公大と玲菜が並んでソファに腰を下ろす。テーブルを挟んだ向かいには聡が。互いの間に横たわった距離が、そのまま立ち居地を示しているようだった。
 状況は分からなくても、三人の間の空気が今までとどこか違うと言うのは伝わるのだろう。お盆を抱えたまま、亜里沙は所在なさげに兄と聡の間で視線を彷徨わせていた。
 留守の間に聡が着て、公大の帰りを待つ。今までだったら、割とある事だったし、逆も同じ位はあったのだ。だが今日この場において、それが持つ意味合いはかなり変わっている。
 状況が拙い。公大は心の中で臍を噛む。いずれ話をしなければならないとしても、今この場に聡がいるのは全くの予想外だった。
「亜里沙。悪い、ちょっと頼みたいんだが」
 どちらにしても、今この場に亜里沙がいるままというのは拙すぎる。無理やり笑みを浮かべて、公大は言った。
「な、何? お兄ちゃん」
「確かボディソープと洗剤が切れていた気がするんだ。買い忘れてきちまったから、すまん、ちょっと買ってきてくれないか?」
 兄の言葉に弾かれたように向き直った亜里沙だったが、内容を聞くと、不満そうに呟いた。
「えー、そんな。聡さんもいるのに、今からだと夕食の準備遅れちゃうよ……」
「だからって、無いと困るだろ? あとさ、途中のケーキ屋で何でもいいや、四人分買ってきてくれ。お前が食べたきゃ五人分でも構わんから」
「ちょっと、わたしそんなに食いしん坊じゃないったらっ!」
「明日の分でも何でもいいからさ。俺が奢るから、頼むわ、亜里沙」
「ごめんね、亜里沙ちゃん。公大の事、話につき合わせちゃって、買い物させなかった私が悪かったのよ」
「いえ、そんな。稲生先輩が謝らないで下さい」
 頭を下げた玲菜の姿に、慌てて手を振った亜里沙だったが、まだその表情には逡巡が浮かんでいた。
 どうする。公大は奥歯を噛み締めた。好きな男のいる場所から、一旦とはいえ追い出そうとしているのだから嫌がるのは当然だろう。あんまりごり押しするのは逆に反発を招くし、ここでもし聡に引き止められでもすれば、梃子でも動かなくなるだろう。
「んー、僕からもお願いしてもいいかな。どうせゆっくりしてくつもりだったんだ。それにケーキ屋ってあそこでしょ? バイパス沿いの「杏の森」。あそこのベリータルト、実は好物だったりするんだよね、僕」
 聡が亜里沙に向き直り、そう言う。
 効果は覿面だった。
「ほ、本当ですか聡さん!」
「うん、あの甘すぎない絶妙の仕上がりがかなり好み」
「行ってきます! 行ってくるからお兄ちゃん、お茶の用意とかお願いね!」
 亜里沙は弾かれたように駆け出していく。慌しい足音が家の外に消えていくのを確認して、公大は聡を睨みつけた。
「……てっきり亜里沙の所、引き止めて話しづらくさせるんかと思ったんだが」
「まさか。思惑は一緒だよ。むしろヒロが言い出さなかったらどうしようかと思ってたよ」
 微笑んだ聡は、視線を玲菜に向けた。
「学校以外でこうして会うのはしばらくぶりだね稲生さん……って言いたい所だけど、昨日はどうも。お陰で皆勤賞途切れちゃったよ」
「ええ、しばらくぶりね柚原君。初詣に三人で行って以来だったかしら」
 聡の言葉に僅かの動揺も見せず、玲菜は肩をすくめた。
「オーケー。まあ良いやそんな事は。大げさに包帯巻かれたけど、どうせ大した事無い傷だったしね」
「は、相変わらず頑丈なんだな」
「鍛えてるからね、うん」
 小さく笑った聡は腕を組んで、ソファに深く体を沈めた。
「そんな事よりさ、お互い聞きたい事が山ほどあると思うんだけど」
「ああ、そうだな。本当に、な」
「だよね。じゃあ僕から聞くよ、ヒロ」
 聡の目が細められ、剣呑な光が玲菜に向けられた。
「とりあえず、さ。どうして今この場に稲生さんがいるのさ。場違いじゃない?」
「付き合ってるからな。彼女を家に呼ぶのは不自然じゃないだろ? まして玲菜なんだし」
「…………は?」
 その回答は本当に予想外だったのか。聡の視線が二人の間を彷徨った。
「またまた。冗談にしては面白すぎるよ、ヒロ」
「柚原君には意外かも知れないけど」玲菜は満面の笑みを浮かべて公大の左肩に体を預けると「つい三日くらい前かしら。相馬さんと別れて傷心だった公大のハートを掴んだの。ずっと前から狙ってたんだけど、ついに美少年ゲットのチャンス到来してくれたって訳」
「そんな訳無いだろ。だって稲生さん、君は、その、彼氏なんか作れない筈だろ?」
 擦れた声で呟いた聡に向かって、玲菜は唇の端を吊り上げた。
「ふふ、ビアンだって噂? 噂はあくまで噂じゃない。嘘かもしれないし、バイだったかも知れないでしょ? それとも、公大だけは大丈夫だったのかもね――あなたみたいに、ね」
「は、はは。なんだ、相当喋ったんだね公大ってば」
「まあ、な。あんだけ手酷く裏切られりゃ、口だって軽くなるっての」
 険しい表情で、公大は言う。
「なあ、聡。どうしてだ。どうしてお前、あんな事をしたんだ。もし俺があの場に来なければ、ずっと詩鶴とそんな関係を続けていくつもりだったのか?」
 口にした瞬間、公大は気がついた。その問いが事件以来初めてだったと言う事を。一番最初に聞かなければいけない事を、今この場でようやく口にしたのだと。
 目にした光景がショッキングに過ぎて、忘れていたかったのか。そんな事を聞かなければならない自分が、惨め過ぎるのかと思ったのか。否定して欲しかったのか。何かの気の迷いだったと言って欲しかったのか。答えはどれとも見出せなかった。
 だが、聞いたからには公大は曖昧で済ませるつもりは無かった。たとえ詩鶴の変態趣味が引き金を引いたのだとしても、それを受け入れた事を許すつもりは毛頭ない。
 だが、聡は口を噤んだまま、じっと公大の顔を見つめている。その視線に何か薄ら寒い物を感じた公大は、声を荒げて、
「なあ、聡。俺はお前の事、親友だと思っていたんだぞ!」
「……親友、か」
 怨嗟すら混じった声で、そう聡は呟いた。
「公大はね、分かってないんだ。僕や稲生さんみたいな人間が、どれだけ苦しんでいるのかを」
「は……?」
 いきなり何を言い出すのか。一瞬言葉を失った公大に向かって、聡は身を乗り出した。
「どれだけそれまでに丹念に関係を積み上げていてもね、公大。僕が君の事を好きだと分かれば、そんなの、幼稚園児の積み木細工のようにあっさり崩れ去るんだ。そうだろう? たとえ相馬さんとの事がなくても、もし僕が君に告白していればどうした? 受け入れられるなんて思っちゃいない。でも、その後元通りの関係になんか、戻れやしなかっただろ?」
「そんな事、は」
「無い訳がないよね。今更取り繕った言葉なんか要らないよ。君が僕を見る視線には軽蔑や恐怖が混じるんだ。絶対に、絶対にね」
 熱に浮かされたように喋り続ける聡の事を、公大は止める事が出来なかった。
「真摯に想いを向ければ、ひょっとしたら通じるかもしれない。そんな麻薬のような儚い幻想だってずっと持ってきた。でも、そんなの、身を滅ぼすだけで何も叶えてはくれないのも分かってたから、ずっと、ずっと我慢してたよ。親友として側にいられればそれで充分じゃないか。そう言い聞かせてたよずっとね! 僕がそんな事悩んでたなんて、公大には絶対に分からなかったよね!」
 ほとばしる感情を拳に変えて、聡はテーブルを殴りつけた。鈍い音が部屋に響き渡る。
 公大は何も言えずに、ただ、その光景を見つめる他なかった。
「下らない。そんなの、ただの八つ当たりでしょう」
 重い空気を取り払ったのは、吐き捨てるような玲菜の言葉だった。
「相馬さんになんて吹き込まれたのかしらないけどね。あなたは踏み出しちゃいけない道に自分の意思で踏み出したんじゃない。それを公大のせいにするなんて、小ずるいにも程があるわ」
「……言ってくれるね、稲生さん。同じ穴の狢のくせに」
「一緒にしないでよ。想いが伝えられないからって当の本人にそんな女々しい泣き言漏らす真似、私は絶対にしないもの。ましてその癇癪を、親友を裏切る理由にするなんて、最低もいいところよ」
 聡を見つめる玲菜の視線には、多分に軽蔑が篭っていた。肩を震わせ、怒りに燃え上がる目で睨む聡からも、彼女は一歩も引かない。
 絡み合う視線は数瞬だった。ふいと目をそらした聡は、突然含んだ笑い声を立て始める。
「……何のつもりだ、聡」
 公大の言葉に、体を起こした悟は再びソファに背を預けて。
 そして、ひどく陰の篭った笑顔を浮かべて、言った。

「ねえ、公大。亜里沙ちゃんって可愛いよね。健気でさ」



 顔から血の気が引く。聞こえる筈のない音を、その時公大は確かに聞いた。視界がぼやけて、くらくらする。ソファに座っている筈なのに、体を支えていられなかった。
 崩れ落ちそうになる体を、左手でようやく支えている。震える指先に、その時温もりが伝わってきた。
 ぼやけた視界の先で、玲菜の手が左手に重ねられていた。しっかりしろと、無言で激励を送ってくる。その感触が、彼の意識を繋ぎとめて、視界を敵へと向けさせた。
 そう、敵なのだ。こんな笑い方をする聡を、公大は知らなかった。何が彼を変えたのか。伝わらない思いに対する絶望か。それとも、よからぬ事を詩鶴に吹き込まれたのか。昨日の玲菜の一撃のせいではなかったと思いたい。
 いずれにせよ、公大の知る聡はこんな暗い笑いが似合う男ではなかった。
「聡、お前、何をしやがった」
「ん?」
「っぼけるなっ! 俺らが帰ってくる前に、てめえ、亜里沙に何をしやがったんだ!」
 そら惚けた悟の態度に、下がりきっていた公大の沸点はあっさり突き抜けた。身を乗り出すとそのまま彼は聡の胸倉をつかみ上げ、
「答えろ! 答えろよ聡! 事と次第によってはてめえ、絶対に――」
「やめなさい、公大!」
 叫ぶ玲菜の声も、今の公大には遠かった。されるがまま、しかし苦しそうな表情など微塵も見せずにやついた笑いを浮かべている聡の表情も、怒りを煽り立てる。理性を脇に追いやったまま、公大は襟首を捻り上げる右手に力を込め――
「だから、落ち着きなさいって言ってるでしょ!」
 後頭部を突き抜けた鈍い痛みで、ようやく公大は我に返った。
「っ! 玲菜、お前何しやがるんだよ!」
 聡から手を離した公大は、玲菜に噛み付いた。全力で叩いたのだろう、右手をさすりながら玲菜は、しかし鋭い視線を彼に向ける。
「あんたが亜里沙ちゃんの事で沸点低すぎだからよっ! もし何かされていたら、亜里沙ちゃんがあんな態度でいられるわけないでしょっ!」
「そ、それはそうかもしれないけどよ、でも!」
「そうだよ、落ち着いて僕の話は最後まで聞こうよ、ヒロ」
 皺だらけのシャツの襟をこれ見よがしに直しながら、猫なで声で聡は言った。
「僕はただ、思った事を言っただけだよ? 最近はずいぶんと可愛くなったじゃないか。恋でもしてる? 恋をすると、女の子ってぐっと綺麗になるよね」
「あんたも黙りなさい、柚原」
 腕組みをして、玲菜は言う。その表情からは熱も消え、ただ、凍るように冷たい視線だけが聡に向けられている。
「公大の事焚きつけて、一体何を企んでるのかしら。先に手を出させて、襲い返す口実でも作る? 確かに私はもちろん、公大だって腕っ節じゃ敵わないけど、残念ね。あと十分もすれば亜里沙ちゃんは帰ってくるわ。ちょっと時間が足りないんじゃない?」
「それこそまさかだよ、稲生さん。君が僕をどう思ってるかは知らないけど、無理やりなんてNGだろ。暴力で言う事を聞かせるのは可能だとは思うけど、そんなの僕の趣味じゃない」
 聡の絡みつく粘着質の視線を感じ、公大の背中に悪寒が走った。
 確かに中学校時代は一緒に柔道をやっていたが、そこで辞めた自分と今も真剣に続けている聡とではもはや腕前など比較にならない。そもそも、体格の時点で圧倒的に負けている。本気で襲い掛かってこられれば、武器を持って覚悟を決めて抵抗しない限り、撃退する事は不可能だ。
 それでも、もしもの時は玲菜を逃がさなければ。
 薄氷の上に乗っている事を自覚しつつ、公大は覚悟を決めた。そんな彼の思いをあざ笑うように、聡の含み笑いが耳を侵す。
「言ったろう、僕はただ、思った事を言ってるだけだって。亜里沙ちゃんは恋をしてるんだよね。もちろんヒロ相手じゃない。親愛の情は誰よりも深いだろうけどね。そして稲生さん、君でもない。大事なお兄ちゃんの大切な友達。決して嫌いじゃないだろうけど、君みたいに性別の壁は越えられないだろうさ」
 含み笑いは部屋に響き渡る哄笑に変わっていた。
「ははは! 随分前から亜里沙ちゃんは僕に恋をしているよね。残念ながら割とその手の事には敏感なんだ。隠そうとしてる様もとてもとても微笑ましかったよ」
 肩を揺らして笑い続ける、聡の姿に公大は怒りと、同じだけの困惑を感じていた。妹の思いを馬鹿にされたのだ。顔の形が変わるまで殴りつけてやりたい。それが出来るか出来ないかは問題じゃない。だが、それと同じだけ、聡の真意が読めない困惑が、彼の体を縛り付けていた。玲菜も同じだったのだろう、何か違うモノを見るような目で、聡の狂態を見つめているだけだった。
 取り巻く二人を置き去りにして、笑い続ける聡。その声が不意に止まった。
「少し前まではどうしようかなって思ってた。本当の意味で亜里沙ちゃんの気持ちに応えてあげる事は、僕には出来ないからさ」
 顔を上げた聡は昏い微笑を張り付かせたまま、公大に向かって言った。
「でもね、考えを変えたんだ。あんな健気な姿を見せられたら、側で支えずにはいられないだろ?」
 公大は言葉を失った。聡の言っている意味が理解できなかった。自分を狙っているとあれだけ公言しておきながら、今更亜里沙に目を向けるというのはどう言う事なのか。否、理解したくなかったのかもしれない。
 隣の玲菜の表情は、完全に蒼白に変わっていた。わなわなと唇を震わせているが、深すぎる怒りに言葉が形にならないようだった。
 多分同じ顔を、自分もしているのだろう。公大は唇を噛み締めた。痛みすら感じない。先ほどは怒りに我を忘れて飛び掛ろうとした。あんなもの、ただの子供じみた激情でしかなかったのだ。本当に殺意を覚えた時は、これ程までに思考が透明になるのだと、彼は知った。
「……柚原。あんた、自分が何を言ってるのか理解してる?」
 震える声で玲菜は言った。
「公大と、私の前で。あんたは亜里沙ちゃんを使い捨ての駒にするって、そう言ったのよ」
「やだな、そんな事を言ったつもりはないよ? 亜里沙ちゃんが可愛く見えるのは事実だしね。ただまぁ、彼女と付き合えば、今よりもっともっと、この家には来やすくなるよねって言う話」
「黙れよ、聡」
「はは、怒ってるねヒロ。止めたくて困ってるんだろ?」
「一切合財亜里沙ちゃんに話されれば、あんたもずいぶん立場が変わると思うけど?」
「好きにすれば良いよ。話したければ話すといい。でも、証拠はないし既成事実だってないんだよ? 君のような真性レズビアンとは違うもの。逆に君が変な顔されて、煙たがられるのがオチじゃないかな」
「黙れって言っているんだ、聡」
 自分の口から出ている声が、公大にはひどく遠く感じられた。
 目の前の男がもう誰なのか、本当に分からなくなった。
 詩鶴との浮気を目の当たりにした時のショックとも違う。彼の思いを知った時との困惑とも違う。腹も立ったし、信じられないほどの衝撃であったが、それでも聡は聡だと、思う事が出来た。
 今はもう、無理だった。
「安心しなよ、ヒロ。亜里沙ちゃんの処女には興味ないから。僕からは指一本手をつけない事だって約束してもいい。僕が興味あるのは、君だけなんだから……」
 これ以上、聡の形をした何かの戯言を聞くのは耐えられそうになかった。
 公大は無言で立ち上がった。後は簡単だ。震えるほど硬く強く握り締めた拳を振り抜くだけ。
 倒せるかどうかは問題ではなかった。聡もそれが狙いでこれだけ煽り立てているのだろうから。体格も違う。何より、来ると分かっていればそれなりの痛みには耐え切れるだけ、彼は体を鍛えている。
 だから、公大一人の拳では、絶対に倒す事など出来なかった。
 聡に計算違いが一つあったとするならば。
「全く同感」
 公大が行動を起こすより一瞬早く、反対側からの拳が性格に彼のこめかみを打ちぬいた事だろう。
 そこに公大の拳が顎を掠めれば、いくら体を鍛えていても耐え切れるものではなかった。
 悲鳴ひとつ上げる暇もなく、派手な音を立てて聡はテーブルに崩れ落ちた。それを見届けた玲菜は、赤くなった手を摩りながら公大に向かって微笑んだ。
「こんな穢れた口で、これ以上亜里沙ちゃんを犯させるわけにいかないじゃない」
「玲菜、お前」
「そんな顔で見ないでくれない? 自分がむやみに凶暴なんじゃないかって思えてへこむわ。本当、やたら男の子の所殴ってばかりなんだけど」
「いいんだよ。こう言うのは昔から言うだろ、「女の腐ったような奴」だって」
「その例えには反論したいけど、まぁいいわ。あんたとこれが同じ性別だって認識するのも嫌だもの」
「そりゃどうも」
 肩を竦めて、公大は呟いた。むやみやたらと清々しい気分だが、この後の事を考えると頭が痛くてしょうがない。
「……なあ」
「……言いたい事は分かるわ。どうするのが一番かしら……」
 二人は顔を見合わせて、深い、深い溜息をつく。
 亜里沙が帰ってくるまで後何分あるか。それまでに、上手いシナリオを考えておく必要がありそうだった









 結論から言えば、二人の隠蔽工作は盛大に失敗した。
 そも、時間があまりに足りなすぎた。充分な時間があれば、どちらかが付き添いでタクシーに押し込んで送り返すくらいの事は出来たのだ。しかしいくらなんでもこのくらいは掛かるだろう。そう思っていた時間から盛大に早まって亜里沙が帰ってきたのだから仕方ない。
 彼女が息せき切って居間に足を踏み入れた瞬間、柏木家は上を下への大騒ぎと化した。さもあらん、頭を抱えている公大と玲菜の足元で、机に突っ伏して聡がのびているのだから。彼が目を覚ますまで、泣き喚く亜里沙を二人で宥めすかせるのが精一杯だった。
「……ごめんね、亜里沙ちゃん。折角ケーキ買ってきてもらったけど、食べられそうにないや」
 最後まで救急車を呼ぶと言い張った亜里沙を制して、聡はタクシーで家へと帰っていった。醜くも喚いて、亜里沙の気を惹かれたら面倒だ。そう思っていた公大だったが、彼にもいくばくかの矜持はあったらしい。公大ならともかく、さすがに玲菜にKOされたとバラされるのは避けたかったのだろう。
「それじゃあね、公大。明日また学校で」
「…………ああ」
 笑ってない目のまま空虚な微笑みを浮かべて、聡は去っていく。今この瞬間に袂は完全に分かたれたと言う事だ。溜息をついた公大は、背後から突きつけられる殺気に怖気をふるった。
 振り向けばそこには、妹の姿をした鬼がいた。
「あ、あのね、亜里沙ちゃん。公大だって色々事情があったのよ」
 亜里沙のあまりの形相に、とりなそうとした玲菜も一歩引いている。
「稲生先輩、すみません。お兄ちゃんが送って行ってくれると思うので、今日のところは帰ってくださいませんか」
「でも、きっと亜里沙ちゃん大きな誤解をしてるから」
「それに関しては、また後日伺いますから。生意気言ってすみません。でも、今日はちょっとお兄ちゃんとしっかり話し合わないといけないんですええしっかりと」
 一蹴だった。
 亜里沙相手にたじろぐ玲菜の姿というのも珍しかったが、玲菜相手にここまでずけずけと言う亜里沙の姿も、公大は初めて見た気がした。正直全然嬉しくなかったが。
「それじゃお兄ちゃん。気をつけて行ってきてね。待ってるから早く帰ってきてね」
 送り出される言葉がこれほど恐ろしいと思ったのは、生まれて初めてだった。




 道すがら、言葉少なだった二人だったが、玲菜の家が見えた頃、彼女が口を開いた。
「亜里沙ちゃん、本気で怒ってたわね」
「……まあ、当然なんだけどな。状況だけ見りゃ、兄貴に好きな男張り倒されてるんだから、そりゃ怒るわ」
「説明は……出来るわけないわね」
「俺と聡の立場が逆だったら、何とかなったかも知れねぇな。そうすりゃ亜里沙だって少しは真剣にこっちの話を聞いてくれただろうけど。でも今この状況で、あいつがホモで俺の事狙ってやがりましたとか口にしたら、冗談抜きで俺が殺されかれねえ」
「……本当、顔だけじゃなくて根っこの性格までそっくりなのよね、あんたと亜里沙ちゃんって」
「褒められてる気がしねえんだが」
「褒めてないから安心して」
 家の門の前で足を止めて、玲菜は深い溜息をついた。
「公大の所のお父さん、どうしたっていろんな所飛び回る仕事だから仕方ないんだけど、あんた達が二人でいる時間が長すぎるのかしら」
「俺に似てガサツになったってのかよ」
「違うわよ。あんたがシスコンなのと同じくらい、亜里沙ちゃんはあんたの事も大事に思ってるんだって事」
 出し抜けにそんな事を言われて、公大は呆けた顔で玲菜の顔を見直した。
「いや意味が分からんのだが。つーかそれだったら、何であいつあんなに俺に対して怒ってるんだよ」
「だから、よ。亜里沙ちゃんが聡の事を好きなの、残念ながら間違いはないだろうけど。でもそれと同じくらいにはあんたの事が好きだから、だから激怒してるって言う事」
「……よくわかんねぇな。妹なんてあんなもんじゃねえの?」
「本気で怒っても関係が壊れない相手って、貴重なのよ。家族だからっていつもいつも上手くいくとは限らないんだし」
「そんなもんですか」
「そんなものなの。まぁ私からするとやっかい極まりないから、もっともっと亜里沙ちゃんがあんたに幻滅する事祈ってるんだけどね」
 くすくすと笑い出した玲菜の姿は、すっかり普段の調子に戻っていた。公大も苦笑して、彼女の頭を小突く。
「だからやらんと言ってるだろうが」
「もう、痛いじゃない。嫉妬? 「彼女」が大見得切って浮気宣言しちゃったもんだから嫉妬してる?」
「アホ。演技で嫉妬も何もあるかっての」
「ノリが悪いわね。折角励ましてやってるのに」
「なんでだろうな、全然励ましに聞こえねぇわ」
「きゃー、がんばれ公大、ふぁいと!」
「うわすげーやるきでたありがとう」
 肩を竦めて公大は踵を返す。全く気は進まないが、これ以上遅くなれば亜里沙の怒りが当社比二倍くらいにはなりそうだった。
「愚痴でも何でも良いから、終わったら電話よこしなさい。良いわね?」
「あー、気力あったらな」
 去り際に掛けられた、玲菜の言葉が公大の身に染みる。
 死ぬと分かっている場所に、何で帰らなきゃいけないんだろうなぁ。
 当たり前の疑問の筈なのに、自分が納得出来る答えはなぜか導き出せなかった。



「一体何があったのか、説明してよお兄ちゃん!」
「だから、ケンカしただけだって!」
「ケンカって、理由はなんなのよ! 聡さんがあんなになるなんてよっぽどじゃない!」
「ンなの、男同士なんだから色々あったんだよ!」
「そんなんじゃ納得できないわよ!」
 声を張り上げた亜里沙が、力任せに机を叩いた。今にも一人くらい殺してきたような形相で、ソファに腰を下ろして公大を見下ろしている。向かい合う彼はフローリングの上に直で正座だった。地味に膝や脛が痛いのだが、そんな事をもし口にすれば雷では済まないので心で泣いた。
 予想はしてたけど、予想通りすぎるって畜生。
 頭の中で愚痴るが、今のこの説教は自業自得になるような気もするので何も言えない。それにしても、守った本人から誤解でこうも責め立てられるのは公大としては腹立たしい事この上ない。しかし頭に血が上った亜里沙に何を言っても無駄なのは、彼が十八年間生きてきて学んだ数少ない有益な事柄だ。
「大体、お兄ちゃん昨日くらいからおかしいよ! 相馬さんと付き合ってるんでしょ? なのになんであんなに稲生先輩とべったりなの? 浮気してるとか思われたらどうするのよ!」
「ぐっ、それは……」
 思わぬ攻撃に、公大は言葉に詰まった。
 女の怒りは四方八方に飛び火する。それもよく分かっていた事だが、しかし何の前触れもなくそこに飛ぶとは思わなかった。
「そりゃ、お兄ちゃんと稲生先輩はずっと前からの友達だし、稲生先輩良い人だから、仲がいいのは当然だと思うけど! でも、でも親しき中にも最低限の礼儀は必要でしょ? 何? 稲生先輩に彼氏が出来てもお兄ちゃんてば四六時中連れまわす気? それって最低だよ!」
 いやそれはありえないんだが。声を大にして公大は言いたかったが、もちろん言葉にする事は出来ない。
 その事よりも言わなければいけない事があるだけに、彼は懊悩する。
 言った後の結果は見えている。できる事なら避けたい展開だ。
「ちょっと、何黙っちゃってるのよ。何か言いたい事あったら、言ってくれなきゃ分からないよ!」
 再び亜里沙の拳がテーブルに振り下ろされた。みしり、と何か嫌な音が公大の耳に届く。今日一日だけで、本来の使用目的からは随分外れた負荷をかけたのだ、そろそろ限界を超えてしまったのだろうか。
 力を入れすぎたのだろう。目の端に涙を浮かべた般若の形相で見下ろす亜里沙の姿に、公大は腹を括った。
 後でバレた時の方が、取り返しにくい気がする。虎児を得るには虎穴に入るしかない。
「あー、その、な。落ち着いて聞いてくれ、亜里沙」
「何言ってるの、落ち着いてるわよわたしは!」
 ならせめて左手を振り下ろす準備をするのはやめてくれ。そう思いつつ、公大は言った。
「詩鶴とは、別れたんだ。一週間くらい前に」
「……は?」
「それで、その、な。昨日から付き合ってるんだ。玲菜とは。真剣に」
「…………はぁぁぁぁぁっ?!」




 メールの着信音が部屋に響き渡った。
 玲菜はシャーペンを置き、参考書を閉じると、デスクの傍らにおいてあった携帯に手を伸ばす。
 時間に目を走らせる。0:35。
 発信者。柏木公大。
 おおむね彼女の予想通りの時間だった。
「でも直接電話じゃなくて、メール?」
 一人ごちりながら、玲菜は携帯を開き、メールの内容を確認する。

"虎穴に親虎しかいなかった。"

 意味が分からなかった。
 全く持って意味が分からなかったが、色々と伝わってはきた。こみ上げる切ない物を振り切るように、二度三度頭を振ると、玲菜は公大の電話番号を履歴から引っ張り出す。
 まぁ、今日のところの携帯代はサービスと言う事にしておこう。
 日の出位までは覚悟しておいた方がいいかなぁ。そんな事を思いながら、玲菜は発信ボタンを押したのだった。