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 相馬詩鶴の朝は、熱めのシャワーと共に幕を開ける。
 まどろみに片足を入れたままの意識と肌に命が宿り、活力が全身を駆け巡っていく。肩から形良く張り出した乳房を通り、脇を滑って太股へ。特注のソープの泡が、水流で流されていく。一時も淀む事無く進むのは、磨きぬいた滑らかで張りのある肌のお陰だ。
 詩鶴は綺麗な物が好きだ。それは華美な装飾品であれ、有名無名の芸術家達が魂を引き換えて作り上げた作品であれ、神に愛され産み落とされた人間の美貌であれども変わらない。綺麗な物が側にあれば、心が蕩けそうなほどの幸福に包まれる。だから、共に在るためには自分自身も常に綺麗であらねばならない。それが彼女の譲れぬ矜持であった。
 降り注ぐシャワーの中で、手櫛を通しながら髪に潤いを染み込ませていく。今一番、彼女が求めて止まない相手が褒めてくれた物だ。
 同じくらいの長さなのに、全然違うんだな。
 薄く頬を染めて指を絡めながら、初めてのベッドの中でそう呟いた少年の顔を思い出す度、彼女の体の奥底に火が灯る。女のように見られる顔が悩みだと言っていた。あまり高いとは言えないまま、止まり掛けている身長を嘆いていた。いくら食べても肉が付かない、華奢なままの体格がいっそ恨めしいと愚痴る事しきりだった。その全てが、詩鶴にとっては艶かしい魅力だった。少年の怪しい美貌は、肌を寄せ合う度に倒錯的な感情を呼び起こしてくれる。小柄な体を胸に抱く度に、母性が滲み出るのを感じる。太らない体質は、女として素で羨ましい。
「公大……」
 詩鶴が呟いたその名前は、バスルームにくぐもって響く。
「待ってなくていいよ。全力で逃げても構わない」
 歌うように紡ぐ、自分の言葉で詩鶴は甘い酔いに落ちていく。
 些細な行き違いから、青い鳥は腕の中の籠から逃げ出してしまった。悲しむべき出来事だが、絶望には至らない。どうしてそんな必要があるのだろう。逃げ出したものは、もう一度捕まえればいい。その過程が困難であればあるほど、再び手に入れた時の喜びは例えようもなく大きくなるのだから。
 詩鶴は利き手の人差し指で自らの唇を軽くなぞる。慣れ親しんだ筈のその感触が、彼に躊躇いがちに触れられた思い出と重なる。火照る体に突き動かされるまま、指先がゆっくりと滑り落ちていく。顎の先を通って、鎖骨の間をくぐり抜ける。勾配の急な丘陵を駆け上がり、その頂へと。そこが既に固く勃ち上がっている事をはしたないと思う。
 でも綺麗に、綺麗にしておかないといけない。頭の天辺からこの指の先まで、相馬詩鶴の全ては、柏木公大のものなのだから。
「必ずまた……ふぅ、捕まえて見せるからね……公大……」
 指は臍を通り抜けて、更にその下へと潜っていく。決意の言葉は、やがてあふれ出しす熱の篭った吐息に紛れて消えていった。




 シャワーを終えた詩鶴は、母親と、そして父親と共に朝の食卓を囲む。上座に父である(たかし)が座り、向かい合って母の早百合と詩鶴。決して欠かしたことのない習慣は、今日も滞りなく進められた。
 ワカメと大根の味噌汁に、鯖の塩焼き。ほうれん草のおひたしに出汁巻卵――並ぶ物は豪奢さの欠片もない。全て母である早百合の手作りだ。これも変わらない、相馬家の習慣だった。もっとも、質素に見えるのは外見だけで、全ての食材の値段そのものは、割と馬鹿馬鹿しいほどの金額になっているのだが。その辺りは、作り手である小百合の譲れぬこだわりらしい。
「どう? 今日はちょっと味噌の加減間違えちゃったかもしれないんだけど」
「ん。美味しいよ、母さん。今日もばっちり」
「そう、良かったわ。今日は朝まで尊さんに寝かせてもらえなかったから、わたくし少しばかり寝不足で。心配だったのよ」
 小百合が頬に手を当てそう言うと、味噌汁に口をつけたままだった尊が盛大に噴き出した。
「あらあら」
「わ、父さんカッコ悪いなぁ。もっと落ち着いて食べなきゃダメだよ」
「さ、早百合! お前はいきなり何を言い出すのだ!」
 顔を赤らめ、整えられた顎髭とYシャツに味噌汁の染みを付けた尊は大声で叫んだ。しかし早百合は全く慌てる様子もない。
「初心なのは本当に変わらないですわね、あなた。わたくし、隠し事はしない主義ですと、何度申し上げた事やら」
「だ、だからと言ってだな! その、なんだ! こういう朝の食事の時にそのような事を口にする必要がどこにあるのかと言っておる!」
「スキンシップは重要だと思いません? まして、詩鶴にとっても重要な事ですわ。妹と弟、あなたはどちらが欲しいの?」
「んー、どっちかって言うと妹かなぁ。弟みたいな子は、今頑張って手に入れようとしてるから」
「お前も真面目に答えるんじゃない! というかちょっと待て、詩鶴。お前今何か見過ごせない事を……」 「ああ、あの子ですわね。名前はなんと言ったかしら……」
「公大よ、母さん。柏木公大、覚えておいてね。近い将来、あたしの旦那様になってくれる人なんだから」
「何だとっ!?」
 目を剥いた尊は、詩鶴の方へ向き直った。彼からすれば寝耳に水の話だったから当然だろう。
「詩鶴! それは一体どういう事だ!? か、か、彼氏でもできたとかそういう事を言うつもりか、お前は!?」
「正確に言うと彼氏だった、かなぁ。一回振られちゃってるから。今頑張って追いかけてる所だよ」
「どっちでも関係ない! お前はまだ高校生だろうが! そんなの、この私が許すと思っているのか!」
「母さんは諸手を挙げて賛成してくれたけど? それに体の相性はばっちりだったもの。きっといいお婿さんになって、相馬家を支えてくれると思うよ、公大なら」
「か……か、かかかかからだーっ!?」
 青くなったり赤くなったり。ころころ変わる尊の表情を面白そうに見やりながら、詩鶴は言った。
「ねえ母さん。母さんが父さんとあった時も、高校生だったんでしょ?」
「ええ。本当に初心で奥手な方で。その上、その頃から本当に品のある良い顔立ちをしてましたからライバルも多くて。わたくし、持てる手練手管を全て使う羽目になりましたのよ」
「わ、そっくりだね公大と。こっちも色々障害多そうなんだ」
「あらあら、確かに女性にも男性にも好かれそうな顔立ちでしたものね」
「だからそこで何を和んで話しているのだ早百合! お前は嘆かわしいとは思わんのか! 相馬家の一人娘が、事もあろうにどこの馬の骨とも分からん輩とそ、そのような関係に陥ったというのだぞ!」
 口から泡を飛ばして早百合に詰め寄る尊だったが、彼女はにこにこと笑って、
「素晴らしい事じゃないですか。「見的必奪」こそがこの相馬家の掟ですもの。詩鶴がその事を良く分かっているようで、何よりですわ」
「お、お前がそんな調子だから詩鶴がだな! とにかく、私はそんな男は認め……」
「まあ大変。もうこんな時間。あなた、今朝は大事な会議が入っている筈ですよ。佐和子さん、身づくろいを整えなおしてくださいな」
「かしこまりました。では旦那様。失礼いたしますね」
「ま、待て早百合に詩鶴! 話は、話は終わってな……」
 早百合の言葉に、傍らに控えていた割烹着姿の中年の女性が進み出る。尊に勝るとも劣らぬ体格を有した彼女は、そのまま彼の肩に手を掛けると、椅子ごと奥の部屋へと引きずって行ってしまった。
 その様を見送った詩鶴は箸を置くと、深い溜息をついた。
「んー。やっぱり反対かぁ。一度公大を正式に連れてこないと駄目かなぁ」
「大丈夫ですよ。わたくしからもまた尊さんに話をしておきますわ。あなたは大船に乗ったつもりで、心行くまで戦っていらっしゃい」
「ん、母さんにそう言って貰えると嬉しいな。ありがとう」
「どういたしまして。ほら、あなたもそろそろ時間ではなくて?」
 母の言葉に時計を見やった詩鶴は、あっと声を上げて立ち上がった。
「そうだね。ごちそうさま!」
「お粗末さまでした」
 慌てて駆け出す詩鶴の姿を見守る早百合の眼はどこまでも優しい。
 つまりは今日もまた、どこまでもいつもどおりの相馬家の食卓であった。




 見慣れた光景から、見知らぬ場所へ。通う場所が変わっても、詩鶴の行動は変わらないし、詩鶴自身も変わらない。そして彼女を取り巻く状況も、また。
 ある者は通り過ぎた瞬間振り返り、またある者は足を止めて彼女の姿に見入る。おずおずと、あるいは努めて明るく彼女に挨拶をしてくる者もいれば、極少数、聴こえぬと彼女たち自身が思っている声で陰口を叩く者もいる。
「し、詩鶴さんお早う!」
「おはよう。ええっと、智子さんだよね?」
「う、うん! そうだよ、覚えてくれたんだ!」
「最初に話しかけてくれた、大切なクラスメートの顔と名前だよ? 忘れるわけないよ」
 そういって詩鶴が笑い掛けると、お下げ髪の少女は頬を赤らめながらしどろもどろになり、駆け出していってしまった。
 昨日の内に、クラスメートとその両隣位までの生徒達には、顔と名前を売った自信があった。今日はそれを学年全てに広げておきたかった。
 どこでどんな行動をするにも、味方は多い方がいい。積極的に手を貸してもらう必要はない。それは詩鶴自身も望まない行動だ。ただ、敵に回らなければそれで充分なのだ。
 彼女と公大の関係を、一人でも多くの人に知ってもらう。それが学園の隅々にいきわたればいい。そうすれば、空を失った鳥は巣に戻ってくるしかなくなるのだから。
 柚原聡は昨日、焦って事を起こしたようだったが、彼には少しその辺りを分かってもらう必要があるかもしれない。
 肩を竦めて昇降口に向かって歩みだした詩鶴の背中を、その時小さくないざわめきが叩いた。
 何事だろうか。振り向いた彼女の目に、それは映った。
 愛しい愛しい少年と、彼と腕を絡めて共に歩んでくる、眼鏡を掛けた美しい少女の姿が。
 喧騒の輪と共に二人は詩鶴へ向かって歩いてくる。互いに手を伸ばせば触れ合うほどの距離で、彼らは足を止めた。
 なるほど、公大はそういう手段を選んだのか。
 自分の口元がゆるく弧を描いている事に、詩鶴は気がついた。
「よぉ、詩鶴。オハヨウゴザイマス」
「うん、お早う、公大」
 寝不足なのだろうか、目の周りに隈を作った彼が、それでも不敵な声をあげる。それが、詩鶴にはとても嬉しかった。
「ところで、隣の子って誰?」
 もちろん詩鶴は彼女の名前も、公大との本来の関係も知っている。だが、これは開始の合図なのだ。ならば問うのが礼儀という物だろう。
 向こうもそれは分かっているのだろう。公大から腕を解いた少女が、詩鶴に向かって深々と礼をして、言った。
「初めまして、相馬詩鶴さん。私は稲生玲菜。彼の――柏木公大の、彼女よ」
「うん、よろしく玲菜さん。すぐにお互いの立場、変わると思うけどね」
 飛び切りの笑顔を浮かべて、詩鶴は戦いの始まりを、告げた。








 HR開始まで後十数分。いまだ喧騒に満ちた教室には、二つの集団が形作られていた。詩鶴を中心とした物と、公大を中心とした物だ。どちらも規模は同じような物なのだが、そこに渦巻く感情に隔たりがあった。
 詩鶴の周囲は同情と義憤に満ち溢れていた。朝の公大の行動に対して、我が事の様に怒ってみせる者もいる。その感情の深さがどの程度の物なのか、詩鶴には推し量る事しか出来ない。だがそういった行動自体が彼女の望んだ風だった。
 公大と玲菜が付き合っている。公大は詩鶴の婚約者である。どちらも事実とは異なっているが、そんな事は詩鶴にとってどうでもいい。一定の規模の人数が同じ幻想を共有すれば、それはある一定の期間、真実そのものになる。どちらの幻想がより多くの人間の支持を集めるか。この戦いは、限られたパイの奪い合いなのだ。
「相馬さん、大丈夫? 顔色悪いよ? 保健室行こうか?」
「大丈夫だよ。あたし、元気なのが取り柄だから。それに公大の事だって、何かの間違いだって信じてるもん」
 気遣うクラスメートに向けて、詩鶴は微笑を浮かべた。声は僅かに沈ませたまま。それが取り巻く人々に更なる同情の波を送っていく。演技をしている自覚はあるが、詩鶴にとっても全てが作り事と言うわけでもなかった。
「信じられない! 事もあろうにあんなに堂々と二股かけるなんて! それもあの稲生さんとよ!」
「ショックだよ……柏木くんも稲生さんも、そんな人間だと思わなかったのに」
「それよりも、相馬さんが可哀想じゃない! 折角大切な人を追いかけてきたのに。最低だよ、柏木君……」
 口々に言い合うクラスメートに対して、あるいは頷き、あるいは憂いた表情を見せながら、詩鶴が思いを馳せるのは別の事だ。
 聡から、あるいは人を使って調べた公大の人間関係の中で浮かび上がってきた、稲生玲菜という少女。聞くと見るとでは、やはり大きな違いがあった。
 綺麗だと、詩鶴は思った。
 肩に掛かる程度の、整えられたセミロングの茶髪の艶が目を引いた。染めてるわけではないのだろうが、明るいその色が彼女を一際垢抜けさせている。眼鏡の奥の切れ長の瞳は、尽きぬ知性を見る者に感じさせる。高すぎない身長に備わったプロポーションは、側に寄る異性の目を強く惹き付ける事だろう。殊に見事に張り出した両の乳房には、素直に脱帽した。
 彼女が公大の隣に立つ姿には、枯れえぬ鮮やかな華がある。
 あらゆる意味で、立ちはだかるに相応しい相手だと詩鶴は思った。
 あの澄ました表情が、敗北の屈辱に塗れた瞬間、どう崩れてくれるのだろう。それはきっと、公大を手に入れるのと同じくらい、体を熱くしてくれるに違いない。思い描く未来の瞬間に僅かに口元を緩めて、詩鶴は視線を公大の元へと送った。
 彼の状況は、さながら弾劾裁判のようであった。弁護人も証人も自分一人でこなさなければならない辺り、勝ち目はひどく薄そうなものであるが。
「何やってるんだよ、テメェ。あんな可愛い婚約者いるくせに、堂々と浮気かコラ?」
「昨日みたいな事しておいて、親が勝手に決めたものだとか、べたな事抜かすなよ?」
「最低だよ! 柏木君はそんな人じゃないと思っていたのに」
 向けられる理不尽な怒りの渦に、しがみ付く物もないまま公大は必至に抗う。その様に、詩鶴はどこか違和感を覚えた。
 彼女の知る公大は、こういう時、逃走と言う選択肢を取る筈だった。現につい二日前、夜のファミレスで話し合おうとした時は、具体的な話題に踏み込む事も出来ないまま、まんまと逃げられてしまった。
 今ここで逃げ出して問題の解決になるわけはないのだが、踏み止まって説き伏せられるほど彼は自分の話術に自信はない筈なのに。
「詩鶴とは確かに付き合っていたけど、もう別れてるんだよ!」
「そもそも親父はここ半年まともにこっちに戻ってきてねぇっての! 親同士が決めたも何もあるか!」
「だから! 一方的に詩鶴の話だけ聞いて、俺の話を無視するなよ。おかしいだろそういうのはっ!」
 胸倉を掴まれ、あるいは突き飛ばされながらも、彼は必死に己が身の潔白を訴えていた。少女のような顔立ちを歪めて、真剣な表情で、伝わらない声を必至に張り上げていた。
 その様に、詩鶴は惹きつけられる。
 勿体無いと思った。こんな公大を自分以外の誰かに見せるのは、あまりに勿体無いと彼女は思った。
「もういいよ。皆、ありがとう」
 自らを取り巻く輪を切り開いて、詩鶴は公大の元へと向かう。喧騒は急速に引き、彼らの視線が詩鶴に集まる。公大を取り巻いていた集団も、向かってくる詩鶴の姿に一歩後ろへ下がったが、頭に血の上った一人の少年は、公大の胸倉を掴んだままだった
「だから原君、その手を離してあげて欲しいな」
「ああ?」
 唸った少年は、声の主が詩鶴だと知り急速に冷静さを取り戻していく。しかし振り上げた拳の収め所が見つからないのか、いまだ公大の襟首を掴んだままだった。
「で、でも相馬さん。元はと言えばこいつがあまりにふざけた事を……」
「公大の言い分も聞かなきゃ、あたしだって怒れないよ。だからこれは公大とあたしが話し合わなきゃいけない事なの」
 原の身長は詩鶴とさほど代わりのないものだった。小首をかしげ、彼の目を見つめてゆっくりと言う。詩鶴の言葉が脳に染みていくのに合わせて、彼の手から力が抜けていった。
 後退る原の姿など、もう詩鶴の興味からは外れている。ようやく新鮮な酸素を得て、咳き込む公大の側に彼女は寄り添った。
「大丈夫?」
「……一応礼は言っとく。あいつらにボコられてるくらいは覚悟してたからな」
 詩鶴がかろうじて聴こえる程の小声で、公大は呟いた。不敵な言葉が耳に快い。詩鶴は作らない笑顔を浮かべて、彼の耳元に囁いた。
「こんなの当然だよ。公大に怪我されたら、悲しいもの」
「そうかよ。顔にでかい傷でもつくりゃ、お前も諦めてくれるかな」
「無理無理。そう言う強がりも含めて、全部可愛いから」
 偽りない、それは詩鶴の本音だった。
「たった二日なのに、公大、ずっと格好良くなったよ」
 詩鶴の言葉に合わせるように、教室のドアが開かれる。
「HR始めるぞ! 皆早く席に着け」
 声を張り上げながら入ってくる担任の姿を認めて、生徒たちは蜘蛛の子を散らすように皆自らの席へと戻っていく。
 結局昨日詩鶴が振り分けられたのは、窓辺の公大とは反対側、廊下に面した場所だった。ああいう事が会った後、さすがに二人を隣同士にする事は担任の沽券に関わる問題だったらしい。性急すぎた昨日の自分には、ほんの少しの反省が必要だった。無言で自分の席に腰を下ろす公大に手を振って、詩鶴もまた自分の席へと戻っていった。




 稲生さん? いつもこの時間は地歴部室だと思うけど。
 玲菜のクラスの人間に聞いた言葉に従って、詩鶴は部室棟へ向かっていた。お昼休みはすでに半ばほど過ぎている。普通なら、食べ終わっている頃だろう。
 大体において、こういう場所は校内での勢力関係がそのまま現れる。誌鶴が前にいた高校もそうであったが、対外的に結果を残している運動系の部活は使いやすい1階中央の日当たりの良い場所が与えられ、文化系の部室は二階や、日陰の陰気な場所に追い込まれる。
 その意味で地歴部室は極め付きであった。B棟2階北の角部屋。まごう事ない最下層だ。この下となると同好会格下げ部室消滅の道しかない。
 扉の前には二組の上履きが並べられていた。どちらも女子の物であるから、公大は今ここにいない。
 半分だけ好都合な状況だった。彼女はまだ、稲生玲菜という少女を良く知らない。伝え聞く噂や、調べさせた情報だけで判断できる相手ではない。この目で見て、この耳で声を聞き、真意を測る。必要不可欠なその作業がもたらしてくれるだろう知的興奮を想像して、彼女はほくそえんだ
 だがそれも、先客がいるならあまり多くは望めない。
 どうした物だろうか。口元に手を当て考え込んだ詩鶴の耳に、何か鈍い音が飛び込んできた。何事かといぶかしむ間もなく、彼女の目の前で扉が勢い良く開け放たれる。
 口元を覆った、お下げ髪の少女が飛び出してきた。泣き腫らした目のまま、転びそうな勢いで上履きを突っかけると詩鶴の脇を駆け抜けていく。
「……智子さん?」
 見覚えのある顔立ちに、詩鶴は呟いた。名前を呼ばれた少女は一瞬びくりと体を震わせたが、
「ご、ごめんなさい……!」
 消え入りそうな声でそう呟いて、駆け出していってしまった。
「どうしたんだろう?」
「……まぁ、来るんじゃないかと思ってたわ。話があるならどうぞ? ろくにお持て成しも出来ないけど」
 呟いた詩鶴は、不機嫌そうに掛けられた声に、部室の方へと振り返った。
 声の主は背もたれを軋ませながら椅子に腰掛け、じっと詩鶴の姿を見つめている。薄暗い部室の中でも、その左頬が僅かに赤らんでいるように彼女には見えた。
「待っててくれたの? なんか取り込み中みたいだったけど」
「それはもう終わったからいいわ。入ってくるなら戸を締めてね。お互い、人に聞かれて愉快な話をするつもりもないでしょ?」
 口元だけは僅かに緩ませて、しかし飛ばす視線は鋭く固い。
 稲生玲菜は詩鶴に向かって、ゆっくりと手招きをしてみせた。




「てっきり公大とご飯食べてると思ったのに」
「見ての通りよ。先約があったから泣く泣く諦めたの。残念だったわ」
 玲菜は椅子から降りて、市松に敷き詰められたカーペットタイルの上に腰をろした。詩鶴も習って、その向かいに座る。
「それで、御自ら恋敵の前にお越しになられた理由は一体何なのかしら? そのまま捕らえてノシ付けて、元いた高校に送り返すかもしれなくてよ?」
「稲生さんたら、面白い冗談だね。本当、公大があなたを頼る理由も分かるな」
 くすくすと笑い声を上げた詩鶴は、朗らかに言った。
「理由も何も、あたしは話をしに来ただけよ。お互い、公大を挟んで向かい合ってるだけじゃ面白くないもん。敵を知り己を知れば――って、誰の言葉だったかしら。それって真理だと思わないかな?」
「ふぅん。敵を知る、ね」
 値踏みをするような視線で、玲菜は詩鶴の事を見つめてきた。眼鏡の底の漆黒の瞳が、奥底まで覗き込もうとしているようで、詩鶴は小さく身じろぐ。相応しい相手であれば、この感触は嫌いではなかった。
「つまらない事言ってくるつもりなら、叩き出そうと思ってたけど。そういう事なら協力するのもやぶさかじゃないわ」
「でしょ? あなたも色々知りたい事あると思うんだけど。何でもいいよ? 答えてあげる」
「大した自信ね。私は残念ながら臆病者なの。きっと黙秘権を行使する事あると思うけど」
「構わないよ。でも全部黙秘権使われたら、面白くないよね。パスは二回まで。どうかしら?」
「いいわ。昼休みの時間なら、その位が適当でしょうね」
 肩を竦めて、玲菜は詩鶴の提案を受け入れた。
 さあ、腕の見せ所と言うわけだ。詩鶴の口元に微笑が浮かぶ。
「楽しみだな。与えられた情報から与えられなかった情報を推し量るのは大好きだもの。公大も、何かと隠し事するの大好きだったしね。あなたの事とか」
「言う必要がなかったからでしょうね。付き合っている時に他の女の話をされるのって、萎えるでしょ」
 軽く突付いたつもりだったが、玲菜の表情は揺るぎもしなかった。口元に手をあて、じっと考え込んだ彼女は、
「じゃあ聞くけど」
 切れ長の瞳が、詩鶴に向かって刃のように細められる。
「相馬さん。あなたは本当に公大の事が好きなの?」
 唐突に放たれた、その言葉の真意が読み取れなかった。数度瞬きして、詩鶴は当然の答えを口にする。
「何かと思ったら。そんな当たり前な事、聞かなくても分かってるって思ってたけど」
「私はあなたの口から、答えを聞きたいのよ相馬さん。それとも、早速パスを使う?」
「好きだよ。公大の事、世界中の誰よりも」
 からかうように口にした玲菜に向かって詩鶴ははっきりと言った。それを聞いた玲菜の口元が、小さく歪む。
「あら。それならどうして貴女は柚原君と浮気なんかしたの? そのまま公大の事だけを見ていれば、私の入り込む余地なんかなかったのに」
「浮気? あたしが?」
「自分の部屋に違う男を呼び込んでセックスするのって浮気以外の何だって言うのかしら。まあ、あなたが柚原君のカマを掘るってのは随分と倒錯してるとは思うけど」
「ああ、やっぱりあなたもそんな事言うんだ」
 詩鶴は小さな失望の芽が、自分の中に芽吹いた気がした。思ったよりもモラリズムな方面から突付かれた、その質問にはそそられなかった。
「質問に質問で返すのって、マナー違反かな? だけど逆に聞くね、稲生さん」
「いいわ、でも答えてもらえないならパスと判断するけど、いいかしら?」
「良いわよ」
 詩鶴は頷いた。聡との関係の奥底は、今しばらく伏せておきたい札だった。
「それじゃ今度はあたしから。人を好きになるって、あなたにとってどういう事?」
 詩鶴の問い掛けに玲菜は微笑んだ。
「私の内側に入ってこられても嫌じゃなくなるくらい、その人の事を認められる事よ。認めていない人間に、ずかずかと勝手に内側に踏み込まれるのは吐き気がするわ。今それを許せるのは公大だけね」
「稲生さんって、そんなに難しく考えてるんだ。あたしはとってもシンプルなんだけどな」
「ふぅん。聞かせてもらえるのかしら」
「本当にシンプルよ。あたしにとって、人を好きになるって事は、その全てが欲しくなるって事なの。体も、心も。彼が持っている物も、彼が大事にしている物も全て」
「随分独占欲が強いのね。恐れ入ったわ」
「逆にあなたの考え方の方が、理解できないな。公大の全てが欲しい。それだけで良い筈だよ。好きになるって、それ以外に何か理由が必要なのかな」
 そう、相馬詩鶴は柏木公大の全てが欲しい。その体も、その心も、全部を手に入れたい。今露骨に露にしている敵意も、普通に付き合っているうちには決して見る事が出来なかった感情だ。そう思えば、疎ましさも嘆きもおぼえる必要などどこにあろう。
 それ以外の感情も理由も、好きになると言う行為においては不純物だ。不純物を必要とするという事は、つまり好きになる以外の目的がある筈だ。
「それとも――何か自分の中で、理屈付けが必要なの? 公大を好きになるために」
「それこそ考え方の違いよ。私はどうやらあなたと違って、理屈っぽいみたいだけど」
「それだけじゃないよね、稲生さん」
 詩鶴の目が、鋭く玲菜を射抜く。
 稲生玲菜を調べる上で、幾度となく耳にした噂とそれは、密接に絡み合っているという事だろう。
 舌なめずりをする思いで、詩鶴は玲菜の閉ざされた扉に手を掛ける。
「慣れない事をしてみせるのって、何より自分を納得させるのに一番努力が必要だもんね。例えば女の子しか好きになれない人間が、男を好きにならなきゃいけなくなるのって、大変なんじゃない?」
 詩鶴がその言葉を発した瞬間、玲菜の雰囲気が変わった。影を潜めていた敵意が鎌首を擡げて、詩鶴を睨めつける。
「ねえ稲生さん。あなたに対して流れている噂が本当なのかどうなのか、聞いてみても良いかな?」
「パスよ」
「ふぅん。あたしに都合の良いように判断しちゃうけどそれでもいいの?」
「勝手な解釈なら、お好きにどうぞ。パスがあるのに嘘をつくのはルール違反でしょ。肯定であれ否定であれその質問に答える事は、このゲームの枠を超えて、公大との関係に不利に働いてしまうもの」
 胸の下で組んだ腕から見える、玲菜の指先は僅かに震えていた。しかし答える声からは凛とした響きが失われていなかった。
 詩鶴は心の中で快哉を上げていた。
 素晴らしい相手だ。彼女と今こうして話している事が、掛け替えのない一時だ。
 それがゆえに、惜しいと思う。
 彼女自身も気づいていない、自らを閉じ込めている殻の存在がわずらわしい。解き放った生のままの彼女が、今の状況に向かい合えば果たしてどんな反応を示すのか。聡の殻を叩き割った時と、同じ喜びを味わえるのだろうか。
 詩鶴は壁に掛けられた時計を見やった。五限の予鈴まで後一分。幕引きには頃合の時間だろう。
「それじゃ、最後に一つだけ教えてほしいな」
 その言葉に、何か言おうとした玲菜より早く、詩鶴は続けた。
「稲生さんは本当に、公大の事を愛してる?」
 返事はすぐに戻ってはこなかった。息を呑んだ玲菜の視線が、一瞬だけ宙を彷徨った。
「それは……」
 やがて奥底から搾り出したような彼女の声に重なって、予鈴の放送が部室の中に響き渡った。
「残念。タイムアップかな」
「……そうみたいね」
「聞きそびれちゃった。もう少し早く聞いてみればよかったわ」
 悔しそうな表情を浮かべている玲菜を尻目に、詩鶴は立ち上がった。
 残念そうに呟く、詩鶴の言葉の半分は本心だった。しかしこれでいいと思う部分も同じだけある。答えを得られなかった、その事実が重要なのだから。これから後の稲生玲菜にとって。
「それじゃ、ね。稲生さん」
「……ええ。借りは必ず返すから」
「楽しみにしてるわ」
 後ろ手に別れを告げて、詩鶴は部室を後にした。