■ 鏡像 ■





 ゆっくりと、景色が背後に流れていく。
 天気は雲ひとつない快晴。日差しは少しばかり厳しいけれど、こうして街中を走るにはとても良い日に思える。
 すれ違う町の人たちも、視界に潤いを与える街路樹も、そして落ち着いた佇まいの町並みも、どれも好み。運転しながらでは危ないと分かっていても、思わず視線があちらへこちらへ。どれも見逃すには惜しい光景なのだもの。
 だからその建物が視界に入ったのは、自分の移り気のお陰だったのだろう。
 反射的にブレーキレバーを握りしめると、乗っているヴェスパがきぃきぃと金切り声を上げてくる。老骨に鞭打たせている、性格の悪い主に対する抗議かしら。だけど私より遥かに坊やなんだから、もう少し元気でいてもらわないと。
 エンジンを切ってスタンドを立てる。そのまま顎紐を外して、窮屈なヘルメットを脱ぎ捨てる。押し込めていた髪の毛を、柔らかい風が巻き上げていく。その感触がとても気持ちよかった。
 ここがローマだったら良かったのに。日本はとてもいい国だと思うけれど、スクーターを乗るのにもヘルメットを要求する堅苦しさはちょっと苦手。
 だけど些細な不満は、その店の概観で吹き飛んでしまった。
 素敵ね。そんな言葉が自然に口をついて出る。
 奇麗に纏まった現代風の外観の店が立ち並ぶ中で、そこだけはまるで時が止まったようだった。積み重ねた年月が醸し出す風合いが、見る者の心を惹きつけて離してくれない。
 この雰囲気のもたらす効果は、年月を重ねた人間には効果覿面。まんまとその思惑に乗ってしまったみたい。こうして足を止めてしまったのだから、寄らない訳にはいかないわよね。
 シートを上げてヘルメットを入れて、代わりにハンドバッグを取り出した。スクーターとおそろいの白。今ではもう手に入らないくらい古い型。丁寧には使ってるつもりだけど、さすがに端々の傷みは隠せない。だけど別の物を使う気にはなれなかった。あの人から貰った、大事な宝物だから。
 キーを仕舞って、ドアに吊るされた店の名前に視線を走らせる。
 思わずにんまりとしてしまった。
 アーネンエルベ――ドイツ語で『遺産』を意味する言葉。
 なるほど、この店の名前にはうってつけね。
 その言葉の響きに口元を緩めたまま、ゆっくりとドアを押し開くと、目の前に広がろう光景は想像通りの物だった。
 壁に空けられた四つの明り取りの窓以外に、照明のない店内。昼間でも薄暗いこの雰囲気が、名前に相応しい雰囲気を作り出している。
 正午を少し回ってる所為だろうか、客は私の他には二人だけ。
 一番手前の、窓側のテーブルで、二人の少女が親しげに話している。一見すると修道女の礼服に見える服装を二人ともしているけれど、どこかの神学校の生徒なのかしら。日々の禁欲的な生活の繰り返しに耐えかねて、ちょっとした冒険気分で抜け出してきているのかもしれない。
 勝気そうな黒髪の少女が、大人しげな少女に向かって色々とまくし立てている。早口の日本語は流石に良くわからないけど、伝わってくる感情はとても温かい。
 多分話題は好きな男の子の話なのだろう。それはあの年頃の女の子にとって、とても重要な悩み事。話す方だって熱が入っても不思議じゃないわね。
 私もあの年頃の時はそうだった気がする。さすがにはっきりとは思い出せないけれど、時代や場所が変わっても女の子の中身は変わらない筈だもの。
 おぼろげな記憶に思いを馳せていると、不意に少女がこちらに目を向けてきた。
 いけない。思ったよりもじっとその光景に見入ってしまっていたみたいだった。彼女からすれば見知らぬ外国人にずっと見つめられていたのだ、さぞ怪訝に思った事だろう。
 ごめんなさいね。
 思いを顔に乗せて微笑むと、少女の慌てたような感情が伝わってきた。その明け透けさを微笑ましく思いながら、日の差し込まない奥の席に腰を落ち着けた。
 少女たちの世間話にお年よりが立ち入るのはマナー違反。これ以上の野次馬根性は奥底に沈めておかないと。
 あの若い生命の眩しさに心惹かれるのは、一瞬だけでいい。太陽の光と一緒で、あまり長い間浴びているのは体によくないもの。
 確かに私も、外見だけなら彼女たちと変わらない。十六の時から体は一切の成長を止めてしまっているのだから。
 でもその中身はもう、越えられないほど高い壁で区切られてしまっている。
 ハンドバックを膝に置いたまま、溜息が口をついて出た。もう求めてもしょうがないものだし、思ってもしょうがない事だけど、それでも少し中てられてしまったみたい。
 陽だまりの特等席は少女たちへ。私は奥まった薄闇の中。それが互いの正しい在り方に違いない。
 火照った私の心を覚ましてくれるかのように、氷水の入ったグラスをトレイに載せて、ウェイトレスが注文を取りにやって来るのが見えた。
 初めて入るお店での、一番楽しみな瞬間。余計な感情を微笑みと共に洗い流して、テーブルの脇に置かれたオーダープレートに手を伸ばす。
 店内に響くピアノの音は、耳障りに鳴らない大きさに絞られている。流行の歌を得意げに流すような風情のない店も多い中で、耳に届く音色がとても心地良かった。
 優しい調べの織り成す檻の中で、まるで時間の流れから切り離されたかのような空間。時間に置いて行かれてしまっている者にとって、正にうってつけの場所じゃないかしら。
 十九世紀から二十世紀になった瞬間、流れ出す時の速さは随分と変わってしまった。そしてもう、二十一世紀も間近に迫っている。
 地球の反対側まで一日でいけるようになってしまったり、行った事もない国のニュースを、まるで今起きた事のように居間で知ることが出来てしまう。たかが百年なんて、私にとっては一昔のようなものだった筈なのに、めまぐるしい変化は老婆を置いてけぼりにしてしまう。
 そんなせっかちな時間から切り離されたこの店の雰囲気を、心ゆくまで味わっていたい。
 だから、そうね。今日はちょっと多めに頼む事にしようかしら。









 入り口のドアに仕掛けられた鈴が、涼やかに鳴り響くのが聞こえてくる。
 その音に、目の前のタルトから視線を上げた瞬間、私は思わず息を呑んだ。
 入ってきたのは一人の女性だった。
 眩しい程の白い輝き。それが頭に思い浮かんだ言葉。
 この国の人にはありえない、白く抜けるような肌。肩口で切りそろえられた髪は私と同じブロンドだけど、まるで別物だといわんばかりにきらきらと光り輝いている。白いサマーセーターに紫暗のロングスカートは、シンプルなデザインゆえに彼女自身の持つ飛びぬけた美しさを殊更に際立たせていた。
 鏡に映らない私には、自分自身の顔が分からない。友人であるケイトのお世辞交じりの評価や、幾度か描いてもらった似顔絵を見る限り、悲観する必要はなさそうなのだけど。でも彼女相手には白旗を振るしかなさそう。
 呆けたように見入ってしまっていると、ふいに彼女がこちらに視線を向けてきた。まるで先ほどの少女との光景の焼き直し。ただ違うのは、彼女の瞳に込められている圧倒的なまでの力だった。
 紅玉のような輝きを放つ瞳が、じっと私の顔を見つめている。
 言葉はない。そんな物必要なかった。  私の眼を奪った美貌など、彼女の本質の前にはささやかな彩でしかないのだと、その瞳が告げていた。
 背中に冷たいものが流れていく。全身が粟立って、悪寒が突き抜けていく。
 目を反らさなければいけないと思うのだけど、それが出来ない。全てが彼女の視線に握られてしまっているようだった。
 かつてあの人と共にバッキンガム宮殿で相見えた、恥知らずで貪欲なる皇 婿。(プリンス・コンソート)彼が向けてきた荒々しく野卑な威圧感などとは比較にならなかった。
 研ぎ澄まされた銀の刃が首に当てられてると錯覚してしまう。いえ、きっと錯覚なんかじゃないわね。彼女の機嫌一つで、今すぐにでも私の首は胴と生き別れてしまうに違いない。
 遥か、遥か昔の日。我が闇の父シャンダニャックより聞かされた言葉が、脳裏を掠める。
 曰く、決して真祖の姫君には、近寄ってはならない。
 滅びの道を歩みたくなければ。永く世界に在り続けたければ、白き姫の側には決して近寄ってはならない。
 その名は死の具現。魔にして魔を狩る姫。何人もその白き腕から逃れる事あたわぬのだから。
 長生種(エルダー)の雄として悪名を轟かせていた我が父が、その時ばかりは恐れを隠さずに声を震わせていたのを思い出す。
 教えられた禁忌の名が頭の中に鳴り響き、目の前の彼女の事だと全身で理解した。
 何故、このような場所で出会ったの。
 こんな東の果ての、小さな街の喫茶店で、なぜ神にも等しい相手と相見える羽目になってしまったの。
 我が身の不幸も嘆く間も無いまま、私は今滅びを迎える羽目になるのだろうか。
 それを意識した瞬間、かすれる音で口をついて出たのは安堵の溜息だった。
 もう十分かもしれない。
 五百年。それだけ在り続けたのだから、もう十分。短い人生だとは口が裂けても言えはしない。安息がこういう形で与えられるのは予想外だったけど、終わりなど往々にしてこういう物に違いない。だから心残りは思いつかなかった。
 チャールズはきっと神の御許へと旅立ったに違いない。だけど私はそこへ行くことは出来ないだろう。吸血鬼は異端である。口やかましい教会の神父たちがそう声高に叫んでいる限り、扉は目の前で閉ざされたままなのだから。
 それでも、ひょっとしたらとは思う。
 淡い期待を抱いたまま旅立つ事が出来るのなら、悪くないのではないかしら。
 せめて楽に逝けますように。銀で身を貫かれた時のような痛みは無いと良いのだけど。
 覚悟を決めて、目を閉じた。ただそれだけのことにすら、全身の力を込めなければいけないあたり、本当に笑ってしまう。
 と、万力で締め上げられていたかのような圧力が、不意に消えうせた。
 恐る恐る開けた目に映った光景は、彼女がつかつかとこちらに歩み寄って来る所だった。そのまま向かいに腰を下ろしてくる、その仕草すら呆れるほど自然なものだった。
 何が起きたの?
 何故、まだ私は生きているの?
 頭の中を疑問符が飛び交ってる。どう反応したらいいのか分からないまま、呆けたように彼女の顔を見つめてしまう。
「そんなに身構えなくても良いわよ。取って食べたりするのは、タルトで充分だもの」
 まるで花が綻ぶように、彼女が笑いかけてくる。こちらの葛藤など手に取るように分かる、そう言わんばかりな笑顔だった。
 何も言い返すことが出来ない。だけどそれは彼女の言葉に対して図星を突かれたからじゃなかった。
 笑っている。処刑人と称された存在が、今目の前で笑っている。玲瓏に整った美貌を、とても温かみのある魅力的な物に変えて、彼女は笑っている。
 これこそが彼女本来の顔だと、そんな在り得ないことすら思い浮かべてしまう。それほどまでに自然で可愛らしい笑顔だった。
「貴女のお名前、聞かせてもらってもいいかしら。心当たりはあるんだけど、間違えちゃったら失礼じゃない」
 笑顔のままの彼女のお願いに、答えるこちらの動きが硬いままなのは仕方ないと思う。
「ジュヌヴィエーヴ・デュドネと申します。以後お見知りおきを、いと高き真祖の姫」
 ジュヌヴィエーヴ、ジュヌヴィエーヴ……
 赤く彩られた彼女の形良い唇から、自分の名前が紡がれている。何かを探るような彼女の視線が、やがて答えに辿り着いたのかぱっと明るくなった。
「思い出したわ。貴女があの!」
 アクセントも完璧なフランス語が、涼やかな声色に載って私の耳を擽ってくる。
「ジュヌヴィエーヴ・サンドリン・ド・リール・デュドネ。数百年の時を生きて、ただの一人も『子』を作らなかった吸血鬼。意思次第では二十七祖にもなりうる力を持っていただろうに、世界を旅して回っている変わり者。少し前にはイタリアにいるって聞いていたけれど、こんな所で出会えるなんて思ってもいなかったわ」
 彼女は本当に意外そうに、目を丸くして呟く。
 でも、それはこっちの台詞ではないかしら。
 冷酷非常なる殺人機械。耳にしていた風評と、現実に目にした彼女はあまりに違い過ぎる。
 それでも、彼女とは立場も力も差があり過ぎる。礼儀を弁えて答えるのが筋というものだろう。
「買い被りですわ。マダム・アルクェイド・ブリュンスタッド」
「ん、アルクェイドでいいよ。お互い、舌を噛んでしまいそうな名前だもの」
 そう言って声を立てて笑う彼女。
 吸血鬼の王なのに、その笑顔はまるで太陽のように眩しい輝きを放っていた。太陽を思い起こさせる吸血鬼だなんて、随分とおかしなものだとは思うけれど。
 だけどその笑顔に嫌な感情は感じられないから、釣られるように私も笑顔を浮かべていた。
「なら、私の事もジュヌヴィエーヴとお呼びください。マダム・アルクェイド」
「もう、敬語も要らないわよ。ここは千年城でもないし、そんな呼び方されても困っちゃうもの。お互い肩肘張らない方が良いと思わない?」
 そう得意げに言われても。
 内心嘆息するけど、これは呆れた溜息なのか安堵の溜息なのか正直分からない。
 神様は本当に悪戯好きね。真祖の姫とテーブルを挟んで笑いあうなんて、ほんの数十分前には予想もしていなかった。正直半分くらい寿命が縮まってしまったんじゃないかしら。それでもおつりが来るくらい残ってそうだけど。
「ところでジュヌヴィエーヴ、あなたまだ時間は大丈夫?」
「ええ、特に目的があるわけじゃないけれど……」
 元々ここに来たのも偶然なのだし。当てのある旅行ではない上に、時間だけは飽きるほどあるのだから。
「良かった! それじゃわたしとちょっとお話しよ?」
「……え?」
 にっこりと笑ったまま、朗らかに彼女が告げてくる。
 その言葉に思わず訝しげな声で答えたとしても、この場合は責められないで済むんじゃないかしら。
 もう随分と崩れていたけれど、それでも抱いていた彼女の人となりと今耳にした言葉が、あまりにもかけ離れていたのだから。
 こちらの動揺に気付くそぶりも見せず、彼女はグラスを運んできたウェイトレスにハーブティとブラドベリーのパイを注文している。
 どうやら本気で、アルクェイドさんは私と話をするつもりらしかった。
 どうすればいいのかしら。
 ケイトあたりならば、手を叩いて喜びそうな貴重な体験だと思う。新聞記者の誇りにかけて、このスクープをモノにしたいって言うだろう。
 でも実際にその立場に立たされてる身としては、途方に暮れてしまう。
 いくら今は争うつもりがないらしいといっても、人間が丸腰で気まぐれな獅子と向かい合っているようなものじゃないかしら、これって。
「ね、だめかな?」
 葛藤と困惑が顔に出てしまっていたのだろうか。
 気付けば口元で手を合わせた彼女に、どこか所在なさげに再びお願いされてしまった。元々断る事なんか出来るわけがなかったけれど、こんな顔をされてしまっては白旗を上げるしかない。
 それにしても、この姿を見て彼女が吸血鬼殺しの処刑人だと言われても。
 本当に父は真祖の姫の事を語っていたのだろうか。それとも私が勘違いしているのかしら。
「私でよければ構わないけれど……」
「良かった、ありがとうジュヌヴィエーヴ!」
「ど、どういたしまして……」
 そう答えるのが果たして正しかったのかどうか。
  「でも、どうして私なんかと話を? あまり面白い話題を提供できるか、自信はないのだけど」
「んと、実は今人を待ってるんだけど早く来過ぎちゃったの。どうしようかなって思ってたら、本当に珍しい人に出会えたのだもの。お話してみたいって思っても不思議じゃないでしょ?」
「人を、待っている?」
 ……自分で自分の事を褒めてあげてもいいかしら。
 何かとんでもない言葉を聞いたのに、素っ頓狂な声を上げず済んだのだから。
 真祖の姫が、誰かを待っている。
 しかも自分の城ではなく、日本のありふれた街の、雰囲気の良い喫茶店で。
 聞き間違いであると思いたい。そろそろ想像の翼を伸ばすのにも限界がある。なんかこっそり珍獣扱いされたみたいだったけど、そんな事はこの驚きの前には些細な問題だろう。
「ええ、志貴って言うんだけどね。待ち合わせの時間より一時間も早く着いちゃった。待つのだって嫌いじゃないけど、やっぱり誰かとお話ししながら待つ方が楽しいもの」
 シキ。
 その名前を告げた瞬間、アルクェイドさんから包み隠さず伝わってきた感情に、今度こそ私は絶句してしまった。
 とてもよく知っている感情だった。つい先ほども目にして微笑ましく思ったけれど、さすがにこれはどう反応していいのか。
 それは愛情だった。
 深い、深い、身もだえしてしまいそうなほど狂おしく、そして温かい愛を彼女は抱いている。その気持ちが、飲み込まれそうなほどの勢いと強さを持って、私に向かって吹き付けてくる
 もちろん、普段から人の心を覗き見るなどと言う真似をしているわけではない。
 ただ向かい合う相手が強い感情を抱けば、自然とその流れがこちらに伝わってきてしまう。それでも当人が心を閉ざそうとすれば、こちらに感じ取る術などない。
 つまりは彼女は本気でそのシキなる人物を愛していて、それを隠すつもりもないと言う事。
 真祖の姫が、誰かを愛している
 あまりにも荒唐無稽な話過ぎる。誰に話せば信じてもらえるというのかしら。
「恋人、なのかしら? そのシキって人は……」
 だけどあんまり黙ったままだと変に思われちゃうだろうから、結局当たり障りのない言葉が口をついて出たのだけど。
 その瞬間、彼女の目の光が変わった。
「うん! 大好きなの。志貴といるだけでね、心がぽかぽかしてくるの。だからどれだけいても飽きないんだよ?」
 それはとてもよく見覚えのある目の色だった。
 先ほどの少女の瞳もこうだったし、新しい恋人が出来た時のケイトも、良くこういう目をしている。
 そして恋する彼女たちは、往々にして向かい合う相手の反応になど気がつくことは在りえない。
「えっとね、志貴は普段はとってもぶっきらぼうで、腕組んだりしようとすると嫌がるんだけど……」
 もはや彼女のスイッチは、完全に入ってしまったらしい。
 溜息を飲み込んで、空のティーカップに目を落とす。先ほどウェイトレスに代わりのお茶を注文しなかったのは、失敗だったかしら。









 酷使されて乾ききった喉を潤すように、アルクェイドさんはティーカップを傾けている。
 結局一人語りは三十分くらい。思ったよりも短かったかも。それとも私の周りの女性陣が、図抜けて長話好きなのかしら。
 ともあれ人の惚気話を聞くというのがひどく疲れる作業だと言う事は、多分この世界が終るまで変わらない、普遍の定理なのだろう。
 だからと言って真祖の姫のロマンスを曖昧に聞き流すなんて、あまりにも勿体無い経験だもの。時には相槌を打ち、じっくりと彼女の話に付き合っていた。今の私は、トオノシキなる男の人について、この世界で彼女と彼の家族の次くらいに詳しくなっている自信がある。
 でも真剣に話を聞いていたのは、もう一つ理由があった。
 彼女も私も、吸血鬼だ。
 私自身、既に長生者(エルダー)と言われる域だけれど、彼女が在り続けて来た時はそれよりも遥かに長い。
 そしてこれからあり続ける長さも、想像も出来ないくらい長い筈なのだ。
 そこには決して避けて通れない問題が、一つ横たわっている。
 果たして。果たして彼女は気付いているのだろうか?
「アルクェイドさん。一つお聞きしてもよろしいかしら?」
「ん、なーに? あ、ごめんね。私ばかり話しちゃって」
「そのシキと言う方は、貴方と同じ真祖なの? それとも、何か他の『魔』なのかしら?」
 私の質問に一瞬目を丸くした彼女は、首を横に振った。
「ううん、人間よ。ちょっと普通と違う力を持ってるけど、きっと街中を歩いていたら人の中に溶け込んでしまうくらい普通の人」
 ああ――やはり。
 予想通りの答えを聞いて、我知らず漏れ出た溜息は、重さすら感じられそうなものだった。
 嫌な予感は良く当たる物だと言う。だけど、こんな予感は当たって欲しくなかった。
 何故。
 何故私は、かつての私を眼にしているのだろう。
「それがどうかしたの? ジュヌヴィエーヴ」
「……貴女は、怖くないの?」
「怖いって、何が?」
 怪訝な顔で問い返してくる、彼女の声がひどく遠かった。
 今私はどんな顔をしているのだろう。
 何故こんな事を、初対面の彼女に話しているのだろう。
 言うまでもない事の筈なのに。彼女は私よりはるか前から在り続けている存在なのだから、その事に気付いていない筈がないのに。
 なのに何故、私はこんな事を言おうとしているの。
「人間を愛する事が、怖くはないの? 決して共に歩む事が出来ない相手を愛する事が、恐ろしくはないの?」
 かちり、硬い音と共にアルクェイドさんがティーカップをソーサーの上に戻す。
 そのままじっと、私の顔を見つめてくる。その瞳に浮かんだ感情を読み取る事が出来なかった。
 心臓が射抜かれそうな視線。だけど、それにひるむわけにはいかない。
 唇を噛み締めて、その瞳を反らす事なく見返した。
「どうしてそんな事を聞くの?」
「……貴女と同じ事を、かつて私もした事があるからよ。もう百年も前の話。いえ、たった百年前って言うべきなのかしら」
 ――かつて住んでいたロンドンで、私はチャールズ・ボウルガードという男と出会ったの。
 自分の言葉と共に、彼が蘇ってくる。
 積み重ねてきた多くの記憶は既に色あせているけれど、彼の記憶だけは鮮明に思い出せる。思い出せてしまう。
 アルクェイドさんに彼の事を語る度、記憶が色と形を持って、私の心の中で動き出し始める。
 初めて出会った時の彼はとても若く、瞳には強い意思と消せぬ悲しみを湛えていた。決して外見だけの魅力ではない、今思えばその瞳の光にこそ自分は惹かれたのだろう。
 再会した時の彼には、隠せぬ年輪が刻み込まれていた。しかしその本質は決して変わってはいなかった。遥かに年老いて経験を積んでいた筈の私を、彼の愛は優しく、そしてきつく離さず包み込んでくれた。
 一時も変わる事無く。彼が神の御許に旅立つ時まで。
「……チャールズはとても長く生きてくれたわ。その人生の何分の一かを、私のために使ってくれた。それでも彼の一生は、私の生きてきた時の半分にだって届きはしないの。夢のようだったその時間は、瞬き程で過ぎ去ってしまったのよ」
 彼女は無言で、私の話に耳を傾けていた。
 私を睨みつけていた瞳はいつの間にか伏せられて、目元に陰が落ちている。
 その輝かんばかりの美貌には変わる所がない筈なのに、陽光が雲に隠されるように、その表情はひどく老いていた。
「ごめんなさい。つまらない話だったわね」
 口を閉じると、沈黙が周りを支配した。他の客の話し声もある筈なのに、耳に届いてなど来ない。よく磨かれたテーブルの上を、互いに見つめていた。
 まるで鏡のようにうっすらと、彼女の姿が映っている、対して私の姿はそこには存在していない。
 これほど在り方が違う筈なのに、私たちはどうして同じ道を歩もうとしているの。
 何故共に永き時を歩めぬ者を、お互い愛してしまったのかしら。
 どれだけそうしていたのだろうか。俯き加減のまま、彼女はそっと口を開いた。
「怖いわ。ええ、とても怖い。もし志貴を失ってしまったらなんて、考えるのも恐ろしいわ。イフの話は好きだけど、こんな「もしも」なんか考えたくないって思ってる」
 頭を振ったアルクェイドさんが、ぽつりぽつりと呟く。彼女は俯いたまま空のティーカップを口元に運んで、一口呷る。
 やがてゆっくりとソーサーの上に戻されたカップの中には、中ほどまで満たされた琥珀色の液体が、ゆっくりと波打っていた。
 いかなる力なのか、それとも伝え聞く魔術という代物なのだろうか。確かに空であった筈なのに
。 「空想具現化(マーブル・ファンタズム)よ。志貴の目の前でやったら怒られちゃうけどね。その気になれば、この街を綺麗に無くして、もう一度思うままに組みなおす事だって出来るわ」
 軽い驚きの声を上げる私に向かって、顔を上げた彼女が、寂しそうに微笑んだ。
 普通の人間が聞けば荒唐無稽とも思える言葉。
 だけどそれが事実である事はよく分かる。そして何故彼女がそんな真似をしたのかも。
 彼女の秘めた力の大きさに改めて畏怖を覚え、同時に悲しいと思った。
 何もない所に物を作り出せる。そんなまるで神様のような力を持っていても、本当に欲しい物を手に入れる事は叶わないのだ。
「でもそんな力を持っていたって、志貴の命を伸ばす事なんか出来はしない。一緒にいても分かってしまうの。少しづつ、少しづつだけど、確かに彼の体から命が失われていくのが分かってしまうのよ」
「……その恐怖から、逃れたいと思った事はないの?」
 愛する相手が、一歩一歩死に近づいていくのを目の当たりにする。それがどれだけ恐ろしい事なのか。
 今日も旅立たずにいてくれた。お願いだから明日も、明後日も側にいて欲しい。私のものなど全て捧げてもいいから、神様、どうか彼を貴方の御許に連れさるのはお待ちください。
 忌避する神にすら祈りを捧げて、彼の存命を願い続ける日々。
 それをあざ笑うかのように、まるで掌から砂が零れるように、彼の命は減り続けてしまう。止める事はどうしても出来なかった。
 ――たった一つの手段を除いて。
 それを成せばチャールズと永久に在り続けられる。禁断の実にも似た誘惑が、私を責めさいなんだ。
 身を委ねれば、チャールズを失わなくてすむわ。これから先、恐怖に怯える日々を歩まなくても済むのよ。たとえ彼の在り様が変わってしまったとしても、共に永遠を歩んでくれるのならば、どれだけの幸福か。
 彼女から答えは返ってこない。
 それでも知りたかった。彼女がその誘惑に駆られたことがないのか、その誘惑に何故抗うのか知りたかった。
「アルクェイドさん……貴女は彼の血を吸おうと、思った事はないの?」
 初めてチャールズの館で、彼の血を口にした時の記憶がよみがえる。
 逞しい腕に抱かれながら、彼の歩んだ人生と意思が私の中に溶け込んでいく快感は、得がたい喜びとなって私の身も心も蕩かしてくれた。
 あの時私の血も与えていれば、このような思いを抱えて生き続ける事はなかった筈なのに。何故、それが出来なかったのだろう。
 確かに彼は、吸血鬼となる事を望んでいなかった。
 でもあの時彼の首筋に牙を付きたてたとしても、決して彼は責めなかっただろう。死を迎える瞬間に彼をその運命から勝手に拾い上げても、決して彼はそれを責める事はなかっただろう。
 それでも私は、出来なかったのだ。
「……勿論、あるわ。志貴の事を好きになればなるほど、どうしようもないくらい、彼の血が欲しくなってしまうの」
 呟く彼女の微笑が変わっていた。
「だけど吸わない。わたしは今の志貴が好きだから、彼の血はいらないの」
 今のままの彼を愛している。だから彼を吸血鬼にはしない。彼と共に永遠を生き続けるより、今のままの彼を刹那愛する事を選ぶ。
 真祖の姫が口にしたその言葉は、私の中に積もった昏い澱みを舞い上げた。
 何故、貴女までその道を選ぶの。
 言葉が形にならず、肩が震えてしまう。予想をしていた答えなのに、何故こんなに心が揺れてしまうのか。
「志貴がいなくなってしまったら、わたしは城に帰って夢を見るわ。積み重ねた思い出を夢に変えて、それでわたしは生き続けるの」
「……思い出だけで生きられるって、貴女は本当にそう思っているの!?」
 その言葉が引き金。
 張り詰めた緊張がはじけ飛ぶかのように、私は大声で叫んでいた。
「ジュ、ジュヌヴィエーヴ?」
「思い出を胸に抱えて生きる。ええ、言葉だけ聞けばとても綺麗ね。だけどそれがどれだけ大変な事か、幸せの中に居る貴女に思い計る事が出来るの?!」
 大嘘だ。彼女が分かっていない訳がないのに。
 それを理解していても、私の口は止まってくれなかった。
 胸に残る愛する人の記憶が美しければ美しいほど、取り戻せない時に対する切なさが降り積もっていく。それは雪のように優しく全てを覆い隠してはくれない。積もれば積もるほど、重さに心が折れそうになってしまう。
 折れそうな心が逃げ道を見つけたから、ただ八つ当たりしてるだけだ。
 そう、今の私は事情も分からない相手に、やり場のない悲しみをただぶつけているだけなのだ。それも真祖の姫を相手に。遠からず彼女の逆鱗に触れて、私の命の火は消えるのだろう。
 だけどそれでも構わなかった。映らないはずの鏡がテーブルの真ん中に据えられて、向こう側の自分が同じ未来を辿ると得意げに言っている。そんな姿を見せ付けられるのはもういや。
 思い出を抱えて後悔の中生き続ける。そんな自分の姿など、もう見たくなかった。
「吸うべきだったのよ! 吸っておけば私は今頃こんなに苦しまなかった。彼と共に在り続けられるなら、永遠の生だって怖くなかったのに……」
「ジュヌヴィエーヴ! 落ち着いて。他の人が見てるわよ」
「関係ないわ! そんなの関係ないの……」
「ジュヌヴィエーヴ!」
 アルクェイドさんの声は雷鳴のように私の体を刺し貫き、それでようやくこのおしゃべりな口が動きを止めてくれた。
 目の端が熱い。頬を伝って口元を濡らす何かが塩辛い。私の目から血ではない、澄んだ涙が流れてる。
 少女たちやウェイトレスの、困惑と好奇の視線が向けられている。私たちの言葉が分からなくても、いや、分からないからこそさぞかし異様な光景に見えていることだろう。
 今になって初めて、自分が立ち上がってるのだと気付いた。
「どう、落ち着いた?」
 彼女の言葉によろよろと腰が砕けた。だけど涙は止まらない。頬も瞼も燃えそうに熱くて、毛羽立った心の傷に染みていく。
 恋敗れた少女のように、なりふり構わず叫んでしまった。そんな自分が恥ずかしくて、情けなくて涙が溢れて止まらなかった。
 どれくらい涙を流していたのだろう。頭に触れる温かい感触に視線を上げると、アルクェイドさんがそっと私の髪を撫で下ろしていた。
「アルクェイド、さん……」
 彼女の手が頬に触れる。濡れた肌をそっと滑る指先は、ひんやりと冷たいのに、どこか安心させる温かさを秘めていた。
 彼女の心が染み渡ってるんだと、こんがらがった頭の中でそれだけは確かな形で理解できた。
「わたしは八百年生きてるけど、ずっとずっと眠ってたのよ。ほとんど機械のように命じられた事だけこなして、戻って眠って全てを忘れさせられて、夢も見る事なく眠り続けてたのよ」
「……忘れさせられるって、一体どういう事なの」
「記録としては刻まれているわ。いつ、こういう理由で起きて誰を倒したのか。だけどその時に何を思ったのか、何を考えていたのか。そういう事は何も覚えていないの。真祖は感情がないほど長持ちするから、余計なものは全部そぎ落とされて、本当にただの道具として使われ続けたの。だからわたしにとって記憶や思い出って、本当に最近手に入ったものなのよ」
 寂しげに微笑む、その表情に込められた意味に慄然とする。
 自分を与えられずに、ただ動かされてきたと微笑む彼女。それがどれだけの不幸か、気づく事が出来ない程の不幸を背負わされていたと微笑む彼女。
 その彼女にとって思い出と言うのが、果たしてどれだけの意味を持つのか。私が全て思い計れるような軽いものではなかったのに、嫉妬に駆られて醜い感情をぶつけてしまった。
「……ごめんなさい! 本当にごめんなさい……」
 再び流れ出した涙が、とめどなく頬を伝ってる。いつの間にか彼女の手に握られたハンカチが、私の頬をそっと拭っていた。
「気にしないで良いわよ。確かにあなたの言う事も分かる。思い出を抱えたまま生きる辛さを、わたしはまだ知らないわ。あなたがその人を失ってから過ごしてきた年月の重みは、想像する事しか出来ない」
「アルクェイド、さん……」
「それでもわたしは耐えて見せるわ。志貴のお陰で、彼を愛すると言う事の素晴らしさを知ることが出来たんだもん。一緒にいられるのは瞬きするほどの時間だけど、今までの八百年とは比べ物にならない位、この時間は価値があるよ」
 だからその思い出があれば、わたしはきっと大丈夫。
 そう、歌うように軽やかに唇を躍らせ、気高い思いを伝える彼女。
 浮かぶ笑顔は私が今日見た中で、一番美しい物だった。
 その顔に、チャールズの最後の笑顔が重なる。
 永遠に愛している。彼はそう告げて遠い世界に旅立ってしまった。
 それはあまりにも甘く美しい、呪いの言葉だと思う。死にゆく者にその意思がなくても、別れの言葉は残された者の心を縛り続けてしまうのだから。
 おそらくアルクェイドさんも同じ鎖に縛られてしまうだろう。心の奥の一番大事な場所に、愛する男の最後の顔が残り続けてしまうに違いない。
 でもそれに耐えると彼女は言った。耐え切ってみせると、晴れやかに笑ってみせたのだ。
 ならば同じ在り方を先に選んだ私が、これ以上弱気な姿をみせるわけになどいかないじゃない。鏡の向こうの私が頑張ると言ったのだから、こちら側の私も胸を張らないと。
 頬にまだ添えられた彼女の手を握って、ゆっくりとテーブルに戻す。飛び切りの笑顔を浮かべて、その手にそっともう片手を重ねてみせた。
「またいつか、お話しましょう。この場所で、こうやって美味しいお茶を楽しみながら」
 互いの愛する者を失って、辛さに押しつぶされそうになった時でも、分かち合えば辛さも少しは紛れる筈だから。
「そうね、うん、また会いましょう!」
 彼女も顔を綻ばせて、もう片方の手を重ねてくれた。
 肌に伝わるのはひやりと冷たい感触。だけど私の心に直接伝わるのは、こちらを包み込むような温かさだった。
 そして、彼女も私の手に、同じ事を感じてくれている事も伝わってきた。
 どれくらいそうしていたんだろう、名残を惜しむようにゆっくりと、握り合う手を解いていく。そこに店のドアの開く音が届いてきた。
「あ、志貴ー! こっちだよ!」
 椅子から立ち上がったアルクェイドさんが、私の後ろに向かって手を振っている。子供の様に無邪気なその行動が、外見にアンバランスでとても可愛らしい。
 最初に違和感を覚えたこの顔こそ、彼女本来の姿なのね。今では自信を持ってそう言える
 そしてそれを見せられる相手に出会えた事が、彼女の得た最大の幸福なんだろう。
 そろそろ頃合ね。名残は惜しいけれど、彼女の思い出作りの邪魔をしては悪いもの。
 ゆっくりと立ち上がって、自分と彼女の分の伝票を手に取った。
「あ、もう行っちゃうの? 折角だから志貴とも一緒にお話してかない?」
「そうね、それはとても魅力的だけど。あんまり貴女と仲良くしていて、彼に嫉妬されちゃったら困るわ」
 悪戯めいた微笑には自信がある。案の定、眉を潜んで悩ましげな顔を作る彼女に向かって、ひらひらと手を振った。
 それは半分本当で半分嘘。実際の所は私が嫉妬してしまいそうだったから。
 これ以上幸せな二人の気持ちに中てられてしまったら、ここから離れられなくなってしまうもの。
「それではさようなら、アルクェイドさん。貴女たちの幸せをお祈りさせていただくわ」
 振り返った先の視界に映ったのは、息せき切ってこちらに向かってくる男の子。まだ少年とも言える風貌の、眼鏡の似合う彼がシキ君なのだろう。
 彼女と一緒に座っているのが見えたのだろうか、困惑の表情をこちらに向けてくる。そのまま軽く微笑んで、私はレジへと向かった。
 会計を済ませて店のドアを開けた時、二人の声が耳に届く。
"なぁアルクェイド。さっきの人、お前の知り合いか?"
"ええ、友達よ。今出来たばかりの、大事な大事なお友達"
 友達。その言葉が心に積み重ねられる。
 それはとても大きくて、重い言葉。
 降り積もる切なさを、悲しさを舞い上げてどこかに飛ばしていくようだった。
 しかしそれらは決してなくなりはしない。いつか必ず積み重なり、私の心を押しつぶそうとするのだろう。
 でもその時はまたここに来ればいいの。
 くるくると表情を変えて、太陽のように輝く笑顔が似合う彼女に会いに来よう。今度は私が思い出を語って、惚気て見せるのもいいかもね。
 ドアをゆっくりと閉める。憂鬱な筈の陽の光も、今だけはとても心地好かった。
 もう一度看板の名前を、噛み締めるようにゆっくりと読んだ。
 ここが私の新しい宝物。大事な、とても大事な場所。
 だけど今回の所はここで止めておかないと、根が生えて動けなくなってしまいそう。再び訪れる楽しみのために、今はまた旅を続ける事にしよう。
 サドルにまたがり、エンジンキーを半回転。ヘルメットをつける気にはなれなかった。一際強い風が、私の髪を舞い上げていく。
 見えざるその手に後押しされるように、私はヴェスパのスタンドを跳ね上げた。



END






・後書き

 久しぶりの連載作以外の更新は、クロスオーバーと言うジャンルになりました。
 勿論この「ドラキュラ紀元」という小説のシリーズにハマったというのも理由なのですが、ここに出てくるジュヌヴィエーヴという吸血鬼が、ある意味アルクェイドの未来の姿に通じる物がある、そう感じたのがこのSSを書いた理由です。
 ジュヌヴィエーヴはボウルガードを愛して、愛しぬいて、そして愛したが故に永遠に失ってしまいました。彼女にとってそれは耐え難い悲しみであった筈です。しかし、もし時が戻っても彼を愛するが故に、彼女は同じ選択をする事でしょう。
 それが俺の中で、「好きだから、吸わない」と切なさの中で微笑んだアルクェイドの姿に重なったわけです。

 元は本当に10KB前後の小ネタで書くつもりでしたが、予想外に長くなってしまいこのような形に。
 こんな変わったSSですが、楽しんで頂けたのであれば幸いです。