−9−



 薄闇に閉ざされた部屋の中で、空気は凍りついたように重い。すすり泣く女の声だけが響き渡り、石壁に飲まれて消えていった。
「ごめんね……ごめんね、アルクェイド……」
 部屋の中ほどに据えられた寝台に居る二つの人影。
 脇に腰を下ろして、アルトルージュが咽び泣いている。寝台の中ほどで静かに眠りに就くアルクェイドの肩にしがみつき、その胸元に顔を押し付けて涙を流し続けていた。
 まるで、自らの心を送り込もうとするように。
 答えはない。緩く上下する胸と、服越しにわずかに伝わる熱が、妹の生存をアルトルージュに伝えてくる。ただ、それだけだった。
 固く閉ざされた瞳は開く事なく、ただ眠り続けている。
 自らの意思でアルトルージュからの力の支えを断ち切ってより二日、アルクェイドは一度も目を開ける事無く、深い眠りに落ちていた。
 魔女の嫉妬で百年の眠りに就かされた姫君。はるかな昔、戯れに聞き及んだ童話が、アルトルージュの頭を掠めた。
 笑えない冗談であった。忌まわしい蛇の掛けた吸血の呪いが、本人が滅んだ今もなおアルクェイドの身を責めさいなんでいる。あれがなければ、アルクェイドがこれほどまで力を奪われる事などなかったのだから
 頬を流れる涙をぬぐう事もせず、アルトルージュは身を起こして、そっと手を伸ばした。
 白く血の気の無い頬に手を這わせても、伝わってくるのは微かな温もりだけだった。
「お願い……許して……」
 消え入りそうなアルトルージュの声に勿論答えはなく、固く閉じた瞳が開く事も無い。その様にかつての邂逅の様子を思い出し、彼女の瞳からまた一筋の涙が流れ出した。
「私を……許して……」
 零れた涙がアルクェイドに落ちる。想いの欠片は迎え入れられる事なく、そのままアルクェイドの頬を伝って消えていった。
 こうなる恐れはあった。真実を知ればきっとアルクェイドは思い悩む。それが故にアルトルージュは、自らが支えていた事を伝える事が出来なかったのだから。
 隠し通す事が出来ていれば、誰も傷つかず済んだ話であったのに。最悪の形で秘密は露見して、こうしてアルクェイドは深い眠りにつく事になってしまった。
 最初から話しておけば良かったのだろうか。
 アルトルージュは白くなるほど唇を噛み締める。全てを包み隠さずに伝えていれば。あなたが暴走した時から数百年その身を支えていたのだと、自ら伝えていれば良かったのだろうか。
 伝えていたとして、彼女はそのままの関係を受け入れてくれたのだろうか。
 心に穿たれた穴の大きさに、アルトルージュの口から嗚咽が漏れる。契約を破棄され、力を取り戻した肉体は歓喜に震えていたが、そんな物は今の彼女にとって苛む枷でしかなかった。
 叶う事なら、今すぐにでも契約を復活させていただろう。しかし、繋いだ道はアルクェイドの方から閉ざされてしまっている。今再びアルトルージュの意志のみで繋ぎ直す事は出来ない。
 仮にそれが出来、アルクェイドが意識を取り戻したとしても。彼女が決意を変えぬ限り、また同じ事の繰り返しになってしまうだろう。
 こんな事ならば、アルクェイドが人形であった方が良かったのだろうか。
 頭の隅に浮かんだその思いが、徐々にアルトルージュの心を蝕んでいく。
 「姉さん」と呼んでくれる事もない。花の綻ぶような笑顔で、周りの者の心を暖めてくれる事もない。人を愛し、人とともに生きようと決意し、その為に力を振るう事も無い。喜びも知らず、生きる意味も知らず、ただ無限に巻かれた発条(ぜんまい)が切れるまで動き続ける白い人形。
 それは生きているとは言えない。ただ動いているだけに過ぎない、かつての自分が嫌悪した姿。
 それでも、自分が支えてさえいれば永遠に在り続けてくれるのだ。
 それで良かったのではないのか。
 かつての関係と何も変わらない。向けた視線に応えてくれる事はなくても、こうして眠り続ける事はなかったのだから。
 ほんの一年と少し。アルクェイドにとって瞬きのような、日本での時間がなければ。例えどのような関係であれ、気の遠くなるような時の流れを共に在る事が出来たのかもしれない。
 ――ならば何故、今の状態を嘆くのか。
 心を蝕む黒い闇が、形を変えてアルトルージュに囁き掛けてくる。
 向けた思いに応える事が無いのは、昔も今も変わらない。それならば、今こうして自らの手元で眠りについている、この状態は理想の具現ではないのか。
 誰にも手出しの出来ぬこの場所で、ブリュンスタッドを受け継ぐ妹と共に在り続ける。それこそがアルトルージュ・ブリュンスタッドの望みであろうに。
 心の奥底の欲望が、蛇のように巻きつき、締め上げる。歪んだ思いを形と成せと、拭いがたい圧力を持ってアルトルージュを押しつぶしていく。
 押しつぶされてしまえば楽になる。
 このままアルクェイドをここに隠してしまえば、誰にも手出しは出来ない。
 最愛の恋人を失った少年は嘆き悲しむことだろう。事実を知れば元凶を憎み、取り戻そうとするだろうか。仮にそうした所でどうと言う事は無い。いかに世に二つと無い異能中の異能を身に秘めていたとしても、一介の人間の身では死徒の女王の居城に辿りつけよう筈も無い。
 確かに好機であるのだ。自分の意思一つで、数百年望んでいた物を永久に手に入れる事が出来る。
 アルトルージュは視線を落とした。
 静かな蝋人形のような顔で、縛めの眠りに突いているアルクェイド。かつての美しさはいささかも変わる事なく、今この手の内にある。このまま何もしなければ、永久に変わらぬこの顔を望むだけ見続ける事が出来るだろう。
 それはあまりにも甘美な誘惑であった。
 抗し難いその昏い囁き、今すぐにでも身を委ねてしまいたい程の。
 しかしその先に待ち受ける未来を確信して、アルトルージュは頭を振った。
 それをしてしまえば権力を、立場を。全てを失う事だろう。それと引き換えても惜しくは無いと、かつての自分ならば思ったかもしれない。
 だが、今の自分の心がその行為で満たされる事などありえないと、彼女は気づいていた。
 アルクェイドに笑いかけられる喜びを知っている。
 照れ臭そうに姉さんと呼ばれる喜びを知っている。
 その喜びを知ってしまった今、醜悪な人形遊びで自らを慰める事など、もはや出来よう筈もなかった。
「……必ず、助けてあげる……」
 アルトルージュの唇がゆっくりと動き、静かに決意を音に乗せていく。
 今のアルクェイドは、世界が儚くも美しい物だと知っている。「生きる」と言う意味を知っている。千の縛鎖より救い出す事が出来たのは自分ではなかったけれど、救い出してくれた男のために、アルクェイドを無事に日本へと帰さなくてはならない。
 しかし、その前に。
 この事態を引き起こしたあの女に。その裏で糸を引く巨魁にしかるべき鉄槌を。
 噛み締めた唇の端から血の雫が伝い、白いシーツに赤い花を咲かせた。
 震える手の甲で口元を拭ったアルトルージュは、アルクェイドの前髪を掻き上げて、そっと顔を寄せていく。そのまま軽い口付けを彼女の額に落とした。
「だからあなたが目を覚ましたら、不甲斐ない私を叱って頂戴ね」
 静かな寝顔にそう語りかけて、アルトルージュは腰を下ろしていた寝台から立ち上がった。
 細くたおやかな手を、音がするほど固く握り締める。瞳には涙はない。目の前には居ない憎むべき相手への深い怒りが、炎となって燃え盛っていた。
「……待っていなさい。私を怒らせた償いは、必ず支払わせてあげるから」
 静かな呟きは声の主の耳だけを打ち、甲高い足音に紛れて消えていった。







「……賛成できませんね」
 その言葉を耳にしたフィナは、無茶だと言わんばかりに首を振った。
 城の執務室。アルトルージュが政務を執り行う部屋であり、また腹心と基本的な方針を話し合う重要な場所でもあった。
 部屋の奥に備え付けられた重厚な彼女の執務卓とは別に、中ほどには五、六人程が席に就く事が出来る応接卓が備え付けられている。今そこに腰を下ろしているのは三人。アルトルージュとリィゾとフィナである。上座に着くアルトルージュを中心に、やや離れた位置で向かい合う二人の騎士。どちらの顔にも困惑と焦燥の色が浮かんでいた。
 その理由は分かっている。しかしアルトルージュとしても引く訳にはいかなかった。
 機会は少ない。今この時を逃せば、再び闇に潜られてしまう。狼藉の罰を受けぬまま、再びあの男は王として自らの前に立ちふさがってくる。
 必ず、叩き潰さねばならない。命に代えても、償いをさせなければならない。
「何か問題があるのかしら。最初の予定と変わらない。ただ向こうのお招きに預かるだけよ」
 フィナの言葉に彼女は、感情を押さえた言葉で答えようとする。それは成功したとは言いがたく、その語尾はかすかに震えていた。
「そもそも出向くと伝えてあるのですもの。約束は果たすべきではないかしら」
「状況は変わってます。姫様の差し出した手を噛みついてみせたのは、あの道化者の方です。再び差し出す必要などある訳がない。仮に百歩譲ったとしても、姫様御自ら足を運ばれる必要など微塵もありません。僭越ながら僕かバールが全権をお預かりして出向けば済む話です!」
 だん、と鈍い音が響き渡った。フィナがテーブルを叩いた音だ。典雅を旨とする吸血貴族らしからぬ行動に、アルトルージュは眉を顰める。
「はしたないわよ、ヴラド」
「お恐れながら、今は僕の信条など犬に食わせてやりますよ。騎士として姫様にそんな無謀な事をさせたならば、これより先の永劫を僕は消えぬ咎を背負って在り続けなければなりません」
「……シュトラウト、貴方も同じ意見かしら」
「御意」
 フィナに向かいあうリィゾも、険しい顔を崩さなかった。眉間に刻まれた皺の深さが、実直な黒騎士の苦悩と困惑を如実に表していた。
 アルトルージュは心の中で深い溜息をついた。
 彼らの言う事が正論である事など、彼女も理解している。最大敵対勢力の全権大使が、事もあろうに彼女の目の前で狼藉を働いてみせたのだ。本来ならば即刻軍備を整えて即時宣戦布告もありえる状態である。
 未だ戦争になっていないのは、単純にどちらの戦力も巨大すぎるというただその一点に過ぎなかった。
 勢いのままに動かせば、確実に裏の世界が割れる。百万とも言われる白翼公トラフィムの勢力を鎧袖一触出来る程にアルトルージュも力があるわけではないし、トラフィム側もその兵力差を生かした示威行動をとるわけでもなく、不気味な沈黙を保っていた。この二日間、アルトルージュは茫然自失としており、組織としての行動が著しく低下していたにもかかわらず、である。
 リタの狼藉が戦略に組み込まれているのであれば、即座に何らかの行動がなければ意味が無い。結果としてアルトルージュ側も彼の行動を掴みあぐねて、現在の奇妙な膠着状態が生まれているのだった。
 だからと言って、あのような事件が起きた後にアルトルージュ本人がトラフィムの招きに素直に応じるなど常識では考えられない。二人の関係を知るものが聞けば、奇策を通り越して正気を疑われても不思議ではないだろう。
 しかし仮に正気を疑われたとしても、今の彼女は自分の怒りを押し殺す事が出来なかった。
「この機を逃せば、次にあの男が表に出てくるのなど何百年先になるか分からないわ。直接顔を合わせて、あの古狸の首根っこを締め上げる。それには私本人が行くしか無いでしょう」
 アルトルージュの口調は強く、いかなる反論も許さぬといわんばかりの固さを帯びていた。部屋の温度が下がったかと思われる緊張の中で、フィナが腕組みをして頭を振った。常の彼ならば絶対にしないであろう、その不遜とも言える行動に、アルトルージュの眉が顰められる。
「……言いたい事があるならば、いいわよ、ヴラド」
「姫様がご自身と我らの未来を考え、そしてやむなしと結論付けたのであれば。全ての犠牲を覚悟して、全力で白翼公と対決するのであれば……僕らは何も言いませんよ」
「……何が言いたいのかしら、ヴラド?」
 アルトルージュの視線が白騎士の身を貫く。並みの者ならば魂すら萎縮せんばかりの鋭さにもいささかもひるむ事なく、フィナは彼女の顔を見据えて決然と口を開いた。
「姫様が姫様のためでなく、ただ真祖の姫のために冒す必要の無い危険を冒されるというのであれば! このフィナ=ヴラド・スヴェルテン、命を賭してお諌めする決意があると申しているだけです!」
「ヴラド!」
 アルトルージュの叫びと共に鈍い音が部屋に響き渡った。テーブルを打ち据えた彼女の平手が、手首までめり込んでいた。割れたり砕けたりしなかったのはテーブルの価値を示すものであったろうか。
 その光景にも眉一つ動かす事はなく、フィナは炎のような主の視線を真摯な瞳で受け止めていた。
「無礼はご容赦を。しかし僕は姫様に剣を捧げた騎士であり、姫様をお守りする盾です。その盾をお持ちにならずに戦に行かれるご主君を諌めずして、何が騎士ですか!」
「これはあの子と私の問題よっ! 妹を傷つけられて黙っていられる姉など、いるわけないでしょうっ!」
 みしみしと耳障りな音を立てて、テーブルに指がめり込んでいく。吊りあがった瞳が赤さを増し、噛み締めた唇の端から鈍く光る犬歯の先が覗く。まるでフィナがその敵であるかのように、怒りに任せたままアルトルージュの体に力が漲っていった。出口を見つければ今すぐにでも噴出すだろう。その奔流を受けた相手がどうなるかなど、火を見るより明らかだった。
 矛先が自分に向いているのを気付いていてもなお、フィナは微動だにせず彼女の視線を受け止めていた。その胆力にいっそ感嘆し、そして怒りが掻き立てられる。アルトルージュが口を開こうとした瞬間、
「落ち着かれませいっ!」
 部屋が震えた。そう思わせる程の気が込められた大音声が叩きつけられた。死徒の祖である身が思わず一瞬凍りつく程の気勢に、怒りで半ば我を忘れていたアルトルージュも、向かい合うフィナも唖然とした表情で声の主に視線を向けた。
「アルトルージュ様、かつて我らは申した筈です。この命、存分にお使いくださいと。これに是とお答え下されたのであらば、逆に我らを使う義務もおありではござらんか!」
「っ! 自分のための行動に貴方たちを使うほど、私は落ちぶれてはいないわよっ!」
「そのような勝手が我らに通じるとお思いかっ!」
 再び裂帛の怒声が響き渡った。リィゾの眼光は鋭く主の顔を見据えている。
「私を剣として振るい、そしてフィナを盾として構えるお方が、一時の感情で命を粗末にしてみせるような底の浅いお方であられると仰るか! あの老獪たるトラフィムに、そして醜悪なる女狐リタに鉄槌を下されるのであればそれも結構。しかしそれならば何故我らをお持ち下さらぬか。主に使われる事なく、もしも主が命を落としたとあらば、我ら永劫の悔いを抱えても悔やみきれませぬぞ」
「あなたはっ! 私があの男に膝を屈するとでも思っているのっ!?」
「そのような事などはありませぬ。ですが戦いに絶対などありえず、そして僅かでも主の身に危険が及ぶ可能性があるのならば、我らがお守りするのは必定。どうか翻意を!」
「私に危険など無いわっ! 今ならばかつてのごとくこの力も振るえる……振るえてしまうのよっ! その私がむざむざトラフィムごときに首をとられるなどありえない! この怒りをあの男にぶつけない限り、私は永劫の時を悔恨と共に暮らさねばならなくなるのよっ!」
 それは二人の騎士もあまり目にした事の無い、アルトルージュの剥き出しの感情だった。一国の統率者としてはあまりに直情的なその言葉は、それだけ彼女にとってアルクェイドの存在の大きさを伺わせるものであった。
 自分が為政者として失格である行為をしているとの自覚はある。しかしそれでもアルトルージュは思い留まるわけにはいかなかった。そしてその思いに彼らを巻き込むわけにもいかなかったのだ。
 もはや議論は尽きたとばかりに、アルトルージュは立ち上がり身を翻す。その前に巌のようにリィゾとフィナが立ちはだかった。
「……どきなさい」
「聞けませぬ」
「こればかりは、姫様の命令でも受け入れるわけには参りません」
 その言葉に歯噛みしたアルトルージュが、無言で彼らの胸先に両の手刀を突きつける。ほっそりした少女の指先に空気が渦を巻き、彼女の髪を舞い上げる。集められた魔力だけで外界に変化をもたらすほどの繊手は、たやすく胸板を貫きその心臓を抉り出すだろう。まともに食らえばフィナは勿論、時病みの呪いを身に受けているリィゾとてただではすむまい。
 しかしそれにも眉一つ揺らさず、彼らはアルトルージュの前から動こうとはしなかった。
「これが最後よ。どきなさい」
「どきません。姫様のお好きなようになさりませ。ですが僕たちは絶対に姫様を一人で行かせはしません」
「どうしてもとあらば、我らの屍を越えて行かれませ。されどこの身朽ち果てても、我らアルトルージュ様にお供いたす所存」
 血を吐くような二人の呼びかけは、自らの命など一顧だにせずアルトルージュの身を案じた物である。その言葉が、姿が、怒りで染まった彼女の脳裏に突き刺さる。
 この腕を突き出してしまいたい。ただアルクェイドのためだけに、彼らの忠誠も無数の部下の命も投げ捨てて、憎むべき敵の首を取る。怒りのままに彼らをないがしろにして、思うままの行動をとる。
 何の迷いも無くそれが出来れば、どれだけ楽だろうか。
 指先が振るえ、彼らの纏う服を切り裂く。裂かれた薄皮から舞い上がった血飛沫が、彼女の指先を赤く染め上げる。それでも二人の騎士は身じろぎ一つしなかった。
 部屋に沈黙が落ちる。互いの視線が交錯し、やがて一対の視線が力なく下に向けられた。
「……分かったわ」
 溜息と共にアルトルージュが腕を下ろした。彼らの表情に、薄い安堵の色が浮かぶ。裂けた胸元の傷はすぐに塞がっていたが、そんな事になど気を止める筈もなかった。
「シュトラウト、貴方が私と共に来なさい。フィナはプライミッツ・マーダーと共にこの城の守護を。それならば満足かしら」
「……御意」
「姫様。僕が残るのは仕方ないとしても、プライミッツ・マーダー殿もお連れになられた方がよろしいのでは?」
「……トラフィムは会見の場所をウィーンの国立歌劇場に指定してきているわ。人間たちが多く住まう場所に、あの子を連れて行くわけにはいかないでしょう」
「……そういう事であれば。僕たちでしっかり留守をお守りしましょう」
 些か承服しかねる、そういう面持ちでフィナが頷いた時、ノックの音が響き渡った。
「何事か!」
 リィゾの誰何の声に、伝令の騎士が固い面持ちで部屋に入り、アルトルージュたちの前で片膝を付く。
「お取り込み中の折、申し訳ありません。ですが火急の件につきご無礼をご容赦いただきたく……」
「構わないわ。何事かしら」
「それが、その……」
 口ごもる騎士が、やがて意を決したように発した一言。その言葉に彼女たち三人は唖然とした面持ちで顔を見合わせた。
「……『宝石』の魔法使い、キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグどのがこちらに参られました……」







 アルトルージュが最後に彼と言葉を交わしたのは、八百年近く前になる。
 アルクェイドがロアに騙されその血を啜った時。魔王と化した妹を止めるべく、かの偉大なる魔法使いと共に戦った。それからの年月、彼女が千年城に出向いた事は幾度かあったが、異なる世界を旅していた彼と会い見えることはなかった。
 アルクェイドが眠る寝台の側、豪奢な拵えのソファにゼルレッチは身を沈める。かつてのアルトルージュの記憶にある姿と比べて、彼は些かの老いを滲ませていた。刻まれた皺は深く、その物腰は落ち着いたものになっている。しかし紅い眼光は強く鋭く、彼に与えられた二つ名に恥じない輝きを湛えている。
 向かい合いに座るアルトルージュ。部屋には他に誰もいない。ゼルレッチが彼女との話を望み、アルトルージュがそれを受け入れたのだ。かの魔法使いの性格は広く世に知れ渡っている。己の主をだまし討ちする事など有りえないと、リィゾとフィナは納得し、別室に下がっていた。
 用意された琥珀色の紅茶に口を付ける事もなく、ゼルレッチが口を開く。
「急に押しかけた事は謝っておこう、アルトルージュ殿」
「構わないわ。用件は……アルクェイドの事ね」
 ゼルレッチの言葉にアルトルージュは小さく呟いた。自分の価値判断に違う者に対しては、例えどんな相手であれ我意を通してみせる魔法使いが、かつてと変わらず礼をみせてくれる事に感謝する。同時に罪悪感が彼女の胸を打った。
「うむ。あれがなかなか戻ってこぬ内に、なにやら様子がおかしくなったのが伝わってきてな。連絡もなく足を運んでしまった」
「……ごめんなさい。心配をかけてしまったみたいね。本当はあの子と二人で、結婚の報告に行く予定だったのだけど……」
「ふむ、その事も俄かには信じがたい事件ではあったが……」
 ゼルレッチの視線の先には、変わらず眠り続けるアルクェイドの姿がある。
「リタ・ロズィーアンが与えたという傷は、もはや大した影響はあるまい。問題は、かつて貴女が結んだ契約が破棄された事による力の喪失か。こちらは一朝一夕に補うわけにはいくまいて」
「ええ。一番良いのは千年城に連れ帰る事でしょうね。あそこはこの子の揺り篭。起き上がる事が出来るほどには力を取り戻せる筈だもの」
 アルトルージュは嘆息する。それを行えば、アルクェイドが意識を取り戻せる可能性があるのは分かっていた。だがしかし、それは諸刃の刃でもあった。
「一度あの子が目を覚ましてしまえば、無理にでも日本に帰ろうとすると思うの。でもそれは今の状態では自殺行為なのよ」
 力が失われた状態で動き回れば、吸血衝動は加速度的に蓄積していく。まして愛する者が側にいれば、今の状態では早晩決壊してしまうのは火を見るより明らかだった。
「真祖の吸血衝動は、愛する者への思いに比例する。この半端な身にもその事はよく分かるわ」
 アルトルージュは自嘲するように呟いた。
「愛しさが吸血を渇望させるなら、憎しみがそれを減らしてくれれば良いのにね。不甲斐ない私を憎む事でこの子が楽になり、これからの幸せが手に入るのならば、私はいくらでも憎悪の炎に身を晒すのに」
「……変わっておられぬな」
 アルトルージュに向き直ったゼルレッチは、感慨深げに漏らしてみせた。
「私に向かって啖呵を切った、あの時の貴女のままだ」
 その言葉にアルトルージュは頭を振った。その時の記憶がよみがえる。
 アルクェイドに力を分け与える、その事を気遣うゼルレッチに向かって彼女は言い切ったのだ。「甘く見るな」と。「アルトルージュ・ブリュンスタッドに余計な気遣いなど無用である」と。
 最悪の魔王と化した妹を前にして、よくも言ったものだと思う。ただでさえ不安定な体を削るような決断を、躊躇いなく出来たものだと思う。
 翻って今はどうなのか。妹の状態に取り乱し、冷静な決断が出来なくなっていた。二日もの間自らの責務を放り出し、感情に任せて突っ走ろうとしてしまった。アルトルージュはきつく唇を噛み締める。自分はひどく弱くなってしまった。アルクェイドを守るためには強くならなければいけないのに、今は、どうしようもなく弱い。
「変わったわ。あの時はアルクェイドを救う事が出来たのに、今回は……」
「そうではない」
 彼女の声は、老人の声に柔らかく遮られる。
 あろう事か、ゼルレッチの口元には柔らかい笑みが浮かんでいた。
「あの時も今も、貴女の中には常にアルクェイドの事があるではないか。かつてはあれを助けようとして、そして今はあれを守ろうとしている。その思いに些かの変わりもなければ、やはり貴女は変わってはおられんよ」
 ゼルレッチは莞爾として笑う。
「嬉しいではないか。齢八百を越えて、ようやくアルクェイドは石に躓く事が出来たのだから」
「石に、躓く?」
 怪訝な顔を浮かべるアルトルージュに向かって、ゼルレッチは笑いを深める。遠き過去を思い返すかのように、その視線は暫時虚空に向けられた。
「アルクェイドがまだ成体になる前の話だ。私があんまり笑ってばかりいるものでな、あれは不思議に思ったんじゃろう。ほれ、あの頃千年城にいる真祖たちは皆辛気臭い顔をしておったからな」
「確かに、そうかもしれないわね」
「何でゼル爺は笑うのか、と。そう言われてこちらも困ってな。楽しいから笑う。それに理由などない。強いて言えばこうして生きている事が楽しいから笑うのだと、そう答えたのだがアルクェイドは分からなかったのじゃろう。あれは無駄な事は何一つ教わらなかったゆえな」
「それで……石に躓く、と?」
「うむ。楽しいという事など、分かってしまえばどうと言う事もない。そんなもの石に躓くようなものだとな。その時は結局分からぬままの顔つきであったが、今ようやく躓く事が出来たのだと思うと妙に嬉しくてな」
 再びゼルレッチはアルクェイドに視線を向けた。その顔は世に轟く魔法使いでも死徒でもない。娘を、孫を見守る祖父の顔であった。
「とは言うても、一足飛びに結婚とまで口走るとは思いもせなんだが。しかも相手は人の子だというではないか。その男、よほどの度胸があるのかなんなのか……」
 ううむと、困惑が混じった唸り声を上げるゼルレッチに、アルトルージュは苦笑を浮かべた。彼女自身気づいていなかったが、それは久しぶりに彼女がみせた笑顔であった。
「いい男よ。彼になら私はアルクェイドを任せられる。志貴君なら、ずっとアルクェイドを支えてくれるわ」
「ほう、志貴という名前かね。あなたにそこまで言わせるとは余程のようじゃな」
「ええ。彼に出会ったから、アルクェイドは変わったの。躓いた小石は、飛び切りの宝石だったのよ」
 一月ほど前の志貴との邂逅を思い出し、アルトルージュは目を細めた。
 一月など、彼女にとって瞬きよりも短い時間だというのに。どれだけ多くの事があったのか。これまでの時間に等しい程の濃密さで、それは彼女の心に居場所を作っている。
「最初にあった時は私の死徒にするか、殺そうかって思ってた。人間がどんなに頑張ったってあの子の泡沫の時も生きられない。悲しい別れを経験させるくらいなら、って」
「ふむ……」
「だけどね、怒られちゃったのよ。信じられる? ただの人間が、今正に自分の命を奪おうとしてる相手に向かって「ばかおんな!」って叫んだのよ。「アルクェイドの事を全然分かっていない」って、自分の命なんか二の次で私の事を怒ったの」
 その言葉を聞いたゼルレッチは一瞬目を丸くして、そしてからからと笑い出した。
「それは! それは傑作だ! なんという男であろうか」
「すごいでしょう? 負けたって思ったわ。敵わないって」
 アルトルージュはアルクェイドに視線を向けて、寂しげに微笑んだ。
「だから、彼の命がある限り、アルクェイドは任せようって思ったのよ。この旅行は最初で最後のわがままのつもりだったのに……」
 彼女の顔に浮かんだ微笑が翳り、声が重く湿っていく。
「本当に、わたしは何をやっているのかしら。良かれと思って口をつぐんでいた事で、彼らを苦しませてしまってる。きっと志貴君もアルクェイドも、私の事を憎むでしょうね」
「そのような事はあるまいよ」
「え……?」
 笑いを引っ込めたゼルレッチは、真面目な顔でアルトルージュの事を見据えている。
「少なくとも、アルクェイドが貴女を憎んでいる事などありえぬ」
「何故? どうしてそうはっきりと言い切れるの」
「決まっておる。ああして自らの意思で姉を守るために眠りについている。その事が貴女を大事に思っている証拠ではないか」
「それは……」
「誇られよ。貴女が大事な妹と思っておられるように、アルクェイドも貴女を掛け替えのない姉だと思っている。それなのに貴女が弱気では、解決する問題も解決せぬぞ」
 部屋に響き渡るような大音声ではなく、静かにそう口にするゼルレッチ。その顔につられるように、アルトルージュの顔にも弱いながらも、澄んだ意思の光が灯っていた。
「……まだ間に合うかしら。私はまだあの子に許してもらう事が出来るのかしら」
「よりを解す時間はいくらでもある。そこから先は貴女とアルクェイドの頑張り次第じゃろうな」
「……ええ、そうね。泣き言を言っていてもしょうがないわね」
 微笑んで、アルトルージュは目の前のティーカップを手に取り、軽くあおる。
 冷め切って風味の失われた筈のそれが随分と優しく喉に染みていくように、彼女には思われた。







 主が客人と会話を交わしている隣の部屋で、二人の騎士もまた向かい合っていた。
「まさかゼルレッチ殿まで来られるとはね。この城も随分と賑やかになったものだね」
「茶化すな、フィナ」
 意地の悪い表情を浮かべたフィナを、リィゾが窘める。肩をすくめたフィナの顔が、すぐに真面目な物に変わる。
「失礼。だけどね、ありがたいと思ったよ。姫様にとっても、僕らにとってもね」
「……どういう意味だ?」
 眉を顰めるリィゾに向かって、腕組みしたフィナが頭を振った。
「お互いに冷静ではなかっただろう? 姫様も、僕らもさ」
「うむ……」
「ああは言ったけど、やはり姫様がトラフィムのところへ向かうなど無謀極まりない。万全に万全を期しても足りないという事はないだろうからね。冷静になって考える時間がほしかったのさ」
「冷静ではなかったと?」
「どちらかというと僕の方がね。ああいう姫様を見る事は無かったから」
 フィナの目は目の前のリィゾではなく、どこか遠くを見ているようだった。
「かつて刃を合わせた時、あと一歩まで追い詰められても決してあせりを顔に出そうとはしなかった。結局読み間違えて僕が負けちゃったわけだけど、あの意志の強さは流石だと思ったからね」
「随分と懐かしい話だな」
 リィゾの呟きに、フィナは苦笑を浮かべた。
 彼はリィゾとは異なる。かつてアルトルージュに使える前、先代の祖から引き継いだ領地を持つ一国の主であった。野心に溢れていた彼は版図拡大のために軍勢を率い、アルトルージュの勢力と衝突したのだ。
 結果、敗れた彼は差し伸べられた手を取り、以後の千年に近い年月を、アルトルージュの傍らに在り続けた。
 後悔はない。自らの目が間違っていないという自負もある。しかしここ一月ほどのアルトルージュの行動は、あまりにも意外な物としてフィナの目には映っていた。
「姫様がアルクェイド殿を大事に思っていたのは知っていたつもりさ。だけどああまで変わられるとは思っていなかった」
「……不満そうな口ぶりだな」
「不満は無いさ。いや、無いとは言えないか。軍事屋の視点からすれば不満はあるね」
 リィゾの低い呟きに、フィナはどこか剣呑な笑みを浮かべる。
「これはチャンスだからね。トラフィムがリタの使い方を間違えたおかげで、望みを超える程の好機が転がり込んでる。うまく使えばあの古狸の勢力を一掃する事だって可能だろうに、残念ながら姫様はそれを望んでおられない様子だからさ」
 嘆息する。そこに込められている感情はいかばかりか。フィナはひどく真面目な表情を形作ってリィゾに向き直った。
「なぁ、リィゾ」
「む?」
「姫様にとって、アルクェイド・ブリュンスタッドとはどれほどの重みがあるのだろうね。かつて暴走した時も、そして今眠りについている時も、自らの事を投げ打って彼女のために奔走しようとしている。トラフィムの所に一人で乗り込むなどと言い出すなんて、普段の姫様からすれば考えられないじゃないか。姫様にそこまでさせるブリュンスタッドの繋がりって、何なんだろうね」
 フィナにとって他者との繋がりと言われれば、吸血による支配が頭に思い浮かぶ。自らの『子』に対する欲望や保護の意思はあるが、それはあくまで彼の理にそぐう範囲の意思でしかない。それが必要とあれば、切り捨てる事も辞さないだろう。そしてアルトルージュに対する忠誠も、彼女が「自らを使うに足る主」であるからなのだ。
 だから彼には、無償ともいえるアルトルージュのアルクェイドへの想いを理解しきる事が困難であった。
 もっとも、質問の形を取ってはいたがフィナにとって半ば自問に等しいもの。まして普段寡黙なこの男がこのような問いを答えるとは思っていなかった。
「……俺の知る限りだが。アルトルージュ様は、無償の愛を向けられた事がない」
「……なんだって?」
 だから、呟くような黒騎士のその言葉を聴いたとき、彼は思わず問い返してしまった。
 それに構う事なく、リィゾはゆっくりと口を開く。
「愛と言うよりは、情と言い換えてもいい。アルトルージュ様はそれを誰よりも求めておられた。しかしあの方の父はそれを一度も与える事は無かった」
 彼のさす『父』の単語に、フィナは眉を顰める。
 アルトルージュの父とはすなわち朱い月。フィナ自身が直接目の当たりにした事はないが、自分の先代から、あるいはリィゾの抱いている感情から、どのような存在であったのかの想像はつく。
「貴公も、そして俺も。はるか昔人であった時は何らかの形でそれを向けられた事があろうが、アルトルージュ様は一度たりとてそれを受ける事は無かった」
 リィゾの言葉に、フィナは顔をしかめた。
 かつて人であった時は親も兄弟もいたのだろうが、そのような記憶など既に薄れて久しい。自分がそんな物を受けて育った事があると、断言など出来るわけがない。
 ただ、明確に一度も情を受けた事が無いとするならば。それはひどく寂しいものなのかもしれないと、彼は漠然と思った。
 その寂しさを埋めるための行動とするならば、理屈が通るかもしれない。
「……そうすると姫様の情の大本は、朱い月(父 上)への憎しみの反動だと。そういう事なのかい?」
「そこまでは俺が慮る事などは出来ぬ。いかなる理由でアルクェイド殿を『妹』と思う事に決めたのか。それまでは分からぬ。しかし一度そうと決めたからには、自分のような思いをさせたくは無いという事だったのだろう。たとえアルクェイド殿から情を返されることが無くても、だ」
 眉間に寄せた皺は深く、リィゾが苦悩している事を思い浮かばせる。アルトルージュの抱えている苦悩を我が事のごとく受け止め、苛んでいるのかもしれない。
「しかしアルクェイド殿は変わられた。アルトルージュ様を姉と呼び、あけすけに情を向けていたのだ。アルトルージュ様の喜びはいかばかりであったか。それがまた手の内からすり抜ければ取り乱しもしよう」
「ああ、なるほど……」
 呟いて、フィナはソファに身を沈めた。硬い音が鳴るほどに奥歯を噛み締める。
 痞えていた物がすとんと落ちたような気分であった。同時に自分の至らなさに顔から火が出そうになる。
 リィゾの言うとおりであった。それであるならば主がアルクェイドの事を何者にも代えがたく思うのは当然であろう。それが失われかければ取り乱すのは当たり前ではないか。
 その程度の事を慮れずして何が騎士だというのだろうか。同僚の揺るがぬ意思に、彼は羨望に似た思いを浮かべる。
「壊れたわけではない。粉々になったわけではない。今日のように拠所が揺らぎ、倒れそうになったのであれば我らがお支えすれば良いだけの事。トラフィムたちの策謀ごときでアルトルージュ様を侵させはせぬ」
「確かだ、君の言うとおりだよリィゾ。僕が至らなかった」
 自らに言い聞かせるように、静かに口にするリィゾの言葉に、フィナもまた深く頷いてみせた。



<続く>