■ 4 ■




 うぜえ。死ね。女たらし。帰れ。女男超キメエ。女の敵。調子こいてんなカス。
 机上に踊る前衛アートの数々に、登校してきた公大は嘆息した。読み取れるだけでもそれだけあるのだ。実際はどれだけ書かれているのか想像するのも馬鹿らしい。机の中の物を毎日持ち帰る習性だったのは幸いだったかもしれない。机の配置が変わってなかった事には感謝すべきなのだろうか。
「俺の私物じゃねぇってのにな。誰だ油性で書いた馬鹿は……」
 洗面台の下のクレンザーで落ちると良いんだが。放課後までに一手間増やされた事に顔をしかめて、公大は教室中を見回す。露骨に視線を避ける者や、今にも殴りかかってきそうなほど敵意を見せてる人間はそんなに数多くはなかった。せいぜい全体の一割か二割と言った所か。我関せずの空気が七割。少なくとも視線をそらしたりはしないのが一割前後。
「……まぁまぁ、上等な方じゃねえかな」
 呟いた公大は、小さく肩を竦めた。
 詩鶴の来襲から五日が経っている。それでも現状はまだマシなのではないか。そう公大は思っている。少なくとも問答無用で暴力を振るわれる気配はないのだから。詩鶴が手を回しているのか、そこまでする程にはタガが外れていないのか。後者だと思っておきたかったが。
 突き詰めればこれは柏木公大と相馬詩鶴、そして稲生玲菜の犬も食わない色恋沙汰である。詩鶴が最初からずっとこの学校の生徒であればまた話が違っていたかもしれないが、この日数ではさすがに彼女の手練手管にも限界があると言う事だろう。
「……っても、あんまり長引かせも出来ないだろうなぁ」
 公大は机に突っ伏すと、力の抜けた声で呟いた。
 玲菜との作戦が上手く言ってるのかどうかは、この机の惨状を見れば怪しい限りだ。しかしもし彼女が協力してくれていなければ、この敵意は無責任な祝福に変わっていた事は間違いない。敵意に敵意で返すのは簡単だが、善意に敵意では返せない。真綿で首を絞めるがごとく、一週間後にはクラスの中で結婚式まで上げさせられる羽目に陥っていたのではないか。
「……最悪だ、畜生」
 薔薇色に奈落な未来予想図に、公大は体を震わせた。しかしこのままでも、待ち受ける地獄が一週間先から一ヶ月先に伸びているだけな気がしてならない。完全に敵と敵に分かたれた聡が詩鶴と連携してくるのかどうかも分からないし、大事な妹とは完全に冷戦状態だ。
 八方塞がりの状況でもし光明があるとしても、そこに自分ひとりでは絶対に辿り着けない。そんな情けない確信が公大にはある。
 それにしても。
 ――小学校の頃の玲菜も、毎日こんな気分だったのかね。
 彼女を仲間と認識した頃、放課後必至に自分の靴を探していたあの弱々しい少女の顔を彼は思い出していた。数年越しに貸しを清算してもらう事になろうとは、二週間前は思いもしなかったわけだが。
 公大の口を飛び出た溜息に合わせるように、教室の空気が変わる。女子の悲鳴にも似た歓声と挨拶。今にも尻尾を振りそうな、男子の声。顔を上げなくても、教室の主役の登場だと言う事が分かった。
「うん。皆、おはよう」
 明るく笑顔と愛想を振りまいているだろう詩鶴の足跡が、公大の側まで来て止まる。
「おはよう、公大」
「……おはよう、詩鶴」
「昨日は大活躍だったね。あたしも公大の飛び蹴り、見てみたかったな」
「ああ、耳の早い事で。銭取れるような演舞とはいかなかったけどな」
「ふふ、結構人が居たんだもん。あっという間に噂になって、広がってるよ。今の公大、有名人なんだから」
 朗らかな詩鶴の声にも、公大は顔も上げなかった。正直、今彼女の顔を見たいとは思わなかった。
「もっと自分に自信と自覚、持ってほしいな。あたしの好きな人なんだから」
「誰のお陰でこうなってるんだろうな。ありがた迷惑の生きた見本だっての」
 公大の声に、彼の周りのクラスメートが顔色を変えるが、誌鶴が側にいるからだろうか、直接何かを言う事はなかった。詩鶴もそれが当然だという様子で、声色に変化はない。ただ、身を屈めて彼の耳元にそっと口を寄せて、囁く。
「柚原君、相当怒ってるね。昨日散々、電話でまくし立てられちゃったよ」
「それこそ俺が知るかよ。奴が自分で種撒きやがるから、俺が踏み潰してるだけだ」
「そう、もう公大にとって、彼はどうでもいいんだ?」
「どうでも良いってか、敵だよ。お前と一緒」
 何か納得した様子で言う詩鶴に、疲労交じりの声で公大は答えた。今更上辺だけ取り繕って彼女の相手は出来ないし、話せば話すほどに立場が悪くなっていくのだから当然だろう。それも詩鶴の狙いなのだと考えるだけで、こめかみの辺りがひどく痛んでいく。
「ね、公大。机、ひどい事になってるみたいだね」
 不意に変わった話題に、何か嫌な予感がして公大は思わず顔を上げる。詩鶴の口元に不吉な笑みが浮かんでいる気がして、彼の表情が引きつる。
「気にするな。いや、気にしないでくれ頼むから!」
「ねえ、どうしたの公大、その机!」
 公大の言葉を無視して、慌てた様子を作った詩鶴の叫び声が教室中に響き渡った。
「いや、だから……」
「ひどい、一体誰がこんな事したの……」
 言葉を失い、教室中を見渡す詩鶴の動きが、いっそ見事だと公大は思った。その後に続く、何人かのクラスメートのざわめきと慌しい行動に至っては、出来の悪いコントを見ているようだった。
 HR開始までの残り十分で、自分の机が女王の労働力を持って新品同様の輝きを取り戻していくのを、公大はただ苦虫を噛み潰した顔で見守る他なかった。




「それはそれは、見事な自慰行動ね」
「……何か微妙に発音が違くね?」
「自慰でも示威でもどっちでも変わらないわよ。不必要に自分の支配力を確認して、悦に浸ってるんじゃない。」
「そりゃそうかもしれねえけど、そんな面白そうに自慰とか言うな性別女」
「あら、直接的にマスターベーションとかオナニーとか言って欲しかった? 公大って、女の子に卑猥な事言わせて興奮する性癖?」
「……お前相手にそれがない事だけは、今身に染みた」
 困ったように言うと、公大は屋上への入り口の壁に寄りかかり、空を見上げた。彼の隣に腰を下ろす玲菜も、目を細めて同じ方向を見やる。庇の向こう側に覗く太陽は燦々と輝き、夏はもうそこだと彼らに告げている。屋上に降り注いでいる陽光はそろそろ爽やかを超えて、過酷な物へと変わりつつあった。
 屋上の客は、彼ら以外には誰もいない。来る気配もまるでなかった。
「……そろそろ、屋上でのお昼ご飯はしんどいんじゃない?」
「今日は少し風があるだけましだろ。でも、別の場所は見繕った方がいい気はするな」
「部室にクーラーがあればまだいいんだけど」
「ちっこい扇風機だけだろ? 二人で篭れば、逆に暑さでうだりそうだな」
 部室の壁はコンクリート打ちっぱなしであり、地歴部室は年中日陰の環境である。ある程度はましかもしれなかったが、これからの季節では焼け石に水のように思えた。
「冬は良いんだけどね。中くらいのハロゲンヒーター一個で充分だから」
「お前と同じ事考えた人間が沢山いたせいで、去年、部室棟のブレーカー飛ばなかったか確か?」
「思い出させないで。あの後色々駆けずり回る羽目になったんだから……」
 本気で大変だったのか、玲菜は顔をしかめていた。その顔が随分と面白いものだったので、吹き出しそうになるのを堪えた公大は、持ってきたバックから水筒と紙コップを取り出すと、彼女の前に並べた。
「マメねえ。普通、自販で買って済ませない?」
「家で氷大量にぶち込んできてあるから、普通に買うのより冷えてるぞ?」
「……薄まってない、それ?」
「馬鹿にするな。それを見越して濃い目で作ってるっての」
 にやりと笑って、公大は水筒から麦茶を注ぐ。受け取った玲菜は美味そうにそれを一息で飲み干してみせた。
「あー、本当ね。美味しい! 生き返るわ!」
「オヤジ臭えな」
 自分の分に口をつけながら、呆れたように言う公大に向かって玲菜は小さく舌を突き出した。
「気分の問題よ。こっちも随分閉塞してたから。色々吹き飛んだの」
 その言葉に公大ははたと気付いた。種類も形も違うだろうが、玲菜だって自分と同じ状況に陥っているに決まっている。愚痴の一つや二つ、言いたくなって当然だろう。
「……すまないな、本当」
 呟いた公大の鼻を、しなやかな指が伸びて摘み上げた。
「へ、へいな?」
「そういうのは禁止。こっちが進んで買った苦労よ。同情されるのは面白くないわ」
「……ひょうはい」
 鈍い痛みに濁った公大の鼻声を面白そうに聞いて、玲菜は指を離した。赤くなった鼻の頭をさする彼に向かって、玲菜は顔を寄せる。
「ねえ、日曜日のデートなんだけど。覚えてる?」
「……あー」
 覚えてはいた。公大も覚えてはいたのだが、玲菜が相手と言う事は想像もしない事だったので、正直何をするかと言う事を全く考えていなかった。
「……その様子だと何にも考えてなかったでしょ、あんた」
「面目ない」
「いいわ。なら好都合。私の予定に全部合わせてくれるって事よね?」
 にやりと、あくまめいた笑顔を浮かべる玲菜に向かって、公大も否やとは言えない。
「じゃ、泳げる格好用意して、十時に駅前ね」
「へ?」
「アクアパレス倉見。今年はまだでしょ? 季節も季節だし、良い機会だと思わない?」
「いや、そりゃ時期とかそういうのは問題の欠片もねぇけど」
 玲菜が口にしたのは駅の側に聳え立つウォーター・アミューズメントパークの名前だった。公大としては正直な所、もっと学校の生徒が大挙して群れているような所を狙って歩き回るものだと思っていたのだが。
「てかそれって、本当にデートみたいじゃね……うむぅ!?」
「本当にも何も、デートだと言ってるんだからデートするに決まってるでしょうが」
 公大のほっぺたを摘んでにっこり笑う、玲菜の目はあんまり笑っていなかった。つまりは彼女は本気で自分とのデートを画策していると言う事らしい。こくりこくりと二度頷くと、彼女は満足そうに彼のほっぺたから指を離す。
 その時、二人の耳に階段を上ってくる足音が届いた。
「誰か、くる?」
 どちらの呟きが先だったか。顔を見合わせた二人が一斉に、扉の方へ向き直った。それと同時に扉が開き、足音の主が顔を出す。
「こんにちわ。お邪魔しにきたよ、お二人さん」
 朗らかに言って笑う、相馬詩鶴の姿がそこにあった。




 公大の右手側には、詩鶴が腰を下ろしてべったりと彼に体を寄せている。
 公大の左手側には、玲菜が挑発するように詩鶴の所を見ながら、やはり腕を絡めてしなだれかかっている。
 挟まれ捉えられた公大は、どうする事も出来ずにただなすがままだった。
「あ、この唐揚げ、公大が揚げたの? 佐和子さん作るのより美味しいよ。凄い凄い」
「あら、玉子焼き甘いのは私への配慮? 嬉しいわね」
 彼の目の前に広げられた弁当を、横から伸びた手がそれぞれ容赦なく侵略していく。公大は一つも手をつけていない。食欲など欠片もなかった。
 視線すらも動かせないままでいる、公大の心境は正に生贄の羊であった。
「はい、公大お口開けて? 食べさせてあげるよ」
「そのブロッコリーは彩りで入れてるだけよ。公大、あんまり好きじゃなかったものね? こっちのニンジンにしておく?」
「……いや、その、だな」
「そうなの? 覚えておかなきゃ。一緒になった時のためにも、今のうちに好き嫌い、教えて欲しいな」
「今更そんな事を聞いている時点で出遅れてるわ。公大、今日はウチにいらっしゃい。あなたの好きな物、フルコースで揃えてあげる」
「だから、だな……」
「出遅れは本人の努力次第で取り戻すものじゃないかな。そんな事を言ったら、あたしはちゃんと付き合った半年間のアドバンテージがあるんだよ? 玲菜さん」
「ふぅん。十年以上、誰よりも親しかったアドバンテージに勝てると思っている辺りで哀れみが浮かぶわね、詩鶴さん」
「ってかとりあえず離れろ頼むから暑いからっ!」
「きゃっ!」
「あら」
 全身の力を振り絞って叫んだ公大は、甘い束縛を無理やり振りほどくと、彼女たちの反対側に飛びのいた。
「もう、公大ってばそんなに恥ずかしがり屋だったっけ?」
「詩鶴さんはどうでもいいけど、私の所まで振りほどかなくてもいいんじゃない?」
 口々に文句を言う美少女二人に向かって、公大は吠え返す。
「あのな! 全部分かりながら、何初々しい鞘当ごっこしてるんだ詩鶴! それに玲菜も乗る必要ないだろ! 挟まれた俺は新手の拷問か!」
「そんなつもりないのになぁ。照れてる公大の顔は可愛かったし、目の前で彼女役の女とくっついていられるのは、やっぱり嬉しくないよ?」
「役とはひどい言われようだけど。どっちにしても、目の前で他の女にべったりされてるのを喜ぶ彼女もいないと思わない?」
「なら最初からこうやって距離をとっておけばいいだけだろ。そもそも詩鶴は何か話をしに来たんじゃないのかよ?」
「んー、それも半分。もう半分は今ここでいる事で達成してるから」
 足を横に崩した詩鶴は、支えを失った背を壁にもたれかからせながら、そう言って意味深な微笑を浮かべている。
「そうね。本当、いい邪魔をされているわ。愛し合ってる男女の間に強引に入り込んでくるなんて。さすがに転校までしてくるような行動派は、考える事が違うわね」
 やはり壁にもたれかかった玲菜は詩鶴に向かって、鋭い視線を送った。
「そう? 本当に愛し合ってるなら、あたしも少しは考えちゃうけど。公大も玲菜さんも違うでしょ?」
「直球ね。でもどれだけ球が速くても、ゾーンはおろかキャッチャーすら取れないような暴投じゃ意味ないわよ」
「ふふ、ならもう玲菜さんは言ってあげたんだね、公大に。大好きって。愛してるって」
 詩鶴の目に、楽以外の何かが混じったのを、公大は感じた。
「ええ。公大を愛してるわ。誰よりも」
 そう答えた玲菜の表情も、変わらないように公大には見える。
 しかし彼は知っている。その顔は、困った時に浮かべる彼女の盾なのだと。当然だ。稲生玲菜は男を愛せない。誰よりも親しく、誰よりも彼女を知っている自信は公大にもある。しかし彼が男である限り、最後の一線は越えられない高い壁である。
 むしろ今、仮初にでもそう言えた事に彼は驚いたくらいだった。
「ふふ、良かったね公大。玲菜さん、あなたの事、愛してるって」
「そんなの、当たり前だろ。付き合ってるんだから」
「うん、じゃあ公大も言ってあげたんだよね? 愛してるって。当たり前なら、今ここでも言えるよね?」
「んなっ!?」
「言える、よね?」
 詩鶴の表情は変わらない。ただ、公大を見つめるその視線には、有無を言わせぬ圧力がある。適当に跳ね除ける事が出来ない、その目の力は、ちゃんと付き合っていた頃からも変わらないものだった。
 玲菜を愛してる。言葉にするだけなら簡単だろう。彼女が柏木公大に対して持っているのは親愛だ。今ここで彼女に対してそう言っても、特別な意味になどなりえない。
 中学校時代のあの日から決まった、それは不文律なのだ。
 なのにその簡単な筈の言葉がなぜか、公大の口を突いて出なかった。
「あれ、どうしたの公大?」
「分かってないわね、詩鶴さん」
 肩を竦めて、玲菜は呟いた。
「公大は恥ずかしがり屋なんだから。こんな場所であなたが居て、私に向かってそんな事言えるわけないじゃない」
 彼女の言葉に、公大は深い溜息をつく。差し出された助け舟が本当にありがたかった。
 だが詩鶴に納得した様子は無い。唇を尖らせて、彼女は言う。
「そんなの分かってるよ。でも、あたしは聞きたいの」
「我侭な人ね、本当に」
「我侭かな? 違うよ、これは当然の要求じゃないかな」
 玲菜に向き直った詩鶴の顔から、初めて笑顔が消えていた。
「戦う気持ちがこっちだけじゃ空回りでしょ? 玲菜さんの覚悟は見たよ。でも、公大の覚悟をしっかり見せてもらわないと」
 詩鶴の視線に、公大は射すくめられる。
 まだ一人で戦わせる気なんだ?
 言葉なく雄弁に語るその目に、公大の覚悟は決まった。挑発だとわかっていても、それで飛び出ないままで居るには、彼にとって玲菜という存在は大きすぎた。
「でも……」
「愛してるよ、玲菜を。誰よりもな」
 玲菜の言葉を遮って、公大は言った。
 当てが外れて、呆けた表情を玲菜は浮かべている。公大の言葉を噛み締めながら、詩鶴はまるで自分が言われたように嬉しそうな表情を浮かべている。
 今、何かが確かに変わってしまった。多分それは、代えの聞かないパーツであり、どんなに巻き戻そうとしても、きっと元には戻らない物なのだろう。
 だとしても。公大は小さく奥歯をかみ締めた。
 何かが変わってしまったのだとしても、今ここでその言葉を口にしたことに後悔は無い。
「ありがと、公大。良い言葉聞かせてもらって、お腹いっぱいだよ」
「……どういたしまして。謹んで地獄に落ちやがれ、畜生」
 立ち上がった詩鶴に背を向けて、公大は吐き捨てた。それを満足そうに聞いた彼女は玲菜に向かって、
「ねえ、玲菜さん。ケータイの番号教えてもらってもいいかな?」
「……その必要を感じないんだけど、私は」
「ん、深い意味はないんだけどね。でも、あたしはいざとなればあなたの番号、調べる事は簡単だと思うんだ。でもそれじゃフェアじゃないでしょ?」
「あきれた。これだけ引っ掻き回しておいて、フェアを気取る気?」
「客観的な視点は、色恋沙汰じゃ意味を持たないと思うよ。あたしは自分が正しく公正だと思った事をしてるだけだから」
「ご立派ね。見習いたくはないけど」
「それがきっとお互いのためだよね。それで、どうする?」
「090−XXXX−○○○○。今、部室に置いて来ちゃってるから、ワン切りしておいて」
 携帯をかざす詩鶴に向かって、玲菜は早口で言う。それでも一度でしっかり聞き取ったのか、詩鶴は手早く操作を済ませて、パネルを閉じた。
「ふふ。お互いどれだけ鳴るかな? この番号」
「さあ、なるべく少ないに越した事はないわね」
「うん、それじゃ……」
「ちょっと、言いっぱなしで帰るつもり?」
「え?」
「番号教えたついでに、いい物見せてあげるわ」
 玲菜はそう言って立ち上がった。そのまま公大の前に来ると、膝立ちになって向かい合う。
「玲菜、お前一体何を……をぉっ!?」
「あ、やー。ちょっと、それ反則だよ……」
 詩鶴の口から溜息が漏れる。
 そして公大は固まったまま、動く事が出来なかった。
 鼻先を、甘く爽やかな香りがくすぐる。シャンプーの匂いなのか、それとも玲菜自身の匂いなのか。茹だるような暑さも、彼女の温もりで意識から飛んだ。なにより自分の顔が燃えるように熱かった。重なり合った唇の隙間から、彼女の舌が潜り込んできて公大は目を見開く。ぼやけた視界の中で、目を閉じて熱心にキスを繰り返す玲菜の赤らんだ頬だけが、ひどく彼の目を惹きつける。彼の歯茎を歯を突付くように這い回る、柔らかなの舌が閉じた扉を開けろと促してくる。軟体質の生き物にも似たその動きが、不快感ではなく温い快楽を呼び起こしてくる。顎に力が入らなかった。公大の歯と歯の間がゆっくりと開き、そのまま彼女の舌を受け入れる。
 攻め立ててくるのは、唇や舌だけではなかった。頭に回された玲菜の指が、公大の髪を弄んでいる。抱きしめられて触れ合う胸から、早鐘を打っている彼女の鼓動が伝わってくる気がした。キスそのものだけではない。玲菜の感触が。熱が。匂いが息遣いが音が全てが溶け合い交じり合い、公大の心を煽り立てる。
「れい、な……ん……」
「くぅ……ん、むぅ……」
 くちゅくちゅと音を立てて、二人は舌を絡めあう。いつしか公大も手を回して、玲菜の頭を引き寄せていた。学校の屋上だと言う事も忘れて、濃厚な前戯にも似た口付けを、息する事も忘れて続けていく。
「……見せ付けられちゃってるなぁ」
 ぽつりと呟かれたその声で、ようやく公大は我に返った。
「あぅん……」
 名残惜しげな玲菜の呟きに心惹かれながらも、公大は理性を総動員して唇を引き離した。
 舌先から細く唾液の糸が伸び、たわんで切れて玲菜の胸元に小さな染みを作る。それが今まで自分がしていた事を殊更に意識させる。
 ああ、玲菜とキスをしていたんだ。詩鶴の目の前で。
 目の前で。
「わ、ぁああ、あ、ちょっと、待て、これは……」
、彼の顔は茹蛸のように赤くなっていた。向き直れば詩鶴は頬を膨らませて二人に怒りと羨望の交じり合った視線を向けている。
 別に詩鶴が嫉妬する事に何の問題もない筈であるし、そもそも、彼女とキスはおろかその先の先まで至っている。それでも、誰かとキスをこれほどまでに熱心にしている所を見られた経験など彼はなかったし、何より玲菜の舌使いがあまりに上手すぎた。脳も理性もドロドロに溶かしきられるほどに。
 せめて何か言おう。そう思った公大の頭に玲菜の手が伸びて、再び引き寄せられた。視界が黒に染まり、顔がふかふかとした柔らかい感触に包まれる。それで彼は、玲菜の胸に顔を埋めているのだと、気付いた。
「ちょ、玲菜、お前……!」
「電話番号教えてもらったお礼。御代はいらないわよ?」
 彼から顔は見えなかったが、その声の調子だけで分かる。玲菜がひどく勝ち誇った表情を浮かべているだろうと言う事が。
「それが御代だなんて、商取引の基本にもなってない気がするよ? 大体公大、あたしにはそんなに上手にキスしてくれなかったし」
「色恋沙汰の公正判断は、主観に基づくんでしょ? ふふん、半年分のビハインド、今ここで埋めてあげましょうか?」
「うーん、人のセックス見るのも好きだけど。でも、相手が公大じゃ話は別。黙ってみていられる自信がないなぁ」
「ちょ、お前ら、何を話して……!」
 じたばたともがく公大だったが、甘い枷が取れる気配は欠片もない。むしろ頭を動かす度に、触れ合う制服越しの乳房の感触が彼から力を奪ってしまう。だって無理だ。男である以上、おっぱいには逆らえない。
「それにしても、玲菜さん。そこまで出来るとは思わなかった。昨日の今日で随分と考え方、変わったんだね」
「他に誰かいるわけでなし。恋人同士なんだからキスくらいして何が悪いのかしら」
 切れ長の目を細め、唇の端を吊り上げる。美貌に凄絶な気配を纏わせ、玲菜は言う。
「それにね、殴られっぱなしは性に合わないのよ」
「うん、いいカウンターだった。かなーりショック受けちゃった」
 詩鶴もまた、どこか冷めた笑顔を張り付かせていた。
「だから次のラウンドは、あたしが貴女を地面に這いつくばらせてあげるね」
 ぞっとするほど澄んだ声でそう言うと、詩鶴は手を振り回れ右をする。
「ちょ、ちょっと待て! 行く前に一つ聞かせろ、詩鶴!」
「あ、もう……!」
 ようやく玲菜の戒めと大宇宙の真理から逃れた公大が、その背中に声を掛けた。
「ん、どうしたの公大?」
 振り返った詩鶴に向かって、公大は真剣な表情で言った。
「お前、聡に何を言ったんだ。お前と浮気した事もそうだけど、あれからあいつは変わり過ぎてる。一体お前、あいつに何を吹き込んだ?」
 この一週間、公大の脳裏に引っかかっていた違和感がそれだった。
 あの日まで間違いなく彼は良い友達だったのだ。それが秘めた思いを露にしただけで、あれだけ豹変するとは思えなかった。
 彼もまた、何かを変えられたと言うのか。目の前の女に。自分達と同じように。
 うめくような声だった。疑念を纏わせた公大のその言葉に、詩鶴は口元に手を当てて考え込む。やがて答えを見つけ出したのか、口元に弧を描かせて、言った。
「シンプルな事しか言ってないから、思い出すのに時間かかっちゃった」
「シンプル、だぁ?」
「あたしが言ったのは、単純な事なんだよ。「敵になる事を恐れるな」――そう言っただけ。それじゃね、公大。それに玲菜さん」
 そう言って、再び歩き出した詩鶴を止める声を、公大は掛ける事は出来なかった。
 扉が閉まる、軋んだ音が屋上に響き渡る。
「……どういう、事だ」
 取り残された公大が呟く。その声に予鈴が重なった。
「マジかよ……俺、何にも食ってねえってのに……」
「サボれば? 少なくとも私はそうするつもりだけど」
「あのな、お前はどうか知らんが、俺の次の授業は野村の古典だっての。あいつその手の事うるさいんだぞ?」
「でもあんた、唇の周りとか結構私のキスマークついてるわよ? 今日は割りと濃い目のリップだったし」
「ちょ、マジかよ!?」
 叫んだ公大が慌てて掌で唇の周りを拭うと、確かに薄い朱が手の甲に残っている。彼女の言うとおり、このまま教室に戻るとさぞ阿鼻叫喚な状況になりそうだ。
 何より、空腹は強敵だ。
 思い出したように鳴り始めた腹の音には、どうにも勝てそうになかった。









「……なあ、玉子焼きも唐揚げも食い尽くされている気がするのは俺の気のせいか?」
「大変おいしゅうございました。ごちそうさまでした」
「ってかぶっちゃけおかず残ってねえじゃねぇか……自分の弁当だってあるだろ、お前」
 ぼやいた公大の手元に残ったのは、上半分が綺麗に消滅した少し大きめの弁当箱。下半分のふりかけご飯が妙な哀愁を誘う。
 彼の隣に並んでいる玲菜は眉を寄せ、仕方ないわねと自分の弁当箱からおかずを一品摘みあげた。
「私だけの責任にしないで欲しいわね。半分以上彼女食べてた気がするけど? まぁほら、お詫びにこれあげるから」
「…………お前、俺が茄子嫌いだと知っての所業かそれは」
 ふりかけご飯の上に載せられた、切れ込み入った焼き茄子を見て公大は深い溜息をついた。茄子なんかこの世の中からなくなってしまえと頑なに念じているが、いまだその願いが世界に届く様子はない。
 そっと空きスペースに茄子を避けると、公大はもそもそとご飯を掻き込み始めた。正確に言えば、その振りをしていた。
 玲菜に変わった様子は見受けられなかった。詩鶴の来襲前と変わらぬ顔で、他愛ない事を言い合い、笑ってみせている。
 意識しているのは自分だけなのだろうか。
 今も公大の唇には、あの温もりも柔らかい感触も残っている。眼鏡の奥の瞳を潤ませ、熱心に舌を絡めてきた玲菜の顔も焼きついている。
 恥ずかしかった。
 行為そのものではない。玲菜とキスしていると言う事を嬉しいと思う、自分がひどく恥ずかしかった。
 あの行為の意味など、それこそ詩鶴に対する示威以外の何物でもない筈なのに。唇を離した時にも、彼女に抱きしめられた時にも、「もう少しこうしていたい」という感情があった事をどうしても否定できなかった。
 玲菜は、何物にも代えがたい友達だ。彼女が同性愛者である事を横において、それは公大自身が望んで、在り続けた形だった。
 詩鶴の目の前で、彼女を愛していると言った。超えない取り決めの枠組みを踏み出した行為だったかもしれない。しかしお互いに作り上げた枠には影響を与えない。そう、公大は思っていた。
 強固で、決して壊れる事のない筈のその枠組みが、軋みをあげている気がする。
「何? もっとねっとり濃厚にキスして欲しかった?」
「ぶっ!?」
 突然玲菜にそんな事を言われ、公大は盛大に吹き出した。
「……汚いわね。向かい合ってなくて良かったわ」
「お……お……おま、いきなり、何をーっ!」
「何って、あんた今その事考えてたんじゃないの?」
「ちょ、待て、何でお前それを!」
 口元にご飯粒をつけながら叫んだ公大に向かって、玲菜は肩をすくめる。
「あのね、いきなり黙り込んだかと思ったら、そんなに顔赤らめながらちらちら私の顔見てるし。察しが付かない方がどうかしてるわよ」
「……まじすか?」
「もう、あんたどこの女子中学生よって感じだったわ。キスも初めての童貞って訳じゃないのに、普通こういうのって逆だと思うんだけど?」
 本当に呆れた様子の玲菜の言葉に、公大は両手を顔で覆って俯いた。
 恥ずかしかった。穴を掘って埋まりたい種類の恥ずかしさだった。
「あー、その、ですね。これには色々と深い訳がありまして」
「分かるわよ。似たような事は私だって思ってたんだから」
「はい?」
 思わず顔を上げた公大の目に映ったのは、頬を僅かに赤く染めた玲菜の顔だった。よくよく見てみれば、彼女もまたどこか遠くを見つめて、あまりこちらを見ようとはしていない。
「なまじあんたがそういう顔してるからかしら。駄目ね、変に意識しちゃって」
「あのな、冗談ならそう言うのは、性質が悪いから……」
「冗談や意地だけで、あそこまで出来ると思う……?」
「え?」
 気付けば公大の手の上に、玲菜の手が重ねられている。
「本当なら、男相手にキスするのなんて真っ平ごめんなのよ。それこそ、何か特別な理由でもない限り、ね……」
 眼鏡越しの瞳が、嫌な感じに潤んでいた。涼しげな美貌が今は蕩けて、匂い立つような色気をかもし出している。
 いつの間にか、玲菜が覆いかぶさるように公大に向かい合っていた。顔が近い。互いの吐息が掛かりあう。鼻先がかすかに触れ合っている。
 公大は魅入られたように、動く事が出来なかった。本当にそうなのか。問いかける心に答えは返ってこない。望んで、なすがままにされている。それも違うかもしれない。逆に彼女に対して、のしかかり腕を絡めて唇を重ねたい。そんな悪魔の囁きすらも聴こえてくる。
「あ……」
 公大の口から、小さな吐息が漏れる。目を閉じた玲菜の顔が更に側により。
 何の前触れもなく、彼は鼻をつままれた。
「うやぁっ!?」
「――冗談よ。たとえあんた相手でも、一日二回は無理ね、やっぱり」
 するりと公大の目の前から抜け出て、また彼の横の場所に納まった玲菜は、そう言って笑った。
「お、まえな! 性質悪過ぎだっての!」
「何よ、少し前なんか裸で目の前に立ってもキス一つしようとしなかったくせに。随分殊勝なエロ少年になってない?」
「あの時と今とは色々違うだろ! ってかあの時だって別に反応しなかったわけじゃねえって!」
「あ、やっぱりそうなんだ?」
 墓穴を掘った。
 獲物を見つけた猫の表情で見つめてくる玲菜の顔に、公大は敗北を悟った。
「てか、あの時「だって」って言う事は、さっきのキスでも反応したって事よね? うん、割と自信はあったんだけど、やっぱり興奮したんだ?」
 じりじりと、つい一分前とは別の意味でにじり寄ってくる彼女の姿が、悪魔に見えた。
 それでもまぁ。
 諦めと納得の溜息を心の中で付き、公大は自分に言い聞かせた。
 玲菜が同じ事で悩んでいるのは間違いない様子だった。葛藤が自分だけでない事が、どこか嬉しかった。
 お互いに、悩みながら手探りで進んでいる。それならば、きっと関係は変わらない。多少よろめきはしても、タイヤが廻っている限り、自転車というのはそうは転びはしないものだ。
 五限の終了を知らせる鐘の音が、どこか随分と遠くの方から聴こえる気がする。どうやら、本日の午後は全休と言う事になりそうだった。









 部室に戻った玲菜は、机の上に投げ出されていた携帯に目をやった。LEDの点滅している画面を開き、着信を確認する。電話が一件と、そして十数件のメール。先にメールの方に目を通した彼女は、件名を見て嘆息した。
 公大と付き合っていると公表したその日から、ひっきりなしに届けられる誹謗中傷の山だった。今まで付き合ってきた少女達からの怨嗟と怒りが文字に変わり、玲菜の心を引っかきささくれ立たせていく。
「しかしまぁ、よくもこれだけ同じ内容を飽きもせず送ってくるわね。情熱的過ぎて焼けちゃいそう」
 軽い口調とは裏腹に、玲菜の表情には陰が差していた。淫乱だの浮気者だの言われるのは別に構わないが、裏切り者呼ばわりはさすがに堪える。
 稲生玲菜と過ごした一時など、彼女たちの多くは思い出に埋めて、いずれは異性の伴侶を手に入れて先に進んでいくのだ。捻れた視線を決して変える事の出来ない自分とは、決定的に異なっていると言うのに。
「むしろ裏切れたら、どれだけ良いかと思うわよ……」
 十数年付き合ってきたこの心を裏切る事が出来たのならば。
 出来たのならば。
 ――下らない。
 奈落に向かって堕ちかけた思考を引きずり出して、玲菜は携帯を操作すると、詩鶴の電話番号を電話帳に登録しようとした。
 名前を入れようとして、ふとその指が止まる。素直に入れてやるのは何か癪に障る。そう思った玲菜の指が素早くキーを叩いていく。

『アナルマニア』

 ぴったりだと思った。
 自らの思いつきに一瞬拍手喝さいした玲菜だったが、すぐにその指がクリアボタンに走っていた。
 よくよく考えれば、彼女から着信が来た時にその名前がディスプレイに大写しである。自分一人ならともかく、まかり間違って誰かに見られた時が怖い。ビアンだのバイだの淫乱だのに加えてそんな趣味まであるなどと、この状況で流布されるのは玲菜としては避けたい事態だ。
「……そうすると、変態性欲者とかショタニンフォとかも避けた方が良いわよね」
 一人ごちて、玲菜は唸った。下ネタ方面から持ってくるのは避けた方が良いと言う事か。
 ならば。再び玲菜の指がキーの上を流れる。

『Tyrant』

 静か且つささやかな玲菜の生活は、彼女の登場でかき乱された。大事な幼馴染は貞操の危機に脅え、親友はおろか周りの友人たちからも徐々に場所を奪われている。やりたいままの思い付きが多くの人々に影響と不幸を撒き散らす、正に暴君ではないか。
 してみると自分は暴君に反旗を翻した少年を教え導く、悪い魔法使いと言う事か。帽子と黒ローブの代わりに制服と眼鏡を身につけて、魔法の代わりはなけなしの知恵と絆というわけだ。意外としっくりきたその想像に小さな笑みを浮かべて、玲菜はディスプレイを閉じた。
「でも魔法使いを働かせるには、報酬が必要なんだけど」
 微笑みをどこか儚い物に変え、呟いた玲菜は鞄を手に取った。公大と校門の前で待ち合わせている。あんまり待たせていては、また無用なトラブルを呼び込ませかねない。早めに行って上げた方が良いだろうと思った。
「本当、私はあんたから何を巻き上げたいのかしらね」
 二つのうちのどちらか一つ。どちらを手に入れたいのか、今の玲菜は自分でも結論付ける事が出来なかった。




「あ……」
 呟いたのは自分と彼女のどちらが先だったのだろう。
 部室棟から本校舎へと伝わる桜並木のベンチに、亜里沙が座っていた。目を丸くして玲菜の姿を見つめている。その表情が、徐々に険しいものへと変わっていた。
「こんにちわ、亜里沙ちゃん」
 手を上げて、微笑む。しかし亜里沙は玲菜の視線から目を背けて、踵を返して立ち去っていった。
「すみません。それじゃ先に帰りますね、先輩」
 去り際にそう言い残して。
 もちろんその相手は玲菜ではなかった。
「うん。それじゃね、亜里沙ちゃん」
 彼女と並んで据わっていた男が、朗らかにその後姿を見送っている。やがて視界から少女の姿が消えると、彼は立ち上がって玲菜に向かって振り向いた。
「本当、君といいヒロといい、邪魔ばかりされている気がするね、稲生さん」
「そう思うなら場所の選択を変えることをお勧めするわ、柚原。ここは私の通り道なんだから」
「帰るべきは君の方じゃないかな? ここは話をするには良い場所だし、君の方はずいぶんと亜里沙ちゃんに嫌われてるみたいじゃないか」
 これ見よがしに首にコルセットを巻きつけた聡が肩を竦める。玲菜は腕組みをして、彼の元へ歩み寄った。
「近づくなって、私も公大もそう言わなかったかしら? それとも、ノックアウトされたついでに忘れちゃった? 衝撃を受け続けていると、記憶力って弱くなるって言うしね」
「覚えているよ? でも、亜里沙ちゃんの方から近づいてくるのは僕には止めようがないだろう? 顔を見ただけで避けられる君とは違う。なすべき事は本当、普段からの積み重ねだよね」
 くっく、と喉の奥で笑い声を立てるその姿が、玲菜の目には例えようもなく醜悪に映っていた。何が彼を変えたというのか、公大には想像も付かないようだったが、彼女にはおおよその察しが着いていた。
 何よりも近くて、そして例えようもなく遠い親友というポディションを彼は自ら投げ捨てた。
 公大の全てを手に入れるために。
 詩鶴の裁量がどこまで入っているのかは、彼女には分からない。しかし詩鶴の言葉が彼を解き放ち、今は腐臭を放つ泥沼の中に体を沈めて、公大の足を掴む機会を狙っている。驚くべき事ではない。色恋沙汰では昔から吐いて捨てるほど繰り広げられてきた光景だ。男同士というなら相当に数が減るだろうが、なかった筈はないだろう。
 だが、踏み出した足の方向をどちらに向けるのかは、本人の資質の問題だ。そして柚原聡が選んだ方向は、玲菜にとって受け入れがたい物でしかない。
 そんな所に公大も亜里沙も引きずり込ませるつもりなど、毛頭なかった。
「そう、確かに積み重ねは重要なのかもね。それがどんなに薄くて頼りないものでも、恋に目が眩んだ少女を騙すには充分って事かしら」
「負け惜しみかい? 今更君がどんなに信頼を取り戻そうとしたって、もう無理な話さ。同じスピードで君が悪いと僕が囁いているからね。今の亜里沙ちゃんにどっちの言葉が届きやすいのかなんて、分かりきった話だよ」
「好きになさい。勝ち誇って積み上げていくと良いわ。積み上げて、積み上げていけばいくほど、崩れた時の被害は取り返しがつかなくなるものね」
 冷めた目で聡を見つめた玲菜は、吐き捨てるように言った。一瞬鼻白んだ聡だったが、すぐに温和な表情を張り付けて、
「崩せはしないさ。そもそも、状況は君とヒロの方が圧倒的に劣勢じゃないか。随分と色々言われてる事、知らないわけじゃないだろう?」
「取り繕い続けてるあんたとは違うわ。この程度で心が折れるようなら、小学校時代で私は止まってる。自分に嘘をつかずに生きていくのって、あんたが想像も出来ないくらいに困難なのよ?」
「はは、その挙句にご執心の亜里沙ちゃんに嫌われてるようじゃ本末転倒だね。全く理解できないよ。僕とヒロのように親友だったわけじゃない。君の歪んだ性癖では、ヒロの事を愛する事だって出来はしない。たかだか昔から知り合いだったって言うだけの理由で、そこまで出来るお人よしさ加減は一体どこから来るんだろうね?」
「理解できないなら理解してもらう必要はないんだけど」
 玲菜は目を閉じて、一つ大きな溜息を付いた。言葉に意味を持たせるには聞かせるべき相手が必要なのだ。通じない相手に何を喋っても無駄だというのは理解している。
 それでも、言わずに胸に仕舞っておけるほどには、玲菜は老成していなかった。
「あんたが欲望の代償に投げ捨てた物はね、私には掛け替えのない宝物だっただけの話よ。覚える頭が無いようなら、忘れてくれて構わないわ」
「はは、そうかい。前からそうじゃないかと思っていたんだけど、今この場で確信したよ」
 堪えきれぬ何かを押し殺すように、低い声で聡は言う。
「僕はね、君の事が大嫌いだよ。必ず礼をしなきゃと思っているくらいに」
「そう。私は別にあんたの事、嫌いでもないわよ」
「……ふぅん。意外だね」
 間の抜けた呟きを聞いた玲菜は、聡に背を向けた。そろそろ潮時だろう。得る物は何もない会話だし、何より、彼の声を聞いているだけで虫唾が走りそうになっていた。
「っと、どこへいく気だい」
 数歩歩いた背中に、制止の声が掛かる。振り向いた玲菜は思いつく限り最高に爽やかな笑顔を浮かべて、言った。
「帰るわ、下校時刻だもの。嫌いになる価値すらない相手と話す時間は、そろそろ終わりにしないとね」
 一瞬目を丸くした聡の顔が、徐々に紅潮していく。それを見届けるほど玲菜は暇でも愚か者でもなかった。
 どんな顔をして、公大は待っていることだろう。
 聞き苦しい叫び声を置き去りにして、走り出した玲菜はより実のある考え事を始めていた。