柏木亜里沙の機嫌は、朝からこの放課後に至るまですこぶる付きで悪かった。正確に言えば昨日の夜から、兄の株と抱き合わせのストップ安状態である。
「ねえ、亜里沙。あたしたち帰りに「カッパータブレット」寄ってくつもりなんだけど……どうする?」
「行かない。ケーキなら昨日死ぬほど食べたもん」
「そ、そっか。ねえ、その。何があったか分からないけど、あんまり思いつめない方がいいと思うんだけ、ど……」
「別に何にもないってば。うん。奈美には関係ない事だから気にしないで」
「う、うん。わかった。分かったから、もし気が変わったらメールして、ね?」
 後退るようにして退散していくクラスメートの姿を見て、亜里沙は深い溜息をついた。さぞかし今の自分はひどい顔をしているのだろう。だが取り繕った笑顔が泣きそうになるくらい怖いからやめてくれと友達に泣いて頼まれたのだから仕方がない。後のフォローが大変なんだろうなと、頭の奥がひどく痛んだ。
 それと言うのもこれと言うのも、全部お兄ちゃんのせいだ。
 目を閉じれば瞼の裏に浮かぶ兄の顔に、亜里沙は手加減無しのぐーパンチを叩き込んでいた。
 折角柚原さんが遊びに来てくれたのに、事もあろうに買い物に行かせるとは何事か。挙句にケンカして追い返すとは何たる非道。そんな事ならお兄ちゃんが自分で行けば良かったのに。亜里沙は声を大にしてそう言いたかった。
 それだけではない。人には常日頃から恋愛に関して父親のように口喧しかったくせに、自分は何をやっているのか。
 詩鶴さんはとてもいい人に見えたけど、男女の間だからそれは諍いの一つや二つあるのだろう。でも、別れて一週間もしない内に別の女の子と付き合うってのはどうかと思う。それも、よりによって稲生先輩とは。
 玲菜の事は、亜里沙も別に嫌いではない。兄の幼馴染だし、自分にも優しくしてくれる。ただ真偽の程は分からないが、同性愛者(レズビアン)という噂があるのがとても気に掛かる。向けてくれる優しさの裏に、何か含む所があるのではないかと勘ぐってしまうのだ。掛け値なしに美人な人だが、その気がない身としては御免被りたい。
 そもそも、何故今なのか。これまでもそういうチャンスがあったのに、どうしてこのタイミングで兄と彼女が付き合い始めたのかが分からない。伝わってくる噂を聞けば、詩鶴が兄を追いかけて転校して来たというから、決して円満な別れ方をした訳ではないのだろう。いや追いかけてくるのもどうかと、亜里沙としては思うわけだが。
 ともあれ状況だけを見れば、兄が玲菜と二股かけた挙句に詩鶴を手ひどく振ったように見えてしまう。
「何やってるのよお兄ちゃんは一体っ!」
 思わず叫んだ亜里沙は、勢い良く右手を机に叩き付けた。響き渡ったその声と鈍い音に、まばらに教室に残っていたクラスメートが何事かと彼女の方を振り向くが、正体を悟ると皆そそくさと明後日の方を向いた。
「……そんな人じゃなかった筈なのに。何なのよもう……」
 滲んだ涙で視界が霞む。留守がちな父親に代わって、何かと家の事を切り盛りしてきた兄なのだ。あんな顔立ちでも、誰よりも男らしい、自慢の兄だと信じていた。
 だけどこの数日、何から何までおかしすぎる。
 何より、どうして何も話してくれないのか。詩鶴と玲菜との関係もそうだが、どうして昨日、あんな殴りあうようなケンカを聡としたのか。日付が変わるまで問い詰めても「お前に話せる事じゃない」の一点張りだ。
 ケンカをするなとは言わない。兄が自分の気持ちを知っているのかどうかは亜里沙には分からなかったから、それを引き合いには出せない。それに男同士の関係の深遠など、亜里沙には想像も付けられない。
 だが、理由を隠されるのはとても腹が立った。
 自分が首を突っ込んでも解決できるか分からない。それでも、妹にも話せない事情など、存在するのか。
「……結局、わたしって未だに役立たずの子供に思われてるのかなぁ」
 亜里沙は机に突っ伏して、消え入りそうな声で呟いた。顔も似ている上にたった二つしか違わないのに、そんな扱いなのが何よりも悲しい。
「あの、亜里沙?」
 そこに、おずおずとした声が背中から掛けられた。
「……なぁに?」
 突っ伏したまま肩越しにそちらを見るとと、クラスメートの女子がびくりと体を震わせる。そんなに怖い顔に見えたのか。心の中で溜息をついた亜里沙は、よろよろと体を起こして振り返った。
「ごめん、ちょっと考え事してた。で、何?」
「え、と……廊下で亜里沙の所、呼んでる人が。三年の人だと思うんだけど」
「え?」
 呟いて、そちらを見た亜里沙は硬直した。
 人付きのする笑みを浮かべて、片手を上げている。柚原聡が教室の入り口に立っている。
 事態を認識するまで、三秒掛かった。認識から行動までは、その十分の一だった。蹴り倒しそうな勢いで椅子から跳ね起きると、亜里沙は彼の元へ駆けよっていた。
「ゆ、ゆゆゆゆゆ柚原さんっ!?」 「やあ、元気そうで何よりだね」
「ど、どどど、どうしたんですか急にいったいこんな所にっ!」
「いや、ちょっと亜里沙ちゃんと話したい事があったんだ。あ、でももし用事とかあるならいいよ? 押しかけたのはこっちだし、出直すからさ」
「無いです! ありません! 五秒だけ待ってください、すぐに帰り支度しちゃいますから!」
「あ、そんなに時間はかからな……」
 聡が言い終えるよりも早く、自分の机に取って返した亜里沙は、一切合財カバンに詰め込んで、疾風のように舞い戻る。
「す、すいませんでしたお待たせして」
「あー、うん。大丈夫、全然待ってないから」
 苦笑を浮かべた聡は、親指を立てて外に出るジェスチャーをした。
「ちょっと、落ち着いて話できるところに行こうよ。ここじゃ何かと迷惑かかるだろうし」
 もちろん、亜里沙に断る選択など、あろう筈が無かった。




 本校舎から部室棟へと抜ける渡り廊下は、左右に桜の木々が植えられている。春には満開の花を咲かせ散らす、この学校の名物の一つであるここは、鑑賞のためにいくつかベンチが備え付けられている。
 その一つに腰掛けた亜里沙は、高鳴る心臓の音が伝わりはしないか、気が気でなかった。
「ごめんね、こんな場所で。部室も空いてるんだろうけど、あんな男臭い場所に亜里沙ちゃん入れるのもどうかと思うしね」
「い、いえ! そんな事ありません! わたし、花の付いてない桜も大好きですから!」
 やたら早口になる彼女の隣には、聡が座っている。
 顔をまともに見る事が出来なかった。後ろを付いて歩いている時から既に、口から心臓が飛び出しそうだった。だってそうだろう。好きな男とこうして二人でいれば、女の子ならば誰だって同じ状態になるに決まっている。
 初めて彼が家に遊びに来た時、亜里沙はまだ小学五年生だった。ゲームや漫画の話に興じている公大と聡の間に割って入っては、邪魔者扱いされつつも構ってもらう。そんな日常が鮮明な記憶として残っている。
 兄が柔道を止めた後も、聡との友達付き合いが続いてくれた事は、亜里沙にとって本当に嬉しい事だった。「優しくて大きな、お兄ちゃんの友達」が「気になる人」へと変わり始めたのもこの頃だった。もっとも、二学年の違いと言うのはなかなかに大きい壁である。互いが忙しくなれば、毎日のように遊びに来る事も出来なくなる。また亜里沙自身も同学年の友達や言い寄る男子生徒の相手に忙しくなり、聡と話す機会も稀になっていた。
 だが、この春に同じ高校に合格し、再会した瞬間、亜里沙の中でくすぶっていた炎に、確かに火が付いたのだ。
 もう迷わない。
 絶対に、この気持ちを伝えたい。
 彼女がそんな決意を固めたのがつい十日ほど前。
 状況は有利な筈だった。調べた限りでは聡に彼女の影は無かったし、兄との友達付き合いも続いている。
 このチャンスを生かせなければ、一生後悔する。そう思っていた矢先の、昨日の事件である。あの躓きっぷりにもう駄目だ閉ざされたと思っていた門が、今音を立てて開いている。
 今度こそ。
 心の中で固く拳を握り締め、万感の決意を込めて亜里沙は聡に向き直る。
「あ、あの。柚原さん……!」
「ん?」
「き、昨日は本当にごめんなさい! その、お兄ちゃんが……」
 こんな台詞から入らなければならない事が、どうしようもなく欝だった。
 一瞬目を丸くした聡は、すぐに声を出して笑う。
「そんなの亜里沙ちゃんが気にする必要ないよ。あんなの、じゃれあいみたいなもんだからさ」
「でも、柚原さん怪我してたのに……って、今日は包帯されてないみたいですけど、大丈夫ですか?」
「頑丈なのが僕のとりえだよ。大体医者も大げさなんだよね。大した事ないってのに診断書まで出されたから、今週一杯は部活も出来ないよ」
 肩をすくめる聡の姿に、亜里沙はほんの少しだけ安心した。半分以上はこちらを気遣っての言葉なのだろうが、それでも大きな怪我をしてなかったのならそれに越した事はない。
「亜里沙ちゃんは優しいね。うちの家族にしろ部活の仲間にしろ、ひどいもんだよ。腕折って三角巾で吊ってみせても「熊みたいなナリして何人間の真似してるんだお前は」とか「骨折なんか紳士の嗜みだ!」とか言い始めるからね」
「そんな、熊だなんて。確かに柚原さんは体も大きいですし、柔道も強いですけど」
「まぁ、そう言ってもらえるのはうれしいな。体格ばかりは親からの授かり物だしね。感謝してるんだ。ヒロにも良く羨ましがられたしね」
 公大の名を渾名で呼んで、悪ガキめいた表情を浮かべる。あんな事があっても、ちゃんと兄の事を大事に思ってくれている。亜里沙は聡に対する自分の気持ちは、間違ってないのだと思う。
 だが出てきた兄の名前が、彼女に刺さっていた棘を意識させた。
「あの……すいません、柚原さん」
 ただの小さなケンカだったと、聡自身も言っている。だがそれなら何故、兄は具体的な内容を何も言わないのか。普段ならそれほど気に留めない事も、ここ数日の公大の不審な行動が、亜里沙の心に重くのしかかる。
「お兄ちゃん……何かあったんでしょうか」
「ん?」
 だから亜里沙は、気づけば心の中の錘を言葉に変えていた。
「そ、その。ここ数日、なんかお兄ちゃんずっとおかしな感じで。詩鶴さんとも本当の所、一体どうなってるのか分からないですし。ひょっとして柚原さんなら、何か知ってるかなって……」
「あらら、なんか質問攻めだね今日は」
 苦笑する聡の姿に亜里沙は、彼の方が話があるから一緒にいるのだという事を、今更ながら思い出す。
「い、いえ、ごめんなさい! 柚原さんの方がお話ししたい事あった筈なのに、こんな事聞いちゃって! その、忘れてくださって構いませんから!」
「いや、構わないよ。僕が今日亜里沙ちゃんと話したかったのも、その事に関係してるからね」
「え?」
 聡の表情に、一抹の陰が差し込んだようだった。亜里沙の顔をじっと見つめて、聡は再び口を開く。
「亜里沙ちゃんはさ、稲生玲菜さんの事をどう思う?」
「稲生先輩、ですか……?」
 唐突に出てきたその名前に、亜里沙は怪訝な表情を浮かべた。
「うん。ヒロの小学校時代からの友人だと言うのは良く知ってるけど、彼女自身の事となると僕もそれほどに詳しいわけじゃない。でも亜里沙ちゃんは良く知ってるんだろう?」
「う、ん……どう思うかと言われると。昔からよく勉強を見てもらったりもしましたし、色々相談にも乗ってもらいました。その、今は色んな噂が流れてる人ですけど、悪い人じゃ絶対にないと思うんですが……」
 言葉を選んで喋ったつもりだったが、抱いている思いがどうしても端々に表れてしまう。眉を寄せて、そう呟いた亜里沙の言葉に聡は頷いた。
「僕の抱いてるイメージも、亜里沙ちゃんと一緒。噂なんて無責任なものだし、どこまで本当の事を言ってるのか分かりはしないからね。だから、彼女はきっといい人なんだと思うんだ。でも……」
 言い掛けて、聡は思いなおしたように声を噤む。言うべきか、言わざるべきか。深く悩んでいるその姿に、亜里沙は思わず言った。
「大丈夫です。その、今日話してる事はわたしと、柚原さんの秘密です。絶対に誰かに言ったりとかしませんから!」
 渡り廊下を通り過ぎる人影はまばらで、誰も足を止めて二人の会話を聞いているものはいない。今この時間、彼女と聡の会話を知る物は、二人以外にはいない。秘密を共有する。その言葉の響きが、亜里沙の心をひどく擽った。
「……うん、分かったよ、亜里沙ちゃん。これは僕と、君の二人だけの秘密で、約束だ」
 彼女の言葉に一つ力強く頷いた聡は、そっと亜里沙の側に体を寄せた。
 あまりにも高鳴る心臓に、一瞬彼女の息が止まった。声にならない悲鳴のような音が小さく彼女の口を付き、そのまま硬直してしまう。
 何かつけているのだろうか、爽やかな香りが亜里沙の鼻を擽る。掘りの深い、力強い聡の顔立ちが目に焼きついて離れない。
「稲生さん自身がいい人でも、彼女の存在の全てが、今のヒロにプラスになってるとは思えないんだ」
「は……はい……」
 まるで耳元に囁かれるような距離で言われたその言葉に、ゆっくりと亜里沙は頷いていた。ただ、嬉しさで高揚しているだけではなかった。聡のその言葉は、亜里沙自身も思っていた事だからだ。
 詩鶴と別れたらしい事。聡とケンカをした事。最近は兄の側にあまり姿を現す事が無かった玲菜が、今はべったりと張り付いている。それら全てが、聡の言葉で一本に繋がった気がした。
「お兄ちゃんは稲生先輩と一昨日から付き合い始めたって……でも、そんなのおかしいと思うんです。あれだけ一緒に居たんだから、いくらでも付き合う機会があった筈なのに、どうしてこんな急に、なのか。わたしにも全然話してくれないし」
「そうだね。ヒロは少なくとも、亜里沙ちゃんに隠し事をするような男じゃなかった。何か、どうしても言えない事情があるのかもしれない」
「事情、ですか……」
「もちろん、詳しい事は分からないけど。でもそれは、きっとヒロにとってもプラスになってないと思うんだ」
 力強く、言い聞かせるように。
 聡の言葉に、自然と亜里沙も頷いていた。
「突然頑なになる必要なんか無いんだ。でも、お互い少しづつで良いから、ヒロの事を守っていかないか。このままあいつがダメになる前に、さ」
「は、い……」
 亜里沙が答えた瞬間。
「てめえ、何してやがるっっっ!」
「っがぁっ!?」
 突然、聡の姿が亜里沙の視界から消えた。
 聞き覚えがあって、今聞きたくは無い。そんな声が聞こえた気も、した
 ベンチから姿を消した聡は、亜里沙の視界の端で、ごろごろごろと三回廻って地面にはいつくばっている。ぴくぴくと体を震わせているが、起き上がってくる気配が無い。
 呆然として逆方向を見ると、足を蹴り上げたままの体勢で、肩を震わせた公大が、荒い息を付いていた。
「公大、公大! あんた待ちなさいって……って……あー……」
 更にその向こうでは、こちらを見つめた玲菜が呆然と立ち尽くしている。足を止めた他の生徒も、何事かとざわめき始めていた。
 えーと。
 あまりの事に凍りついたままだった亜里沙の脳がようやく動き出し、ゆっくりと状況を整理していく。
 整理して、そしてとりあえず、何をしなければいけないのかだけは導き出す事が出来た。
「大丈夫だったか!? 怪我ないか、亜里沙。何かされたりとかは……」
 無言で立ち上がった亜里沙は、足元においていたバッグの取っ手を固く、固く握り締める。
「お……」
「お?」
「お兄ちゃんのばかぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 向き直ってきた公大が、心配そうに彼女を見つめている。
 その顔に、全力で彼女は鞄を叩きつけていた。







「なあ、亜里沙」
 公大の呼びかけに、返事はない。
 いつもと変わらない、ダイニングテーブルに二人向かい合った夕食の席だ。いつもなら笑顔を交えた軽口が飛び交うこの場所は、しかし今は不気味な沈黙が支配していた。手の止まっている公大を尻目に、すさまじい勢いで食卓を侵略していく亜里沙の箸の音だけが響いている。
「……なあ、亜里沙」
 もう一度呼びかけたが、やはり返事はない。ただ、箸だけは止めて亜里沙はじっと公大の顔を見つめていた。赤く充血した瞳で刺し貫かれ、思わず公大はたじろぐ。
 とっとと黙って食べてちょうだいお兄ちゃん。
 視線は有無を言わさぬ圧力で、公大に迫ってくる。屈した彼は目の前に並ぶ料理に目を落とした。
 コロッケに味噌汁にポテトサラダ。いたって普通の夕食のメニューだ。普通に作られていれば。
 どうやって作り上げたのか、半ば炭化したコロッケには中身が入っていない。添えられたキャベツも千切りどころか、四分の一分割された物がそのまま皿に置かれている。その隣に並ぶトマトも、丸々一個が自己主張。味噌汁はご丁寧に味噌をお湯で溶いただけの物であったし、ポテトサラダにいたっては、ただ茹でられたジャガイモが丸々一個置かれているだけだ。挙句、白い湯気を上げているのかと思ったご飯は、冷凍庫でカチカチに凍らされた物だったりする。白くても湯気と冷気では随分と趣が異なる。異なりすぎる。
 間違いなかった。
 完璧に、一片の隙も容赦もなく、亜里沙の怒りは頂点に達しているようだった。
 今までも喧嘩をした事はしょっちゅうだ。しかし、ここまで徹底的に怒った亜里沙を見たのは、ちょっと公大の記憶にもなかった。
 もちろん公大にだって、言いたい事はある。あるのだが。
 仕方ない。
 心の中で溜息をつき、肩を落とした公大は、両手をテーブルに突く。
「本当に申し訳ありませんでした亜里沙さん」
 全面降伏だった。犬が腹を見せて寝そべり、鯉がまな板に上がるかのごとく、もう徹底的に。
「本当に悪かったと思ってる。反省してる。だからこう、せめて会話をしたいんだ、が……」
「…………悪かった、ですって?」
 初めて、亜里沙の口が開かれた。漏れ出た声は、まるで地獄の底から響いているかのように低く冷め切ったものだったが。
 彼女が箸をテーブルに置いた音が、甲高く響き渡った。十三階段を上る時の自分の足音は、こんな風に聞こえるんじゃないだろうか。唐突に、公大はそんな事を思った。
「ねえ、お兄ちゃん」
「お、おう……」
「反省してるんだ? 自分のやった事、悪かったって思ってるんだ?」
「ああ。正直あれはやりすぎたって……」
「反省だけなら、日光の猿にだってできる筈だよね。ねえ、お兄ちゃんにあんな事されて、わたしこれからどんな顔して柚原さんに会えばいいのかな?」
 淡々と呟く。その言葉があまりに重たく、痛い。
 返す言葉が、公大には思いつかなかった。そもそも、もう会う必要なんかないんだと、言ってしまえればどれだけ良かったか。だが彼女の態度も状況も、公大の弁解など許しも求めてもいなかった。
「お兄ちゃんがお兄ちゃんじゃなかったら、家から叩き出して顔も見たくないって言えるんだけど。でも、一応聞かせて。どうしてあんな事をしたのか、わたしが納得できる理由なんだよね?」
「……それは、だな」
「ね?」
 身を乗り出した亜里沙が、上目遣いでじっと公大の顔を見上げる。常ならば可愛らしいと思える仕草だったが、今はかなり状況が異なっている。公大の頬を、冷たい汗が伝った。答える言葉次第では、そのまま首を掻っ切られるんじゃないかと思うくらい殺気に満ち溢れているのだ。なにせ視界の端にはテーブルナイフが写っているし。
「その、な。頼むから、落ち着いて聞いてくれよ、亜里沙」
「そんなの当たり前じゃない。わたしは冷静だよ?」
「ならせめて、じりじりとナイフに手を寄せるのを止めてくれ。話すから。一から全部話すから」
「うん、じっくり聞かせてね」
 妹の笑顔がこれほど怖いと思った事は無かったが、生唾と共にそれを無理やり飲み下し、公大は口を開いた。
「あのな、一昨日だったか? お前、俺に聞いたよな。聡の奴に好きな子はいるのかって」
「うん、聞いたね」
「あの時、俺、言ったよな。あいつ、好きな奴いるって」
「言ったね。誰の事なのかは教えてくれなかったけど。で、それとお兄ちゃんが柚原さんに飛び蹴りかましたのって、一体どんな関係があるの?」
「……いいか、落ち着けよ。頼むから、落ち着いて聞いてくれよ」
 言わずに済ませて置ければ、どれだけ良かったか。今この瞬間も、適当に誤魔化すべきだと言う誘惑が、公大の頭の中を巡っている。だが、嘘がどうしようもなく下手だと玲菜にも指摘されているのだ。ここでいい加減な事を言ったら、本当に愛想をつかされかねない。まだつかされ切ってないという、夢くらいは見たかった。
 だから学校の屋上から、ロープ無しで飛び降りるくらいの覚悟を決めて、公大は言った。
「そのな……その相手って、俺、なんだ……」
 きょとんとした顔で、亜里沙はその言葉を受け止めていた。
「多分、信じられないと思うけど。でも事実なんだ。あいつは面と向かって、俺が好きだとか言いやがった。三日前の日曜日に」
 冷や汗と、自分の言葉の恥ずかしさが公大の口を三倍速で回していく。当たり前だと思った。何が悲しくて男に告白されたなんて妹に話さなければならないのだ。
 だが一度口にしてしまえばもう引き返せない。公大はじっと亜里沙の目を見つめて、続けていく。
「もうこの際だから全部話すぞ。いいか、俺が詩鶴と別れたのは、聡の奴が詩鶴と浮気してたからだ。俺には何がどうなってそういう結論になったのか分からないけどな、一緒ならいいよとかそんなわけの分からない理由で、詩鶴は聡と手を組んで俺の尻狙ってやがる。だから俺は玲菜に相談して、全力で逃げ回ってる最中なんだ」
「……お兄ちゃん」
「ああ、ここん所ずっと聡と険悪だったのはそれが原因なんだよ。別にあいつが俺に告白してきただけだったら、そらビビるけど別に喧嘩なんかしねえし。でもな、あいつは事もあろうにお前を利用しようとしてきた。お前が聡を好きだって気持ちまで利用して、俺にちょっかい掛けてきようとしたんだ。だから昨日は玲菜と二人でぶん殴ったし、今日だって、お前と二人きりでいるのを見たから思わず蹴り飛ばした。そりゃどうしようもなく乱暴な手段だったってのは確かだけど、それでも、ただむしゃくしゃしてただけだとかそんな理由じゃないって事だけは分かってくれ、頼む!」
 一気にまくし立てた公大は、肩で息をしながらじっと亜里沙の顔を見つめた。最初は呆けた表情だった亜里沙も、今は険しい目つきでその視線を受け止めている。
「…………ねえ、お兄ちゃん」
 ゆっくりと口を開いた亜里沙から、ひどく冷めた声が漏れ出る。
「何? まとめるとさ、柚原さんがゲイで、そのくせ詩鶴さんと浮気してた? 詩鶴さんは詩鶴さんで、お兄ちゃんと柚原さんと三人でシたがってる? それで柚原さんはお兄ちゃんに近づくために、わたしと付き合おうとした?」
「ああ、そういう事に……」
「信じて欲しければ、せめてもっとまともな嘘ついてよ!」
 吐き捨てるように言った、その言葉と同時だった。亜里沙の手がテーブルの端の水差しを掴み取り、勢いよく公大の頭めがけて引っくり返した。
 ああ、そりゃそうだよな。
 心の中で公大は、がっくりと崩れ落ちた。ぽたぽたと水が滴り滲んだ視界が揺れる。ついに何かが切れたらしい亜里沙に襟元を引っつかまれ、公大の頭が上下に揺さぶられる。
「ねえ! わたしがそんなに誰かと付き合うのがいけない事なの!? そりゃお兄ちゃんからすれば心配なんかもしれないけど! でもわたしだって誰かを好きになってもいいじゃない! 何がいけないの!? 何でそんな訳の分からない嘘まで付かれて邪魔されなきゃいけないのよ!」
「ちょ、ま、待て……亜里沙、首、入って……!」
「いい! お兄ちゃん自覚ないかもしれないけど、わたし今までだって邪魔された事あるんだからね? せっかく勇気出して家に連れて来た男の子が、事もあろうにお兄ちゃんの事女の子だと勘違いして惚れたとか言い出された時の悲しみって分かる!?」
「いや、それ……こ、お、れのせい……違……」
「お兄ちゃんのせいなのよ! そんな顔して生まれてきたのが悪いんだからっ! 挙句今回までそんな理由で邪魔されるっていうの!? もう知らないわよ! もういい加減にしてよぉっ!」
「ま……し、死ぬ……本気で、やば……」
 朦朧とし始めた意識の中で、公大は救いの手を伸ばすが、受け取るべき唯一の人物は、激昂したままなおも彼の首の辺りを締め上げ揺さぶっている。
「もういいわよ! もうそんな勝手なお兄ちゃんなんか死んじゃえばいいんだーっ!」
「は、や……ありさ……ほんとう、だめ……」
 結局亜里沙が我に返るまでの数分間、公大の意識は彼岸と此岸を嫌と言うほど往復する羽目に陥ったのだった。




 空気が美味い。
 亜里沙の手から解放された公大は、リビングのソファに寄りかかって、生の実感を深呼吸と共に噛み締めていた。
「…………ふん」
 そんな彼の姿に、テーブルを挟んだ反対側でそっぽを向いた亜里沙は鼻を鳴らす。怒りは解けていない所か、ますます燃え盛っているようだった。
「……いやまぁ。お前が怒るのも無理ないと思うけど。でも、さ。頭の片隅でもいいから、俺の話した事を覚えておいてくれよ」
「知らない」
「……その、な。別に俺はお前が誰かと付き合うのが嫌だとかそんな事言ってるんじゃないぞ? 聡相手だって、十日前なら応援してやれた。でも、今は駄目だ。お前が今そうやって俺の所を嫌うのは仕方ないけど、でも、頼むから聡に近づくのだけは止めごふぁ!?」
「勝手な事ばかり言わないでよ!」
 公大の言葉は、投げつけられたクッションで遮られた。怒りに染まった甲高い声で、亜里沙は彼に向かって叫んだ。
「同じ事、柚原さんも言ってたんだからね! 最近のお兄ちゃんはどこかおかしいって! 妹のわたしから見てもそう思うくらいなんだよ? そんな相手と柚原さん、一体どっちが信用できるのかなんて分かりきってるでしょ!」
「お前、だからそれは聡の手なんだって!」
「うるさいうるさい! わたしにばかり口うるさく言ってるくせに、自分はあっちにふらふらこっちにふらふら。そんなお兄ちゃんと柚原さん、一体どっちが信用できるって思ってるのよ馬鹿!」
「あっちにふらふらって……だからそれは詩鶴がだがあっ!?」
 ひりひりする痛みに顔をしかめて、言い返した公大の顔面に二発目が直撃した。
「百歩譲ってお兄ちゃんが詩鶴さんと別れたとしてもだよ!? その舌の根も乾かない内に稲生先輩と付き合ってるなんて言うからでしょ! それなら最初から稲生先輩と付き合っておけば良かったじゃない! 十年も一緒にいたくせに、今更そんな事言い出す方がおかしいのよ!」
 声と一緒に、三発、そして四発目のクッションが公大に向かって投げつけられる。それを右手と左手で払いのけた瞬間、絶妙のまで飛んできた五発目がまた顔面にぶち当たる。
「ぐぁぁぁぁぁぁ…………お、前、電話帳は……それも角……」
 目から星が出るほど痛かった。
 直撃したおでこを押さえて、公大はうつ伏せに丸まって悶絶した。その背中を、駆け寄ってきた亜里沙がソファでばしばし叩き続ける。
「稲生先輩が学校でどんな噂流れてるか、知ってるでしょ!? 本当に同性愛者なのかどうかわたしは分からないけど、そんな先輩と真面目に付き合ってるなんて、お兄ちゃん、どんな目で見られてるか分かる!? ただお互い、マニアな遊び好きだって思われるだけじゃない!」
「亜里沙……まて、おい、亜里沙……」
「別れてよ! わたしに柚原さんと会うなって言うなら、お兄ちゃんだって稲生先輩と別れるのが筋じゃない! そうして、落ち着いて、ここ数日の自分の行動考え直して柚原さんと仲直りしてよ!」
 容赦なく背中を叩き続ける亜里沙の声が、くぐもりだしていた。公大から顔は見えなかったが、どんな状態なのかは想像がつく。
 そんなに好きだったのかよ。
 妹の想いの深さを物理的に見せ付けられて、公大は心臓が握りつぶされるような痛みを味わった。十日ほど前に、詩鶴と聡の現場を見た時も胸が張り裂けそうに痛かったが、今の痛みはその比ではなかった。
「ねえ、聞いてるの!? 聞いてるなら答えてよ! ねえ!」
「聞いてる……答えるから、答えるから手を止めてくれ」
 搾り出す自分の声も震えてる気がする。降参するように手を差し出す姿を見て、亜里沙も叩き続けていた手を止めた。
 深い、深い溜息をついた公大は起き上がって、亜里沙と向き合う。クッションを握り締めたままの彼女の両の頬には涙の後があり、目は赤く染まっていた。リボンでツインテールに結んだ髪型が年よりやや幼さを感じさせる顔立ちだが、そうして涙に濡れた表情は、ずっと幼くか弱く見えた
「……お前を巻き込むつもりはなかったんだ。そんな風に、泣かせるつもりはなかった。だからそれは謝る。すまなかった、亜里沙」
「いらないわよそんなの! 口ではなんとだって言えるじゃない!」
「そうだな。だけどあえて言うぞ。お前のその頼みは、聞けない」
「な……っ!」
 鼻白んだ亜里沙が、腕を振り上げる。それが振り下ろされるより早く、公大の手が彼女の手首を掴んでいた。
「話し終わったらいくら殴ってもいいから。だから今だけは、俺の話を最後まで聞け、亜里沙」
 歯噛みして腕を振り解こうとする亜里沙だったが、公大のその言葉に、ゆっくりと腕から力を抜いていった。睨みつける鋭い視線だけは変わる気配もなかったが。
 その姿に苦笑交じりの微笑を浮かべて、公大は手を離すと続きを話し始める。
「俺は、聡と仲直りは出来ない。ただあいつが詩鶴と浮気しただけなら、表面上くらいは取り繕えたかもしれないけど、今は絶対に無理だ。あいつは、俺を手に入れるためにお前を利用するって言ったからな。直接関係のない、お前の気持ちを踏みにじるって、はっきりと言ったからな。だからそんな奴とまた友達付き合いなんか、出来るわけがないし、お前にも付き合って欲しくないって思ってる」
「……それで、稲生先輩と付き合うのを止めないってのはどうして?」
「あいつが俺を守るために、一番取れない筈の手段を選んでくれたからだよ。噂の真偽がどうこうだなんて、俺の口からは言えない。でもな、そうやってあいつが積み重ねてきた物を、俺と男女の付き合いするって事で全部崩しかけてるんだよ」
「……なんで稲生先輩がそこまでするのよ。全然関係ない話じゃないの?」
「そうだよ。本当は何も関係がなかった筈なのに、玲菜は自分から進んで足を突っ込んで、そんな面倒を引っかぶって俺を守ろうとしてくれてる。そんな相手を裏切れねぇよ。だから、あいつと別れる事も出来ない」
 公大はゆっくりと頭を振って、続けた
「お前は多分、俺から話を聞いただけじゃ信用できないってのは分かる。聡に聞いたって本当の事なんか言うわけないからな。だけど、これだけは覚えておいてくれ。俺も玲菜も、お前を傷つける気も意地悪する気も欠片もないぞ」
 亜里沙は無言で、公大の顔を見ているだけだった。伝わっているかどうかは分からなかったが、公大に出来るのは、ただ、偽りない気持ちを言う事だけだった。
「ここ数日確かに俺は焦りまくって、色々迷惑を掛けてしまったと思う。それは本当に悪かったと思ってる。だけど、ケリがつくまではこの状態は続くと思うし、聡や、ひょっとしたら詩鶴もお前にちょっかい掛けてくるかもしれない。だからその時は、落ち着いて俺か玲菜に相談して……」
 だが、最後まで公大は言う事が出来なかった。
 乾いた音が、リビングに響き渡る。
「勝手にしてよ! もう知らないわよ! わたしも勝手にするから!」
 立ち上がった亜里沙は、そう吐き捨てると、足音を響かせて二階へと駆け上がって行ってしまう。
 取り残された公大の口から、深い、深い溜息が漏れた。
「……まぁ、こうなるよなぁ」
 赤く腫れあがった頬に、そっと手をなぞらせた。首を絞められた時よりも、クッションや電話帳を投げつけられた時よりも、今一度張られた頬が何よりも痛かった。




"本当、不器用なのねあんたってば"
「他にどうしようもないだろうが。笑いたきゃ笑え」
 電話の向こうの玲菜の表情が、手に取るように分かる。携帯電話を握り締めて、公大は唸った。
"笑わないわよ、別に。感謝してるくらいよ?"
「あ?」
 分かるつもりだったが、今回は違ったらしい。思わず問い返した公大の耳に、随分と真面目な玲菜の声が伝わってきた。
"正直あれだけ派手に嫌われれば、そう言う事言われるの分かってたし。むしろ、あんたの方から関係解消の申し出が来るもんだと思ってたくらいなんだけど"
「あのな、解消も何も、聡も詩鶴もこれから本番って勢いで攻め立ててくるの目に見えてるじゃねぇか」
"別に良いわよ? 知恵も手も今まで通り貸してあげるわ。そういう条件をもし出したなら、恋人設定解消したいとか思ったりする?"
 冗談を言う声色ではなかった。本気でそう提案しているように、公大には思えた。
「アホ、その手に乗るか」
 だからこそ、その口元をにやりと曲げて、からかうような口調で公大は言う。
「お前に傷だけ負わせて、いいとこ取りなんてそんな事出来る訳ねぇだろ。第一そんな事もし俺が言い出したら、お前に心底軽蔑されそうで、そっちの方が怖いっての」
"ふぅん。なんだ、思ったよりテンパッてないのね。つまんないの"
「テンパりまくりだよ。手配全部危険牌なんじゃねぇのかってくらいテンパッてる。亜里沙にこの後何て言って機嫌治してもらえば良いのか、想像もつかねえ」
"……あらあら。それでも私の方選んでもらったんなら、随分と光栄な話じゃない"
「感謝しろよって言うか、感謝してる。だから全部終わるまで、よろしく頼むわ」
"ふふ、あんまり殊勝な言われ方するとこそばゆいわ。ひょっとしてあんた、本気で私に惚れてきたんじゃない?"
「ねーよバカ」
 耐え切れず吹き出した公大の耳に、遅れて玲菜の笑い声も届いた。いつもどおりの彼女の態度に、どこか胸を撫で下ろしている自分がいる事に、彼は気づいた。
"じゃあ、殊勝ついでにもう少しばかり覚悟を決めておいて貰いたいんだけど"
「うん?」
 そう、玲菜は普段と変わらない。
"今度の日曜日、デートしましょう。
「…………は?」
"二人きりで、ラブラブでよ? 周りに見せ付けながら、じっくりとねー"
 こと彼を慌てさせる術は、いつでもどこでも知り尽くしているのだった。