−7−





 何度目であったろうか、漏れ出た吐息が部屋に沈んでいく。
 目に見えぬそれが堆く積もりあがり、部屋を重苦しく染め上げているようだった。
 ベッドの上でうつ伏せに横たわったアルクェイドは、枕に顔を押し付けていた。
 何も見たくないし、何も聞きたくない。
 怒りと混乱と自己嫌悪が、彼女の中で渦巻いている。
 左の頬が、燃える様に熱かった。
 ただ心配しただけだったのに、返答はこれ以上ない拒絶であった事が彼女には許しがたく。
 しかし、耳に残る姉の声が今にも泣き出しそうなほど弱々しいものであったのが、ひどくアルクェイドの心を苛んできた。
 叩いたのは姉さんだったのに、何故彼女の方が痛そうな声を出すのか。アルクェイドには分からない。
 アルクェイドがアルトルージュの気持ちを寸借するにはあまりにも経験が足りず、アルトルージュが自らの気持ちを滞りなく伝えるには、時間が足りなかった。
 ゆえにアルクェイドは混乱し、どうする事も出来ずにこうしてベッドに蹲るより他無かった。
 少しでも気持ちを落ち着かせようと、彼女はじっと目を閉じる。
 思い浮かぶのは、愛しい男の顔。
 志貴にこの事を話せば、どういう反応をするのだろうか。
 静かに話を聞いてくれるだろうか。それとも、「ばかおんな!」と一喝して、頭を小突いてくるのだろうか。くるくると表情を変える彼を見て、アルクェイドの口元が緩む。しかしすぐに笑みは消えてしまった。
 志貴の顔だけではない。秋葉の顔も、双子の従者の顔も記憶の内にある。いけ好かない代行者の顔も刻まれている。
 そして、アルトルージュの顔も。
 かつてのように死徒の王としてではなく、自らの姉として。笑い、諭し、怒り、そして涙を流すアルトルージュの顔が、彼女の内に納められていた。
 かつて、人形として動かされていた時は何も持てなかった、『記憶』と言う宝物。その中に残る様々なアルトルージュの顔の中に、先ほど見せた顔は存在していなかった。
 胸が締め付けられる。そんな感覚を覚えて、アルクェイドは呻き声を上げた。
 自身が悪いとは思っていなかった。だけど、アルトルージュが間違っているとも思えなかった。非のある者は、ああいった顔は出来ないのではないだろうか。
 知りたい、いや、知らなければならない。揺らぐ思考が礎を見つけて、彼女の考えは形を成した。
「姉さんと、話しないと……」
 アルクェイドはよろよろと身を起こして、軽く頭を振った。
 また喧嘩になるかもしれない。だけど、このまま思い煩っているのは我慢できなかった。何でそんな顔をしたのか、その訳を知りたかった。
 果たしてどれほど時間が経ったのだろうか。部屋に時計は無く、推し量る事が出来ない。
 未だ会議は続いているのだろうか、城は静まり返っている。しかし今にも切れそうなほど張り詰めた緊張感が立ち込めているのを彼女は感じ取った。
 終わりまで待つべきだろうか。
 立ち上がり、ドアまで歩み寄ったアルクェイドはノブに手をかけ逡巡した。未だ会議とやらが続く中に飛び込んでしまえば、姉と話をするどころではなくなるだろう。リタにも言ってやりたいことは積みあがるほど抱えていたが、今は二の次だ。
 会議が終われば、誰かが呼びに来るのではないだろうか。そう思い直した彼女は踵を返そうとした。
 その足が、ぴたりと止まる。
 身にまとわりつくような重い気配が、ドアの前に佇んでいる。
 城に住む者の気配ではない。アルクェイドの身に備わった力は、相対した相手の気配を読み違える事など有り得なかったし、この城の住人が彼女に相対する時、このような厭な気配を身に纏う事は無かった。
 そもそも、このような気配の相手をこの距離まで近づけた事にアルクェイドは愕然とする。自分が弛んでいたのか、はたまた相手の技量か。
 だとすれば、ありえる相手は一人だけ。
 アルクェイドの体に軽い緊張が走り抜ける。重苦しい気持ちを冷徹な思考が押し流し、近づく気配を壁越しに睨みつけた。
 敵意と殺意を隠そうともせず、気配の主は動きを見せる。
「――やぁ。ここに居たんだね、姫君」
 くぐもった声をアルクェイドの耳が捉えた瞬間。
 轟音と共にドアが弾け飛んだ。







「行動は必ず三人一組、疾く出入り口を固めなさい! 見つけてもこちらから手を出しては駄目よ。必ず私たちに伝令を飛ばすように。無駄死には罪悪と覚えておきなさい!」
 指示を仰ぐ守衛長の一人に、アルトルージュは早口で命令を飛ばす。了承し、彼女の指示を伝えるべく走り去っていったのを見届けて、彼女もまた駆け出した。
 フィナとリィゾは既に彼女より別れ、城の防護に就くべく彼らの持ち場へと散っている。今アルトルージュの傍らに控えるのはプライミッツ・マーダーのみ。しかし風に流れる汚れなき銀の毛並みは、彼女にとってこれ以上無い頼もしい守護であった。
 ――大人しく帰れば可愛げがあるものを。
 混乱を引き起こした道化者に向けて、彼女は心の中で毒づいた。
 ここはただの古城ではない。死徒の女王として君臨するアルトルージュの居城である以上、整えられた防備の固さは、並大抵のものではない。ハイテクと神秘を惜しみなく注ぎ込み、控える騎士たちも一騎当千。たとえ万を超える死者や死徒の群れに襲われたとて、不落を誇るのは間違いない。
 しかしそれは外から攻められた場合である。古代ギリシアの有名すぎる故事を持ち出すまでも無く、不落の城こそ内に潜り込まれた場合、意外な脆さを露呈する。
 まして、潜り込んだ木馬が『魔』の王すら名乗れるほどの規格外であるならば。
 アルトルージュとて油断をしていたつもりは無かった。しかしこれほどまでに露骨に行動を起こされ、虚を付かれたのは恥ずべき失態でもあった。
 下唇をかみ締めて、彼女は自らの不明を恥じる。しかし後悔はしない。している暇も無い。
 とられた主導権は必ず奪い返し、女狐に遊びの対価を支払わせて見せる。決意を胸に、彼女はリタの気配の残滓を辿っていく。
 これが他の場所であれば、いかにアルトルージュとて他の祖の気配など捕らえられるものではない。しかしここはアルトルージュの城。彼女にとって自らの体内にも等しい。それでも細い糸を手繰り寄せるように慎重に、軌跡を辿っていく。
 目眩ましのつもりか、その動きは気まぐれそのもの。アルトルージュをあざ笑うかのように、上へ下へと彼女を振り回そうとしている。
「あの女……鬼ごっこでもしているつもりだというのっ!」
 忌々しげに呟いたアルトルージュは、壁にもたれかかり息を整えた。いくら走ったところで呼吸の乱れるような体ではなかったが、血の上りかけた頭を冷やすためだ。
 そっと目を閉じ、彼女はリタの動きと城の構造を重ね合わせていく。
 闇雲に追っても仕方が無い。彼女は埋葬機関の第五位とは違う。道化を装っているようで、その行動には意味がある。それを先読みし、回り込めば主導権は取り返せる筈。
 冷静に、動きを読み取っていったアルトルージュは息を呑んだ。
 徐々にリタが近づいている場所。それはひとつの部屋である。
 正気とは思えない。
 しかし、動きの終点は明らかにその部屋であった。
 ――本当に、君は妹思いなんだね。報われぬ愛に殉じる様は、いっそ滑稽だよ。
 去り際の言葉が、アルトルージュの胸を不吉に掻き立てる。
「アルクェイドっ!」
 思わずアルトルージュが叫んだ瞬間、アルクェイドの部屋のある辺りで気配が膨れ上がった。
 隠しようの無い敵意と殺気。その主は考えるまでも無い。
 そして彼女がそれに反応するよりも早く。
 轟音が、城を揺るがした。







 千々に砕け散ったドアの破片。それを吹き散らすように三条の光が空を薙ぎ、アルクェイドに襲い掛かる。
「くっ!」
 飛び退ったアルクェイドの後ろで鈍い音が響き渡り、斬り裂かれた黒檀のテーブルが床にばら撒かれた。光はそれに飽き足らないかのように、その後ろの石造りの壁に、深い傷跡を穿っていた。
「残念。さすがに当たらないね」
 涼やかな声で物騒な事を呟き、闇の中から声の主が姿を現した。
 手に持つ細身の剣は、刃を朱に染めている。黒と白に包まれた彼女の装身の中で、一際アルクェイドの目を引いた。
 銀髪を揺らして艶やかに礼を贈る、その間も突き刺さるかのような敵意は途切れる事はない。
「……一体何のつもり! リタ・ロズィーアン!」
「ハイ、こんばんわ真祖の姫君。今夜は月も綺麗だし、ボクと一曲踊りませんか?」
 怒りを込めたアルクェイドにも、リタは動じる様子も無い。
 誰何の返答は、きらめく銀光。
 返答と共に刃が空を走り、アルクェイドの首へと伸びる。
 死を運ぶ一撃は、しかし的に届く事は無い。耳障りな金属音と共に、鋭く伸びたアルクェイドの左手の爪が、死の刃を眼前で受け止めていた。
「はっ!」
 気合と共に間髪を入れず突き抜まれるアルクェイドの右手。部屋に響く爆音は、空気の壁をも破った証か。
 リタの太刀筋が銀の光ならば、アルクェイドの拳は白い流星。
 当たれば塵をも残さぬような豪腕から、リタは寸前で飛び退いた。追いすがる裏拳を仰け反ってかわし、勢いに逆らわず、空いた片手を支えに後転する。
 只では退かぬと言わんばかりにそのつま先が空を薙ぎ、唸りを上げてアルクェイドのあご先を狙う。
 まともに食らうわけには行かないと、追撃を諦め一歩引いたアルクェイド。リタも勢いに逆らわず、そのままふわりと宙を舞い、彼女から距離を取る。
 アルクェイドの爪撃に巻き込まれていたか、リタのマントが千切れ舞い、虚空に白い花を咲かせていた。
「ひどいな、このマント気に入っていたのに」
 常人ならば三歩は要する間合い。リタは壁にもたれかかると、恨めしげにアルクェイドを見やり、くぐもった笑い声を上げた。
「……死徒がわたしに喧嘩を売る、その意味はわかっているのよね?」
「もちろん。たまには『処刑人』に牙剥く罪人がいたって良いだろう?」
 リタはすっと右手を引き上げ、剣を突きつける。その言動とは裏腹に、構えた姿には微塵の隙も無い。研ぎ澄まされた殺気が刃と化し、身を刺し貫く。アルクェイドは不快気に眉を顰めた。
「……どの程度の概念武装か知らないけれど。そんな物で夜のわたしを斬れるとでも思ってるの?」
「白翼公から借りてきた業物だからね。いくらキミ相手だって、斬る事位出来るとも」
 その言葉が耳に届くよりも早く。
 リタの体が揺らめく。
 同時であった。
 動いた、と認識したアルクェイドが飛び退る。
 斬光が彼女の居た場所を薙ぎ下ろす。
 物言わぬテーブルの残骸を踏み砕き、下がるアルクェイドに追いすがり、リタの振るう刃が薄闇に煌く。
 描く軌跡はまるで光の薔薇。秘めた棘の鋭さは、剣が掠るたび床に壁に穿たれる、溝の深さが物語る。
「あは、ははは! さすがさすが。あの騎士たち以外にこの太刀かわせるのなんか、アルトルージュくらいだと思っていたけど!」
「うるさいわねっ!」
 剣の華を振るいながら軽口を叩くリタの声が、殊更アルクェイドを苛立たせる。
 速度だけならば彼女に捉えられない速さではなかった。
 今まで彼女が処断してきた『魔王』の力も速さも、これを上回る。その爪は掠ればアルクェイドの腕ですら吹き飛ばし、縛る物無き力より生み出される空想具現化は、一つの村をも消し去るだけの暴力そのものである。
 だがそれを駆るために生み出された兵器こそがアルクェイド・ブリュンスタッド。只速いだけの、只力強きだけの者など、彼女は無数に葬り去ってきている。
 しかしリタの剣技は、今まで彼女が見てきたどの太刀筋とも異なっていた。
 速い剣閃と微妙に遅い斬撃を織り交ぜた攻撃。それを振るう体捌きもさることながら、巧妙に作り出された流れの緩急がアルクェイドに戸惑いを生み、流れを掴み損ねていた。
 『魔王』も多くの死徒たちも使わぬ『技術』を駆使した剣術。
 この瞬間、リタの技量が明らかにアルクェイドを圧しているようだった。
「はっ!」
 それでも、いつまでも押され続けてはいない。拍子を計り取ったアルクェイドが、空を裂く右手を振るう。
 狙いは剣。彼女にとって、その爪こそが比肩しうる物無い刃であり、生半の武器など細塵に変えてのける。
 リタは刃を振り下ろした直後。
 この一瞬のみ、動きは止まり零となる。爪撃から逃れるには身を崩すか、剣を手放すかの二択。無傷でかわす事など出来るわけも無い。
 その筈だった。
「まずは右手かなッ!」
 言葉と同時に、リタは床に倒れこむようにその身を捻る。流れに逆らわぬまま、しなる右腕で切り上げられた白刃が、打ち下ろされたアルクェイドの右手に伸びる――
「え……」
 右手に激痛がつき抜け、衝撃にアルクェイドの体が流れた。
 宙に舞う四本の白い指。一瞬遅れて吹き上げる朱い血潮。
 彼女の右手の指が、親指を残し根元から切り払われていた。
「くっ……」
 痛覚を噛み殺す。一瞬の間も置かず、とめどなく血のあふれ出る右手をアルクェイドは思考の外に追いやる。弾き飛ばされようとする体を、床を踏み抜くほどの力で支え止めると、そのまま床に倒れこんだリタに向かって左手を突きこんだ。
「――っ!」
 これにはリタが虚を突かれたか、床を転がり身を捻る。
 逃さんとばかりに白い砲弾が床に突き刺さり。
 石床を砕く爆音が、部屋に響き渡った。
 降り注ぐ破片に身を打たれながらも、荒い息をつき奥を見据えるアルクェイド。視線の先にはリタが、右のわき腹を押さえながら不敵な笑みを浮かべていた。
 自らの血潮に染め上げられた左手に目を落とし、恍惚とした表情でその指先を舐め取る。
「あは、掠っただけでごっそり持ってかれちゃったね。さすがアルクェイド・ブリュンスタッド。何もかもが規格外だ」
「……わたしの指を切り飛ばした挙句、復元まで阻害する。大した剣じゃない」
 未だ血の止まる様子も無い、指を失った右手を見やり、アルクェイドは忌々しげに呟いた。
「そりゃ、ね。キミ相手だもの、使えるものは全部使うつもりで来たさ」
「ふぅん、本気でわたしを殺すつもりできたんだ」
 すぅ、と。アルクェイドの目が細められる。彼女の周りの空気が、音を立てて凍り付いていくかのようだった。
 否、彼女がそれを願えば、幻想は形と成す。
 吐息を止め、無傷の左手を構える。それだけで世界は変容する。
「たかが十五位風情の祖が、わたしを殺すなどと言う。その妄言のお代は高くつくわよ、リタ・ロズィーアン」
「あは、あはははははははっ!」
 ただ在るだけで心弱き者の命を奪いかねない程の重圧。その中でリタは狂ったように笑い声を上げてのけていた。
「本当にっ! 本当に嫉妬するのもバカらしい位の力だよね! 正にこの世の全てがあなたにひれ伏しそうだ」
「……何が言いたいの」
「その力の出所も知らないくせに、バカみたいに使い続ける。その様が最高に滑稽だと言いたいのさ、お人形さん!」
 哄笑と同時にリタの姿が掻き消える。
 クローゼットの扉がはじけ飛ぶ。
 シャンデリアが軋み、悲鳴を上げる。
 切り刻まれ、踏み砕かれた調度の破片が舞い上がる。
 黒い影が、部屋を縦横に飛び交っていた。
 床も壁も天井も、リタにとっては大差が無い。足を踏み下ろせる場所さえあれば、是全て彼女にとって足場足りえる。その冗談のような身体能力が、立体の蜘蛛の巣となりアルクェイドを取り囲んでいた。
 アルクェイドは動かない。瞬きすらしない。右手の痛みは脳より切り離し、ただ左腕にのみ力を注ぐ。
 耳を研ぎ澄まし、肌に触れる空気の流れに気を配り、じっと待ち続ける。
 突き刺さり続ける殺気の中で、本物を探す。偽者の刃に身を崩すわけにはいかない。
 耽々と、その時を待ち続ける。
 疾風がアルクェイドの背に走った。白のセーターが大きく切り裂かれ、鮮血に染まる。
 右の上腕がぱっくりと裂かれ、宙に紅が舞う。それでもアルクェイドは動かない。
 殺意が薄い。虚撃に反応は敗北を招く。込められた殺意を読み取り、実の刃をのみ迎え撃つ。
 四方八方、上下左右の区別なく。絶え間なく鳴り続けるリタの踏み込み。音が響く毎にアルクェイドの体に朱の華が咲く。
 舞い踊る刃の舞踏に身を供し、彼女は時を見定めんとする。
 刹那、リタのリズムが変化を見せた。気を配らねば聞き落とす、わずかな強い踏み込み。
 吹き付ける殺気は変わらず、しかしアルクェイドは確信する。
 左腕に持てる力を注ぎ込む。刃が止まり、姿を見せた一瞬、その身を跡形もなく消し飛ばすために。
 見えぬ殺気が濃密な形を成して、アルクェイドに迫りくる。
 目の端に映る影に左手を振るう。空想するは空気の断層。触れた物全てを両断する不可視の刃。
「見切ったわよっ!」
 勝利を確信し、叫ぶアルクェイド。
 その言葉を撃鉄に、空想が現実(かたち)を成した。
 部屋がたわみ、虚空が爆ぜる。気圧の変化に耐え切れず、甲高い音を立てて部屋の硝子が割り砕ける。
 この距離でかわす事など出来よう筈もない。目に見えぬ大気の刃に巻き込まれたリタは、声すら出せず無数の断片に切り刻まれ消えていく――
「残念、ハズレだよお姫様」
 そんな場違いに明るい声が、アルクェイドの耳を打った。
 刹那、背に弾ける灼熱。声すら立てられず、彼女は無様に仰け反った。
 血に塗れた刃が、胸をつき抜け彼女の目の前まで飛び出している。
 寸毫のずれもなく、剣はアルクェイドの心臓を貫いていた。
 ただの鉄の塊であれば、貫かれた所で彼女にとってさほどの痛手ではない。しかしいかなる概念が込められていたのか、堪え切れぬ程の激痛が彼女の体を責め苛む。思念の毒が、備わっている筈の復元を阻害し、世界より汲み干す力に楔を打ち込んでいた。
「リ……タ……っ!」
 競りあがってきた血の塊を吐き出しながら、アルクェイドはよろよろと振り向こうとする。
「キミほどの力の持ち主になれば、敵を捉える場合目より感覚に頼りがちだよね。相手が速ければ速いほど、目以外の感覚が重要になってくるもの」
「そ、んな、確かにあの気配は……」
 愛しい娘を抱きとめるかのように、アルクェイドの背にその身を寄せるリタ。
 喉元に寄せた唇から、熱の篭った言葉を吐き出していた。血にまみれた胸に右手を這わして、服越しにねっとりと揉みしだいてみせる。おぞましさが虫のようにアルクェイドの背を這い回った。
「確かに気配のない残像だけだったらバレバレだけどね。それが落とし穴ってやつでさ。ボクは気配と実像を分離できるんだ。一対一ならば、早々見切れるものじゃないと思うよ」
 愉悦に歪んだ表情で、リタは右手で刃を掴み、そのままひねり上げた。
「がぁ、ぁあああああっ!」
 呼吸が止まりそうなほどの激痛がアルクェイドの体を走る。しかし膝を付くことすらも許されない。
「もっともキミがあくまで体術で渡り合ってくるなら……こんな隙は突けなかったと思うけど、ね」
 彼女を抱きしめたままリタは床を蹴った。一瞬の浮遊の後、未だ形を保っていたベッドにアルクェイドが叩きつけられる。
 胸に突き刺されたままの剣によって、アルクェイドはうつ伏せにベッドに縫いとめられる。リタはその腰に座り込み、肩口を両の足で押さえつけた。
「こ……のッ……」
 飛びそうな意識を激痛で引き戻され、アルクェイドは歯噛みする。溢れた血で染まった口元が、殊更凄惨さを煽り立てていた。
 しかしいかな膂力を発揮しようと、到底覆す事の出来ぬ体勢。こらえきれぬ喜びを笑い声に変えて、リタは無様な姿を晒す獲物を見下ろしていた。
 その左腕は肩の先から失われており、とめどなく流れ出す血がシーツを朱に染め上げていく。その痛みもそしらぬように、リタは自らの傷口に右手を這わせて、流れ出る血潮を舐め上げた。
「脇腹ふさがったと思ったら、今度は左腕かぁ。直りも遅いし、すんごく痛いよ。まぁでも、真祖の姫君相手に腕一本でこの結果なら、上等も上等だよね……っと」
「がっ、ああああああっ!」
 リタは剣の柄に手をかけ、抉りこむ。その度にアルクェイドから漏れる悲鳴に恍惚とした表情を浮かべた。
「この状況で空想具現化は勘弁して欲しいな。主賓が来るまで、大人しくボクの話を聞いていてくれよ」
 ピン止めした虫を玩ぶような、昏い愉悦の笑い声。身を苛む痛みよりその屈辱こそが、アルクェイドを責め苛んでいた。
 彼女のその感情こそが最高の美酒とばかりに、リタは嘲笑う。
「あは、懐かしいな。こんなベッドでボクとアルトルージュは愛し合ったんだったっけ」
 溢れる血に濡れたアルクェイドのセーターを捲り上げて、滑らかな肌を撫で下ろす。そのまま腹ばいに彼女の上に圧し掛かり、その耳を甘噛んで見せた。その感触に怖気が走り、アルクェイドは身をよじって逃れようとするが、胸を貫かれた状態ではそれもままならない。
「こうやって組み敷かれてさ。いくらボクが許しを請うても彼女は離してくれないんだ。一晩中、何度イカされたのか覚えてないくらいに」
「何、で……あんたと姉さんがっ!」
「何でって、ボクは昔アルトルージュの部下だったからね。それにあの頃のアルトルージュはひどく淫蕩だったんだよ。もう、男も女も見境なし。目に付く綺麗どころは片端から、って感じ」
「嘘、よ……」
「その嘘はどっちの意味かな? ボクが彼女の部下だった事? それとも彼女が色に狂っていた事?」
 くっく、と耳障りな笑い声を立てる。もちろん、リタは囁きをやめる事はない。何者にも侵されえぬ真祖の姫を組み敷く愉悦と、何も知らぬ白い女をどす黒く染め上げていく野卑な快楽は、一度味わったら容易に手放せるものではないのだから。
「キミは何も知らないだろう? アルトルージュがどれほどキミを想っていたかも。そのためにどれだけの物を犠牲にしてきたかも何も知らなかったくせに。誰を抱いても、誰に抱かれてもその目は相手を見ていなかった。彼女の目は唯一つ、愛しい妹殿にのみ向けられて。決して報われない愛を抱えた彼女にとって、他の全ては代用品なんだ。なのにキミは何も知らない。何も知らないくせにあの人の愛を一身に集めているなんて、どれだけ贅沢者なのかなぁ!」
 膨れ上がった感情の波に任せるまま、リタは既に柄まで埋まった剣を抉りこむ。
 心臓を貫かれたまま、肉を抉られる。耐え難い程の痛みに、アルクェイドは掠れた悲鳴を漏らした。
 確かにアルクェイドは心臓を貫かれた程度で命を失う存在ではない。しかし常に貫かれ続けたまま、傷口を抉られ込められた呪いの概念に内より苛まれる。いかに彼女と言えど、意識が薄らいでいくのは止め様が無かった。
 その様を満足げに見やったリタの口調に、ますます熱が篭っていく。
「大体、キミは考えた事があるのかい。アカシャの蛇の血を吸って、城に住まう真祖を皆殺しにして。本当ならば血に狂う魔王と化していた筈なのに。何でこうして平然としていられるのか」
 しかしそれでも、その言葉は聞き逃す事が出来なかった。
 薄らぐ彼女の意識が繋がり、リタの言葉を思い計る。
 かつて暴走した時、それを止めた一人がアルトルージュだと言う記憶は残っている。しかし自分がどうやって正気を取り戻したのか、それがアルクェイドの記憶には存在していなかった。
 アルトルージュが何かをしたのは確実であっても、それが何かが分からない。彼女自身もそれを語る事はなかったのだから。
「それ、は……」
 消え入りそうな口調で呟く事しか出来ないアルクェイドに、リタは残酷な微笑を浮かべて告げた。
「答えはとても簡単。吸血衝動を押さえ込むため、足りない分を補う力を、アルトルージュはキミに送り込んでいる。自分の力を削って、何も知らない妹を支え続けているんだ」
「なん……ですって」
「君はただ在るだけで姉の力を食いつぶしてる。口で「大事な姉さん」と囀りつつも、考え無しに力を振るって、よくもまあ言えた物だよね」
 アルクェイドが今少し他人の感情の機微に聡ければ、リタの言葉の裏に秘められたアルトルージュへの感情に気付く事が出来たかもしれない。しかし傷の痛みと告げられた言葉の重さに打ちのめされ、効果的な言葉も理性的な考えも浮かんでこなかった。
 嘘だ、と。切って捨てられればどれだけ楽であったろうか。しかしそれを否定する材料は無かった。そしてアルトルージュならば、それを成しえる力を持っているのは事実だった。
「嘘よ、そんな事、信じられない……」
 否定したい感情と、否定できない理性がない交ぜとなっている。うわ言のように呟き続けるアルクェイドに、耳を寄せてリタは囁いた。
「疑り深いね。それだったらさ、本人に聞いてみるといいさ……」
「アルクェイド!」
 リタの言葉は、凛と響く声に遮られた。







 白い巨影がベッドに踊りこみ、リタが音も無く飛び退る。一足で窓にまで飛び移る身のこなしは、腕一本を失っているとはとても思えないものであった。
 唸りを上げる巨狼。それを追うように飛び込んできたアルトルージュは、妹の姿を見て血の気を失う。
「アルクェイド! しっかりしなさい、アルクェイド!」
「ねえ、さん……?」
 薄く、切れ切れの息で呟く妹の姿に、アルトルージュはひとまず安堵の溜息をついた。そのまま怒りに染まった瞳で、リタを睨みつける。
「……随分と面白い真似をしてくれたみたいね、リタ・ロズィーアン!」
「あは、もう少し時間掛かるかと思ったけど。思ったより早かったね」
「戯言はいいわ。この不始末はあなたの首で償ってもらう。トラフィムへの手土産にしてあげるから、楽しみにしていなさい」
「それは構わないけどね。ボクも君と心ゆくまで遊びたいし。だけどさ、彼女に刺さってる剣って白翼公のとっておきなんだ。あんまり放っておくと、ひょっとしたら真祖の姫でもまずいかもしれないよ?」
「――!」
 その言葉に、アルトルージュは思わず妹の方に振り返ってしまった。
 瞬間、何の迷いもなくリタは、バルコニーの外に身を投げ出していた。
「それじゃ、また会おうね、アルトルージュ」
 明日どこかで待ち合わせを。そう言わんばかりの気軽な口調。
 逃さんとばかりに飛び掛ったプライミッツ・マーダーの爪は空を切り、石造りの柵を砕くに留まる。
「プライミッツ・マーダー! 追いなさい!」
 アルトルージュの声に従い、巨狼もまた虚空に身を躍らせる。
 それを見届けたアルトルージュは直ぐにアルクェイドに視線を戻す。改めて目の前に突きつけられた妹の無残な姿は、彼女から言葉を奪ってしまった。
 背から貫く禍々しいきらめきを放つ剣。とめどなく流れる血で、ベッドは中ほどまで朱に染まっている。つややかな金髪も、その白い肌も血に塗れ、つい数時間前まで元気な姿を見せていた相手とはとても信じられたなかった。しかも未だに傷口からは血が溢れ続け、ふさがる気配を見せようとはしない。
 夜の真祖にこれだけの傷を負わせたリタに慄然とする。しかし今はアルクェイドの容態が第一であった。
「待ってて、すぐに助けてあげるから……」
 かろうじて喉の奥から搾り出したような、かすれた声でアルトルージュは呟く。
 埋め込まれた剣の柄に手を掛け、慎重に引き抜いていく。細い苦痛の吐息を漏らす妹の姿に唇を噛み締めながら、これ以上体を傷つけないように、その手に細心の注意をこめる。
「ねえさん……」
「喋っちゃだめ! じっとしてなさい!」
 苦痛に身を捩るアルクェイドを叱り付け、アルトルージュはようやく剣を引き抜いた。途端、栓を抜かれた噴水のように吹き出した血が、彼女の体に降り注いだ。
 少しでも流れ出る血を止めようと、アルトルージュはその傷口に自らの手を押し当てる。ドレスも顔も朱に塗れるが、それに些かの厭いも見せず、そのままアルクェイドに寄り添い覆いかぶさった。
 それは奇しくも先ほどのリタと同じ体勢だったが、包む空気はまるで違っていた。
「かはっ、ぁあ……」
「大丈夫、もう大丈夫。直ぐに傷は塞がるから」
 咳き込むアルクェイドの頭を、空いた手でそっと撫で下ろしアルトルージュは微笑む。しかしその顔は直ぐに不安の色に押しつぶされてしまう。
 自分とアルクェイドの間に直接の繋がりが無いことに、彼女はもどかしさを覚えていた。
 アルクェイドを血の猛りから引き戻した時、結んだ契約。それは本来自分に供給されるべき力を彼女に回すという物。力の流れを直接彼女に気取られる事はなくても、このような時に無制限に注ぎ込む事もまた出来ない。
 このような時に出来るのは、せいぜい側に寄り添う事くらい。
 それでも、腕の中の妹の呼吸が徐々に落ち着きを取り戻しつつあるのが伝わってきて、アルトルージュは胸を撫で下ろした。
 と、その耳がかすかに紡がれた言葉を捉えた。
「姉さん……嘘よね、姉さん……」
 寝息に混じり、うわ言のように呟かれるその言葉に、アルトルージュの顔に陰が落ちる。
 自分がここにたどり着く前、アルクェイドはリタに何を聞かされたのか。
 それはおそらく、この繋がりの事。アルクェイドを支えている事実に相違あるまい。
 出来る事ならずっと気付かれたくなかった秘め事を、最悪の相手に最悪の時に公開されてしまった。暗澹たる予想に目の前が暗くなる。
 それでも、手に伝わってくる温もりと鼓動が、アルクェイドの無事を確かに伝えてくれていた。
 今は、いい。今は彼女が無事だったのならばそれで良い。
「……少しお休みなさい、アルクェイド」
 安堵に満ちた声で、アルトルージュはそっと呟いた。



続く