アクアパレス倉見。公大たちが住む倉見市に数年前に開設された、巨大水上レジャー施設である。
 最大傾斜20度、全長200メートルにも及ぶウォータースライダーが施設の目玉だが、他にも様々な種類のプールや屋外スパ、更にはショッピングモールも併設された一大テーマパークとして脚光を浴び、今もなお倉見市の名物の一つである。
 公大自身はオープン当初に家族で来た事はあったが、亜里沙と二人暮しになってからは中々そういう機会に恵まれていなかった。泳ぐ事自体は嫌いではないのだが、入場料やその他もろもろが彼の足にしがみ付くのである。
「しかしまぁ……相変わらずすげえなぁ……」
 水着に着替え終えて軽くシャワーを浴びて出てきた公大は、目の前に広がる光景に感嘆の溜息を漏らした。半球状のグラスドームの天井を通して、常夏の日差しが降り注いでいる。その中央で山のように聳えているのが、売りのスライダー、「デッドエンドスクリーム」であろうか。仮にもアミューズメントなのに「デッド」だの「エンド」だのはどうかと公大としては思うわけだが、あの高さを見れば納得せざるをえない。もちろん50メートルの競泳用プールもちゃんとあれば、砂浜を模した造波プールもある。飛び込み台は10メートルクラスまで用意されているし、流水プールや小さい子供用のプールの規模も、他の施設ではちょっと考えられないサイズだった。
 そして、どこを見回してもはしゃぎまわる人人人。あまり泳ぐという感じはせずに、イモ洗いを思い浮かべてしまう状況だった。
 時期も時期だし、仕方ないんだろうな。
 苦笑した公大は、熱帯のジャングルを模した広場のベンチに腰を下ろした。更衣室からの通路の目の前だし、玲菜が着替え終わって出てくれば、その位置ならすぐ分かる筈だった。
 親の制止を振り切って、はしゃぎまわる小さな子供が目の前を通り過ぎる。同じ年頃くらいのカップルだろうか、初々しい雰囲気を漂わせながら手を繋いで流水プールの方へ駆け出していく少年少女も居る。大学生くらいの男女の集団が、やいのやいの言いながら、巨大な浮き輪やビーチボールを抱えていく。公大の祖父母ほどの年代の夫婦が、二階のスパ目指して歩いていくのも見えた。
 どこにでもある、ありふれたこの施設の休日の光景なのだろう。時折、通り過ぎる男が公大の顔に目を留めて、その視線が下がると共に落胆の表情を浮かべた時は、殴殺しても罪になるまいかと思ったのは秘密だったが。
 ともあれ、それら全てがどこか眩しく、そして妙に安らぐ事に彼は気が付いた。
 この一週間、思った以上に気を張っていたと言う事なのだろう。
「ってか、まだ一週間しか経ってないのかよ……」
 呆れ交じりの声で、公大は呟いた。まるで数ヶ月も過ぎていた位、身の回りで変化が起き過ぎていた気がする。その間に元彼女が来襲して妹には嫌われて親友は豹変したわけだ。それは気も磨り減るだろう。
 ひょっとして、それを見越して玲菜はここへ誘ったと言う事だろうか。だとすればその気遣いがありがたいと、公大は思った。
 それにしても。公大は後ろを振り向くとあちらこちらに備えられた時計の一つに目をやった。彼が出てきてから既に十五分ほど経っている。
「……遅くねぇ?」
「ごめんなさい、待たせちゃったわね」
 呟く公大の声に重なるように、背後から玲菜の声が聞こえてくる。
「や……」
 っと来たか。言いかけた公大の言葉は、振り向いた瞬間遙か彼方へ飛んでいった。
 どうせ玲菜の事だから、からかうつもりで派手な水着でも着てくるつもりだろう。そんな公大の志向の方向性は間違っていなかった。ただ、破壊力が彼の予想を圧倒的に上回っていたのだが。
 抜けるように白い肌に、ブラウンを基調としたその色はよく似合っていた。しかしデザインが尋常ではない。
 基本はワンピースの水着なのだろうが、脇から背中に掛けて大胆にカットされている上に、胸元も臍の上辺りまで深い切れ込みが入っている。ただでさえ大きな彼女の乳房が不謹慎にもまろび出てしまうのではないかと心配になるほどだ。股の部分も容赦のないハイレグで、そこからすらりと伸びた足が目に眩しい。
 彼女が綺麗なのは分かっているつもりだった。それでも、普段と全く違う姿で現れた玲菜の姿にこれほどまでの威力があろうとは。
 呆けた表情のまま見入ってる公大の姿に、玲菜は満足そうな笑みを浮かべていた。
「そんな顔してもらえれば、奮発して新調した甲斐があったというモノね。受け狙いでスクール水着ってのも考えたけど、さすがにマニアックすぎるかと思ったし……公大?」
「あー……」
「公大、聞いてる?」
「うー……」
「指、何本?」
「……六本?」
「…………私はどこの星の生き物よ。じゃ、これは?」
「92のG……ってぇ!?」
 割と全力で頭をひっぱたかれて、ようやく公大は我に返った。
「ってええ……玲菜、お前かなり本気で殴ったろ」
「一発目視でバストサイズ正確に見抜かれれば、さすがに私だって色々言いたくなるわよ馬鹿」
 頬を膨らませた玲菜が、彼の横に腰を下ろした。
「それで、私はこれだけサービスしてるのに、あんたはそんなおとなしいウォーターパンツなわけ? 受け狙いでラメ入ったぴちぴちのビキニとか着てくれば良かったのに」
「……見たいのか?」
「心の底から遠慮するわ」
 そう言って笑った玲菜は、じっと彼の顔を見つめている。泳ぐのだから当然といえば当然だが、眼鏡をしていない事にようやく彼は気が付いた。
「てか、お前相当に視力悪かったよな。大丈夫か? 眼鏡とかゴーグルとか無しで」
「だからこうして近くに寄ってるんじゃない。迷子にならないように、手を繋いでしっかりエスコートしてね?」
 いつの間にか公大の腕に、しっかり玲菜の腕が絡んでいる。
「……マジすか?」
「当たり前じゃない。何、そんなに恥ずかしい?」
「お前な、そんな水着着ておいて何を言うか。さっきから人の目引きまくりだし……」
 頬を僅かに赤らめ、公大はぼやいた。彼の言うとおり、先ほどから二人の前を通り過ぎる男達はほぼ確実に振り返って玲菜に視線を飛ばしている。
「ふふ、あんたもかなり視線引き寄せてると思うけど。何か羽織って腰にパレオでも巻いていたら、素で間違える人絶対居るわよ?」
「やかましいわチクショウ」
「何なら持ってきてあげましょうか?」
「いやほんと勘弁してください。マジで声掛けられたら、多分立ち直れねえ……」
「冗談よ。さあ、行きましょ。来たからには施設のアトラクション、全制覇よ!」
 立ち上がった玲菜は公大の手を引いて立たせた。妖しくも美しい色気を振りまいていた彼女が、その瞬間は年相応の顔を見せる。その姿に、公大もようやく、心の底から笑顔を浮かべる事が出来た。
 今日くらいは何も考えずに、ただ彼女と楽しもう。色っぽい展開はおそらく無いし求めてはいないが、こうして笑い会えるだけで充分だ。
「ああ、そうだ公大。実はちょっとしたお願いがあるんだけど」
「うん?」
「確か、ラージサイズの浮き輪の貸し出しってやってるわよね?」
「ああ。売店みたいな所でそんなのやってた気がするけど」
「お願い。実はあんまり泳げないの」
「……先に言えそういう大事な事はっ!」
 着替え終わってから三十分。公大は泳ぐ前に再び更衣室にとって返す事になったのだが。



「うひゃにゃぁぁぁぁぁーっ!?」
 乗っている浮き輪ごと引っくり返った玲菜が、猫のような悲鳴を上げた。そのまま前を流されていくのを、公大はのんびりと追いかける。
「玲菜ぁ、生きてるかー?」
「……あんたの声にそこはかとなく殺意を覚える位には生きてるわよ」
 濡れた髪を頬や首筋に纏わり付かせて起き上がった玲菜は、恨みがましい視線を彼に向けている。
「もう、支えててって言ったのに! いきなり手を離すのはちょっとひどいんじゃない?」
「不可抗力だって。足滑ったんだから仕方ないだろ! 大体ここはそうやって流されるのを楽しむところぉぉぉぉーっ!?」
 後ろから襲い掛かってきた一際大きな波に足を掬われ、公大もそのまま一気に玲菜の元まで流されていた。
 遠浅の砂浜を模したプールサイドなので、転がっても痛くはない。だが仰向けで転がっている自分を見下ろす、玲菜の視線が妙に気恥ずかしい。
「お帰りなさーい、き、み、ひ、ろ。恨み節にする? 嘲笑にする?」
「……只今帰還いたしましたのでどちらも勘弁してくれ」
 そう言って二人で顔を見合わせて、ぷっと吹き出した。起き上がった公大は玲菜の手をとって、他の客の邪魔にならない所まで移動する。
「思ったより楽しんでるのな、お前」
「ん?」
「あんまり泳げないって言ってたろ? ガチでカナヅチなのかと思ったんだが」
「さすがに25メートル位は足付けずに泳げるわよ。ただ、死ぬほど遅いの。クロールのタイム測定、3年連続堂々のブービー賞よ。凄いでしょ?」
「あー、なるほどな」
 公大は納得した。先ほど少し泳いでいるのを見ても、確かに玲菜の動きには無駄な部分が多かった。個々のパーツは均整が取れているのだから、胸に巨大なブレーキが付いていたとしても、コツさえ覚えれば早くなりそうなのだが。
「コーチしてやろうか? 俺もそんなに得意じゃないけど、お前よりは速いぞ」
「別の日に別のプールでお願いするわ。ここは泳ぐ所じゃなくて、遊ぶ所でしょ?」
 さもありなん。頷いた公大は、
「じゃあ次はどこ行くよ?」
「もちろん! デッドエンドスクリーム最上段!」
「……マジスカ?」
 胸を張って玲菜が指差すその方角には、聳え立つ死と悪魔の楼閣が犠牲者の来るのを今か今かと待ち構えている。
 三本あるウォータースライダーの内、一番低い物と中腹からの物には長蛇の列が出来ているのだが、天頂から滑り落ちる死と終焉の入り口には、どうひいき目に見ても人の列が見当たらなかった。
「せめてミドルエンドくらいにしておきませんかね玲菜さんや?」
「ジジ臭い戯言は聞こえない振りしておくわ。何もかも忘れられてスカッとするわよ間違いなく!」
「てかあれ絶壁じゃねぇか。傾斜角度20度って嘘だって絶対」
「人間は角度に弱いのよ。いざ行ってみればなんて事無いわよ。大丈夫大丈夫」
「根拠が欠片もねぇし!? ていうかお前、しっかり見えてないだろ!」
 必死で理を説く公大であったが、玲菜の固まった決意を解きほぐす効果は無かったようだ。ずるずると、半ば引きずられるようにして彼は悪魔の施設へと足を向ける事になったのだった。



 公大は自分を誇っても良かったかもしれない。
 悲鳴を上げていた時間は、実に玲菜より三秒も短かった。
 もっとも、玲菜の上げた悲鳴はコースの終了後が本番だったわけだが。



「あー、恥ずかしい。本当えらい目にあったわ」
「だから言っただろ、せめてミドルエンドにしとけって」
 ビーチパラソルの立てられたテーブルに、上半身うつ伏せになった玲菜が情けない声を漏らす。向かい合う公大は未だに赤い顔でそっぽを向いていた。
「係員も何度も聞いてたじゃねぇか。「その水着でやるんですか!?」って」
「そうよね、迂闊だったわ。距離が長いんだからそりゃ食い込んだりまくれ上がったりするわよね。ああ、もう……」
 か細く呟く玲菜の脳裏には、つい先ほどの惨状が描かれているのだろう。真直で見た公大からして、開いた口が塞がらなかったのだから。
 スライダーの角度や距離が長ければ、それだけ摩擦熱を抑えるためにも流れる水の量が増える。滑り落ちている時にはそれがすべて体にぶつかる障害物になるわけだから、いわんや水着に掛かる負担をや。
 股間の部分は元の半分くらいの面積までまくれ上がり、張りのある瑞々しいお尻がほとんど丸出しになっていた。胸の布もまくれ上がる寸前、頂点部でかろうじて引っかかっているだけ。そんな状態の水着を纏った艶かしくも美しい少女が、のんきに水から上がってくれば、周りの視線を集めるなと言うのが無理な相談である。
「反省しましたか?」
「したわよもう……男どもに無用なサービスをしたってのが何より腹立たしいわ」
 伏せていた顔を上げて、玲菜はじっと公大の顔を見つめている。
「何だよ?」
「で、感想は?」
「はい?」
「公大ってば、肌ワイとかそういうマニアックな路線がどうも好みみたいだから。ああいう格好も興奮したのかなって。後学の為に感想聞いておきたいわね」
「あのなぁ……」
 何を馬鹿な事を。そう言いかけた公大だったが、見つめる玲菜の視線は思ったよりも真剣なものだった。
「……マジで答えなきゃ駄目か?」
「ええ。あんたの感想を知りたいわ」
 玲菜は体を起こして、公大に向かい合った。目が悪いせいか、じっと細めて彼の顔をみる視線は、ひどく鋭くて力のあるものだった。
 何でそんな事を知りたがるのか。そう思った公大だったが、何となく思い当たった理由に唇が歪んだ。
 全く、どうしてこんな事を二人して悩んでいなければいけないのだろうな。
「……男としてなら、興奮した。そんな体で裸よりエロい格好されて、喜ばない奴なんかいないわな、当然」
「それで?」
「稲生玲菜の友人の柏木公大としては、正直困った気持ちだったな。男の本能に身を任せたい気もしたけど、目の前にいるのは、一人の綺麗な女の子ってだけの存在じゃなくて、俺の大事な親友だからな。そういう気持ちと視線で見るには、その、なんだろうな。俺とお前は近すぎる」
 愛の告白をしているような、気恥ずかしい気分だった。奥底の気持ちを打ち明けるのだから、対して変わらないとも公大は思う。
 その言葉に、玲菜の口元が僅かに緩んだ。彼女が求めていた答えかどうかは分からなかったが、彼の目には彼女が満足したように見えた。
「……そうよね」
 呟く玲菜の微笑みが、鮮やかに華を取り戻していく。
「満点には程遠いけど、合格点をつけてあげる」
「厳しいな、試験官さんや。百点は何だよ?」
「この美しさに見惚れた哀れな子羊である所の公大君は、感謝の印として亜里沙ちゃんと彼女の交際を後押ししてくれた、とかだと全て丸く収まるんだけどなぁ」
「は、そりゃ俺には永劫満点取れそうにねぇな」
 芝居がかった口調でいう玲菜の言葉に、公大は吹き出しかけた。この期に及んでそれだけ言えるのだから、全く彼女はたいしたものだと思う。
「まあ、安心したわ」
「ん?」
「悩みすぎて楽しんでないんじゃ、今日のこれだって無意味だったって事でしょ?」
「ああ、それなら心配ない。近年まれに見るくらい楽しいからな。感謝してるよ、玲菜」
「改まって言われると照れるわ。感謝の気持ちは形で表して欲しいわね」
 一瞬目を丸くした玲菜が、そう憎まれ口を叩く。しかしその口調は弾んでいたから、言われた公大も口元をにやりと吊り上げる。
「では何を御所望でしょうかお嬢様?」
「喉が渇いたから、トロピカルサワーなんか飲みたいわね」
「OK。でもこの人ごみだからなぁ、ちょっと時間かかるぞ」
「よろしく。あ、私もちょっと休みたいから、眼鏡とって来るわ。だから十五分後にここでどう?」
「異議なし」
 立ち上がり、更衣室の方に向かった公大の背中に声が掛かる。
「ダブルサイズ一つで、ストロー2本立ててきてね?」
 どこまでも、玲菜は玲菜であった。



 売店目指して通路を歩いていた公大は、深々と溜息をついた。
 規模が規模だけにアクアパレス内併設の売店はかなりの数があるのだが、夏日の日曜の午後ともなるとそれでもキャパシティに限界があるらしい。どこもかしこも長蛇の列であり、少しでも空いている所を捜して彼は駆けずり回っていた。
「あー、くそ。ここもえらい並んでやがるな……」
 ようやく辿り着いた場所も、かなりの込み具合である。悪態をついた公大の目に、偶然それが飛び込んできた。
 見覚えのある背格好の女性が、彼の前の方を歩いていた。金髪と見間違うばかりの明るい髪をショートにして、純白のビキニを身に着けている、向日葵のような女の子。
「し……づる!?」
 思わず呟いた公大は、慌てて回れ右をして駆け出した。
 どうしてここに居るのだろう。公大の思考を疑問符が埋め尽くす。これだけの陽気だから確かに遊びに出てきていても不思議ではないのだが、こと詩鶴に関する限り偶然という要素は考えにくかった。
 どこからか情報が漏れたのか。誰かに喋った記憶など彼はなかった。玲菜が喋ったのだとしても、彼女の性格ならば直に詩鶴に伝える事だろう。それならば、もっと早い段階でちょっかいが掛かってきそうである。
 ドリンクは後回しだ。まずは玲菜と合流して、対策を。
 方針を決めた公大がふと我に返ると、見覚えのない通路に入り込んでいた。慌てて駆け出したせいで、元来た道とは全然違う所に入ってしまったらしい。
「くそ……一体どこだよここ」
 巨大な施設はこういうときに仇になる。まずはどこかで案内板を見つけないと。そう思った公大の背後から、不意に人の気配が伝わってくる。
「な……っ――」
 反射的に振り向いた公大は、みぞおちの辺りを突き抜けた、重く鈍い痛みに声を失った。
「バラバラになってくれるのを、ずっと待ってたんだ。人気の無い方に来てくれたのは本当、好都合だったよ」
 聞き覚えのある声が頭上から降ってくる。しかし腹の中を駆け回る激痛のせいで、公大は声も顔も満足に上げる事が出来ない。
「て……め……ど、う……」
「後でゆっくりと教えてあげる。ゆっくりとね」
 膝をついた公大の無防備な首筋に、鋭い衝撃が走る。犯人の名前を叫ぶ事も出来ないまま、彼の視界は黒く染まり、意識が闇に落ちた。









「……遅いわね」
 不機嫌極まる声で玲菜は呟いた。ちらりと腕時計に目を落とした。一時半。約束の時間より十五分ほど過ぎている。
 頬杖を付いて公大が来るだろう方向を見つめている玲菜の背後から、自分では魅力的だと思っているのだろう笑顔を浮かべた男が近づいてきた。軽薄な身振りを交えながら、妙に甲高い声を掛ける。
「ねえ、さっきからずっと誰か待ってるみたいだけど……」
「呼んでないわ。あなたでもない。待ち人は決して薄情じゃないから。さよなら」
 瞬殺だった。
 振り向きすらしなかった玲菜の言葉に肩を落として、男は歩み去っていく。彼で四人目だ。玲菜からすればいい加減、顔を向ける労力すら惜しい。自分の容姿や格好が充分以上に人目を引く事は分かっていたが、男に声を掛けられて喜ぶ趣味は彼女にはない。
 もっとも、今の彼女は本来の性癖も鳴りを潜めている。普段であれば目で追ったり、思わず声を掛けたくなるような女性が何人も居たのだが、とんと興味がわきあがってはこなかった。それも今日に限らず、ここ数日ずっとである。
「……本当、何をやってるのかしらね私ってば」
 つい先ほど口にした、自分の言葉に嫌悪する。どんな風に思ったかなどと聞く必要が、一体どこにあったのか。「鼻の下、伸び切ってるわよ」程度に言っておけば済んだ話なのに。いくら鈍い公大相手でも、あれではこちらが何を思い悩んでいるのか透けているようなものだ。

「俺とお前は近すぎる」

 公大の言った言葉が、重かった。
 自分がヘテロセクシャルであれば良かったのか。彼が女であれば良かったのか。それとも遙か昔のあの日に、彼に拒絶されていれば話は簡単だったのか。
 身を寄せ合って言葉を交し合う関係があまりに居心地がよすぎて、あり方が歪である事に気付けなかったのが敗因だったのかもしれない。
「それもこれも全部、あの女のせいよね……」
 力なく呟いた玲菜は、疲労に任せてテーブルの上に突っ伏した。相馬詩鶴が余計な事を考えなければ、そもこんなややこしい真似をしなくてすんだのだ。彼女の性格もやり口も玲菜は大嫌いだったが、性癖にまで口出しするつもりは無い。公大のお尻が目当てなら、じっくり時間を掛けて説得すればよかったのに。そうすれば――
「そうすればあいつが多分幸せになるのを見送れて、私は大手を振って亜里沙ちゃんに迫る事が出来た筈……って」
 口にして、台詞の陳腐さ加減に玲菜は顔をしかめた。自分でもはや信じていない物を言葉にする事が、いかに馬鹿らしいか。身を持って証明したようなものだ。
 亜里沙は可愛らしいと思う。叶うならば恋人同士になれれば、それは大いなる喜びだろう。
 だが徹底的に嫌われた事を、今の玲菜はどうしても絶望と思えなかった。遙かに高かった筈の彼女の位置が、自分の中で下がってしまっている事の方が衝撃だった。代わりに何が上がったわけではない。元から同じだけ高い位置にある事に、目を背けていただけだ。ここしばらくはずっと亜里沙の兄だった。今はもう公大の妹だと言う捉え方をしてしまっている。
 馬鹿馬鹿しい。体を起こした玲菜は頭を振った。
 今更関係は変わらないと、他ならぬ公大が口にした事だ。何より、どれだけ想像をめぐらせても、彼に抱かれる自分の事が想像出来ない。
 せいぜい今の自分に出来る事は、彼をからかい倒しながら平穏を取り戻させる事だろう。まずは彼が買ってきたドリンクを、仲良く二本のストローで飲む所から始めないと。
「にしても、本当に遅いわね……って、え?」
 不意に視線の先に現れた見覚えのある姿に、玲菜は言葉を失った。
 いつものようにツーテールに髪をまとめた可憐で小柄な少女が、誰かを捜しているのだろう、きょろきょろと辺りを見回しながらこちらに向かって歩いてくる。淡いピンクにフリルの付いたビキニは精一杯の背伸びと勇気の表れだろうか。慎ましやかな彼女の体つきだと「可愛らしい」という形容が似合ってしまうのだが。
 亜里沙が今日このアクアパレスに来る事など、玲菜にとってはまったくの想定外だった。公大はそんな事を一言も言っていないのだから、彼も知らないだろう
 玲菜の存在にはまだ気付いてはいないようだ。
 どうする。いくつかの可能性を頭の中にめぐらせて、玲菜は声を掛ける事を決めた。
 公大がいまだ戻る気配が無い。その事が、可能性の中の最悪のパターンを仄めかしている様で、玲菜の背中に怖気が走っていた。



 突然目の前に現れた玲菜の姿に、亜里沙は一瞬目を丸くして、そしてみるみる不機嫌な表情を形作っていった。
「こんにちわ、亜里沙ちゃん」
「……はい。偶然ですね、稲生先輩」
「本当、まさかこんな所で会うなんて思わなかったわ」
 努めて落ち着いた柔らかい表情を浮かべる努力をしていたのだが、警戒心丸出しの亜里沙には効果は薄かったらしい。上から下まで玲菜の姿に視線を走らせた、亜里沙の表情に嫌悪の色が加わったようだった。
「……ええ。先輩はお兄ちゃんと一緒なんでしょう?」
「ええ、そうよ」嘘をついても仕方のない事だ。玲菜は頷く。「公大、ちょっと買い物に行ったっきり、中々戻ってこないんだけどね」
「そうですか。本当に付き合っているんですね、お兄ちゃんと」
「そうね。ずっと一緒にいたから、何か変な気分だけど」
「わかりました。お兄ちゃんと楽しんでください。それじゃ……」
「あ、ちょっと待って」
 踵を返そうとする亜里沙を、慌てて呼び止める。このまま行かせては、呼び止めた意味がない。それにしても快い対応を期待してはいなかったが、想像以上の氷壁ぶりに玲菜は頭痛のする思いだった。
「亜里沙ちゃん、誰か捜しているんでしょう? 手伝ってあげるわ」
「……いいです。その、先輩のお手を煩わせるほどの事じゃありませんから。先輩はお兄ちゃんといてください」
「気にしなくていいわよ。いい加減待ちぼうけ食らって、ちょっと頭きちゃってるし」
 あながち間違ってはいない台詞の後に、玲菜は続けて言った。
「ひょっとしたら、亜里沙ちゃん探してる人と公大、一緒にいるかもしれないじゃない?」
 反応は劇的だった。一瞬目を丸くした亜里沙が、何か言おうとするのだが、すぐに言葉が出てこない。
「ち、違います! ありえないです! そ、その、お兄ちゃんの知ってる人じゃないですし!」
 慌てて首を横に振る、そのあまりにも大げさな仕草が、玲菜の推理の証明だった。正直外れていて欲しかった。心の中で溜息を付き、玲菜は畳み掛けた。
「柚原、よね?」
「ち、違いますから! 本当に、その、柚原さんとなんか来てませんから!」
「よく似合ってるわよ、亜里沙ちゃんのその水着。でも女友達同士ならそんなに可愛いのは着てこないんじゃないかしら? 私だって公大と一緒じゃなければ、こんなの着てこないもの」
「……! そ、それは! そんなの、稲生先輩に関係ない事じゃないですか!」
 怒りのあまり、頬を紅潮させて叫ぶ。亜里沙の台詞が耳に痛かった。本当に嫌われてしまっているのだなと自覚させられ、軽く滅入る玲菜だったがここで引き下がるわけにも行かない。
「関係あるのよ。だって、公大と聡は今一触即発なんだもの。何か問題あってからじゃ遅いでしょ?」
「問題って……また何かお兄ちゃんが聡さんに何かするって言うんですか!」
 そっちならまだいいんだけど。内心の呟きを亜里沙に聞かせられればどれだけ良いか。そう思いながら玲菜は、真面目な顔で亜里沙の顔を見つめた。
「お願い。どうしても嫌なら、一緒に探すだなんて事は言わないわ。でも二つだけ教えて欲しいの。そうしたら、もう今日は亜里沙ちゃんには絶対に構わないから」
「……何、ですか?」
 誤魔化しきる事はもう無理だと思ったのだろう。不機嫌な声でそう呟く亜里沙に向かって玲菜は言う。
「今日、私と公大がここに来るだろうって事を聡に話した?」
「……ええ」
「OK。それじゃ聡がいなくなってからどれくらい経ってる?」
「……四、五十分前くらいです。もう良いですか? わたし、行きますけど!」
 玲菜の返事を待たずに、身を翻した亜里沙は駆け出して行ってしまった。その姿を見送る玲菜の頭の中には、悪い想像が流れ出して止まる気配を見せなかった。
 おそらく入った頃からずっと、自分達は彼女と聡に監視されていたのだろう。どちらの発案かは分からなかったが、聡は羊の皮を被って、公大の事を狙い続けていたというわけだ。そして、一人になった公大を確認して行動を開始した――
「ああ、もう!」
 叫んだ玲菜は駆け出した。まずはインフォメーションセンターで公大の呼び出しだ。その後は更衣室に戻って、携帯とかを確保しなければ。公大が持って出たとは思えないし、繋がるとも思えなかったが、取れる手段は全部とらなければならない。そして最悪の最悪で、使いたくはない手段をとるためにも。
「本当、こういう状況って本来全部逆よね! 最悪だわ!」
 もう一度叫んだ玲菜の声に、周りの客が何事かと振り返る。奇異の視線も纏わり付く聡の気味悪さも、導き出されそうな嫌な結論も何もかも、腹が立ってしょうがなかった。



 相馬詩鶴と付き合う。公大がそう話した時、聡は意外そうな表情を浮かべていた。
「なんのかんの言ってても、ヒロはずっと稲生さんと付き合ってると思ってたんだけど」
「よく勘違いされるんだけどな、玲菜とはそういうんじゃないから。お前と同じで、大事な友達だよ」
「そっか。詩鶴さんてあの人だよね? 初詣の時に会ったって言う」
「そうそう。あの時は色々大変だったけどな」
「はは。ちゃんと釣り上げたんだからいいじゃないか。とても綺麗な人だし何かと大変だと思うけど、まぁお幸せに。気が向いたら、僕にも少し幸せを分けて欲しいな」
「お前な、割と後輩の子に告白されたりしてるだろ。知ってるんだぞ?」
「それが中々ね。こう、確信できる相手にめぐり合えなくてねぇ」
「贅沢者には幸せこねーぞ?」
「良く言うよ、それならヒロが今まで一番の贅沢者だよ」
 ――そんな何気ないやり取りの中に嘘は感じられなくて、本当に祝福してくれているのだと思っていた。
 公大の視界が切り替わる。あれは中学校の頃だろうか。顔をからかわれて殴りあいのケンカになっていた時、ぼろぼろになった彼の背中合わせに半分拳を受け止めてくれたのも聡だった。
「お願いだからさ! もう少し人数見てからケンカ売ってよね!」
「やかまし……ってて。女扱いされて、黙ってられっかよ!」
 互いに顔に痣を作って罵りあったあの日は、懐かしい思い出だった。
 思い出はくるくると廻り続けて、これが夢だと公大は思い知らされる。つい二週間ほど前までは、これが醒めても続く現実と寸分変わらぬ光景だった筈なのに。今はもう霞のように消えたまま、二度と形を成す事がないのだ。
 その時、不意に降りかかった冷たい感触に公大の意識が引き戻される。水を掛けられたのだと気付いたその瞬間、開いた彼の目の前には醒めぬ悪夢が広がっていた。
 滲んだ視界に映るのは、薄暗くて埃っぽい場所だ。そこかしこに積みあがった段ボール箱や、競泳用プールを仕切るためのフロート付きのロープが積みあがっている。どうやら、資材置き場の一つらしかった。
「お早う、ヒロ」
 降りかかる声に顔を上げれば、バケツを抱えた聡が笑みを浮かべている。歪んでしまった内面が滲み出ているようなその表情に、公大の背中に冷たいものが駆け抜けた。
 首筋と、腹部には鈍い痛みが残っている。中断された記憶同士が繋がりあい、自分がどうしてここにいるのかを、それで公大はようやく認識した。
「聡、てめっ……」
 叫んで立ち上がろうとした公大だったが、何かが足に絡まっていて、無様に転んでしまう。受身を取ろうとしたても上手く突けず、そのまま肩から床に転がってしまった。
「つぅ……な、にが……」
 それでようやく公大は、手首や足首に冷たい感触が絡みついている事に気がついた。鈍い銀色の光を放つ手錠がしっかりと掛けられている。後ろ手にされていない事だけが、唯一の救いだったろうか。
 公大の手足の届かぬ場所に腰を下ろした聡が、これ見よがしに小さな鍵を振ってみせる。羽織ったパーカーのポケットにそれを放り込み、口を開いた。
「落ち着いた? 状況認識できた? それじゃ、ちょっとお話しようかヒロ?」
「……よく言えたもんだな、おい。亜里沙につきまとったかと思ったら、一足飛びに犯罪者の真似事までして満足か?」
「現在進行形だよ。ヒロだって、まさかこれで終わるなんて思ってないだろ?」
 舐め回すような視線を向けられて、怖気が走るという数少ない経験をさせられた公大が口を歪める。
 状況は圧倒的に不利どころか、既に詰んでいるといっても過言ではない。無意味な挑発が身を助けるわけもない事も分かっている。それでも、下手に出て同情を誘う事など、公大自身の矜持が許せなかった。
「思ってねぇし分かりたくねぇんだが何考えてるのか分かるけどな。でもそれやったら、もう絶対に引き返せねぇぞ?」
「引き返すつもりがあれば、そもそもこんな事やると思うかい?」
「そうだな。もうお前は終わってるんだったな。男としても人間としてもなにもかも……っ!」
 甲高い音と共に、頬に走った灼熱と鈍痛に公大は顔をしかめた。身を伸ばして彼の頬を張り飛ばした聡は、すぐに元の位置に戻ってしまう。
「あんまり手荒な真似はさせないでほしいな。公大の顔を腫れ上がらせる趣味もないしね」
「は、なら最初からしなけりゃいいだろうが」
「大概の事は我慢できる性格さ。でも根本を侮辱されるような言葉は許せないだろ? たまたまヒロが男だっただけで、好きな気持ちに嘘はないってのにさ。男として終わってるなんて、ひどい言いようじゃないか」
「何を勘違いしてるかしらねぇけどな。お前がゲイだなんだで侮辱するつもりもねぇンだよ、俺は!」
 醜悪に顔を歪ませている聡に向かって、公大は叫んだ。
「そりゃ受け入れる事は出来なかっただろうな。詩鶴と付き合っていたし、そうでなくたって俺にそっちの気はねぇからな。でも、それでお前自身を否定する事はありえなかった事だけは断言してやるぞ!」
「ふぅん。その言い方だと、今はもう違うって事だね?」
「当たり前だろ! お前は一体何をやった! どんな話し合いをしてどんな取り決めをしたのかは知らねぇが、やった事は詩鶴との立派な浮気だろ。挙句、俺の妹をたぶらかして、最後には俺を拉致監禁か? 中学校時代からどれだけの付き合いだよ。浮気がばれてからだって、どれだけ時間があった? その間に人として取れる真っ当な行動、お前はどれだけとったって言うんだよ!」
 叫ぶ公大の声が掠れているのは、再現なしに湧き上がり続ける怒りのせいだった。
 おそらくこのまま自分は無残に聡に犯される。どうやってこんな場所を確保したのかはわからないが、ろくに監視カメラもなさそうだ。ありえる可能性とすれば、玲菜が超人的な頭の冴えで状況を察して助けを呼んできてくれる事だろうが、それでも相当に時間がかかるに違いない。気を失ってからどれだけ時間が経っているかは分からないが、そんなに悠長な真似を聡もしないだろう。何せ目を背けたい事実だが、彼の水着の下の股間は全開で張り詰めている。
 死を覚悟して、腹を括った人間の気持ちと言う事だろうか。公大の頭はひどく冷め切っていた。実際に殺される事はないのかもしれないが、男相手にレイプされるなど、精神的な死に等しい。
 ならば、言いたい事を言わなければ損だ。
「……何が言いたいのさ、ヒロは」
「分かんねぇかよ? 俺の言いたい事はシンプル極まりねぇぞ。何で友達を裏切るような真似をしたんだお前は!」
 両手が自由なら、胸倉をつかみあげていた事だろう。歯軋りをしながら吠えた公大の言葉に、聡の表情が変わった。
「そんなの、決まってるだろう」
 血走ったような目で公大を見つめる聡の声に、熱が篭っていた。
「そうしなければ本当に欲しい物は手に入らない。相馬さんはそう、僕に教えてくれたんだっ!」
 聡の手が、公大の左頬に伸びた。腫れて赤くなったそこを這い回る、腐れた毒虫の感触に思わず公大は悲鳴を上げそうになる。それを、気力を振り絞ってねじ伏せた。空元気でも、弱みなど決して見せたくなかった。
「君の親友というポディションはね、とても、とても居心地がよかった。別に気持ちに気付いてもらえなくても良いって、納得できるくらいにね。そのまま居れば僕は君の友達のまま、知らない誰かと家庭を築いて、平凡な一生を終える事が出来ただろうさ」
「だったら……!」
「でもね、それじゃ駄目だって彼女は教えてくれたんだ。本当に欲しい物は戦わなければ手に入らないって。その過程でいくら憎まれようと恨まれようと、後になればそれすらも甘美な思い出だってね」
 陶酔した表情で、聡は語り続ける。祈りを捧げる狂信者の顔だと、そう公大は思った。まさしく聡にとってはそうだったのだろう。詩鶴の言葉で蒙を啓かれ、今の彼は何の疑いもなく自分の欲望にひた走っているというわけだ。
 公大はきつく唇を噛み締めた。積み重ねてきた筈の数年間の友情が、そんな言葉であっさりと崩れ去った事が何よりも悔しい。それとも、彼女の言葉は本当にきっかけでしかなく、聡との友人関係は、触れれば崩れ去るほどの砂上の楼閣の上でしかなかったと言う事だろうか。
「相馬さんは本当に良いパートナーだよね。味方と認めた者に対しては、惜しみない援助を与えてくれる。彼女が居なければ、今こうしてヒロと二人っきりになる事だって出来なかったもの」
「……それで、あいつもここに居たってのか」
 止まらず喋り続ける聡の言葉で、見かけた詩鶴の姿の謎が解けた公大の脳裏に、何かが閃いた。
 本当に細い光が、今目の前に見えた気がした。
「いいのかよ、聡」
「ん?」
「ご主人様の待てが掛かってるんじゃないのか? 勝手に食い始めたら、さぞかし怒られる事だろうな?」
 公大の言葉に一瞬息を呑んだ聡は、憎憎しげに公大を見下ろした。
「……余計な事を言っちゃったかな? もう少し、脅えていてもらいたかったけど」
 図星か。推理の正しさに小さく胸を撫で下ろした公大のすぐ側に、聡が顔を寄せてくる。
「でもね、同じつまみ食いでも、バレない食べ方だってあると思わないかい?」
 にやりと口元を歪めた聡が舌を突き出して、ぺろりと公大の頬を舐め回した。
「ヒロには三回もど突き倒されてるんだ。これくらいは前払いの報酬さ」
 そのまま聡は両手で公大の頭を押さえつけると、強引に唇を重ねてきた
「――っ!」
 詩鶴とも違う。玲菜と比較する気にもならない。ただ柔らかいだけのおぞましい何かが、唇を這い回り、飲み込んでくる。
 突き飛ばしたくなる衝動を、公大は必死で堪える。固く顎を閉じて、割り入ってきた舌だけは拒みながら、燃え上がりそうな怒りと羞恥を宥め続ける。
 時間を稼がねばならない。状況を変えるだけの時間を。まず端鶴が顔を見せるだけの時間を。そこからもう少し稼げれば。ひょっとすれば。
 それだけを言い聞かせて、強引で稚拙な聡の口付けを、公大は受け止める。
 頼む……玲菜。
 胸の中で、その名前を呼び続けながら。