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 イタリアの首都であるローマ市。その一角に存在する巨大な僧院『サン・ピエトロ大聖堂』は、世界最小の独立国家でありながら、欧州世界に絶大なる影響力を有している。
 その理由は広く知られている通り、ここがキリスト教旧派の象徴たる場所だからである。広く世界に存在する信徒たちの頂点に立ち、神の代行者としてあまねく世界に教えを広めようとする教皇。そしてそれを支える枢機卿を初めとする高位聖職者。彼らによって支えられたこのヴァチカン市国は、正に欧州に住む者にとって精神の拠所とも言える。
 世界最小の国家にして、世界に冠たる影響力を持つ摩訶不思議な存在。はたして彼らはその地位を座して手に入れたのであろうか。
 否。
 彼らは戦ってきた。戦い続けてきた。
 迫害から。王権から。異なる土地の異なる宗教から。
 そして、人に在らざる者たちから。
 異端と戦う事で彼らは研ぎ澄まされ、手に持つ剣は血にまみれながらも鋭く光り輝いていく。
 剣持つ信徒――代行者と呼ばれる者たちは、決して表に出ることはなく、しかし誰にも負けぬ信仰を胸に秘め、バチカンの威光を世に轟かせるために戦い続けている。
 時が現代に移ろった今もなお、彼ら代行者はその力ゆえにあらゆる組織に恐れられ、厭われてきたのである。
 しかし彼らをしてなお畏れを抱かせる存在が唯一つ、ここに存在している。
 それは軍隊ではない。たった七人しか存在しない集団を軍とは呼ばない。
 それは死徒でもない。異教徒でもない。代行者たるもの、敵に恐怖を抱いても畏れを抱く事はありえない。
 聖堂の地下深く。枢機卿ですら無許可の立ち入りは許されない聖域にそれは存在している。
 熟達の代行者をして「怪物」と言わしめる、『埋葬機関』と呼ばれる深い闇が。



 コツ、コツ、と。
 硬い音が部屋を満たし響いていく。
 黒壇のデスクに左手で頬杖を突き、並べられた幾つもの書類に目を落としている。開いた右手は銀のシガレットホルダーを玩び、何かリズムを取るようにデスクの端を小突いていた。
 石造りの部屋。壁はひどく年代を感じさせる程黒ずんでおり、部屋の両脇にはもはや用をなさない銀細工の燭台が無造作に置かれていた。天井に備え付けられた白熱灯が薄紅く照らし出す中、ナルバレックはつまらなさそうに呟いた。
「……ああ、もう来ていたのか」
 視線を上げ、目の前に立つ二つの人影に向かって呟く。澄んだアルトの美声。しかしその響きはどこまでも冷たい。
 人影はどちらもそれほど背は高くなかった。年の頃は二十歳に満たないほどか。肩口まで伸びている蒼い髪を後ろに結い上げた少女と、そしてそれより更に年若い金髪の少年。どちらも黒の法服に身を包んでいる。
「呼び出しておいて目の前で待たせるというのは、あまり趣味が良いとは言えないんじゃないですか? ナルバレック」
 まるで今その存在に気づいたかのような口ぶりに、少女は半眼で部屋の主を睨みつける。部屋はそれほど広いわけではない。入るときにノックもしている。気づいていない筈はないのだから。
 彼女は、自らに刺さる冷ややかな視線にも興味なさげに、背もたれに身を預けた。
「思考を纏める方が重要だからな。待つのも給料の内と思え、シエル」
 臆面もなくそう言ってのけるナルバレックに、シエルは嘆息した。不本意きわまる邂逅より六年。彼女がその在り様を変える様子はなく、これより先変える事もないのであろう。
 そもそも、ナルバレックは皆そうなのかもしれない。シエルは隣に立つ少年に尋ねてみたい衝動にも駆られたが、すぐに心の淵に沈めてしまった。返ってくる答えが是でも否でも、愉快な気分には程遠い。歴代がどうであれ、目の前に居るナルバレックが性悪なのは分かりきっている。今更口を出したとて、詮無き事なのだろう。
「で、一体何事? 僕とシエルを一緒に呼びつけるなんて」
 口を閉ざしたシエルに代わり、少年が口を開いた。ナルバレックの行動に気分を害した様子もなく、ただただ楽しげに。事の成り行きに気を引かれる童の声で。紅く光る、人に在らざる瞳を細めて微笑む。
 純粋な笑顔。彼を知らぬ者が見れば、心を蕩かされるような明るい笑顔である。
 無論彼を知るナルバレックは、その笑顔にもいささかも気を引かれることはなかった。玩んでいたシガレットホルダーを端に置き、拡げられた一枚の紙の端を、指で弾いた。狙い違わず、机の上を滑った一枚の紙は空を舞い、そのまま少年の手の中に納まる。
「うわ、ナルバレックったら行儀わるー」
「気にするな。些細な問題だ」
 少年の揶揄を右から左に流して、ナルバレックは口元に薄い笑みを浮かべる。
「昨日ドイツまで足を伸ばしてな。相変わらず帽子の趣味は悪かったが、話の方はなかなかに楽しめるものではあったな」
「ふーん、リタねえ。好き好んであんな奴に会いに行くなんて変わってると言うか何と言うか」
「ほう。同じ道化者同士、気が合うものと思っていたのだがな、メレム」
「一緒にしないでくれよ。あいつなんか大嫌いなんだ。人の半分も生きていないくせに、調子付いててさ」
 メレム・ソロモン。それが少年の名前である。
 埋葬機関の五位に席を持つ摂理の代行者でありながら、吸血種の王たる二十七祖の二十位に名を連ねる、死徒の中の死徒。年端も行かぬ少年の面持ちながら、その齢は優に千の年を越える。現存する世界最古の『魔』の一人である。
 彼は不機嫌そうにナルバレックを睨みつけるが、彼女はそれすらも心地よいとばかりに、口元を吊り上げる。
「ほう、そうだったか。ならば認識を改善するいい機会だ」
「……なんだって?」
「まずは読んでみろ」
 ナルバレックの言葉に従い、文面に眼を落としたメレムは、その眼を丸くして、食い入るように読みいっている。すぐにその表情は面白い玩具を見つけた少年の物に変わっていた。
「一体何だと言うのですか?」
 疑問符を頭に浮かべた面持ちのシエルに、無邪気な笑いを浮かべながらそれを手渡すメレム。
 一体どれほどの事が書かれているというのか。書き綴られた文章を読み進めていくシエルの顔から、色が抜け落ちた。
 それは一通の命令書。埋葬機関員にとって、逆らう事の出来ない絶対の指令である。
 命令書を持つシエルの手が震えている。書かれている内容に対する衝撃と、それを命令したナルバレックに対する怒りの表れである。
「前回の活動から三十年ほどしか経っていない。周期の短さも異常ですが、送り込む人員が私とメレムの二人だけと言うのはどういう事ですか! 貴方は私たちに――!」
「他の四人はすでに別の任務についている。私はここを離れるわけにはいかない。他意があろうがあるまいが、現在動かせる人材がお前たち二人だけなのは厳然たる事実だ。それに、あそこに半端な戦力を送り込んだ所で、効果など期待できん」
「しかし仮にも祖の第七位に位置する存在を処断するのにおいて、これではあまりにも準備が足りませんが」
「状況は用意した。我々以外の戦力も用意している。そも、第七位などはどうでもいいのさ。お前たちの仕事はその先にある。生き残りたければ、少ないチャンスを掴み取れ」
 罪状を読み上げるかのように、部屋の中にナルバレックの声が無慈悲に響き渡る。
「どうでも、いい?」
 それでもその台詞は聞き捨てならない。いぶかしんだシエルに答えるように、ナルバレックがもう一枚の書類を指で弾くが、狙いが逸れたのかそれとも最初から狙ったのか、紙はすとんとメレムの手に落ちた。
「ん、僕でいいの?」
 呟いて、書類に視線を落とすメレム。読み進める内、徐々にその肩が揺れだし、終には声を上げて笑い出し始めた。
「傑作だろう?」
「あはははははは! 本気? 正気? すごい、すごいよ! 正気の沙汰とは思えないよ!」
 同僚の奇癖はある程度知っているつもりであったシエルにとっても、目にした事がないくらいの狂笑。
 一体、どれほどの事が書かれているのか。
 ひったくるようにメレムの手からそれを奪ったシエルが目を通し――音すら立てて凍りついた。
 もう一度最初から最後まで。読み間違いではないかと自分を疑い、一言一句噛み締めるように頭の中に叩き込んでいく。
 残念ながら、誤読も誤記も存在していないようであった。
「……納得のいく説明を要求します」
「私が何のためにリタに会ってきたと思っている。彼女の口から、第七位の件について『白翼公』が共闘を望んでいると言う申し入れがあったから、それを受諾したに過ぎん」
 さらりと、たまった書類の整理を告げるような口調で。ナルバレックはシエルの追求を受け流した。
 『白翼公』トラフィム・オーテンロッゼ。死徒二十七祖の一人であり、千を遥かに越える年月、世界の裏側に君臨し続けた死徒の王。
 彼と、そして死徒の女王たるアルトルージュ・ブリュンスタッド。
 忌むべき死徒の派閥に対抗するため、教会は埋葬機関を設立し、戦いを繰り広げてきた。言ってみれば彼の存在自体が、埋葬機関の存在理由そのものである。
 その怨敵と共闘する。
 何をどう好意的に見繕っても、本来ありえない話であった。
 メレムのような例外はあっても、すべからく死徒は狩るべき対象。そう教えられてきて、そしてその教えのまま数限りない摂理の執行を行ってきたシエルにとって、俄かには受け入れがたい暴言、いや、妄言であった。
「ナルバレック、あなた正気ですか!?」
「ふむ、その発言を不快に思うくらいにはな」
「茶化さないで下さい! 我々が死徒と手を組むなど、前例がない!」
「かつて初代のミハイル・ロア・バルダムヨォンを屠った時、我々はかの姫君と手を結んでいる。それを繰り返しただけに過ぎぬと思うが」
「アルクェイドは真祖です! 忌むべき対象ではあっても狩るべき優先度は低い。あるいは手を組む余地もあるかもしれません。しかしトラフィム・オーテンロッゼは疑いようも無く死徒、それも彼らを束ねる王じゃないですか!」
「……それが、どうかしたか?」
 激するシエルの背筋を凍てつかせるような声。ナルバレックの瞳に、冷たく鋭い光が浮かんでいた。
「死徒だから手を組まぬ。汚らわしき死体どもとは話をする必要も無い。そんなお題目は『上』の代行者どもに任せておけば良いだろうに」
 コツ、コツ、と再び響き渡る硬音。
 温かみのないリズムと共に、ナルバレックの言葉が呪文のようにシエルの耳に染み入ってくる。
「我々は一体何だ? 我々は埋葬機関だろう。死徒を狩り、死徒を滅ぼす。そう、死徒を滅ぼすため集められた人でなしだ。枷に囚われて、俗人どもの妄言に付き従う必要などどこにある。我々が唯一縛られるべきは死徒殲滅という目的であり、それを歴とした結果に変える事が出来れば、途中の過程などとるに足らん」
 彼女の瞳に熱が篭り、紡がれる言に力が篭る。もしそうであったならば、シエルにとってナルバレックはまだ理解の内であったかもしれない。
 狂信という支えに拠りて死徒を狩る。そのような分かりやすい代行者であったならば。
 人は強大な敵に立ち向かうにあたり、どんな物であれ支えを必要とするものだ。シエルとても、『ロアを滅ぼす』という昏い復讐の念を支えにして、今まで埋葬機関の職務を遂行してきている。
 しかしナルバレックは違う。彼女の冷たい声色が、ただ決まりきった事実を再確認しているかのように紡がれている。
 支えも要らず、信仰も在らず。道徳などあるわけもない。
 目的を遂げるため、あらゆる手段をとる事を是とする。それに微塵の躊躇いも覚える事はない。ロアを滅ぼす前のシエルにとって、ある意味理想であった彼女のあり方は、今のシエルにとっては恐ろしい、歪んだ偶像以外の何者でもなかった。
 そんなシエルの視線に気づいているのかいないのか。目の前の二人をねめつけ、ナルバレックの独演は続いている。
「死徒を狩るため死徒と手を結ぶ。マキャベリズムを持ち出すまでもなく、敵の敵と手を結ぶ余地を探るのは基本だろうが。出来る手を打たずに敵の強大を嘆くのは愚か者の所業、我々にはそんな事をしている暇などない。威光も愛も出し惜しみしている吝嗇な神に祈る暇があれば、打てる手を一つでも多く打ち、出来る事を一つで多く行っておく。それが我々の在り方だ」
「いいね、最高! 曲がりなりにも聖職者の癖に、そんな事を言い切るナルバレックは、後にも先にも君くらいだろうさ!」
 独演の終幕は観客の拍手。
 ぱちぱち、と手を叩いてメレムが彼女に微笑みかける。その赤い瞳の目じりを下げて天使のような笑顔を形作っていた。
「だけど、一つ質問」
「言ってみろ」
「何で手を結ぶ相手がトラフィムなのさ。敵の敵と手を結ぶ。なるほど、この国の思想家の言に則った、古式ゆかしい基本戦略だとおもうけどさ。だけどそれなら、手を結ぶ相手がアルトルージュだって別に良いじゃないか」
「気に食わぬか? それとも、愛しの姫君の姉と手を結べなかったのが不満か、メレム・ソロモン」
「うーん、そうかも」
 ナルバレックの皮肉にもさしたる痛痒を覚えた様子はない。メレムは腕組みするとわざとらしく眉を寄せ、しかめつらしい表情で考え込んでみせる。
「でもそんな事はどうでも良いさ。気になる問題はただ一つ。黒の姫君はプライミッツ・マーダーを抱えているんだよ? アレは純粋な戦闘能力も規格外だけど、なにせ霊長の殺害者。君たちが人間である限りあれには逆立ちしたって勝てないのに、何で敵に回そうとするんだい」
「ほう、お前が我々の心配をするとはな」
「そりゃ心配するさ。シエルが死んだら僕のコレクションを使ってくれる人が減ってしまうし。君が死んだら使う舞台に上がれない。退屈は大嫌いなんだ」
 エゴイスティックな思いやりを切々と披露するメレムを、シエルは半眼で睨みつけた。これが偽悪的な心配の発露ではなく、心底そう思っているのだという事はこの数年の付き合いで良く分かっている。面白ければ良い。そのはた迷惑な思考形態に則って千の時を重ねた大死徒。それがメレム・ソロモンという男であった。
 勿論、そんなシエルの視線を意に介するような事もない。
「どうせアインナッシュの件なんか出汁に過ぎないんだろ? トラフィムとアルトルージュ、どちらかを完全に敵に回すのなら、アルトルージュと手を結んだ方が、まだしも勝算は高いと思うけど。無駄死には君だって大嫌いだって言ってたじゃないか」
「論外だな」
 ナルバレックは一片の躊躇もなく、メレムの提案を切って捨てた。
「えー、僕にしては珍しくまともな提案したのに」
「話にならん。白翼公の戦力が滅んだ場合、かのアルトルージュに率いられた勢力を止められる者などもはや存在しない。プライミッツ・マーダーが在る限り、我々だろうと協会の連中だろうと、彼女は打倒し得ないのだからな」
 その言葉に、彼は得心したと言わんばかりに手を叩いた。
「それじゃ白翼公と手を結ぶというのは」
「決まっている。プライミッツ・マーダー、黒騎士、白騎士……あの穢れた取り巻きどもを足止め出来るのは、彼らと貴様の仕事だ」
 淡々と告げるナルバレックの言葉に、メレムは笑顔を崩す事はなく、シエルの顔にはいまだ覚めぬ怒りと緊張が入り混じっている。その錐の様な視線は、しかし忌むべき上司の表情にいささかの変化ももたらす事はなかった。
 不敬と反抗を罵られる事もない。
 部下を死地に赴かせる事に対する、憐憫もいたわりもない。
 彼女にとって目に映る全ては道具であり、使える物を使っていくに過ぎないのだ。消耗品に愛情を向けることなど、あるわけがない。
 だからシエルは無言で二通の命令書を丁寧に折り畳み、自らのカソックのポケットに納めた。
 そのまま一礼し、踵を返そうとする。
 その背中を、ナルバレックが呼び止めた。
「後の方は置いて行け。写しとは言え正式な外交書類だ。個人の手には余る」
 彼女の冷ややかな呼び掛けに、足を止めたシエルは口を開く事もなく振り返り、取り出した一通の書類を叩きつけた。そのまま、今度は礼をする事もなく踵を返すと、静かにドアを開け、部屋を後にした。
「あらら、怒ってる怒ってる。案外真面目だったんだなぁ」
 シエルの去った後、メレムは残された部屋で笑いをかみ殺していた。
「でもこのまま仕事サボタージュしたらどうする気? 流石の僕も、一人じゃ行きたくないよあんな場所」
「ありえんな」
 もはや居る者に興味は無いとばかりに、他の書類に目を通しながらナルバレックは断言した。
「なぜ? 白翼公との同盟だなんて最高に面白いけど、そう思えるのはきっと僕と君だけだ。シエルが代行者として普通の感性してれば、それを理由に離反だってありえるのに」
「だからありえんと言っている。彼女はここに残って真面目に働かねばならんのだからな」
「何かまた弱みでも握ったの?」
 呆れたように呟くメレムに、視線を上げる事無く彼女は答える。
「握る必要など無い。あいつが勝手に弱みを作ってるのだから」
「どういう事さ?」
「どの事か分からんが、私に隠したい事でもあるらしい。この一年、随分とめまぐるしく働いてるじゃないか。休めば探られるとでも思ってるのだろうよ」
「……ナルバレック、今更だけどさ。君、性格悪いってよく言われるだろう」
「食べたパンの枚数より多く言われてるのは確かだな。さて、私の用は済んだのだからお前もとっとと出て行け。油を売ってる時間などあるまい」
 そう臆面もなく言い切るあたりが、最高に性格悪いっての。
 声にならぬ音で呟いたメレムは、嘆息したかのように両手を広げ、静かに部屋を出た。




「おーい。待ってくれよ、シエル」
 薄暗い回廊を早足で進んでいくシエルの背中に、澄んだ高い声が投げかけられた。自らを呼ぶ声に一瞬足を止めたシエルだったが、何も聞こえなかったかのように又歩き出していく。
「うわ、ひどいなー。聞こえてるくせに無視するなんて」
 そんな呟きがシエルの耳を打つ。気づけばいつの間にか彼女の横にメレムは現れ、唇を尖らせていた。
「同僚の呼びかけを無視しないでよ。それに僕みたいないたいけな少年を、あんな怖い所に置き去りにしていくなんて。聖職者とも思えないひどい諸行だ」
「千年生きてる少年など、聖職者が手を差し伸べる相手にはふさわしくありませんから」
 にべもない。そんな少女の台詞にメレムは満足そうに微笑んだ。
「うん、その顔だ。やっぱりシエルはそうでないと。最近随分と丸くなったみたいで、他のメンバー共々心配してたんだよ。日本で何かあったんじゃないかって」
 日本という単語にぴくりと肩を揺らした彼女は、しかしその表情を変えることもなければ歩みを緩める事もない。
「……蛇が滅んで私は不死じゃなくなりました。怪我をしても前のようには直りませんし、首を落とされれば死にます。そういう体に戻れたんですから、性格や態度が変わったって不思議じゃないでしょう」
「そりゃそうだ。肉体にそれだけの変化が訪れたんだ、性格が多少丸くなったって不思議じゃない」
 何がそんなに可笑しいのか。メレムは背を丸めてクックと底意地の悪い笑い声を漏らしている。苦手な同僚の奇異な行動に怪訝な表情を浮かべたシエルは、ようやく足を止めた。
 燭台の薄い明かりに浮かび上がった彼女の影が、闇に消える回廊の置くまで伸びて溶け込んでいく。
「言いたい事があるならば、はっきり言ってください。あなたのそういう所が、私にはとても好きになれないんです」
「おお、こわい」
 ちっとも怖くなさそうな表情でそうのたまったメレムは、背に組んでいた手を解いて、シエルに向かって伸ばした。
「もう一度命令書見せてくれないかな。さくっと君に取られちゃったし、詳しい内容覚えておきたいんだからさ」
 彼の言葉にシエルは無言でポケットに手を入れ、折りたたまれたそれを取り出し、彼に向かって差し出した。
「一応正規の命令書なんだからさ。しっかりファイリングした方が良いんじゃないの?」
「……内容が内容ですから。このまま燃やしてしまいたいくらいです」
「ふ〜ん、どれどれ……と。なるほどね、確かにこれは凄いや」
 メレムの表情からも笑いが消えている。細められた瞳には、鋭い光が宿っていた。
「シュヴァルツヴァルトに僕とシエルでか。こうも清々しく「死ね」と書いてあると、いっそ気持ち良いね」
 一人ごちて、人差し指と中指で命令書を挟み込んだメレムはタクトを振るように、二度三度、その手を空に閃かせた。
 細く小さな指に不釣合いなほど大きな指輪。そのどれにも親指の先ほどの宝石がはめ込まれている。その中の一つ。中に星の様な輝きを宿した紅玉が光を放つと、命令書は炎に包まれ、一瞬で一握りの灰と化してしまった。
「……ファイリングしろと言っていたのはどこのどなたでしたか」
「燃やしたいって言ってたのはどこの誰だっけ?」
 白眼を向けてくるシエルに悪戯っぽい笑顔を浮かべると、メレムは彼女の前に回って両手を広げた。
「まあでもさ。雪降り積もる黒き森で血なまぐさいデート。前向きに考えてみればなかなかにロマンティックだし。死ぬのと一緒で、二度出来る体験じゃないよ」
「……貴方のそういう無神経な所が、私は大嫌いです」
「ああそうか、君はもう死に飽きていたんだっけ」
 シエルの視線には殺意すら篭っていたが、目の前の道化者には無論通じるわけもない。彼女はため息を突くと、せめて別の方面から一矢報いるべく口を開いた。
「あなたはアルクェイドのファンではなかったのですか? トラフィムと手を結ぶと言う事は、彼女の姉に剣を向ける事、唯々諾々として従うに飽き足らず、あんなにはしゃぐなんて思いもしませんでしたが」
 アルクェイドの名を出され、初めてメレムの顔に外見相応の感情が浮かんだ。浅く頬を赤らめ、滑舌もいささか具合悪い様子だ。
「……姫様のことは大好きさ。それにアルトルージュが姫様の事をどれだけ大事にしてきたか。それを見てれば彼女の事を嫌うなんて事も出来ないけどね」
「ならば何故? 貴方はナルバレックの事が大嫌いだって公言しているくせに」
「うん? 嫌いな女の言う事を聞いて、好きな人に刃を向けるのが変だって言いたいのかな、シエルは」
「私でなくても、いぶかしむと思いますが」
 シエルの呟きに、メレムは普段どおりの笑顔を取り戻して答えた。
「あははは、ナルバレックの事は大嫌いさ。だけどね、僕は彼女がやってる事は大好きなんだ」
 邪気の無い笑顔。その裏に潜むのは、見通せないほどの深い、深い闇。
「埋葬機関に入ってもう何百年経っちゃったか忘れたけど、今まで見てきた中で彼女は最高のナルバレックさ。彼女といると全然退屈しない。道化者にはいい舞台が必要だからね。その点、彼女の側は最高。人死ににも戦乱にも事欠かないから、退屈なんかする暇もないし」
「呆れた。そんな理由であのアルトルージュと戦うなんて」
「牙を剥く、か。アルトルージュがナルバレックの台本なんかで膝を付くなら、姫様の姉の名は勿体無さ過ぎる」
「相変わらず屈折しまくってますね……と、ちょっと待ちなさい」
 深々と溜息をつきかけたシエルだったが、ある事に気づいて硬直する。軋んだ音がしそうな硬い動きで、呆れと困惑が混じった視線をメレムに向けた。
「……その言い方だと、ナルバレックやトラフィムよりアルトルージュの勝利を願っているように聞こえますけれど」
「うん? 当然だろ。あいつらの喜ぶ顔なんか見たくないもの」
 彼女の愛スベキ同僚は、いささかの躊躇いもなくきっぱりと言い切った。
「待ちなさい。これが貴方一人だけの仕事なら大いに結構ですが。つまりは私一人に死ねという事ですか?」
「大丈夫。頑張ればきっと主が助けてくれるよアーメン」
「欠片も信じていないくせに、こんな時だけ神父ぶらないで下さいこの似非ピーターパン!」
「似非とはひどい。僕だって神様信じてないわけじゃないよ? ちょっとばかり優先順位が低いだけで。それに埋葬の礼式だけは完璧に覚えてるから。大船に乗ったつもりでいてよ」
「……ええ、ありがとうございます。とてもやる気が出ましたよメレム・ソロモン。このまま根城に帰って一月くらい寝込めそうなくらいやる気満々です」
「欠片もやる気ないじゃないか」
 こめかみを押さえてうめき声を上げるシエルに、メレムは口を尖らせた。
「大体、頭が固いよ。命令書には何て書いてあった? ナルバレックのご機嫌を取りつつ生き残るにはどうすればいい?」
「……あくまで、アインナッシュを滅ぼせと?」
「そう、その通り。まだ一言も、アルトルージュとやりあうなんて書いてないんだ。それどころかアインナッシュを滅ぼす分には誰も困らない。皆に喜ばれて、埋葬機関の株も上がって万々歳。そうすれば首を洗ってナルバレックの嫌味を聴く時間くらいは作れるさ」
 指を振り、メレムはリズムを取るようにうそぶく。
 まったく、簡単に言ってくれるものだ。
 シエルの口からすでに本日何度目か忘れる程の、盛大な溜息が漏れ出でた。
 吸血種の頂点に君臨している死徒二十七祖の中でも、七位に数えられる存在。そして現存する二十七祖の中でも非常に謎の多い存在。それがアインナッシュと呼ばれる死徒であった。
 根城は分かっている。存在している事も分かっている。しかし、実際に彼本人が活動している所を見た者は誰もいないのだ。
 数十年に一度、シュヴァルツヴァルトに巨大な固有結界を展開し、一週間ほど活動する。不用意にそこに踏み込んだ生物が、生きて再び戻ってきたという話は無い。
 活動期に入ったアインナッシュに対して、教会も数限りない討伐隊を送り続けてきたが、その悉くが消息を絶ったという。
 居るのは確かなのだが、誰もその真の姿を見た事がない、幻の祖。
「実際僕も興味があるんだ。固有結界と言う魔術の秘奥を、外界にそれだけの長い間展開して置けるだけの底なしの魔力。姫君の空想具現化じゃあるまいし、あの宝石の老人だってそんな無茶は出来やしない。何を以てアインナッシュがそれを成し遂げているのか。魔術を齧った身としてはぜひとも確認しておきたい事柄だ。もしそれが『アインナッシュの実』の魔力の一端だとすれば、ぜひともコレクションに加えないと」
 メレムの顔が少年から探求者へと変化を遂げていた。『アインナッシュの実』という単語に、シエルは眉をひそめる。
「まさか、信じているんですか? そんな物の存在を。誰も見た事がないというのに」
「勿論。子供は夢を大きく持ってこそだろ?」
 自分の台詞がツボにはまったか、メレムはひとしきり無邪気な笑い声を立てる。
「それに、実際『実』があるからこそ、トラフィムの爺さんもアルトルージュを滅ぼす算段を立てたんだよ。あんな用心深い男が、おいそれとこんな派手な行動取るものか」
 その笑いの裏に薄くこめた呟きをシエルは聞き逃す事はなかった。
「……メレム、貴方一体何を知ってるんですか」
「推論と想像。まだご披露には早すぎる。熟成までしばしのお待ちを」
 しかしシエルの追求も、彼の笑顔の壁を越えることは出来なかった。
「くふふふ、楽しみだ。ああ、本当に楽しみだ。早く見たい、早くその存在を感じたいね。だからシエル、出かける準備は手早くしてくれよ?」
 そのままスキップをするかのように駆け出したメレムは、振り返る事もなく回廊の闇に消えていった。言いたい事だけ言って姿を消した同僚の気配が消えると、シエルは肩を落として壁にもたれ掛かった。
 疲労が体を鉛のように重くしている。肉体的なものではない。
 削られた心が手足を錆付かせて、油を求めて悲鳴を上げていた。
「アインナッシュと戦え、ですか」
 不死が失われた自分にとって、アインナッシュなど渡り合うには荷が勝ちすぎる。いや、不死があったとて到底敵う相手ではないだろう。
 埋葬機関全員で立ち向かったとて、勝てるかどうか。さらにそこにアルトルージュまで加わった日には、勝ち目など計算するのも愚かしい。
 それほどの相手に派遣されるのは自分とメレムだけ。しかも同盟相手はつい先日までの怨敵。背中を預けるには危険すぎる相手だ。実質敵がもう一組居るに等しい。
 シエルは顔に手を当て天を仰いだ。その口元から自嘲の笑いが漏れ出し、静まり返った回廊に響いていく。
「不用品は取り替える。いかにもナルバレックらしいですね」
 自分は殺され、そして彼女が目をつけた新たな第七位がこの穢れた異端狩りの席を担う。これほど露骨に「死ね」と言ってくるからには、彼女の中ですでに目星をつけている相手が居るという事だろうか。
 それも良いかもしれない。蛇は討ち果たしたのだから、ここで朽ち果てるのも罪深い身にはお似合いの最後なのではないだろうか。
 眼を閉じ、シエルは知っている限りの代行者の顔を頭の内に並べていく。しかしどれも後釜にすえるにはいささか力が足りないように思われた。
 そして。
 彼女の脳裏に眼鏡をかけた黒髪の柔和な少年の顔が、不意に浮かんで。彼女は愕然として凍りついた。
 遠野志貴とアルクェイド、二人の婚約発表で、裏の世界は今も揺れに揺れている。耳聡いナルバレックは、即座に監視と工作のため、再びシエルを日本に飛ばしたくらいなのだから。
 自分が志貴に好意を抱いているのか。彼女は自身の分析をしてみた事は無かったが、おそらく否とはいえないだろう。しかしその感情を抜きにしても、彼の持つ雰囲気に彼女は救われていた。誰よりも死に近く、コワレやすい彼は本来ならばこちら側の人間の筈なのに。だから、出来る限り遠ざけておきたかった。少なくとも埋葬機関のような闇の闇になど関わらせるつもりも必要も無い。
 ゆえにシエルは隠蔽に隠蔽を重ね、彼の特異な出自もその規格外きわまる眼の事も隠し通していた。
 しかしそれが失敗していたのならば。
 もし、あのナルバレックが彼の瞳の事を聞きつけたとすれば。黙って放っておく事などありえるだろうか。
 答えの分かりきっている結論を思い浮かべている暇などシエルにはなかった。壁を蹴り飛ばす程の勢いで彼女は出口に向かって駆け出した。
 シエルの中で推論が目まぐるしく回りだす。
 場所は離れている。この件自体で彼が直接に巻き込まれる可能性は無いに等しい。
 だがもし自分が死ねば。枷の無いナルバレックの魔手は触手のように彼の元に伸びるだろう。アルクェイドでは絡め手には抗しえない。アルトルージュにはそんな余裕はなくなる。秋葉でも場数が違いすぎる。
「あのあーぱーも、遠野君も! この場にいないくせに私に迷惑掛け通しで!」
 焦燥が苛立たしげに彼女の口を突く。
 しかしシエルの口元には自身も気づかぬ薄い微笑みが浮かんでいた。死ぬわけにはいかない理由がある事がどこか嬉しかったのかもしれない。
 もっとも、彼女がその感情に気づくのはいささか後の事ではあるのだが。
 青い髪の少女が回廊の奥闇に沈めて数瞬。
 大聖堂の地下。埋葬機関へと続く漆黒の回廊は再び普段の静寂を取り戻した。








 アルトルージュに仕える者にとって、居城の門番の任に付く事は最上級の栄誉の一つであった。
 もちろん、姫の傍らには常に白と黒の両騎士が、そしてガイアの怪物たるプライミッツ・マーダーが控えている。しかし彼らと比較するのは憚られるほど力の差があるとは言え、近衛の騎士団は誰もが一騎当千の力を秘めた猛者ぞろいである。その中から門衛に抜擢されると言う事は、この城の最初の守りを任されたと同じ事。
 誰もがその任を望み、そして数多くの者が涙を飲んできた。
 今警護に就いている二人は、数十年前に戦場で大きな武勲をあげ、以来この地位を守り通すために己を研鑽し続けている。
 本来の意味からすれば幸いな事に、彼らが門衛について以来、黒の姫を脅かすほどの存在が戦を仕掛けてくる事などはなかった。変化の無い日常に、並みの者ならば怠惰に陥りそうなものであるが、そのような精神の持ち主ならばそもそもこの地位に着くことなどありえない。
 しかしここ数日は不屈不変の精神を持つ彼らにとってさえ、動揺を隠せない客続きであった。
 真祖の姫君であり、アルトルージュの妹であるというアルクェイド・ブリュンスタッド。彼らが話に伝え聞く『処刑人』『殺戮人形』としての姿に程遠い、柔和な笑顔と温かい空気を湛えた金の美に虚を突かれたが、それは心安らげる物であり、彼らの張り詰めた精神の糸に一時の清涼を与えるものであった。
 少なくとも今彼らの目の前に居る存在と比すれば、受ける印象は百八十度異なると言っても良い。
 黒を基調に、裾に金糸の刺繍を施されたジャケット。すらりと伸びた足を包むズボンも吸い込まれそうな黒である。肩に掛けた純白のマントには翼を意匠した紋章が縫いこまれていた。
「久しぶりだね。いや、こうして正式に使者として訪問するのは初めてだから、『初めまして』の方がふさわしいのかな」
 頭に載せているのは軍帽ではなくなぜか白のベレー。そこから伸びた銀髪を揺らして、リタの囁くような声が闇夜に響いていった。
「貴様、一体どの面を下げて……」
「抑えろ、今は正式な使者だ。無礼な態度はアルトルージュ様の品位を貶める事になってしまうぞ」
 彼女の顔を確認して激昂しかけた同僚を制し、門衛はリタに向き直った。無論その身からいささかも警戒が解かれる事は無い。
「アルトルージュ様から話は聞いている。通るがいい。白翼公よりの使者として……歓迎させてもらう」
「変わらないね、その熱心さも頑なさも。うん、悪くないよ。とても、とてもボク好みさ」
 嫣然と微笑んで、礼を返す。
 その所作に野卑は無く、その笑顔に善意は無い。
 門衛二人の射殺すような視線を背に受け止めて、リタは踊るように滑らかに、城内へと歩みを進めていった。
「うん、本当に久しぶりだ。どこにも変わりは無い。変わったのはお互いの立場だけかな」
 中庭を見通す回廊で足を止ると、口元に手を当て、コロコロと笑い声を立てた。
 空には白銀の月が、雲に隠される事無く浮かんでいる。劇の観客としては極上のように、彼女には思われた。
 開幕が待ち遠しい。
 自分のもたらす話で、あの黒い姫がどのような顔をするのか。想像するだけで体が火照りだす。あの白い姫が絶望と自責に苛まれる様を思い浮かべるだけで、隠し切れない愉悦が口元に浮かんでしまう。
 幕が上がる。仕掛けは上々、準備は万端。
 掻き抱くように一度自分の肩に手を回すと、リタは優美にその身を翻した。



続く