城には及ばぬであろうが、散歩がてらに満ちた力を借り受けるのも良いように思われた。
「……でもそれって、今でなくてもできるし。どうしようかしら」
 思わず呟きをもらしたアルクェイドの目に、エルウィンの背中が目に止まった。背を向けて向かい合うのも失礼にあたるだろうが、今の彼女の姿を目にするのも不敬である。内心の葛藤が動きに現れ妙に固くなってしまっている彼の姿に、アルクェイドはふと閃く物があった。
 そういえば、エルウィンも姉さんに仕えてかなりの年月が経っているのではなかったか。
「そ、それでは何かありましたら私か、女中にお申し付けください」
「あー、ちょっと待ってエルウィン」
 ぎくしゃくと、やや覚束ない動きで退出しようとする彼を、悪戯っぽい微笑を浮かべて呼び止めたのだった。







 何故にこのような事になっているのか。
 エルウィンは目の前の白い姫の姿を眺めながら、頭の中の疑問符を処理するので精一杯であった。
 アルクェイド様が、共に会食するためアルトルージュ様の会議の終了をお待ちになられるという。
 それはいい。
 問題は、何故にそれまでの時間を自分のような者とお過ごしになられるというのか。その一点であった。
 畏れ多い。先ほどからその感情が彼の心中を満たしている。
 同じ母なるガイアの触覚として生を受けた身でも、アルクェイドと彼とではその地位に雲泥の差があるといっていい。真狼種は特定の地に根ざしたいわゆる土地守とも呼ぶべき存在。翻ってアルクェイドは、プライミッツマーダーと同じく、ガイアの分身とも呼べるだけの力を持った存在である。
 たとえ彼女にその意志がなくとも、ただこうして向かい合っているだけでその力が伝わってくる。
 しかし実際の所、彼の困惑はその事に対してではなかった。
 畏れ多くも真祖の姫手ずから注がれた紅茶に口をつける。いささか苦みばしっていたが、そんな素直な感想など口が避けても言えるはずもない。
「むむ、失敗かしら。やっぱり琥珀が注ぐみたいにはいかないわね」
 自ら注いだ紅茶に口をつけ、眉をしかめると照れ笑いを浮かべるアルクェイド。
 ころころと表情を変えて、豊かに自らの感情を表す。その行動のどれもが、彼の伝え聞く『真祖の姫』という情報から逸脱している。
 感情を持たず、ただ道具として堕ちた真祖を狩り続けた処刑人。そのような恐ろしげな印象は露ほども感じ取ることができない。その力の事さえ横に置いておけば、まさに人の子の少女のような有様。
 空港で主に言われた言葉を、彼は思い出す。
 ――彼との出会いで変わった。
 アルクェイド・ブリュンスタッドが、人間と結婚する。
 何がそのような驚天動地の事態を引き起こしたのか、彼には皆目見当もつかなかった。
「ああ、琥珀っていうのはね。志貴の家のメイドさん。とっても料理が上手なんだよ。双子の妹で翡翠ってのもいて、こっちは料理がからっきし。双子なのに面白いよね」
 あはは、と声を立てて笑う彼女。
 エルウィンがアルトルージュに仕えることになって以降、そのような笑顔を浮かべる者に出会う事はなかった。主であるアルトルージュの心から笑顔を浮かべた所も、見た事がなかった。
 月と闇の世界には合わない、まるで太陽のような笑顔。
 月の化身たる彼女がそのような笑顔を浮かべることができるのが意外な筈なのに、その笑顔は驚くほど彼女に似合ったものであった。
 分からない。そう心の中で呟くエルウィンに向かって、アルクェイドは微笑んでくる。
「ねえ、エルウィンに兄弟はいるの?」
「は、兄弟ですか……」
「うん、わたしの周りって兄弟がいる人多いし。ひょっとしてあなたもかな、と思ったのだけれど」
「……私達の場合も、他の生き物のように純粋に血の繋がりというものがあるわけではありませぬが。それでも妹と呼べる者はおります」
 エルウィンの頭の中に、家族と呼べる者の姿が浮かぶ。一族の代表としてアルトルージュに仕えるようになって以降、随分と顔を見ていなかったが、健勝だという話は聞いていた。
「あ、やっぱり! そうなんじゃないかなーって思ったんだ。妹さんはどんな感じなの?」
 途端、にまにまと目を輝かせて身を乗り出してくる。好奇心の塊となってしまったアルクェイドに、彼は内心のけぞった。
 しくじったかもしれない。これは、適当に話を逸らすというわけにもいかなさそうである。
「あ、その。フリーダと言いまして。まぁ妹と呼ぶべき存在なのですが……」
 彼は事あるごとに自分の後ろをくっついて回っていた少女の顔を思い出していた。
 元々新たな命が誕生する事が少ない真狼種にとって、彼の妹は一族全体にとっての宝でもある。あまり大事にされすぎて、変に我侭になってなければ良いのだが。
 故郷たる森を旅立つ時の様を思い出して、彼の口元に淡い苦笑が浮かんでいた。
 自分も付いていくと言って聞かない妹を振り切るために、一週間の追いかけっこ。考えてみれば、遊びらしい遊びをしたのも、妹の顔を見たのもそれが最後であった。
「どうしたの?」
「いえ。フリーダのやんちゃぶりも少しは落ち着いてくれていると良いな、と思いまして」
「ふぅん。やっぱりみんな同じ顔するんだ」
「アルクェイド様?」
「志貴がね、妹の話する時もそうなの。今のあなたみたいな顔をして話してる。お兄さんが妹の話する時ってみんなそうなのかな」
 志貴という名を口にした時、アルクェイドの顔に隠しようも無い喜びの色が浮かんでいる。その様はまるで花が綻ぶかのようで、不敬ながら、ひどく愛らしいと彼に思わせるものだった。
「……そうですね。人の子が兄弟に対してどういう思いを持つのか、この身では想像するより他ありませぬが。やはりかけがえの無い大事なもの、と思うのではないでしょうか」
 実際エルウィンにも、志貴という男の気持ちなど分かるわけが無い。しかし妹を持つ兄としての感情ならばおおよそ想像のつくものであった。たとえ種が違っても、その手の思いはそれほど変わる物ではないだろうから。
 彼の言葉に、しばし考え込むそぶりを見せていたアルクェイドは、
「ねえ、姉さんの事聞いてもいい?」
「アルトルージュ様、ですか」
「ええ。わたしは姉さんの事をよく知らない。わたしを大事にしてくれる、支えようとしてくれる姉さんの顔しか知らない。志貴やあなたが妹に向ける、そういう顔しか知らないの」
 その言葉にエルウィンは、淡い困惑の色を顔に浮かべた。
 自分が大事だと思う相手に対して、もっといろんな事を知りたい。それは当然の反応だろう。しかしどこまで話していいものか。主に対する忠誠との兼ね合いで、エルウィンは頭を悩ませる。
 手にしたティーカップを戻すと、しばし目を閉じ彼は無言で考え込んだ。
「ねえ、駄目かな?」
「む……私がアルトルージュ様の人為りを勝手にお話しして良い物かどうか」
「えー、ダメなの?」
 カップを両手に抱え、上目使いで見つめてくるアルクェイドに、思わず心の中で後ずさった。いささかに抗するには手ごわい振る舞いである。
「いや、その、駄目と言いますか……」
「む、もしかして悪口しか出てこないから話せないとか?」 「そ、そのような事は決して!」 「ふーん、そうか。エルウィンは姉さんの事が嫌いなんだ」
「そんな事はありません!」
 カップに隠れた口元に意地の悪い微笑を浮かべてそんなとんでもない事を言うアルクェイドに、反射的にエルウィンはそう叫んでいた。一瞬のち、自分の行動に戸惑い口ごもるがもはや後の祭りである。
「ふむふむ、嫌いじゃなかったらどう思ってるの?」
「素晴らしい方です。命をかけてお仕えするに相応しいお方です」
 何かが吹っ切れたか、そう応えるエルウィンの口調には迷いがなかった。あごに手を当て宙を見上げた彼は、ややあってその表情を少し真面目なものに戻す。
「アルクェイド様は、我々真狼種の事をどこまでご存知でしょうか」
「んー、そうね、通り一遍のことは分かってるつもりだけど。その土地に根ざした受肉せし精霊で、言ってみれば私のような真祖の親戚よね」
「ええ。違うとすれば、我々は土地守(グラウンドキーパー)であり、誕生した地に深く縛られていると言う事でしょう」
「そっか、そういう点ではわたしとは違うんだね」
「ええ。我らはその土地が滅んだ時、共に滅びの道を歩みます。人間たちの勢力圏がいや増すにつれて、同胞たちの数も減っていきました。ですから、我々が生き残るには誰かの下につくより他ありませんでした。そして欧州の裏で最大の力を持つ方々といえば、アルトルージュ様か白翼公以外にありえません」
「それであなたたちは姉さんを選んだのね」
 彼の声には、幾ばくかの寂寥が含まれていたが、アルクェイドがそれに気づくにはいささか量が少ないものであった。真剣に聞き入っている彼女の顔を見て、エルウィンも居住まいを正して言葉を続けていく。
「はい。アルトルージュ様が差し伸べてくださった手を取りました。その時のお言葉は生涯忘れる事はありません。凛とした瞳で我らを導くとおっしゃられた。その時に、我々はあの方についてくと決めたのです」
 アルトルージュの声と、自信に満ちた面差しが彼の脳裏に浮かぶ。
 ――あなたたちの現在を貸して頂戴。代わりに私は、貴方たちに未来をあげる
 忘れる事などあろう筈の無い言葉。寂寥は消え、彼の顔には懐かしさと消えぬ憧憬が浮かんでいる。アルクェイドは目を細めてその様を見やっていた。
「そっか。姉さんは凄いんだね」
「ええ。あの方にお仕えする事が出来るのは、本当に光栄です」
 エルウィンの顔には笑顔が浮かんでいた。心から笑う事になれていないのか、その表情はいささかぎこちないものであったが、それゆえに見る者の心に安らぎを与える微笑であった。
 彼の顔を見て、アルクェイドもまた安心したように笑った。
「ふふふー。エルウィンは姉さんの事が大好きなんだね」
「も、勿論思慕を抱くという不敬は抱いておりませぬが。この身を懸けて敬愛申し上げております」
「うん、良かった。それが聞けて安心した。エルウィンが姉さんをどう思ってるかもわかったしね」
「ですから、それは誤解であると……」
 意味ありげな視線を浮かべるアルクェイドに慌てだすが、分の悪さは否めない。結局彼の行動は彼女に気持ちよい笑いを提供しただけの模様である。
 ひとしきり声を上げて笑い続けたアルクェイドは、ふとその表情を真剣なものに戻して彼を見やってくる。その瞳の光の真剣さに、エルウィンもまた居住まいを正して向き直った。
「ねぇ、リィゾやフィナたちもそうだと思う? ただ騎士として、仕事として守ってるんじゃないよね?」
 『真祖の姫』らしからぬ、不安に満ちた表情。しかしそれは妹がただひたすらに姉を案じる、情に満ちた顔であった。だからエルウィンも、彼女の杞憂を解きほぐすべく、その言葉に深く頷いた。
「ご安心ください。この城にいるもので、ただ義務感のままにアルトルージュ様に仕えている者など、ただの一人もおりません」
「本当に? 本当にそう思う?」
 彼女の言葉に彼は少し考え込むと、
「……アルクェイド様はすでにご存知かもしれませぬが、スヴェルテン様は元々アルトルージュ様に敵対なされていたお方だと聞いています」
「え、そうなの?」
 目を丸くするアルクェイド。自分が誕生する前より彼らがアルトルージュに仕えていると言うのは情報として持っていたが、流石に詳しい関係までは知りようがなかったのだ。彼女の疑問符や困惑を解きほぐすように、エルウィンは説明を続けていく。
「勿論私が生まれるよりはるか昔の話にて、詳しい事は分かりませぬ。しかしスヴェルテン様はアルトルージュ様と刃を交え、そしてそのお力を認め、剣を捧げた。そのような方がゆめゆめ義務感などでお仕えになるわけはありません」
「そうだったんだ……」
「シュトラウト様、そしてプライミッツ・マーダー様に関しては言うまでもございません。あの方々が忠義の範を示し、我ら一同がそれに負けぬよう精進する。それも全てアルトルージュ様のためです」
 エルウィンの言葉に、まだどこか不安がぬぐいきれてない顔のアルクェイド。彼は少し意地の悪い笑顔を浮かべて、
「それともアルクェイド様は、ご自分の姉君が我々に心からの忠誠も受けられないような方だとお思いなのですか?」
   いささか不躾に過ぎる発言かもしれなかったが、彼としては先ほどの意趣返しの意味もあったし、アルクェイドに自信を持ってもらいたいが故の言葉でもあった。
「そんなことないわよ! 姉さんはすごいと思う。こっちに来て、本当にそう思ったんだから」
「であるならばご安心ください。アルトルージュ様は、アルクェイド様が思う通りのお方ですから」
 そう言って、エルウィンは深々とその頭を下げた。
「不躾な事をいって申し訳ありませんでした。お叱りはいかようにもお受けいたします」
「ちょ、ちょっと、頭を上げてよ。別に怒ってないし。そういう風に言ってもらって嬉しかったんだから」
 困惑するアルクェイドに向かって頭を下げたまま、
「いえ、これは感謝の気持ちでもあるのです。貴方とともにお過ごしになられているアルトルージュ様は、本当に楽しそうな顔をしておられる。お仕えしてより今まで、あのような笑顔を浮かべられた所は見た事がありませんでした。貴方といる事で、アルトルージュ様もまたお変わりになられている、それも良い方へ」
 ですから、今一度この場を借りてお礼申し上げます。
 彼の言葉に照れたように頬を掻きながら、アルクェイドは呟いた。
「わたしと一緒にいて姉さんが変わったのなら、それはきっと志貴のおかげよ。わたしを壊して、わたしを変えてくれた志貴のおかげ」
「……壊した、ですか?」
 にわかに聞きなれない言葉に、エルウィンは顔を上げた。壊す、という表現をするほどにその志貴という男は彼女の価値観をひっくり返したということであろうか。確かに真祖の姫に「結婚」という決意をさせるなど、並大抵の変えようではありえない。
「ええ。わたしは志貴に殺されて、それで変わったの。壊れて、もう以前のわたしには戻らなくなっちゃって。それで気が付いたら彼の事しか考えられなくなって……」
 えへへ、と笑いながら志貴との馴れ初めを話していくアルクェイド。しかし聴いたエルウィンにとっては驚きなどという言葉では表せない衝撃が走り抜けた。
 真祖の姫を、殺した?
 人間が、アルクェイド・ブリュンスタッドを?
 理解できない。いや、理解できるわけもない。聞き間違いだと思いたかったが、言い間違いで「殺す」などという言葉が出るとも思えない。
 言うとおりならば、彼女は一度殺されて、そしてあろう事かその殺した相手を好きになったという事である。
「……アルクェイド様は自分を殺した相手と、これからを共に歩むというのですか」
 彼としてはかすれた声でそう呟くのがやっとである。そんな彼に向かってアルクェイドははちきれんばかりの笑顔で言い切った。
「ええ。わたしは志貴のことを愛してるもの。大好きだから、わたしはずっと一緒にいるの」
 その顔には一点の曇りもない。
 先ほどより見せる、真祖の姫と思えないような豊かな表情の移り変わり。その中でこれは文句のつけようのない、とびきりの表情であった。
 それを見た瞬間、エルウィンの中の驚きも疑問もすべて解けて消えていた。
 優しさと喜びがあふれんばかりに入り混じった笑顔。それは彼の主が彼女に向ける笑顔そのもの。
 笑顔は笑顔を呼ぶ。向けられた笑顔に人は答えるべく、同じ笑顔を返していく。過程はどうあれ、彼女を変えた志貴という男は結果的にアルトルージュの在りようも変えたということである。そんな顔を作る事ができた変化が、悪いわけがない。
「アルクェイド様」
「ん、なぁに?」
「アルトルージュ様を、よろしくお願いいたします。いつまでも、仲宜しき姉妹であられますよう」
 それは目の前のアルクェイドに向けたものであったか、彼女を変えた未来の夫に向けたものであったのか。もう一度、深く。心の底からの礼に、
「うん、もちろん」
 アルクェイドもまた、胸を張って晴れやかに言い切ったのだった。 







 手にした報告書を、もう一度最初から読み直す。
 誤字もなければ書式の間違いもない。その事を確認して、アルトルージュは深々とため息をついた。
「……こうなると報告自体が間違ってる事を期待したい所だけど」
 それを机の上に戻して、彼女は周囲を見回した。両脇に控える忠実なる騎士。そして足元に身を寄せる白き巨狼。
 彼女の視線の先には、城の、そして彼女の支配域の各部門を預かる責任者たちがこわばった顔で席についていた。彼らの目の前にある報告書も、アルトルージュが手にしていたものと同じものである。
 城の大会議室。ここが使われる事態はそう多くはない。通常はアルトルージュと、そしてリィゾ、フィナを代表とする側近たちの話し合いで方針を決定し、実行していくのだ。
 ここでの話し合いが必要ということは、つまりそれだけ問題が大きく、そして迅速な解決を求められる事態だという事に他ならない。
「彼が動き出すのはいまだ二十年ほど先だと思っていたのだけど。どこかで計算を間違えたかしら」
「いえ。前回の活動期よりいまだ三十年しかたっておりませぬ。通常であるならばまだ休眠期であるはずなのですが……」
 主の皮肉げな呟きに答えたのは白い騎士であった。腕組みし、肩をすくめるたびにその豪奢な金髪が揺れる。
「いくつかの小村が文字通り消えました。跡形も残さず」
「……それだけで活動期に入ったと決め付けるのは尚早ではないかしら? あちらの工作ということも考えられるのよ?」
「緩衝地帯、中立地帯ではなく、あそこは我々の勢力範囲内です。外からの侵入者に関してはよほどのものでない限り見逃すことはありえないでしょう。僕ら二十七祖級の戦力ならば可能でしょうが、ネロ・カオスを失っている今、使える駒は二、三枚。あちら側も虎の子を使ってこのような直接的効果の薄いブラフを掛けてくるとは考えにくいのですが」
 フィナの言葉を聞くと、アルトルージュは額に手を当てしばし無言で思索にふけった。
 本当なら今頃はアルクェイドとディナーを共にしている筈だった。その後は外に散策に出るのもよし、少し足を伸ばしてザルツブルグに歌劇を見に行くのも良かった。
 心弾ませつつ、あれこれ立てていた彼女の計画を全て反故にしてしまった一通の報告書。
 そこに記載されていたのは、看過するには余りにも重い事実であった。
 彼女の領地のある場所で、いくつかの集落が姿を消したという。それだけならば彼女が前に出てくるほどの事件ではない。トラフィムの王国との勢力争いで、犠牲がでるのは残念ながら避けられない物なのだから。
 しかし報告書の示していた名前は、彼女にとって最悪の名前を示していた。
 黒き森(シュヴァルツヴァルト)
 ここには二十七祖の一人がその勢力を広げている。
 退魔機関、幻想種、そしてごく一部を除いた死徒集団の者たちは皆そう信じており、そしてそれは間違いではない。
 だが、完全に正しくもなかった。在る事に間違いはない。ただその在り方が、余人の想像と著しく異なっているのだ。
 無論、アルトルージュは真実を知るごく一部の一人である。彼女は忌々しげに報告書を睨みつけた。
 自らの領内であのような存在を野放しにしておかなければならない事実も腹立たしかったが、よりにもよって今この時期に活動しなくても良いのではないか。そんな理不尽な怒りがこみ上げてくる。
 いっそ世間の誤解どおりの存在であればどれだけ楽か。一匹の巨獣と百万の鼠、どちらを滅ぼすのが難しいかなど、火を見るより明らかなのだから。
 それでも、統治者の責任を放り出すにはいかない。妹との楽しい団欒はとりあえず横に置いておく事に決めた彼女は、すくっと立ち上がり、険しい顔で事態の打開案を探る部下たちに指示を下していく。
「まずは予想進路を割り出しなさい。そこに当たる集落の人間たちには、私の名前でこの国の関係省庁から退避勧告をねじ込んでおいて。平行してシュヴァルツヴァルトの監視人員を選抜しておきなさい。監視・報告の陣頭指揮はエルウィンに執らせるわ」
「姫様、事態が事態ゆえ、僕かリィゾも向かった方が良いかと思われますが」
「そうね、そうしたい所だけど……リタの件もあるからあなた達はここに残りなさい」
「かしこまりました」
「御意」
 力強く頷く二人の騎士を頼もしそうに見やり、彼女は居並ぶ配下たちに力強く宣言する。
「被害を最小限度に抑える事が勝利よ。あなた達の働きを期待するわ」
 その言葉を、立ち上がり敬礼で応えた部下たちが退出するのを見届けると、彼女はため息と共に再び椅子に座り込んだ。足元に寄り添う白狼の背を、慈しむようにそっと撫で上げる。
「……誰の言葉だったかしら。『悪くなる可能性のあることは必ず悪くなる』って。それの正しさを噛み締めている気分よ」
「姫様。それは俗説ですが、余り気にしすぎると良くない流れを呼びます。お気になさらぬよう」
「そうは言ってもね……」
「それに今日はまだこれからですし、あの女狐がここに来るのは明後日。後は僕とリィゾでやっておきます。どうぞアルクェイド殿と楽しんできて下さいませ」
「そうしたい所だけど。アレが動き出したのならば、それに対応した軍の編成、各勢力との話し合い……問題は山積よ」
 沈んだ声でそう応えるアルトルージュに、フィナはにやりと意地の悪い笑みを浮かべて、
「いえ、そんな事よりも退屈を持て余されたアルクェイド殿にもし暴れられたら、この城が存亡の危機です。我が主を真祖の姫の相手と言う危険な任務に派遣するのは部下としてはまことに心苦しいのですが、こればかりは僕たちには出来ない事ですので」
「……ヴラド、貴公」
 盟友をたしなめるように呟いたリィゾだったが、彼は涼しい顔である。
 そんな二人のやり取りにアルトルージュは苦笑を浮かべた。
「全く、失礼ね。人の妹をつかまえて暴れるとかなんとか」
「申し訳ありません、ですがそうならぬ為にも、どうか姫様のお力を」
「ふふ、そういう事じゃ仕方ないわね」
 口調だけは神妙に、だけどその身は軽く。アルトルージュは椅子から立ち上がる。
 忠実な騎士たちの心遣いが彼女には何よりもありがたかった。死徒の姫としてはいささか節度に掛ける選択かもしれないが、今は少しでも姉としてアルクェイドと共に居たい。その思いが彼女の足を逸らせる。
「それじゃ少しだけ。案をまとめておいてくれれば後で目を通すから」
「では姫様にも文句を言わせないような完璧なプランを立てておきましょう」
「ええ、期待してるわ」
 彼らに手を振り、口元に微笑を浮かべてアルトルージュは会議室を後にした。




続く