■ 貴方のために出来ること ■






 "……にて、フリージャーナリストの衛宮士郎氏(28)の死亡が確認された――"

 遠坂凛の手に握り締められた、小さな新聞記事の切り抜き。
 彼がこの世界に残した最後の足跡は、そんな素っ気の無い文章だった。
 
 
 
 
 
 目の前には、無表情な石の塊が聳え立っている。
 どんな人間も、墓へ入ってしまえば一緒だと言う。それは一般人も魔術師も変わらない。自分だって死ねばこうして暗く冷たい土の中へと埋まるのだろう。
 凛の口から、溜息が漏れた。
 その事を知ったのは二月前だった。最後に士郎を見たのは五年前だった。努めて顔を思い出さずにいた男のために、何故日本まで戻ってきたのか。
 やるべき事は山積している。急の旅路は財政を圧迫するし、帰れば口の悪い共同研究相手の嫌味が待っている。それでも彼女は、戻らねばならないと思ったのだ。
 だからこうして生まれた土地へと舞い戻り。
 そして今、変えようのない士郎の死を目にしていた。
 『衛宮家之墓』――彼女の目の前に聳え立つ、名が刻まれた石の下には、しかし彼はいない。
 士郎の死体は日本へ戻る事はなかった。彼が死んだとされた場所には、煤けて半分焼け焦げたパスポートと、千切れて飛んだ左腕だけが残されていたという。
 人は脳で考える。心はひょっとしたら心臓に宿っているのかもしれない。どちらもなかったのだから、ここに埋まっているのは士郎ではない筈だ。
 彼は普通の人間ではない。魔術師だ。否、それすら違う。彼は魔術を道とせず、道具と使った魔術使い。それが必要であるならば、左手を使い捨て、今もこの世界のどこかで同じ空気を吸っているのかもしれない。
 凛は無言で唇を噛み締めた。きつく、きつく歯の立てられた肉が白く変わる。それでも彼女は、溢れだす激情を押さえ込もうと力を込めた。今口を開けば、何を言い出すか分からない。全てにおいて優雅たれ。仰々しい家訓を守りきる自信は、今の彼女にはなかった。
 ひょっとしたら生きているのかもしれない。だがそれが何になると言うのだ。
 政府は死亡と判断した。その瞬間、この国から衛宮士郎という生者は居場所をなくしてしまった。もうここには彼の世界はないのだ。
 目を閉じる。凛の脳裏に、ここに来るまでの光景が鮮明に浮かび上がる。
 彼を兄と呼び、そして姉と振舞った銀の少女はもう故郷の城から出てくる事はない。
「嘘つき」
 彼の葬式の時に手向けられた言葉が、少女がこの街に残した最後の足跡となった。
 かつての恩師は、今はもう住む人のいない屋敷の居間を守っている。
「判っているのよ。もう帰ってこないのは判ってるんだけどね。でも、それでもこの家を無くしてしまったら、士郎の居場所がなくなっちゃうでしょ?」
 年相応の落ち着きを湛えた彼女は、しかしあの頃と変わらない目で凛を見つめて微笑んだ。そこに秘められた悲しみの深さに、凛は何も言うことが出来なかった。
 かつて妹と呼んだ魔術師は、闇の払われた穴倉の上から飛び出せずにいる。
「どうして、引き止めておくことが出来なかったんでしょうね。何の役にも立たない力ばかりあって、先輩に助けてもらってばかりで、でも先輩を助けることが出来ないんですよ。本当に、だめな女ですよね、わたしって」
 同じ血から分かれて、別の道を歩む魔女はそう言って俯いた。その胸には小さな傷跡があることを凛は知っている。士郎が彼女を解き放った証だと、彼女に聞かされたのだ。
 その恩を返す方法が見つかるまで、ここから出るつもりはないんです。そう言って、魔女は扉を閉ざした。それが開け放たれる事はないと、凛は分かっていた。だからもう、自分が姉さんと呼ばれる日は来ないのだろう。
 かつての友人は目頭を押さえて「本当に参った。勝ち逃げされちまったからねぇ」と気弱に呟いた。この寺の後を継いだ若き僧侶は、かつて天敵と忌み嫌った彼女を前にして「あ奴も喜ぶ。手を合わせていってくれ」と頭を下げた。
 彼は誰かに何かを告げる事もなく、この町から旅立っていった。
 彼がこの町に戻ってきた時、ただいまと言う事はもう出来なくなっていた。
 皆が皆、士郎の死を消化しきる事が出来ないまま、合わない歯車を無理に回している。
「本当にね。大馬鹿者って、あんたの事を言うんでしょうね」
 目を閉じたまま、凛は小さく呟いた。思ったより落ち着いた言葉が出てきたことに自分で驚いた。
 伸ばした指の先に触れる士郎の体は冷たく、ざらついていた。それが心を凍てつかせていたのかも知れなかったが。









 風が吹く。十月の空気はこの冬木の町でも一抹の冷たさを運んでくる。
 長く伸ばされた凛の髪が、見えない手に弄ばれた。鬱陶しげに頭を振ると、彼女はコートのポケットから煙草を取り出す。ライターは必要なかった。手の中の紙切れが燃え上がり、白い紙巻の先に灯りが点る。
 むせ返りそうなニコチンの刺激に目を細めて、凛は深々と息を吸い込んだ。毎回禁煙を試みる度に、何か事件がおきて取りやめだ。今回は極め付きなのだから、もう禁煙など考える必要はないだろう。
 白い煙とともに苛立ちを吐き捨てて、凛は呟く。
「で、あなたはいつまでそこで見ているつもりなのかしら?」
「――貴方が彼に別れを告げるまで待つつもりでした。これでも神に仕える身ですから。故人への敬虔なる祈りを妨げる事など、出来るわけが無いでしょう?」
 振り向いた凛の視線の先で、小さな銀の紫陽花が風に揺れていた。
 柳洞寺の墓地の中には、巨大な松が聳え立っている。その影に立つ女性は、凛のよく知る人物だった。
 こんなに小さかっただろうか。
 こちらに向かって歩いてくる、女の姿に凛は眉をひそめた。
 右手に握り締められた杖は、ところどころ擦れ色あせ傷がついている。裾の長い法衣に隠れていても、右足がもう満足に動かないのは明白だ。
「久しぶりね、カレン・オルテンシア。あんまり元気そうじゃないみたいだけど」
「ええ、お久しぶりですね遠坂凛。この体の事はお気遣いなく。今までもっているのだから、もう少し位は大丈夫でしょうから」
 カレンと呼ばれた女は凛と向かい合い、猫のような目を細めて微笑んだ。だがその左目はあらぬ方向に向けられたまま、瞬き一つする事はない。今、このいけ好かない女の目に世界は半分しか映らないのだ。
 裾から覗いた左の手首には、包帯がきつく巻き上げられている。その手には黒い布で巻き上げられた、細長い物が抱え込まれている。包帯がうっすらと色を変えているのは、その下の傷がまだ新しいという事だろうか。
 かつて凛がこの町から旅立つ前、新任の司祭としてやってきた彼女の体には、生傷が絶える事はなかった。人の悪意を映し出す生きた鏡の少女は、ただ他人と共に在るだけで傷つけられ侵されていくのだから。
 あれから十年たった。
 自分は変わったと、凛は思う。しかし彼女は変わっていないように見えた。
 否、お前も変わっていないのだと。その程度の時間が人を変える事などないのだと、その傷は笑っているのだろうか。
 馬鹿馬鹿しい。凛は携帯灰皿を取り出して、煙草を押し付けた。大して吸いもしないまま、半分ほど灰に変わっていたそれは短い寿命を断ち切られる。
 こちらが勝手に悩めば悩むほど、カレンはそれを肴に楽しむだけだ。記憶の底にこびりついた彼女は、虫も殺せないような物腰で常に物事を引っ掻き回して楽しんでいた。
「それで? 何でここにいるのかしらカレン。引く手数多の異能の身が、こんな東洋の端っこで油売ってていいのかしら?」
「多忙な事は否定しません。ですが教会も、交わりを持った友に祈りを捧げる暇くらいは与えてくれるものです。教義は違えど、死を悼む心に価値の差はないでしょう」
 図りとった心の距離そのままに投げつけた言葉に、帰ってきた答えは思わぬ直球であった。よもや彼女の口から、友などという言葉が出ようとは。一瞬凛の口を付きかけた言葉は、しかし音になる前に飲み込まれた。
 ああ、そういえば。
 綻び、零れ落ちた記憶に凛は肩をすくめた。
 彼女が動き回る中心には、いつも士郎がいた気がする。まるで初めて与えられたおもちゃで一心不乱に遊び続ける幼子のように、カレンは士郎を構っていた。
 彼がどう思っていたかは分からない。彼女にとって「友」というものがどういうものかも分からない。だが、それでもカレンにとって、士郎はここに駆けつける意味のある相手だったという事なのだろう。目の前の女の意外な一面を見た凛の口元に、薄い笑みが浮かんだ。
 それに気付いたのかどうか、カレンは不思議そうな表情を浮かべて凛の顔を見やった。
「意外と言うのなら、貴女の方ではないかしら。遠坂凛」
「わたしがここに来た事が? 一応師匠の真似事をしていたもの。それこそ暇があれば墓参りにくらい来ても、不思議じゃないでしょ」
「いえ、貴女の事ですから、取るものもとりあえずここに駆けつけるものだとばかり。予想していた時期よりはるかに遅かった事に驚きました」
 信じられないと言う顔で、見つめてくる。そんなカレンの表情に、凛は内心顔をしかめた。
 本当に変わらない女だ。
 全てを分かっているようで、時折そんな事を言ってくる。普段の言葉に込められた皮肉が、そんな時だけは抜け落ちている。
 あけすけな言葉に向かい合う事は、今の凛には少々重い荷物だった。
「……五年も一度も顔を見せなかった不肖の弟子なんだから、わたしの中での優先順位が低くなっても、不思議じゃないと思わない?」
「では、そういう事にしておきましょう」
「……相変わらず最悪だわ、あんた」
 オブラートに包まず吐き捨てた凛の言葉にも、季節外れの紫陽花の花はしおれる様子は無かった。









「そう。あれからあの馬鹿と何度か会ってたんだ、あんた」
「ええ。私は悪魔祓いが生業で、彼は不幸祓いが生業。悪魔に憑かれた場所は皆不幸になるのだから、彼と顔をあわせても不思議ではないでしょう?」
「よく言うわ。協会に属しない魔術師が神秘を切り売りして出歩いているんだから、教会からすれば鴨がネギを背負って歩いているようなもんじゃない。あなたの後ろにぞろぞろと代行者の群れが続いていたのが目に浮かぶわ」
「どうでしょうね。そういう事もあったのかもしれませんが、それは私の与り知らない問題です」
 あれでいて、教会というところは横の繋がりが薄いんですよ。
 そ知らぬ素振りでカレンは笑う。顔をしかめた凛は煙草を取り出し、今度はライターで火をつけた。
 二度三度、凛が白い煙を吐き出す様を、カレンは無言で見つめていた。
「何よ。そんなに珍しい?」
「いえ、そういえば衛宮士郎も煙草を吸っていたなと思っただけです。貴女と違って、あんまり美味しそうな顔はしてませんでしたが」
「不味いわよ、こんなの。ただの気慰め。口寂しいから吸ってるだけよ」
 そっけなく呟いた凛だったが、心の奥が小さく、小さくだがざわめいた。
 士郎が喫煙している姿など、見た事がなかった。隠れて吸えるほど器用な男ではないから、ロンドンを去ってからの五年の間に覚えたという事だろうか。
 彼は何を求めて吸っていたのだろうか。一緒にいた時には、煙草で苛立ちを紛らわせるような性格には思えなかった。自分の知らない士郎を知っているカレンの顔が、変に苛立ちを募らせる。
 だがそれも、もう終わった事だ。思いをめぐらしても、答えを抱えた当の本人には手が届かないのだから。
 凛は煙草を加えたまま、口元を歪めた。
「結局誰も、あいつの楔になれなかったって事よね。本当、馬鹿にしてるわ」
「楔、ですか?」
「そうよ、楔。あいつを繋ぎ止めとく楔」
 怪訝そうなカレンの声に、凛はそっけなく答えた。
「ふらふら、ふらふらとまるで糸の切れた凧みたいに。見えないくらい上まで上がってしまえば、まだ諦めもつくって言うのにね」
 今心の中に湧き上がっているのは怒りなのか、それとも諦念なのか。悲しみなのか、それとも憎悪なのか。
 ああ、そうか。
 見つけられなかった答えを見出して、凛は目を細めた。
 これを言うために、ここへ戻ってきたのだと気付いた。
「何年も一緒に暮らしてて。わたしはあんたの何だったのかしら。一度くらい抱いていきなさいよ、士郎」
 ゆっくりと、自分の中の思いを押し殺すように凛は呟いた。
 彼を愛していたのかと言われれば答えられない。好きだったのかといえばイエスだろう。少なくとも、お互い三十路にもいかない若造同士で、世の中からいなくなる事を平然と受け入れられるような付き合いはしていなかった。
 魔術師としてではなく人間として。師匠としてではなく友人として。彼をこの世に引き止めておく手段が体を重ねる事であったならば、それに躊躇いなどなかった。等価交換、結構なことだ。愛と体は非等価でも、絆は結べた事だろう。
「あんたがいくら無理無茶無謀でもね、抱いた女の事くらいどこか頭の端には残るでしょうが。嫌いじゃない女の事が頭掠めりゃ、死にそうになったって這ってでも戻ってきたでしょうがっ!」
 押し殺しきれなかった激情に突き動かされ、凛は士郎を蹴り飛ばす。士郎は何も語らない。爪先に鈍い衝撃と涙が出そうな痛みが伝わってくるだけ。それでも凛は彼を責めたてる。
「本当に、本当に馬鹿なんだからっ!」
 まるで悲鳴のような叫びだった。吹き付けた風が木立を揺らし、落ち葉を舞い上げる。葉ずれの音にも彼女の言葉は紛れ消える事はなかった。
 どれだけそうしていたのか。指で挟んでいた煙草はもう燃え尽きていた。凛は墓石に背を向けると、震える指でもう一本煙草を取り出した。ペースが速すぎる。それがどうした。酒を飲まなきゃやってられない時だってある。こんなの、肺でも頭でも悪くしてなければやってられない茶番劇だ。
「――気は済みましたか?」
「済むわけないでしょ。は、百万回繰り返したってまだ足りないわよ! 死ななきゃ治らない馬鹿だと思ってたけど、死んでも治らなかったんだからこの大馬鹿はっ!」
 矛先が自分に向いても、カレンの表情は変わらない。それが尚、凛の心を逆立てる。
 しかし凛の心の中など気付かぬ素振りで、静かにカレンは問いかける。
「自分でも想像の出来ない未来が、叶うなどと思っていたの?」
「……何が言いたいの、カレン」
「別に。答えの分かりきった事を叫んでるように見えただけですから。確かに貴女は魅力的かもしれませんが、仮に裸で迫ったとしても手を出すような男ではなかったでしょうね、衛宮士郎は」
「分かってるわよ。そんなの分かってる。だけどね、それと納得するしないは別の問題よ」
 浴びせかけられた冷や水で、心の中がささくれ立つ。
 気の弱い人間ならそれだけでそそくさと逃げ出しかねないような目で、凛はカレンを睨みつけた。勿論カレンは動じない。その口元に僅かな微笑を浮かべて、
「貴女では無理なのよ。遠坂凛。抱かれた私が言うのだから間違いありません」
 凛の口から、吸いかけの煙草が転がり落ちた。
「……貴女、今なんて……」
「抱かれたと言いましたが。まぁ、この五年で片手の指で足りる程度の事ですけれど」
 本当に、何でもない事のようにカレンは言った。
 砂利道に転がった煙草を踏み潰すことも忘れて、凛は彼女を見つめてしまった。
 折れそうなくらい華奢な体だが、それゆえに儚げな魅力が付いて回ってる。立ち居振る舞いに死の影を感じさせていても、背中まで伸びた銀の髪の艶は失われていない。
 男が彼女を見るのならば、保護欲を刺激されるのかもしれない。しかしカレンの表裏を知る凛には、シロウが彼女を選んだ理由を見出す事が出来なかった。
 凛はカレンを嫌悪していた。共に冬木の町にいた時は、その言動も行動も何もかもが気に入らなかった。だが顔を見たくないと思っても、その顔を引き裂いてしまいたいなどとは思った事は無かった。
 交わらぬ筈の嫌悪と憎悪の境界が、今は曖昧になってしまっているのを自覚する。
「…………そう。あいつ、あんたを選んだんだ」
 凛はゆっくりと爪先で、落ちた煙草を踏み潰した。
 声は張り上げない。目は逸らさない。頭をもたげた醜い嫉妬心を、そうやって無理やり押さえ込むのが彼女の精一杯の矜持だった。
「何か勘違いしているようですから、付け加えておきますが」
 凛のその様子に、カレンは肩をすくめた。
「私は彼にそんなものを求めてはいませんでしたし、それは彼も同じでしょう。血に塗れた自分の手を、たまたま側にあったぼろきれで拭ったにすぎません」
「……あんた、何を言ってるの」
「分かりませんか、遠坂凛。彼はただ、一時の劣情を抑えるためにこの体を使ったんです」
 告げられた言葉には、憐憫も悪意も篭ってはいなかった。ただ、ありのままの事実を読み上げるように、二人の間を流れていく。
 だから凛がその意味を理解するまでには、僅かばかりの時間が必要となった。
「彼にとって私を抱く事は煙草を吸うのと変わらなかったのでしょうね。好んでもない物を一時の暇つぶしにと、無理に味わうのも一緒……」
 堰はそこで切れた。
 乾いた音が、立ち並ぶ墓石の間に響き渡る。カレンがよろけて倒れなかったのは奇跡だろうか。顔を背けて頬に朱を走らせ、カレンは凛を見上げていた。
 手を震わせたまま、凛はその視線を受け止めていた。受け止めるしかなかった。
 やりすぎた。何でこんな事を。殴る必要などなかっただろうに。
 何も言えずに凛は立ち尽くす。カレンは張られた頬を撫で、ゆっくりと口を開いた。
「一つ聞きたいのですが」
「……何よ」
「凛。一体貴女は何に腹を立てているのかしら」
 なじりもせず、怒りもせず、純粋に不思議そうに、カレンは呟いた。
 その言葉こそが凛の心を深く抉る。
 士郎は弟子ではあったが恋人ではなかったのだから、寝取られたわけでもなんでもない。彼とカレンがどのような関係であれ、横から文句をいう理由はないはずだ。
 だが溢れだす激情を押さえつけることは出来なかった。その理由は――
「あいつを侮辱するのは止めなさい」
「衛宮士郎を、ですか。貴女ではなく?」
 怪訝そうな声を上げるカレンに構わず、凛の口から言葉が溢れだす。
「そうよ。あんたたちがどんな関係だったかは知らないわ。でもね、朴念仁のあいつがあんたを抱いたって事は、それだけの覚悟があったに決まってるじゃない! なら、あいつがあなたの中に残した心の欠片を、土足で踏みにじるような真似はやめなさい!」
 自分にはそれを与えられる機会もなかった。だが目の前の女は違った筈だ。
 なのに何故、士郎をつなぎとめる事が出来なかったのだ。
 怒りの正体を見出して、凛の瞳に炎が宿る。これだって八つ当たりには違いない。だが彼と関わりを持った人間として、この怒りは正当だ。
 しかしカレンはゆっくりと首を横に振った。
「やっぱりあなたは勘違いをしているわ」
「勘違いって、何がよっ!」
 そう叫ぶ言葉より、伸びた手が早かった。法衣の襟首を凛の手が締め上げ、顔がぶつかりそうな程側に引き寄せる。
「くっ……乱暴なのね。優雅さが身上なのではなかったのかしら」
「うるさいっ! 返事次第じゃこんなもんじゃ済まさないから!」
 苦しそうにカレンは顔をしかめたが、凛の手は緩まない。
「どうして、どうしてよ! わたしの手は届かなかったけど、あんたの手は届いたんでしょっ?! なのになんだって、その手を離したりなんかしたのよっ!」
「届かせてなどいません。それに彼の心を踏みにじるような真似もしていないわ。そんなの、私には許されない事だもの」
 初めて、カレンの声に熱が篭った。苦しげな顔の奥で、金の瞳が凛の視線を受け止めた。
「私は貴女と彼が共に居た五年間は知りません。ですが貴女も、それからの彼の五年間は知らない事の方が多いでしょう」
 カレンの声は決して大きくはない。ともすれば風の音にも掠れて消えてしまいそうだ。しかし凛の耳に届くそれは、聞き間違えようもない響きで彼女を打ちのめした。
 口を挟むことも出来ず、胸倉を掴んだ凛の指から力が抜けてしまう。それを肯定と取ったのだろう、乱れた襟に気を止める様子も無く、二、三度咳払いをしたカレンは話を続けていく。
「彼は例外なく地獄に身を置き続けていたわ。誰かを救いあげれば、別の誰かに背中から切りつけられる。差し伸べた手を撃ち抜かれたことだって、一度や二度ではないの。その中でもなお愚直に、目に映る全てを救い出そうとすれば、一体代償に何が必要なのか――良く分かるでしょう、凛。貴女ならば」
 凛は無言だった。首を縦にも横にも傾ける事が出来なかった。
 脳裏に浮かぶのはもう十年も前、この地で起きた殺し合いの光景だった。
 自らの剣たる少女すら、彼は身の程知らずに守ろうとした。目に映る世界が汚れそうになる事を、彼はどうしても我慢できなかった。
 彼は目に映るもの全てを救いたかったのではない。救わなければならないと、急き立てられていたのだ。
 返事が無くても言いたいことは分かったのだろう。カレンは目を閉じた。目に映る余計な物を切り捨てて、かすれた記憶に色を取り戻していく。
「誰かを助けるために、彼は自ら汚れる事を厭わなかった。いえ、それこそが彼の望みだったのでしょう。自らが不幸を背負い込むことで、誰かを幸せにする。皮肉ね。誰よりもセイギノミカタでありたいと望んだ男の行き着く先が、この世全ての悪を一身に背負う事だなんて」
「……それで?」
 ようやく凛の口から出た言葉は、錆付いて軋んでいた。震える指先を隠すように、ジャケットに皺が付くほど強く、右手で左腕を握り締めている。そうしなければまた、目の前の女に手を上げてしまいそうだった。
 カレンの答えなど分かっていた。彼を表す言葉に間違いはないのだから。歪みとしか思えない士郎の在り様を、正しく捉えている言葉だと言えるだろう。
 だが凛はその言葉を認めたくなかった。正しいからこそ、認めたくなかったのだ。
「分かっているのでしょう、凛。彼は差し伸べられた手を取る事が出来ないの。彼にとってそれは、死ぬよりも辛い堕落なのよ」
 果たして、カレンの口から出たのは凛の予想通りのものであった。
「だから凛。貴女は間違えたの。彼を救いたいのならば、別れの時、手を差し伸べるべきではなかったわ」
 続けられた言葉が凛の心を引っかき抉る。カレンを睨みつける視線からも力は失われていた。
「……割とおしゃべりだったのね、あいつ」
「誤解しないで下さい。これは彼から聞いたわけではありません。ただ、貴女とは顔をあわせていないという事くらいは聞いていましたから、想像しただけでしたが……どうやら正解だったようですね」
 小首をかしげるカレンの声に含まれていたのは、わずかばかりの優越か皮肉か。凛にはどちらでも良い事だった。思っている事が全て顔に出てしまっているかもしれないが、それだって関係ない。古傷を抉られる痛みに耐えるのが精一杯だ。
 ――あんたの生き方は間違っているとは言わないわ。だけど、あんたに人を幸せにすることは出来ない。自分が幸せになる方法を知らないくせに、誰かを幸せにすることなんて出来るわけないでしょう?
 背を向けた士郎に叩きつけた言葉は、彼には届かなかった。あの時強引にでも手元に留めていれば、ここに無様な姿を晒す事にはなっていなかったのだろうか。結果は変わるまい。それが五年前になるか十年先になるかの違いだけで、こうして彼の墓の前で罵り声を上げているのだろう。
「だからあんたは、最初から手を差し出さなかったと言うわけ? 士郎が差し出した手を取る事などないと、分かっていたから」
「ええ。彼に出来るのはせいぜい浮かんでいる藁に手を伸ばすくらい。そして私に出来る事は、この体を犯した彼を許す事だけ」
 衛宮士郎に犯されたと、目の前の聖女は語る。
 凛の記憶の中の士郎と、カレンの言う彼の姿は重ならない。女にそう言う事をするような男では断じてなかったのだから。
 だがカレンは嘘をつかない。事実の全てを言う女ではないが、根も葉もない事を言う女ではない事だけは不承不承ながら凛も認めていた。
 ならば士郎は、予想もしないほど変わってしまったという事なのか。
 怒りと困惑が混ざり合った顔で、凛はカレンの姿を見つめていた。それを見たカレンの顔に微笑が浮かぶ。
 それは今まで凛が見た事がないほど、優しく澄んだ顔であった。
「衛宮士郎が悪いわけではないわ。理性とは別にそう言う事をしてしまう時はあるものよ。彼が身を置き続けていた環境を思えば、むしろ少なすぎたと言ってもいいくらい」
「なぜなの?」
 その表情が理解できなかった。
「士郎とあんたは付き合ってなかったって言うのに。しかも手ひどく扱われたとまで言っておきながら、何故あんたはそれを許せるの?」
「許すも許さないもないわ。彼の行為は罪ですらないもの。せいぜい怒りや絶望に任せて、この体を使っただけ。そこに悪意など介在しない。血の通った肉で自慰をしたようなものよ。確かにあの時私の肉体は傷ついたかもしれないけれど、同じだけ彼の心も傷ついていたのだから等価よ。ならばそこに過ちなど存在しないわ」
 世界はもう半分しか見えない。踏みしめる大地の感触ももう半分しか感じられない。なのに半ば壊れた銀の尼僧の声はどこまでも清らかに凛に届いた。
 貴方の行いに、過ちなど存在しない。同じ声で彼女は士郎にもそう告げたのだろうか。
 遍く慈悲を全ての者へと。それはどこまでも修道女として正しいありようなのかもしれない。知れないが、受け入れきれぬものを感じ凛は下唇を噛みしめた。
「……ですが」
「何よ、まだ何か言いたい事でもあるわけ?」
「ですが、どうしても一つだけ分からない事があります」
 呟いたカレンはそのまま、左手に抱えていたものを凛に差し出した。
「何よ、それ?」
「衛宮士郎から託された物よ」
「なんですってっ?!」
 叫んだ凛は、ひったくるようにしてカレンからそれを受け取った。
 太さも長さも腕ほどあり、隙間なく黒い布で包まれている。もどかしげにそれを解いていった凛は、中から現れた物の姿に息を呑んだ。
 刀剣類の知識には明るくない凛でも、それが西洋剣の鞘だという事は分かった。
 金属とも、革とも知れない手触りは今まで彼女がふれたことがないもの。表面は吸い込まれるように深い青に彩られ、先端から根元に向けていく筋も金糸が縁取られている。
 そのままでも溜息が出るほど美しいそれは、美術館に飾られれば見るものの眼を奪い続ける事だろう。しかし何より凛を驚かせたのは、そこに込められた魔力であった。
 通常のアーティファクトでは持ちえよう筈もない、英霊だけが持ちえる、神秘で編みこまれた魔力の結晶。
 だが、これは宝具ではないのだ。限りなく宝具に近い、複製品。世界でただ一人、それを作りえる男が最後にこの世界に残した代物。
「これは、士郎の……」
 指に伝わる、懐かしい魔力にかすれた声で凛は呟く。
「それを私に渡した士郎は、こう言っていました」
 その言葉に、鞘から顔を上げた凛が見たのは、ひどく真剣な表情を浮かべたカレンだった
「本物は大事な人に返したけれど、これはまだなんだ。だけどもう返せそうにないからさ。だからあんたの好きにしてくれ――と」
 凛の手から力が抜けて、鞘の先が地面を打った。
 心の中を嵐が駆け巡る。怒りと困惑と喜びと悲しみがない交ぜとなり、言葉が出てこない。
 彼にとっての大事な人。そう言わしめる相手は一人しか思いつかなかった。
 自分ではない。目の前の女でもない。金の髪と青の衣を身に纏った、剣たる少女。
「凛?」
「あの…………ばかっ!」
 口をついたその言葉が、誰に対してのものなのか凛には分からなかった。これを受け取っても意味が分からなかった目の前の女なのか。これを受け取る事が出来なかった自分なのか。それとも、これを渡しに来なかった士郎なのか。
 全部正しい気もするし、全部間違っている気もする。
 確かなのは、手の中のこの聖鞘が、唯一彼の生きた証となり、彼は彼女の元へはいけなかったという事だった。
 剣の少女は夢とともに全て遠き理想郷へ。鞘たる少年は理想を胸に血に彩られた奈落へ。一時、共に歩んだ筈の彼らはもう、永遠に出会うことはなくなってしまったのだ。
 風が吹く。コートの裾をあおられて凛はよろけた。ひどく疲れている。
 受け止めたようでいて、今、ようやく全てが追いついたのだ。
 衛宮士郎は皆の手をすり抜けて死んだのだと、今決まったのだ。
 凛は空を見上げた。空は抜けるように青い。ここに来た時多少浮かんでいた雲は、もう風に流されどこかへ消えてしまったようだった。
 凛は唇を噛み締め、目の奥の熱さを堪えた。
「ねえ、カレン」
 思ったより声が震えなかった事に安堵して、凛は続けた。
「あんた本当に分からない? 士郎が、何でそれをあんたに預けたのか」
「あなたには分かるのですか?」
「そんなの決まってるじゃない」
 凛は肩をすくめて、カレンに向き直った。
 敗北を認めるのは怖い。だが、認めない惨めさを味わい続けるのはもっといやだ。瞼の奥の熱さはどこかへ消えた。空元気でもせいぜい張り通すことは出来そうだった。
「あいつがね、あんたに手を差し伸べて欲しかったって事よ。だけどあんたは差し伸べてくれなかったから、代わりにあんたに手を差し出したの」
 凛の言葉にカレンは目を丸くした。息を呑み、二度三度と目を瞬かせる。
「何を言っているのですか、凛。彼が私にそのような物、求める理由がありません」
 ややあってカレンの口から出た言葉は、凛が聞いた事もないくらい上擦りかすれていた。
 彼女は本当に、想像もしていなかったのだろう。本当に、ただ彼女は自ら正しいと信じるままに彼に接し、そして間違えたのだ。自分と同じように。
「理由はあるのよ。あんたが一つ答えてくれれば確証持てそうだけど」
「……なんでしょう?」
「士郎、さ。あんたを抱いた後何か言ってた? 無理やりにだなんて、どんな状況だって男としてろくでなしだと思うけど。あんたに許されたその後、何か言ってた?」
 凛の問いに、僅かに瞑目したカレンは、やがて首を横に振った。
「いえ。何か言われた記憶はありませんね。ひどく辛そうな顔をしていた記憶だけはありますが。煙草を吸っていた時の顔に近かったかもしれません」
 目を細めたその先に、当時の光景を見ているのだろうか。戸惑いを浮かべて答えるカレンの仕草に、凛は深い溜息をついた。
「凛?」
「あんたもね、間違えたのよ。わたしと向きは違うけど」
「間違えた? 一体私が何を間違えたと言うのですか。神に仕える身として、彼に対する行いになんら恥じ入る事などありませんが」
「それがね、駄目なの。例えあんたがどう思おうと、あいつを許すべきじゃなかった。罵り、なじり、醜い感情をぶつけてやらなきゃいけなかったの」
「……言っている意味が良く分かりませんが。私自身が彼を責めるつもりがないのに、何故そんな事をしなければいけなかったのですか? 大体、それと貴女の言葉に、何の関係があるのですか」
「わからない? そうする事で、あいつが救われたの。あいつはあんたに救って欲しかったのよ」
 凛は抱えた鞘に指を這わせた。士郎の在り様はひどく歪であったのに、心はどこまでも純粋でまっすぐであった。その思いのまま彼はこの鞘のように、汚れなく、狂いなく駆け抜けたかったに違いない。
 だが、彼は機械ではなく人間なのだ。真っ直ぐ走り続けることなど出来はしない。迷い悩み後悔をする、弱くて、それゆえに美しい一人の人間なのだ。
「あいつはね、きっと善意を悪意で返され続けることに耐え切れなかったの。だから悪意をむけて、悪意で返して欲しかったのよ。それがあんたを無理やり抱いたって事なのよ。士郎にとっては思いつく限りで最高に最悪な事よね。大切な友人である女性を、無理やり自らの欲望で汚すんだから。自分はそんな事をする最低な人間なんだから、周り全ての人間に憎まれ蔑まれて当然なんだって――あいつは自分が納得できる理由が欲しかったの。それを与えて欲しいくらい、あんたは士郎にとって大きな存在になっていたのよ」
 そう言うと、凛は抱えていた鞘をカレンに向かって突き出した。
 彼の心は彼女に与えられたのだから、これ以上自分が持っているべき代物ではない。弱い心が頭をもたげて、惨めに縋ってしまいそうになる。
「――思ってもみない事でした」
 ねじ巻人形のようにギクシャクと手を伸ばしたカレンは、不器用に士郎を受け止めた。
「私は、彼を許すべきではなかったのですか」
 小さく、消えそうな声でカレンは呟く。それは凛に向けた言葉ではなく、自分に言い聞かせるためのものだろう
 凛は何も言わなかった。ただ、共に傷を増やした女の姿を見つめていた。
 時は逆しまには流れない。やり直す事など出来ない。
 生者が死者に与えられた傷は、癒える事はない。ただ別の傷で埋めていくしかないのだ。それが分からないほどお互い子供ではないし、それを粛々と受け止めるほどにはお互い年を重ねてはいなかったのだから、余計な言葉など掛けられよう筈がなかった。
 だが、差し出され続けた手は今ようやく、受け止められた。届かぬ救いであっても、行われないよりは良い筈だ。
「――ひとつ、お願いがあるのですが」
 どれだけの間、お互い無言で立ち尽くしていたのか。再び口を開いたカレンは、もう普段の調子を取り戻していた。杖を小脇に抱えて、凛に向かって右手を差し出してくる。
「何? 内容次第ね」
「煙草を一本いただけませんか?」
 思いもしなかった申し出に、凛の片眉が上がる。
「呆れた。シスターの発言じゃないわね。どういう風の吹き回し?」
「いえ、純粋に興味です。一体どのようなものなのかと」
「そう、ちょっと待ちなさい」
 凛は煙草の箱を取り出して、一本口に咥えた。そのまま火を点すと、ライターごと彼女の右手に握らせる。
「あげるわ、それ。わたしはこれで吸い納め。ちょっとニコチンがきついから、初めて吸うには厳しいかもしれないけど」
「一本でよかったのですが……」
 溜息をついたカレンは箱から一本取り出すと、火を付けようとする。
 たどたどしい手つきでかちりかちりとライターを鳴らすが、一向に火が付く様子はない。困惑の色を瞳に浮かべるカレンに向かって、凛は意地悪く口元を吊り上げた。
「息を吸い込みながらじゃないと付かないわよ」
「……ありがとうございます。二度使う知識とは思えませんが」
「そう、癖になるわよ割と」
 半眼で睨みつけてくるカレンの視線もどこか心地いい。凛は深々と煙を吸い込んで、ツンとむせ返りそうなニコチンの刺激に目を細めた。
 これで最後だと思えばどこか感慨深い。禁煙には何かきっかけが必要だというのなら、今日のこれはとっておきだろう。
 けほけほと響く音に目を開ければ、予想通りの光景が凛の目に映った。
 背を丸めてカレンは咳き込んでいる。それでも左脇に抱えた鞘を離さずにいるのは大した物かも知れない。
「やっぱり最初からそれはきつかったかしら?」
「……信じられません。貴女たちは何でこんな物を好き好んで吸っていたのか」
「言ったでしょ? 美味くなんかない、口慰めだって」
 今にも吹き出しそうになるのを必死に堪えて、凛は士郎の墓へと向き直った。
 そのまま足を振り上げて、靴の裏で軽く蹴り飛ばす。
「渡し損ねた餞別よ。ありがたく受け取りなさい」
 残された思いは、時には呪いとなり人々を縛り上げる。しかしそれは同時に、忘れたくない綺麗な思い出でもある筈だ。
 抱えた思い出の美しさに、生者も死者も変わりあるまい。この下で彼が持ってる大切な記憶を、もう汚すような真似は出来はしない。
 肺の中の煙を深々と吐き出して、凛は踵を返した。
 もうここには用はない。立ち止まるのは自分の役目ではないのだ。
「どこへ行かれるのですか?」
「戻るわよ、ロンドンに。ここはもうわたしの場所じゃないもの」
 カレンの声に、背を向けたまま凛は答えた。
「あんたはどうするの?」
「そうですね。彼の望みはどれだけ叶ったのか。少し確かめていく事にします。幸いにもまだ私は、半分世界を見ることが出来ますから」
「そう、それじゃね。もう会いたくないけれど」
「それは残念ですね。あなたの冥福を私が祈る事がないよう、願っておきます」
「せいぜい努力するわ」
 燃え尽きた煙草を携帯灰皿に押し付けて、仕舞う。砂利を踏みしめ、風に髪をなぶらせて、凛は足を踏み出した。
 もう会う事がないのか、ひょっこりまたどこかで会い見えるのか。どちらもお互いの関係に相応しいとは思う。
「じゃあね、馬鹿男。もう思い出してなんかやらないから!」
 胸を張り、空にも届きそうな澄んだ声で、凛は叫んだ。
 そんな事は出来やしないと分かっている。だが彼の思い出の中で「遠坂凛」はそういう女だった筈だ。ならば別れ際まで堂々と演じてやろうではないか。
 風になびく銀の紫陽花を背に、遠坂凛はそこを発つ。二度と目にするつもりのない光景全てを、目に焼き付けながら。




【END】


 後書き
 

 
 Fateルート後、士郎とカレンが出会うと仮定した場合、士郎に対する凛とカレンのあり方というのは対照的になるのではないか――それがこの話を書き始めた動機でした。
 今まで俺の書いてきた中でも一等毛色の代わった話になってしまい、面食らった人も多かったかもしれませんね。
 書き手側の意見としては、士郎の死と言う一つの転換点において二人はそれをどう受け止めるのか。それを考えながら書いていく作業は苦しいながらも非常に興味深かったです。

 ただ読み手の方はいろんなご意見お持ちになると思います。
 とくに士郎のある種人に理解されにくい面が浮き彫りになっていますし、また凛が振られるという流れは受け入れがたい方が多いとは思います。
 ですが少なくとも俺はキャラに対する恣意を持って書いたのではない事だけはここで改めて言わせてください。

 その上で感想など頂けると、非常に嬉しいです。 
 

 

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