闇に溶けこみそうなほど艶やかな黒髪。
 自ら光輝いているかのような、白くなめらかな肌。
 慎ましやかな二つの膨らみに唇を這わせて、勃ち上がった桃色の膨らみを舌で転がす。その度に裸身はわななき、悩ましげな声を立ててくる。
 燭台の蝋燭は既に燃え尽き、満たす光は天窓より差し込む月明りだけ。閉め切られた部屋に篭る淫蕩な香りが、嗅覚からもリタの意識を麻痺させてくる。
 どれほどこうしているのだろうか。もはや考える事も出来ないし、その気も起きてはこなかった。
 ただ、内より出でる欲望に突き動かされるまま、部屋の主への淫靡な責めを続けていた。
 乳房から這い上がった彼女の唇が、鎖骨を通って細い喉元へ。てらてらと光る唾液の跡を残したまま、音を立てて溶けこみそうな柔らかい肌を吸い上げている。時折伸びた犬歯で突ついて見せると、黒髪の少女は異種の刺激に身をよじり、それすらも心地よいとばかりに荒い息をつく。
 玉座に身を沈め、眼下の者を冷たく見下ろす黒の姫。
 剣を向ける者には絶対の恐怖を、そして剣を捧げる者には永久の安寧を。冷厳な支配者である筈の少女が、今はリタの腕の中で快楽に溺れている。まるで、下卑た艶婦のように。
 その落差が、リタの心を昏く擽ってみせた。
 もしも、このまま力をこめたなら。
 彼女の胸に、不穏な思いが形を成す。
 出しぬけにこの牙を柔肌に突き立ててやれば、少女はどんな顔をするのだろう。
 ――痛みと驚愕で見開かれる紅玉の瞳に指を突きたてて。引き剥がそうと暴れる四肢を捻り切って。それでも止まる事などない心臓から送り出される、彼女の血を。喉元から溢れ出す美酒をはしたなくも啜り吸い上げる。溢れ出す少女の血は、とても飲み干しきる事など出来ずに、一糸も纏わぬこの身をあかく、赤く、紅く朱くアカク染め上げていく。抉り出した少女の瞳は、そむける事も出来ずに自分の体がオカサレるのを見せ付けられていく。それは随分と甘美な行為に思われた。
 酩酊しそうなほどの妄想を脇によけて、リタは己本来の主の顔を頭に思い浮かべる。
 既に数百の齢を重ねておきながら、今なお年若い顔立ちで外面を取り繕っている。曲がりなりにも二十七祖の一席に身を置く立場でありながら、この部屋の主に忠誠を誓った、しがない地方領主に過ぎない男。
 保身の為、興を勝ち取るため。自らの『子』でありまた愛人である自分を、一夜の伽の相手に差し出すような小心者。
 リタは心の中でため息をつく。
 どれを取っても、論ずるにも値しなかった。一見しただけで表も裏も透けて見えるような相手など、彼女にとってつまらないにも程があった。それならば、今この瞬間の快楽に溺れている方がどれだけ有意義であるか。
 そのまま彼女は目を閉じ、不敬の妄想を実現に映した未来を思い描く。
 無論責が彼女だけに留まる筈もない。
 親愛なる主の、神経質そうな顔が恐怖と驚愕に引きつる。処刑場へと引き摺られる間、決して聞き入れられる事のない許しを乞い続けるのだろう。
 その無様な様を想像しただけで、リタの身の内が火照りだす。太股の付け根に熱い滴りを感じ、薄く開かれた唇から悩ましげな吐息が漏れ出した。
 本当に実行して見るのも良いかもしれない。半ば熱にうなされたように、彼女は少女の首元に熱い愛撫を繰り返していく。
「試してみる?」
 不意に、少女が呟いた。
 快楽に上ずった声は、それでも涼やかにリタの耳を打ち据える。
「リィゾも、フィナも居ない。プライミッツ・マーダーもいないわ。ここにいるのは私とあなただけ」
 その声に引かれるかのように、リタは少女の首筋から唇を離した。塗りこまれた彼女の唾液が、つぅと糸を引き、後を追うかのように伸びる。その様を見下ろす少女の瞳には、悪戯めいた色が点っていた。
 紅く紅く光り輝くその瞳から、リタは視線をそらす事が出来なかった。同じ色の筈なのに、まるで自分の瞳が出来の悪い模造品だと言われているような、鮮やかな紅玉。悔し紛れに心の奥を覗きこもうとしてみても。淵はあまりにも深く暗く、心のカタチを見通す事など叶わなかった。
「どうする? 私を殺して、世界図を塗り変えてみる? トラフィムの狸は手を叩いて喜ぶと思うけれど」
「……めったな事を」
 おくびにも出さない秘め事を言い当てられ、それでも動揺した素振りも見せないのは、リタの器を示すものであったか。にこりと微笑んで再び責めを再開しようとする。その肩にふわりと、少女の手が掛けられた。
「何、を……」
 言葉を繋げる暇もない。大して力を込めた様にも見えないその所作で、くるりと両者の体位が入れ替わっていた。軽い音と共に寝台に沈みこんだリタの上に、少女が馬乗りに圧し掛かっている。
 そのままリタに向かって少女が顔を寄せてくる。耳から解れた黒髪が、彼女の鼻先を軽く擽っていった。
「不埒な事を考えた罰よ。殺してあげるわ。何度も、何度も。忌まわしい朝日が昇るまで、天国に導いてあげる」
 リタの目に映る少女の顔。紅い口元が美しい半円を描く。
 天窓より望む白銀の月。冴え澄む程の冷たいその光より、なお少女の美貌は玲瓏に輝いている。淫蕩さと冷厳。相入れない筈の物が同居したその表情は、少女の年には不相応な、しかし彼女しか出せないであろう輝きを放っている。
 その輝きに、リタは魅入られていた。陶然と、少女の笑顔に魅せられていた。
 見つめられ、朱に火照った体に震えが走った。
 恐怖ではない。快楽への期待でもない。
 身の内に産声を上げた、昏く深い欲望に気付いた悦びであった。
 ――友である水魔(スミレ)に話せば、一体どんな顔をしてくれるだろうか。このリタ・ロズィーアンが、生まれて初めて心の底から欲しい物を見出したと話せば、どんな反応を返してくれるのだろうか。
 少女の指が、リタの太股を這い上がってくる。数瞬後の快楽の爆発への期待は、しかし今の彼女にとっては色あせたに等しい。
 この少女は、自分のことなど見てはいない。彼女にとって今組み敷いている女の体など、心に抱えた誰かの代用品でしかないのだ。
 それを汚したい。壊したいばらばらにしたいメチャメチャにしてしまいたい。
 少女の抱えている全てを、自分の色に染め上げてしまいたかった。その胸に抱えている澄んだ思いの結晶を、砕き、歪に組み上げて、一色に染め上げてしまいたかった。
 少女を縦に傅かせている未来の自分を想像し、リタは息が止まらんばかりの悦楽に溺れていた。
  「……思うが侭になさいませ。この道化者、不敬の罰を喜びと共に迎え入れましょう」
 息も絶え絶えに、リタは呟く。
「殊勝ね。気にいったわ。リタ・ロズィーアン」
 少女は満足そうに頷くと、その顔を豊満な乳房へと埋めていく。間を置かず、少女の指もリタの潤い切った股間に滑りこんでいく。
「されど、いずれ必ず我が愛をその身に。アルトルージュ様……」
 それゆえにリタの呟きは、沸き起こる快楽のため息に埋もれていった。



 あるいはこの瞬間、リタの生は始まった。そう言えるのかもしれない。
 決して届かぬ筈の黒の姫君。死徒の女王アルトルージュ・ブリュンスタッドを手に入れんがため、夜よりなお深き闇を駆ける日々を歩む。
 その生の始まりを。




−6−





 リタ・ロズィーアンがこの城に訪れた。
 その事を知ったアルクェイドの反応は、アルトルージュの予想より少しばかり激しいものであった。
「どの面下げて、ここに現われたってのよ……っ!」
 力任せに叩かれた、黒檀のテーブルが派手に揺れる。ティーカップがひっくり返らなかったのは、幸いなる偶然であったろう。
 怒りに震える声色でそう叫んだ妹の姿を見て、アルトルージュは胸をなでおろした。ここで話をしておかなければどんな事になったか。もしも運悪く鉢合わせなどという事になったら、その後の情景は想像するまでもない。
 事前にそう言う相手だと言う知識が嫌と言うほどあった自分とは違う。アルクェイドにとって、リタとのミュンヘンでの出会いはいささか毒が強すぎる物であった。
 取るに足らぬ程の時間のふれあいだった人間の少女。その命が弄ばれた事に対して、アルクェイドは激しい怒りを見せた。自分が人形扱いされた事に対して、彼女は胸が締め付けられるほどの焦燥を見せた。
 どちらも、アルクェイドが着実に中身を手に入れている事を表わしている。一歩一歩確実に。作られた兵器などではない、喜怒哀楽を備えた愛すべき存在に成長しているのである。それはアルトルージュにとって、何物にも変え難い喜びであった。
 だからこそ、その邪魔をあのような道化者にさせるわけにはいかなかった。
 元が澄み切っていればいるほど、投げこまれた汚れは強く水を濁らせる。そして一度濁った水はもはや元の清らかさを取り戻す事はなくなってしまう。
 ゆえに断固たる決意を持って。彼女は、今すぐにでも飛び出していきそうなアルクェイドの前に立ちはだかった。
「駄目よ。今日の話し合いは私の領分。あいつとの下らない会談が終わるまで、ここで大人しくしていて頂戴」
「……どうしてよ。わたしだってあいつに言ってやりたい事は山ほどあるわ。あれだけ侮辱されて、部屋でコソコソしていろだなんて言われたって納得できないわよ」
「だから、それがあいつの狙いなのよ。分かってる罠に自ら飛びこんでどうする気よ」
「それでおめおめ引き下がれるほど、わたしは物分り良くなんてないわよ!」
 眦を吊り上げ気炎を上げるアルクェイド。アルトルージュは軽いため息と共に、
「だったら、絶対に手を出さないって誓える? 何を言われても、どれだけこちらの心を逆撫でするような事をされても手を出さないって誓えるかしら?」
「それは……」
 じっと自分を見つめてくる姉の視線に、アルクェイドは言葉に詰まる。所在なさげに視線をさ迷わせると、いささか弱弱しい声で、
「大丈夫よ、多分。手を出さないでいる事くらい、出来るわ」
 その言葉にアルトルージュは苦笑し、首を横に振った。
「やっぱり無理ね。今日はここで大人しくしていなさい」
「嫌よ! 大体やってみなければ分からないじゃ……」
「アルクェイド!」
 それはアルクェイドが今まで聞いた事もないような声だった。食い下がろうとしていた声が詰まり、鋭い視線で自分を貫いてくる姉の気迫に気圧されたかのように押し黙ってしまう。
「いい、人には出来る事、出来ない事というのが厳然として存在するの。確かにあなたは真祖の姫だもの、出来ない事なんてとても少ないわ。でもね、まだ出来ない(・・・・・・)事は絶対にあるのよ」
「でも……」
「何と言われようと今回は駄目。あまり我が侭を言って困らせないで頂戴」
 そう言うと、アルトルージュは顔を伏せ、身を翻す。
 その肩に、アルクェイドの手が掛けられた。
「ちょっと待って姉さん!」
「だめよ、そろそろ行かないと……」
「そんなに、わたしは邪魔なの! 姉さん一人であんな奴に合わせるなんて危ないじゃない! 姉さん一人に厄介事押し付けて、自分はこんな所で大人しくしてるだなんて、まるでわたしが何にも出来ないみたいじゃない!」
「そんな事は言っていないわ。あなたが邪魔なわけ無いでしょう! ただ、ただ今日だけは大人しくしていてと言っているのよ!」
 答えるアルトルージュの声に力は篭っていたが、アルクェイドに向かって振り向く事は出来なかった。
 これが本当に自己中心な、単なる物見遊山な気持ちから出た言葉であったのならば、アルトルージュにはいくらでも論破する自身はあった。自己虚栄や才能の過信……そう言った『病』を抱えた部下を素早く見抜き、しかるべき処置を施す。それが上に立つ者に求められる力でもあるのだから。
 しかしアルクェイドの言葉に込められていたのは、確かに自分に対する深い気遣いであった。
 それがアルトルージュにとっては、言葉にならないくらいに嬉しくて。そして酷く恨めしかった。そういう気持ちを抱いている者を理で説得するのは、酷く困難なのだから。
 今面と向かってしまえば、情に流されてしまいそうだった。しかし黒の姫君としても、アルクェイドの姉としてもそれは許されない行為。
 故にアルトルージュは振り向けなかった。
 その行為自体は間違いではなかっただろう。しかしアルクェイドの目には酷く冷淡に映った。映ってしまったのだった。
「……そっか。やっぱりこんな我が侭な妹、姉さんにとっては余計なお荷物……」
 冷めた声でアルクェイドは呟いた。
 その言葉が途中でかき消される。
 ぱちん、と。
 酷く乾いた音が部屋に響き渡った。
「…………あっ……」
 果たしてその呟きはどちらの口から漏れたものか。
 震える右手を握り締めるアルトルージュ。
 呆然と、張られた左頬を抑えるアルクェイド。
 互いに何も言葉に出来ず、沈黙が部屋の空気を重く染め上げていく。
「あ、の。その。アルクェイド、これは……」
 数瞬の後にアルトルージュが口を開くが、震える声が上手く言葉を紡がせない。言わなければならない事がごまんと頭の中を駆け巡るのに、何も意味ある言葉として彼女の口から出る事がない。
 ただ右手だけがひどく熱かった。
 そして頬を抑えたままのアルクェイドは、茫と姉の右手を眺めている。まるで彫像のように立ち尽くしていた彼女の瞳に力が戻るにつれ、その唇が小刻みにわなないていく。
「……って……」
 消え入りそうなほどのアルクェイドの声。込められた破滅の匂いを感じ取り、何とか押し留めようとその手を伸ばすアルトルージュ。
 しかし、すれ違った時は無情であった。
「聞いて、お願いアルクェイド……」
「出てってよっ! 顔も見たくない! 姉さんなんか……アルトルージュなんか大っ嫌いよ!」
「きゃっ!」
 まるで火山の噴火のように。
 受け止め切れないほどの感情の爆発に流されるかのように、アルトルージュを突き飛ばしたアルクェイドは身を翻して部屋の奥へ駆け出してしまった。
 強かに尻持ちをついたアルトルージュが起き上がった時には、アルクェイドはベッドの中に潜りこんでしまっている。向けられた敵意は、彼女に一歩たりとも中に踏みこませる事を許さなかった。
 本当に身を突き刺された方がどれ程良かったか。妹の拒絶に身を貫かれ、伸ばした手は行き場無く虚空を泳いだ。
「……私は、なんて事を……」
 薄く溶け消えそうなほどの声でアルトルージュが呟く。両の足に力が入らず、よろよろと扉に持たれかかって天井を仰ぐ。
 嫌っているわけなどない。邪魔に思うなどありえない。だからこそアルクェイドの言葉を許すことが出来ず、反射的に頬を張ってしまった。
 痛かった。叩いた彼女の右手は、耐え切れないほどの痛みを伝えてきていた。
 それは肉体の痛みではなく、自己嫌悪からくる痛み故に、どうしようもなく彼女の心を責めさいなんでいく。
 出来る事ならば、全ての時間を注いで、アルクェイドに対して誤解を解きたかった。殴られても良い、切り刻まれても良かったから、アルクェイドに掛けよって、食い違った歯車を元に戻したかった。
 しかしそれが許されない事は、誰よりもアルトルージュ自身が良く分かっていた。
 それを表わすかのように、彼女が持たれかかっていた扉がノックされる。
「……アルトルージュ様。そろそろお時間です」
 くぐもった侍従の声が彼女の耳を打つ。時は尽きたと無情に知らせる、鐘の音のように。
「ええ、すぐ行くわ」
 取り繕った声色で侍従に告げると、アルトルージュは重い吐息を漏らして、ノブに手を掛けた。
「本当に、ごめんなさい。アルクェイド……」
 震える声で紡がれた言葉は、空しく部屋の壁に吸いこまれて、消えて行った。







 たとえアルクェイドに拒絶を突き付けられて、心に深い傷を負っていようと、アルトルージュがそれを表に出す事はない。彼女にとってその技術は必須の物であり、そしてもっとも得意なものでもあった。
 謁見の間の中央。高座に誂えられた玉座に身を沈める彼女の右側には、黒騎士リィゾ=バール・シュトラウトが。左側には白騎士フィナ=ヴラド・スヴェルテン。彼女が恃む双璧の騎士は、まるで鉄の城のごとき威容で佇み、その足元には白き巨狼が伏せ侍っている。
 今のアルトルージュは、アルクェイドと共にいる時の彼女ではない。死徒二十七祖が九位として、疑いようもない黒の姫としての威厳を湛えたアルトルージュ・ブリュンスタッドとしての姿だった。
 相対する者の心臓を鷲掴むような、彼女の視線。それを一身に受けてなお、向かい合うリタの顔から笑顔が消える事はない。いつの間に取り替えたのか、艶やかに光る黒のシルクハットを胸に抱き、深々と階上のアルトルージュに向かって礼を返す。
「アルトルージュ・ブリュンスタッド様にあられましては御機嫌麗しゅう。御尊顔を拝する光栄に、ボクの身も震えんばかりの感動に包まれて……」
「余計な世辞など結構よ、リタ・ロズィーアン。貴女が何の用を白翼公から言い遣って来たのか、それだけを語りなさい」
 溢れださんとする美辞麗句を押し留めるように、アルトルージュが告げた。
 正直な所、今の彼女にとってリタの声は毒にも等しい苦痛の源であったが、それと悟られぬよう声の調子はあくまで静かなものであった。それは聞く者の心を凍りつかせるような冷たさを持って、広間に響き渡る。
「つれないね。一週間くらい前だったっけ、ホテルでも妹にばかり気を向けて。ボクとの付き合いだって長いんだから、大事にしてくれると嬉しいんだけどな」
 堪えた様子もなく、軽い口調で肩を揺らす。張りついたような笑顔は途切れる事はない。それがリタの手だという事はアルトルージュにも良く分かっていたから、表情を変える事無く、また態度も変化させる事はなかった。
「そうね。中身がどうであれ、付き合いが長いという事実は否定できないわね。我々を裏切って、一族郎党引き連れて白翼公の元に身を投じたのは何時だったかしら」
 それはアルトルージュにとってあまりにも深く刺さった刺であり、永劫忘れる事はないほどの怒りと屈辱の過去であった。
 その才を以って、アルトルージュの陣営に確固たる地位を築いていたリタが閃かせた裏切りの刃。軍事上外交上為政上の幾百に及ぶ機密を抱えて白翼公の陣営に身を投じられた時、アルトルージュたちが被った損害はあまりにも巨大なものであった。一つでも対応を間違えていれば、現在の彼女の立場は存在していなかったろう。
 故にアルトルージュたちにとってリタの存在は、白翼公その人をも上回る憎悪を向けられる厄札なのである。当然普通の神経であれば、こうしてアルトルージュに顔を見せられよう筈もない。
 平然と特使の任についている。その事こそがリタという女性の人為を悠然と語っていた。
  「えーっと、三百年前くらいだったかな。ボクが先代の後を継いだ時だったから、その位だね」
 憎悪の視線など意にも解した様子もない。故意に人を苛立たせるその態度にも、感情を露にする事は出来ない。苛立つ心を撫で付けて、アルトルージュは道化との相対に意識を向け直す。
「そう、もうそんなに経っていたのね。人の世は随分と移ろったけど、貴女の性根だけは変化の兆しを見せないようね。再びこの場所に立っている。その度胸だけは褒めてあげる」
「あはは。あのアルクェイド・ブリュンスタッドと手に手をとって仲良く帰ってきたって聞いたから、一体何事かなって思っただけさ。真祖の姫にはぜひともお見知り置きいただきたかったからね」
 仲良く。その言葉に一瞬アルトルージュの表情がさざめく。まるで宣告のやりとりを皮肉ったかのような言葉に常人ならば気付かないほどの変化であったが。
 リタは口元に手を当て、クスクスと笑い声を立てる。
「この目で見たのはあの時が初めてだったけれどね。なるほど、君が執着するのも頷けるよ。君が月の闇を集めた美貌だとすれば、彼女は月の光だ。正に奇跡の造形品だね。うん、確かに姫君の名前に相応しい」
「貴女が表裏なくそう思っているのであれば、お世辞だと思って受け取っておくわ」
「ふふふ、ボクは嘘吐きだけどお世辞は言わないよ。本当なら今日もお会いしたかった所だけど、残念ながらそれは叶わないみたいだね」
「祖の話し合いにあの子の存在は不要でしょう?」
 そっけなく言い捨てるアルトルージュに向かって、リタは唇の端を吊り上げた。
「それともあれかな。あなたに散々愛されて、足腰が立たない状態なのかな」
 揶揄するようなリタの言葉に、アルトルージュの頬に朱が走った。玉座の肘掛を強く握り締め、とっさに口を開こうとした彼女を制したのは傍らに経つフィナであった。
「下衆の勘繰りはそこまでにしておいたらどうだい、帽子屋。君の不道徳な性観念を姫様やアルクェイド殿にまで当てはめられるのは、騎士として不愉快きわまる所行なのだけどね」
 口調は丁寧だったが、その瞳に剣呑きわまる光を抱いて目の前の道化者を睨み付けている。リィゾは無言であったが、佩いた魔剣の柄に手が掛かっている。
「ふふ、キミが性観念を語るかい。白騎士殿。年端もゆかぬいたいけな少年を、もはや数え切れぬほどその牙に掛けてきたキミがね」
「僕の性癖は関係無い。重要なのは君が姫様と、姫様の妹殿を侮辱したという事だ」
「侮辱だなんて。そんなつもりは無かったのだけどね。だってそうだろう? 愛する事は素晴らしい。愛は世界を救うらしい。愛は全てを包みこみ、愛の区別になんて意味が無い。目の中に入れても痛くないくらいアルクェイド・ブリュンスタッドを愛しているのならば、それを伝えるために一番手っ取り早いのは、ベッドで優しく可愛がる事だろう? 昔ボクがされたみたいに、一晩中愛を囁かれて舌を使われれば身も心もシーツもとろとろ。姉妹の絆もより一層深まり溶け合い絡み合い、言う事無しじゃないか」
 凍てつくほどの殺気と怒気に満ちた広間で、意に介さぬ風にリタはおどけてみせる。逆にその空気こそが彼女をより一層輝かせるかのように、その口調も、その所作もますます芝居気を帯びてくる。
「そうさ、本当に愛しいのならば、どこの馬の骨とも知れない人間ごときと結婚なんてさせなければいい。ずっと自分の手元に抱えておけばいいんだ。本当はあの体を貪りたいんだろう? 淫猥に溺れてしまいたいんだろう? 我慢する必要なんかない。人間どもの姉妹の道徳なんか、僕らには無意味じゃないか。友愛は移ろう物。家族愛など擦りきれて無くなる儚い物。本当に切れない鎖はね、あなたの指と舌が生み出す淫蕩な快楽なんだからさ」
「……戯言はそこまでになさい。私は侮辱に対して寛容は発揮しない。まして貴女など、例え白翼公の特使であれ、安全だとは思わない方が良いわよ」
 醜悪な喜劇の幕引きは、静かな澄んだ声であった。すっと玉座より立ち上がったアルトルージュが、紅く光り輝くその瞳で、黒い道化を見据えている。耳から彼女を犯すリタの毒の囁きは、侵すべかざる聖域に不用意に触れたのだ。
 あどけない少女の外見が、鬼気迫る空気に包まれ、道化の舌すら一瞬止めてみせた。
「疾く要件をその舌に乗せなさい、リタ・ロズィーアン。身のある話し合いならばいくらでも時間は割いてあげる」
「……綺麗だね。それでこそ死徒の女王。その姿こそがアルトルージュ・ブリュンスタッドだ。姉妹ごっこに興じている様など、あなたには相応しくない」
「道化……」
「おっと、ボクも首を刎ねられたくない。あなたに殺されるのならば本望だけど、そこの白騎士殿や黒騎士殿に斬られるのは御免被りたいからね」
 皮肉げな微笑みのまま、リタは手にしたシルクハットをくるくると、器用に指の上で廻して見せる。
「もちろん種も仕掛けもございます。さぁさぁとくとご覧あれ」
 次の瞬間、ポンと人を食った音と共に、豪華な荘重のファイルがそこから飛び出てきた。リタは空いた手でそれを受け止めると、慇懃に礼を返してみせる。
「これなるは我が王、トラフィム・オーテンロッゼ陛下よりの書状にございます。アルトルージュ様には是非ともその目で御確認頂きたく」
 朗々とそらんじると、リタはそのまま流れるような足運びで玉座へと近寄っていく。
「止まってもらおう。君を姫様に近づける事など、出来ると思っているのかい?」
 その不遜きわまる行動に黙っているような彼らではない。アルトルージュを庇うようにフィナとリィゾは前に立ち、剣の柄を握り締める。プライミッツ・マーダーも身を起こし、リタに向かって低いうなり声を上げた。
「僕がそれを受け取ろう。姫様はこの場にいるんだ、何の問題もないだろう?」
「大有りだね」
 三人の祖、それも幻想種に等しいとまで言われる存在を向こうに廻して、リタの声にはいささかの動揺も感じられなかった。その事自体が、彼女自身もまた死徒の祖である事を証明していた。
「これは我が王直筆の書状。言いかえれば王のお言葉なんだ。王に相対出来るのは女王であるべきだろう? ボクとしてはアルトルージュに直接渡さないことには、仕事を果たしたとは言えないもの」
「詭弁を紡ぐな、道化」
 初めてリィゾが口を開いた。その体躯に相応しい、巌のような堂々たる声。そこに込められた固形のような殺意を、轟然と胸をそらして受け止めてみせるリタ。
「……いいわ。私が受け取りましょう。あなた達は下がりなさい」
「姫様、しかし……」
「妙な素振りを見せたら、遠慮なく首を刎ねなさい。あなたも、その覚悟があるのならば上っていらっしゃい、リタ」
「話がわかるね。それでこそさ」
 満足そうに頷くと、リタは一歩一歩、玉座への階を踏みしめる。アルトルージュの前に跪くと、恭しく抱いたファイルを慇懃に差し出した。
 無言でそれに手を伸ばすアルトルージュ。
 その手がファイルに掛かった瞬間、リタの目に妖美な光が点る。
 何の前触れも無く、蛇のようにリタの手がアルトルージュのそれに絡みつき、自らの元へ引き寄せようとする。
 その動きが神速であれば、その上を行く動きは果たしてどれだけの物か。
 光が空を裂いた。
 鞘走りの音すら遅いと言わんばかりだった。フィナの細剣(レイピア)とリィゾの漆黒の魔剣(ニアダーク)が、躊躇い無く抜かれ、振り下ろされる。
 抜く手も見せず、太刀筋など影すら映させない。
 まさに必殺の刺突、あるいは断罪の斬撃か。
 リタの銀髪が、巻き起こった風に靡いて舞い上がる。
 広間に落ちる静寂。息つく声も聞こえぬほどの沈黙の中で、それはまるで彫像のようであった。
 寸毫の間もない。魔剣は狙い違わず彼女の首筋にあてがわれ、細剣もこめかみに突きつけられ髪を擽っている。
 無様に震えることなく、二つの剣先は狙いを定めたまま、主の号令を待ち望んでいた。
「……まったく、敬意の接吻も許されないのは、ちょっと無粋じゃないかな?」
 ため息混じりにリタはアルトルージュの手を離し、降参とばかりに両手を広げて立ち上がった。その動きに合わせるかのように、二人の騎士も剣を引く。無論鞘に収めることはなく、その切っ先は彼女に向けたままであったが。
 その動きに安心したかのようにリタは地を蹴り、ふわりと剣の届かぬ下座へと降り立つ。
「下郎が……」
「大丈夫よ、シュトラウト」
 忠実なる黒騎士を手で制すると、アルトルージュは手にしたファイルを開き、華美な装飾の施された書類に視線を落とした。
 流麗な筆致は忘れようもない。彼女にとって宿敵であり、そして祖としてともに死徒の頂点に君臨する男、白翼公トラフィム・オーテンロッゼの直筆の物に間違いなかった。
 儀礼的な装飾のない、率直な文言。それを読み進めていく内に、アルトルージュの眉がひそめられていく。
 幾千もの場数を踏んできた彼女にとっても、俄かに信じがたい内容であったのだ。
「貴女はこの内容を知っているのかしら?」
「そりゃあね。ボクは特使だもの。説明を求められるだろうと言われていたからね、内容を知らなければお話にならないよ」
「ならば聞くわ。あの男は本気でこれを求めているの?」
「勿論。我が王は、平和的に話し合いを望んでおられるのさ。邪魔の入らぬ場で、あなたと二人だけで」
 歌うように言を紡ぐ、リタの言葉に二人の騎士たちは顔を見合わせた。
 トラフィム・オーテンロッゼとアルトルージュ・ブリュンスタッドとの会談。
 二つの勢力は相容れぬ敵同士ではあったが、話し合いの回線を閉じる愚を冒す関係ではなかった。配下の勢力同士の競り合いは無数に行われていても、主戦力同士の面と向かったぶつかり合いは今まで起きていないのだ。そういう意味では、表の世界における第二次世界大戦後、アメリカ合衆国とソビエトとの冷戦構造に近いものがある。
 しかし、それも全権を委任された大使、もしくは盟友関係にある祖が代理で話し合う。そういうケースが殆どである。勢力の頂点同士が会談すると言う事態は、今まで例がなかった。
 疑いの抜けぬ声で、アルトルージュは呟く。
「奥に篭っているのがあの男の仕事だと思っていたのだけれど。一体、どういう風の吹き回しなのかしら」
「……姫様。不躾を承知で言わせて頂ければ、黙殺すべきだと思われます。お一人でかの狸めの懐に飛びこむなど、条件として論外です」
 フィナの言葉は全くの正論であるが故に、アルトルージュも浅く頷いた。
 明らかに罠の可能性が濃厚である。のこのこと一人で出向いて、彼の擁するすべての戦力で出迎えられる。勿論彼女が討たれれば、リィゾもフィナも黙っているわけが無い。報復による大戦乱が巻き起こるのは必定。
 それを考慮しても、ここで自分の首を取れれば勝ち目はある。そう踏んだというのだろうか。
「ああ。もちろん、その場所にはあなたご自慢の騎士殿もご一緒でも構わないとの事だよ。ただ、話し合いの場で余計な相手は欲しくない、あなたと二人でゆっくりと話し合いたいんだって」
 疑りぶかい観客に、種などないと説明するかのごとく、リタが微笑を浮かべてアルトルージュを見やった。
「世の状況は一年前に比べてずいぶんと変化したじゃないか。真祖の姫が人間と結婚して、日本に住まう。この未曾有の事態を前に、死徒としてどう行動していくか。それをあなたと話し合いたいんだって」
 その言葉に、アルトルージュは皮肉げな微笑を浮かべて見せた。
「……それは『混沌』が滅んだことにおける釈明もしてもらえる。そう受け取っても構わないのかしら。彼の出したくだらない命令の贄で、(いたずら)に祖の欠番が増えたのですものね」
 アルトルージュがトラフィムに対する痛烈な皮肉を口にする。しかしリタも相好を崩さず、
「それはあなたが直接聞いて確かめるべきだと思うよ。僕が独断でその質問に答えるわけにはいかないもの」
 そして、リタは口元を深く吊り上げた。
「それに、我が王も色々あなたにお聞きしたい事がおありのようだしね」
 自分を見やる瞳に込められた言葉を読み取り、アルトルージュは内心臍を噛んだ。
 死徒の姫である自分が、死徒を狩る『処刑人』たるアルクェイド・ブリュンスタッドと共にある事。
 そこを突かれると、アルトルージュとしても弱かった。彼女はアルクェイドの姉であると同時に、無数の死徒の勢力を二分する王でもある。『示しがつかない』という糾弾が上がる事は覚悟していたし、トラフィムはここぞとばかりに攻撃してくるだろう。
 しかしそれならば、大々的にやらねば意味のない行為だ。二人きりの密談でそこを突つかれても、正直立場そのものを揺るがされるという事は考えにくかった。
 もっとも、それは彼女の抱えるカードにしても同じ事である。ネロ・カオスの死という失点は、多くの死徒の前で糾弾しなければ効果は上げにくいだろう。
「さて、返答はどちら? 色好い答えを頂けることを期待しているのだけれど」
 その言葉に、アルトルージュは口元に手を当て黙考する。
 トラフィムは一体何を企んでいるのか。誘いに乗るほうが利益が大きいか、否か。
 それを見誤れば取り返しのつかないことになりかねない。向こうはネロの件。こちらはアルクェイドの件。互いに燃えにくい燃料であっても、変に煽られれば大火になりかねない。
 そして、トラフィムという男はそれが至極得意な男であった。
 やはりアルクェイドの存在を隠して、ヨーロッパに戻って来るべきだったのだろうか。
 為政者として一瞬思い浮かべたその案に、アルトルージュは嫌悪した。
 それならば、そもそも旅行などしなければよかっただけの話だ。
 ミュンヘンの町並みを見て、無邪気に笑っていたアルクェイド。
 疲れたといって、すやすやと姉の膝の上で寝息を立てていたアルクェイド。
 『処刑人』でもない、世界に唯一残った『真祖の姫君』でもない。気まぐれであけすけで素直な、大事な妹。そんな彼女とただ、姉妹として一緒に過ごすために戻って来たのではないのか。
 リタの登場で、歯車は狂い出した。埋まり始めた筈の溝が、再び軋み口をあけてしまった。
 ならば成すべき事はひとつだけ。唇を噛み締め、彼女は決意を固める。
 ――妹を。この身を以って、アルクェイドを。災厄から守り抜いてみせる。
 決然と、眼下の道化者を見据えて。アルトルージュは宣言した。
「結構よ。このアルトルージュ・ブリュンスタッド、白翼公よりのお招きを快くお受けするわ。そう伝えて頂戴」
「確かに。確かに承ったよ。ボクの身と名に懸けて、その言葉、我が王に伝えさせてもらうよ」
 嫣然と笑ったリタは、眼上のアルトルージュに向かって大仰に礼を返してみせた。
 そのまま白いマントを翻し、踵を返した一瞬、リタの口元に浮かべた笑みが不意に消えていた。
 その仕草に、アルトルージュはどこか言いようのない不安を覚えた。それに応えるかのごとく、背を向けたままのリタの言葉が彼女の耳を打ち据えた。
「――本当に、君は妹思いなんだね。報われぬ愛に殉じる様は、いっそ滑稽だよ」
「……なんですって?」
「君がその身を削ってまで妹を支えているというのに。当の本人は何も知らない。それが滑稽だと言ったのさ」
「貴女……っ! 何故それを――!」
 初めて取り乱した声を立てるアルトルージュ。
 誰にも話した事など無い秘密。彼女だけの、大事な大事な妹との繋がり。
 それを何故、この道化者は知っているというのか。
「待ちなさい、リタ・ロズィーアン!」
 呼び止めて、問い質さねばならない。しかしその叫びは、白い背中に阻まれ消えてしまう。
「だからボクがアルクェイド・ブリュンスタッドに伝えておいてあげる。彼女が、ただ在るだけでどれだけ愛しい姉さんに迷惑をかけているのかを、ね」
 そして、重苦しい音と共に開け放たれた扉の音に紛れて。
 リタの呟きは、アルトルージュの耳に届く事は無かった。




続く