好きよ、公大。

 ――何よりも聞きたかった、何よりも待ち望んでいた言葉が、何故あんなに悲しく聞こえたのだろう。
 どこまでも深く絡みついてくる、汚泥にも似た奈落に落ちていくイメージだった。沈みかけた意識の底で、脳裏に焼きついていた玲菜の顔が、公大をその不快な眠りから引きずりあげた。
 鉛のように重い瞼をこじ開けるが、まだ何かが目の前にあるのだろうか、公大の視界は暗く遮られたままだった。振り払おうとするが、腕にも足にも力が入らない。いまだ夢の中なのかと思わせるその状況で、裏側から頭蓋を殴りつけるような痛みが、不快な現実だと告げていた。
「お目覚め? そんなに量は入れてなかったけど、早かったのね」
 不意にそんな言葉を囁かれ、それで公大の感覚が全て繋がった。視界を覆うのは白い服だった。涼やかな匂いが鼻をくすぐっている。彼の髪の毛を弄んでいる指の感触が耳の後ろから頬まで滑ってくる。
「もう少し寝てると思ったけど」
 乾いた声で呟くその声が玲菜だと気付き、公大は彼女に緩く抱きしめられているのだと認識した。
「それでもまだ体は重いわよね? 抜けきるまでもう少しかかると思うけど、我慢して」
「どう……して……?」
 舌先も痺れているようで呂律が回らない。震える声でそう尋ねた公大に、しばらく無言のまま、玲菜は彼の頬を撫で回していた。やがてゆっくりと彼の体から身を離して、彼女は向かいに腰を下ろす。
 ようやく焦点の合ってきた公大の目に映る玲菜の顔は、まるで能面のようだった。
 玲瓏な美貌は普段と変わらない。しかし眼鏡の奥の目に輝きはなく、どこか淀んだ色を浮かべて公大を見つめている。そこには普段の彼女のはちきれそうな魅力はどこにも感じられなかった。
「……あんたに言っても分からない感情だと思うわ」
 肩を竦めてそう言った、玲菜の態度が公大の心に火を点した。枷を縛り付けられたように、力の抜けてしまっている手も足も動かない。だが不快な頭痛が火種となって、公大の心を煽り立てていく。
「て……め、そんな言葉で納得……!」
「強いて言えば、ね。腹いせかしら」
「あ? 腹いせ、だと?」
「そうよ。そうしなければ、どうしても気持ちの収め所が見つけられなかったの」
 立ち上がった玲菜は、後ろにあった机から手鏡を取り出した。ようやく開けた視界の中で、いまだ彼女の部室中なのだと公大は気付く。天井の蛍光灯が弱々しい光を放っているあたり、どうやら随分と時間は経っていたらしい。
 だが、それも突きつけられた手鏡の中の光景の前には小さな事だった。
 公大は小さく息を呑む。うっすらと化粧を施された、少女の顔がそこに映っていた。口紅を差され、アイシャドウで目元を引き立てられた長い睫の少女が、呆然と鏡を見つめている。前髪を彩る大きな花をあしらった髪留めが、殊の外目を惹き付ける。
 鏡の中の人物が一体誰なのか、公大には分かりたくもない現実であった。
「これ……は……玲菜……」
「こうすると本当に亜里沙ちゃんにそっくりね。いえ、逆よね。亜里沙ちゃんがあなたに似ているんだもの。神様ってば、ずいぶんと頑張ったのね」
「……説明しろ。お前、こんなイカレタ事を一体何で……!」
 怒りと、そして恥ずかしさで真っ白になった頭で意味のある言葉が言えた事に、公大は自分で驚いた。
 女顔である事に嫌悪感すら覚えている。公大の傷を誰よりも知っている玲菜が、睡眠薬まで盛って自由を奪った挙句、よりにもよってこんな真似をした。
 手足が動けば、殴りかかっていたかもしれない。相手が玲菜であっても、否、玲菜であったからこそ、公大は許せなかった。
「答えろよ玲菜! 何で、何でお前がこんな真似をしやがるんだよ!」
「亜里沙ちゃんから聞いたでしょ? 私は一昨日、彼女に告白して振られたの」
 怒りが舌の痺れを取り払い、公大はまくし立てる。だが彼のそんな声を聞いても、玲菜に張り付いた能面は割れなかった。
「元々上手くいくと思ってなかったからけど、それでも勇気出して言った言葉が受け入れられなかった時ってショックじゃない? 腹いせの一つもしたくなるくらいには」
「……繋がらないだろ、それとこれとはっ!」
「繋がるのよっ! 私の中で繋がればそれでいいのっ!」
 突然伸ばされた玲菜の手が、公大の胸倉をつかみあげてくる。息が掛かりそうなほど側まで顔を寄せた彼女の目の中に、かすかに強い輝きが見えた気がした。それが、少しだけ公大の感情を冷静にさせる。
「色々考えたのよ。本当に、色々。ねえ、私とあんたって、一体どれだけ一緒にいたのかしらね」
「……さあな。もう数えるのも馬鹿らしいくらいだな」
「それだけ一緒にいて、お互い色々助けたり助けられたりして。ギブアンドテイクで色んな物を受け取って返して。でも本当に欲しい物だけは二人とも手に入らないのって、納得いかなくない?」
「……お前にとってのそれが、亜里沙だったってのか?」
 呟いた公大の声に、玲菜の口元が歪んだ。笑おうとしたのだろうか。崩れた能面は、しかし公大には泣いているようにしか見えなかった。
「……本当、聡の奴は最低な下種野郎だったけど、一つだけ分かるかも。側にいるだけじゃ手に入らない物って、あるのかもしれないわね」
「……だからって、こうする事でお前は一体何を手に入れられるってんだよ。らしくねえだろ……」
「わかった風な事言わないでよっ!」
 公大の言葉は、甲高い声と音で遮られた。
 ――ここの所頬を張られすぎだっての。
 自嘲する公大の目の前で、玲菜は震える右手をもう片方の手で握り締め、彼を睨みつけている。その端に、僅かに浮かぶ涙の雫を彼は見つけていた。
「欲しかった物がダメだったんだから、代用品を好きにするくらいは当然の権利の筈よ。忘れてるかもしれないけど、あんたはここ二週間で大量に借りを抱えてるんだから、私が何をしようと勝手でしょっ!」
「それで、俺にこんな格好か。本物に袖にされて、安物の代用品って事かよ?」
「ええそうよ。思った以上に似合ってて嬉しい誤算だったわっ!」
「それで好きなだけ弄んで、満足した気になって。それが俺らの十年間の清算だって、お前はそう言いたい訳か」
「分かってくれて話が早いわ! ええ、男相手にセックスそのものなんか真っ平だけど、それでも私一人で楽しむ方法なんて掃いて捨てるほどあるもの。せいぜい玩具にさせてもらうわ!」
「……だからそんなのらしくねえって言ってるんだよ、玲菜」
 溜息と共に公大は言った。
 鼻白んだ玲菜が再び右手を閃かせて――頬に届く直前に、公大の左手に受け止められていた。
「な……っ!」
「っくそ、全然握力戻ってねぇな……体だる過ぎ……」
 愚痴をこぼしながら玲菜のもう片方の手を右手で握り締めると、公大は慌てふためく彼女の身を捻った。あっさりとバランスを崩した彼女が床に倒れこむと、そのまま体を押さえ込む。
「ちょっと……どうして動けるのっ!?」
「アホか。薬盛られたって両手両足自由なんだぞ? 相手を転ばして投げ飛ばして押さえ込む訓練を中学校までやってたんだから、死ぬほどダルくたってお前くらいはどうにでもできるっての」
 じたばたと身を捩らせる彼女に向かって、公大は意地の悪い笑顔を浮かべた。しかし言ってる事に嘘はない。頭痛はようやく治まりを見せてきたが、腕も足も鉛が流し込まれているかのようだった。口調とは裏腹に、背中の方まで脂汗を流しながら、公大は全力で玲菜を押さえ込んでいる。
「……で、どうする気? 完全に形勢逆転したけど」
 しかし、不意に全身の力を抜いた玲菜はそっぽを向くと、疲れた声で言った。
「私がしようとしてた事でも仕返す? 怒ってるでしょ? 抵抗する気はないし、してもしょうがないわ」
「そうだな……それもいいな。正直、目茶目茶腹が立ってるしな」
 嘗め回すような目で玲菜を見つめて、公大は言う。そのまま口元を吊り上げ、右手を彼女の胸に向かって伸ばしていく。深い溜息をついた玲菜は、覚悟を決めたようにきつく目を閉じた。
 だが公大の手は、張り出した二つのふくらみを通り過ぎ、彼女の顔まで進むと、
「痛っ!」
 思い切り、玲菜の額を指で弾いていた。
「公大、あんた何を考えて――っ!」
「だから、さっきから言ってるだろうが。お前、全然らしくないって」
 嘆息を交えてそう言った公大の言葉に、玲菜の頬に朱が差した。
「らしくないらしくないって! 公大、あんた、さっきから何が言いたいのよ!」
「やり方が稚拙で詰めも甘くて、挙句こういう場合の逃げ道も何も考えてない。何より俺の知ってる稲生玲菜は、振られた腹いせで積み上げてきた何もかもを投げ捨てるような、そんな考え無しの女じゃない。全部ひっくるめてどこがどうお前らしいのか、逆に俺に説明してくれよ」
「……そんなの、あんただって大好きな人に振られてみればヤケになるわよっ!」
 一瞬言葉に詰まった玲菜だったが、すぐに公大を睨みつけて吠える。
 公大の頭の中から、一服盛られた事もこんな格好をさせられた事への怒りももう消えていた。憤怒の仮面の下の、玲菜の必死さが透けてしまった。それを目にしてしまえば、もう怒る事など出来はしない。
「あのな、恋敗れた経験なんかこの二週間で立て続けだよ馬鹿。詩鶴にゃ浮気を見せ付けられるし、お前には好きだと言わせてももらえなかったからな」
「だったら……っ!」
「でもな、お前相手にそんな事出来るかよ! 何考えてるのかわからねえけど、大好きな女がずっと泣きそうな顔で俺の顔見てるんだぞ! 騙まし討ちされようがこんな恥ずかしい格好されようが、関係あるか馬鹿!」
「…………っ!」
 今度こそ、本当に言葉を失ってしまった玲菜に向かって、ゆっくりと公大は語りかけた。
「俺が落ちる寸前、お前言ったよな、ごめんなさいって。腹いせでそんな事言うわけないだろ。それにその前に言ってくれたよな、好きだって。あんな泣きそうな声で、あんなに真剣に言ってくれる奴が、腹いせだけでこんな事出来るような女かよ」
「公大……」
 震えて、自分の顔を見上げている。押し殺していた何かが透けてしまうのが怖くて、怯えている。組み敷いている公大の目の前で、玲菜の素顔が曝け出されている。
「あー、くそ。もう無理だわ、俺!」
「駄目……お願い、止めて、公大……」
 赤子のようにいやいやと顔を振る玲菜の頬をそっと撫で、公大は言った。
「お前の苦しみが分かるなんていったら嘘になる。お前が何を考えてこんな事したのかも分からない。きっとこれを言えば、もっとお前を苦しめるってのも分かってるけど……」
「いや、お願い……聞いたら、それを聞いたら、私……!」
「好きだ、玲菜。ずっとそれを言わなけりゃって思ってたけど、怖くて言えなかった。でももう駄目だ。もう大切な幼馴染に戻れなくてもいい。俺はお前が好きなんだ、玲菜」
「ああ……」
 玲菜の目から、一滴の涙が伝わり落ちる。声を震わせて、彼女は呟いた。
「馬鹿……! どうして、どうしてそんな事、言ってしまうのよ……」
「すまん。でも、駄目だと分かってても、俺は……」
「駄目じゃない……駄目なわけないじゃないっ!」
 玲菜の手が、公大の首に向かって伸ばされる。そっと絡められ、彼女に向かって彼の体が引き寄せられた。
「好きよ……公大、あなたの事が好き。男とか、女とか、そう言う事を抜きにして、あなたの事が誰よりも」
「本当、か。本当に、お前、俺の事……」
「当たり前よ。このままずっとこうしていられたら、どれだけいいかって思ってる。今の私がどれだけ幸せかなんて、きっとあんたには分からないわよ……!」
 絡められた玲菜の手は、しかしゆっくりと解かれた。
「でも、もう駄目なのよ。私はそれを受け取る権利を、投げ捨ててしまったの」
「え?」
 呟いた公大の耳に、部室のドアの開く音が届く。
「もういいかな? あたし、待ちくたびれちゃった」
 忌まわしくも朗らかな声が、公大の耳を焼く。
 振り向くまでもなかった。その姿を目にしたくもなかった。
 悪魔の笑みを浮かべて、相馬詩鶴がそこに立っているのだろうから。



「本当、公大のそんな告白、あたしでも聞いた事なかったのに」
 ゆっくりと歩いてきた詩鶴が、そう言って公大の前に腰を下ろす。体を起こした玲菜を挟んで、向かい合う二人の表情は対照的だった。
 頬を伝う汗が冷たすぎた。鈍い頭痛も手足のだるさも、突きつけられた緊張感によって吹き飛んだ。
 詩鶴をにらみつけたまま公大は歯噛みする。
「どうして、ここにいるんだよ」
「あら、公大ってばとても可愛らしくなってる。玲菜さんてば、化粧とっても上手なんだね」
「……うるせえな。だから、何でここにいるんだよ詩鶴!」
「うーん、その口調は減点かな。それにね、ここに来た理由は後でちゃんと説明してあげる」
 公大の顔を見て、詩鶴は笑っている。嘲笑でも作り笑いでもなく、純粋に、この状況が楽しいのだろう。それが明白だからこそ、冷たい汗は背中にも伝わり流れ落ちた。
「玲菜、こっちへこい」
 頭の中で痛いほど鳴り響く警報に後押しされ、公大は玲菜を呼んだ。伸ばしていた手が、彼女の手を求めて宙を彷徨う。
「きゃっ!?」
 しかしその願いは果たされなかった。玲菜の腕に自分の腕を絡めて、詩鶴が彼女を自らのそばへ引き寄せてしまったからだ。
「玲菜っ!」
「駄目だよ、もうこれ以上は、ね。そういう約束だったよね、玲菜さん」
「くぅ……っ!」
 傍目には仲良く腕を組んで据わっているように見える姿だったが、玲菜の顔に浮かぶ苦悶の表情が、それを脆くも打ち砕く。公大には良く分かった。あの体勢で組まれた詩鶴の腕が、きつく玲菜の腕を締め上げているのだと。
「やめろ、詩鶴! 何の真似だよ一体!」
「あれ? まだ玲菜さんから聞いてないのかな?」
 一瞬きょとんとした表情を浮かべた詩鶴だったが、すぐに玲菜に向かって囁きかける。
「駄目だよ、公大の所、ああやってお目化しして上げるのは構わないけど。やるべき事はちゃんとやってくれなきゃ」
「う……るさいわね……そんなの、私の勝手……っうっ!」
 ギリ、と音がなるほど強く腕を締め上げられ、痛みに目を閉じた玲菜の口から小さな悲鳴が漏れた。
「いい加減にしろ、詩鶴っ!」
 もう我慢の限界だった。痛みを堪えて公大は詩鶴に飛びかかった。
「おっと」
「がっ!?」
 しかし、突き出された詩鶴の手から伸びた銀色の何かが公大の腹を突き、もんどりうって彼は倒れこむ。
「がっ……あ、ぁぁぁっ……」
 寸分の狂いもなく、水月を打ち抜かれていた。うつ伏せに倒れこんだ公大の体は、意志とは関係なくひくついてしまう。息がつまり声など出せない。立ち上がろうにも、手にも足にも力が入らなかった。こみ上げてくる胃液を必死で堪えた公大は、霞みかける視界で、詩鶴の手に握られたのが折りたたみ式の警棒なのだと認識する。
「駄目だよ、話が終わるまでは、おとなしくしていて」
「こ……の……」
「どうする玲菜さん? あなたの口から話す? それともあたしから話して上げようか?」
「止めて……私が……言う、くぅっ!」
「そっか、やっぱり好きな人相手にそんな事、言い辛いもんね。分かったわ、あたしが話してあげる」
 喜悦の表情を浮かべた詩鶴は、警棒を足元に置くと空いた手で玲菜の頬を撫で回した。
「駄目……止めて、お願い……!」
「遠慮しなくていいよ。ねえ、公大、聴こえる?」
 降ってくる詩鶴の声に、公大の手が震えた。起き上がって引き剥がす。なぶり辱めるこの悪魔から、玲菜を守らないと。しかしどれだけ強く願おうとも、公大の体はまだ言う事を聞かなかった。
 弱々しく蠢く彼の姿を見て、満足そうに詩鶴は言った。
「少しは不思議に思ったんじゃないかな? 日曜日、玲菜さん一人であなたの所を助けに来られた訳」
 それは確かに公大の脳裏にも掠めた事だった。だがその事に意味はないと、彼は奥底に封じ込めた疑問だった。今の詩鶴の質問で、その答えをおぼろげながら見出してしまった彼は、しかしそれを丸めて言葉と共に吐き捨てた。
「それが、一体……どうしたよ……っ!」
「どんなに頑張って聞き込みしたって、あんな時間じゃ見つけられないよね。人海戦術でスタッフの手を使ってれば、彼女一人で辿り着いたのが不自然だし。答えは――公大ならもう分かるでしょ?」
「お前が……お前が、手を貸したって言うんだろ! 詩鶴!」
 首を捻って詩鶴の顔を見上げた、公大の目に怨嗟の光が宿る。それを受け止めて尚、詩鶴の表情は小揺るぎもしなかった。
「うん、正解。でも言う事聞いてあげるには、何か対価が必要だと思わない? 例えば、聡君に言う事を聞いてもらうために、公大の事をある程度なら好きにしていいよって約束してあげたみたいに」
「止めて……お願い、聞かないで、公大……!」
 腕を極められたままで、それでも束縛から逃れようと玲菜が身を捩って叫んだ。だが詩鶴の手は解けずに、逆に痛みに顔をしかめる羽目になる。その声を気持ちよさそうに目を細めて聞いて、詩鶴は言った。
「あの状況でね、聡君を通じてあたしは公大を手中に収めてたんだよ? それを手放すんだから、よっぽどの条件じゃないと無理だよね?」
「止めて。私が……私が自分で言うわ! だから言わないで……!」
「もう、うるさいなぁ。いい所なのに」
 それでも必死に訴える玲菜の言葉に、詩鶴はわずらわしげに眉を顰めた。空いた手を彼女の顎に掛けると、無理やりに視線を在る場所に向ける。
「あの警棒、実はスタンガンの機能もあるんだよ? 服の上からなら問題はないけど、直接顔とかに当たったら、きっと危ないよね?」
「う……っ!」
 女の本能が、玲菜の口から言葉を奪った。その様子に満足げに頷くと、詩鶴は視線を公大に戻す。
「それで、公大? 玲菜さんが差し出した条件って、何だと思う?」
「……今このままの状況の事だろ、クソ。安心しきってる俺を、そのままお前に進呈する。違うか?」
 涌き上がる激情が、公大の口から痺れを拭い去っていた。指先にようやく力が戻ってくる。震える指で床のカーペットを掻き毟り、ゆっくりと彼は体を起こした。飛び掛る事などできそうにはなかったが、それでも、見下ろされ、踏みつけられるのは我慢ならなかった。
「そうだね。でもね、それだと正解率半分なんだ」
 体を起こした公大を見ても、詩鶴の様子は変わらない。
「もう半分はね。玲菜さん自身。公大が好きで好きでたまらない彼女も、そのままあたしの物になるって約束してくれたんだ」
 零れ落ちそうに華やかな笑顔を浮かべて、詩鶴は言った。
「何……だって……?」
 愕然と、玲菜の顔を見やる公大。その目に映る愛しい女の顔は、悔いと羞恥に陰っていた。その表情こそが、何よりも雄弁な答えだった。
「本当に綺麗だよね、玲菜さん。公大と並んで立っていると絵になりすぎて嫉妬しちゃう」
 くすくすと小さな笑い声を立てながら、空いた詩鶴の手が玲菜の胸に伸びた。
「でも、ここは美術品だとすればちょっと大きすぎるかな。この方が楽しいけど」
 シャツの上から玲菜の乳房を揉みしだく、詩鶴の指の動きは蛇のように執拗で、濃厚なものだった。玲菜の口から漏れた小さな悲鳴は、極められた腕が引き攣れた痛みなのか、彼女の行為への純粋な嫌悪なのか。
 動けない公大の目の前で、玲菜が汚されていく。
「やめろ……」
「ちょっと待ってて、公大。ほら、見て玲菜さんの顔……こんなに苦しそうで、でもそれが綺麗だと思わない?」
「やめろって言ってるんだ、詩鶴!」
 喉が引き攣れそうなほど大きな声で、公大は叫んでいた。乳房を弄ぶ手を止めた詩鶴の顔から、初めて笑みが消えていた。
「どうしたの? 見て楽しむだけじゃ物足りないのかな?」
「お前の目的は俺だろ! 玲菜に一体何の関係があるんだ!」
「聞いてなかったのかな? 公大があたしの物なのは当然。そこに加えて玲菜さんも一緒に手に入れたんだよ? 自分の物をどうしたって自由でしょ?」
「そうよ……公大……」
 声は、意外な所から上がった。
「私は、望んでこの手段を選んだの。あのまま聡に弄ばれるより、こちらの方がマシだと思ったから」
「玲菜、お前……」
「あのままだったら、助けは絶対に間に合わなかったわ。だから私は勝手に自分とあんたを詩鶴さんに売ったの。どちらにしてもあんたのお尻の貞操餌食になるなら、まだこちらの方が傷が浅いと判断したから。あんたの気持ちも何も考えずに、私が勝手に判断したのよ」
 痛みをこらえて時折顔をゆがめながら、玲菜はしゃべり続ける。
「だから言ったでしょ、公大。あんたに好きと言われる資格なんかもうないんだって。こっから助け出す手段も何も考えていないもの。一緒に奈落に付き合ってあげるくらいが、幼馴染の限界なのよ」
 自嘲するように口元をゆがめて、玲菜は詩鶴に視線を向けた。
「ねえ、いい加減痛いわ。離してもらえないかしら。あんたは勝利したんだもの、もう満足でしょ」
「そうだね、離して上げてもいいけど、ひとつ条件をつけるね」
「この期に及んで、まだ搾り取る気? 本当、暴君極まるわね」
「ふふ。あたしはね、認めた相手には最大限敬意を評する事にしてるんだよ。容赦するなんてのは、最高の侮蔑でしょ?」
 そう言って詩鶴は、玲菜の腕を開放した。そのまま立ち上がった彼女は、床に転がっている玲菜のポーチを拾い上げる。
「あ……っ!」
 痛みも忘れた様子で玲菜は目を見開いた。詩鶴は中を覗き込み、消しゴムほどのサイズの白いプラスチックの箱を見つけ出す。小さく笑った彼女は、拾い上げた警棒の柄で、それを粉々に打ち砕いていた。
「送信機かな。それともレコーダーだったかな。どっちにしても本当、用意周到だね玲菜さん。公大の所をそんな格好させたのも、これが転がってる違和感を小さくするためでしょ?」
「く……っ!」
「玲菜、お前、そのためにこんな真似をしたのか?」
 公大の視線の先で、玲菜は悔しそうに唇をかみ締めている。その表情こそが、何よりも事実を物語っていた。
「今日も一度この部屋の中確認しておいたんだけど、油断も隙もないなぁ。いざとなれば自分を餌にしてでも、あたしを引き摺り下ろすつもりだったんだよね? 本当、そういう所が大好きだな」
 詩鶴の握り締めた警棒が、音を立てて伸びた。その先を玲菜に突きつけて、彼女は笑う。
「それじゃあ玲菜さん。言う事を聞いてもらおうかな」
「……ご自由にどうぞ。万策尽きたわ」
「じゃ、今すぐここで公大に犯されて。あたしの目の前で、徹底的に」
「……っ!」
 言葉を失った公大の目に映る、詩鶴の目は笑っていなかった。支配者の瞳で、膝をつく男と、震える女の姿を睨めつけていた。
「……いい趣味してるわね。そんなの見たがるなんて。てっきり私を追い出して二人で楽しむつもりかと思ってたわ」
「助けを呼びに行かれても困るしね。それに、こっちの方が嫌がってもらえるよね?」
 擦れた声で呟いた玲菜に向かって、手の中で警棒を弄びながら詩鶴は言った。
「まだ公大に抱いてもらってないみたいだね。だから言ったのに。日曜日の内に抱いてもらっておいたらって」
「待てよ」
「公大だってそんなに上手いわけじゃないけど、ここよりはベッドの上が納得出来たと思うけど。まぁ、玲菜さんが自分で選んだ事だもの。仕方ないかなー」
「待てって言ってるんだ、詩鶴!」
「ん、どうしたの、公大?」
 ようやく彼に目を向けた詩鶴は、不思議そうな声を上げる。
「公大が困る事なんて何もない筈だけど? まだ体痛いかもしれないけど、それくらいは我慢できるよね?」
「お前、それ本気で言ってるのか。俺に玲菜を犯せだなんて、本気で言ってやがるのか!」
「もちろん。だって、公大は玲菜さんの事が好きなんでしょう?」
「だからって、何でだよ!?」
「大嫌いなあたしの命令で、大好きな相手をボロボロに犯すだなんて、苦しくて、悔しくてたまらないでしょ? 自分が許せなくて、あたしが許せなくてたまらないでしょ?」
 公大の側まで歩み寄ってきた詩鶴は、警棒の先で彼の顎をなぞり上げる。冷たい感触が公大の心に忍び寄り、締め上げてくる。
「このっ!」
 反射的に手を伸ばし、それを掴み取ろうとした彼の手は空しく空を切った。
「駄目駄目。そんな遅い動きじゃ、掴まれてあげないよ」
 警棒の先を跳ね上げた詩鶴は、軽く公大の額を小突いた。
「どうしても許せない相手に、でも屈服せざるをえない。それを見る瞬間ってね、とても心地いいんだよ? 直接組み敷いてあげるのは何時でも出来るから。今はこの方が公大には苦しいでしょ……っと」
「くぁうっ!」
 振り向き様に突き出した警棒の先は、正確に玲菜の左肩を貫き、押さえ込んでいた。
「駄目だよ、大人しくしててくれなきゃ」
 悲鳴を漏らして片膝をつく玲菜を見て肩を竦めると、詩鶴は公大に向き直る。
「やめろ、玲菜にそんな真似するなっ!」
「なら、分かるよね公大」
「くっ……っ!」
 歯噛みした公大は、よろよろと立ち上がった。
「……わかった」
「ふふ、思ったより物分り良くなったね」
「……だけどそれ以上は言う事は聞けない。玲菜を犯した挙句、俺までひどい目に遭うって言うんなら、今ここでお前に飛び掛った方がましだろ?」
「普段ならいい勝負かもね。でも今は負けないよ?」
「それでもだ」
 溢れ出しそうになる激情を、すんでの所で飲み込みながら公大は言った。震える手で、今すぐにも殴りかかりたい気持ちを、唇を噛み締めて堪える。
 自分はどうなってもいい。だが、玲菜を逃がさなければならない。そのチャンスを掴むため、詩鶴の隙を掴まなければならなかった。
 睨み合い、絡まる視線は一瞬だった。詩鶴の肩から力が抜け、一歩、二歩と入り口の方へ下がっていく。
「いいよ。今日の所はそれで許してあげる。でも、あたしが満足するまでしっかりしてもらうよ?」
 逃がしはしないと言う事だろう。扉の前に椅子をおいて、腰を下ろした詩鶴は足を組んで公大と玲菜の姿を見つめている。それを横目で確認した公大は、玲菜の手をとって起こすと、その体を抱きしめた。
「……大丈夫か」
「何とか、ね……」
 互いの肩に顎を預けて、耳元で囁きあう。そのまま倒れこむように彼女の体を引くと、公大は詩鶴から一番遠い壁に背中を預けた。一瞬眉を動かした詩鶴だったが、何も言わずにいる事に決めたのか、口元に笑みを浮かべてじっとその様子を見つめている。
「ごめんなさい。公大の事だけでも何とかして逃がすつもりだったけど……」
「謝るなよ。それを言うのは俺の方だ。それにまだ俺は諦めてねえぞ……何とかして逃げ出して……」
 公大の言葉は途中で遮られた。
 重ねられた玲菜の唇が、息ごと言葉を奪い取る。音を立てて彼の唇に吸い付き、甘噛んだ。頭に回された彼女の手が、もっと強くと引き寄せてくる。
「玲菜、ま、て……」
「お願い、公大……」
「よせって、玲菜……なんとか、何とかして……」
「いいのよ。せめて……せめて公大、あなたなら……」
 玲菜の声が、湿り気を帯びていく。公大の目に浮かんでいた戸惑いの光も、その言葉に飲み込まれて消えた。
 くちゅくちゅと、湿った音が部室の中に満ちていく。吸い寄せられるように片手を彼女の頭に回して、しっとりと潤いを含んだ髪の感触を楽しんでしまう。
「ん……段々、その気になってきたんだね。いいよ、二人とも……」
 揶揄する詩鶴の声にも熱が篭り、しかし今の二人には遠い。空いた公大の手を玲菜が取り、自らの胸へと押し付けた。
「破って……」
「え……?」
「犯すのよ……命令でしょ? 乱暴に、でも、まずは上だけ、ね」
 キスの合間に囁かれる、蕩けた玲菜の言葉は公大の脳を焼いていく。シャツの合わせ目に手を掛けると、彼は一気に引き下ろした。ボタンが弾け飛び、生のままの彼女の乳房がまろび出る。その先は既に固く勃ち上がり、更なる刺激を待ち望んでいた。
「お願い……ひぁうっ!」
 言われるまでもなかった。公大の手は既にその見事なふくらみに吸い付いている。
 玲菜が欲しい。公大がそう思って初めて触れた彼女の乳房は、信じられないほどに柔らかかった。それでいて奥に抱えた芯の強さが、やんわりと指を押し返してくる。温もりを湛えた肌はしっとりと彼の指に吸い付いて離れず、更なる愛撫を求めてくる。
 公大の指が、頂を摘み上げた。びくりと体を震わせた玲菜は、すぐに彼の背中に手を回して、きつくしがみ付いてくる。重なり合う唇の隙間から舌を潜り込ませて、お返しだとばかりに彼の舌先を弄んでくる。
「く……あん、ふぅ……」
「玲菜……ダメ、だ……止め、らんねぇ……」
「いいわ……もっと……」
 熟れ零れそうなほどに自らの熱で溶けた言葉を交し合う。玲菜の胸を揉みしだく、公大の手が二つに増えた。指を沈め、跡が残りそうなほどきつく揉みしだいだかと思えば、痛みを覆い隠すように撫でさする。乳首を摘み上げ、指の腹で丘の中に押しこみ転がす。公大の指が動く度に、玲菜は声を跳ね上げ息を漏らす。
 公大は楽器を爪弾いている感触に陥った。稚拙な彼の指の動きに、最高の音色で返す極上の弦楽器。腕の中の玲菜は、至上の名器に勝るとも劣らぬ音で、彼の耳を楽しませていく。
 詩鶴の差し金である事すら、忘れそうになる。頭の中の全てが、目の前の女の体で埋め尽くされていく。芳しい匂いが鼻の中から忍び込み、彼の体全てを埋め尽くしている。指は既に彼女の体と解け合い、一つに交じり合っているようだった。繰り返される口付けの合間に漏れ落ちる唾液が、互いの胸元に染みを作っている。ひんやりとしたその感触すら、さらに彼を昂ぶらせる燃料だった。
「最初はソフトなんだね……いいけど、それだと夜が長くなるよ?」
 遙か彼方から、詩鶴の声が耳に届く。構わなかった。それだけ玲菜を楽しめる。楽しみたかった。
「公大……もっと……お願い……」
 甘えるような玲菜の声に、胸ばかりに執着している事にようやく公大は思い至った。果実は他にも沢山ある。全て喰らい尽くさなければ気がすまない。
 彼の片手が、玲菜の胸から下へと滑り落ちていく。引き締まったお腹を通り過ぎて、臍の下へと。指がスカートの生地へと触れ、引き下ろそうとホックの位置を捜す。
「駄目……前から、捲くりあげて……」
 公大の手に、やんわりと重ねられた玲菜の手がその動きを止める。構うものか。そう思いかけた彼だったが、履かせたまま捲くりあげる方が興奮すると思いなおした。
 太股まですべり下ろした手を、徐々に上へと上げていく。スカートの裾から潜り込ませた指が、ショーツの横側へと掛かる。目は下へと向けなかった。見えない事がより興奮を誘っていく。一息に引き下ろそうとするのを思いとどまり。彼はショーツのゴムのラインに沿わせて、指を中心部へと滑らせて行く。
 中央部から、そのまま下へと。指先に、ひんやりとした感触が伝わってくる。
「濡れてる、な」
「馬鹿……」
 軽口の代償に、心持ち強く唇に歯を立てられた。鈍いその痛みすら今の公大には快い。
 薄い生地を通して、彼女のもっとも柔らかく、熱を帯びた部分が全て伝わってくるようだった。目を向ければ、きっと濡れて透けたソコが全て露になっているのだろう。
 直に楽しみたい。その気持ちと少し焦らしてやりたい気持ちがせめぎあい、後者が勝った。名残惜しげに二度三度と指先で小さな円を描くと、玲菜が小さく身を捩らせる。それを楽しみながら公大の指は反対側の太股の付け根へと滑り込む。
「く、うぅ……」
 感極まったのか、玲菜が小さな悲鳴を漏らして公大の肩に顎を預けた。のしかかってくる彼女の重みが、思いに比例してるように感じる。震える彼女の指先が公大の髪に絡められ、そして髪留めをなぞりあげる。
「……何とか、なったかも」
「ん……?」
 公大の耳に囁く玲菜の声には、わずかに冷静さが戻っていた。
 蕩け眠りについていた公大の理性が、それで目を覚ました。しがみ付き、キスをせがむ玲菜の目にも、意志の光が戻っている。
「いい? 後少しだけ……あと少しだけ待って……」
 互いの耳元に、掠れる声で囁きあう。公大は玲菜の髪の間から、詩鶴の顔色を伺った。
 熱っぽい視線で、彼らの痴態を見つめている。右手は警棒を握ったままだったが、左手をスカートの隙間から潜りこせて、熱心に股間の辺りを這い回らせていた。
 ブラフの可能性は半々だ。それよりも、自分の体調の方が重要だ。
 痺れて重かった足にも、今は力が戻っている。完調には程遠いが、これだけ回復すれば充分だった。両の手にも握力は戻っている。もしもし詩鶴が暴れだしても、受け止められれば一度や二度は堪えられそうだった。
 玲菜の手が再び公大の頭に回され、視界が彼女の顔で埋め尽くされる。寄せられる唇の感触も、しかし今の公大は冷静に受け止める。
「あと少しよ……本当に、これが最後……」
 用意した手札は、これで使い尽くしたと言う事だろう。安普請の部室の壁が、頭を押し付けた公大の耳に外の情景をおぼろげに伝えてくる。
 くぐもった足音が段々近づいてくるのが聞こえてくる。詩鶴の様子は椅子に背を預けたまま変わらない。それでも、中々先に進まない彼らの様子に、眦を吊り上げて見つめている。
「もう、自分たちだけで楽しんでるんじゃ困るな。あんまりじれったいと、あたしも手を――」
 とろんととろけていた詩鶴の目と声が、不意に我に返った。
 もう耳をそばだてる必要もなかった。
『なにをやってるんだ! そこを開けなさいっ!』
「え……?」
 ドアのガラスに、人影が映っている。聞き覚えのある教師の怒声が響いている。
「形勢逆転とは行かないかもしれねぇけど……」
 呆然と、そちらの方を見やった詩鶴を見て、公大と玲菜は身を離す。彼女の体を背中に回して、公大が詩鶴を睨み付けた。
「とりあえず、水入りってとこだよな、詩鶴?」
「あー……もう。上手い事ひっくり返されちゃった、かな」
 ドアの方を、そして公大を。視線を往復させた詩鶴の口から、悔しそうな溜息が漏れ落ちた。







 懇々と続けられた教師の尋問めいた説教は、いったん終わりを迎えていた。公大は解放され、そして詩鶴は親を交えて再度という事を伝えられている。
 詩鶴の両親への連絡のため、指導課の教師はいったん席を外していた。八畳ほどの広さの生徒指導室の中に、今は公大と詩鶴の二人だけである。
 状況だけを見れば、三人で学校の施設内で不純異性交遊に及んでいる。まして公大は女装姿という倒錯しきった物だ。詩鶴の魔の手から逃れた反面、今度は教師たちから徹底的に追及される状況になっても不思議ではなかった。
 それを防ぎとめたのは、公大の頭につけられていた大きな髪留めだ。正確にはそこに仕込まれていた盗聴器であった。
「迂闊だったなぁ。一つ潰した時点で、もう一つ二つある事想定してなきゃ行けなかったのに。公大のあの格好、あんまり似合ってたから、違和感に気づけなかったよ」
「そいつはどうも。忌々しい限りだけどよ、こうして難を逃れられたんだからペイだと思っておくわ」
 薄い合皮張りのパイプ椅子に腰をかけている詩鶴の脇で、公大は壁に背を預けていた。用がなくなった今、立ち去ろうとした所を詩鶴に呼び止められたのだ。
「本当、もったいないと思うよ? 言葉遣いだってもっと丁寧にすれば、もっともっと魅力的なのに」
「余計なお世話だし、今更お前に好かれてもしょうがないだろ」
「ふふ、あたしにとってはとっても大事な事だよ。そういう公大の事が、あたしはとても、とても好きなんだから」
 好きという単語を口にする、詩鶴の表情は変わらず華やかなものだった。自分の行いに後ろ暗い所などないと、その目は高らかに告げている。だから公大は、口にせずに居られなかった。
「……俺はな、つい二三週間くらい前まで、誰よりもお前の事が好きだったんだぞ」
「ありがとう。でもやっぱり過去形なんだ?」
「……どうして、あんな真似をしたんだよ。聡とあんな事をしなければ、過去形になんかするつもりはなかった。俺はお前を憎んだり、嫌わずに済んだんだぞ!」
 思わず声を荒げた公大に向かって、詩鶴はゆっくりと微笑んだ。
「そうだね。普通に付き合っていれば、いずれはきっと公大の全部を手に入れられたんだよね。お尻も心も何もかも」
「ねぇよ。真面目に聞いてるんだから茶化すな!」
「ふふ。まぁ、そう言う事にしとくね」
 詩鶴の視線が天井に向けられた。何かを懐かしむように、その目が細められる。
「玲菜さんには話した事があるんだけど。あたしは、全部を手にいれないと気がすまないんだ。好きになった物、その全部をね」
「それと、あの事に一体何の関係があるんだよ」
「大有りだよ。公大の友達。大事な家族。その全部を手の中に納めておかないと、怖いじゃない。いつかあたし以外の居場所を見つけてしまうんじゃないかって、そんな思いに駆られちゃうんだよ」
「……だから、聡を引き込んだのか」
「そうだよ。聡君が公大に鬱屈した思いを抱えている事は一目で分かったから。転ばせるのは簡単だったな。ただ、抱えてた思いの貯まり方はあたしの予想以上だったけど」
 淡々と語る詩鶴の言葉の一部は、公大にも理解できる感情だった。
 何をさておいても、好きな人の全てを自分の物にしたくなる。それは人間として自然な感情だろう。
 だが。
 公大はきつく唇を噛み締めて、首を横に振る。
「それは、好きになるのとは違う」
「そうかな? 独占欲は自然なものでしょ?」
「お前は好きになってるわけじゃないんだ。ただ、獲物を支配したいだけなんだ。本当に俺の事が今も好きなら、聡にあんな事をさせたり、目の前で玲菜を犯せだなんて言える筈ないだろ」
 詩鶴の言葉を、感情を、公大は認めるわけにはいかなかった。
 目の前の女の抱く感情と、自分が玲菜に抱く感情が、同じ「好き」と言う言葉で語られる事に虫唾が走った。
「そうだね。公大の目から見れば、あたしはおかしいのかもね」
 意外にもあっさりと彼の言葉を認めた詩鶴は、彼の顔に視線を戻して言った
「でも、公大はどうなのかな? 玲菜さんが同性愛者だという、ただその一点で自分の感情に蓋をして、踏み込むのを恐れていた。ずっと戦わずに逃げていたんだよね?」
「……逃げていたわけじゃない。俺とあいつは、大事な幼馴染だったんだ」
「男女に友情なんか成り立たないよ。牝を求めるのは雄の本能だし、逆も一緒」
「違う。成り立ってた。知った風な事を言うなよ、詩鶴」
「それこそ違うよ。さっき公大は言ってくれたよね。あたしの事が誰よりも好きだったって。それは半分本当で半分嘘。気づかない振りをしていただけで、公大の心の奥底には、玲菜さんの存在が動かずに居座ってたんだよ」
 ゆっくりと立ち上がった詩鶴は、公大と向かい合う。
「戦って、勝ち取らずにいるままあたしと付き合ってた公大だって、ベクトルの向きは違うけど随分とひどい事をしていたんじゃない?」
「俺がお前を逃げ道にしていたって、そう言いたいのかよ?」
「そうだよ。一方的に言われ続けるのは納得いかないもの」
 詩鶴の目が細められた。槍のような視線で、彼の顔を射抜いている。
「玲菜さんもそう。公大もそう。色んな言い訳をコートのように着込んでるのを見ると、虫唾が走っちゃう。素の姿を晒しなよ。好きになるのって、そう言う事だよね?」
「だからってお前のようなやり方を、認められるわけがないだろ。どれだけの人間を傷つけてるんだよっ!」
「どんな選択をとっても、人間は誰かを傷つけるんだよ? 大事なのは、それを覚悟する事。今回あたしは負けて何も手に入らなかったけど、だからといって後悔なんかしてないもん」
 さばさばとした口調で呟くと、詩鶴は軽く床を蹴った。反動で、彼女の体が公大に向かって倒れこむ。一瞬困惑した公大は、しかし反射的にその体を受け止めていた。
 声を上げる間もなかった。素早く絡みついた詩鶴の腕が彼の顔を引き寄せ、その唇に彼女の唇が重なる。
「反応、しないんだね」
 身を翻した詩鶴が、拍子抜けした声で呟く。その様子を公大は、冷めた目で見つめていた。
 そう言う心境で居られることに驚き、そして納得した。
「いつか言ったよな、詩鶴。俺はもうお前の世界の住人だって」
「うん、言ったね」
「自分の世界は、自分で回すんだって」
「そうだね」
「なら、もう俺はお前と別の世界の住人だ」
 一歩、公大は横に下がった。目に映る詩鶴の表情は変わらなかった。しかし前で組んだ彼女の手が、わずかに震えているのに気が付いた。
「俺が回す俺の世界で隣に居るのは、玲菜だ。生憎もう他の誰かに分けられるほど、広くないんだよ」
「……はっきり言ったね。変わったんだなぁ、公大ってば」
「お蔭さんでな」
 公大の言葉に重なるように、廊下から向かってくる足音が二人の耳に届いた。
「それじゃあ、な」
 もうこれ以上の長居は無用という事だ。
 きつく奥歯をかみ締め、公大は踵を返した。背中から、小さな、小さな嗚咽が聞こえたような気がした。
 確かめる気にはならなかった。意味のない事だった、それはルール違反であろうから。 





「ある程度近い場所じゃないと電波が拾えないから、地歴部室の下で待機してたの。放送部の備品置き場なんだけど、稲生先輩、コネがあるらしくて」
「相変わらずその辺の手の長さは半端ないな、あいつ……」
「それで、録音していたら途中で一つ壊されたらしくて聞こえなくなったから、約束どおり十分待って、出来るだけもう一つの方に録音してから先生たちを呼びにいったんだ」
 生徒指導室から出てきた公大を出迎えた亜里沙は、神妙な顔で真相を口にした。
「……一昨日玲菜とした話ってのは、それだったのか」
「うん。盗聴した内容を録音して、先生に伝える。稲生先輩だけじゃ無理で、絶対に信用できる人がもう一人必要だったから。そう言って、何もかもさらけ出して話してくれたんだよ」
「おかげさんでよく分かったけど、なら最初から話しておいてくれれば良かっただろ。そうすりゃ一服盛られた時だって覚悟とか出来てたってのに」
「敵を欺くにはまず味方から、なんだって。公大がもし真相を知っていれば、絶対に仕草に出ちゃうから気づかれるって。逃げ回るんじゃなくて、撃退しなきゃいけないから、一撃で相馬さんに致命傷を与えなければ意味がないって」
「ああ、良い感じに見透かされてるのな、俺……」
 苦笑いを浮かべた公大は、指導室を振り返った
「……まあ、終わったかどうかは分からねぇけど。区切りは付いたと思うぞ?」
「その、ごめんね?」
「ん?」
「わたしの方も色々迷惑かけちゃったみたいだし。お兄ちゃんがそんな大変な状況に陥ってるなんて分からなかったから」
「お前が謝る事じゃねぇって。迷惑かけたって言うんなら、俺の方が尚更だ。悪かったよ、亜里沙」
「そんな、そんな事全然ないから……!」
 たじろいで首を横に降った亜里沙は、何かに気づいたように声を上げる。
「あ、お兄ちゃん。その、稲生先輩の事迎えに行かなくていいの?」
「保健室だっけか? ちょうど行こうと思ってたんだが」
「それで、その。悪いなと思うんだけど時間も遅いから一緒に帰りたいんだけど……」
「悪いなも何も、当たり前だろそんなの。こんな時間にお前一人で帰らせられるか」
「ん、その。それはそうなんだけど、とにかくさ!」 
 照れたような笑いを浮かべた亜里沙は、一歩、公大から距離をとる。
「わたし、その、三十分位したら保健室に行くから! お兄ちゃんも稲生先輩と色々話す事あるでしょ?」
「……あー」
 ようやく妹の意図を察した公大の頬が、赤く染まる。
「そんなわけで、後でね!」
「あ、こら亜里沙っ!」
 公大が呼び止めるよりも早く、亜里沙は駆け出して行ってしまった。
「あいつ……どこで時間つぶしてる気だよ」
 苦笑した公大だったが、その気遣いをありがたいと思っている自分にも気づいていた。
 玲菜と話がしたい。その思いに気づいてしまえば、はやる心をもう止める事が出来ない。妹と同じように彼もまた、いつしか廊下を駆け出していた。




「――大丈夫だった?」
 保健室に入った公大を出迎えたのは、心配そうな玲菜の声だった。ベッドに横になっていた彼女が、彼の姿を認めてゆっくりと体を起こす。破れたシャツの上に、教師のものだろう、ぶかぶかのスーツを羽織っていた。
「俺の方よりお前の方は大丈夫なのかよ、玲菜」
「ええ。ちょっと疲れてただけよ」
「なら良いんだけどよ。その、何から何まで迷惑かけ倒しちまったからさ」
 ベッドの脇に腰を下ろした公大は、そう言って頭を下げた。
「終わりよければ、よ。そっちこそどうなの?」
「俺?」
「先生方には徹底的に言い含めたつもりだったけど、やっぱりこういう事って男の子の方に風当たり強いでしょ?」
「まあ、散々油は絞られたけど、何とかなったんじゃないかな。多分」
「そう、とりあえずは一件落着、なのかしら?」
 呟いた玲菜は、柔らかい笑みを浮かべた。
 公大が待ち望んでいた、それは彼女本来の華やかな表情だった。
 太陽がそっと旅人の衣を取り払うように、張り詰めていた気持ちの糸が少しづつ緩んでいくのを感じる。
「……まあ、しばらくは大丈夫だと思いたいな。流石に……」
 深い溜息とともにそう漏らした公大は、玲菜の背中に手を回すと、その体を引き寄せた。
「ちょ、ちょっと!」
「……アフターケアってことでさ。少しだけ、こうさせてくれよ」
 自分でも思った以上に声が切羽詰っている事に彼は驚いた。安堵なのか。玲菜の温もりが欲しかったせいなのか。混じり合って理由を見出す事が出来ない。
 困惑に頬を赤く染めた玲菜だったが、軽く息をついて、公大の背中に手を回してくる。
 子供をあやすように、ぽんぽんと時折背中を叩かれる。彼女の心遣いが、今の公大にはひどく身に染みた。
「……ありがとうな」
「感謝されるような事なんかしてないわよ。助けてあげようと思っても裏目ばっかり。無駄にあんたを危険に晒しただけだった気がするわ」
 この体勢では公大から玲菜の顔は見る事が出来ない。すまなそうに言う彼女の声は、僅かにくぐもっている様に聞こえた。
「どこがだよ。お前がいなければ、俺はどうなってたか分からないぞ」
「今日の事は良いの? あんたに一服盛った挙句に、あんな格好までさせたのに? 出会い頭に平手の一発くらい飛んでくるもんだって思ってたわよ」
「理由があったんだから、怒るわけないだろ。まあ睡眠薬も女装も金輪際お断りさせてもらいたいけどな」
「勿体無いわね。割と似合ってたのに」
「だから嫌なんだよ、バカ」
 まるで普段通りに交わしていく軽口の、何と心地の良い事か。
 抱きしめ、そして抱きしめられ伝わりあうぬくもりの、何と心安らぐ事なのか。
 どちらも、このまま変えずに味わい、楽しんでいきたい。何も言わずに亜里沙が来るのを待っていれば、それは可能だろう。
 一つ、小さな吐息を漏らした公大は玲菜の背中に回していた手を、彼女の肩に掛けた。
 彼女の熱に後ろ髪を引かれながらも引き剥がし、息の掛かりそうな距離で向かい合う。
「玲菜、改めて言うぞ……」
 覚悟は決まっていた筈なのに、いざとなると彼の心臓は早鐘を打ち始める。言葉が痞えて、中々前に出て来ない。
「好きだ。ずっと昔から、お前の事が好きだった。だから俺と付き合って欲しい」
 それでもどうにか形になった台詞は、公大自身が思っているより遙かに自然に、部屋へと満ちていった。
 玲菜は目を閉じて、それを聞いていた。余韻を体全てで受け止めているようだった。
 やがて口を開いた彼女の声は、鈴のように澄んだ音色だった。
「……本当はね、これでお終いにするつもりだったわ」
「え?」
「詩鶴さんからあなたを守るための手段だったんだもの。それが果たされれば、契約は終了。自然な流れでしょう?」
「それはそうだけどな、でも」
「……日曜までなら、そう言えたわ。でも、今はもう無理」
 ゆっくりと目を開けた、玲菜の瞳から一筋の雫が流れ落ちた。
「さっきも言った通りよ。私も、公大の事が好き。誰にも渡したくないって今は思ってる」
「なら……!」
「でもね。私の本質はやっぱり普通の女の子とは違うのよ。たとえあなたでも、抱かれるのは怖いわ。きっとその時がきたら、公大の事を傷つけてしまう」
 頬を濡らす涙の雫が、数を増していく。
「だから……大切な幼馴染のままでいられれば、それが一番良かったのよ」
「それは違うぞっ!」
 はっきりと、公大は首を横に振った。
「確かに、今までの関係はとても居心地が良かったな。あのままずっと、年をとっても続けられたら、それはそれで幸せだったと思う。だけど、少なくとも俺は自分の心の一番大事な部分に嘘をついて生きていく羽目になってたんだ」
「茨の道よ? 多分、今のあなたが予想してるより、私の心は根が深いわよ。断言できる。絶対にあなたは後悔する時が来るわ」
「そんなもの、してから考える」
「忘れたの? 私はあんたを勝手に売ったのよ? いくら他に手段が無いからって、そんな事をしてのけた女を許せるわけ?」
「それがどうしたよ。覚悟はもう決めたんだ。俺は玲菜が好きだ。俺がどう思ってるかなんて、変わりはしないんだ。玲菜、お前だけの気持ちを聞かせてくれよっ!」
 顔を真っ赤にしてそう言った公大の姿に、玲菜の口元は柔らかい弧を描いた。
「そう言えば、幼稚園の頃からあんたってば人の話なんかろくに聞いてくれなかったわね。それがどうしたって、考えてみればひどい台詞よね。こっちが何を言っても意味ないじゃない」
「三つ子の魂なんとやらだよ。諦めろ」
「詩鶴さんとどんな頻度だったか知らないけど、セックスだってしばらくお預けなのよ? 生きていける?」
「……人を種馬みたいに言うな馬鹿。でもおっぱい辺りまでは妥協点を求めたい」
「うーん、それは要検討課題かしら」
 真面目な顔でそんな事を言った公大に、吹き出しそうになった玲菜は、彼の頬に手を這わせた。
「でもまぁ……」
 ゆっくりと彼女の顔が迫ってくる。踊りだしそうになる心を静めながら、なるたけ神妙な顔を作って、公大は言った。
「ちょっと待ってくれ、玲菜」
「え……?」
 虚を突かれた玲菜の動きが止まる。その頬に公大も手を這わせると、
「こんな時くらいは……俺の方からさせてくれよ」
「ん――!」
 一瞬目を見開いた玲菜は、しかしすぐ熱心に公大に答えていく。
 今日何度目かの口付けの味は、公大が今まで味わった中で最高に甘い物だった。