■ 5 ■




 ダウンライトに淡く照らされた公大の部屋の中で、玲菜はベッドの上から身を起こした。
 彼女の手に握られた携帯が小さな振動を繰り返している。メールの着信のようだった。時刻に目を走らせると、一時丁度。相手の確認はしなくても分かっている。いずれ来る物だとは思っていたが、本当に、こちらの都合も何も考えない相手だと玲菜は嘆息した。
 すぐ下の床では、持ち込んだ布団を敷いた公大が寝息を立てている。逆で良かったのにと玲菜は何度も言ったのだが、頑として譲らなかった。意地っ張りなのか、根の気の優しさか。どちらにしても彼らしいと玲菜は思う。
 さすがにパジャマを持ち込む余裕がなかったので、今彼女が着ているのは公大の制服のYシャツだった。ショーツだけは近所のコンビニで間に合わせたが、さすがに寝巻きまで慌てて買い揃える気にはならなかった。
「お前、だからそうやってマニアックな嫌がらせを……」
 シャワーを浴びた後、この格好で現れた玲菜を見た公大の顔はとても面白い物だった。あんな話をした後でも、そうやって返してくれる彼の心遣いが身に染みた。
 音を立てないように気を使い、玲菜はベッドから降りると公大の枕元に腰を下ろした。気づく様子もなく眠り続けている公大の顔を、彼女はじっと見つめる。
 寝顔を見るのは久しぶりだった。一時の恋人が出来るようになってから、玲菜はさすがに彼の家に泊りがけで遊びにいくと言う事もなくなってはいたし、それは公大も同様だったから。
 玲菜の記憶の中と、そして今目に映る公大の顔がゆっくり重なっていく。口を開かなければ、本当に綺麗な少女のような顔立ちをしている。許される許されないは別として、聡のように道を誤る者が出ても不思議ではない魅力を秘めている。乱暴な言葉使いはそれを避けるための精一杯の自己主張なのだ。そのギャップがたまらないと悶える層がある事を、教えた事はなかったが。
 玲菜の口元から、小さな吐息が漏れた
 気づいてはいけない事を、気づいてしまった。
 一度底に目を向けてしまった以上、押し殺す事は出来なかった。
 目を閉じて、ゆっくりと玲菜は呟く。
「……最後まで、言わせてあげたかったわ」
 好きだ、と。
 もしあのまま公大が口にしていれば。玲菜の中で出せる答えは一つしかなかった。
 互いに上り詰めた感情のまま、身を任せる事だって出来たかもしれない。生まれて初めて、そして最初で最後の男に抱かれるという事も、公大相手であれば。
「……怖いけど。怖いけど、でもきっと嫌じゃない。あんたの事、そして私の事。お互い、誰よりも知り尽くしているものね」
 玲菜は震える手を伸ばして、目に掛かっていた公大の髪の毛をそっと避ける。そのまま頬を触れたいと思う欲望を押し殺して、指を戻した。起こすつもりはなかったし、そうなっても色々と困る。
「……後悔がないといったら嘘になるわ。でも、それが間違ってたとは思ってないわ」
 呟くと膝に力を込めて、彼女は立ち上がった。もうしばらくここにいたら、そのまま彼の体に抱きついてしまいそうだった。
 洗濯されて、しっかり糊の効いていたこのワイシャツですら、彼にそのまま抱きしめられている錯覚を覚えてしまうのだから。
 残り香にどことなく身体が熱くなるのを感じながら、彼女は部屋のドアに手を掛けた。その瞬間だった。
「玲菜……」
「……公大?」
 自分の名を呼ぶ声に、彼女は振り返った。
 聞かれていた? どこから?
 思わず身を固くする玲菜だったが、すぐに規則正しい寝息が耳に飛び込んできた。
「……もう」
 苦笑を浮かべて、玲菜はドアのノブを捻った。
「本当、一体どんな夢を見てるのやら」
 ただそれだけの事ですら、口元が緩んでしまう。今のこの気持ちを、手放したくないと思ってしまう。
 それはもう不可能な事なのだと、覚悟を決めた筈なのに。
「……夢の中の私は、もっとあんたと上手に付き合えているのかしらね」
 小さく漏らした彼女の問いに対する答えは、無論、帰ってくる事はなかった。




"本当に大変だったね。お疲れ様"
「……他人事のように言ってくれるわね」
 明りを絞ったリビングで、携帯を握り締めた玲菜は憎しみを隠さない声色で呟いた。
"そう? あたしだって色々失った物はあるんだから、痛み分けだと思うけどなぁ"
「切り捨てても痛くない物を、放り出しただけでしょう。とりあえず聡はもうおしまい。これで公大の敵は貴女だけよ」
"そうだね。もう少し上手く使えるかなと思ったけど、ちょっと彼は扱い難すぎたなぁ"
 受話器の向こうからは笑い声が聞こえてくる。自分の部屋で詩鶴は今頃、覆せぬ高みに上っている事を噛み締めている。もはや聡の事など頭の片隅にも残ってはいるまい。切り札をいつテーブルに叩きつけるか、それを決める快感に酔いしれているのだろう。
 玲菜はきつく唇を噛み締める。それを引き起こしたのは紛れもなく自分だ。状況が何もかも圧倒的に敵対していたあの場面で、思いつけた札がそれしかなかった。
 もう少し自分に才覚があれば。先に立たぬと分かってはいても、幾たびも幾たびも後悔は頭を擡げてくる。
"それでね、玲菜さん"
「……言いたい事は分かっているつもりよ」
"そう、なら話が早くて助かるな"
 憎たらしくてたまらない女の顔が今目の前にあるような錯覚を覚えて、思わず玲菜は拳を繰り出していた。もちろんその先に手ごたえなど伝わらず、空しく空を切る。
"約束の履行は、何時になるのかな? 何時でも良いけどね、貴女の都合が良くなった時で"
「私が仕込み終えた時で、の間違いでしょう」
"どちらでも意味は変わらないよ? あたしはただ待ってるだけだから"
「明後日で良いわ。火曜日の放課後。準備が終わったら貴女を呼ぶってことで良いでしょ?」
"うわ、早いね。別に催促するつもりはなかったから、一週間先くらいでも良かったけど"
「その頃には、あんたが学校全て掌握してる様が目に浮かぶわ」
"買いかぶりだよ。それにはもう少し時間がかかっちゃうし"
 からからと笑う、詩鶴の声のトーンが、突然冷えた。
"もう、そこまでする必要はないでしょ?"
 ぞくりと。玲菜の背中を嫌な汗が滑り落ち、彼女は体を震わせた。
「……本当、公大も厄介な相手に見初められたのね」
"貴女が十年側で見て、知っているつもりだった以上にね、あたしは良くみてるつもりだったわ。公大は本当に魅力的なんだよ。何をおいても、どんな手を使っても、彼の全てを手に入れたくなる位にね"
「そう。なら最初の一歩を間違えたんじゃない?」
"そんなの気にしないよ。だっていくら道を間違えたって、時間と備えと体力さえあれば、いずれ目的地には辿り着くでしょ? あたしには全部あるもの。だから、公大はちゃんと、あたしの所に戻してみせるよ"
 信じられないほどの自信を纏わせた詩鶴の言葉に、玲菜は壊れそうになるくらい、強く強く携帯電話を握り締めていた。
"だから、別に公大が道を間違えたとしても、あたしは気にしないつもり"
「……何が言いたいのかしら、詩鶴さん」
"まだ夜が明けるまで、時間は沢山あるよね。今から公大の所へ言って、抱いてもらってきても、あたしは別に――"
 最後まで聞き終える事無く、玲菜は通話を切っていた。
「本当……馬鹿にしてるわ」
 唇を震わせて、玲菜は呟いた。
 掛かり直してくる気配はない。握り締めていた携帯を投げ捨てて、玲菜はソファの背にもたれかかった。
 そこに、廊下の方から足音が響いてきた。振り返った玲菜の視線の先に、目を丸くして彼女を見つめている亜里沙の姿があった。
「稲生先輩、起きてらしたんですか……」
「ええ……ちょっと、寝れなくてね。亜里沙ちゃんはどうしたの」
「少し喉が渇いたんです。麦茶でも飲もうかなって。先輩は要ります?」
「お願いするわ」
 玲菜がそう言うと、キッチンに姿を消した亜里沙がすぐに二人分のグラスを運んでくる。
「ありがと、亜里沙ちゃん」
 差し出されたグラスを受け取り、玲菜は微笑んだ。テーブルを挟んで向かい合うように腰を下ろした亜里沙も釣られて笑顔を浮かべる。ここ数日で久しぶりに玲菜が目にした表情だった。
 だがそれもすぐに引っ込むと、亜里沙は深々と頭を下げる。
「ごめんなさい……」
「亜里沙ちゃん?」
「誤解して、ひどい事ばかり言って……しっかり考えてみれば良かったんですよね。稲生先輩、お兄ちゃんの事誰よりも良く知ってる人なのに」
「気にしないで。亜里沙ちゃんからすれば、私たちがおかしいって思っても不思議じゃなかったもの。公大だってまさか聡の事、最初から正直に伝えられる訳なかったものね」
「それでも、わたしのせいです。わたしが今日、お兄ちゃんたちがアクアパレスに行くみたいだ、なんて話さなければ……」
 堪えきれず、泣き出した亜里沙の頭を、手を伸ばして玲菜はゆっくりと撫でた。
「大丈夫よ。私も、公大も、大丈夫だったから。だから気にしないで。それに物は考えようじゃない。今日、あの事件があったお陰で、こうして亜里沙ちゃんがまたわたしたちの話を聞いてくれるようになったんだもの。だからそれでお終い」
「ごめんなさい……先輩、本当にごめんなさい……」
 嗚咽を漏らす亜里沙の姿は、本当に弱々しいものだった。無理もないと思う。自分や公大とは違う形で、彼女も深い傷を負ってしまったのだから。
 だけど、彼女の傷は癒せる物だ。公大が、そしていずれ彼女を好きになる男が、ゆっくりと、時間を掛けて癒していけば良い。
 残念ながら、それをする資格が自分にない事を玲菜は分かっている。
「……ねえ、亜里沙ちゃん」
 涙に濡れた頬をそのままに、亜里沙が顔を上げる。そこに話しかける自分の声が、ひどく乾いてしまっていると玲菜は思った。
「一つ、聞いて欲しい事があるの。きっとまた嫌な思いをしちゃうと思う。でも、聞いて欲しいの」
 何事か分からないまま、しかし首を横には振れないだろう事も分かっていた。ゆっくりと首を縦に振ったのを確認して、玲菜は口を開いた。









 結局月曜日は、公大も玲菜も学校へ行く事はなかった。
「まぁ、偶には良いんじゃない? 色気は欠片もないけど」
「そう言うならせめてブラ位はつけてくれ……谷間以外も色々見えてるから! 刺激的すぎて朝から目の毒だっての」
「これ以上下に血が集まったら困っちゃう?」
「すこし黙れシモネタ大王!」
 そうやっていつものように笑い合える事に心の中で感謝しながら、公大はフライパンを振るう。
 彼の振舞った少し遅めの朝食に舌鼓を打った後、玲菜は家に帰ると彼に告げた。
「さすがに、ね。二連泊って訳にも行かないし」
「どうする? 説明が必要なら口裏あわせくらいは亜里沙にもさせるけど」
「割といつもの事だから大丈夫よ。少なくとも昼間は父さんも母さんも居ないしね」
 送ると言い張った公大の言葉を柔らかく退けて、玲菜は家路へとつく。その背中を見送った公大は、堪えていた恐怖に背中を押されて家の中に駆け込んでいた。
 誰もいなくなった家の中で一人で居る。その事に意識が向いた瞬間、彼の手は細かな震えが止まらなくなっていた。
「ちく……しょう……」
 固く目を閉じて、脳裏に焼きついたあの光景を追い払う。目を開けて、見慣れた自分の部屋である事に感謝した。それでももう一度目を閉じれば、これが全て夢なのではないかと、あらぬ妄想すらしてしまう。
 最後の一線は守れていたとはいえ、体中には今もまだ、蛆虫のように這い回った聡の指の感触が残っている。唇には押し付けられたおぞましい柔らかさがこびりついている。喜悦で醜悪に歪んだ聡の顔が突然目の前に現れた気がして、公大はトイレに駆け込んでいた。
 朝胃の中に放り込んだ物を全て吐き出し、なお足りない。胃液に焼ける喉の痛みと、口の中に残る酸味と匂いにまたむせ返りそうになったが、あの口付けよりは遙かにマシだった。
「はは……くそ、情けねぇなちくしょう……」
 トイレから這い出た公大は、よろよろとリビングに戻るとソファの上に倒れこんだ。手探りでリモコンを探し出してテレビの電源を入れたが、番組になど目もくれない。音が出ていればそれでよかった。静寂に耐える事が出来なかった。
「くそ、くそ、どんだけビビリなんだよ、俺は……!」
 呟いた声も震えている事に気がつき、公大は自嘲的な笑みを浮かべていた。
「はは、本当によ、もし玲菜がいなけりゃ、どうなってたんだかな、俺は……」
 少なくとも今この場に居なかったのは間違いない。それとも、こうしてショックで打ち震えているその横に、亜里沙の彼氏面をしてのうのうと聡が座っていたのだろうか。もし本当に犯されていたら、亜里沙に言える筈などなかったのだから。
 食い違い、もはや二度と正常に廻らなくなりかけた歯車を、玲菜は必死で治してくれたのだ。どれだけ感謝の気持ちを伝えても、伝えたりない。それだけに、一度危険な目にあわせてしまったのがどうしようもなく悔やまれた。
 そして今、その温もりを求めてしまっている事も。
 稲生玲菜を愛している。
 誰かに聞かれれば、今の公大は胸を張ってそう答える事が出来る。だが、その言葉を一番伝えたい相手に聞かれた瞬間、この愛しくも苦しい関係は崩壊してしまう。
 異常な状況下で結ばれた男女は長続きしないという。好きな映画の台詞を思い出し、公大は深い、深い溜息をついた。
 確かにこの二週間ほど、取り巻く状況が平常とは言いがたい。だが、異常な状況というのであれば、十年育んできた玲菜との関係そのものが歪であったのではないか。
 近すぎる。そうプールサイドで彼女の問いに答えた言葉が、めぐり巡って自分に突き刺さってる思いだった。
 玲菜も好きでいてくれているという自信はある。人の心の機微には疎いと言われ続けているが、それでも彼女の考えている事くらいは読み取る自信があった。
 もし昨日の夜、あの続きを口にしていればどうなったのだろう。この甘い牢獄から抜け出すことは出来たのだろうか。
「……駄目なんだろうな。きっとあいつを泣かせちまう」
 砕けて壊れた物を組み直して、果たして何ができるのか。玲菜も自分も、きっとそれを見る事が怖くて出来ないのだろう。
 亜里沙を除いてただ一人だけの、命を掛けて手を差し伸べても惜しくない相手。つい二週間前まで、それは相馬詩鶴の事だと思っていた。だが彼女に向けて伸ばした手は、手酷く叩き落された。そして今、どれだけ恋焦がれ求めても、本当に望む相手の手を決して掴む事は出来ない。
 本当に欲しい答えは、決して得ることが出来ない。それでももし今回、先に危機に陥っていたのが彼女であったとすれば、たとえ誰を傷つけても彼女を助け出していただろう――
 深い思考の海に沈んでいた公大の意識が、一つの違和感に引っかかり、表に引き釣り出された。
「――どう、やって?」
 自分が姿を消したあの時点で、聡が来ていた事を玲菜は知らなかった筈だ。
 居なくなった時に亜里沙と顔は合わせていたらしいから、そこから類推は出来ていたかもしれない。だが、あの場所をどうやって見つけ出したのだ。大々的に捜索を要求して、施設の職員や警備員と一緒に来たのなら理解できる。しかし玲菜は一人だった。
 腑に落ちない。
 考えるべきではない。
 相反する二つの意見が頭の中を巡っている。
 背後にちらつく何かが、急速に膨らみ、彼の心に手を伸ばしてくる。目を向けるべきではない物への誘惑を、公大は拭い去る事が出来ない。
 止めろ。
 意味がない。
 身を挺して彼女が助けにきたのは、紛れもない事実だ。
 どうやって。
 正攻法では間に合わなかった。
 搦め手を、あの場面で駆使する手段は限られている。
 割れた心が言い合っている。公大は音を立てて奥歯を噛み締めた。
「うるせえ、意味ねえだろ、それは!」
 それは無人のリビングに響き渡るほどの大きな声だった。息を切らして、肩を震わせ、起き上がった公大は乱れる心のままに髪を掻き毟った。
 聞いて答えが返ってくる問いではない。どんな答えを聞いても、一度ネガティブな意識を持ってしまえば満足など得られない。必ず意味のない反証を突きつけて、枯れ木を幽霊に仕立て上げてしまう。
 玲菜は身の危険を顧みず、助けに来てくれた。
 目の前に転がっている結果だけが全てなのだ。それ以上を求めても、何の意味もない事だって世の中には沢山ある。
 こうして益体もない事を考えてしまうのは、一人で閉じこもっているせいなのだろう。
 それだけ聡に刻み込まれた心の傷が大きいと言う事なのかもしれない。
「くそ、結局全部あいつのせいじゃねぇか……」
 肩を落とした公大は、立ち上がりバスルームへと向かった。纏わりついた不快感と、茹りきった頭をどうにか静めない事には、この場にいる事すら苦痛になっていたから。




「お兄ちゃん、ご飯どうする?」
「……いらねぇ」
「どうせお昼も食べてないんじゃないの? 少し食べた方が良いよ?」
「悪い、明日の朝はちゃんとやるし食べるから。今日だけはちょっと我侭言わせてくれ」
 キッチンから掛かる亜里沙の声に、ソファに沈み込んだままの公大はそう返した。空っぽの胃がきりきりと痛んだが、どうしても何かを食べる気にはならなかった。せめて明日には落ち着くだろうと思っていたが。
「今日だけはって……ここん所お兄ちゃん、我侭言い続けだよね?」
「……的確な突っ込みありがとうな。とにかく、すまん。夕飯はいいから」
 しばらく返答はなく、リズミカルな包丁の音だけが響いていた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「あ?」
 その音が止まり、キッチンからエプロン姿の亜里沙が姿を見せた。その表情は妙に真面目なもので、思わず公大は体を起こして向かいあう。
「昨日ね、お兄ちゃんが寝てる時だと思うんだけど」
「おう」
「稲生先輩にね、その……告白、されたよ」
 公大はソファから滑り落ちた。
「きゃっ!? ちょ、ちょっとお兄ちゃん大丈夫!?」
「……ってぇ……ってか、おい。お前今なんて言った?」
「ずっと前から、好きだったのって。そう言われたの。その、稲生先輩の噂は聞いてたから、そういう意味じゃびっくりしなかったけど、まさかわたしが言われるとは思ってなかったから……」
「……いや、まぁそこは良いんだが」
 自分に対する感情とは別に、性癖として玲菜が亜里沙にそういう感情を持って居たのは確かだったから、その事自体は公大にとって今更である。だがそれももう表に出す物ではないと思っていたのだが。しかも寄りにも寄ってこのタイミングだ。リスクとリターンを天秤に掛けて、どう考えても割に合わないように思える。
 あまりにも予想外な状況に、なんとも言えない感情を抱えたまま、公大は口を開いた。
「で……、その、お前は?」
「それは……ほら。稲生先輩、とても綺麗だと思うけど、そう言うのはやっぱり違うもん。それに今、とてもそんな事考えられる状態じゃないよ」
「だよ、な……」
 当然とも思える結果を告げられて、公大は溜息をついた。理解はできたが、あまりにも納得はしづらい。嫉妬とかそういう感情を思い浮かべるべきなのか、結論付けられないのも性質が悪い。
「そ、それでね。断った後、先輩は笑っていってたの。きっと公大は気になってしょうがないだろうから、全部説明するから、明日の放課後、部室に来てくれって伝えてくれって」
「いや、言われなくても行くつもりだったから良いんだが……こう、何と言うか……」
 言葉を失う公大に向かって、亜里沙は真剣な目で言った。
「お兄ちゃんさ、稲生先輩のこと昔からずっと好きなんでしょ?」
「何だよ、急に」
「いいから! そうなんだよね?」
「……ああ。好きだ」
 力強く頷いた公大の顔を見て、亜里沙の表情も少し緩んだ。玲菜が何を考えているのか分からなかったが、その気持ちだけは偽りないのだから。
「うん、だからね、きっと色んな意味で先輩のけじめだったんだと思うよ。区切りをつけて一歩一歩って奴」
 分かるような、やはり分かりにくいような事を言う。だが妹の、そして玲菜の言いたい事は伝わった気がした。
「お兄ちゃん、頑張ってね。わたしも大丈夫。頑張れそうだから」
「……ああ」
 亜里沙の微笑みに、公大も力強く、一つ頷いた。
 その瞬間、何かが吹き零れる音がキッチンから伝わってくる。
「って、亜里沙! お前味噌汁!」
「あーっ!」
 叫んだ亜里沙が慌てて踵を取って返す。その背中に向かって公大は言った。
「悪い……俺の分の味噌汁も頼むわ」
 問題は山積しすぎていて、どれから片付ければ良いのか分からない。
 亜里沙の言ってる事もどれだけ的が当たっているのやら。玲菜の真意が何なのか。戦になるのか肩透かしなのかそれもわからないと来ている。それでも、腹が減ったままでは格好がつかない。
「うん、分かったー」
 妹の答えに、公大は少しだけ口元を緩ませる。
 せいぜい腹いっぱい飯を食べて、明日に備える事にしよう。ここ数日間でそれが一番まっとうな考えに思えた。







 何事もなく火曜日は訪れ、数日振りの代わり映えのしない日常が公大の目の前に広がっていた。
 ただ、詩鶴だけは風邪を引いたという事で、教室に姿を見せていなかった。
「風邪……ねぇ」
 それを知っても素直にそう受け止められない辺り、自分でも随分と荒んでいると公大は思ったが、それならば好都合だった。
 女王が居なくても、兵士達は職務に忠実なのだ。敵意の視線と無関心に挟まれ続けていれば、小さな救いの一つも求めたくはなる。
「いやほんと、どうすりゃいいのかねこれは……」
 自分の机に突っ伏して、公大は力なく呟いた。
 今一番顔を見たい玲菜は、まだ学校に来てないという。午後から来るのか、それとも放課後に約束の場所にだけ来るつもりなのか。どちらにしても三年の夏だというのにその自由人振りがすこしだけ恨めしい。
「あれで俺より圧倒的に成績良いって言うんだから、納得いかねえ……」
 現金な文句まじりに、彼は溜息をついた。
 昨日休んだ分のノートは、いつもなら誰かに見せてもらうのだが、しばらくそれは期待できそうにない。本当に、詩鶴が来てから何から何まで歯車が狂いっぱなしだ。空白部分が出来そうなノートを見つめて、彼は頭を振った。



 公大の気分がどうであれ、時間だけは否応もなくすぎていく。
「なあ、柏木。聡は一体どうしたんだ?」
「はい?」
 昼食の時間だった。いつものように屋上へ行こうとした公大が振り向くと、神妙な顔をした堀内の姿がそこにあった。
「何って、昨日も今日も学校に来てないからさ。お前なら何か知ってるんかと思ってな」
 ああ、そういや堀内と聡は同じクラスだったな。
 思い出した公大は、首を横に振る。耳にするのも嫌な名前だっただけに、浮かびかける露骨な嫌悪をなんとか押さえ込んだ
「知らねえ。てか、もうあいつの事は俺に聞かれても困る」
「はぇ? あれですか、お前らケンカとかでもしたんですか?」
「ケンカってか、絶交ってか。とにかくアレだ。これからは聡の名前を出さないでくれ」
「へぇぇ、マジかよ。随分意外なお話ですなぁそりゃ」
「……まあ、今まで仲は良かったからな。それは否定しないけど、まぁ、色々あったんだわ」
「ひょっとしてアレすか? 相馬さん挟んで恋の三角関係?」
「違えよ、ばか」
 嫌な目線で、意味ありげにそう言った堀内に向かって、公大は手を閃かせたがあっさりと避けられる。
「何だ違うんですか。話のネタ一つ仕入れそこなったなぁ」
「……ちょっと頭出せ。今なら全力の一発にまけとく」
「はは、そりゃ遠慮しとく」
 公大の手の届かない所まで身を引いた堀内は、からからと笑った。その態度は、詩鶴が来る前と何の代わりもない。
「てか堀内、お前良いのか?」
「あ、何が?」
「耳早いお前なら知ってるんだろ? 俺が今クラスでどんな立場か」
 親友というわけではないにしろ、公大からすれば割と言葉を交わす間柄なのだ。変に巻き込んで彼の立場を微妙にするのも心苦しい。現に、二人の側を通り過ぎるクラスメートの中には、公大と話す堀内の姿にひそひそと声を立てている者も居る。
「あー、あー。はいはい」
 ぽんと手を打った堀内は、公大の側に顔を寄せて、言った。
「ンなの、前から変わらねえんだわ。交友関係が広いって事はな、それだけ敵も作りやすいんですよ。外野の聞こえない声とか気にして友達づきあいや女との付き合い出来ませんて」
「……そういうもんですか」
「そういうもんです」
 まあ、町で声掛けた女の子がヤクザの愛人だった時はマジで死ぬかと思ったけどなぁ。
 そんな事をあっさり話す辺り、公大の想像以上に堀内と言う男は良い性格をしているらしい。
「……なあ」
 だからだろうか。思わず公大の口から、仕舞いこんでいた言葉が漏れた。
「好きな女が大事な友達で、告白しても絶対に結ばれないとわかってても、お前なら好きだって言うか?」
「あー、なんですかそりゃ?」
「いいから。別に深い意味はなくて、お前の意見が聞いてみたい」
 一瞬怪訝な表情を浮かべた堀内だったが、公大の顔が真剣だと気付くと、腕組みをして考え始める。
 しばらく黙ってた彼は、やがてゆっくりと首を横に振った。
「言えないですなぁ。結果が見えてるんだろう? 賭けにすらなってねーもの、問題の設定が悪すぎ」
「さいですか。ならいいや。変な事聞いたな。それじゃ俺、もう行くわ」
 肩を竦めて公大は踵を返した。その背中に、堀内の声が掛かる。
「でも言わなかった俺は後で死ぬほど後悔したけどな。幼馴染で親友ってポジションも悪くないと思うけど、それだけは覚えておいた方が良いぞ」
 あわてて振り返った公大に向かって、堀内は意地の悪い笑みを浮かべている。
「あれだけのきょぬーめがねで超美人が幼馴染とか、どれだけの贅沢三昧かねぇ。たかだか、ほぼ玉砕するってだけで諦めるには惜しすぎる人材だと思いますよ?」
「な……っ!」
「万が一上手くいったら教えろよー? てか相馬さんも悪くないとは思うけど、多分柏木にゃ稲生さんの方があってるよ」
 公大が呼び止めるよりも早く、そう言って笑いながら堀内は歩いていってしまう。取り残された公大は、やり場のない手を伸ばしたまま、思わず吹き出した。
「……あほか俺は。何を与太話のネタ提供してるかな」
 やがて堪えきれなくなった公大は、大きな声で笑い出した。側を通り過ぎる生徒達が奇異の視線を向ける中、軽い足取りでその場を後にする。
 今更何を悩んでいるのか。あるかどうかも分からない理由を自分で勝手に作って、不安な気持ちを煽り立てている。それに一体何の意味があるのだ。
 玲菜と話がしたい。とにかく話がしたい。公大の頭の中は、その事で埋め尽くされていた。




 公大が地歴部室のドアをノックすると、くぐもった返事が返ってくる。
「……公大?」
「ああ、入るぞ」
「ちょっと待って。他に誰もいないわよね?」
 変な事を聞くな。そう思いながらも後ろを振り返った公大の目に人影は映らなかった。階下には体操着に着替えた生徒がまばらに動いているのが見えたが、地歴部に用事があるようには逆立ちしても見えない。
「いねーけど。どした?」
「いないならいいわ。どうぞ、入って」
 玲菜の声に答えて、公大はドアを開ける。
 カーテンが閉められているのだろうか、部室の中はまだ夕方前だというのに随分と薄暗かった。扉の向かいの壁に据え付けられた机と椅子は玲菜専用で、主は彼に背中を向けて座っている。
「電気ぐらいつけた方がいいんじゃねぇのか?」
「何となくそんな気分になれなかったの。適当に座ってて」
「はいよ」
 脇に除けられていた座布団を引っ張り出して、公大は部屋の真ん中で腰を下ろした。ことことと、湯の沸く音が部屋の中に満ちている。玲菜の愛用のコーヒーメーカーの音だろう。
「ブラックで良かったかしら?」
「ああ、ミルクくらいはあった方がいいんだけど、まあ贅沢言わねぇよ」
「良かった。切らしちゃってたのよ」
「まあ、それはどっちでも良いんだけどよ」
 玲菜はまだ背中を向けたままだった。それでも公大は苦笑を浮かべて言う。
「話、あるんじゃなかったのか?」
「ええ、ちょっと待ってて」
 そう言って、玲菜は立ち上がった。自分の前に並んでいた二つのカップに、コーヒーを注いでいく。
「どうぞ」
 二つのカップが並んだトレイを公大の前に置いて、玲菜が向かいに腰を下ろした。
 薄暗い中で公大の目に映る彼女の顔には、柔らかい笑顔が浮かんでいる。その事に彼は安堵していた。ダークブルーのマグカップを手にとって、コーヒーを一口含む。やや強い苦味が舌先を刺したが、鼻を擽る香ばしい匂いに彼は目を細めた。
「ん、美味いな」
「あんまりいい豆じゃなかったんだけどね、ちょっと安心したわ」
 肩を竦めた玲菜の表情が、不意に真面目なものに変わる。
「それで、その。亜里沙ちゃんから聞いたのかしら?」
「――ああ。お前が、気持ちを話したとか、その辺りは」
 マグカップをトレイに戻して、公大は頷いた。前置きはこれでおしまいだと切り出され、彼の表情も自然と真面目なものに変わる。
「その、どうしてだ?」
「何が?」
「何がって、お前。なんで亜里沙にそんな事を……」
「好きな人に告白するのって、おかしな事かしら?」
「いや、そうじゃなくて……そうじゃなくて、だな……」
 平然と言う玲菜の姿に、公大の頭の奥で違和感が芽生えていく。
 自分と彼女の間に結ばれているのは、友愛以上の関係だ。だが、それと同じくらいの情の深さもまた、玲菜は亜里沙に対して抱いているはずなのだ。
「だって、おかしいだろ……おまえが、それをそんな簡単に投げ出す、なんて……」
 あんな事件があって、一日二日で秘めていた思いを口にする。どう考えてもタイミングは最悪だった。そんな事をする理由が、公大にはどうしても思いつかない。
 頭の中にもやが掛かっていくようだった。目の前の玲菜の表情が徐々に歪んでいく。表情だけではない。目に映る姿が、ぼやけて薄闇に沈んでいくようだ。考えを纏めたいのに、意識が奥底に引きずられていく。瞼が異常に重く感じられて仕方がない。しっかりと彼女の顔を見なければいけないのに、開けている事が出来ない。
 崩れ落ちそうになる体を公大はとっさに右腕で支えて、しかし力が抜けて無様に崩れ落ちた。
 眠い。抗いようもないほど、それは暴力的な誘いだった。
「玲菜……お前、一体……」
「あんたのマグカップは専用だから、苦労はしなかったわ。全く警戒も何もしてなかったし」
 鉛のように重い瞼を無理やりにこじ開けて、公大は玲菜の姿を見上げた。先ほどより近い位置に、彼女の顔がある。息の掛かりそうなほど側で、覗き込んでいるようだった。
「一昨日、あなたには言わせてあげられなかったから。だから私から言うわ」
「れ、い、な……」
 舌が回らなくなってきた。ひりつく喉から出る擦れた声は、途切れ途切れに名前を呼ぶのが精一杯だった。
「……好きよ、公大」
 耳元で囁かれるその言葉が、何故か泣いているように公大には聞こえた。
 頬の辺りにぬくもりを感じる。崩れ落ちそうな視界の中に映る、玲菜の顔は今にも泣き出しそうだった。
「何で……玲菜……?」
「ごめんなさい……公大……今は、こうするしか……」
 震える声が、意識の沈みかけた公大に降ってくる。
 何でお前が、そんな顔をするんだ。
 公大が言いたかった言葉は、舌に全く力が入らず音にならなかった。視界が闇に閉ざされるその瞬間、投げ出された手を握り締める玲菜の姿が見えた気がした。全身を縛り上げる痺れよりも、腹部を焼いた痛みよりも、それを確かめる事が出来ないのが公大は何よりも悔しかった。