■ 誰がために花は咲く ■






/1




 ――この魂に、哀れみを。




 その部屋には、死の匂いが満ちている。
 四方を壁で囲まれ、外の景色を見ることも叶わない。もとより人の立ち寄らぬ、大地の下に作られた部屋なのだ。机も椅子も、ベッドも何も備えられてはいない。人が生活を営む上で、およそ必要な物全てが削ぎ落とされていた。
 四隅に据え付けられた燭台の明かりだけが、濃紺の闇を弱々しくも退ける。その中央でカレン・オルテンシアは祈りを捧げている。
 まるで墓に等しい場所だと、口さがない者ならば言い捨てるかもしれない。彼女がその言葉を聞けば、その通りだと神妙に頷いた事だろう。自らの肉体でも、親しき者の悲しみでも、死者が何かを最後に残している場所こそが墓と呼ぶに相応しい。この場所に積み重ねられた思いも屍も、目を瞑るには多すぎたのだから。
 かつてこの場所で、多くの者が命を落としたのだとカレンは聞いている。それが、自分と同じ神に仕える者の行いであった事も。
 言峰綺礼という名の男は、かつてこの教会を預かる者であり、この地で行われる聖杯戦争と呼ばれる秘蹟の管理者であったという。しかしその聖務を投げ捨てた彼は、秘蹟の集積たる聖杯を欲し、多くの物を殺めそして自らも命を失った。
 聖杯戦争の勝者は、この地の管理者でもある遠坂凛だと伝えられた。彼女の手により詳細に書かれた記録にカレンが目を通している中、この部屋で命を失っていった犠牲者の記述があったのだ。それを見止めたカレンは、その場所に足を向け、こうして祈りを積み重ねている。
 柔らかく目を閉じ膝をつき、組んだ両の手を額に当てて、カレンは聖句を部屋に染み渡らせていく。
 淡い光に照らされた、その銀の髪の所々に色の違う所がある。重ね合わせた手の隙間から、何かが滴り手首を伝って肘へと流れていく。こめかみから滴り落ちた雫が、顎から落ちて胸元を汚していく。
 苦痛を感じないわけではない。ただ、カレンにとってこの感触は慣れ親しんだものであっただけだ。だから彼女は吐息も漏らさない。
 苦しいという声が、灼熱とともに肩口に突き刺さった。途切れかけた彼の命の緒は、その度ごとに冷たいナイフのきらめきによって結びなおされたのだろう。
 助けて。その声がカレンの耳を打つ度に、声を上げそうになる熱さが彼女の体を包み込む。何度も、何度も。逃れられない苦しみを繰り返し味あわせられると、魂にすら刻み込まれるというのだろうか。
 強い思いはその場所に、消えずに永久に残り続ける。それが生者でも死者でも違いは無い。死の間際の願いであるならなおさらだ。
 喜であろうと怒であれど、哀であり楽であろうが、残される意思に正邪は無い。彼らの思いを受け取る度に、カレンの体は血を流していく。
 道に迷う彼らを救い上げる方法を、彼女は知らない。死した者を救えるのは、父なる神のみと教えられた。だから彼女はそこへ至る道を示すだけ。皮膚を食い破り流れ出る血も、体の中を無残にかき混ぜられるような苦痛も、その対価なのだ。彼らはそれ以外に証を遺せないのだから、その行為にも正邪は無い。
 押し入る彼らのその思いは、まるで焼けた火箸のようだった。喉元を駆け上る激痛と熱い何かを、無理やりにカレンは飲み下す。口の中に広がる錆の味も気に留めない。唇の端から滴り落ちる血は、流れるに任せた。祈る事が彼女に求められた仕事なのだから、それを妨げる事は許されない。
 しかし唐突に、彼女の体を虚脱感が包み込む。
 体を支える事が出来ない。意識の端に霞が掛かる。繋ぎとめるにはその靄は深すぎた。ふらふらと、糸の切れた人形のように揺れたカレンの体が床に崩れ落ちる。指先に伝わるぬかるんだ感触で、彼女は自分が血を流しすぎたのだと悟った。
 限界を超えた体が、機能を失っていくのは呆れるほどに早かった。
 起き上がろうにも、足に力が入らない。小刻みに震えていた指が動きを止める。その中で、閉じられていた瞼がゆっくりと開かれる。霞む視界に映るのは、闇と炎の淡いコントラストだけだった。
 彼らの姿はもとより目には映らない。祈りが彼らに伝わったのかどうか、確かめる術はない。
 ただ、彼らの抱いた思いだけは、おぼろげに意識に刻まれた。
「そう……」
 震える唇で、カレンは呟く。
「あなたたちは、切り捨てられたのね――」
 聞く者はいない。答える者もいない。
 視界が黒く染まっていく。蝋燭の炎が掻き消えたのか、瞼を開けていられなくなったのか。カレンには判別が付かなかったし、それはどちらでもいい事のように思えた。




/2




 泥濘の奥底に沈んでいた体が、何かに押し上げられる感覚。
 千々に乱れていた意識が、光射さぬ闇の中で纏まり形となっていく。たゆたう体とそれが重なり合い、そしてカレンは目を覚ました。
 鉛のように重い瞼をゆっくりと持ち上げて、仰向けに転がったまま、視線を左右に走らせる。見覚えのある天井。窓から見える景色にも代わり映えは無い。教会の屋根裏に形作った、自分の部屋だった。
 あれほど血を流していたのに、手足にも体にも痛みは感じられなかった。
 このまま寝ているべきだろうか。一瞬思い浮かんだ怠惰を脇に追いやり、彼女は身を起こした。それだけの作業にすら、普段に倍する時間と労力が掛かってしまう。傷は塞がっているようだが、体力まで元通りというわけにはいかないようだ。
 よろよろと、ベッドの背もたれに背中を預けたカレンの口から、小さな溜息が漏れた。
「どうして……生きているのでしょう」
 命永らえた感謝よりも、疑問符がカレンの頭の中を埋め尽くす。助けを求める声など、自分は上げていない。なによりあの時教会には誰もいなかった筈だ。あのまま流した血の海に沈んで、主の下に旅立つ筈ではなかったのだろうか。
 小首を傾げたその瞬間、ノックもなく部屋のドアが開け放たれた。
「え……?」
 驚きの声は果たしてどちらが先だったのだろう。カレンの目の前で、見覚えのある顔が立ちすくんでいる。
 真鍮製の洗面器を抱えた衛宮士郎という名の少年が、目を丸くしてカレンの姿を見つめていた。
「ああ……なるほど」
 呟いたカレンの声は、口の中で消えそうなほど小さかった。耳には届かなかったのだろう、士郎は直ぐに安堵の表情を浮かべてカレンの側に歩み寄ってきた。
「良かった。目が覚めたんだな。ちょっと水を替えに行ってて気づかなかった、すまん」
 サイドボードの上に洗面器を置いて、ベッドの隣の椅子に腰を下ろす。そのまま洗面器の中のタオルを絞ろうとした士郎を見て、カレンは首を横に振った。
「大丈夫なのか? もう少し横になっていた方が良いと思うぞ」
「そうね、万全といえば嘘になるけれど。でもあなたにお礼を言う方が先でしょう」
 カレンの口元に小さな笑みが浮かんだ。驚きはこちらも変わらないが、まずは感謝の気持ちを表す方が先の筈。死に対して恐れは無いが、死に急ぎたいわけではなかった。そこから救い上げてもらったのだから、感謝を向けるのは正当だろう。
 しかし返ってきた答えは、いささかカレンの意表を突いたものだった。
「俺は何にもしてないよ。見つけたのは遠坂で、その後の治療も何から何までやってった。俺のした事って言えば掃除くらいだ」
「そう、凛が……」
 自分の体に視線を落として、カレンは得心した。そういえばあの日は定時連絡の日だった。
 身に着けている、サイズの大きめのTシャツも彼女の物か。そこから伸びた腕には、あれだけの血を流した傷の後が残っていない。尋常の医療手段では、こうして命を永らえているかも怪しいのだから、彼女の魔術が引き戻してくれたという事なのだろう。
「怒りのあまり早起きして、一本早いバスで来てしまったのが正解だって言ってたな。もう少し遅かったら間に合わなかったかもしれないって」
「そう」
「んで、ぶっ倒れてたあんたを担ぎこんで、それはそれは楽しそうに治療してた。これで貸し一だって」
 士郎の言葉に、カレンはその様を頭の中に思い描いた。
「……感謝すべきなのだけど、あまりそういう言葉が思い浮かばないのは不思議ね」
「あー、聞かなかった事にしとくよ」
 苦笑した士郎に向かって、カレンは微笑むと、手を組んで祈りを捧げた。
「助けていただき、ありがとうございました、士郎」
「お、おい。だから俺は何もしてないって……」
「あら、それでも今こうして私を気遣ってくれているのはあなたなのだから。私としてはお礼を言う相手はあなた以外いないのだけど」
「……いや、こう、真顔でそんな事を言われても困る。怪我人を助けるのは当たり前なんだから」
 褒められるという事に居心地の悪さを覚えるのだろうか、困惑した表情を浮かべる士郎の様が、カレンの中に小さな笑いを誘う。
 もう少し困らせてやりたい。そんな邪な、しかし抑えがたい衝動が鎌首を擡げてくるのを感じる。
「そうですか。でしたら一つ助けていただきたい事があるのですが」
「あ、ああ? どうした? 何でも言ってくれ。何か食べたいものあれば作ってくるし。っても、あんまり買い置きが無いからお粥くらいになっちまいそうだけど……」
「いえそれはまたの機会に。ですから」
 困らせたい。その欲望だけではない。
 彼らが自分の中に残していった物。その塊を解かなければならないと、カレンは思った。
 だから。
「教えてください、士郎」
 金の瞳が、たじろぐ少年の目を射抜く。
「どうして貴方は、彼らを切り捨てたの?」
 声高に叫んだ訳ではない。普段と代わらぬカレンの声に、しかし聞く者の反応は対照的だった。
 カレンを見つめる、士郎の顔が凍りつく。何かを言おうとしても、声が形にならないようだ。ただその視線だけが、あらぬ方向と彼女の顔を行きつ戻りつ定まらないでいる。
 荒れ乱れる士郎の心の中が分かるからこそ、カレンは説明を重ねる事なく、自らの疑問を言葉に代えていく。
「ねえ、士郎。正義の味方を目指すあなたが、どうして彼らへの救いに目を背けたの?」
「ちょっと待ってくれ、カレン。言っている事の意味が良く分からないんだが」
「気持ちを覆い隠したいのならば、せめて視線は定めておきなさい。そんな顔では赤子も騙されないわよ、士郎」
「いや、だからカレンの聞きたいことの意味が分からないぞ、俺は」
 すんなりと回答を得られるとは思っていなかった。カレンの予想通りに、士郎の表情は硬い。普通ならば、貝のごとくその口を閉ざしてしまう事だろう。だから彼女は持てる道具を駆使して、その口をこじ開けようとする。
「そう、なら分かりやすく言い直すわ。あの教会の地下であなたが目にしたモノは、救いを求めていた筈よ。あなたはその声を聞いている。でも彼らの願いは届かなかった。どうしてなのかしら?」
 士郎が椅子に腰掛けていても、カレンとの頭の位置は随分と違う。小首をかしげて顔を見上げた彼女の目に、何かを堪えるような士郎の顔が映る。
「これが他の誰かであるならば、私は気にも留めないわ。でも、その声を聞いたのはあなたなのに。どうして?」
「……言えない」
「え?」
「すまない、カレン。でも俺にも言えない事だってあるんだ」
 無理やりに笑顔を形作ろうとしたのだろう。引きつった顔で士郎は首を左右に振った。その言葉こそ、カレンの望んだ反応だった。
 知らないでもなく。覚えてないでもない。言えないのならば、言わせる手段は思いつく。
「そう、それならば仕方ないわ」
「…………助かる」
「でも残念ね。そうなるともう一度報告書の見直しをしないといけないのだけど。何せ凛のレポートからはそこの記述が抜け落ちていたから。勝者であるならば、当然あそこで何が起きていたかは知っていた筈なのだけど」
「それならなおさら俺に聞いたってしょうがないだろう。俺は聖杯には関わっていないんだから」
「ええ、そうね。第五次聖杯戦争の勝者は遠坂凛。そういう事になっているわね」
 カレンは微笑んだ。言えない理由がそれならば、もう少し落ち着いてもらわなければ、聞きたい話まで辿り着けない。もっとも、ひどく意地の悪い笑顔に見えているのかもしれないが。
「……何が言いたいんだ」
「安心しなさいと言いたいの。聖杯戦争の結果は私の前任が報告して、既に決定している事よ。今の所新たな報告書を上げるつもりは無いし、向こうもそれは望んでいないでしょう」
 動揺を押し殺した士郎の言葉はひどく壷惑的な響きでカレンの耳をくすぐる。何故なのか、彼女にもその理由は良く分からなかったが。
「決定しているなら、今更そんな言い方をする必要がどこにあるんだ。何を望んでるんだ、あんたは」
「最初に言った筈よ。私の望みは一つだけ」
 だからその感情に突き動かされるまま、カレンはもう一度口にする。
「教えてもらえないかしら、士郎。あなたが、彼らを切り捨てたのは何故なのか」
「違うっ!」
 突然浴びせられたその叫びに、カレンは小さく息を呑んだ。
 興奮と激情のせいか、士郎の顔には赤みが差している。普段はしないような鋭い視線で、カレンの顔を見つめている。
「……カレン。悪い、あんたが何でそんなに俺の事を知りたがってるか分からないけど。でも、俺だって言いたくない事や、言われれば腹の立つ事だってあるんだ」
「そう、それだけあなたの中で重い価値を持っていると言う事ね」
 微笑んだカレンの顔を見る、士郎の歯が鳴った。沸き起こる何かを、必死で押し殺すようにきつく拳を握り締めている。
 やがてその口から、深い、深い溜息が漏れた。
「……話せば、そのままにして置いてもらえるという事か。あんたが知る前、そのままに」
「何か勘違いしているようだけど、それで安心できるのなら。これはただ、私自身が知りたいと思ったことよ。それ以外に意味は無いわ」
「…………わかった。ただ、あんたに理解してもらえるかどうか、それは分からない」
「結構よ。聞かせて頂戴、士郎。あなたの言葉で」
 カレンがそう言うと、士郎は顔を伏せ、何かを堪えるように胸を掻き毟る。無意識なのだろう、その右手には、血管が浮き出るほど強く力が込められていた。
「…………やり直すことなんか出来ない。そう思っただけなんだ」
 震える声で言葉を搾り出す。まるで血を吐き出すような形相で床を睨みつけながら、士郎は言った。
「やり直す?」
「あいつは……言峰は、俺に言ったんだ。聖杯があれば願いは叶う。忌まわしいあの火災も無かった事に出来る。今目の前で苦しんでいる彼らも、君も救われるって」
「そう。あなたはそこで彼らを救う力を示されたのね。でも、それから目を背けた。どうして?」
「だって、おかしいだろう。やり直せばいいとあいつは言った。なら、それまでの俺はどうなるんだ。それまでの彼らの苦しみはどうなるんだ。悩んで、悩み続けて呪いを身に抱えて死んでいった切嗣はどうなるんだ。剣を抜いた事を最後まで悔やみ続けたセイバーはどうなるんだ。やり直せば、その思い全てが消え失せてしまうんだ。そんなの、誰かが勝手に決められる事じゃないだろっ!」
 士郎の声が、屋根裏部屋に響き渡った。怒りに震えている筈のそれが、何故だか悲鳴のようにカレンには聞こえた。
 俯いていた頭を上げた、士郎の顔には深い影が張り付いていた。目に見えない涙を流しながら、音のない嗚咽を漏らしている。今の彼は教会の屋根裏ではなく、死臭立ち込めるあの部屋の、あの時に戻っているのだろうか。
 同じ顔をした人間を、カレンは数限りなく目にしてきた。越えられない絶望を目の前にした人間は、皆同じ顔で立ちすくむ。彼らは垂れた蜘蛛の糸がどれだけ細くても、掴まずにはいられない。たとえ途中で切れるだろうと聞かされても、僅かの可能性に懸けて身をゆだねてしまう。
 なのに何故、同じ顔をした彼は、その糸から目を背けたのだろう。
 それを知らなければならない。そう、カレンは思う。
「おかしな話ね。彼らが言うには、あの場所で言峰神父は貴方に聖杯を与えると口にした。聖杯は、持ち主の願いをかなえる器よ。ならばどうして、あなたは「彼らを助ける事」をすら、願おうと思わなかったのかしら」
「それは……!」
「彼らの置かれていた状況を思えば、確かにそれが命を助ける事になったかどうかは分からないわ。でも、誰かを助けるためなら自らの命すら厭わないあなたが、その時だけは目を背け、彼らの声に耳を閉ざした。手を伸ばせば願いが叶う。そんな奇跡を示されたのに、ついにそれを拒絶した」
 カレンの頭の中で、離れ離れのパズルのピースが、音を立てて組み合わさっていく。目の前の士郎の顔が、出来上がりの絵を浮かび上がらせてくる。
「そう。第五次聖杯戦争の勝者は聖杯を破壊した。魔術師であるなら、いえ、人であるなら自らの願いを叶えられると聞いて目を背けられる者などいないわ。それを成し遂げられるのは、元から願いを持たない人間か、自らの願いを既に叶えた者だけ。遠坂凛では、それを成しえる事は出来ない筈よ」
「……聖杯は、汚染されていたんだ。もうアレは願いをかなえるような物じゃなかった。あのまま開放されていたらこの街がどうなっていたのかわからないんだから、破壊した事に問題はないだろう」
「ええ、遠坂凛の報告書にもあったわ。その事に嘘はないのでしょうね」
「この世全ての悪。そう、あいつは言ってた」
「そう、正義を目指すあなたには、決して許す事の出来ない存在ね。でも、聖杯の中身が仮に汚染されていなくても、勝者(あなた)にとってそれは価値のないものだったのではなくて?」
 返答はなかった。悲しみに沈んだ顔は変わらない。だが視線だけが鋭さを増してカレンを射抜いていた。彼女が初めて見た、それは彼の昏い怒りの顔だった。
 心の水面がさざめくのをカレンは感じる。
 幸せそうな顔をしている彼を、がっかりさせようと思った事は一再ではない。喜も哀も薄皮一枚隔てた隣りあわせなのだと、殊更に知らせる度にどこか楽しみを感じていた事は否定できない。しかし今彼が見せている顔は、それまでカレンが感じた事が無い意識を呼び起こす。慣れないその感覚が、欲望と呼ばれるものなのだと、彼女は気づいた。
 だから、足りない。もっとその奥底を覗かなければ気がすまない。
「私には答えたくないという事かしら? でも、私に対してはなくても、彼らに対しては答える義務があるのではないかしら?」
 そう言ってカレンは、シーツの下に隠れていた右腕を士郎の目の前に突き出した。
 無数に刻まれた、深い傷跡。その中に一つ、ふさがってはいても生々しい物がある。
「それは……」
「どうして、と。何度も何度も彼らは口にしていたわ。何故自分たちは死ななければならなかったのか。何故彼は、傷つきながらも聖杯(それ)を求めなかったのか。納得させられるかは問題ではない。でも、彼らに説明する義務は、あなたは持っている筈よ。忘れる事は許されない。望むと望まざるとに関わらず、あなたは背負ってしまったのだから」
「……忘れた事なんか、一度だって無いよ」
 ゆっくりと、二度三度首を横に振り、士郎は口を開いた。
「俺が殺したんだから、忘れられる訳が無いだろ。背負ってるなんておこがましい事なんか、言える訳がないんだ。彼らの叫び声は聞こえてた。助けて欲しいという声は、耳にこびりついている。でも、俺には出来なかった」
 士郎の顔から影は消え、淡い微笑が浮かぶ。今にも崩れて消えそうな儚いその表情に、カレンは小さく息を呑んだ。
「彼らを救う。全てをやり直す。ああ、ものすごい魅力的だった。誰も傷つかないもう一つの道があるなんて言われて、よろめかない筈が無いだろう。でもそれを天秤にかけても、俺はそれまで積み上げてきた衛宮士郎(お  れ)を曲げる事だけは出来なかったんだ」
 ああ、その言葉こそが聞きたかったのだ。
 カレンの口から、感嘆の溜息が零れた。
 衛宮士郎は一片の曇りもなく、自らの理想を信じ徹している。その裏で、手から零れ落ちた物の重さに心は悲鳴を上げている。矛盾だらけの精神が、小さくも逞しい体の中で渦巻いている。
 悲鳴を上げそうな苦痛がカレンの体を突き抜ける。士郎の心が剣となり、彼女の体を貫き通したのだ。押し入る彼の心が、内側から彼女を犯していく。
 慣れ親しんだ筈の霊障が、異質な感覚で彼女を蝕む。堪えきれず、その唇から小さな吐息が漏れた。
 なんという、異常な在り方なのだろう。
 この地に至るまでカレンが祓い続けてきた悪魔は皆、人の心に救う弱さが形となったモノだった。自分の弱さを弱さと認められない。人間が皆切り離せない宿業に巣食う不治の病巣だ。
 だが、目の前の男は違う。自らですら折る事の出来ない心の強さが、巣食って深い根を張っている。ただ向きが逆なだけで、紙一重の狂気を内に抱えて育んでいるのだ。
 悪魔は人の心が育む異形。ならばこれを悪魔と言わずに何と言う。これを祓わずに、何のための悪魔祓いなのか。
「そう……」
 こみ上げてきた血の味を飲み込んで、カレンは微笑んだ。
「あなたは我慢が出来なかったのね、士郎。自らの力で自らの理想を守らねばならないと、その強固な意志が語りかけている。その心に従う以外の道を知らない。他人の手を借りる事すら、許されないと思い込んでいる。でも、救いを与えられなかった者にとって、あなたの理想は自らの命につりあうものだったのかしら」
「……それでも、俺はこの道を張り通すしかないんだ。でなければ、皆嘘になってしまうだろ」
「石持て追われる道よ? あなたの道は、人間の歩める道じゃないもの。自らの痛みに耐えられる人間はいるわ。他人の痛みに気づかない人間も沢山いる。でも自らの痛みを知らないくせに、他人の痛みに気づき、それを自らの痛みとして感じながらなおそれを踏み越える事ができる者など、他にどれだけいるのかしら」
 カレンの手が伸び、士郎の頬に添えられた。
 びくりと、一度だけ彼の体が震えたが、払いのける手は無い。士郎は顔をそらせる様子も無い。カレンの指先に伝わる彼の温もりは、他の人間と変わらず温かい。体の奥底の疼きは、少しだけ収まりを見せた。
「こうして、私は沢山の人間に触れてきたわ」
「なに、を……カレン」
「心優しき人もいた。他人に厳しく自分に甘い者も、その逆も。罪人も、無垢な赤子も。心に闇を抱えた者も、沈み込むほど深い闇が在る事に気づいていない者も。一人として同じ考えの者はいなかった。でも、一人として救いを求めぬ者はいなかったのよ」
「俺が、そうじゃないって言うのか」
「違うのかしら? あなたの周りには、温もりに包まれた日常がある。望んでも得られない人々が数多いる揺りかごよ。それに身を委ねても、あなたは責められる謂れは無い。奪われた物の大きさを考えれば、自ら望んでもなお足りない筈。乞い求めても、皆それを喜んで受け入れる事でしょう。なのにあなたはそれを振り捨てようとしている」
「違う。そんな事は無いよ。皆の事は大事に思ってるし」
「ええ。あなたは確かに、今ある日常を大切にしようとする努力をするのでしょうね。でも、あなたにとってその「皆」とは、一体どこまで広がっているのかしら」
 皆を守りたい。そう思う心は人間の純粋にして気高い在り様だ。しかし普通の人間にとって、その範囲など限られている。しかし衛宮士郎にとって、「皆」とは目に映る全てなのだ。それが不可能であると他ならぬ自分自身が気づいていても、彼はその理想を捨て去る事は出来ない。
「赤子は両親だけが世界の全て。だけど成長と共に世界は広がっていく。今のあなたの世界はこの町だけかもしれない。でも、それがこれから先も同じ筈が無い。そして世界が広がれば、あなたはきっと我慢が出来なくなるのよ」
「……買い被りだって。この街には沢山世話になった人がいるんだ。藤ねぇや雷画の爺さんには返しても返しきれない恩があるし、遠坂にも、桜にも世話になってる。彼らに迷惑は掛けられないよ」
 士郎の手が、壊れ物を扱うようにカレンの手に添えられた。そっと、自らの頬に触れるその手を引き離す。
「……もういいだろう? あんたが何を知りたかったのか分からないけど、これで答えになったのか? これ以上聞かれても、答えようの無い質問は正直、困る」
「まだ足りないわ」
「ならせめて体調万全になってからにしてくれよ。あんたは一度死に掛けてるんだ」
 士郎の目が、カレンの腕に刻まれた傷跡をなぞりあげる。
「そんなになってまで、何だって他人のために祈れるんだ。もう少し自分を労わらなければ駄目だろ、あんたは」
 一欠けらの疑念も、毛ほどの嘲りもなく。彼は諭すようにカレンに言った。
 その言葉の意味を噛み締めたカレンは、目を丸くして。
 そして小さく噴き出した。
「……真剣に言ってるんだぞ、俺は」
「ええ、ええ。そうでしょうね。あなたという人は、そういう人なのでしょう」
 本当に、彼の目には周りの人が良く映る。あれほど自らの傷を突付き抉った相手に対してさえ、そんな言葉が出てくるのだから。
「あなたは他人の痛みにだけ目を向けて、その痛みを踏み越えて進むのね。でもその背中には、切り捨てた彼らの痛みを背負って歩み続けている。だから衛宮士郎(あなた)は止まれない。止まってしまえば、背負った彼らの痛みが嘘になるって思ってるから」
 膝立ちになったカレンは、今度は両の手を伸ばして、士郎の頭に回した。呆けたように自分を見つめる士郎の目を、その金色の瞳で受け止める。
「血を流しながら歩み続けるあなたに、この世界がどう見えるのか分からないけど……」
 そのままカレンは、後ろに体重をかけた。
「うぉっ?!」
 完全に虚を突かれた士郎は、そのままベッドに引き摺り倒される。彼が呆然としている内にカレンは馬乗りにのしかかって、その顔を覗き込んでいた。体の重さはどこかへ消えていた。側にいすぎたせいで、彼の心だけでなく力まで流れ込んでいたのかもしれない。
「ちょ、カレン、一体何を……!」
「きっと世界全てがその背中に圧し掛かっても、あなたの心は折れないのでしょうね」
 セイギノミカタとはなんという強いあり方なのか。そしてその殻の下の心は、どこまで傷つき易く脆いのか。
 決して他の人には見える事のないそれが、今自分の中に映し出されている。カレンの口から漏れる吐息は熱を帯びていた。
 何かを欲しいと思った事は久しくなかった。与えられた仕事をこなす毎日が、自分なのだと思っていた。
 そんな自分が、知りたいと思った。その相手を今、この手の中に抱いている。
 手を離したくないと思うことは不遜なのだろうか。彼の奥底をもっと見たいと思う事は、不道徳極まる行いなのだろうか。
 自分では決められない。決められない答えは、彼に聞けば良い。
「だから、私一人の重みくらいは、支えてみせてください……」
 彼の答えはなかった。
 ただ、重なり合った唇が刹那震えて、それも互いの熱に飲み込まれていった。




/3




 士郎の体は、カレンが想像していたのよりよほど男を感じさせるものだった。
 服の上からでは分からなかったが、胸板は厚く盛り上がっている。所在無さげに投げ出されたその腕は、枯れ枝のような自分とは違う、若木のしなやかさと逞しさを併せ持っている。
 鍛え上げられた腹の上に跨っているだけで、カレンは士郎の熱に燃やされそうな錯覚を覚えてしまう。同じ事を彼も思っているのだろうか。それとも、傷に塗れたこの裸など、温もりを感じる価値もないと思っているのだろうか。
 カレンの疑問を遮るように、跨った彼女の尻の肉を、硬くそそり上がった陰茎が震えて突付きまわしている。
 彼が求めているというのが、それで分かった。
「あら。興奮しているのね、士郎」
「違う、もう、やめ……」
「止めて欲しいの? あなたを戒めるものは何もないわ。私の体など、その手で突き飛ばせば良いだけの話なのに」
「こ、の……」
 苦しげに呻いた士郎は、視線をあらぬ方向にさまよわせる。投げ出されていた腕がよろよろとあがると、カレンの方に掛かる。掌の震えが、彼女の体を小刻みに揺らした。
 そして士郎の視線が、カレンの視線と重なり合う。
「あ……」
 小さく呟いた士郎の手から、力が抜けた。滑り落ちた指が緩やかに背中から背中を駆け抜け、その感触に彼女は体を震わせる。
「期待しているのね。この体を貪りたいと、望んでいるのね士郎」
「…………違うと言っても、信じてもらえないだろ、こんな状態じゃ」
「意思に反した行いなの? そんな事をすると言うのかしら、あなたが」
「……したい」
「え?」
「俺は……俺が、カレンとしたい」
 士郎が呟く。消え入りそうな声は、しかしベッドの中に沈みこまずに、カレンの耳を打った。
 答えが返ってくるとは思っていなかった。目を丸くした彼女が見下ろせば、士郎は顔を背けて頬を染め、目を瞑ってだんまりを決め込んでいる。
 当たり前の事を言われただけかもしれない。ここまでお膳立てを整えられて、なお背を向ける男をカレンは知らない。たとえ士郎でも、この状態でお預けを食わされれば随分と切ないものだろう。
 それでもその言葉はひどく新鮮で、彼女の心に染み入ってくる。
「そう、では味わってください。心ゆくまで」
 カレンは体をゆっくりと倒す。跨る体制から、士郎の側に寄り添うように。息が重なるほど寄せた顔をもう一息進ませて、唇を合わせた。
 薄く開いた隙間から舌を忍び込ませると、戸惑いを見せながら士郎の舌も応えて絡まりあう。直ぐに溢れた互いの唾液が、唇の端から顎先を伝わり落ちてシーツに染みを作っていく。
「ん……くぅ……ちゅ……」
 湿った音を立てあいながら、カレンは両の手を動かす。左手は、士郎の頭に回される。そして右手は胸板から腹へと滑り落ち、
「ん、くぁっ?!」
 士郎は驚きに目を見開いた。カレンの右手が、いきり立った陰茎を包み込んだからだ。反射的に反らそうとした頭を、彼女の左手が掴んで抱え込み逃がさない。
 そのままカレンの右手の指が陰茎に絡みつき、ゆっくりと扱きあげていく。肌同士の乾き擦れ合っていた感触に、直ぐにあふれ出した先走りが絡みついて粘った音を立てていく。
「く、は……カレン、それ…………んむっ」
 口付けに混ざる悲鳴のような士郎の声を、カレンは吸い取り飲み込んでしまう。上唇を挟み込み、舌先で内側を舐め回す。追いかけてきた彼の舌先を、歯先で甘噛みその先をノックする。手の中の彼のペニスはその間も熱く、硬くなっていく。裏筋を指の腹で擦り上げれば、切なげに震えてなお一層強張りを増す。指で輪を作って雁首を締め上げると、あふれ出す先走りが彼女の手をドロドロに汚していく。
「だめ……だ、カレン、それ、以上……」
「出そうなの……ん、そのまま、出して……」
 唇を離して、カレンは微笑んだ。そのまま右手に力を込めて、一際強く士郎の陰茎を擦り上げた。
「く、あ……」
 びくびくと震えた前触れは一瞬で、膨らんだ亀頭の先から呆れるほどの勢いで精液が吹き上げた。包み込んでいたカレンの手を汚し、跳ね返りが彼の腹にも飛び散る。
「凄い……熱いわ……」
 荒い息をつく士郎の目の前で、カレンは汚れた右手をひらめかす。鼻を付く青臭い匂いを気にも留めず、彼女は指先に伝った白濁の雫を舌先で舐め上げた。
 幾度も味合わされた精液の味は、相手が士郎であっても変わる事はなかった。鈍った彼女の味覚でも、これが美味ではないという事くらいは理解する。
 それでも、済まなそうな顔でその行為を見やる士郎の顔に、彼女の中で悪戯心が芽生えていく。
 触れるか触れないか。士郎の鼻先に右手を近づけて微笑む。
「要りますか? あなたの中で作られたものですが」
「いや……それはちょっと、その」
 本気で顔をしかめる彼の顔が、カレンはたまらなくおかしかった。このまま無理やり彼の口元に塗りつけて、怒らせるのも面白いかもしれない。
 だが芽生えた嗜虐を摘み取って、彼女は身を起こすと再び士郎の腹の上に跨った。太股の付け根はもう、ドロドロに濡れている。口付けを重ねて、士郎のペニスを手で慰めた。それだけの行為が、彼女の奥底を蕩けさせている。
 蜜に濡れきった自らの淫花を、熱に浮かされた勢いで彼女は綻ばした。
「く、ぅん……!」
 軽く指先で触れただけ。それなのに脳髄が痺れてカレンは気をやりかけた。彼の精液に塗れた指で弄っているという行為が、ペニスの先でつつかれ遊ばれているような錯覚を生み出してしまう。
 耐え切れず、カレンは指を中へ滑り込ませた。人差し指と中指を交互に動かし、指の腹で膣の壁を擦りあげる。絡みつく肉がこね回されるたびに彼女の体を震わせる。
「う、わ……」
 漏れたその声で、カレンは士郎の目の前だった事を思い出す。耳の裏まで真っ赤に染めあげ、食い入るように士郎はその光景を見つめていた。
 堪えきれず指で慰めてしまった。羞恥がカレンの顔も染め上げ、そして綻ぶ隠花の蜜をなお一層溢れさせていく。
 士郎も同じなのだろう。吐き出したばかりなのに陰茎は硬さを失わず、先ほどよりもそそりあがって震えている。
 待つ必要はなさそうだった。待ちきる自身もなかったから、ちょうど良かった。
「下さい、士郎を……奥深くまで……」
「…………ああ、俺、も……」
 腰を浮かせたカレンは、彼の精液に塗れた手で、ペニスをつまみあげる。綻んだ陰唇に先を宛がうと、そのまま一息に腰を落としこんだ。
「か、は……っ!」
「く、ぅぅ……」
 脳髄まで貫かれた。そう思うほどの圧迫感と勢いがカレンの体を突き抜けた。失われていた欠片が嵌めこまれた充足感が彼女の意識を満たしていく。
 士郎の心が侵し入ってきた時は、体全てが引き裂かれるような痛みに襲われた。今、士郎の肉体が犯し入り潜り込んでいる。打ち込まれたペニスは燃え盛るように熱い。でもそこに苦痛はなく、慣れない感情が彼女の脳裏に浮かんでくる。
 それを何と呼ぶべきか、カレンは答えを見つけられない。だから体の求めるまま、ゆっくりと腰を動かし始めた。ペニスの脈打ちにあわせるように、ゆっくりと腰を浮かせて、そして再び根元まで飲み込む。
「く、は……きつ、う……」
 行為自体に慣れていないのだろう。士郎は腰を動かす事も忘れて、カレンの与える快楽に流されるまま。幼子のようなか細い声を上げている。
 足りないと、カレンは思った。
 物理的なサイズが問題なのではない。むしろ大きい方だと思う。いきり立った肉の凶器は、彼女の膣を埋め尽くし、溢れる蜜をこそぎ取る。
 動かない相手は初めてではなかった。カレンに腰を使わせて楽しむ男も、カレンを組み敷き、ただ自らの性欲を満たす男も同じ数だけいた。
 今までと何も変わりはない。ありふれた行為の筈なのに、足りないと思った。
 彼にも動いて欲しい。一緒にして欲しい。そう、カレンは思ってしまった。
「どう、して……く、ぅ、ふぁ……」
 戸惑いを消化できぬまま、カレンは腰を動かす。ひどく頬が熱い。火照った肌にはうっすらと汗が浮かび、士郎の胸に小さな水跡を残していく。
 何故かひどく恥ずかしくなり、カレンは士郎の胸に倒れこむと、そのまま唇を重ねた。
「ん……」
 彼を知りたいと、思っただけ。その奥底が見たい。衝動はそれが理由。自らの感情に理由をつけて、カレンは士郎の唇を貪る。飲み込んだままのペニスは、腰を摺り寄せ柔らかく締め上げ、萎えさせないように気を配る。
「気持ち、ふぅ。良い、ですか、士郎……」
「良い、けど、でも……」
「か、んじてください、私、を……それだけ私にはあなたが良く見えるようになります、くぅ、から……」
 唇から鼻先へ、舌を滑らせてカレンは士郎の味を知る。浮かんだ汗の塩味は、不快ではない。戯れに鼻先を甘噛んだ時、慣れぬ感触に彼女の体が包まれた。
「ふぁ、ぅ……ん?」
 背中が締め付けられ、体ごと士郎の体に押し付けられる。圧迫感の正体を知り、カレンは困惑した。
 投げ出されていた筈の士郎の腕が、彼女を抱きしめている。そのまま、太い無骨な指が彼女の髪を撫で下ろす。今まで身に覚えのない感触に、彼女は目を丸くして、士郎の顔を見ようとした。
 距離が近すぎて、その顔はぼやけたまま。しかし伝わる声は間違えようもなく、耳からカレンを揺さぶってくる。
「してもらうんじゃなくて、したい」
「え?」
「一緒に、しよう。だからそんな顔はしないでくれ」
 そう言って、士郎は体を起こした。股間はつなげたまま、向かい合うカレンは彼の太股の上に腰を落としている状態だ。
 唇が彼の顔から離れ、ぼやけた目の焦点が結ばれる。カレンを見つめる士郎の顔は、快楽に蕩けたものではなかった。
 少年の目は、寂しそうに彼女の顔を見つめている。
「な、ぜ……そんな顔を」
 カレンには理由が分からなかった。女に組み敷かれ犯される怒りでもない。与えられた快楽に溺れた、しまりのない顔でもない。肌を重ねた相手にそういう顔をされた事は、カレンの経験にはなかった。
「嫌ならば拒んでもいいのに。途中で止められて切ないのであれば、道具として使ってくれて構いません。私は貴方を知りたいだけですから、求められる対価は支払いましょう」
「そうじゃないだろ。そんな気持ちでこんな事は、俺は出来ない、から」
 士郎の手が、再びカレンの背中に回される。力任せに抱きしめられて、息苦しさに包まれる。しかしそれに不快さは感じなかった。
 飲み込んだままの士郎のペニスが、膣の中で震えている。もう少し、彼女が腰を動かせば彼は果ててしまう事だろう。彼の肉体は望んでいる。それが分かる筈なのに、彼女の体は動かない。
 見つめる士郎の目に絡めとられたように、カレンは動く事が出来なかった。
「あんたは俺の事を、血を流しながら進んでるとか言ってたけど」
「あ……」
 士郎の手が、カレンの背中を撫で上げる。不器用な手つきにこそばゆさが混じるが、伝わる温もりが彼女に小さな声を上げさせる。
「あんただってそうだろ。もう少し甘えたっていいんじゃないのか」
「甘える、ですか……?」
「さっきみたいにたとえ笑っていても、それが伝わってこないからなんか寂しい。そう思うのはおかしな事か?」
 カレンはその言葉に曖昧な笑みを浮かべる。この顔を彼は嫌だと言うのだろうか。だが今、浮かべるべきそれ以外の表情を彼女は思いつかなかった。
「経験のない事は出来ません。何かをしたいと思ってした事など、数えるほどしかありませんから」
「……だったら、今くらいはいいだろ。俺はしたいと思って、抱いてるんだから。カレン、も……」
 初めて、士郎の方から唇が重ねあわされた。
 たどたどしいやり方で舌を絡めてくる。快感を生み出そうというよりも、やり場のない思いをただぶつけてるよう。時折歯先が当たり、互いに顔をしかめる羽目になる。
 それでもカレンは、士郎の行為に体の奥が熱くなる。
「正直……あんたの事は嫌いだ。ずけずけと、嫌な所に踏み込んでくる……ん……」
「でしょう、ね……く、ん、む……ふぅ、す、かれるような行いは、していないでしょうから」
 口付けの合間に交わす言葉に容赦はない。彼の言葉を受け取る度に、カレンは右手の甲に引き裂かれるような痛みを感じる。士郎の強い思いが映し出されているのか。股間を蕩かす異物の快感とは違う、手の皮を突き破りそうなその違和感を、しかしカレンは愛しいと思う。あけすけな彼の心が映し出されているという事なのだから。
 士郎の手がカレンの髪の毛を撫で下ろす。そのまま滑り落ちた手が、彼女の腰にかかり、ゆっくりと力を込めて持ち上げられた。それに合わせて彼の腰が動いて、彼女の中を抉り始める。
「くぁ、はぅんっ! 士郎、いきなり……!」 
「さっきはそっちがいきなり、だった、ろ……!」
 突然の感覚に小さく悲鳴を上げたカレンだったが、すぐにその動きに合わせて腰を降り始めた。
 先ほどとは違う。比較にならなかった。臍から下が蕩けて交じり合ってしまったかのようだった。奥底全てを抉られるような体位ではない筈なのに、士郎の全てが彼女の中に分け入ってくる。内の隙間が彼に埋められる。自分の肉が彼に絡みついて離さない。それでも、もっと欲しいと彼女は思う。足りないから埋めて欲しいのではなくて、満ち足りているからこそ、さらに求めて動いてしまう
 今の自分がどんな顔をしているのか、カレンには分からない。ただ、士郎の顔から寂しげな影は消えている。
 これが甘えるという事なのだろうか。
 今、カレン・オルテンシアは衛宮士郎を受け入れているのだろうか。
 甘えるという意味はカレンにはよく分からない。だが、士郎の事をもっと知りたいと思う欲望は紛れもない。
 だからカレンも士郎の背中に手を回して、しがみ付いた。内だけでなく外にも隙間があることが耐えられなかった。
 びくびくと、カレンの中で士郎が震えている。彼女の目の前に靄がかかる。腰が止まらない。士郎の肩に顔を埋めて、湿った肌を摺り寄せる。お互いの限界が近い。堪える事は出来そうになかった。
「カレン、出る、から……離れ」
「い、や……です」
「え、それ、は」
「下さい、士郎。中に、沢山……!」
 士郎の耳たぶを甘噛んで、カレンは気持ちを囁いた。今離れるなんて耐えられない。掴んだ彼を手放すなど、出来るわけがない。
 一際強く腰を振る。陰唇に力を込めて士郎の根元を締め上げる。途切れ途切れの吐息を絡めて、彼の心を手繰り寄せる。
 カレンの手の甲に鋭い痛みが走りぬけた。堪えきれず育んだ、士郎の心が皮を裂いた。それすらも愛しく狂おしい。赤い流れが滴り落ちるのが惜しいと、彼の背中に塗りつけた。
「ふぁ、ぁ、あぁぁぁっ?!」
「く、で、出る……っ!」
 それが彼女の堰を切り、士郎の堤防も崩れ去った。
 叩きつける勢いで、カレンの膣内に精液が吹き込む。胎内を焼かれる淫蕩な熱に、彼女の視界も白く染めあげられる。
 何も考える事が出来ない。力の抜け切った手足は士郎にしがみ付く事すらかなわない。
 だからカレンはただ体に従うまま、彼の胸に体を預けた。一瞬よろけて諸共に、ベッドの上に倒れこむ。
 伝わる感触は変わらない。シーツの乾いた物ではなく、汗に濡れた、心地良い温もりのままだった。
 互いに言葉は出てこない。しかしまどろむ意識の中で、確かにまた抱き寄せられた。その事にひどくカレンは安らぎを覚えていた。




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 陽の落ちた屋根裏部屋は、甘く湿った空気に満ちていた。
 真円の月光が窓から差しこみ、ベッドの上の二人を照らし出している。熱のない光に、しかし心誘われたのか、カレンは一度身を捩るとゆっくりとその瞼を開けた。
 身を起こし、カレンは傍らに横たわる士郎を見やる。獣のような情愛の名残はもう消えうせ、彼は穏やかな顔で寝息を立てていた。あれから覚えている限りで三回も精を吐き出したのだから、それは疲れることだろう。
 そっと手を伸ばして、彼女は人差し指でその頬をなぞった。二度三度、士郎は瞼を震わせるが、そのまま眠りに身をゆだねている。もうしばらく起き上がる様子は無さそうだった。
 小さく息をついて、カレンは自らに掛かったシーツを捲ると、ベッドから立ち上がった。一糸纏わぬ裸身は、月明かりに淡く輝いているよう。しかしその身に痛々しくも刻まれた傷跡が、彼女の歩んだ道のりの険しさを物語っている。
 その全ての由来を、彼女は覚えている。そして今日、新しく刻まれた傷跡も。
 そっと左手で右手の甲をなぞり上げる。痺れるような痛みが体を走り抜け、彼女は小さな悲鳴を漏らした。
「く……」
 慣れた筈のその痛みは、しかし彼女に新鮮な感覚を呼び起こす。
 猛る士郎の心が刻んだ、体の違和感は今は消えうせている。無垢に眠る今の彼は、紛れもなくただの人に戻っている証なのだろう。
 それが名残惜しいと、傷跡の痛みは彼女に訴えかけているようだった。
「全く……」
 溜息をついたカレンは、眠りに落ちる前、交わした会話を思い出す。

「……結局、間違ってるって言いたかったのか、あんたは」
「そんなつもりはありません。言った所で聞く耳を持たない事を確認しただけです」
「……ひどい言われようだな」
「もっとも、新しい楽しみも出来ましたから等価です。目に映る人々全ての思いを纏わり付かせて、あなたは一体どこまで歩み続けられるのでしょうね。数歩で力尽きるのか、それとも呆れるほど遠くまで進めるのか。溺れた猫が届かぬ岸を目指すように、せいぜい足掻いて見せなさい」
「今更だけどさ、聖職者と思えない台詞だな、本当……」
「それこそ今更ね。聖杯の奇跡にすら目をそむける変わり者が、口先の救いに耳を傾けるとはとても思えませんから。救いを求めない善人など、偽りの涙を流す咎人よりなお度し難いわ」
「そんなのあんたも一緒だろ。自らを傷つける者相手に祈りを捧げるなんて正気じゃない。いい加減自重を覚えてもバチは当たらないと思うぞ」

 ――カレンの口元が、ゆるく弧を描いた。
 本当に、衛宮士郎は変わらない。いつだって彼の目には、自分だけは映らない。そして同じ事を彼も言うだろう。反論しても聞く耳を持たない所もお互い変わるまい。
 微笑を浮かべたまま、カレンはそのまま膝をつくと、両手を重ねて組んで目を閉じた。
 仕事をするには不適当な格好かもしれない。そんな思いがカレンの頭を掠めた。しかし、届かぬ者に捧げる事を思えば、これくらいの不謹慎さがむしろ相応しい気がした。
 肌寒さも、板張りの床の冷たさも感じなかった。残された彼の熱が衣となって体を包んでいる。体を重ねて温もりを覚えた記憶など今までなかった。慣れぬこの経験にカレンは戸惑いを感じていたが、同じだけの居心地の良さも覚えてしまう。
 安らぎを与えられるという事は、こういう事なのだろうか。カレンには分からなかった。比較できる経験のない事は、理解しようがない。
 それよりも、すべき事を今は為すべきだ。思いなおした彼女は、目を瞑り頭を垂れた。
 カレン・オルテンシアは祈りを捧げる。
 声はない。聖句もいらない。
 ただ衛宮士郎に対して抱く無言の想いが、部屋の空気を静謐に染め上げていく。
 オルガンを覚えるのには、それなりの時間を要した。だから彼の全てを見極めるのにも、少しばかり時間がかかるのだろう。
 そんな事を、思いながら――




 ――彼の魂に、祝福を。





【FIN】

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