「公大が来たら、この番号に電話するように言ってください」
「あの、行き違いになる可能性もありますから、ここでお待ちになられていた方がよろしいかと……」
「そうも言ってられない事情があるのよ! そういう事で、お願いするわっ!」
 困惑した表情の受付係を尻目に、玲菜はインフォメーションセンターを後にしていた。
 行き違いになる位ならどうという事はないのだ。問題は呼び出しに応じられない状況に陥っている場合であり、その可能性がどうにも低くないのだから。公大は残念ながら小さな子供ではない。施設の人間がもし大々的に動けるとするなら、少なくとも二、三時間は行方不明の状態が続いていないと駄目だろうし、玲菜の想像通りの状況なら、それでは遅すぎるのだから。
 取れる手が、あまりにも少なすぎる。
 舌打ちした玲菜は、羽織った丈の長めのパーカーのポケットから携帯を取り出すと、公大の番号をコールする。十回呼び出し音が鳴った所で、苛立たしさを隠さず切った。何度かけてみても同じだった。最初から持っていないのか、出られる状況にないのか。どちらであっても、このルートから無事を確かめるのは不可能だという事だ。
 学校くらいのサイズであれば、怪しい所を片っ端から虱潰しに調べていく事も可能だろう。しかしこのアクアパレスはあまりに広すぎる。クラスメートの人数くらい人が使えれば人海戦術も可能だろうが、玲菜一人では不可能だった。
「……ああ、もう!」
 腕組みをして考え込んだ玲菜は、もう一度携帯を開いて一つのアドレスを呼び出した。コールボタンに伸びる指が何度も躊躇い、彷徨う。
 取引は持ちかけた者が多大なリスクを背負う羽目になる。まして、玲菜が提供できる物など限られている。
 もし公大が何の問題もなく、たまたまトイレにでも閉じこもっていたのであればこの行動は大チョンボだ。取り返しのつかない事態を引き起こす事になりかねない。
 ――その時はその時だ。
 玲菜は唇をかみ締め、腹を括った。責任は必ず自分がとろう。亜里沙は聡と一緒にここに訪れている。そして聡は今、姿を消している。この状況で楽観論に頼る気には、どうしてもなれなかった。
 しなやかな指が、コールボタンを力強く、押した。五度の呼び出しの後に、電話が繋がる。
"もしもし?"
「――こんにちわ、詩鶴さん」
 冷めた声で玲菜は呟いた。そうしないと激情にどこまでも流されてしまいそうだったからだ。
"ん、どうしたの玲菜さん。何かご用でも?"
「ええ、本当なら回りくどく話し合いたい所だけど。時間が惜しいわ」
 一度小さく息を吐き出して、玲菜は言った。
「公大はどこ?」
"え……?"
「誤魔化しはいらないわ。私と一緒に遊んでた公大が、姿を消したの。あなたならその場所を突き止める手段があるはずよ。教えて頂戴」
"あら、デートでもしてたのかな? うらやましいなぁ"
 ふざけないで! そう叫び出したい衝動を噛み殺した。これは今、唯一彼女の手に触れている糸だ。簡単に手繰り寄せられるとは思っていない。それでも、引き寄せなければ話にならないのだから。
「……ええ。つい一時間前までは最高に楽しかったわ。それも邪魔が入って台無しだけど。せいぜい終わり位は綺麗に締めたいの」
"そうだね、せっかく綺麗な水着を着てたんだもの、もっと公大に見てもらいたいよね?"
「……なんですって?」
"パーカー羽織ってるのは勿体無いな。まあ、色々歩き回らなきゃいけないからしょうがないんだろうけど、それだけ綺麗なんだから、もっと見せびらかして歩いた方が情報集まるんじゃないかな?"
「――あなた、今、どこにいるのかしら?」
 玲菜はまだ、自分がアクアパレスにいることなど話してはいない。まして聡から情報が漏れていたのだとしても、今現在の格好まで分かる筈がない。
"後ろ、振り向いてみて?"
 携帯からの詩鶴の声に導かれるまま、玲菜は歯噛みする思いで振り向いた。
 視線の先、休憩用のベンチスペースの一角に、純白のビキニも目にまぶしく、艶やかな向日葵が手を振っている。
"ね? TEL番、交換しておいてよかったでしょ?"
「ええ……本当」
 小さな舌打ちと共に玲菜は通話を切ると、そのまま大股で詩鶴の元に歩み寄り、言った。
「やっぱりあんたが攫わせたのね、聡に」
「イエスともノーとも言えないかな。ただ、柚原君は随分与えられた情況を利用してはいるみたいだけどね」
「そう。自分が何をやったのか分かってる?」
「ん、心当たりがあるとは言えないけど。それでもこのまま警察に突き出す?」
 詩鶴の表情は変わらなかった。楽しそうに携帯を弄びながら、上目遣いで詩鶴の顔を見つめている。玲菜の口元から、きつく噛まれた歯の音が漏れた。こちらがその手段を取れないと思っているのか。それとも、突き出される事すら面白い余興だとでも思っているのか。
「そうしてやりたいわ。その取り繕った表情が、困惑と恐怖に歪む所をマジックミラー越しに見てやりたい。でも今は何よりも時間が惜しいのよ」
「頭が良いね、玲菜さん。あたし、今まで以上にあなたの事が好きになれそう」
 微笑んだ詩鶴の口元を覆うように、玲菜の右手が伸びた。どちらもすこぶるつきの美女が距離を縮めて向かい合うその光景は、若い男でなくても思わず目をひかれる程に艶かしい。だが、伸びた右手の小指は詩鶴の顎から喉の辺りにかかっていた。少し滑らせるだけで、容易に手は首筋を押さえられる事だろう。
「――公大はどこなの」
「それは似合わないよ、玲菜さん。ほんの少しだけ、指が震えてる。この状況でそれだけ自制してるのは凄いと思うけど」
「スタイルに拘るのは、公大の顔を見てからにするわ」
「あたしがただのお客だっていう可能性は?」
「ありえないわ。それなら今姿を見せる必要なんてない。あなたの目的は二つに一つでしょ? 私の足止めか。それともあなた自身が私に対して別の目的があるのか」
 見下ろす玲菜の顔からは、表情が抜け落ちている。眼鏡の奥の、眼の光がただ、鋭い。
「ふふ、良い表情をしてるね。公大のためなら何でもするって、顔に書いてあるもの」
「当たり前でしょう。彼は私の……」
「好きなんだ? 友達としてではなく、幼馴染としてでもなく、公大の事を公大として好きなんだね?」
「――ええ、好きよ」
 ただ呟くように言った玲菜の声は喧騒に溶け込み、詩鶴以外に聞こえる事はなかった。
 一度目を閉じた詩鶴は、触れる玲菜の手にそっと自らの手を重ねる。
「あたしは何を得られるのかな? 今、もし公大があたしの手の中に在るんだとしても、それを譲り渡すにはそれ相応の対価が必要になると思うよ?」
 そして目を開けた詩鶴の表情からも、笑みは消えうせていた。勝るとも劣らぬ、鋭い視線で玲菜の顔を射抜く。
「……そうね。こんなのはどうかしら?」
 空手だった左手を固く握り締め、玲菜は身を屈めて詩鶴の耳元に口を寄せる。言葉の意味を理解していく毎に、詩鶴の目が小さくだったが見開かれた。
「……取引の材料としては、充分に成り立つ代物だと思うけど?」
「うん、正直驚いた。思い切ったね、玲菜さんってば」
「あなたの信条として、これは拒否しにくいんじゃないかしら? でなければ、一度は聡を引き込んだ理由が嘘になるもの」
「そうだね。その辺りも良い線ついてる。でもね、自分の言った事の意味が分かってる? 多分あなたは全てを失う事になるけど」
「今の状況に比べれば、遙かにマシよ。それで、どうなの?」
「付け加えるなら更に一つ、かな。それも充分にきつい条件だと思うけど」
「何かしら?」
「ここの警備員を使う事はNG。あんまり大きな話にはしたくないもの。だからあなた一人で行くのなら、取引に乗ってあげるよ」
 面白そうに言う詩鶴の言葉に、玲菜は一瞬言葉を失った。
 聡が公大を捕らえて待ち構えている密室であろう場所へ、玲菜一人で行けという。体格も、戦闘力も圧倒的に差が開きすぎている。それを玲菜一人で埋めろと詩鶴は言う。明らかに罠だと疑いたくなる。こちらがそう思う事を見越して、彼女はその条件を突きつけている。
「……いいわ。護身具の持込くらいは許可願いたい所だけど」
 一つ小さな溜息をついて、玲菜は言った。
 もとより虎穴に入る覚悟であった。ぞろぞろと人を引き連れていけば、獲物に逃げられてしまう可能性だってある。それに、万が一間に合わなかった場合、公大の無残な姿を人目には晒したくなかった。
「ただし、あなたにも側までは来てもらうわ。場所だけ教えられた後、先回りの連絡で聡に乱入を教えられたらどうしようもないもの」
「当然だね。でも信用できる? そのまま、いざその場所についた時、あなたを捉える側に廻る可能性は相当高いとか思ったりしない?」
「それなら最初から、私を捕らえて一緒に連れて行く条件を突きつけるでしょ? もっともそうなったら私が乗るかどうかはまた別問題だけど」
「OK。本当、肝も座ってるね玲菜さん。本当にあたし好みの性格してる」
 立ち上がった詩鶴が、ぽんぽんと玲菜の肩を叩いた。
「……褒められたのだと思っておくわ」
 先に歩き出した詩鶴の背中に向けて、玲菜はそう吐き捨てた。



 薄暗い倉庫の中で、晒された公大の肌の白さが殊更に際立っていた。体を覆い隠す物は何も無く、口には剥ぎ取られた水着の布が詰め込まれている。頭の後ろで猿轡のように結ばれているせいか、吐き出す事もできない様子だった。
 うっすらと涙が浮かんだ目で向かいあう聡を睨みつけ、くぐもった声で何かを叫んでいる。手錠を咬まされた両の手でむき出しの股間を隠してはいたが、欲情に満ちた聡の舐め回すような視線の前には無力であった。
「本当、綺麗な体してるよね、ヒロってば」
 興奮で顔が赤く染まった聡は、荒い息をつきながら言う。蹴り飛ばされないように公大の膝の辺りを尻で踏んで押さえつけ、滑らかな太ももに指を這わせていく。
「確かに男の筈なのに、こんなに肌も綺麗だ。華奢なくせに筋肉のつき方はしなやかで、でもどこか女の子みたいな柔らかいラインをしてるしね」
 聡の指が太股から、公大の両手へと移っていく。
「どかしてくれないかな? いまさら隠したってしょうがないだろ? 綺麗な顔のままでいて欲しいし、あんまり頬を腫れ上がらせるような真似はしたくないんだ」
 猫なで声に、反応は無い。溜息をついた聡は公大の肩に手を掛けると、もう片方の腕を振り上げる。
 乾いた音が、倉庫の中に響き渡った。
「本当に強情だね、公大ってば。もう諦めたら? いずれは助けが来るかもしれないけど、それは僕がいなくなってからさ。その時にはもう手遅れだよね?」
 ふー、ふーと猿轡の上から荒い息をつく公大。その目は受け続けている羞恥と、そして怒りに血走っている。その表情が、さらに聡の中の嗜虐心を煽り立てているのだが。
「それとも、こう言ってあげた方がいい? 言う事を聞いておかないと、後できっと亜里沙ちゃんがひどい目にあうよって」
 聡は楽しそうに公大の耳元に囁いた。目を見開いた公大は、必死で体を捩って聡の手から逃れようとするが、体格が絶望的に違う。体勢もどうしようもなく悪い。どうする事もできずに、聡に組み敷かれたままだった。
「嘘だと思う? 嘘だと思いたい? 無理だよね。僕がここに来たのは、彼女から君たちが来るらしいって聞いたからだもの。本当一途だよね、亜里沙ちゃん。稲生さんに無駄な警戒心抱いて、君を守らなきゃって囁いて上げたら、一も二も無く付いてきてさ。そんなに僕の事が好きなのか、それとも君の事が大事なのか。きっと両方だろうね」
 てめえ! そう叫ぶ公大の声は猿轡に阻まれて、ただ空しい息の音に変わる。
「説き伏せてでもいい。どこかに連れ込んで無理やりでもいいさ。別に亜里沙ちゃんの体に執着は無いけど、同じ日に兄と妹、両方の体を貪るってのも乙な物だと思わない?」
 腐臭がしそうな聡のその言葉に、公大はきつく猿轡をかみ締めた。噛み切れろと。言葉を封じるこの戒めが、目の前の男の薄汚い喉笛であればというような憎しみを込めて、歯を立てる。だが分厚い生地は解れる様子も無く、公大の目に映るのはおぞましい聡の微笑だけだった。
 公大の肩から、力が抜ける。閉じた彼の目じりから、一筋雫が流れ落ちる。ゆっくりと退けられた彼の手の下に隠されていたモノに視線を走らせて、聡の口から熱の篭った溜息が漏れた。
「はは、顔に似合わないよね、そんな立派なのぶら下げてるなんて。神様もひどいのか歪んでるのか、何で公大を男にしちゃったんだろう」
 残念そうにいう聡だったが、その目はギラギラと欲望に染まり、公大の股間から離そうとはしなかった。
「女の子なら良かったのにね。きっと何の戸惑いも躊躇いも無く、僕は君を好きになって、僕の気持ちも受け入れてもらえただろうに。君が男なばっかりに、こんなややこしい手順が必要になっちゃう」
 聡の手がゆっくりとソコに伸びた。嫌悪と混乱で縮み上がったままのモノを、愛しむ様になで上げる。顔を背けた公大の口から、掠れそうな嗚咽が漏れた。
「いずれして貰うのも楽しみだけど、今日は僕が先だよね。なるべく痛い思いはさせないようにするから、公大の方も受け入れる努力はして欲しいな」
 弄びながらそういう聡の脳裏には、遠くない未来の情景が浮かんでいる。自分の腕の中でよがり花開く公大の顔を想像するだけで、彼の股間は痛いほどに張り詰めていた。
 口の端がだらしなく開き、よだれが少し顔を出す。そんな聡の妄想を断ち切ったのは、最小にボリュームを絞っていた、彼の携帯の着信音だった。
「……残念。スポンサー様のご確認かな?」
 憎々しげに呟いた聡は立ち上がると、着信相手を確認した。予想通りの名前に溜息を漏らして、呼び出しに応じる。
「……もしもし」
"ハイ、ずいぶん連絡がなかったから心配しちゃった。どうなったのかな?"
「失敗するわけないよ。公大は今、目の前にいる。ちょっと疲れて不貞寝してるみたいだけど、あなたの顔見たら喜んで飛び起きるんじゃない?」
"そっか。それは楽しみだな。ところでつまみ食いなんかしてないよね? それはNGだって、約束だったよね"
「……大丈夫。でも食べやすいように皮を剥く位は役得だよね」
"ふぅん。じゃあ、今……"
「ごめん、もう少し大きな声で喋ってもらえないかな、相馬さん。そこがどこなのかはわからないけど、聞こえないんだ!」
 電波が弱いのだろうか、詩鶴の声が小さくて聡にはよく聴こえなかった。自然声が大きなものになり、彼の声が倉庫の中に響いていく。
"あたし……すぐ……鍵……"
「だから、よく聞こえないんだ。はっきり喋って!」
"鍵……ドア……"
 断片的に聞き取った単語を繋ぎ合わせて、聡は舌打ちした。つまりは今扉の前にいるのだが、鍵が掛かっているから入れないと言う事だろうか。確かに鍵を彼女から受け取っていたが、もう一つスペアを手に入れるという発想はなかったらしい。ノブを回す音は聞こえていなかったが、無駄を省いたと言う事だろう。
「全く……妙な所が抜けてるね、相馬さんは」
 振り返って公大に向かって肩をすくめると、聡はドアに向かって歩き出した。割と大きい部屋なのでドアは二箇所あるのだが、奥の方は荷物が積みあがっていて通り道が非常に狭い。詩鶴もそれは知っているのでくるとすれば手前のドアからに決まっている。
「思ったより来るの早かったな。もう少し楽しみたかったけど、こっちの考え読まれちゃったかな」
 苦笑を浮かべた聡はドアの鍵に向かって手を伸ばす。
 その瞬間、後頭部を重く鈍い衝撃が突き抜けた。
「がっ……ぁっ?!」
 目の前に火花が散る。激痛と衝撃で呼吸が詰る。何が起こったのか聡は理解できなかった。
 反射的に振り向いたその脳天に、もう一度重い一撃が振り下ろされる。今度は悲鳴を上げる事すら出来ず、聡はその場に崩れ落ちた。



「……まぁ、囮は奇襲の基本よね。逆の方に来たらどうしようかって思ったけど」
 デッキブラシを両手で握り締めた玲菜は、荒い息を落ち着けるように、ゆっくりと言った。
 ドアにもたれかかる様に崩れ落ちた聡が動く気配はない。さすがに死んではいないだろうし、それよりも今の玲菜には優先すべき事態がある。
「公大! 大丈夫なの?!」
 振り向いて駆け寄った玲菜は、公大のあられもない姿に小さく息を呑んだ。それでも直ぐに膝をついて、彼の口を塞ぐ猿轡を解く。
 久々の新鮮な空気に小さく咳き込んだ公大は、そのまま無言で玲菜の肩に顔を埋めて、もたれかかった。
「ごめんなさい……もっと早く来れればよかったのに……」
「そんな事ねえよ……助かった……本当に、ありがとう……玲菜」
 小さな嗚咽を混じらせて、公大は呟いた。その背中に手を回して、玲菜は無言できつく抱きしめた。幾度と無く背中を、そして頭を撫で下ろされる手の温もりに、ついに公大の中の堰が切れた。
 声を上げて泣き始める公大を、ただ玲菜は優しく受け止める。部屋に響いていた泣き声はやがて小さくなり、公大は体を揺すって、玲菜の手を振り解いた。
「……すまん、本当、情けない真似してるな。こんなカッコでお前に泣きつく羽目になるなんて」
「馬鹿。こんな時に男も女もないわよ」
「正直、もう駄目だと思った……でも、どうしてここに来れたんだ?」
「色々と交渉したのよ。詳しく話したいけど、まずはこんな所から出ましょう」
「……これだけ何とかしないとな。鍵は聡の野郎が持ってると思うんだが……」
「本当、趣味悪いったらないわね、あいつ」
 手錠に繋がれた両手と両足を見せて顔をしかめる公大に、玲菜も頷いて吐き捨てた。聡を拘束した後に叩き起こして聞きだすか、まさぐって見つけ出すしかないだろう。後者は気が進まなかったが。
 そう思いながら振り返った玲菜の視線の先に、聡の姿がなかった。
「……え?」
「玲菜っ!」
 公大の叫び声と同時だった。横から襲い掛かってきた何かに、玲菜の体が押し倒される。
「きゃあっ?!」
 悲鳴を上げて転がった彼女の体を、血走った目の聡が押さえつける。
「本当……何度も、何度もやってくれるね君はっ!」
「聡、てめえっ!」
 叫んだ公大は不自由な両手と両足のまま、それでも体当たりで聡を突き飛ばそうとする。しかしそれより早く、聡の放った後ろ蹴りが鳩尾にめり込み、公大は悶絶して崩れ落ちた。
「公ひ……痛っ!」
「自分の心配をしたらどうだい、じゃじゃ馬さん!」
 馬乗りに圧し掛かった聡は、玲菜の頬を張り飛ばした。衝撃に呆然と彼の姿を見上げた玲菜は、染みる痛みと共に状況を認識する。
 公大は両手も両足も使えない上に、腹を押さえて呻いている。そして自分の体格では、柔道の有段者の聡をこの体勢から跳ね退ける事など出来ない。
 彼女の瞳が、徐々に恐怖に染まっていく。
「ああ、そうだよ。散々邪魔されたからね。その顔が見たかったよ稲生さん!」
 聡の手が玲菜の胸元に伸びると、そのまま下の水着ごと、力任せに引きちぎった。
「きゃぁぁぁぁぁっ!」
 この後の運命を悟り、玲菜の悲鳴が倉庫の中に響き渡る。それを心地よさげに聞く聡の手が、まろび出た玲菜の豊かな乳房を捏ね上げた。慈しみも愛情も無い蹂躙に、彼女の口から苦痛の吐息が漏れる。
「本当、レズのくせにこんな体で公大の所を唆してさ。おとなしく女同士で乳繰り合ってれば良かったのにねぇ!」
「いた……やめて……やめなさいっ!」
「まだそんな口が聞けるんだ? その気の強さはすごいよ! 何の役にも立たないけどね!」
 玲菜の肩を押さえつけたまま、聡は破れた水着を引き摺り下ろす。輝かんばかりの裸身がさらけ出され、玲菜の顔が怒りと羞恥で真っ赤に染まる。舐め回すようにその体を見つめた聡が、口笛を鳴らした。
「公大以外はどうだって良いって思ったけどね。なかなかどうして。そそられるよ」
「やめ……て……」
「うるさいな! 少し黙っていてくれよ!」
「……っ!」
 逆側の頬を張り飛ばされ、呆然とする玲菜の両足を強引に割り開いて、聡は体を入れる。既に水着がずり下げられた彼の股間のモノは凶悪にそそりあがり、それを見てしまった玲菜の顔が、恐怖で引きつる。
「いや……ダメ……やめて……」
「ヒロとはまだだろ? 目の前で大事な幼馴染犯されれば、一体どんな顔してくれるのかな?」
 欲情し歪んだ顔でそう叫んだ聡の耳に、
「……そんな物見たくねえんだよっ!」
 吐き捨てた公大の声が届いた。それと同時に、聡の首に公大の腕が巻きつき、頭を押さえ込んだ。
「か……は……っ?!」
 状況を悟る間もなかった。鞭のように細くしなやかな腕に一気に締め上げられ、頚動脈を押さえつけられた聡の意識は急速に遠のいていく。振りほどこうと体を振る、その行為が逆に締め上げを強めていくのだ。
「華奢な体を今だけは感謝するぜ、クソっ!」
 公大の叫びに返事は無い。苦し紛れに締め上げる腕に掛かった、聡の手から力が抜けていく。
「大会なら反則だけどな! 両手拘束されてたってこれくらいは出来るんだよカス野郎っ!」
 完全に意識が落ちた聡の体を振りほどき、公大は吐き捨てた。そして直ぐに玲菜の方に目を向ける。
「玲菜、大丈夫か!」
 いまだ震えていた玲菜だったが、今度こそ危機は去ったのだと理解して、目を閉じると、深い深い溜息をついた。
「…………本当に、ありがとう。助かったわ」
「それこそお互い様だ……って!」
 彼女のあられもない状態に気がついて、慌てて公大はそっぽを向く。その態度に思わず玲菜は吹き出した。
「そっちこそ丸出しで今更よ」
「……お互い、なるべく見ない方向で」
「そうね。服装の問題もそうだけど……」
 昏倒している聡に目を向けて、玲菜は冷たい呟きを漏らす。
「とりあえず、そこの屑を動けないように縛っておくのを提案するわ。幸い大量にロープになりそうな物、作ってくださったし」
 もちろん公大からも異論の声は上がらなかった。




 警察に突き出そう。そう主張した公大に対して、反対したのは玲菜だった。
 警察に公大が襲われた事も全て説明しなければならなくなる。調書を作るとなれば根掘り葉掘り全てを聞き出してくるだろう。仮にその辺りを口裏合わせても、聡が全てをぶちまければ、警察がこちらに対して信用性に疑問を抱いてしまう。
 それならば、切り札を握って伏せておいた方が良い。
「こんなの撮りたくもないんだけど……」
 そう口にしながら、とても鑑賞に堪えないような姿の聡を携帯の写真に収めていく玲菜の顔が悪魔に見えたが、もちろん公大に止める意思などあるわけもない。
「まぁ、何を言いたいかは分かるよな?」
 裸に後ろ手で両手両足を縛りあげた聡に向かい合い、公大は皮肉げに口元を歪める。
「別に学校辞めろだなんだは言わねぇよ。ただな、もう二度とその面を俺や亜里沙や玲菜に見せるな。二人に何かあったら、問答無用でお前の仕業だと判断する。俺に何かあっても、玲菜はそう判断する。恨めば良いさ。だけど、それで行動したって得るものなんか何もないぞ?」
「……随分とひどい仕打ちだね。終わりの見えない悪夢に脅え続けろって事かい?」
「生憎と、俺も玲菜もそれをお前に刻まれかけたからな。悪いが容赦するつもりは欠片もないぞ」
 そのまま立ち上がった公大は、玲菜に出ようと促した。聡のパーカーを奪って着込んでいる玲菜はともかく、公大はボロボロになった水着を無理やり体に巻きつけてる状態だった。何とか人目の少ない所を見つけて、更衣室まで戻らないといけなさそうだ。
「待ってくれよ! 僕をこのまま置いていくつもりかい?!」
「あんまり遅ければ詩鶴が来るんじゃねぇの? そんな事、俺らが知った事か」
「その前に警備員や施設の職員が来たらどうするのさ!」
「そんな事俺らが知ったことか。せいぜい自分で考えろよ」
「はは、良い度胸だね。僕は君らにやられたと言ってまわる心配はしないのかい?」
「その時は仕方ないな。大騒ぎになるのは嫌だが、暴行容疑が俺らからお前に切り替わるだけだぞ。お前に引きちぎられた水着やらなんやらは、割と証拠になると思うけどな?」
「それにね?」
 足を止めて振り返った玲菜が、ボロボロの衣服だったものの中から取り出した携帯電話を聡の目の前に翳す。多少擦れた傷がついていたが、動作に問題はない様子だった。彼女が動画の再生ボタンを押した瞬間、聞き覚えのある声が倉庫の中に流れ出す。
"……散々邪魔されたからね。その顔が見たかったよ稲生さん!"
 それを聴いた瞬間、聡の顔から血の気が引いていた。
「そんなの、いつ……」
「備えあればってね。何かの足しになると思って、あんたに攻撃しかける直前から録画してたの。映像は無いけど、音声だけあれば充分でしょ?」
「……ファインプレーだな、本当」
「壊れない事だけを祈ってたけど、割と頑丈で助かったわ。それに誘導する必要も無くNGワードガンガン喋ってくれたからね、こいつってば」
 感嘆の視線を向けた公大に向かって、玲菜が微笑んだ。その瞬間、全てを諦めたかのように聡が項垂れる。
 その姿を目にして、公大の口から深い深い溜息が漏れた。
 ようやく問題は一つ片付いたのだ。あくまで一つでしかなかったが、それでも、背負い続けている肩の荷が少しだけ、軽くなったような気がしていた。









「……話くらいは聞いてくれる気になった、かな?」
 玲菜の言葉に答える事無く、亜里沙は食い入るように彼女の携帯の画面を見つめていた。映っているのは、黒一色の中を何かが動き回っている光景だけ。しかし繋がれたイヤホンから流れている音声が、亜里沙の口から言葉を奪っている。
 亜里沙が今耳にしているのは、玲菜が聡に襲われかけた時の音声である
 アクアパレスフロント前のオープンラウンジに、三人は席を取っている。喧騒と歓喜が渦巻いている空間の中で、彼らのいる一角だけ陰が差しているかのようだった。
 既に公大も玲菜も服を着替えている。向かい合う亜里沙も可愛らしいサマースタイルのワンピースに身を包んでいた。それだけ彼女が今日の聡との一時を楽しみにしていたと言う事なのだろう。それを完全に壊さなければならない事に公大は僅かの罪悪感を覚えていた。だが、もう容赦も余計な気遣いもするべきではないと身を以って学ばされたのだ。これ以上、亜里沙の方からも聡に近づかせるわけには行かなかった。
 耐えかねたのだろう。亜里沙の指が伸びて、録画の再生を止めた。イヤホンを外して、顔を上げた彼女の表情は、今にも泣き出しそうなほどに沈んでいる。呼び出された瞬間の亜里沙は、触れば破裂しそうなほどに怒りを露にしていた。しかし耳にした真実の衝撃が、全てを吹き飛ばしてしまったようだった。
「柚原さんが……そんな……」
 震える声で呟いた亜里沙に向かって、公大が口を開く。
「マジだ。一応言っておくが未遂だぞ? 玲菜は大丈夫だ。まあ、録音されてないけど、他にもろくでもない事あったがな」
 ふるふると首を横に振った亜里沙が、じっと公大を見つめていた。
「……どうした?」
「お兄ちゃん、前に言ってたよね。その、柚原さんに告白された、って」
「……ああ、言ったな」
「その、この時に、お兄ちゃんもこの場にいた……の……?」
「…………ああ」
「ろくでもない事って、その、やっぱり……」
「玲菜が来てくれなければ、俺は今ここにいなかった。本当、あと少しだけ遅かったらアウトだった。何がか、とかはさすがに勘弁してくれ」
「……ごめん、お兄ちゃん。先に帰る」
「亜里沙、まだ話は……!」
「ごめん! でも、少しだけ、少しだけ一人で考えたいの……」
 公大が止める間もなく、亜里沙はそこから駆け出していってしまう。言葉を失った彼の肩を、玲菜が突付いた。
「行きましょう。一緒に帰る必要はないけど、見守って行った方が良いわ」
「そう……だな。さすがにアレだけ脅しつけておけばもう顔も見せないとは思うが……」
 促されて立ち上がった公大も、再び湧き上がってきた怒りにきつく奥歯を噛み締めた。
 今頃は詩鶴に助け出されたのか。それとも自力で逃げ出したのか。これから先の自分の人生未来全てを投げ出して、なりふり構わず襲い掛かってくる可能性はゼロではない。せめて今日この後くらいは、皆何事もなく家に辿り着きたかった。



 日は既に暮れ掛け、道を歩く人々の足元に大きな影が出来ている。
 電車を降りた後も、小さな背中を視界に納めながら公大と玲菜は歩いていた。亜里沙も気付いていないわけはないのだが、駆け出していく様子は無い。ただ、一人で考える時間が欲しいと言う事なのだろう。
「あー、そういえば」
 突然声を上げた玲菜が、額に手を当て、二度三度、頭を横に振った。
「どうした?」
「レストラン予約してたのよ。ディナーはそこにしようって思って」
「……とてもそんな気分にゃなれないしなぁ」
「後でキャンセルの電話いれておかないと。あそこのパスタ、美味しいって評判だったのになぁ」
 残念そうに言う玲菜の口元に、ふいに悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「ねえ? 公大はパスタ、食べたい?」
「ん?」
「いつも作ってもらってばかりだったから。今日は作ってあげるわ」
「いや、食欲が……」
 公大がそう言うより早く、玲菜は彼の腕に自分の腕を絡めていた。
「こういう時はね、無理にでも何か食べた方が良いわ。それと、一人きりで居るのは絶対によくないのよ。落ち着くまで、誰か安心できる人と一緒にいた方が良いの」
 体を摺り寄せて、そう彼の耳元に囁く。玲菜の声が僅かに震えている事に公大は気付いた。
 当然だ。どれだけ気丈でも、命とは別の意味で大事な物を無理やり奪われかけたのだから。それは自分も変わらないと、公大は思った。いつもは照れを感じてしまう彼女の温もりが、今は例えようもなく心地良かった。
「玲菜」
「なぁに?」
「何も作ってくれなくて良いし、何もしなくても良いから。ただ、そこに居てくれるだけでいいんだ。今日はウチに泊まっていってくれないか」
 足を止めて、そう、公大は言った。
 一瞬目を見はった玲菜だったが、重ねていた公大の手が震えているのに気付いたのか、そっと指を絡めた。
「別に何かしても良いわよ? 付き合ってるんだから」
「前向きに検討しとく。でも今は良いや。側にいてくれるだけで」
 普段なら言えないそんな言葉が、公大の口をついて出た。
 日が暮れていてくれて良かったと、公大は思った。今この瞬間は随分と面白い顔をしている事だろう。
 そして同じだけ、残念だと思った。自分を見つめている玲菜の顔色が、夕日に溶け込んでしまってよく分からなかったから。



「どう? 割と上手くいった自信あるわよ?」
「むぅ……思ったよりは美味い。パスタの湯で加減はまだ甘いけどな」
「もっと素直に褒めなさいよ。いつまでも料理下手じゃいられないのよ」
「まぁそれは認める。よく頑張った」
「でしょ?」
 ダイニングテーブルに向かい合った公大と玲菜の目の前には、彼女の作ったカルボナーラと、レタスとトマトがメインのサラダが並んでいる。
 私がお腹空いたんだから、付き合いなさい。そう言って作り始めた玲菜の姿は、公大の記憶の中にある物よりは随分と様になっていた。簡単に言ってはいたが、相当に自分の家で料理の練習をしたのだろう。
「ん、美味しい。会心の出来じゃないこれ! 自分で自分の所褒めるわよ!」
 自分も口にした玲菜が、頬を緩ませる。その顔に、公大の目が引き寄せられる。見慣れた筈の彼女の笑顔が、ひどく新鮮に見えてしまう。
「まいったな……」
 フォークを操る手が止まり、彼は思わず呟いた。
「ん、どうかした?」
 それを耳聡く聞き止めた玲菜が、小首をかしげて問いかける。思わず言葉に詰まった公大の視線が、天井の辺りを彷徨う。
「ん? ん? 何か言いたい事あるのかしら?」
「いや、その、だな。言いたい事というか、だ」
 お前の顔に見惚れた。
 そんな事を素面でさらりと言えるほど、公大の口は達者ではない。錆付いたように開きが鈍くなった口からは、呻くような音しか出てこない。
「ふふ。何かあんたの顔、妙に赤い気がするんだけど?」
「そんな事はないぞ! いたって冷静だ!」
 嫌な笑みを作って、身を乗り出した玲菜の視線が下から彼の顔を見上げている。全部わかっていると言わんばかりのその表情が、公大にはなんとも小憎らしい。
「俺が言いたかったのは、だ」 
 無理やり力を込めて、フォークで皿の上のカルボナーラを指して言った。
「俺はあんまりカルボナーラが好きじゃなかったって事だよ!」
「半分以上減ってるわよ?」
「す……好きならもう食い尽くしてるっての!」
 そっぽを向いてまくし立てた時点で、公大の敗北だ。自分でもそれが分かる辺り、なんとも口惜しい。耐え切れなくなって吹き出した玲菜の笑い声を尻目に、親の敵といわんばかりにざくざくとサラダボウルをフォークで突き刺す。
「了解。次に作る時は覚えておくわ。まぁ、その前にお礼って事で公大の料理を食べさせてもらいたいけど」
「……覚悟しとけよ。土下座して美味しすぎますごめんなさいって言わせてやるからな」
「楽しみにしてるわ。なるべく早くお願いね」
 どこまでも普段の余裕を取り戻した玲菜の姿に、公大の目はまた吸い寄せられていた。



「亜里沙ちゃんの分はラップ掛けて冷蔵庫入れてあるわ。良かったら食べてって伝えておいて」
「自分で言えば良いだろ。もうあいつも普通にお前の話を聞くと思うんだが」
「ん、どうかしらね。聡の問題は片付いても、まぁまだ色々問題はあるの。女心は複雑なのよ」
「なんだそりゃ」
「公大にはずっと分からないだろうし、分からなくて良いわ」
 肩を竦めた玲菜は、公大のパイプベッドの上に腰を下ろした。
「いや、せっかく座布団用意したんだからそこに座れよ」
「なんかねー。あんたの部屋に来るとここに腰下ろさないと、来た気がしないのよね」
「ものすげー横暴だな、おい」
 呆れたように言う公大だったが、いつもの事だ。彼女の足元に座布団を引いて、彼も自分のベッドにもたれかかった。
「ふふん、それでガードしたつもり?」
「あ?」
「相馬さんと付き合ってた頃は仕舞いこんでただろうけど、もう十日以上後無沙汰でしょ? そろそろ引っ張り出して使ってた筈よね?」
「な、何の事だよ!」
「今更隠さなくったって良いじゃない。どれどれ……」
 ベッドの上に体を乗り上げた玲菜は、そのまま両手を床に突き、下の隙間を覗き込んだ。
「ちょ、待て玲菜お前っ!」
 慌てた公大が伸ばした手に向かって、ごろりと転がり懐に入り込むと、素早く伸びた彼女の手がベッドの下から一冊の雑誌を摘みあげた。
「はい発見ー!」
「だぁぁぁぁぁっ! 何をしやがるかお前は!」
 抱きかかえて取り上げようとした彼の手から器用にすり抜けると、玲菜はベッドの中ほどで勝ち誇った笑い声を浮かべている。
「あら、相変わらず金髪巨乳物なのねぇ」
「ほっとけってか頼むからほっといてくれってか、お前、自分が女だって言う自覚はないのか……」
「だって私だって結構持ってるし。割と公大のセンスを認めてるつもりよ? あら、折り癖。ここを良く使ってるって事ね。ふぅん……」
「いっそ殺せ…………」
 公大秘蔵の成人雑誌を楽しそうに眺めだした玲菜だったが、しばらくしてそれを閉じると、公大の横に移動した。
「怒ってる?」
「……呆れてるんだ、馬鹿。何でそんな顔して、やってる事はそこらのエロ男子高校生と変わらないのかね、お前は」
「それだけ言えるなら、少しは元気出たって事かしら」
 そう呟くと、玲菜は腕を伸ばして、彼の首に回した。
「お、おい?」
 後ろから回された彼女の手に、思わず公大の鼓動が跳ね上がる。首筋をくすぐる彼女の髪がこそばゆくも心地良い。背後から抱きしめられてるのだと気付いて、出掛かった文句の言葉はどこかへ消えた。
「なんかね……安心したせいかしら。今になって、きちゃった」
 公大の耳元に響く、玲菜の声が少し震えていた。家の前で話した時よりも、力のない声だった。
「いつもはね、もっと頭使って行動してるつもりなのよ。なるべくリスクを考えて、少ない方へ。それが駄目なら、せめてリターンの多い方へ」
「……ああ、よく分かってる。だから玲菜は本当、頼りになるし」
「でもね。ここ数日、そんな事ずっと度外視。今日なんか全く考えもしなかった。ただただ、あんたを助けなきゃって。それしか考えられなくなってた」
 抱きしめられているのではなかった。胸に廻った彼女の腕が、小刻みに振るえている。玲菜はしがみ付いてきているのと、気が付いた。だから公大はそっと彼女の腕に自分の手を這わせる。二度三度、ゆっくりと撫でさする内に、玲菜の震えも小さくなっていく。
「ありがとう……」
「それを言うのは俺の方だって。お前がいなければどうなっていたか」
「あのね、聡の奴に押し倒された時、本当に怖かったわ。あんたには気軽に見せてる裸をあいつの目に晒した時、死にたいくらい怖くなって、殺してやりたいくらい憎らしかった。あいつに犯されそうになった時は、もう何も考えられなくなってた」
「ごめんな、そんな目にあわせたのは、俺のせいだよな」
「あんたが謝らないで。そんな事言われたら、意識しちゃうんだから」
 少しだけ、玲菜の声と腕に力がこもった。
「不思議よね。男にしがみついたりするのなんか真っ平なのに。あんたも同じ男なのに、今こうしてるの、とても気持ちいいのよ」
 その言葉に、公大の中で何かがかちりと嵌っていた。回されていた玲菜の腕をゆっくりと解くと、膝立ちで彼女と向かい合った。
「……公大?」
「あいつとは違うぞ」
「え?」
「あいつは、自分の欲望だけを優先して、他の全てを投げ捨てたんだ。そんな奴、男ですらねぇよ」
 公大の手がゆっくりと、玲菜の背中に回される。もう片方の手は彼女の頭に。そのまま彼は彼女の体を引き寄せた。
「ふぁ……ん……」
「お前が決定的な部分で男を受け入れられないってのは分かってる。分かってるけど、でも、それでも良いんだ」
「きみ……ひろ……」
「芝居とか作戦とかそんなんじゃない。詩鶴の事は関係ない。ずっと封じ込めてたつもりだったけど、もう無理だわ、俺」
「公大……だめ……」
「玲菜、俺はお前の事が……」
「お願い! お願いよ、公大っ!」
 震えて、小さく漏れたその声が、最後の言葉を押し留めた。
「お願いだから……それだけは……言わないで……」
「……そう、か」
 中学の時は、形にする前に押し留められた。そして今は、形にする事を拒まれた。その一線は、どうしても越えられない、高い壁なのだと言う事だろう。
 名残惜しさを振り払い、公大は抱きしめた手を解こうとする。それを、背中に廻ってきた彼女の手が遮った。
「玲菜?」
「……ごめん。勝手な事を言ってる自覚があるわ。それでも、お願い……もう少し、こうしていて」
 胸の辺りで抱きとめているせいで、公大からは玲菜の顔が見えない。だが、くぐもった声で頼まれたその言葉を、振り切る事など出来るわけがなかった。
「初めて、よね。こうして公大から抱きしめてくれたのって」
「そう、か。そうだったかもしれないな」
「ええ、そうよ。そうなの。だからお願い。もうしばらく、このまま……」
 途中から、玲菜の声は意味のあるものではなくなっていた。嗚咽と共に、胸の辺りにひやりと濡れた感触が伝わってくる。
 これで良いのかもしれない。
 きつく目を閉じた公大は、玲菜の背中に回した手に力を込めた。そうしなければ、熱くなり始めた目頭の物を堪える自信がなかった。
 大切な物を。大切な関係を。わざわざ壊す必要が一体どこにある。
 囁く理性の正しさが、今の公大には殊更に煩わしかった。