◆ あくまの霍乱 ◆





「何やってるんかねお前は」
 保健室のベッドの縁に腰掛けた柏木公大は、肩を竦めて呟いた。ベッドの主はそんな彼の姿を面白そうに見やりながら時折咳き込む。稲生玲菜という名の彼女は、公大の幼馴染であり、そしてつい最近恋人へと関係が変わった間柄である。
「風邪と疲労かしらね。稲生さん、疲れを貯めすぎたんじゃない?」
 白衣姿のショートカットの女性が、体温計を片手に二人の方に向かって歩いてくる。彼らの学校の養護教諭である山本司は、手際よく少女の額に乗せられたタオルを取り替えると、その可憐な唇に体温計を銜え込ませた。一瞬目を見開いた玲菜は、しかし教諭の真剣な表情に何も言わずになすがまま。
「突然ぶっ倒れたとか聞いたからビビッて飛んできたら風邪と寝不足とか。アホですかアホですね玲菜さんや?」
「あんまり風邪を馬鹿にするもんじゃないわよ、柏木君? まだ十一月だからいいかもしれないけど、これが後一月二月後だったら阿鼻叫喚でしょ?」
「そりゃそうかもしれませんが……」
「風邪を引くって事は、体力が落ちてる証拠でもあるんだから。勉強は大事かもしれないけど、体調管理はもっと大事な事じゃない」
 真剣な顔で語りかけてくるその姿に、公大は内心驚きを隠せなかった。文化祭ではトンチキかつ目の保養な真似を平然としてのけたり、友人を閉口させるくらいにゴシップ好きな困った先生だと思っていたのだが、やる事はきっちりとやるタイプの人間らしい。
「……じゃなきゃ首になっちゃうよな」
「なんか言った?」
「いえいえ。とにかくそういう事だそうだ、玲菜」
 あんまり詮索されると色々困る。公大は誤魔化す様に笑いを浮かべて、玲菜の額を軽く指で突いた。普段は何かにつけやり込められっぱなしなのだ。こんな時くらいはせいぜい反撃させてもらいたい。
 彼の指の動きに合わせるように、体温計が甲高い電子音と共に完了を告げた。玲菜は唇から抜き取ってそれを司に渡すと、公大に向かってにっこり微笑む。
「そうねぇ。こんなに疲れるのも毎晩毎晩寝かせてくれないくらい激しいせいかしら、公大が」
「はいっ!?」
「……柏木君?」
 思わず吹き出した公大に、司は怪訝な視線を送る。
「昨日だってあんな事やこんな事までしてきて。もう勘弁してって言っても止めてくれなかったじゃない」
「……柏木君? 教師としては聞き逃せない発言で、私個人としては興味津々な発言を耳にしてる気がするけれど?」
「まてこら玲菜。「何を」を抜くな頼むから」
「何って、やあねぇ公大。二人っきりでする事なんてナニに決まってるんだから今更いう必要ないじゃない」
「柏木君、コーヒー入れてあげよっか。その辺しっかり聞かせてもらいたいわ」
 ふふふ、と含み笑いを浮かべる司の表情は「興味津々」を絵に書いたような物になっている。
「玲菜は黙れ、山本先生は落ち着いて。思ってるような事は断じてしてませんから。ただ単に俺の家で勉強してただけですから!」
「……えー」
「いやそこで何でそんなに残念そうな顔するんですか保健教師」
「つまんないわね、もう。そこは合わせてもっと悪乗りしてくれるのが彼氏の甲斐性って物じゃないの?」
「その代償が質問攻めの挙句に自宅謹慎とかってオチは全力で願い下げだっつの!」
 種類の違う不満の声を上げる女性陣を見て、公大は肩を落とした。こんな状況でも歯が立たないのであれば、一体いつどんな時なら彼女に勝てると言うのだろう。まじめに考えかけた公大は、しかしすぐに思い直した。出てくる答えがなんだかとっても切ない事になりそうだったから。
「……で、どうなんですか熱の具合は?」
「38度5分。とっとと病院にいって注射を打ってもらうか、家に帰って薬飲んで暖かくして寝るのをお勧めするわ」
 あきれたように頭を振って、司は玲菜に向き直った。
「どうする? 家に電話して迎えに来てもらう?」
「ん、大丈夫です。放課後まで休んだら、帰りますから」
「その顔を見て大丈夫そうにはとても見えないわよ?」
 司の言葉に公大も小さく頷いた。目元は潤み、頬も赤い。口調だけは普段の余裕を取り戻していたが、どう見てもひどい病人そのものの表情である。ただ、玲菜が何を考えているのかよくわかる公大としては、素直にその先の言葉を口にしづらい。
「……大丈夫です、山本先生」
 しかしため息ひとつをついて、公大は司に言った。
「授業終わったら俺が送っていけば良いだけの話ですし。それまでここに寝かせておいてもらえれば」
「それは構わないけど。柏木君、家、彼女と近かったっけ?」
「きっぱり反対方向ですがまあそれは良いですから。てかまあ、いろいろ付き合い長いですしその位は……」
「そこで素直に「彼氏ですから」っていえばもっと可愛くてポイント高いのになぁ?」
「やかましいから寝てろそこの病人」
 茶々を入れる玲菜を睨み付けて、公大は立ち上がった。時計の針は五限の開始十分前を差している。体調良好な彼としてはそろそろ戻らなければならない時間だった。
「少しでも体力回復させとけよ? さすがに自力で歩けない人間送ってくのは無理だぞ?」
「その時はおんぶしてってくれるんでしょ?」
「…………ぜひそうならない様に自助努力を期待しとく」
 頭を振って公大は、玲菜に背中を向ける。こうして話をしていること自体が楽しいと思えてならないのが、いろいろと困ると思いながら。
「あ、でもおんぶだと下着丸見えになりそうで恥ずかしいから、お姫様抱っこでお願いしようかしら?」
 ……時折疑問を覚える事があったが。




「着いたぞ。大丈夫か?」
「ん……もう?」
 肩越しに公大が声を掛けると、胡乱な玲菜の声が返ってくる。彼の目の前には、四十坪程の大きさの、白壁の二階建ての家がある。
 玲菜の家を公大が目にするのは、実はずいぶん久しぶりであった。相馬詩鶴と付き合っていた期間はもちろん、高校に入った頃からは自然と公大の方から彼女の家に行く事は少なくなっていた。
 付き合うようになってからも、もっぱら玲菜が公大の家に訪れる事が多い。公大の父親が単身赴任で、家に居るのが彼と妹の亜里沙だけだというのが、彼女が行きやすい理由であるのだが。
 もちろん公大は玲菜の両親と面識はあるのだが、やはり敷居の高さを感じるのは彼女との関係が変わったせいなのかもしれない。
 ともあれ、公大としては家の前にずっと立っているわけにも行かなかった。なにせ背中に玲菜を背負っているのだから。
 途中までは歩けたのだが、結局ダウンしてしまった玲菜を背負って彼はここまで歩いてきたのだ。体力自体には自信があったが、とにかくすれ違う人々の視線が何かと気になって仕方ない。
 それを想定して、玲菜は司から借りていたスラックスを身に着けていたので公大の手に触れる感触は布越しだったが、それでも太ももの柔らかさは露骨に伝わってくるし、何より背中に触れる二つの膨らみは圧倒的なボリュームだ。その上、風邪で荒くなった呼吸が、リズミカルに彼の首筋をなぞり上げてくる。
 無事に彼女をここまで連れてこれた自分を、公大は少し褒めてやりたかった。
「立てるか?」
「……むぅ、もう少し……お願い……ね?」
 玄関の前で公大は呼びかけるが、玲菜は小さな声でそう呟いてひしと強くしがみつく。
 普段とは違う彼女の姿を喜ぶべきなのだろか。嬉しくないと言えば嘘になるが、正直公大はこの後に待ち構えているだろう未来を思い浮かべて気が重くなる。
 それでも意を決して、彼はインターホンを押した。
『……はい、どなたですか?』
 ややあって、くぐもった女性の声が聞こえてくる。小さく息を飲み込んで、公大は口を開いた。
「お久しぶりです、多歌音(たかね)さん。柏木です。柏木公大です」
 彼の言葉に、一瞬インターホンが沈黙する。
 そして、どたどたと激しい音が玄関のドア越しに響いてくる。
 変わらないな。そう公大が思ったのと、壊れそうな勢いでドアが開いたのは同時だった。
「ちょっと、ちょっとちょっと! ヒロくん!? 久しぶりじゃないーっ!」
 小柄な公大より、頭半分ほどさらに低い。目元や口元には若干の歳が積み重なっていたが、室内着だろうトレーナーとジーンズに身を包んだその姿は余計な肉も年月も感じさせない。ショートカットに整えられた髪の毛の色と、そして何よりその勝気そうな表情が玲菜との血の繋がりを強く感じさせる。
 玲菜の母である多歌音は、公大の記憶の中と今も変わりがなかった。
「お久しぶりです、多歌音さん」
「もう、何そんなに畏まっちゃってるのよ。玲菜はまだ帰ってきてないけど、待っていればいいわよね?」
「いえその玲菜は俺の後ろに……」
「……母さん、まがりなりにも娘の心配くらいはして欲しいんだけど」
 あきれた様に呟く玲菜の声に、多歌音はようやくその存在に気づいたようだった。
「玲菜、あんた……そんな格好で何してるの?」
「風邪引いてダウンしただけよ……早く寝たいから、そこあけて欲しいんだけど」
「ずっとヒロくんに背負われてきたの? 全く、子供みたいなんだから……」
「小言とかは後で纏めて聞くから、とりあえず今は休ませて」
「はいはい。本当、ヒロくんに迷惑ばかり掛けて。その辺ずっと変わらないわねぇ」
 やれやれと肩を竦めて、多歌音は身を翻して家の中へと戻っていく。その姿に思わず公大は苦笑した。
「本当、かわんねぇな。お前のおふくろさん」
「間違っても本人の前で「おふくろさん」なんて言わないでね? 根に持つわよ?」
「言わねーよ。てか多歌音さん居なければここで降ろしてくつもりだったんだけどな」
「ごめんね、公大。アフターケアもよろしく……」
 玲菜の口調の端々に、隠せぬ辛さが漂っているのを感じ取る。公大は小さく頷くと、彼女を背負ったまま家の中へと入っていったのだった。




 そして、何故こんな事をしているのだろうか。
 割と真剣に頭を悩ませながら、公大はシソの葉を刻んでいた。隣のコンロには小さな土鍋がかかっており、こぽこぽと泡を立てながらお粥が煮込まれている。
 玲菜とは口を開けば互いに憎まれ口と掛け合いが飛び出る間柄だが、病気とあれば気遣う気持ちは誰よりもあるつもりだ。しかしそれも、代わりのより相応しい人間が居れば話は別である。
「相変わらず料理する姿が様になるのねえ、ヒロくん」
「いえまあ……ウチでも割と俺がやりますし」
 公大の後ろでは多歌音が洗い終わった皿を拭き、手際よく食器棚に仕舞っていく。
「……てか、逆じゃないですか?」
「んー、何が?」
「いえこう、娘さんが風邪を引いて寝込んでるんだから、ここは多歌音さんが腕を発揮して美味しいお粥を作る場面だと思うんですが」
「でもヒロくん、わたしより料理上手いんだもの。あの子だってより美味しいもの食べた方が元気になりそうじゃない?」
「いやそこは何か違うような気がやっぱり……」
 小首をかしげながら、公大はしかしリズミカルにシソを刻み終え、小皿に盛り付ける。続いて並んでいた梅干に彼の手が伸びた。丸ごと一個乗せるのが彼の妹の亜里沙流だが、その辺は兄と妹の間に越えられない壁がある。
「本当、それだけの腕があればいつでもお嫁にいけそうね。どんな相手もイチコロよ」
「いやいやいやいや。貰う方ですから。行きませんから」
「そう? 相変わらず可愛いのに。ヒロくんなら引く手数多よ?」
 他の人に言われれば思わず頭に血が上りそうな台詞だったが、幼稚園の頃からの彼を知っている多歌音相手では、公大としても苦笑を浮かべるより他ない。さっぱりした彼女の口調は嫌味ではなく、内容を横に置いておけば清々しい物言いであった。
 そういう所は本当にそっくりだよな。
 普段の玲菜が、公大の中で久しぶりに見た彼女の母親と重なる。玲菜は割と苦手だと言っていたが、似ている物を最初に受け入れられなければ逆に反発してしまうのかもしれない。
「でもヒロくんにちょっと悪い事させちゃってるかもね」
「え?」
 公大が我に返ると、すぐ隣に多歌音が立っていた。
「ヒロくんモテるだろうから、彼女もいるでしょうに。うちの玲菜が迷惑掛け通しでしょ? 今日だってあんなに具合が悪いなら、素直にわたしに電話すればよかったのに」
「あー……それは、その」
「でもまあ、せっかくだからそのお粥だけはお願いしちゃおうかしら。後のフォローが必要なら、協力するしさせるわよ?」
 神妙な顔で何度も頷きながら、歳相応の表情も覗かせて、多歌音は公大の顔を見上げている。
 途中から母親の居なくなった公大にとって、ある意味一番近しい大人の女性だった存在だ。彼女からしてみても、息子に近い感情を抱かれているのかもしれないと思った事もある。
「大丈夫ですよ、その。フォローとかはいりませんから」
「そう? 遠慮しなくていいのよ?」
 そも玲菜本人ならともかく、その母親にどうやってフォローを頼むというのか。それはそれで難問ではないだろうかと益体のない事が公大の頭を掠めるが、丁重に脇に避けた。
 大事な事を告げなければならない。公大は小さく舌を出して唇をなめた。多歌音の言動は、つまり彼女が公大と玲菜との関係を知らないという事なのだ。
「……フォローも何も、その。俺、玲菜と付き合ってますから」
「……え?」
「付き合ってます。幼馴染や友人じゃなくて、恋人として」
 ゆっくりと、自分に言い聞かせるように公大は告げた。
 多歌音の目がまん丸に見開かれる。公大の顔と、自らの手の辺りを何度も何度も視線が行き来し、そして小さく息を呑む。
 次の瞬間、台所中に底の抜けたような多歌音の笑い声が響き渡った。
「っはははは! ちょ、ちょっと、ヒロくんそれ面白すぎ! そんな顔して、良いジョーク飛ばせるようになったじゃないあははははっ!」
「いえその、多歌音さん?」
「いやー、笑った。笑わせてもらったわ。ここに来て今年一番面白かった出来事にランクインさせても良いくらいよ……って、ヒロくん?」
「本当なんです。その、信じがたいかもしれませんけど」
 自分がどんな表情を浮かべてるのか公大はよく分からなかった。しかし、彼の方を見ていた多歌音の表情から徐々に笑いが消えていき、そして彼女はじっと彼の目を見つめる。
「……本当に?」
「本当ですし、本気です」
 そらさずその視線を受け止め、公大はもう一度その言葉を口にする。
「俺と玲菜は、付き合ってます」
 多歌音の口から、ひとつ、ため息が漏れた。
「……そっかー。ヒロくん、うちの子選んじゃったのかぁ」
 彼女はダイニングテーブルのところに置かれていた椅子を引っ張り出し、腰を下ろした。
「多歌音、さん?」
「親の目から見てねぇ、その関係にだけはならないだろうなって思ってたのよねえ。あなたたち、ものすごく近すぎて、重なりすぎちゃってるから。逆に互いの姿が良く見えなくて、手を繋ぐ事もが出来なくなってるって言うのかしら」
「……幼稚園の頃からの付き合いでしたからね」
「多分ね、十年経っても二十年経っても、どれだけ別々の道を歩んでも道でばったり会えば笑いながらティータイムを過ごせる関係で行くと思ってたのよ。でも逆に、一緒の側で肩を並べて縁側で緑茶を啜りあうイメージが沸かないのよね」
「俺も、そうだと思ってました。多分、玲菜も」
「きっかけは……? って、ヒロくん! お粥お粥!」
「うぉっ!? やべっ!?」
 多歌音の言葉に振り返った公大の目に、吹き零れそうになった土鍋が飛び込んでくる。あわててコンロの火を消して、蓋を被せて安堵の息を漏らした。
「しばらく蒸らしておけば大丈夫、だよな……?」
「まあ、食べるのはあの子で、不味かったら怒られるのはヒロくんだものね」
「なんかナチュラルにぶん投げられたっ!?」
「まあそれはともかく。ヒロくんに確認しておきたい事があるんだけど?」
 椅子の背もたれに胸を預けて、多歌音が公大を見上げる。行儀の悪いその格好が、不思議と似合うと彼は思った。
「何ですか?」
「ちゃんと避妊はしてるわよね?」
「ぶっ!?」
 素で吹いた。
 唖然とした公大の前で、多歌音はカラカラと笑い声を上げている。
「冗談よ、冗談。いえ人間ヤレば出来るんだから避妊はきっちりしてもらいたいけど。学生結婚はさせるつもりはないし、まだお婆ちゃんになる気はないわよ?」
「……肝に銘じておきます」
「あー、そういう台詞が出てくるって事は、やっぱりウチの子としたいのね?」
「ちょ、ちょ……! それは、そのっ!」
「まあ仕方ないか、ヒロくんも立派な男の子って事だものねぇ。ましてウチの子もあんなスタイルしてれば、それはねえ」
 いやもうホント勘弁してください。
 今すぐにも公大は土下座して謝りたい気分だった。勝てないなという事を見せ付けられる事に悔しさはなかったが、穴を掘って入りたくなるほどに恥ずかしい。
「まあヒロくんの顔見てるのも楽しいけど、それは横に置いておいて」
 多歌音は椅子から立ち上がると、公大のそばまで歩いてくる。
「良いの? もう、あなた達は居心地のいい前の場所には戻れないのよ?」
「分かってます」
「別れ話とか痴情のもつれとかしがらみとか、今まで無縁だった物が必ず一度は襲ってくるわよ? 愛は永遠普遍だなんてファンタジーは、脇に放り投げておかないと痛い目見るんだからね?」
「ええ、それも分かってるつもりです」
 彼自身が何度も自分に問いかけて、他ならぬ玲菜にも言われた言葉だった。
 今でも事ある毎にその決断の意味を考えて、そして出てくる結論はやはり変わらなかった。
「ものすごく大変ですけど、でも、二人で何とか新しい場所を作ります。だから」
 公大はゆっくりと、多歌音に向かって頭を下げた。
「これからも、よろしくお願いします」
 返ってきた答えは、軽い衝撃だった。
 多歌音の手が、ぽんぽんと公大の胸を叩いている。顔を上げると、彼女の優しい微笑が彼の視線を受け止めていた。
「なんか改まってそう言われると、ヒロくんが結婚の挨拶に来たみたいねぇ」
「……言われてみれば」
「十年後とまでは言わないけど、せめて二人揃って大学卒業してからにはして欲しいわね。そういう畏まった挨拶は」
 にやりと、多歌音の微笑が悪戯めいたものに変わる。彼女の手が、コンロの上の土鍋を指差した。
「じゃあまあ、頃合だと思うしあの子のところにそれ、持っていってちょうだいね。わたしはこのまま夕飯の準備するから。食べていくんでしょ?」
「いやもう、断れない流れじゃないですか」
「あの子の部屋に運んであげるから、ごゆっくりね?」
 気づけばもう、公大の逃げ場はすべて塞がれてしまっているようだった。後で妹に電話しておけば良いだろうか。そんな事を思いながら、公大はお盆の上に鍋敷きと取り皿を並べ始めたのだった。


「で、ヒロくん今ゴムは持ってるの? なかったらあげるけど?」
「使いませんからっ! 玲菜のやつ病人ですからっ!」







 お粥の入った土鍋の乗ったお盆を持ったまま、公大は固まっていた。
 玲菜の部屋の中である。ベッドの上で上半身を起こした部屋の主が、彼に向かって身を乗り出している。目を閉じて、大きく口を開け、何かを待っている様子だった。
「……何の真似だ一体」
「決まってるじゃない、私は息するのも大変な病人なんだから、ここはその美味しそうなお粥を食べさせてくれるのが筋でしょ? 火傷はしたくないから、ふーふーって、公大が冷ましてくれるのよね?」
「思いっきり元気そうに喋ってるじゃねーか!」
「もう、様式美を理解できないのはつまらないわねぇ」
 ため息をついて目を開けた玲菜が、公大に向かって手を伸ばしてくる。
「でもありがとう、ありがたく頂くわ」
「熱いから気をつけろよ?」
 部屋の中央に置かれたガラスのテーブルの上にお盆を降ろすと、公大はお椀にお粥を掬い、上に切ったシソの葉と梅を散らす。
 彼女にそのお椀とレンゲを渡した公大は、ベッドの脇に腰を下ろした。
「ほらよ」
「ん、良い匂い。相変わらず公大ってば良い仕事よねぇ。嫉妬しちゃう」
「多歌音さんって言う可能性は考慮しないんかい」
「ありえないわよ。あんたがいるのに母さんが自分で作るわけないじゃない……っ! 熱っ!」
「言わんこっちゃねえ。気をつけろっての」
「あら、やっぱり気が変わって食べさせてくれるの?」
「ねーよバカ」
 ぼやいた公大は、ぐるりと部屋の中を見回した。白い壁紙に映えるようにか、本棚や机、化粧台は黒系で纏められている。引き締まりすぎて寒々しい印象を与えかねないコーディネイトだったが、淡いグリーンのカーテンと、本棚の一角を占拠してるぬいぐるみの群れが印象を和らげている。
「久しぶりに来たけどよ、相変わらずぬいぐるみ集めるの好きなのな」
「お陰で押入れの一角が占拠されちゃったわ。物欲のセーブはしてるつもりなんだけどね」
「でもあのキモいコアラみたいな生き物のぬいぐるみはどうかと思うぞ? なんで青いんだよ。しかも野球のユニフォーム着てるし」
「それでも可愛くなったのよ? 昔は惨々たる有様だったんだから、アレ」
「いやそもそも買うなよそんなもの……」
 長く見ていると呪われそうだと思った公大はソレから目を背け、玲菜に視線を戻した。
 自分で息を吹きかけ冷ましながら、それでもしっかりとお粥を食べている。作った物をしっかり食べてもらえれば、作り手としても気分がいい。
「お代わり、ある?」
「おー、食え食え。そんだけ食えれば大丈夫そうだしな」
 二杯目はそっと出し、などという事もなく胸を張ってお椀を突き出してくる彼女の姿に、公大の目尻も少し緩んだ。
「本当に美味しいわ、これ。桃缶もあれば言う事なしだったけど」
「食いたいのか?」
「風邪引いた時って、妙に食べたくならない?」
「まあ、分かる気はするけどよ」
 お粥をよそったお椀を返した公大は、じっと玲菜の顔を見つめる。
 こうして益体も無い事を話しているのは本当に楽しい。楽しいからこそ、言わなければならない事もあるのだ。
「ん、どうかした? ひょっとして私の顔にご飯粒ついてたりする?」
「……悪かった」
 小首を傾げる玲菜に向かって、公大はそう言って頭を下げた。
「……は?」
「昼間保健室でも言ってただろ? 寝かせてもらえなかったって。誤解を招く言い方だったのはともかく、俺の勉強を見てもらったり何なりで、お前にずいぶん負担がかかってるのは事実だし」
「…………」
 公大の言葉に、玲菜は小さく眉をひそめた。
 公大も勉強が出来ないわけではなかったが、文字通り玲菜とはレベルが違う。高く聳え立った間の壁を越える為に、現状はその彼女の手に頼りきりという状態だ。
 体調を崩した原因の全てではないかもしれないが、一つであることは間違いない。この時期に彼女をそういう目に合わせてしまった罪悪感が、公大の胸をきつく締め付けてくる。
「……公大、あんたね」
 ため息をついた玲菜は、手に持っていたお椀を枕もとのサイドテーブルに乗せた。そのまま空いた手を彼に向かって伸ばしてくると、
「玲……なぁっ!?」
 しなやかの彼女の両の手の指が、無造作に公大の頬をつねり上げた。
「人の弱り目につけ込んで、アホな事抜かしてるのはこの口かしら?」
「ひょ、まへひたいひたいっ! ほっへはひひれふっ!」
「痛くしてるんだから当然! 私も今頭が痛いんだからおあいこよっ!」
 眦を吊り上げた玲菜に至近距離で射すくめられ、公大は頬の痛みを忘れて見入ってしまう。彼女は本気で腹を立てている。その表情が身震いするほど美しかった。
「いつぞや言った筈よね? 進んで買ってる苦労を同情されるのは腹が立つって。こんな事で下手な同情したりされたりするような、安い関係だったかしら私たちって?」
「……ひがう、な」
「そうよ。あんたにそんな事言われたら、今こうしてご飯の心配までしてもらってる私なんか一体どうすれば良いってのよ。本当に悪いと思ってるんなら、次の模試でA判もぎ取って見せるのが正しい報い方って物じゃない?」
 玲菜の指が、公大の頬から離れた。赤く腫れたそこを、彼は無意識になぞり上げる。じんと伝わる熱と痛みが、そのまま彼女の抱いている想いのようだった。
「……そもそもあんたがそんな事心配する必要はないのよ。お互い様なんだから」
 ついと視線を背けて、玲菜は呟いた。つい先ほどまでとは異なる、弱々しい声色がその唇から漏れる。
「大体、負担を掛けているって言うのなら私の方もじゃない。こうしてお互いの家に来あって、べったり同じ時間を過ごしてるのに……」
「のに?」
「……生殺し、本当は辛いんでしょ?」
「…………はい?」
 呆けた返事を返した公大に向かって、玲菜は背中を向けて、消え入りそうな声で続ける。
「自分でもね、何でだろうって思うのよ。あんたの……公大の事、誰よりも好きだって言う自信あるのに。私の中でどうしても受け入れる踏ん切りがつかないのよ……」
 薄いピンクのパジャマが必要以上に玲菜の姿を幼く見せているのか。公大の目に、彼女の背中がとても小さく、震えているように見えた。
 彼女のその苦悩の理由は、公大もよく分かっている事だった。
 稲生玲菜の本質は同性愛者だ。
 自分に置き換えれば容易に想像がつくことでもある。お互いに思いが通じている自信はあっても、彼女が抱いている、男に抱かれるという事への違和感や恐怖は、容易に超え難い物がある筈だ。
 だから公大は、自分からその事に関して何か言う事はなかった。先ほど多歌音が冗談半分に避妊の事を口にしていたが、現状の彼にとって「必要がない」と言うのが正しい。まして、自分のその性癖を親に明かす事など、玲菜がする筈もない。
「玲菜……」
 公大が呟く。その声に答える様に、玲菜が向き直ってきた。
「……でもね、良いわよ? 公大」
「……何がだよ」
「今なら、多分。熱で割りと頭飛びそうだし。ぼうっとしてるから、多分そんなに怖くない気がするわ」
 ベッドの端に腰を下ろしている公大から見れば、今の玲菜はやや見上げる位置にいる。やや影に覆われたその顔の中で、眼鏡の奥の目が赤く潤んでいるのだけははっきりと見える。
 だから小さくため息をついて、公大は言った。
「そのお粥、美味かったか?」
「え?」
「……さっきな。そのお粥作ってる時、多歌音さんと色々話したんだわ。お前と恋人として付き合ってるって事も」
 玲菜の目が、丸く見開かれた。
「まあ、言ってないんだろうなぁとは思ってたけど。案の定めちゃめちゃ驚かれた。驚かれて、それでまあ、よろしく頼む頑張れと背中を叩かれたんだわ」
「……公大」
「まあ、俺としても色々覚悟は決まってるんだよ。稲生玲菜と付き合うと言うことに関しては、さ」
 そう言うと、公大は右手を玲菜の顔に向けて伸ばした。怪訝そうにその動きを目で追う玲菜の額を、彼は指で軽く弾いた。
「っ痛!」
「お前こそ、人を何だと思ってやがるんだよ! 病人の寝込みを襲うなんて真似できるかバカ!」
 その言葉に鼻白んだ玲菜だったが、叫び出しそうになったのを堪え、呟いた。
「……風邪はうつせば治るっていうじゃない。うつさせなさいよ」
「やかましいわ。寝る以外に風邪なんか治るかっ! とっとと寝つくまで見ててやるから、うつしたければ勝手にうつせっての!」
 そうまくしたてた公大は、玲菜に背中を向け、ベッドの縁によりかかった。
「亜里沙には後で電話しとくし、とりあえず追い出されるまでは見ててやるから。美味かったって言った以上責任もってソレ全部平らげて寝とけ、バカ」
 早口になりそうな声を必死で抑えて言うと、公大は目を閉じた。
 シたく無いかと言われれば、無い訳が無い。情欲を抑え続けて傍にいるには、稲生玲菜という女は魅力的過ぎる。
 だが何よりも、公大は彼女といる空気が好きだった。こうしてあけすけに思っている事をぶつけ合える今の状態は、何ににも変えがたい。
 幼馴染で友人と言う関係から、恋人同士に代わっても。この雰囲気だけは変える事無く守っていかねばならない大事なものだ。
 性悪なこあくまが少々霍乱したからといって、無用な所に手を突っ込む無粋な真似など、公大は願い下げだった。
「……そういう所は、本当に昔っからそのままなのよね」
 玲菜の呟きが公大の耳を擽ると、彼女の手が後ろから回されてきた。後頭部から背中に掛けて、柔らかい温もりを感じて、公大の口から小さく息が漏れる。
「……褒めてるのかよ、それは」
「さあ? その辺は自分で判断してちょうだい」
 あきれた様なその声に反して、玲菜の腕の甘やかな束縛は、しばらく公大を解き放つ事は無かった。







「おかしいわね。ここで公大が風邪を引いているって言うのが、麗しいお約束だと思うんだけど?」
「ご期待に沿えず悪うござんしたな」
 校門の前で勝気な笑みを浮かべている玲菜に、公大はそう言って舌を出した。
 玲菜の顔色は良く、表情も明るい。どうやら風邪は一日で彼女の体から退散していったようだった。
「私が朝起きたらもういなかったって事は、夜の内に帰ったの?」
「さすがに平日に高校生の身分で女の家にお泊りはできねぇっての。多歌音さんと祐作さんにはちゃんと挨拶してから帰ったけどな」
 夜中にてくてくと一人で歩いて帰る最中は寒さが身に染みたのだが、それだけの甲斐はあったと公大は思う。
「え、お兄ちゃん帰ってきたの?」と妹に素で驚かれたのに関して、色々思う所はあったわけだが。
「さぞかし振り切って帰るの大変だったでしょう?」
「腹はちきれるほど多歌音さんの料理を食うことで勘弁してもらった。でもナチュラルに未成年に酒を勧めるのは止めるように言ってくれ」
「女二人に挟まれて大変だったみたいだから、これから父さん遠慮なく引き込もうとしてくると思うわよ?」
 含み笑いを浮かべた玲菜は、一歩公大に歩み寄るとその左隣に寄り添う。
「お前な……学校内で何を」
「ありがと。気分が晴れたわ」
 横目で見た彼女の表情は、言う通りに清々しい。
 公大の目から見ても、昨日の玲菜は風邪を引いただけとは言えない程にどこか軸がぶれていた。それを普段決して見せない意地っ張りなだけに、時折溜め込みすぎて体そのものがおかしくなるのかも知れない。
「まああれだ。倒れそうになったのを支えてやるくらいの力はあるから。遠慮するな」
「そうねえ。そんな顔していかにもひ弱な美少年って感じなのに。中身は全然違うものねぇ」
「……うるせえ。顔の事は言うなっての」
 渋面を浮かべた公大の左腕に、ぎゅっと何かが押し付けられる。
 ふにふにとして、でも確かな弾力を備えた感触。。
「遠慮なく頼りにさせてもらうわ。むらむらっと来てあんたが何にも手がつかなくなるくらい」
「……いっそ何にも考えずに襲っときゃ良かったかな畜生」
「ふふ、次に私の気が迷う時までせいぜい我慢してちょうだい?」
 そう笑って、玲菜の体が公大から離れていく。
「ところで、あんた一限目体育じゃなかったっけ?」
「そうだけど、何だよ?」
「昨日家帰って、しっかり鏡見た?」
「は……?」
 要領を得ない玲菜の言葉に、公大は眉を潜めながら昨日の事を思い出す。
 家に着いた時は日付が変わり掛けていた。さすがに疲れてほとんど何も考えずにそのまま寝てしまった気がする。
「油断大敵よ? うちであの後、少しうとうととしてた時あったわよね」
 そう言って玲菜は、自分の細く滑らかな首筋を指差す。
「ちょ、待て……お前?」
「さすがにほっぺただとすぐに気づかれちゃいそうだったし、後々大変だと思ったから自重したけど」
 彼女の仕草とその言葉で、公大の頭の中にひとつの答えが導き出される。
 あわてて首をかしげたりその当たりをなぞったりして見るが、どんなに頑張っても人間の体は鏡なしで自分の首周りを見る事が出来ない構造である。
「お、お前……何考えてやがるっ!?」
「お礼よ、お礼。そんなに喜んでもらえて嬉しい限りね」
 笑いながら手を振った玲菜はくるりと背を向けて、昇降口に向かって駆け出した。
「昨日の遅れた分は、今日しっかり取り返してあげるから。放課後覚悟しときなさいねー?」
「いや待てその前にお前が今覚悟しろってか、体育の授業が堀内や川相と同じと知っての諸行かこんちくしょうっ!?」
 あわてて彼女を追いかけ始めた公大だったが、病み上がりとは思えないくらいに玲菜の足は速い。
 何より、こうしている間もずっと周りの生徒の視線が突き刺さっている。夏休み前のはた迷惑な元彼女の件といい、文化祭でのアレなピンチヒッターの事と言い、望まない方向へ望まない方向へ、どんどん自分の知名度が上がっていってしまってる気がしてならない。
「こ、このあくまめ……覚えてやがれ……」
 追うのを諦めた公大は、天を仰いで慨嘆する。
 あくまだってたまには霍乱するかもしれない。しれないが、治ればあくまはやっぱりあくまなのである。
 しかしそれに進んで魅入られてしまった以上、振り回され続けるのは当然の代償なのだろう。魂を取られないだけ、まだ良心的ではないか。
 囃し立てる声や、恨みのこもった野次が時折投げかけられる中、諦めたように頭を掻きながら、公大もまた昇降口へと向かって歩き出したのだった。