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 稲生玲菜の初恋の相手は、幼稚園の保母さんだった。
 おませな少女の精一杯の勇気は、大人の笑顔で誤魔化され、あっさりと砕け散る事となる。純真だった彼女は一週間泣いて膨れて当り散らして、結局卒園までまともにその保母さんと口を聞かなかった。あまりにも大人気なかった所業だったと、今になれば思わなくもなかった。
 二度目の告白は、小学校二年生。前の席のお下げ髪の女の子だった。その後の結果は良好な方であったのかもしれない。そもそも誰かを好きになるという感情が理解されずに、結局クラス替えまで普通のお友達で終わってしまったのだから。
 三度目の告白は、明確な拒絶と敵意で報いられてしまった。卒業までの約二年間、彼女に待ち受けていたのはクラス中の少女の、腫れ物に触るような視線だった。
 自分は彼女たちと違うのだろうか。
 その頃既に落ち始めていた視力を補う眼鏡を通してみる世界は、裸眼で見る物とは似ているようで違っていた。レンズの縁で分かたれる、鮮明と曖昧の境界線。自分と彼女たちの差は、越える事が出来ない。玲菜はこの時に、世界とのズレを「壁」として認識してしまったのかもしれない。
 中学校の三年間は、深海魚のように誰からも身を潜めようと努力した。異質である事はもはや諦めがついていたが、排除される事は避けたかった。
 だが玲菜の望む望まないに関わらず、その容姿は回りの少女達に比べて二,三歩抜きん出て花開いていたため、男子の羨望を必要以上に集める事になってしまったのだが。
 繰り返される告白全てを、彼女は丁重に繰り返す羽目に陥っていた。試してみよう。ひょっとしたら。そう思った事がなかったわけではないが、どうしても首を縦に振る事は出来なかった。
 「稲生玲菜は男嫌い」――片っ端から少年達の思いを撃墜させている内に立ち上った噂のお陰か、男からの告白は目に見えて減っていった。だが、それは彼女の心に別の負担を掛けていくことになる。
「稲生先輩の事……好きなんです!」
 二年の終わり頃から、玲菜は頬を染めた少女達にそんな言葉を掛けられる回数が増えていった。容姿も性格も千差万別ながら、彼女達は微塵も自分の思いが倒錯しているという疑問を抱いてはいない。
 願ったり叶ったり――内心小躍りした玲菜だったが、そう思えたのは最初の数人だけだった。
 彼女達が玲菜を好きだと思っている感情と、玲菜自身が今まで抱き悩んでいた思いは全くの別物であった。目を向けたくないそんな事実を付きつけられる羽目になったのだから。
 彼女達のそれは第二次性徴と思春期が引き起こしがちな、心の天秤の特異な揺れ方なのだろう。いずれ時が経てば、全く同じ台詞を普通に相応しい少年に向けるのだ。稲生玲菜と過ごした一時は、セピア色に色あせ記憶の奥底に封じ込まれてしまうに違いない。
 ずるい。
 そう、玲菜は思った。
 こちらの悩みも知らずに、いい加減な思いをぶつけるな。耐え切れずにそう吐き捨てた事も一再ではなかった。
「稲生さんって、綺麗なのに冷たいよね」
 結局卒業まで半年を迎える頃には、そういう評価が定着し、やがて彼女の周りに寄る人間はまばらになっていた。
 玲菜が「性同一性障害」と言う言葉と出会ったのはその頃だった。生まれ持った肉体の性と精神の性の乖離。珍しくはあるが稀ではない。そして肉体も精神も健全であるがゆえに手の施しようを見出せない。そもそもそれは治療が必要な事なのかどうか――自分がそれなのかと思い至り、幾晩も幾晩も悩み、そして結論付けたのは「否」だった。
 稲生玲菜は、紛れもなく女性である。心も体も女性であり、それを確信している。
 男になりたいわけではない。だが、どうしても女性しか愛する事が出来ないのだ。
 ああ、そうか。
 やっぱり自分は境界線の向こう側なんだ。
 つまるところ、稲生玲菜にとって中学校の三年間というのはその結論を得るためのものであったのだ。
 ――何であれ、答えを得た人間というのは強くなる。
 少女達が思春期の戸惑いを満たそうと近づくのなら、こちらは乾ききった心に一滴の潤いと、ほんの少しばかりの肉体の火照りを覚まさせてもらえばいい。ギブアンドテイク。素晴らしい言葉だ。
 高校生活において「妖しくも魅力的な一年生」であった頃から「美しくて危険な先輩」に至るまでの二年半、おおむね玲菜は欲望のはけ口に事欠く事はなかった。アフターケアには気を使っていたお陰だろうか、割と見境なく寄る花を手折っていても、それほど悪評を流される事はなかった。自分から積極的に動いた事がほぼ皆無だったのも、「移り気な浮気者」という印象を与えなかった遠因だったかもしれない。
 彼女の周りを取り巻く人間の顔は、せわしなく移り変わっていく。
 だがその中で、唯一、ある人物だけが不変であった。
 柏木公大。彼女の幼稚園時代からの幼馴染である。




 親同士が友人で、話を合わせて一緒の幼稚園に入園させた。出会いのきっかけはそんな物だった。柔らかい髪の毛と、大きくはっきりとした目に丸みを帯びた顔立ち。可愛い可愛い女の子にしか見えなかった公大の事を、当然玲菜は女の子だと思って喜び勇んで声を掛け――全力で反発した公大と、殴り合いのケンカになった。
 互いに顔に青痣と引っかき傷を作り、親同士が蒼白で頭を下げあう中、涙目でそっぽを向き合う。善悪も手加減も曖昧な幼稚園時代において、明確に「こいつは敵だ!」と認識しあった瞬間だ。
 小学校は一緒だったが、クラスは一度も重なる事がなかった。廊下で顔をあわせる毎に、憎まれ口を叩きあうのが習慣だった。
 「昔から気に入らない」――玲菜は公大のことをそう思っていたし、それは公大も同様だったろう。まして玲菜からすれば、自分よりも可愛いくせに男の子だというのが二重に気に入らなかった。
 絶対に仲良くなんかなるものか。絶対に弱い所なんか見せてやらない。
 笑顔の代わりに敵意を見せ合っていた関係が変化を遂げるのは、彼女が三度目の告白に砕け散った頃である。
 恐れは敵意に膨らみ、排除に繋がる。ささやかながら陰湿ないじめが玲菜の周りを取り巻き始めた頃、気付けば彼女の隣に公大がいたのだ。
「何やってんだよ、やり返せよ馬鹿」
 ぶつぶつと言いながら、薄闇の中隠された教科書を最後まで探してくれた事もある。
「どうしても助けて欲しかったら言ってみろよ。「公大様お願いします」って。そうすれば手を貸してやっても良いぞ。俺は男でお前は弱い女なんだからな!」
 そう言って胸を張る彼の姿が妙に嬉しくて憎たらしくて、泣きべそで突き飛ばした事も合った。結局ひどいケンカになったが、幼稚園時代とは違い彼から手を出してこなかったのをどこか寂しく思ってもいた。
 本当に一人であったなら、心が折れていたかもしれない。公大に対する反発が、玲菜の中で支えになったのだろう。
 中学に上がった頃には、憎まれ口をはさみながら確かに友人と呼べる仲になっていたのだから。
 それまで育んでいた敵愾心や反発心は、ひっくり返れば相手に対する信頼に変わる。玲菜にとって公大は掛け替えのない異性の友人となってたし、それは公大も同様だった。
 だからこそ、玲菜は言わなければいけなかった。公大が自分に抱いている友愛が、情愛に変わる前に。
「私はね、公大。女の子の事しか好きになれないの」
 それまでの関係全てが反故になる。それでも、彼の思いが確定してから傷つけるよりは遙かにマシだ。そんな覚悟を持って口にした告白に対して、公大はきっぱりと言った。
「いいんじゃね? 確かに変わっちゃいるけど、玲菜は玲菜なんだし。俺の友達なのに変わりねぇって」
 笑って、だけど真剣な目でそう口にした公大。
 ――思えばその瞬間から、柏木公大は稲生玲菜にとって特別な存在になったのだ。




 掛け替えのないその友人が、今は危機に瀕している。
 彼自体に抱える問題もあるが、今回だって基本的には助けてやりたいと、玲菜はそう思っている。何度も助けてもらったし、何度も助けてきた。この関係は非常に彼女好みなのだから。
 だがしかし、だ。
「いや……その、な」
 部室のドアを開け放ったまま、こちらを見て公大は硬直していた。
「確かにノックを忘れたのは悪いと思っているん、だが……」
 その頬のみならず顔全体が真っ赤に染まり、視線はあらぬ方向を彷徨っている。
 まあ、それも当然だろう。
 壁に背を預けた玲菜と、その胸に抱かれた後輩の少女。どちらもほとんど何も身に纏っておらず、互いの唇が触れ合う寸前で、全く予期せぬ闖入者の存在に凍り付いている。
「こう、その。コトに及ぶんならせめて鍵をだな玲菜……」
「いいから三遍回って出直してきなさいーっ!」
 それでも言い訳を重ねようとした公大の顔面に、玲菜が投げつけた化粧品満載のセカンドポーチがクリーンヒットしたのだった。







「それで、何か言う事は?」
「ホントウニモウシワケアリマセンデシタ」
「気のせいかしら? 声と態度に誠意が感じられない気がするのだけど?」
「いえ本当に申し訳ありませんでした。海よりも深く反省していますのでこの姿勢とか色々勘弁してください玲菜さん」
 部室の椅子に座ってふんぞり返っている玲菜の足元で、床に頭をこすり付けて公大は許しを乞うていた。これ以上ない土下座であるが、なぜかその顔はそっぽを向いている。その理由も分かりすぎるほど玲菜は分かっているのだが、あえて言う。
「きみひろー? 普通、許しを請う時には相手の目を見ていう物じゃないかしらぁ?」
「ごめん無理。今は無理。生まれてきて3番目くらいに深く反省してるから、それだけは勘弁してくれ」
「私は、あなたの目に浮かぶ反省の色を確認したいと思ってるんだけどなぁ?」
「見せたいのは山々なんだが、その、なんだ。今顔を上げると別の物見えてしまうように当方としては愚考する次第でありますので本当に勘弁してせめてスカート履いてください玲菜さん」
 公大の顔は相変わらず茹で上がりそうなくらい真っ赤に染まっていた。
 さもあらん。椅子に腰掛ける玲菜の格好は、制服のブラウス一枚であった。胸元のボタンは限界まで開けられており、彼女自慢の見事なふくらみの双丘が、覗き込まなくてもはっきり見て取れる。まくりあがった裾からすらりと伸びた白く美しい足は、ぐりぐりと公大の背中に押し付けられている。色々と履かなければいけない物もわざと履いていないので、組まれた足の付け根から、時折翳りめいたものが覗いている。
「あら、公大ってば男嫌いのビアンな幼馴染の裸なんかで興奮しちゃうわけ? 何、ひょっとして勃ってるのかしら?」
「いやそう言うのと肉体の反応はマジで無関係なんで。というか裸ワイシャツは裸よりやばい。マジヤバイ。本当、頼むから何か着てくれすまんかった」
「あらそう。そこまで言うならもちろん、この埋め合わせは何かしてくれるのよね?」
 眼鏡の奥の切れ長の目を猫のように細めて、玲菜は羞恥で今にも燃え上がりそうになっている公大の姿を楽しむ。少女のように線の細く柔らかい造作の美貌が、真っ赤に染まって震えているのを見るのは、たとえ彼相手であっても拭いがたい愉悦が湧き上がってしまう。
「……亜里沙との一泊デートとか言い出さない限りは善処しますはい」
「ふふ。まあ、考えておくから覚悟なさい」
 まあ、この辺りが落としどころだろう。
 せっかくのお楽しみの瞬間を邪魔された瞬間は怒り心頭の彼女であったが、彼女なりに分別と見極めは得意なつもりであった。全面的に彼が悪いように見えるが、鍵を掛け忘れたのは確かに彼女の落ち度であったのだから。いくらまともな部員が玲菜一人で、半ばプライベートルームと化しているこの地歴部室であっても、少しばかり最近緩んでいる事を彼女は自覚させられた。
 それでもまぁ、玲菜としては優位を手放すつもりは欠片もなかったが。せいぜい公大が顔をしかめるようなお願いを考えておく事にしよう。
「いいわ、土下座止めてそっぽを向いてよし!」
 そう言って玲菜は足を外すと、公大はすさまじい勢いで体を半回転させてへたり込んだ。引けた腰でがっちりと目を閉じて、何事かぶつぶつと呟いている辺りが微笑ましい。せいぜい股間の興奮は鎮めていてもらわないと、この後の真面目な話にも差し支える事だろう。美少年が羞恥に顔を赤らめている姿はそそると、彼女のトモダチの一人は力説していたが、生憎と玲菜にとって公大はその手の視線の対象外だ。
 立ち上がった彼女は手早くショーツとスカートを身に着けていく。
「いいわよ?」
 玲菜が声を掛けると、起き上がった公大が向き直り、深々と溜息をついた。
「……その、すまんかった。ちょっと俺も慌ててた」
「それはもういいわ。お互い裸の見た見られたも初めてって訳じゃないし」
「そりゃそうだけどよ、でもそんなのずっと昔の話だろ」
「ねえ、ねえねえ。ちょっと聞きたいんだけど。本当に興奮した?」
「……ノーコメント」
 興味津々で聞いた玲菜に対して、顔をしかめて公大は答える。少し考えてみて、玲菜は肩をすくめた。まぁ、イエスと言われた所で、公大相手では意味がない。ノーならそれはそれで腹が立つ。
「仕方ないわ。被告の黙秘権を認めます」
 芝居がかった玲菜の言葉に、公大は深い深い溜息をついた。その顔が真面目な物に戻ったのをきっかけにして、玲菜も緩めていた心に少しずつ、縛りを入れて引き締めていく。話し合う事は分かっている。お互いの関係にとっても、転機になりかねない事なのだから。
「しかしまぁ、詩鶴さんも中々パワフルね。昨日の今日で転校までやらかすのは、正直予想外だったわ」
「挙句公衆の面前で婚約者宣言されたっての。明日あたりにゃお前のクラスにも広まってるんじゃね?」
「濃厚なディープキスまでされたって、三限の移動時間には聞いたけど何か?」
「……情報歪んで伝わるの早すぎだなおい」
「まあ、ゴシップ集めは私の趣味みたいなもんだし。それでどうする気? 向こうは外堀から埋めていく戦法みたいだけど。多分一週間もしない内に身動き取れなくなるわよ、あんた」
 玲菜は意地の悪い笑みが浮かんでいる事を自覚するが、こればかりは性癖なので止められない。幼馴染の困った顔を見る事はむしろ好きなのだ。
 だがそれと同時に、相馬詩鶴の戦法が随分と上手い物だとも思った。誰でも取れる手段ではない。男女問わず人を引きつける外面の魅力と弁舌が立ち、それを本人も完璧に自覚しているからこそだ。どれだけエキセントリックな方法をとっても、それを陽性の魅力に変えてしまう。自分には真似の出来ない方法だと、玲菜は素直に感心していた
 まぁ、災禍の中心でその陰を見せ付けられている公大からすれば、笑ってすまない事態なのだが。
 案の定、眉をへの字にした公大は、頭を振って力ない呟きを漏らす。
「正直困ってる。クラスの友人連中はどいつもこいつも当てにならないだろうし。本当なら一番頼りたい聡が、今回の件では敵に回ってるからなぁ……」
 その顔は、あまり玲菜が見た事のない物だった。一番の親友だった男に裏切られたというのは、やはり彼にとって相当堪える事だったのだろう。かつてまだ幼かった頃、孤立して途方に暮れていた自分に声を掛けた公大も、同じ事を思ったのだろうか。
 自分と公大の関係が、普通の男女のものであれば、もう少し事態は楽だったのかもしれない。そんな事を、玲菜は思った。
 公大に彼女が出来ようと、別れ話が拗れに拗れようと、同性愛者の自分には嫉妬という感情が芽生えようもないのだ。冷静に見られる反面、どうしても引いた視点で考えてしまう。どうやらそのやり方を、変える必要があるらしい。
 ああ、確かに嫉妬も恋愛感情も芽生えようはないが。だが境界を外れた人間だからこそ、友情は人並み以上に感じている。
 ただ公大を引きずりまわして楽しむ分には、笑ってみていてもいい。だけど彼の大事な友人まで巻き込んで、嫌がるのを無理やりなどとは。玲菜の美的感覚からは外れた行いだった。
 いいだろう、かかってこい。こちらに得る物はあんまりないけれど。
 溜息一つを覚悟に変えて、玲菜は口を開いた。
「……手段の是非を問わないのなら、思いつく方法はあるけど」
「マジか? 教えてくれ、玲菜」
「言っておくけど全く気の進まない方法なのよ? それだけは勘違いしないでね」
「お、おう……!」
 神妙な面持ちで自分を見つめる公大の姿に、自分でも区別のつかない感情を抱きながら、玲菜は言う。
「なら、私と付き合いなさい。全力で」



 公大からの反応は、なかった。
 まん丸に目を見開いたまま、ぽかんと口を開けた彼の視線が、玲菜の顔と床を行ったり来たりしている。
 重苦しい沈黙が部室の中を支配する。
「ちょっと……ちょっと、公大?」
 いたたまれなくなった玲菜が右手を伸ばして、公大の目の前で左右に振る。それでようやく我に返ったか、公大が乾いた声で呟いた。
「…………誰が?」
「誰がって、あんた以外の誰がこの部屋にいるってのよ」
「……………………誰と?」
「机や椅子や本と付き合う趣味がなければ、私以外にいないでしょうが! すっとぼけるのもいい加減になさい!」
「っ!」
 閃かせた玲菜の手が、かなり容赦なく公大の頭を引っ叩いた。痛みに顔をしかめた公大は、恨みがましい視線を彼女に飛ばす。
「ってえなっ! いきなり何するんだお前はっ!」
「分かっててすっ呆けてるんならこの一発で許してあげるわ。正気で二度言える台詞じゃないんだから、一度でしっかり理解しなさい!」
「無茶言うな! 俺の耳がおかしくなければ、お前、俺と付き合うとか言わんかったか?!」
「ええ言ったわよ! 全くもって気の進まない方法だとも言った筈よ! だけどとりあえずは有効な手段だから提案してるだけよ!」
 本気で変な奴を見る目で自分を見ている公大の姿が妙に怒りを誘ったが、それをとりあえずは押し殺して、玲菜は続けた。
「いい? あなたがフリーでいる限り詩鶴さんは間違いなく、問答無用で襲い掛かってくるわよ色んな意味で。問題なのは、あなたの立場がそれを押し返すだけの説得力を回りに持っていない事なのよ。学校生活でクラスメートを初めとした周囲を敵に回す怖さは、あなただって充分分かっているでしょ?」
「……そりゃあ、な。現にクラスのほぼ全員、俺があいつの婚約者だって信じ込んでやがる」
「だからあなたの立場を確立するために、「新しい彼女」が必要だって言ってるのよ」
 玲菜の言葉に、おお、と一声上げた公大だったが、すぐに表情に陰が差した。
「……いや、ダメだろ。だってお前の性癖、かなり知れ渡ってるし」
「ええ、そう言われると思ったわ。吹いて回ってるつもりはないけど、隠してるわけでもないしね」
 その反論は玲菜も予想済だ。口元を得意げに吊り上げて、彼女は立てた指を振る。誰かに何かを説明する時、彼女が良くやる癖である。
「確かに公大と私との接点がこの高校でしかなければ、ビアンの女と付き合ってるなんて言っても周りには信じてもらえないでしょうね。でも、あんたと私は幼稚園時代からの腐れ縁。しかもそれを知ってる人間も結構いるのよ? 人生の3/4を一緒に過ごしてる相手なら、付き合うって言う台詞にもそれなりに説得力が生まれると思わない?」
「……そうかも知れんが、けどなぁ……お前と俺が、かぁ?」
「……ねえ。演技でもそんなに私の事気に入らないわけ?」
「いやお前の事が気に入らないわけじゃなくてですね。あまりにも予想外の案だったもので正直びっくりしてるだけですのでお願いですからそのポーチで殴ろうとするのは勘弁してくれ地味に痛いんだってっ!」
 なるほど。ただびっくりしているだけか。
 公大の姿に少し溜飲を下げた玲菜は、振り上げたセカンドポーチを床に下ろした。
「そりゃ、私以外にいい相手がいればその子を推すわよ? 私のトモダチに、あんたの事を気になってる人間だって結構いるし。あんたが気づいてないだけで、女子の間であんたが色んな意味で人気があるのは事実なんだから」
「……色んなって、どんなだおい」
「知らない方がいいと思うわよ。それはともかく、今回に限っては彼女たちは巻き込めないでしょ。なんたって、あんたのお尻を手に入れるためだけに親友篭絡して、転校までかましてくるような相手よ? ここで突然目標に別の彼女が出来たなんて事になれば、その矛先がどこに向くか。想像するのが簡単すぎて吐き気がするわ」
 そう、どういう形か分からない。精神的か、それとも肉体的危害が及ぶのか。ともあれ、障害物と認識されれば、全力で排除されるのだろう。
 大切な幼馴染を守るために、他の友達や彼女を危険に晒すのでは意味がない。玲菜は内心で重い溜息を漏らした。
 そう、巻き込まれては困る人がいるのだから、自分の身を危険に晒す位しなければ仕方ない。
「だからまぁ、あんたも色々思う所はあるだろうけど、我慢して……」
「いや、やっぱりダメだって、それは」
 玲菜の言葉を遮って、公大は首を振った。
「なんでよ? だったら、他に何か良い案でもあるって訳?」
 問い返す玲菜の声も不機嫌になる。当然だ。取れる手段が限られている中で、最善だと思われる案を否定されたのだから。
「いや、ねえよ。俺一人で解決できるなら、そもそもお前に聞きに来ないし」
「なら――」
「でも、俺の事でお前にもし危害が及んだら、一生悔やんでも悔やみきれねえって」
 彼女から目をそらさずに、神妙な面持ちで公大は言う。
 いつかの、途方に暮れていた自分を見るのと同じ目で、彼は玲菜の事を見つめていた。少女と見間違うような、柔らかく甘い顔立ちが、今この時だけは紛れもなく男の物に変わっている。
 ――本当、勿体無いなぁ。
 男でさえなければなぁ。
 何度か浮かべた思いを心の中に押し込めると、玲菜は両手を伸ばして彼の頬に触れて。
 両の指でほっぺたをつまみ上げた。
「ひゃ、はぁっ?! へいは、おは、ひゃひほぉ!」
「もう遅いのよ。きっちり私も巻き込まれてるの。あんたとこうやって話してる事、彼女が知らない訳ないと思ってなければ戦えないわよ?」
「ひゃ、ひゃへど、ひょれとほれとは」
「話が別? そんな訳ないじゃない。第一、私にだって計算と打算が積もるくらいあるんだから」
 むにむにと指の間で形が変わる、ほっぺたの感触が心地良い。相変わらず柔らかくて気持ちいいなぁ。そんな事を頭の片隅で思いながら、玲菜は公大に向かって顔を寄せた。
「いい? 私が一番嫌なのが、詩鶴さんの手が亜里沙ちゃんに及ぶ事よ。好きな子を守りたければ、側にいなければダメでしょ? 公大のためだというのは半分。もう半分は亜里沙ちゃんのため。そう考えれば、あんたも気が楽にならない?」
 そう言うとようやく玲菜は公大の頬を開放した。目の端に涙が浮かんでいたが公大は抗議も文句も言わず、じっと考え込む。
「ひょっとして、その事考えてなかったの?」
「……考えたくなかったってのが正しいかも知れねぇ。そこまでやってくるのかなって」
「別に肉体的精神的に危害を加えては来ないと思うわ。ただ、彼女は亜里沙ちゃんも取り込もうとするでしょうねって事。昨日も言わなかったかしら? あんたが秘密を抱えておこうとすれば、それだけ隙ができるのよ」
「話せって言う事か? 全部、あった事を」
「……聡君の事とか、相当傷つくと思うし。言いたくないのは分かるけどね。時間が立てば経つほど、状況は悪くなってくわよ。だから覚悟しなさい」
 玲菜の言葉に、公大は口を引き結んで押し黙った。不機嫌そうなその顔立ちは、しかし、彼が何かを決断する時によく見せるものだ。
 さしあたって、彼の方はこれで一歩を踏み出せる事だろう。
「問題は、私の方の覚悟なのよね……」
 小さな、口の中で消え入りそうなくらい小さな声で玲菜は呟いた。
 公大は掛け替えのない友人だ。が、いくら目を見張るような女顔であれ、彼が男であると言う壁は越えがたい。
 恋人同士の振りをするからには、徹底的にやらねば騙しきる事など出来ないだろう。相馬詩鶴を騙す事は不可能だろうが、彼女を取り巻く環境を騙すには、本当の恋人同士以上に恋人らしく振舞わなければならないのだ。
 相当に根回しはしておくつもりだったが、それでも今までのトモダチとの関係がほとんどご破算になることは避けられまい。
 本当に、得る物は少なく失うものばかりだ。
「……ねえ、公大」
「うん? まだ何かあるのか」
「何かあるって言うかなんて言うか……いい? 今から何があっても、変な声を上げたりする事はNGよ? 良いわね?」
「良いわねって、お前一体何をする気だって、おい、ちょっと玲菜お前なんか妙に目が据わって、近い、近い近よりすぎ――」


 本当に、失う物ばかりだと玲菜は思った。
 いくら公大相手でも、男にキスする羽目になるなんて、つい一週間くらい前は考えもしなかった。
 これからこの大芝居の間、どうせ何回かはする羽目に陥るのだ。せめて最初くらいは主導権を握っておきたい。
 ああ、女の子の柔らかさ甘さとは比べ物になりはしないけれど。
 された直後の公大の顔は、まぁつりあう材料になっただろう。いまだ後ろで喚いている公大の声を聞かない振りして、玲菜はほくそえんだ。







 ああ、視線って集まりすぎると本当に凶器だよな。
 経験したくもない体験を、この二日間でしすぎている気がする。家への帰りの道すがら、すれ違う人からまたも向けられる好奇の視線が背中に突き刺さる。
 公大は慨嘆した。この事態の原因は、本当に楽しそうに彼の右腕にしがみ付いて、にこにこと笑っている。
「おい」
「んー、中学の頃に比べると少しは筋肉ついてるみたいだけど。やっぱりひょろひょろねぇ」
「おい、玲菜」
「なぁに? ってか、しっかり食べてる癖にこんなに肉が付かないのは、いっそ羨ましいけど。逆にこれだとあんたの理想の姿には程遠いんじゃない? 随分前から身長も止まっちゃってるみたいだし」
「止まってねぇ! まだちゃんと伸びてるっての! ……1年間で1センチだけど」
「往生際が悪いわねぇ。まぁ、私と同じ位まで伸びたのは不幸中の幸いかしら?」
「お前よりはでかいっての、167はあるんだから! ……って、そうじゃなくて!」
 苛立ちに任せて玲菜を振りほどこうとする公大だったが、絡んだ彼女の手はきっちりと彼の腕を捕らえて離そうとしない。
「……何でだ?」
「だから何がよ?」
「何で部室からこっち、お前は俺の腕にしがみ付いているのかと。その心を聞いている訳ですが玲菜さん」
「付き合ってるんだから当たり前じゃない。むしろこれでもアピール足りないくらいかなって思ってるんだけど?」
 「付き合ってる」の部分に殊更力を込めて、玲菜は言う。自転車に乗って通り過ぎたおばさんが、微笑ましそうに笑う声が耳に届いて公大は目の前が暗くなった。というかあのおばさん、斜向かいの大平さんじゃなかっただろうか。
 ぶっちゃけ死にたい。
 肩を落とし、よろよろと力の抜けた足で歩き出した公大の耳元に口を寄せ、玲菜は囁いた。
「演技な上に効果を迅速に求めてるんだから文句を言わない。あざといくらいに、真剣にやらなきゃ意味ないって、あんたもそれくらい分かるでしょ?」
「そりゃ分かるけどよ……」
「大体、私だって自爆してるんだからね? 智子や百合恵なんか、さっき物凄い形相で駆け出してっちゃったし。後で一体どうやって説得したらいいか、正直頭が痛いわよ」
「いやお前の爛れた交友関係は自業自得だと思うんだがどうか」
「私から言い寄った訳じゃないもの。向こうもそれを分かってるんだから、爛れてるとか言われたくないなぁ」
 唇を尖らせる玲菜の顔を、公大は横目で見た。薄い色付きのリップクリームを使っているのだろうか。艶やかな光を放っている唇に思わず視線が吸い寄せられ、慌てて彼は前に向き直った。
 先ほどから玲菜の顔を正視できなかった。今でもまだ、頬が熱くなっている気がする。
 初めて玲菜にキスをされた。その事実が、どうにも嫌な具合に彼の頭を掻き混ぜる。
 小学校時代はケンカ友達で、キスだの何だのなんて、遊びでも思いつかなかった。中学校時代、思春期の目覚めと共に彼女の事を「女」だと認識し始めた頃、変え得ぬ性癖を告白された。その瞬間、芽生えてもいなかった恋心は永遠に地中深くに沈められ、二度と花開く事はないと決められた。
 柏木公大にとって稲生玲菜とは、ただの友達とも違う関係だった。もちろん亜里沙のような肉親とも違う。ちょっと困った幼馴染であり、頼りあう仲間なのだ。
 部室に二人きり。そんな環境で裸を見せられても、眼福ではあったが別に押し倒したいとも思わなかった。
 恋愛感情を遙か彼方にぶん投げられる気のおけない関係は、非常に彼好みのものである。それが、何でもないキス一つで揺らいでしまう気がした。
 もちろん彼女にとってあのキスは、ただの悪戯心の発露でしかなかったのだろう。それが分かっているだけに、こんな事で悶々としている自分がなんだかとても小さい人間に思えて、公大は小さな溜息を漏らした。
「どうしたの? そんな深刻な顔して。気持ちは分かるけどもう少し明るい顔してくれないと意味ないんだけど?」
「いやまぁ……」
「ほらほら、サービスしてあげるから笑って笑って」
 彼の内心を知ってか知らずか、満面の笑みで玲菜はしがみ付く腕に力を込める。左腕に伝わる随分と柔らかくふかふかな感触に、公大は途方に暮れた。
「何よ、嬉しくないの?」
「あのな、お前は俺を一体何だと思ってやがるのかと」
「そんな顔して割とエロエロなおっぱい星人」
 即答された。
 挙句間違ってないあたり、公大はとっても欝だった。それでも今は素直に認めたくない気分だった彼は、ささやかな抵抗を試みる。
「……否定はしねぇけど。お前の乳じゃその、なんだ。あんまり嬉しくない」
「同じサイズで他の子だったら?」
「…………すっげえ嬉しいですごめんなさい」
 小さな、小さな声で紡がれた彼の敗北宣言に、耐え切れない様に玲菜は吹き出した。
「お前、本っ当に楽しそうだなこのやろう!」
「ふふふ、まぁねぇ。ここん所久しぶりにあんたの事からかってるから、なんかしっくり来るのよ」
「嫌なしっくりされ方だなおい」
 顔をしかめて公大は言うが、思い返せば詩鶴と付き合っている半年間は、自然と彼女と疎遠になっている気がした。どういう関係であれ、他の子と親しげにしていれば詩鶴が気を悪くすると思ったというのもあるし、玲菜自身が気を利かせて距離を取ってくれたというのもあったかもしれない。
 本当に、そのあたりを含めても掛け替えのない幼馴染なのだ。
 だから、今のごたごたがちょっとだけ軸をぶれさせているのだろう。公大は自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。
 詩鶴と聡の事が上手い事片付けば、今までどおりで全てオーケー。丸く収まるに違いない。
「まぁ、あれよ。公大」
「ん?」
 公大が我に帰ると、玲菜がじっと彼の顔を見ていた。
「色々きつかったら、適当に私の顔を脳内変換しておきなさい。その方が気が楽でしょ?」
「……はぁ?」
「あー、でもあんたのベッドの下に大量に鎮座ましましてる夜のオカズな女の子にされるのはどうかと思うから、せめて巨乳のグラビアアイドルあたりにしておいて貰えるかしら?」
 真面目な顔で突然そんな事を言い始める玲菜の顔を、公大はまじまじと見返した。
 気遣っている、と言う事なのか。彼女なりの言い方で。
 そう思った公大は、耐え切れず吹き出した。
「ちょっと、何吹きだしてるのよ」
「いや、いや……げふ、すまん……ちょっとツボに入っただけだから……ぷ、ふ……ははは!」
 腹を抱えて笑い出したいところだったが、残念ながら腕を取られているので、公大は顔に手を当て盛大に笑い出した。
「いや……はは、そんな事言われたら、是が非にでもお前の顔のままで押し通してやらなきゃなぁ。ああ、苦行だけど俺頑張るぞやる気出てきた!」
「……本当、そういう所は幼稚園時代から変わらないわねあんた」
「それとも玲菜さんは耐え切れず投げ出しますか? 別に嫌なら何を当てはめてくださっても構いませんが」
 意地の悪い笑顔のまま、得意げにそう言って見せる公大だったが、玲菜もまたすぐに小憎らしい位魅力的な微笑を浮かべて、
「大丈夫、もうお気に入りのロリ貧乳なネコ専門AV女優に置き換えてあるわ。脳内ではデート終わってアフターケアまで万全だから安心してね、きみひろちゃん?」
「……せめてロリとネコ専門てあたりは外してくれ、頼むから」
 やはり、玲菜の方が一枚上手のようだった。




「ただいまー。亜里沙、もういるのか?」
「お邪魔しまーす」
 玄関から響く二人の声。ややあって、廊下の奥から人が動く気配が二人に向けて伝わってくる。
 電気はついていたから、いるのは分かっていた。まずはこう、覚悟を決めて妹に説明しよう。そう決意を固めていた公大のYシャツを、玲菜の手が引いた。
「ん? どうした?」
「公大、あれ……」
 振り返った公大の目に、強張った玲菜の顔が映る。その指は土間の一角を指していた。
 指の先を目で追って、公大は絶句する。
 履きこまれたスニーカーが、そこには鎮座ましましていた。
 公大のものではありえない。彼の足のサイズより、3回りは大きかった。
「あ、お兄ちゃんおかえりー。って、やだ、玲菜先輩も来てらしたんですか!」
「それは良いんだが、亜里沙、今、誰か来てるのか?」
 廊下から姿を現した亜里沙に向かって、強張った表情のまま公大は言う。怪訝そうな顔で、それでも亜里沙はどこか嬉しそうに首を縦に振った。
「うん、15分くらい前なんだけど――」
「やあ、ヒロ。ちょっと待たせてもらってたよ」
 亜里沙の後に続くようにして、靴の主が顔を見せた。
 頭に巻かれた包帯が、どこか生々しい。人好きのする表情は相変わらずだった。だが今の公大にとって、それはどちらも薄ら寒いものしか呼び起こさない。
「ああ、稲生さんもいるのか。それはまた予想してなかったなあ」
 熊のように大きな体を揺らして、柚原聡が笑っていた。