◆ こひつじとあくまのワルツ ◆





■ 1 ■



 ドアノブに掛けた手が震えているのに気づいて、柏木公大(かしわぎきみひろ)は奥歯を鳴らした。
 最愛の彼女の部屋から漏れる、男と女の声。
 見なかった事にすればいい。このまま回れ右して自分の家に帰ってしまえば、真実は知らずにすむ。
「はぁ、ああ、ん。だめぇ、きみ、公大がぁ……」
「やらしいな。公大の事考えながらこんなにしてるんだ、あんたってば……」
 くぐもった音には時折激しい息遣いが混じっている。熱っぽいその声はつい昨日も、公大が自らの腕の中で上げさせていた物だ。
 中で何が行われているかなど、火を見るより明らか。そして誰と誰がそこにいるのかも分かり易すぎるほどに明白だった。
 相馬(そうま)詩鶴(しづる)。半年ほど前から大切に愛をはぐくんでいた彼女。
 柚原(ゆずはら)(さとる)。公大の小学校時代からの友人で、紛れもなく親友と呼べる男。
 詩鶴の浮気という事実を認める事すら、公大にとっては困難だった。しかもその相手が親友なのだ。何が起きているのか、最初は信じる事すら出来なかった。
 視界はちかちかと赤黒く狭まり、ひくつく両のこめかみ辺りは割れそうに痛い。頭の中に血が上りすぎて、指先も足も冷えて震えている。覚束ない両の足は今にも砕けてしまいそうだ。
 いっそ夢であればいい。
 目を開ければ薄闇の中に見慣れた自分の部屋の天井が広がっている。寝苦しさに蹴っ飛ばした掛け布団がベッドの下に転がっていて、Tシャツが捲れて腹が冷える寸前。苦笑しながら掛け布団を引っ張り上げて、幸せな二度寝の旅に戻るのだ。
 だが公大の掌に伝わる金属の手触りは冷たく固く、今この瞬間こそが間違えようもない現実だと告げている。
 覚悟など出来る筈が無かった。しかし見ない振りをして背を向けるには、湧き上がった怒りと困惑があまりにも大きすぎた。
 震える手で、公大はノブを引き下げる。
 よく掃除されているせいか、軋んだ音を立てる事無くドアは開け放たれた。
「ひ、駄目、ソコ握っちゃ、くぅ……ぅ?」
「あは、こんなにして、もうイっちゃいそうなん……えっ?」
 果たして公大の目の前に広がっていた光景は、彼の想像とおおむね違わぬものだった。
 ベッドの上で裸になってもつれ合う、彼女と親友。その動きが、まるでビデオの一時停止のように固まっていた。首だけを公大に向けて、パクパクと音の出ないまま口を動かしている。
 ドアを開け放ったまま、公大もまた凍り付いている。目の前で繰り広げられていた光景は、想像とほぼ違わぬものであった。
 しかしただ一箇所だけ、彼の想像斜め上を放物線描いて飛んでいただけだ。
「…………その、何、を……してるんだ、詩鶴……」
 それでも意味ある言葉を発せられた自分を、自分で褒めてやりたかった。
 こんな状況など、想像できるわけがない。
 彼女が四つん這いの親友にのしかかって腰を振っている。そんな光景など。








 腰ほどの高さの本棚に、20インチのテレビとMDコンポにテーブル。そして窓下にはパイプベッド。ありふれたコーディネートの部屋の中で、少年と少女が二人きりで向かい合い、話している。
「ご愁傷様というべきなのかしら。それは」
 くすくすと小さな笑いを噛み殺して、少女――稲生(いのう)玲菜(れいな)は肩を揺らした。肩先ほどまで伸ばされた明るい茶髪が、一筋滑らかにほつれて滑り落ちる。
 面白くてたまらない。隠そうともしない彼女の表情を見て公大は顔をしかめた。
「あら、何か不満そうな顔してるわね。ひょっとして公大ってばご機嫌斜め?」
「当たり前だろ、あんな物見せられて。悪いが早々消えそうにないトラウマだったんだぞあれは」
「トラウマねえ。随分と独り歩きしている言葉だけど、まぁあんたの気持ちは分からなくもないわ」
 眼鏡の奥の深い藍色の瞳を細めて、玲菜は公大を見つめる。
「よりにもよって彼女と親友が浮気だものね。しかも彼女『が』親友を犯しているときたら、さぞかし受けた衝撃は大きかった事でしょう。心中察するに余りあるわ」
「へぇへぇ、そんな楽しそうに言われたって説得力の欠片もありませんよこんちくしょう」
 公大の言葉どおり、玲菜の表情には消えない悪戯めいた笑みが張り付いている。釣りがちの目と涼やかに整った美貌も相まって、その顔は猫を思わせるものだった。
「まあ、あれよ。事と次第によっては私の胸を貸してあげるから、せいぜい惨めに泣き喚くとよろしくてよ? 合わせて四揉みまでなら見逃すわ」
「いらねーっての。奢りのネタを俺自ら提供してどうするんだ」
「本当に?」
 わざとらしく体の前で両腕を組んだ玲菜が、公大に向かって身を乗り出す。
「いらん」
「出血大サービスよ? 詩鶴さんだっけ? ことこの部分においてはあんたの彼女に勝負すらさせないわよ?」
 ふるふると。
 寄せて上げられた二つの見事なふくらみが、服の上からでも十二分にその存在を主張している。
「……だからいらねーって」
 重々しく言い切った公大だったが、視線は一瞬一部分を彷徨い、そして名残惜しげに明後日の方向に向けられる。その瞬間、耐え切れなくなった玲菜が盛大に噴き出した。
「ああもう、お前、本当に性格悪いなっ!」
「お褒めの言葉だと思っておくわ。本当、その間がなければ顔に似合わずストイックで良かったのに」
「やかましい。たとえお前のおっぱいだと分かっていても、おっぱい嫌いな男なんかいるわけないだろうが」
 肩を揺らして笑い声を上げている玲菜に背を向けて、公大は不貞腐れたように呟いた。
 本当に、昔から変わらない。その事が今の公大には何よりもありがたい。
 彼にとって玲菜は、幼稚園時代からの十年以上に渡る幼馴染であり、もはや家族のようなものであった。実の妹である亜里沙(ありさ)よりも、事によったら近しい存在であるかもしれない。今更恋愛の情を抱くには、距離が近くなりすぎている。
「だから揉みたければ揉んでも良いわよ? その代わり対価頂くけど。さし当たっては亜里沙ちゃん丸一日お借りさせてもらうあたりでどう?」
「あのな、おっぱいに目が眩んで淫乱ガチレズに妹差し出すバカがどこにいると思っていやがりますかね玲菜さんや?」
「ガチレズのみならず淫乱までつけるとか、ひどくない? それじゃまるで私が、女の子と見れば節操無しに手を出しまくってるみたいじゃない。言っておくけど私の心は常に一人に捧げられてるわよ?」
「せめて胸元のキスマークくらいは消してから言えそういう台詞は。それと何度頼まれようが亜里沙はそっちの道にはいかせんから」
「選ぶのは亜里沙ちゃんよ? 恋愛感情は誰に向けられようと自由だし、その方向性まで兄が指図するのは横暴なんじゃないかしら?」
「横暴結構。道を誤らせないように教導するのは兄の務めだ諦めろ」
 ――つまりはまあ。
 柏木公大と言う男にとって、稲生玲菜はいろんな意味で得がたい異性の悪友なのである。正直どうかと思う時も多々あれども。
「いけず。なら今は涙を飲んで耐え忍ぶわ」
「出来る事ならすっぱり諦めろ」
「それは無理。だって亜里沙ちゃん可愛いし」 「うわ即答」 「てかそれよりもあんたの事よ」
「は?」
「詩鶴さんとの事よ。どうするのよ、一体」
 いつの間にか笑いを止めた玲菜が、じっと公大の顔を見つめてそう言う。公大は、心なしか疲れを滲ませた声で呟いた。
「……どうするも何も。あんなの見た後でヨリを戻すも何もないだろ。あれから顔も会わせてねえし、会いたいとも思ってない。勿論聡ともな」
「……それはまた思い切ったわね。私が言うのも何だけど、詩鶴さんは随分と可憐な花だと思ったのに。一度別の虫に目を向けたくらいであっさり手放すとは剛毅ねぇ」
「あのな、浮気された時点でNGだっつの。ここで許したって、常にこの事が頭をよぎるんだぞ。付き合うどころの話じゃねえって」
「まあ、あんたがその手の事で器用じゃないのは確かだけど」
「大体、だ。部活が早く終わったから喜び勇んでドア開けたら、彼女とダチがケツで繋がっててしかもダチが俺の名前を呼んでよがってるってどんな異次元だ。彼女がアナルマニアでダチがゲイって、俺は一体あいつらにどんな目で見られてたんだよおぞましい。するならともかく彼女にケツ犯される寸前だったんか俺は」
「何だ、公大ってばそっちに興味あり?」
「いや待てこら」
 ピントがずれてるのかわざとずらしているのか。玲菜の言葉に公大は思わず叫んだが、
「そっちなら浮気にならないかな? 亜里沙ちゃんを手に入れるには何かを差し出さないといけないのなら、覚悟を決めても良いわよ?」
「いやそうじゃなくてだな」
「でも出来れば明日以降にして欲しいわね。お互いデリケートな場所だから、清潔にしておかないと」
「だから黙れそこの変態!」
「冗談よ。いくらあんた相手でも、男に抱かれるなんてぞっとしないわ」
 苦笑した玲菜の目が、不意に真剣なものに変わる。
「まぁ、いい加減付き合い長いしね。あんた一度決めた事には人の意見聞く耳持たないから、私は何も言わないけど」
 友人の顔に戻って言う、玲菜の表情には気遣いが現れていた。
「詩鶴さんのようなタイプは、容赦がないわ。色々と覚悟はしておいた方が良いと思うわよ」
「……不吉な事言わないでくれよ」
 心の底から顔をしかめて、公大は呟いた。









 相馬詩鶴はとびきりの美少女である。
 彼女の容姿について尋ねられれば、おそらく同じ学校の生徒の九割九分がそう答える事だろう。
 彼女には四分の一、ドイツ人の血が流れているという。だから瞳は黒だが髪の毛は明るい茶髪であり、ショートカットに整えられた様が、健康的な魅力をかもし出している。深めの彫りが目鼻立ちを際立たせ、しかしぱっちり大きな目が暖かい雰囲気を添えている。
 背は170を僅かに超え、すらりと伸びた手足の長さと細さは日本人離れしている。モデルにしろアイドルにしろ、スカウトされた回数は両手両足の指の数でも足りないと評判だった。
 万能に限りなく近い域でスポーツ全般をこなし、さりとて学業をおろそかにするわけでもない。交友関係は驚くほど広く、彼女とメールのやり取りをするだけで感激のあまり卒倒しそうになる下級生もいるほどだ。
 つまるところ感嘆羨望嫉妬畏怖当惑倒錯、周りを取り巻く諸々の感情全てひっくるめて、相馬詩鶴はとびきりの美少女なのだ。
 公大にとって彼女は、眩しい向日葵のような少女だった。それは別れを決断した今でも変わる事のない感情だ。
 視界に入るだけで思わず目を向けずにはいられない。どれだけ関わりと断とうとしても、哀れな羽虫が炎に引き寄せられるように、彼女の存在が彼の生活に忍び込んできてしまうのだから。
 玲菜を家まで送った帰り道、数歩先の我が家を目の前にして、公大は嘆息する。
「おかえり、公大」
 公大の視線の先で、小首を傾げてにっこりと詩鶴が微笑んでいた。
 ああ、確かに彼女は向日葵だ。
 夜に浮かぶ向日葵の影ってば、威圧感がありすぎるものな。思わず回れ右して逃げ出したくなるくらいに。
「電話しても出てくれないし。公大の学校に遊びに行っても会えないから、来ちゃった」
「……電話に出ないという時点で、俺の考え察しろよ」
「そう? 色々言いたい事ありすぎて、纏められないんだと思ってたよ? まったく同感。電話じゃ話しきれないものね。一杯、一杯話す事あるし」
「ええ、本当ですよ」
「うぁうっ?!」
 突然後ろから掛けられた声に、公大は身を震わせる。
 慌てて振り向いた先には、藍染の和服に身を包んだ、落ち着いた佇まいの女性が立っていた。年の頃は三十に入るか否か。涼やかな面持ちの美女が、彼に向かって微笑みかけている。
 彼女もまた、公大にとって嫌というほど見覚えのある相手だった。
 名前を相馬早百合(さゆり)と言う。外見では到底信じられないが、正真正銘紛れなく詩鶴の母親である。
「もう、お母さんたら心配性なんだから。困っちゃうよね」
「他ならぬ大事な娘の将来がかかっている事ですもの。いくら心配しすぎても余る事などありえません。公大さんもそう思いませんか?」
 娘に良く似た笑顔を浮かべられて、公大の口元が曖昧に引きつった。
 前門の虎? 後門の狼? そんな生易しい存在であるものか。
 外見だけで判断すれば、死亡確認間違いなし。後数歩先にある我が家の玄関が、今の公大にとってははるか遠い天国の門。
「じゃあ行こう、公大。こんな所で立ち話なんて疲れちゃうもんね」
 ふわりとスカートを舞わせて、詩鶴は身を翻す。
 夜道を照らす街灯の下で、公大の目に映る彼女の影に角が生えていたのは、目の錯覚という事にしておきたかった。




「うん。あたしは全然怒ってなんかないよ? 話し合う間もなく出て行かれちゃったって、その後携帯もメールも着信拒否されたって、家電に掛けた時は居留守使われて学校早退して校門前で待ってる時は裏口から逃げられて仕方ないから友達に頼んで裏口張ってもらった日はグラウンドの柵越えてエスケープされたけど。でもそれも公大が凄く悩んでて、きっと考えが纏まってないからだって思ってる。だからあたしの知らない女の人を部屋に呼んでたのだって、きっとあたしとの将来を親しい女友達に相談したんだって思ってる。うん、怒ってないからお互い建設的に話し合いしようね?」
 嘘つけ。
 滲んだ視界に映る詩鶴の笑顔に向かって、公大は毒づいた。
 ぽたぽたと前髪から滴る雫が非常に鬱陶しい。お気に入りのTシャツがものの見事に胸まで濡れた。エコライフなんのそのでフル稼働しているファミレスのクーラーが、この時ばかりは恨めしい。
 着席一番、水運んできたウェイトレスがバックヤードに戻った瞬間これだ。娘と並んで座った母親の位置取りに最初は怪訝に思った公大だったが、なるほど今は納得だった。逃がさないように横に座ってたら巻き添えだったわけだ。
 その母親である所の早百合は、娘の凶行も意に介さぬように微笑を絶やさない。
 ああ、貴女も怒っておられるんですね。
 どうやら絵に描いたような四面楚歌らしい。
 公大は腹を括った。覚悟を決めろという事だ。生きて帰れない方の。
「…………オーケー分かった詩鶴。お前の気持ちは良く分かったし、頭良いお前の事だから俺の気持ちもよく分かってると思いたい」
「やだ、そんな事言われると照れちゃうな」
 頬に手を当てて身を捩る仕草に、どうしてここまで震えが来るのか公大は不思議だった。多分彼女の目が欠片も笑ってないせいだろう。
「……とりあえず、だ。俺の女友達の方は置いておいて、俺はお前に聞きたい事があるんだが」
「うん。あの事、だよね?」
 公大は詩鶴を睨みつけて、出来うる限り低い声で言う。彼女の事は後で聞かせてもらうよという、詩鶴の呟きは聞こえない事にしたが。
「お前、聡とどうしてあんな事をしてたんだ?」
「どうしてって言われてもなぁ……」
 そのまま小首をかしげた詩鶴は、小さな声を漏らしながら真剣に考え込んでいる。驚いた事に、演技でも駆け引きでもなく、彼女は本当に悩んでいるようだった。
「いくら何でも答えられないって事はねえだろ。気の迷いとか冗談だったとか、本当に愛してるのは公大だけだとか、そんなテンプレートはいらねぇぞ始めに言っておくがっ!」
「うーん。そうじゃなくてね。きっと公大って根は真面目だから分かってもらいにくいと思うんだけど」
 顔を上げた詩鶴は、迷いを振り切るようにきっぱりと、
「あたし、男の子がお尻でされてイく顔って大好きなんだ」
 ファミレスの空気が一変した。
 初めは公大と詩鶴のそれぞれ後ろの客が。次はその横。小さな波紋は広がりを見せ、やがて店内の客店員の視線全てが三人のいるテーブルに突き刺さる。
 ざわめく群集の台詞が、公大には良く聞こえなかった。おそらくそれは幸せな事だろうと自分で納得する。「変態」とかいう単語は聞こえない。「やだ、あの子やっぱりそうなんだ」「可愛いもの、しかたないわよ」とか言う声は絶対聞こえない。未だ頬を伝わる冷たい雫の感触に一筋、温かいものが混じった気がした。
「…………マジ、か?」
「うん、きっぱりマジで。可愛いんだよ? お口でシて上げた時もそうだけど、弱い所付かれるとね、男の子って信じられないくらい綺麗な声で啼くんだから」
 周りのどよめきも聞こえないのか、詩鶴の暴走は止まらない。いやむしろそれを快感に思ってるようにすら公大には見えた。
 半年付き合って全く見抜けなかった彼女の裏の顔。自分の目の節穴ッぷりが、今の公大には恨めしい。
 逃げ出したくなる衝動を必死で押し殺して、彼は視線を早百合の方へ向けた。ここでケツを捲くったらおそらく事態は悪化する。間違いなく敵だろうが、それでも娘の爆弾発言に親として思う所はある筈だ。あって欲しい。あってもらわないと困る。人として。
 公大の無言の訴えを感じ取ったか、早百合は手にしていたグラスをテーブルに戻した。
「公大さん」
 その表情から微笑が消えて、真剣な眼差しで公大を見つめる。そして、
「新しい世界を受け入れる事も、男の度量でしてよ?」
 紛れも容赦も手加減もなく、彼女は詩鶴の母親だった。
「やっぱりそうだよね、母さん! あたし公大大好きだけど、ちょっぴり保守的なところだけは直してもらいたいって思ってた。この一週間とても悲しかったけど、お互いに新しい一歩を歩むための障害だったって思えばいいんだもの!」
「ええ。男女の間には高く険しい障害がつきもの。それを乗り越えてこそ、砕けぬ美しい思考の愛が芽生えるの。あなたと公大さんならそれが出来るって、信じているわ。あなたたちを見ていると、わたくしと(たかし)さんの若い時をみているよう」
「え、父さんもそうだったの?」
「ええ。初めて尊さんにしてあげた時はそれはもう脅えて脅えて部屋の隅でガタガタ震えて命乞いまでなさって。でもそんな表情にわたくしひどくそそられたのよ」
「へえー。父さんもそうだったんだ。意外〜」
 相馬家もう終わってた。
 盛り上がる母娘の姿に公大は泣きたくなった。
「でもあなたは随分と経験を積んだみたいだもの。きっと公大さんを天国へ導いて上げられるわね」
「いや待って」
「まかせて! 予行演習はばっちり! 聡くんからされる側の気持ちとかもリサーチしてあるから、痛い思いなんかさせないよ。大船に乗った気持ちでいてね、公大!」
「だから待てと言ってるんだそこの変態親子っ!」
「えー。変態だなんてひどいよ。公大にそんな事言われるなんて思わなかった」
「思え! そもそもありえないだろ! 突込みどころ多すぎて、どこから突っ込んだら良いかわかんねぇぞちくしょう!」
「突っ込むだなんて、やらしいなぁ。何、公大ってば最初はあたしにしたい? んー。ちょっと恥ずかしいけど、公大ならいいよ。最初はさせてあげる」
「だからケツから離れろ最初に戻れ! 何か? 聡にあんな事したのはそんな理由だったんかお前はーっ!」
 最初は裏切られたと思った。次は狙われてると思った。
 だが、ひょっとしたら自分は考え違いをしていたのかもしれない。野太いよがり声を上げてる元親友の顔を思い浮かべると少し欝になったが、公大は少しだけ聡の事を考え直そうと思った。
「んー。でも聡君が公大の事にぞっこんだったのは見てて分かってたし。あたしと一緒なら、公大にさせてあげても良いよって約束したの」
「待て待て待て待て待て待て待て待てー!」
 考え直し放棄決定。公大の脳内で柚原聡は再び、ゴミ箱フォルダに放り込まれる。
「な、な、何勝手に俺を売り渡してるんだお前はーっ?!」
「えー、皆で仲良くなれば、幸せだよ? 公大だってそう思うでしょ?」
「ありえねえ。その代償が俺のケツとかってありえねえから!」
「だから、誤解してるよ公大」
 ずい、と。身を乗り出してきた詩鶴が公大の手を掴んだ。
 上目遣いで彼の瞳を見つめて、蕩けそうなほど極上な笑顔を浮かべたまま、彼女は囁く。
「おしり、慣れるととっても気持ちいいんだから」


 ――戦おう。
 公大は決心した。
 例え死んでも良い。男には命より大事なものがある。
 負けるわけにはいかない。絶対に負けるわけにはいかない。この目の前の悪魔を必ず打ち滅ぼそう。
 だが、さし当たって転がっている問題の根深さに公大は嘆息する。
 ざわめく店内。突き刺さる視線。隙の欠片もない目の前の悪魔二人。どうやればこの地獄から一時撤退できるのだろうか。
 冴えたやり方は今のところ、思いつく気配もなかった。




「オーケイ。まずはプランだ。プランを考えろ……」
 口をついたお気に入りの映画の台詞も、今はなんだか弱々しい。公大は天井を見上げて、そして深い深い溜息をついた。
 所々ペンキのはげたパーテーション。コーキングが上手くいっていないのか、入り角の壁紙が捲れ上がりかけている。芳香剤のきつめの臭いが鼻を焼き、100Wの白熱灯がむやみやたらと目にまぶしい。
 視線を上に向ければ、唯一備えられた窓が目に映る。
 どこにでもあるファミレスの、トイレの個室だった。何の代わり映えもありはしない。
 唯一他と異なっているとすれば。
 そこから中を覗き込んでいる、髪を短く借り上げた大柄の少年がいるくらいだろうか。整っているというよりは精悍な顔つきをした彼こそが、公大の同級生である所の柚原聡である。
「無理だって。無駄な足掻きは止めなよヒロ。あの相馬さんが、こんな分かりやすいエスケープポイント、そのままにしておくわけがないじゃないか」
 ああ、そりゃそうだよな。
 公大の口から、深い、本当に深い溜息が滑り落ちた。一縷の望みをかけて飛び込んだ場所が、どうにもこうにもデッドエンドだったらしい。やけに簡単に行かせると思ったら、こういうオチが待っていたとは。
 バルとアールは互いに気のおけない友人同士だったから巨大ミミズを出し抜けたわけで、片方が敵に回ってしまった今、待っているのは食われて終わる運命というわけか。
 公大は途方に暮れていた。食われるというのがあながち間違っていないというのが、心底嫌だった。
「…………なあ、聡」
「なんだい、ヒロ?」
「いつからだ? その、いつからお前、俺の事……」
 あまり気は進まなかったが、公大としてはせめてその辺りの事は確認しておきたかった。彼の言葉に一瞬視線を中に彷徨わせた聡は、すぐに爽やかな笑顔を浮かべて言った。
「んー……改めて言われると困るけどさ。中学まで一緒に柔道やってたろ?」
「ああ」
「その頃にはもう、着替えの度にがっつり欲情してた」
「ちょっと待て」
「いや、でも僕だけじゃないと思うよ? 知ってる限りで五人くらいはいたし、山田先生もヒロに技掛ける時は明らかに意識してたもの。逆に大変だったんだよ? ヒロの事ガードするの」
「…………マジで?」
「きっぱりとマジで」
「何じゃそりゃーっ!?」
 あっさり告げられた衝撃の過去に、思わず公大は叫んでいた。
 そんな彼の姿を見て、巌のような顔をくしゃくしゃにして聡は笑っている。つい十日位前までは、非常に人好きのする雰囲気だったそれが、今の公大には別の意味にしか見えなかった。
 具体的に言うと、熊が川上る鮭を見ている感じ。
「てかねー、ヒロがあんまりにも無防備なんだよ。実力行使に出ようとしてたのだって、今まで何人いたか。痛めつけといたのも片手の指じゃ足りないよ。無理やりなんて絶対にダメだもんね」
「そもそも前提がおかしいだろ! どう見ても男じゃねーか俺はっ!」
「いやそれはどうかなぁ。ヒロは男から見てもとってもとっても可愛らしいと思うけど」
 あっさり否定されて、公大は頭を抱えた。
 まぁ、心あたる部分は彼にも無いとは言えなかった。
 身長は現時点で詩鶴よりも低かったし、昔は妹と外出すると、「可愛い姉妹ですね」と腹立たしさ極まる声を掛けられた事もあった。丸みを帯びた小さな顔の輪郭も、嫌に長い睫も妙にパッチリ大きな目も、あまり男らしいとは言いがたいという自覚はあった。
 それでも、高校に入って多少なりとも肉は付き、彼女も出来たのだ。男らしくなってきたぜいやっほう! と鏡の前でひっそりガッツポーズを取ったことも時折ある中で、この言われようだ。
 可愛いというのは断じて男への褒め言葉ではないと、公大は声を大にして言いたかった。
「大体、ヒロだってひどいよ」
 彼の内心を知ってか知らずか、聡は口を尖らせる。
「こっちの気持ちも知らないで、良く泊まりに来いって誘うしさ。溢れそうになる気持ちを抑えるの、どれだけ大変だったか!」
「気づくわけねーだろっ! よりによって親友がガチでゲイだったなんてっ!」
「待って、それは誤解だよ! 別に僕はゲイって訳じゃない。男が好きなわけじゃないんだ」
「ほほぉぉぅ? どこをどう見ても俺は男でお前も男に見えるんですけどね?」
「だからそれは怪しいと思うけど、とにかく! 公大は誤解してる!」
「そこにどんな誤解が生じてるのか、俺が納得できるように説明してみろこの野郎っ!」
 魂の叫びだった。トイレ中に響き渡る公大の言葉に、一瞬息を呑んだ聡は目を瞑り、そして自らに気合を入れるように短く息を吐き出した。
「いいかい、ヒロ」
「お、おう?」
 惑わぬ瞳で射抜いてくる。聡の態度に思わず公大も居住まいを正す。
「僕にとって大事なのは公大だけなんだ。公大以外のなんか要らない。君のじゃなきゃダメなんだ!」
「よりダメじゃねーかって言うか「の」ってなんだ「の」ってぇぇぇぇっ!」
「待って! 公大が詩鶴さんの事を好きならそれでも構わないんだ! 僕には十日に一度くらい愛を向けてくれればそれで良いから! 後もうちょっと贅沢言えば、二十日に一度くらいは僕からも愛を向けさせて欲しいけど!」
「結局それかーっ!」
 ダメだ。
 こいつも本当にダメだ。
 状況の四面楚歌ぶりに心で泣いたその瞬間、公大の携帯がメールの着信を知らせた。
「ちょっと待て、着信来たから」
 聡に背を向けた公大が、画面を開いて見てみると。非登録のものであった。ただ、そのアドレスには非常に見覚えがあったのだが。

”話し合い、もう終わったかな? 公大の好きなアップルパイ、頼んであるからね  詩鶴”

 ああ、つまりは全部掌の上ですねジーザス分かっていましたが。
 壁に手をつき項垂れる公大の背中に、聡の優しい声が掛けられる。
「ほら、無駄な抵抗は止めた方が楽になれ……ぺぐっ?!」
 鈍い音と共にその声が突然途切れ、トイレに静寂が満ちた。
「ど、どうした聡?!」
 慌てて振り返った公大の視線の先に。
「自分で言うのも何だけど、さ」
 動きやすいようにだろうか。艶やかな髪をアップにまとめて、眼鏡の奥の目を面白そうに細めている。
「これは大きな貸しになると思うんだけどな? 公大」
 不敵な笑みを浮かべた玲菜の顔がそこにあった。
 公大の口から、大きな、大きな溜息が漏れる。間一髪の生還を勝ち取った者の、偽らざる心境だった。
 まあ、ひらひらと窓の端から見えるバールのような物は、あえて気のせいだと思うことにしたのだが。
 ガタイに見合って聡はむやみやたらと頑丈だし、大丈夫だろう。おそらく。