穏やかな寝息を立てるアルクェイドに寄り添い、その目を閉じる。
 まどろみの中、アルトルージュの脳裏に浮かぶのは、初めて見た妹の姿であった。
 かつての自分と同じ場所で、じっと佇んでいる。
 天に最も近き場所。手を伸ばせば届きそうなほど、大きく輝く蒼い月。
 地上の子らを見守るように降り注ぐ淡い光の下、白き花園が見渡す限り広がっていた。
 風に花びらが舞い上がり、白き流れが虚空を彩る。
 その中に、彼女は佇んでいた――


 死徒の姫。最後のブリュンスタッド。
 それがアルトルージュに与えられた呼び名であった。
 紛れも無い王の娘でありながら、望む力を持たぬが故に欠陥品と蔑まれた。
 彼女を生んだ月の王(ブリュンスタッド)が倒れた後、紛れも無い王の継嗣でありながら真祖として千年城へ残る事など許されなかった。もっとも、許されたとて彼女自身がそれを望まなかったであろう。
 生まれし土地よりの追放。それは同時に、彼女が無形の頚木より逃れたという事に他ならなかった。
 人の世は移り変わり、そして人の世の闇もまた移ろう。
 王が倒れ真祖の威光は絶えて久しく、彼らの元を離れた二十七の死徒が群雄割拠している時代。アルトルージュもまたその一人として、与えられた名と自らの力にて、沈まぬ権勢を手にしていたのは必然とも言えるだろう。
 ――彼女が千年城を後にして、六百年ほど経った頃だった。
 舞い込んだ一通の知らせに、耳を疑った。性質の悪い冗談だと一笑に伏そうとした。
 しかし切り捨てるにはその内容は剣呑であり、確かめずには居られぬだけの言霊を秘めていた。
 新たなブリュンスタッドが生まれたという。それも女性体。
 月の王が万華鏡の魔道翁によって倒されてより六百年。もはや真祖が生まれること自体稀であり、まして生まれた真祖がブリュンスタッドを名乗るに足る力を得たなど、彼女は聞いた事がなかった。
 ブリュンスタッドは失われるべき名であり、唯一自分がその残滓を抱えて在り続けるのみ。そう思っていたのに。ただ一つ身に残された存在意義すら失われるというのか。
 その身を突き動かしたのは、焦燥か、それとも怒りであったのか。
 身支度も根回しもそこそこに、アルトルージュは千年城に向かっていた。
 出迎える真祖の侮蔑も、死徒の畏怖も一顧だにせず、玉座の間の扉を開け放つ。
 この城で最後に彼女の記憶に残っていたのは、原形を止めぬほど荒れ朽ち果てた玉座。王の死を何よりも色濃く表していたその場所は、しかし今は本来の姿を取り戻していた。
 王を失い死を迎えていた千年城が、新たな息吹を取り戻した証であろう。つまりは知らせが事実であったという事。
 だが、玉座に在るべき姿は無い。
「……新しい王は何処に居られるのかしら」
 アルトルージュは、傍らの死徒に静かに問いかけた。それは嵐が巻き起こる前の静けさを思い起こさせる。瞳に秘めた光は、回りくどい答えに対する結果を如実に物語っていた。
 求められぬ答えを返した場合の未来を幻視したか、隠せぬ恐怖に身をすくませた死徒は、回らぬ呂律で言葉を返す。
「あ、アルクェイド様は、城の外の庭園に……」
 アルクェイド。それが新しきブリュンスタッドの名前か。
 答えを得れば、もはや彼の存在など塵芥に等しい。一顧だにせずアルトルージュは身を翻していた。
 求める相手があの場所にいる。
 かつての自分も、暗き地下よりそこに連れ出された。黒騎士の手に引かれて見せられた光景は、世界に対して抱いていた価値観をひっくり返すほど、眩しく美しいものであった。
 回廊を抜け、巨大な門を開けて。
 一陣の風と共に目の前に白が広がる。
 咲き乱れる白い花。
 天には大きく輝く、玻璃細工のような月。
 夜の闇を退け地上を柔らかく照らし出す光を受けて、銀の水面のように輝く地平。
 そこに、彼女が佇んでいた。
 月の光で織り上げたような、艶やかに光り輝く髪。
 たおやかに伸びきった手足を、白と群青のドレスに包んでいる。
 父の面影を宿した、非の打ちようの無い顔立ち。
 目を伏せ、緩やかに身の前で手を重ね合わせて。
 彼女は静かに、そこに佇んでいた。
「あなたが、アルクェイドね」
 呼びかけるアルトルージュの声を遮るかのように、一際強い風が花弁を舞い上げていく。アルクェイドの髪が風に弄られ、ゆるく波打つ。
 しかしその光景にも、自らを呼ぶ声にも気付く事無く。
 アルクェイドは静かに、佇んでいた。
 まるで、発条の切れた人形のように。
 許せない。
 唐突に浮かんだ感情にアルトルージュは困惑した。
 何故許せないのか。誰を許せないのか。そんな物は決まっている。
 これだけ美しい世界にいるのに。
 初めて自分が美しいと思った世界。それと同じ場所にいるのに。彼女はそれを知ることが出来ない。
 世界の素晴らしさを知ることが出来ぬまま、世界のために動かされ続けている。月の王の後継と言う名をはめ込まれた、自動人形。与えられたアルクェイドの名は、しかし誰にも望まれることも使われる事もなく、いずれは消えうせていく。
 この怒りは哀れみから来るものなのだろうか。
 かつて道具として扱われた者が、今道具として扱われている者に対する、ただの憐憫の投影なのだろうか。
 わからない。それは自分にも判別がつかない。
 困惑した感情を抱えたまま、花園を掻き分け、アルトルージュは彼女に近づいていく。
 一歩一歩。足を踏み出すごとに、少女の殻を脱ぎ捨てていく。向かい合った時にはそれが自然であるかのように、アルトルージュは元の体を取り戻していた。
 月の光を飲み込む程の、艶やかな黒い髪。
 心もちアルクェイドより高くしなやかに伸びた肢体。幽玄の気をまとうその身を包むドレスは漆黒。鏡合わせのように向かい合う二人は、しかしその表情だけが異なっていた。
 憂いに満ちたアルトルージュ。その瞳に写るアルクェイドの顔には、いかなる表情も浮かんでいない。表情を形作る感情を抱いていないのだから、作りようが無い。
 その頬に、彼女はそっと手を這わせる。かすかに伝わる温もりに、目を細めた。
 生きている。アルクェイドはここに在る。
 人形ではない、一人の真祖としてここに在るのだ。
 揺らいだ感情の流れが正しい出口を見つけて。アルトルージュの顔に柔らかな微笑が浮かんだ。
 憐憫ではない。これは愛情と呼ばれるものだ。
 姉が妹に対して浮かべる物。肉親が抱く、自然な愛情なのだろう。
 ならば自分が何を成すべきかなど決まっている。
 他の全てが彼女を道具として扱うのならば、自分は彼女を妹として支えよう。例えその事が彼女に伝わらなくても。姉として、彼女を支えてみせよう。
 真祖の道具でも、亡き()の道具でもない。
 彼女はアルクェイド・ブリュンスタッド。世界でただ一人の、自分の妹なのだ。
 頬に這わせた手を伸ばして背に回す。アルトルージュはそのままそっと、アルクェイドを自らの元に引き寄せた。
 自分はもはや最後のブリュンスタッドではなくなった。その意義など、このぬくもりの前では塵芥に等しい。自らを縛りつけ続けた鎖の重さが、溶け消えていくようだった。
 どれだけの時をそうしていたのか。
 柔らかな抱擁にも、最後までアルクェイドは反応を返す事は無かった。
「……必ずあなたにも教えてあげる。この世界がどれだけ美しいのか」
 名残惜しげに囁く。そのまま抱きしめていた腕を振り解いたアルトルージュは、踵を返した。
 ドレスの裾が舞い上がる。それを追うように花々が命を散らし、その名残を舞い上げる。
「必ず、あなたをその牢獄から救い出してみせる」
 アルトルージュの呟きは風に流れ、しかしアルクェイドの耳に届く事無く消えていった。



−8−





 豪奢な意匠が施された玉座に身を沈め、肩肘を着いてその瞳を閉じている。
 闇に浮かび上がる白き衣には一点の曇りも無く、身より放たれる空気が、前に立つ者に屈服と服従を強いる。
 居並ぶ数多の騎士たちは剣を掲げ、身じろぎすらせず。忠誠を形と成して列を作っていた。
 かの者こそ白翼公。死徒の最大派閥を束ねる王。誉れしその名はトラフィム・オーテンロッゼ。
 無数の死徒を配下に置き、世界の闇に隠然たる影響を及ぼし続ける闇の王は、遥か前からその玉座の上にあり、そして遥か先までそこにい続けることだろう。
 王は在るだけで王であり、そしてこれからも王であり続ける。言葉は要らず、ただその身を以って彼は語っているようだった。
 その中にあってただ一人、リタだけが普段と変わらぬ軽やかな足取りで、敷き詰められた絨毯の上を滑るように進みゆく。変わらぬ男装。しかし黒き軍装に押し込められた肢体は熟れ落ちる果実のような、毒々しい程の色気を放っている。
 両端から突きつけられる無数の針のような視線にも、彼女は些かの痛痒も覚える事はなかった。
 覚えるわけはない。
 彼らがどれだけ長く在ろうと。その腕を気の遠くなる鍛錬で磨き上げようと。ここでこうして王の威光に付き従っている限り、二十七の至高へと届くわけなどないのだから。
 広間の奥に備え付けられた階の上から、冷めた視線で見下ろす男に向かって、シルクハットを胸に抱いたリタは慇懃に礼をとる。
「ただ今帰りましたよ、王様」
「ご苦労……と、言いたい所だが。些か遊びが過ぎたようだな、リタ」
 けして声高になる事のない、ただ確認するような声色。それだけで、居並ぶ騎士たちの間に緊張が走りぬける。
 しかしリタは意に介した風もなく、口元に手を当て澄んだ笑い声を上げた。
「あはは、ボクの仕事のやり方は知っての通りでしょう? それを見越して頼んできたんだからさ、それくらい大目に見てほしいな」
 悪びれる様子もなく肩を揺らすその態度に、周囲がざわめきたった。自らの王を前にこれほどまでの倣岸な態度を取った者など彼らは知らない。
 怒りが連鎖し広間を覆いつくす。渦を巻く怨嗟の中、一人の騎士が耐えかねたように声を上げた。
「無礼なッ! 陛下の御前で!」
「ふーん、そう?」
 声の方角へ首を回したリタは、自らを非難した騎士へ、冷めた視線を送る。
 威勢の良い事だ。その威勢が最後まで続くのであれば、一目くらいは置いても良いのかもしれない。
「キミは誰だっけ……ああ、まあいいか。所詮十把一絡げの道具に興味なんかないし」
「きさ……」
 掲げた剣を突きつけようとした騎士の動きが止まる。
 リタは何もしていない。ただ、ひどく冷めた視線で男を射抜いただけ。
「う……あぁぁ……ぁ」
 それだけで、男の体は彫像のように凍りつく。
 ただの視線に心臓を握りつぶされるような重圧を感じて、男の体は小刻みに震える。
 その様を見やり、彼女は嘆息した。
 情け無い話だ。この程度の威圧でひるむようなら、そもそも突っかかってこなければいい。つい昨日のやり取りのような、楽しみの欠片も感じられない。
 使えない駒。そこに在るだけで目障りなほどに。
 遊戯板の上に乗っているだけで、他の駒の動きの邪魔になる。
「さ、教えて欲しいな。ボクがどう無礼で、その罰にどんな目にあわされるのか、さ」
「……やめぬか。興が殺がれる。道化を名乗るならば観客を失望させるな」
 玉座より降る倦んだ声に、リタは振り返り相好を崩した。彼女の視線より開放された騎士が、派手な音と共に糸の切れた操り人形のようにくず折れたが、もはや彼女にとって興味の欠片すらない。
「これは失礼。だけど近衛の選定はもう少し基準引き上げても良いんじゃない?」
「ふむ、検討すべき課題ではあるな……だが今はどうでもいい」
 その言葉と共にトラフィムの瞳が開かれた。
 吸い込まれそうなほど鮮やかな朱い瞳。それが眼下を一瞥するだけで、広間の中の空気が変わる。
 回りの騎士たちとは違う、真に魂を揺さぶるような視線の槍。射抜かれた騎士たちは頭をたれ、そしてリタは歓喜に戦慄いていた。
 この眼こそ王の証。
 まつろう者に絶対の忠誠を、まつろわぬ者に絶望と恐怖を。
 彼の身に備わった、呪いめいたカリスマ。彼を王たらしめる力。
 その力あればこそ。そしてその力に振り回されぬ男ゆえに、リタはトラフィムに力を貸している。その程度の力を自在に操らずして自分を使おうとするなど、片腹痛い話である。
「与えた剣を捨ててきてまで、無駄な遊びをしてきた真意を聞かせてもらおうか、リタ」
「何の事? ボクは万事つつがなくお勤め果たしてきたつもりなんだけどさ」
 平然と嘯くリタに、トラフィムは口元に薄い微笑を浮かべた。それを見た騎士たちの間にざわめきが起こる。
 形だけの冷たい笑み。秘めた怒気が形を成して広間を覆いつくしていくようであった。
「斥候たちから情報は入っておる。巧妙に隠してはおったがな。あの小娘の城、蜂の巣を突付いたような騒ぎだそうだな。挙句貸し与えた剣も置いてきおって」
 薄ら寒さを覚えるほどの冷たい微笑を目にしても、リタの態度は崩れない。
 王に対する紛れも無い不遜。
 しかしそれが認められるだけの力を、彼女もまた有しているのだ。
「あー、ひょっとして筒抜け? やだな王様ったら人が悪い」
 リタの口元が優美な弧を描く。知らぬものならばそれだけで心奪われそうなたおやかな笑顔であった。
「あれは念には念を入れた、と言うか駄目押しと言うか。あれだけやっておけば、怒りに我を忘れたアルトルージュが待ち合わせ場所にかっ飛んでくるでしょう? さぞかし実り多い話し合いが出来ると思うんだけど?」
「ぬけぬけと言ったものよな」
 もちろんその笑みに謀られる訳もなく。トラフィムの冷えた声が広間に響き渡る。
「お前自身がそれだけの手傷を負わされて、駄目押しも何もあるまい。預けた魔剣の対価に、その理由くらいは語って聞かせるのが筋であろう」
「どうせレプリカの癖に吝嗇だなぁ、王様」
 不満げに口を尖らせるリタだったが、心の内には少なくない感嘆と驚きを覚えていた。
 揶揄された『無駄な遊び』である所の、アルクェイドとの戦い。
 リタは脇を抉られ、左腕を失った。しかしその傷自体は既に復元し、今の彼女の肢体は普段といささかも変わるところは無い。
 もっともそれは見た目だけの話で、実際の所彼女はひどく消耗していた。
 アルクェイドと一戦を交えた体で、プライミッツ・マーダーを始めとするアルトルージュの執拗な追手から身を晦ませたのだ。身をすり減らさない方がおかしい。
 しかしいざ王の眼前に立っている今、リタはいささかもその衰えを見せているつもりはなかった。現に他の誰も彼女の体調に気づいている様子は無い。
 それを、一目で看破された。
 ――さすが王様だ、って、褒めるべきなのかなぁ。
 悪魔じみた洞察に舌を巻く。しかし驚かされているばかりでは彼女の沽券に関わる。
 リタとしては軽口を叩いてやるくらいの悪戯心は見せておきたかった
「まぁ、無くしちゃった物は仕方ないじゃないか。大目に見て欲しいな」
「あれはあれで貴重な物だ。少なくとも時計塔や教会の連中が眼の色を変える程度にはな」
「あれま、それは悪い事をしちゃったかな。それじゃ仕方ない、乙女の秘密だけどそっと打ち明けることにいたしましょうか?」
 さらりと口にしたリタは、そのまま軽やかに歩みを進めた。
 一歩、二歩。王以外が上ることを許されぬ階に、何のためらいもなく足を踏み入れていく。
 一瞬の沈黙。
 そして巻き上がる喧騒と怒号。王の気に押され沈黙していた騎士たちが、目の前の不遜に色めきたつ。
「リタ殿っ! 歩みを止められよ。そこは陛下のみが足を踏み入れられる場所ですぞ!」
 騎士たちを束ねる、年嵩の外見の死徒が、怒りに顔を紅潮させて近寄ってくる。慌てふためくその様にリタは笑いを浮かべて振り向いた。
「ふふふ、だってこれは乙女の秘密だし。キミらにも聞こえるような大声で話したくなんかないもの。内緒話は耳打ちが基本でしょ?」
「戯言をっ! その行動、不遜の極みですぞ!」
 不遜の極み。
 投げかけられたその言葉にリタは足を止めた。
 全く、どちらがだか。
 彼女の口元に残酷な笑みが浮かぶ。
 永遠に王に侍りおもねる事しか出来ぬ彼らと、望む事を望むように成すだけの力と意思を持つ二十七の内の一。互いにどれだけの絶望的な開きがあるのか、もう一度知らしめておくのも悪くないだろう。
「うん、よくも言ったものだね。キミ忘れてるかもしれないけど……ボクも祖なんだよ?」
 彼女の瞳の朱が輝きを増した。
 王の眼前であろうとも、彼が王の配下であろうとも、リタには逡巡も畏怖もない。
 自らに劣る、興味を引けない駒の処遇など、決まっていた。
 優美とも言える身のこなしで、彼女は振り向く。彼との距離は十メートルに満たない。
「止めよ」
 それを押しとどめるように、トラフィムの声が響き渡る。
「構わぬ……望むならば傍に来るがいい、リタ」
「陛下!」
「よい……お前たちは散会せよ」
 王の号令が響き渡る。なおも食い下がろうとする騎士も、その一言には逆らえおう筈も無い。畏怖と緊張、そして内に篭った憤怒に包まれていた騎士たちは、しかし無言で広間を後にする。
 憎々しげに睨み付ける隊長に向かって、リタはひらひらと手をふって見せた。それに鼻白んだか、彼は歯噛みして広間を後にする。それを先頭に、軍靴が床を踏みしめる甲高い音が、まるで行進曲のように整然に響き渡った。
 やがて静寂を取り戻した広間を包む、涼やかな笑い声。
 哀れな騎士たちの退場を笑顔で見届けたリタは、ゆっくりと玉座の傍らまで歩み寄り、トラフィムの肩にその身をもたれかけさせた。
「王様ッたら意外と優しいんだね。せっかく要らない玩具の兵隊、入れ替えでもしようかと思ったのにさ」
「そう悪し様に言うな。そつなく、教え込んだとおりの命はこなせるのだ。お前よりよほど使い勝手がいい」
「うーん、手厳しいね。王様ったらご機嫌斜め?」
「……そう思うならば、道化の本分を果たしたらどうだ、リタ」
「ん、それじゃそうしようかな」
 リタがトラフィムの耳元に口を寄せて、囁きかける。艶のこもった響きは、まるで聞く者全ての心をも蕩かし堕落させる呪が篭っているようだった。
「真意も何もさ。単にさ、好きな子に意地悪したくなっただけだよ。ボクはアルトルージュの事が好きで好きでたまらない。眼の中に入れても眼の中に入れられても痛くないくらいに可愛い可愛いお姫様だもの。その全てを僕のものにしたいし、そうじゃなきゃ気がすまない。他の誰にも譲れない、彼女の指先一本だってボクのものだ。そのために出来ることは何でもするつもりだったから、今回もその種まき種まきってわけ。ああ、それと――」
 リタのすっと目が細められる。唇がトラフィムの耳に触れんばかりに寄せられる。
「貴方と一緒でさ。アルクェイド・ブリュンスタッドの事が大嫌いなんだ。実際に会ってみて、更に嫌いになった。もうどうしようもないくらいに」
 その言葉に。
 トラフィムは心底楽しそうな笑顔を浮かべて見せた。
「ほう、それはそれは。なんともお前らしい答えだな」
「そう?」
「そんな理由であの真祖の姫に喧嘩を売る者など、世の中広しと言えどもそうはおるまいよ」
 トラフィムは不躾に顔を寄せてくるリタに顔を向けた。
 黒に身を包んだ男装の麗人と、その花を愛でる白き王。その距離は息が触れ合わんばかり。匂い立つ香りは艶の篭った蘭のそれであるかのようだった。
 穢れ無い白き皮手袋に包まれた指が、そっとリタの顎筋をなで上げる。そのまま摘みあげ、引き寄せれば唇が触れ合いそうな間合いで、トラフィムは口元をゆがめた。
「協力は感謝しよう。お前の力無くば計画は立ち行かぬゆえな。しかし自重は覚えよ。どれだけ精巧に書き上げられた絵画も、ほんの筆先の誤り一つで堕ち果てるのだからな」
 リタの眉が顰められた。
 音も無く手袋を突き破ったトラフィムの爪が、リタの顎先につき立てられる。染み一つ無い白磁の肌に朱い雫が膨れ上がり、彼の指先を染め上げていった。
「ひどいな、痕が残ったらどうしてくれるのかな」
 言葉とは裏腹に、流れ出る血は直ぐに塞がる。そこには筋一つ残っていない。しかし悪戯めいた笑みをそのままに、トラフィムの指に自らの指を絡めた彼女はそっと舌を伸ばした。彼の指を染める自らの血を、ゆっくりと舐めあげる。
 丹念に、それが愛の証だといわんばかりの技巧を以って。
「すごいよね」
 とろんと、情欲に潤んだ瞳で彼女は王の姿を見つめる。
「これだけ側にいても、これだけ触れ合っていてもボクにはあなたの心が覗けない。その一点だけでも、あなたに協力する価値があろうというものさ」
「――私からも問おう」
 彼女の痴態にも眉一つ動かさず、トラフィムは呟いた。
「アルクェイド。そしてアルトルージュ。あの汚らわしき二人のブリュンスタッドに、何故拘泥する、リタよ」
「……どういう意味?」
「お前の重ねた年月は未だ五百にも満たぬ。ブリュンスタッドへの憎しみなどその身に刻まれてはおるまいに。あの小娘を求めるならば、その元にいればよかっただけの話だ。私の元に来る必要など無かったであろう?」
 その言葉に、リタの蠢く舌先が止まった。身の内に秘める熱に溶けた目の光が、焦点を取り戻している。
「……覗き込めたのは一度だけなんだけどね。アルトルージュの心って、とても綺麗なんだよ。刻一刻と形を変える様はまるで万華鏡のようで。でも、その中心に変わらずあるのがアルクェイド・ブリュンスタッドへの思慕なんだ。信じられるかい? あれだけの力を秘めた死徒の姫君が、変わらず胸に秘め続けるのが妹への親愛だなんて。挙句、肝心の妹様はその想いの重さに気付いていない。ボクがどれだけ望んでも手に入らない物を、彼女は手に入れてる事に気付いていないだなんて……こんな、こんな理不尽はありえないよね」
 人をあざ笑うような笑顔が抜け落ち、リタの顔にはまぎれも無い一つの感情が浮かんでいた。
 憎悪が炎と化し、身を焼き上げるのを感じる。
 ぶつけずにはいられない。ただ己が身が焼かれるだけなど理不尽極まる。あの白い人形にも、この煉獄の劫火に焼かれてもらわなければ気がすまない。
 内に落ちていくリタの思考が、くぐもった笑い声で引き戻される。
 自分を傅かせている王が、空いた手で顎鬚を玩びながら笑っていた。
「……ひどいなぁ、笑うだなんて。せっかく王様に求められたから、哀れな乙女が恥ずかしさに打ち震えながら秘密を打ち明けたのにさ」
「笑わずにはいられまい。数百年打ち続けていた遊戯板の局面が、そんな理由で引っ掻き回されるのだからな」
 道化の顔を取り戻した彼女に向かって、王の顔でトラフィムは笑う。そのまま彼女が玩んでいた手を引っ込め、その腰に回していた。
「本当ならばお前のはた迷惑な遊びの代償に、その首を貰い受けるところだがな」
「あははは、偉大なる王様、この哀れな道化めにお慈悲を……ぁはぁっ!」
 己が体が引き寄せられるのに任せて、リタは艶然と微笑む。腰を滑り落ち、薄いスーツの生地ごしに尻の谷間を這い回る指の動きにあわせて、彼女の口から吐息が漏れ落ちた。
「ナルバレックめへの交渉は良くやってくれた。それで差し引きは零と言う事にしておこう」
 スーツを押し上げる胸を揉みしだく指の動きは、リタにとってすら熟達の物。絶え間なく生み出される快楽の波が染み渡るたびに、彼女は艶の篭った叫び声を上げる。
「はぁっ! ……ああ、なるほど……ぁふぅ……今宵は道化でもあわれな罪人でもなく、娼婦をご所望ですか?」
「怒り狂った小娘の相手をする羽目になった代償だ。心して勤め上げてもらおうか」
「あは、あはははは! そう、いう事だったら……誠心誠意ご奉仕させていただきますよ、ゴシュジンサマ」
 それに応える様にリタはトラフィムの頭に腕を回して、自らの体を擦り付けていく。
 無言のまま響く衣擦れの音が、やがて湿った水音に変わっていき。
 玉座に蠢く二つの影は絡み合い、一つの形を成していった。







 目を覚ましたアルクェイドの視界に飛び込んできたのは、紗の掛かった天蓋であった。
 どこか見覚えの在るそれが、姉の部屋のベッドであった事を思い出す。
「……おはよう、アルクェイド」
 掛けられた声に彼女が視線を下げると、ベッドの端に腰掛けたアルトルージュが微笑んでいた。その手がそっと自分の手に重ねられているのに気付く。
 寝ている間、ずっと側にいてくれたのだろうか。手に伝わってくる温もりに、自然アルクェイドの頬が赤らんだ。
 アルトルージュの到着が遅ければ、取り返しのつかない事態になっていたかもしれなかった。それを手当てして、おそらくはずっと寄り添っていてくれたのだろう。
「うん、おはよう……姉さん」
 アルクェイドは身を起こして、ベッドの背に寄りかかる。この部屋に移し変えられた時に着替えさせられたのだろう、彼女は白い薄手の寝巻き姿であった。
「……わたし、どのくらい寝てたの?」
「丸一日くらいよ。こってりと呪詛が仕込まれていたのか、思ったより力が戻るのに時間がかかったみたい」
 アルトルージュが答える。その顔には安堵と、隠せぬ怒りが浮かんでいた。アルクェイドは顔をしかめて、憎々しげに呟いた。
 死徒相手に無様な姿を晒すという、真祖の姫としては許されない失態。些か胡乱な意識の中でも、その屈辱は脳裏にこびりついていた。
「……わたしにあれだけの傷負わせる武器なんて、どっから引っ張り出してきたのよ、リタは。教会の連中からでも借りてきたってのかしら」
「それはありえないわよ。いくらトラフィムだって教会とそこまでのパイプは持ってない。彼らが言うところの『汚らわしい死徒』に秘匿された武器を貸し出すなんて、公になったら大スキャンダルだもの。あの保身の塊の教会が、そんな危ない橋など渡るわけがないわ」
「じゃあ、何処から持ってきたってのよ、あんな物」
 祖に組み敷かれ蹂躙された屈辱が頭を掠める。その度にアルクェイドの心が煮えたぎった。
「そうね、あなたの復元を阻害できるような呪いとなると、ハルペーやダインスレイフあたりが有名だけど。それらを模した人造の魔剣でしょうね。トラフィムが手を回して手に入れたのか、ヴァン・フェムあたりが作ったのか、そこまではわからないけれど」
「姉さんじゃあるまいし、引きこもりが趣味のあいつにそんな力があるって言うの?」
「……忘れちゃダメよ。トラフィムはあなたよりも、そして私よりも古い祖よ。二千を越える年月をかけて溜め込まれたブリュンスタッドへの怨念は、生半な物ではありえないわ」
「でも……」
「傷自体はちゃんと治ったけれど、体力は別。ゆっくり休んで、英気を養いなさい。意趣返しはそれからでも出来るわ」
 アルトルージュは柔らかく微笑む。その顔は、頭に血が上ったアルクェイドに落ち着く余裕を与えてくれた。傷は治ったという、その言葉を確かめるように、彼女はそのまま自らの体に視線を走らせる。
 右手の指は元に戻っていた。貫かれた胸にも痛みは無い。少なくとも体調は良好だった。そのまま襟首を引っ張り、覗き込んでみる。そこもまた、染みも痕も無い、滑らかな肌が取り戻されていた。その様を見てアルトルージュが相好を崩す。
「はしたないわよ、アルクェイド」
「……ちゃんと治ったか、気になったのよ」
 くすくすと笑う姉の姿に、アルクェイドは頬を膨らませる。
「そうよね、傷跡残ってたりしたら、私も志貴君に申し訳が立たないもの。でもちゃんと確認したから大丈夫よ」
「……確認って、どうやって!」
「だってその服着替えさせたの私だもの」
 さらりと言うアルトルージュに、アルクェイドの動きが凍りついた。
 そう言えば傷を確認した時、ブラジャーはつけていなかった。下の方も何と言うか、随分と涼しげだ。生地が直で感じられるくらい。
「……見たの!?」
「ええ、もう隅から隅までじっくりと」
「姉さんッ!」
 恥ずかしさに血が上り、アルトルージュに飛び掛かった。
「きゃっ!」
 目の前で笑顔を浮かべ、おどけてみせる姉。
「そういう事はやめてって言ってるでしょ! 大体妹の裸なんか見て何が楽しいってのよ!」
「ん、成長具合とか確認するのも姉の務めかなって……ごめ、ごめんったら! 降参よ! だ、から首極めるのは、止めてほしいなぁ……」
 半ば本気で締め上げるアルクェイドの腕を叩いて、降伏を宣言するアルトルージュ。しかし嘗め回すように裸を見られたらしいアルクェイドとしては易々と受けいれるわけもなく。
 しかし片方にとっては真剣そのもののじゃれ合いは、アルトルージュの一言で終わりを告げた。
「うん、でも良かった。もうすっかり大丈夫みたいね」
 安堵に満ちた呟き。しかしその瞳は暗く沈んでいる。
 愁いを帯びたその目を見たアルクェイドの頭に、リタの言葉が思い浮かぶ。
 ――自分の力を削って、何も知らない妹を支え続けているんだ。
 意識が落ちる前に振り落とされた、言葉の刃。
 それが事実であるのならば、今こうして傷を癒した事ですら、姉の力を借りたという事になる。否、こうしてあり続けている事すら、彼女の力なくしては出来ないという事なのか。
 嘘であって欲しかった。リタが二人の間に疑念を埋め込むために吐いた戯言であって欲しかった。
 勿論、確かめるのは簡単だ。一言アルトルージュに尋ねればいい。にっこり冗談めかして彼女に聞いて、否定してもらえばそれで済む話だ。
 しかしアルクェイドはそれを口にする事が出来なかった。
「……どうしたの?」
 不自然な姿勢で止まったままのアルクェイドを見て、アルトルージュの眉が顰められる。姉を極めていた腕を解いて、慌てて頭を振る。
 結局アルクェイドの口から出たのは、思いとは裏腹の当たり障りのない言葉だった。
 少なくとも、彼女がそう思った言葉であった。
「うん……ありがとう、姉さん。おかげで助かったわ」
「……あなたが謝る必要はないわ」
 静かに呟いたアルトルージュが、そっとアルクェイドに身を寄せてくる。
 そのまま手を伸ばして、ふわりと抱きしめてきた。今のアルトルージュは少女の姿ゆえ、アルクェイドより頭一つほど背が低い。故にどちらかといえばしがみつくような格好であったが。
「本当に、ごめんなさい。半ば無理やりにあなたを連れてきておいて、こんな目にあわせてしまうようじゃ、姉として失格、よね……」
 変に湿った感じの声は、胸に顔を押し付けているせいだろうか。
 しかし胸に染み伝わってくるひやりとした感触に、アルクェイドは驚きの声を上げた。
「ね、姉さん……」
 揺れる声、震える体。小さくも威厳と畏怖に溢れていたその体が、今はひどく弱々しい。
 アルトルージュが、泣いていた。
 くぐもった声が途切れ途切れになり、漏れ聞こえる嗚咽にアルクェイドの心が締め付けられる。
 何故、どうして。
 彼女はここまで出来るのか。
 助けてもらったのは自分なのに、何故彼女が涙を流すのか。
 数ヶ月前に志貴の家で再開した時、怒りに任せて彼女に襲い掛かった時も、アルトルージュは全てを受け入れて見せた。
 確かにブリュンスタッドの名を共有する姉妹かもしれない。しかし、自分は紛れもなく死徒を狩る『処刑人』だというのに。
「どうして……」
 かすれた声で、アルクェイドは呟く。
「どうして姉さんはそこまで出来るのよ! 自分だってとっても不安定なのに! その力を削って、わたしに分け与えるなんて自殺行為じゃない! 何で、何でそんな事が出来るのよ!」
 その言葉にびくりと震えたアルトルージュは、ゆっくりとその顔を上げた。涙に潤んだ朱い瞳が、悔恨に沈んでいる。
「……リタがそんな事を言っていたの?」
「ええ! わたしは何も知らずに姉さんの力を食いつぶしてるって!」
「戯言よ。彼女の言う事にどれだけ本当のことがあるのか、怪しいものじゃない」
 濡れた頬をそのままに、笑みを形作る。しかしいくら機微に疎いアルクェイドでも、その顔こそが、如実に真実を語っている事くらい分かる。
「やっぱり、やっぱりそうなのね! わたしが暴走してから何百年も……!」
 肩を揺さぶり姉を問い詰めても、彼女は優しく微笑んだままであった。それがアルトルージュの気遣いだとしても、今は逆効果であった。彼女が包み込もうとする行為そのものが、アルクェイドの心を責めさいなんでしまう。
 何で教えてくれなかったのか。
 何でリタなんかに教えられなければならなかったのか。
 激情に突き動かされるまま、アルクェイドはアルトルージュの肩を揺さぶり問い詰める。
「何で黙ってたのよ! 何で教えてくれなかったのよ! 何で、何でいつも一人で抱えてしまおうとするのよ……」
 痛々しいほどの叫び声は次第に掠れ、消え入りそうになる。肩を揺さぶる手の動きを止めて、アルクェイドは弱々しげに俯いてしまう。
 やがて部屋に響く、先ほどとは異なる嗚咽。
 それを受け止めるように、アルトルージュはアルクェイドの背に回していた手を戻して、そっとその頬をなで上げた。
「……あなたの事がとても大事だったから。だから黙っていたの」
「わか、らないわよっ! そんな事言われたってわかるわけないじゃない!」
 頬にかかる手を跳ね除けて アルクェイドは嫌々をするように頭を振る。振り払われた手を寂しそうに見つめたアルトルージュは、躊躇いがちに口を開きかけ、しかし踏み込みきれぬように押し黙ってしまう。
 部屋に重い沈黙が満ちる中、意を決したようにアルトルージュは言葉を搾り出した。
「……ねえアルクェイド。あなたは志貴君を心配させたいって思う? 志貴君に危険な目にあって欲しいって思う? 自分が頑張れば彼は平穏に過ごせる。何も知らないで彼に無事過ごしてもらえる。そういう事があれば、彼に何も言わずに何とかしたい、そう思うでしょう?」
 その言葉に、アルクェイドの表情が変わる。
「それは……その……」
 呟く声に力はない。アルトルージュの言葉は、アルクェイドにとって否定できない重みを含んでいた。
 他ならぬ彼女自身、同じ事を志貴にしていたのだから。
 かつてロアとの最後の戦いで、死を覚悟していた時。最後に一目だけと志貴の姿を見に行った時に、彼が言い切ってくれた言葉。
 ――アルクェイドを愛している。
 自分のために死に掛けたはずなのに。自分と彼とは違う生き物なのに。何の迷いもなく言ってくれた言葉。
 それを聞いた瞬間。彼女は決意していた。決して、志貴を巻き込んではいけない。最後の決着は自分でつけないといけない。
 その時の気持ちは忘れる事が出来ない。あの瞬間、確かに彼女は自分よりも大事な物のために動いていた。
 志貴のためなら。その想いだけが壊れかけた彼女の体を突き動かしていた。
 あの時の自分と、今のアルトルージュは同じ気持ちだったと言うのだろうか。
 だけど志貴にたくさんの物を貰った自分とは違う。何も返していないのに、姉は辛い顔もみせず、支えてくれている。
 これまでも、そしてこれからも。
 アルトルージュの力に支えられ、志貴と結婚し、共に過ごす。その間も自らの命を削って、彼女は自分を支え続ける――
 そんなのはきっと、間違っている。
 ぎゅっと、血が出るほど強く。アルクェイドは唇を噛み締めた。
 朱い瞳を涙で滲ませ、姉の姿を目に、記憶に焼き付ける。
「……ごめんね、姉さん」
「……え?」
 その言葉に常ならぬ響きを感じたアルトルージュが思わず問い返す。
 だが、アルクェイドは止まらない。そっと目を閉じ、自らの内に意識を向ける。
 この地より流れ込む自然の力。生れ落ちた地である千年城より送られる力。意識の内ではそれぞれが光を放ち、無数の色の帯を成している。
 中に埋もれる一本のライン。意識するまでは気づく事がなかったが、確かに強い力を送り続けている、本来存在しない筈の道。
 それを見つけ出し、しかしアルクェイドは逡巡する。果たして自分はどうなってしまうだろうか。
 ロアに奪われた力は取り戻している。即座に吸血衝動に飲み込まれる事は無いだろう。
 ――これから先、志貴と共に居る事がなければ。
 彼の元を離れなければならない。それはあまりにも辛い。身を引き裂くような思いに、胸が締め付けられる。しかし真実を知った今、彼女は姉の心に甘えたままでいる事が出来なかった。
 本当にごめんね、志貴。
 脳裏に浮かぶ、最愛の男の笑顔に向かってアルクェイドは呟く。
 誰よりも愛してる。アルクェイド・ブリュンスタッドは遠野志貴を愛してる。でも、このままじゃやっぱりダメだよ。姉さんを苦しませたまま、志貴と二人で幸せになんて、なれない。
 あまりにも重い名残を、無理に振り払う。そのために、アルクェイドは姉に向かって微笑んだ。
 柔らかい、見る者が蕩けそうなほどの笑顔。しかしそれは今にも消え入りそうに脆く、儚い。
「うん、ごめんね、姉さん。今までずっと借りてて……」
「ま……さ、か!」
 アルクェイドが何を考えているのか。気付いてしまったアルトルージュが、慌てて肩を揺さぶってくる。
「止め、て……! 止めなさい! お願い、お願いだから止めてアルクェイド!」
 アルトルージュの絶叫が部屋に響き渡る。肩を揺さぶる腕は恐怖と混乱で震え、流れ落ちる涙がアルクェイドの胸元を濡らす。
 姉さん、泣いてるんだ。
 薄ぼんやりと目に映る姉の顔が胸に突き刺さる。
 だけど、もう寄りかかり続けるわけにはいかないから。もう、返さないと。
 アルクェイドの目にも涙が溢れ、堰を切ったように頬を伝う。それが地に滑り落ちるのを合図としたかのように。
 アルクェイドは自らに流れ込む力の道を、閉ざした。




続く