あんたの貞操とか尊厳、寸前で救ってあげたのよ? 体と既製品以外の方法で、この借りは返してもらわないとね、うんうん。
 そう言って悪魔の笑顔で彼の肩を叩きながら、期待の眼差しを向ける玲菜に対して、公大が提供できる物など限られていた。
 そんな訳で。
「ごめんねー、亜里沙ちゃん。こんな時間にまたお邪魔しちゃって」
「全然良いですって、玲菜先輩。それより本当に良いんですか、わたしの料理なんかで。正直、お兄ちゃんの方が上手いと思うんですけど……」
「あー、まあ玲菜が奇特にもお前をご所望だって言うんだから仕方ねーだろ」
「むしろ亜里沙ちゃんのじゃなきゃダメな勢いね。気持ち込めてくれれば、なお嬉しいわ!」
「ん、それなら良いんですけど、味は期待しないで下さいね?」
 亜里沙と呼ばれた少女が、照れたような笑いを浮かべながらキッチンへと向かっていく。花柄のエプロンを身にまとって、背中まで伸びたダークブラウンの髪をツーテールに纏めてる。綺麗というよりは可愛らしいという表現がぴったり来る顔立ちは、公大にも重なるものがある。それも当然。公大の二つ下の、実の妹なのだから。
 ご執心の彼女の手料理のご相伴に預かるという条件で、ようやく玲菜は納得したのである。2ショットのディナーを希望する彼女に対して、同席だけは頑なに譲らなかった公大だったが。
「それよりもお兄ちゃん、テスト近くなる度に玲菜先輩に世話になるのもどうかと思うよ。詩鶴さんだっけ? あの綺麗な彼女の人、誤解しちゃうよ?」
「あー、そうだな。次は気をつけるからお前はそんな事気にしないでよろしい」
 料理の合間、レースの仕切り越しにそんな声を投げかけてくる妹に対して、顔をしかめて公大は答えた。
「その様子だと、まだ話してはないんだ?」
「……まあ、話さなきゃいかんなってのは分かってるんだが。ありのままになんか絶対NGだしなぁ。だからって、ただ別れた振られただと、それはそれで色々言われるんだよ。変な心配掛けたくねえんだ」
 顔を寄せて小声で問いかけてくる玲菜に、溜息混じりに公大は呟いた。
「シスコンも相変わらずねえ」
「うるせえ。ってか、こんなの別にシスコンの範疇でもねえだろ」
「別にこれに限らずよ。どう? ここらでその重荷を外してみる気、ない?」
「代わりに人としてどうかと思う荷物を背負わせてどうする。お前の趣味に関してどうこう言う気はないが……」
「あー、はいはい。了解了解。今日は引き下がっておくわよ」
「出来ればずっと引き下がってくれ」
 小声だったが固い声でそう言った公大だったが、不意にその相好を緩めた。
「まぁ、それはそれとして助かった。本当に助かった」
「どういたしまして。てかまあ、ちょっと気にはなっていたのよあの後。たまたま友達がバイトしてる店に入ってくれてよかったわ。その子から連絡こなかったら、ちょっと無理だったわねぇ」
「……本当、人脈広いのな、お前」
 どういうトモダチなのかはあえて考えないようにして、呟いた公大だったが、ふとある事が頭をよぎった。
「……なあ? その彼女って、俺の事知ってるって事?」
「てか、あんたの隣のクラスの子よ?」
「……そうすか」
 つまりは、店内で繰り広げられたあの会話の主客を、しっかりと理解して聞き取られたという事なのだろう。
 公大は顔から血の気が引くのを感じたが、もう今更どうしようもない。明日の事は明日考える事に決めた。
「ねえ、お兄ちゃんーっ!」
 そこに、キッチンから亜里沙の声が届く。
「ん、どうしたー?」
「えっと、後で聞きたい事あるんだけど、良いー?」
「何だよ、別に今話せばいいだろ」
「い、今じゃダメなの。もう少しで夕飯できるから、その時にね」
「あー、まあいいけど」
 何の気なく、そう公大は答えた。
 まさかそれが、更に事態をややこしい物にしていくなどとは、この時の彼には思い至らなかったのだが――




「ねえ、お兄ちゃん」
「ん、どうした?」
「聡さんって、その。付き合ってる彼女っているの?」
 何の前触れもなく放たれた亜里沙の言葉が、夕食の空気を一変させた。
 公大の箸から、つまみあげていた唐揚げがぽろりと落ちて転がった。
 幸せそうにシーフードサラダをつついていた玲菜の手も凍りついた。
「あ、あれ、どしたの? お兄ちゃん? 玲菜さん?」
 自らの発した言葉の巻き起こした自体に、戸惑う亜里沙が二人の間に視線を彷徨わせる。
「わ、わたしそんなに変な事言ったかな?」
「……い、いや、いいんだ。ちょっと、その、お前の口からそう言う言葉が出て驚いただけだ」
「もう、わたしだって十六なんだから。友達とそういう話位するよぉ」
「……友達?」
 何とか平静を取り繕った玲菜の問いかけに、頬を少し赤らめながら亜里沙は頷いた。
「うん、その、わたしの友達の知恵ちゃんってお兄ちゃんも見た事あったよね? 彼女が、その、聡さんの事を好きになったんだって! でも、彼女だけじゃ聡さんと接点ないから、その、お願いだから聞いてきてって頼まれちゃったのよぉ」
「あー……成る程、なるほど。そういう事か」
 苦笑を浮かべて、公大は何度も、何度も頷いた。自分に言い聞かせるように、何度も。
「ほら、前はよく遊びに来てくれたけど、最近はあんまりないでしょう? だから、ひょっとして、とか思ったんだけど……どうなの、お兄ちゃん?」
「まぁ、あいつもあれでいて柔道部のレギュラーだからなぁ。割と忙しいってのはあるから中々……」
「もう、そうじゃなくて! 彼女がいるのかって言う話!」
 真剣な顔で公大に食い下がる亜里沙の姿に、彼と玲菜は顔を見合わせた。
 彼女の顔に書いてある事は、嫌というほど公大にも分かる。
 ――うまい事言いなさいよ?
 無茶言いやがる。
 溜息をついた公大は亜里沙に向き直った。作り笑いだと分からなければいいと思いながら。
「……好きな奴がいるってのは、聞いた事があるよ。強敵で、中々目がない戦いだよとか苦笑いしてたけどな」
「そう……なの?」
「ああ。他の奴ならともかく、俺に見栄張る理由もねぇだろうさ。知恵ちゃんには残念だけど、そう伝えておく方が無難だと思うぞ」
「そっかあ……聡さん、好きな人いるんだ。知恵、悲しむだろうなぁ」
 沈んだ声でそう呟いた亜里沙は、止まりがちな箸でご飯を口に運ぶ。
「ま、まぁまぁ! 今回はちょっと縁なかったみたいだけど、きっとその知恵ちゃんにもいい出会いはあるに決まってるわよ。亜里沙ちゃんの友達なんだから、いい子に決まってるもの」
 慌てて慰める玲菜の声も、あまり耳に入ってはいないようだった。責め立てるような視線を玲菜から向けられ、公大は顔をしかめる。
 ――他にどう言えってんだよ。
 零れ落ちそうになった怒声を押し殺すように、公大は唐揚げを摘んで噛み砕いた。衣の風味も、あふれ出る肉汁の旨みも欠片も伝わってこない。お気に入りの筈の妹の唐揚げは、まるで砂を噛んでいるようだった。
 泣きたいのはこっちだっての。
 心の中で呟きながら、公大もまた作業のように箸を進めていた。




 点々と街灯が足元を照らす住宅街を歩く、公大と玲菜の足取りはひどく重いものだった。公大が押す自転車が時折立てる、軋んだような音がそれに拍車を掛けている。
「うまい嘘つけるなんて期待はしてなかったけどね。物は言いようって物があるでしょ、馬鹿。信じられないわ、本当……」
「本当に悔しそうだな、お前」
「お互い様じゃない。雨に濡れながらダンボールに収まってる、子犬みたいな顔してたくせに」
「どんな例えだよ、そりゃ」
「そのまんまの意味よ」
 言い合う二人の声にも張りはない。
 日付の変わりそうな夜中で良かったと、公大は思った。いくら幼馴染でも見たくない顔だってある。たとえ性的倒錯者で、本気で妹を狙っている問題児であっても、玲菜には常にらしい姿であってもらいたい。
「……ねえ、公大」
「ああ?」
 溜息混じりに呟いた玲菜は足を止めて、彼に向かって振り返った。
「実際の所、あんたは一体どう思ってるわけ?」
「正直泣きてえ。俺が一体何をしたんだちくしょう」
「あんたの事なんか今はどうでも良いのよ、亜里沙ちゃんの事よ!」
 一刀両断された公大が恨みがましい視線を向けるが、それを無視して玲菜は言葉を続けた。
「同じ女の立場から言わせてもらえれば、兄貴に一言二言言われたくらいで諦めはしないわよ、きっと」
「諦めはしないったって、どうしようもねーだろ実際問題……」
 言い返す声もしょぼくれているなと、公大は自嘲した。
「一週間前だったらまぁ、諸手を上げて賛成とは言わんが見守るくらいはしてやったと思うけどな。聡なら安心できるって言ってな。でも今は無理だ」
「それは、彼が自分を狙ってるゲイだから? 実際の所どのレベルかしらないけど、男一本槍なのかどうかも分からないじゃない」
「違うよ。あいつの性癖云々も大問題だけど、どんな理由であれあいつが詩鶴と浮気したってのがもうダメなんだ。もう信用できないんだよ」
「だったらそういえば良いじゃない、最初から」
「……言えるか、馬鹿。親友だった男がゲイだったなんて、素面でそんな話を妹に出来る男がいたらいっそ尊敬するっての」
 肩を竦める公大に向かって玲菜の口元が皮肉げに吊りあがる。
「ふぅん。そんな事言いだしたら、私なんか一体どうなるのかしら。自分で言うのも何だけど、随分といろんな噂が耳に入ってるでしょうに」
「だから絶対に亜里沙はやらんって言ってるだろうが」
「その割にこうやって夕飯一緒に食べたりするのは許してくれるんだ?」
「あのな、お前が何を言いたいのか俺には良く分からないんだが」
 苛立っているというのが、公大自身もよく分かっていた。良くない兆候だというのは自覚しているが、止める事が出来なかった。
「俺とお前は幼馴染で、俺も亜里沙もお前の事を嫌いじゃない。それ以外に理由なんかあるかよ、馬鹿」
「そんなの分かってるわ。言いたい事はそんな事じゃない」
 街灯の下、公大は自分を捕らえる玲菜の瞳が、妖しい光を放っているような錯覚を覚えた。反らしたい。反らさねばいけないのに、反らす事が出来ない。幼馴染の友人が、まるで魔女のように見えてしまう。
「私が言いたいのはね、公大。亜里沙ちゃんの事を大事にしているって言ってる割に、あんたの軸がぶれてるって言いたいの」
「……軸?」
「どうせ聡の性癖の事も、相馬さんと浮気していたって事も、何も話すつもりはないんでしょ? 自分がどれだけ傷ついたとか、そういう弱い所も見せるつもりはないんでしょ?」
 甲高くもなく、急き立てる様子もない。ただ淡々と響く澄んだアルトが、公大の心に爪を立てる。
「そういうのってね、自分で思ってるより簡単に相手に気付かれる上に、思った以上に傷つけるのよ。覚えておいた方が良いわ」
 伸ばされた玲菜の手が、そっと公大の頬をなぞり上げる。滑らかな感触が、どこか遠い物のように思えた。
「別にあんたの貞操とかそういうの、私にとっては話の種でしかないのよ? 相馬さんか、聡か、それとも他の誰かか。あんたがどういう道を選ぶにしろどハマリするにしろ、その事自体が私にとって何か影響を及ぼす事なんてありえないもの。だから本当に守りたいんなら、腹を割って話し合える相手を一人でも増やしておいた方が良いんじゃないかしら?」
「……お前は違うって言うのか?」
「さあ? 代償次第かもね」
 意地の悪い笑みを浮かべて、玲菜は身を翻した。
「ここまで良いわ。それじゃお休みなさい」
「あ、おい! ちょっと待て……」
 伸ばした公大の手をすり抜けて、玲菜は軽やかな足音を立てて走り去っていく。自転車を漕げば追いつけるのは分かっていたが、彼はそうする気になれなかった。
 溜息をついて、公大は空を見上げた。地上の光に邪魔をされて、星空はまばらにしか見ることが出来ない。
 ようやく一日が終わるのだ。随分と長かった気がするが、一日は一日でしかない。
「挙句、なんも解決してねぇんだよな……」
 むしろ、問題は積みあがっていく一方だった。
 せめて寝て起きれば、何か冴えたやり方でも思いつくだろうか。
 公大は自転車に飛び乗った。乗りなれた筈のペダルがひどく重い。答えを言われているようで、漕ぎ出す足から殊更に力が抜けていくように思えてしょうがなかった。








 公大がいかに嫌だ避けたいむしろ逃がせと願っても、次の日は否応なく訪れる。
 父子家庭で、しかもその父親が単身赴任中の柏木家である。サボろうと思えばいくらでも可能なのだが、彼は割と皆勤に近いペースで通っていた。妹に変な心配を掛けたくないと言うのが七割。後の三割は、純粋に学校そのものが嫌いではなかったからだ。
 だがその称えられるべき精神も一週間ほど前に磨耗した。今日の彼は本当に、学校へは行きたくなかった。
「……その筈なんだけどなぁ」
 兄へ手を振りながら2年生の教室へと向かう妹の後姿を見送りながら、公大は肩を落とした。
「何でまぁ、律儀に通ってきてるのかね俺は……」
「よぉ、相変わらず妹さんと仲良しなのな?」
「おぅ?」
 肩を叩かれ振り向いた彼の前に、人懐っこい笑みを浮かべた長身の少年が立っている。公大の隣のクラスの、堀内孝信(ほりうちたかのぶ)という男だった。
 社交性がとにかく広い事で校内でも名うての少年であり、同学年で彼と話をした事のない男女は皆無と言っていい。公大も特別親しいわけではないが、割と登校時間が似通っているため、朝こうやって顔をあわせると良く雑談をする仲であった。
「仲良いも何も、妹なんかあんなもんだろ?」
「いやいや照れなさんなって。可愛い妹に美人の幼馴染、挙句校外に謎の美少女彼女まで装備だってんだから羨ましい。やっぱり可愛い顔は武ぎぶぎぶぎぶ、入ってる! もろに入ってる!」
「前から言ってるんだが! 可愛い言うな嬉しくないから割と本気で!」
 公大は据わった目でチョークスリーパーもどきを掛けて堀内の戯言を黙らせた。背中から飛び上がらないと上手く掛からないあたり、身長差への恨みも三割増しである事は割と秘密である。
「げふ……あー、痛」
「自業自得だ。毎回毎回」
「すまん、まぁその、思った事言っただけで悪気はないぞ」
「わかった分かった。そういう事にしておくから。用がないなら俺は教室いくぞ?」
「いや、無いわけじゃないんだが。一つ言いたい事あるんだわ公大さんや」
「ん?」
 喉をさすりながら言う堀内の言葉に、なぜか公大は首筋の辺りに違和感を感じた。
 何故だろうか。とてつもなく嫌な予感が頭をよぎって仕方がない。そんな彼の思いを裏打ちするように、にやりと唇をゆがめた堀内は、心底楽しそうな声で言った。
「呼び寄せたのか? それとも押しかけ妻か? どっちにしても、彼女と一緒のクラスになるなんて人生薔薇色で羨ましいですなぁ!」
 一瞬、公大は言われた言葉の意味が理解できなかった。きょとんとした顔で堀内の顔を見返すうちに、ようやく脳味噌が活動を再開して。
「は、ぁぁぁぁぁぁぁあっ?!」
 半ば悲鳴のような声が、昇降口に響き渡った。




「急な転校になりましたが、皆さん、どうかよろしくお願いします」
「そう言う訳だ。残り半年、受験で忙しい奴も多いとは思うが、皆相馬くんと仲良くするように……」
 担任の声を掻き消すように、拍手と歓声が教室内を埋め尽くす。公大にとっては見慣れた光景だった。相馬詩鶴は居るだけで華になる。何もせず、ただ立っているだけで、周りが引き寄せられるのだから。
 浴びせかけられる質問に、時には身振りを交え、非の打ち所のない笑顔を振りまきながら彼女は応えていく。朝のHRの十数分という時間で、突然の転校生という立場からあっさりとクラスの中心へと上り詰めていた。
 一方の公大は、もはやパニック寸前であった。訳の分からない事をわめき散らして、教室から逃げ出すべきか今この瞬間も真剣に悩んでいるくらいだ。たとえ翌日以降変人のレッテルを貼られても、この場の空気に耐えるよりははるかにマシに思える。
 意味が分からなかった。
 もちろん昨日あの場のエスケープで、ケリがついたなどとは彼も思ってはいなかった。半分以上、夜中の再来襲を覚悟していたくらいだ。
 だが、この展開はあまりに予想外だった。こんな無茶苦茶を昨日の今日で可能にする、相馬家の財力と行動力に石を投げつけてやりたい。それとも、事前にここまで計画を立てていて、昨日の件は最後の詰めだったという事なのか。
 どちらにしても。
「……俺、詰んだんじゃね?」
 唯一の逃げ場であった、昼間の学校生活が今ここで消滅した。
 もちろん聡の件もある以上、普段の学校が完全に安全であったのかと言われれば否だが、少なくとも彼には公衆の面前で欲望の発露を思いとどまるくらいには理性があった。それにその事だけ目をつぶれば、聡は公大にとっていい友達だったのだから。
 だが、詩鶴は違うのだと昨日彼は身を持って思い知った。
 彼女には理性をねじ伏せる欲望と行動力がある上に、容赦がない。
 朝の怠惰な囁きが、今日に限っては賢者の助言だったのか。
 学校を休まなかった事を、公大は心の底から後悔していた。
「じゃあ、相馬くんの席なんだが……」
「その事なんですが、先生。あたし、一つ希望があるんです」
 凛とした声が響き、公大は我に返った。思わず向けた視線が詩鶴のそれと交錯する。にっこりと微笑んだ彼女の表情で、彼は意図する所を悟り、
「いや、ちょっと待て、それは……」
「そちらの、公大の隣の席が良いんですけど」
 あっさりと言ったその言葉に、教室中が一度静まり返り。そして喧騒が波紋のように広がっていった。
「何? どういう事?」
「なんで彼女、柏木の事を知ってるんだ?」
「それより今、下の名前で呼んだぞ」
「え、柏木君の彼女ってひょっとして……」
「お前ら、静かに! 静かにしろっ!」
 担任の必死の制止も、全く効果を成さなかった。飛び交う疑問と推測の声が、やがて視線と共に一点に収束していく。
 その中心ににわかに仕立て上げられた公大は、無言で机に突っ伏していた。
 死にたい。
 消えたい。
 いっそ殺せ。
 三つの単語が公大の頭の中をぐるぐると回り続けている。目と一緒に、耳も閉じられたらどれだけ良かったかと、心の底から思う。軽やかな足取りでこちらに向かって近づいてくる、死刑執行人の存在を、知らない振り出来ればどれだけ幸せなのか。
 だが現実は非情であり、容赦なく、詩鶴は彼の目の前で足を止めていた。
「お待たせ、公大。待ちきれないからあたしから来ちゃった」
「いや……」
 待ってないから。
 そういう事すらも許されず、投げ出していた手を取られて公大は机から引っ張り上げられてしまった。呪ってもどうにもならない体格さは一体どこへ怒りを向ければいいのか。
 公大の内心の動揺も怒りもどこ吹く風。そのまま彼の腕に自分の腕を絡めた詩鶴は、いまだ騒然としている教室中の生徒達に向かって最高の笑顔を振りまきながら、言った。
「皆、覚えておいてね。柏木公大はあたし、相馬詩鶴の大事な大事な婚約者ですから!」
「は、ぃ…………っむぅ?!」
 何の前触れもなくとんでもない事を告げられた。その事に反応する間もなく、公大の視界が突然閉ざされた。
 唇には何故か、温かくも柔らかい感触が纏わりつき、鼻先を涼やかな香りがくすぐる。
 突き飛ばして離れようにも、腕はしっかりととられた上に、頭にまで彼女の手が回されている。
 本当に、相馬詩鶴はキス一つにも容赦がない。
 あまりに加速しすぎた状況に、教室内の誰も彼もが置いてけぼりで呆けている。
 三秒後に引き起こされるであろう混沌を想像して、公大は心の底から死にたくなった。




 昼休みまでの四時間を、これほど待ち遠しいと思った事は今までなかった。
 四限終了のベルが鳴った瞬間、公大は呼び止める声も腕も知らん振りして、一目散に校舎の屋上めがけて駆け出していた。
 授業間の移動時間ですら徹底的な質問攻めだ。そのまま少しでもクラスメートの輪の中にいれば、一体どうなっていたか。想像するだに恐ろしかった。
 幸いにも、屋上に先客はいなかった。安堵の息を漏らした公大は、転落防止用の柵に背中を預けながら、床に尻を着いた。
 抜けるような青さが目に染みる。吹き付ける風は七月にしては涼しく乾いていて、心地良い。時折気ままに流れていく、雲の姿が羨ましいと思う。
 一体全体、いつからどうしてこんな目に。
 昨日から幾度となく繰り返した疑問の答えは、もちろん見つける事が出来ない。刻一刻と状況が悪化していくのに、何一つ回答が見出せない時点で色々終わっていると公大は思った。
 その時、屋上と階段を繋ぐドアが、軋んだ音を立てた。軽やかな足音がまっすぐに、公大を目指してくる。
 柵にもたれ掛かって空を見上げたまま、公大は疲れきった声で呟いた。
「……まあ、逃げられるなんて思ってなかったから良いんだけど。校内把握早すぎだろ、お前」
「ふふ。ここって公大のお気に入りの場所なんでしょ? 皆親切で助かっちゃった」
 そう言って詩鶴は笑うと、彼の隣に腰を下ろした。
「隣、良いよね?」
「座ってから聞くなよ……」
 顔をしかめた公大は、横目で彼女の姿を見やった。
 太陽の下で見る詩鶴は、やはり綺麗だと思う。小首を傾げて彼の視線に答える姿は愛らしく、ともすればがさつに見えるだろう床に腰を下ろすという行為すら、一つの完成された彫刻のように思えてしまう。
 つい十日ほど前まで、こうして共に過ごす時間は公大にとって何物にも代え難い筈だった。今では魂を売り払ってでも避け逃げたいと本気で考えている。
 自分の中では何も変わっていないと、彼は思う。詩鶴以外の誰かに愛を向けた事などなかったし、彼女に対して後ろめたい行動を取った事もなかった筈だ。
 変わったのは彼女の筈なのに、どうして今この瞬間も、変わらず自然に振舞うのか。
 苛立ちが背中を押して、公大は彼女に向き直り、
「……一体、何のつもりなんだよ」
「ん?」
「転校の事だよ! 悪ふざけだとしたら性質が悪すぎるし、本気だとしたら正気じゃねぇぞ」
「昨日も言った通りだよ? 話す事、沢山あるじゃない。いつもいつも途中で逃げられちゃうんだもの、場を整えなきゃって思っただけ」
「それで転校かよ。その上婚約者だなんだって、一体何の冗談なんだよ」
「冗談? あたしはいつだって本気だよ、公大」
 口元に微笑を浮かべたまま、詩鶴は言った。
「あたし、公大の事大好きだもん。これまでも、これからも。ずっとずっと一緒にいたいと思ってるわ。そうすれば自ずと、結婚という形が導き出されると思わない?」
「俺はそんなつもりはないって言ってるだろ」
「どうして?」
 本当に不思議そうに、詩鶴は言う。
 その瞬間、公大の頭の中は真っ白になった。
 どうして、だと。何でそんな事が言えるんだ。自分が何をしていたのか、分かってないのか。
「どうしてって……お前! 聡にあんな事しておいて、同じ顔で俺を好きだなんて言われて、今更信じられるかよ!」
「練習だったって言わなかったっけ? お尻の開発、自信はあるけど。公大の事大事だから痛い思いとかさせたくないし」
「そういう問題じゃねぇだろっ!」
「きゃっ!?」
 頭に血が上るのを、抑える事が出来なかった。激情に任せたまま、公大は詩鶴の肩を掴むと柵に押し付ける。ワイヤーで編まれたネットが揺れ、たわんだ。
「お前は、よりによって俺のダチと浮気したんだぞ! なのに悪びれもせず、謝りもせず、挙句の果てに練習って何の言い草だよっ! お前の性癖とかはこの際いい! だけどな、自分のした事棚に上げて俺を愛してるだなんだなんて言われたって、信用できるわけないだろうがっ!」
「……だから、あたしの事が信用できないの?」
「どう信用しろってんだよ!」
「初めて聞いたよ。公大の思ってる事」
 肩を押さえつける公大の手に、詩鶴はそっと自分の手を重ねてきた。上目遣いで、怒りに燃える彼の顔を見上げる。ただそれだけの仕草が、彼の体を絡めとっていく。
「あれから顔も会わせてくれなかったから、公大の思ってる事が全然分からなかった。想像するのなんか簡単だったけど、それでも、本当に思ってる事とは食い違っちゃうもんね。うん、聞けてよかった」
「お前、何を言って……」
 押さえつけているのは自分の筈なのに、その言葉で立場がひっくり返ってしまったように思えた。擦れた声で呟く公大の頬を、そっと詩鶴のもう片方の手がなぞり上げる。
「裏切られて、悪びれないで、そんなあたしの事、今は嫌いで、憎くて、しょうがないんでしょ?」
「あ、当たり前だろ。そんな事をする相手を、好きでいられるわけなんかないだろ」
「知ってる、公大? 愛の対義語は憎悪じゃなくて、無関心なんだよ」
 公大の手から、力が抜けた。戒めの解けた詩鶴は立ち膝になると、公大の背中に手を回して、彼の体を引き寄せる。
 逃げなければ。そう思った公大だったが、体に力が入らなかった。息の掛かる距離で自分を見つめてくる詩鶴から、視線をそらす事が出来なかった。
「憎んでいいよ。嫌いになってくれても構わない。どういう形であれあたしに意識を向けている以上、勝つわ。絶対にもう一度、好きにさせてみせるもの」
 一体どれだけの自信が、その言葉を言わせるのか。瞳の放つ光にいささかの翳りもなく、詩鶴は勝利を告げて見せた。
「何様のつもりだ……お前、世界が何でも自分の思い通りになるとでも、思ってるのかよ」
「まさか、そんな事思ってないわ」
 声は掠れていたが、それでも精一杯踏みとどまった公大の言葉にも、蕩けるような笑顔を浮かべて
「世界が自分のために回ってるなんて、そんな受身は耐えられないもの。自分の世界は自分で回すよ。そして公大、あなたはもう、あたしの世界の住人なんだから」
 だから、覚悟してね。
 それが契約の証だと云う様に、舌を突き出した詩鶴は公大の鼻先を軽く舐め上げた。
 公大は、何も言う事が出来なかった。呆然と、彫像のように固まったまま、その行為を受け入れる。
「ん、美味しい。ねえ、公大。今日は授業終わったらそのまま帰るね。放課後は自由にさせてあげる」
「……何を、何を企んでるんだよ」
「違うよ、企むのは公大の方でしょ?」
 そう言うと、詩鶴は彼の背中から手を解いて立ち上がった。
「本当はもっとこの先もしたいけど、今日の朝も先生に怒られちゃったから止めとくね。本当、キス一つであんなに言われるなんて思わなかったなあ」
 ぱんぱんとスカートの埃を払うと、詩鶴は歩き出す。ドアノブに手を掛けた時、詩鶴は振り返った。機械のようにぎこちない動きでそちらを向いた公大と、視線が合った瞬間、
「本気で怒った公大の顔、とっても可愛かったよ。今度はベッドの中で、そういう顔させてあげる」
 そう言い残し、詩鶴は屋上から姿を消した。
 静寂が戻った頃、ぎりぎりと、公大は音がなるくらい奥歯を噛み締めた。
 そう口にした瞬間の詩鶴の姿を、忘れるわけにはいかないと思った。
 元彼女と別れなければいけない。まだ漠然と思っていた、自分の甘さに辟易する。
 相馬詩鶴は、敵なのだ。悪魔の魅力と策略と意志を以って、柏木公大の尊厳をも摘み取ろうとする、強大極まる敵なのだ。
「……絶対に、負けねぇ」
 萎えかけた気持ちに活を入れるように、公大は石畳に拳を振り下ろした。涙が出るほど痛かった。それでも、この痛みなどマシな筈なのだ。
 心を摘み取られる痛みよりも。
 何より、無理やりお尻を付けねらわれる恐怖よりも。