■ 子羊と犬と羊飼い ■






 居心地が悪い。
 来客用のソファに腰を下ろしたまま、柏木公大は小さなため息をついた。
 回りを通るスーツ姿の男性や、制服なのだろう水色のベストとスカート姿の女性たちが、通り過ぎる度に好奇の視線を送ってくるのがわかる。それはそうだろうと彼は思う。ここは社会人たちの戦場であり、ブレザー姿の半人前が足を踏み入れるには時期尚早なのだから。
 不景気という文字が新聞から消える事のない昨今だが、それでもこの会社から熱のような物が出ているのが公大にもよくわかる。小型医療機器の製造開発などを行っていて、業界でも注目される立ち居地なのだそうだ。
 それを嬉しそうに自分に語ってくれた人と、今日、これから公大は再会する。
 以前にあった時から半年ほど経っていた。関係を考えればもう少し頻繁に顔を合わせるべきなのか。そう思わなくも無い公大だったが、口癖のごとき「忙しい」という相手の言葉を真に受けた形で、結局その程度の頻度になってしまう。
「まあ、難しいもんだよなぁ」
 呟いた公大は、自分に向かって近づいてくる足音に我に返ると、顔を上げた。
 他の女性社員とは違う、黒を基調としたパンツルック。清潔そうなその格好とショートカットに整えられた髪型が、年より若い印象を彼女に与えていた。
「ごめんごめん、公大。待たせちゃったわね」
「まあそうなると思ってたから。別に構わねぇよ、梓さん」
「うーん。相変わらず梓さん、かぁ」
 努めて冷静な顔を作っていた公大の前で、中年への差し掛かりといった風の女性が苦笑いを浮かべる。
「まあ、仕方ないんだけど、ちょっと寂しいわねぇ」
「……悪い。でもまだ、どうも」
「いいわよ。形はどうあれ、息子がちゃんと会いに来てくれるだけで嬉しいものなのよ?」
 表情を曇らせる公大に向かって、女性はそう口にした。
 柊元 梓(くきもと あずさ)
 旧姓に戻る事を三年前に選択した、公大の母親だった。



「亜里沙は元気?」
「会いに行くっていう話を昨日したら、それからずっと不機嫌だったよ」
 梓の会社の向かいにある、小さな喫茶店。そこで二人は向かい合っている。
「あちゃー、まだ嫌われてるのねぇ……」
「梓さんが誤解を解こうとしてないんだから仕方ないだろ。あいつ、まだあんたが一方的にオヤジを捨てたって思ってるぞ」
 公大がそう言うと、コーヒーをかき混ぜていた手を止めて、梓はため息をついた。
「過程はどうあれ、結果別れちゃってるからねぇ。あの子のその思い込みも間違いじゃないのよねぇ……」
「……まあ話し合うにしても、もう少し物分りが良くなるまでは待った方が良いかもしれないけど。この件に関しては俺からはどうにも出来ねぇと思う」
「あの人は?」
「今はブラジルに出張中。帰ってくるのは年明けだと」
 公大は肩を竦めて、鞄からクリアファイルを取り出した。
「それは?」
「今日俺が梓さんに会いにきた理由だよ」
 ファイルの中から公大は、B5サイズの一通の書類を取り出し、テーブルの上に置いた。
「ああ、なるほどね」
 一番上に太字で書かれた文字を読んで、梓は何度も頷いた。

 ――【進路希望調査】

「家族のサインがいるんだよ。でもオヤジにもらいに行くわけにもいかないからさ」
「それで私の所にきたって言うわけね」
「そういう事」
「うーん。勝手に別れて出て行ったひどい母親なのに、ありがたい話ね」
 茶化すようにそう言った梓に向かって、公大は苦笑いを浮かべようとして失敗した。
「……そりゃオヤジの奥さんじゃなくなったかもしれないけど。でも、俺や亜里沙の母親だって事は、お互い死ぬまで変わらないじゃないか」
 努めて冷静に言ったつもりだったその言葉も、梓の表情を見る限り、成功してるとは言い難い。公大は心の中で顔をしかめた。
 実際の所、彼自身も湧きあがる感情をもてあましている。
 妹が梓に抱いているような一方的な怒りは、さすがにもう持っていない。夫と妻の間に何があったのか。その奥底までも知る事はたとえ子供であっても不可能なのだと分かっている。どちらかが浮気したとかそういう事でさえなければ十分だと思うようにしている。
 しかしそれがゆえに、憎むという感情を持つ事も出来ずに、こうして宙ぶらりんになってしまっていた。
 玲菜なら、こういう感情でも折り合いがつけられるんだろうか。
 どんな悩みを打ち明けても、さらりと解答を導き出してくれる。出来すぎた幼馴染の恋人の事を思い浮かべて、公大はすぐに頭の脇に追いやった。
 夏休み前のあの事件から、どうにも簡単に彼女に頼るようになってしまっている。同い年の少女だという事を忘れてはいけないのに。
「……で、あなたはどうするの?」
 気まずい沈黙から方向を変えようとしたのか、梓がとんとん、と指で書類を叩いた音で、公大は我に返った。
「ああ……そりゃ、進学しようと思ってるよ。幸いオヤジも大学卒業までは保障してくれたし」
「そう。この時期だから、志望は決まってるんでしょう? どこなの?」
「H大の工学部」
 公大がそう言うと、梓はきょとんとした顔で彼を見つめてくる。
「おかしいわね。あんた、そんなに頭良かったかしら?」
「親の台詞じゃねえぞそれ……」
 げんなりとした公大に、梓は何度も首をかしげながら、
「だってあんた、中学校の時なんかろくに勉強もしてなかったじゃないのよ。そりゃまあ、あの人と私の子供だし。出来そのものは悪くなかったと思うから倉見東に受かったんでしょうけど、だからってH大とか出てくると思わなかったわよ」
「色々事情があるんですよ。それに、あくまで志望というか目標なんだ。高い方が良いに決まってるじゃないか」
 そう言って公大は何も入れないコーヒーに手を伸ばす。
「色々、ねえ」
 かき混ぜるのに飽きたか、やはりカップを口元に運んだ梓は一口呷って、
「あれね。「彼女と同じ大学に行きたい!」ってやつかしら」
「っ!?」
 壮絶にむせた公大は、その体勢のまま固まってしまう。
「ちょっ、ちょっと! 大丈夫、公大?」
 咳き込む息子を心配そうに見ていた母親だったが、すぐに目を細める。
「相馬の……詩鶴さんって言ったっけ? あんたがそんなお嬢様とどういう接点で付き合う事になったのか分からないけど、彼女、頭も良かったのねぇ……」
 ああ、そういえば話してないな。
 にまにまと意地の悪い笑みを浮かべる母親の姿に、公大は詩鶴との顛末を話していなかった事を思い出した。
 無理もない、前にあったのは六月だったのだから。
「……違うよ、梓さん」
 公大は、頭を振ってカップをソーサーに戻す。
「違うって、またまた。別に隠さなくてもいいんだけど。それだって立派な動機でしょう?」
「……彼女と同じ大学に行きたいってのは当たってる。でも、相手は詩鶴じゃない」
「ふられたの?」
「……そこで真っ先に俺がふられる方を選ぶのも、母親としてどうなんだろうな!」
「だってあんたが女の子振るなんて甲斐性、あるようには思えないわよ。その顔だから、年上から可愛がられるとは思うけど」
 容赦のない梓の物言いに、公大は頭を抱えた。
 彼女のどこを、自分の父親は気に入って結婚したのだろう。結局長続きはしなかったのだから、見る目があったとは言い難いのだろうけれど。
「前に梓さんと会った後、色々あって詩鶴とは別れたんだよ。と言うかあいつの事はあんまり思い出したくないんだけどな!」
「それで新しい彼女が出来て、仲良くなって、一緒の大学に行きたいってそういう事?」
「そういう事です。だからさっくりとその進路調査票にサインしてハンコ捺してください」
 幸いにも書類にコーヒーは飛び散っていなかった。ずい、と梓に向かって公大はそれを押し出す。
 しかし梓は口元に手を当てて、何事か考え込んでいる。
「あれ。俺確か判子持ってきてって頼んどいたよ、な?」
「あるわよ。別に忘れてきたとかそういう事じゃないわよ」
 梓は真剣な顔で、公大を見つめてくる。
「えと……何? まだ顔にコーヒー残ってるのか?」
「相馬のお嬢さんを袖にしてまであなたが選ぶ子って、一体どんな子なのかなって」
「いやそれ、その判子捺す事に関係ないだろ!?」
「あるわよ。大有りよ」
 梓の指が、書類を再びテーブルの真ん中に戻す。
「まああんたが卒業即就職なんて道を選ぶとは思ってなかったし、専門学校って雰囲気でもなかったから大学進学を目指す事自体は当然だと思うわよ」
「だったら!」
「でも、H大に入りたいだなんて壮大な目標掲げるほど自分の息子の道を操縦した相手の事を知りたいと思うのは、母親として当然の感情でしょう?」
 決して声のトーンが変わる事はない。ただ、真剣な眼差しで、梓が公大の立てていた見えない壁を突き崩してくる。
 公大は、視線をそらして、深いため息をついた。素面じゃ話せないと言うのは、今みたいな状態を言うのだろうか。
「公大?」
「……その、な。梓さんも良く知ってる相手」
「え?」
「……玲菜だよ。稲生玲菜」
 公大は母親の顔が見る事が出来なかった。彼女の全然知らない相手なら、こうまで気恥ずかしくなる事はなかったと言うのに。首筋から頬までひどく熱を持っているのを感じる。多分耳まで真っ赤になってしまっているのだろう。
 その耳に、梓の声が、聴き間違えようもなく飛び込んできた。
「玲菜ちゃんって! いや、いくらなんだってそれはないでしょう!?」
「な、何でだよ! 何でそこで否定から入るんだよっ!?」
 思わず声が高ぶった公大に向かって、梓は手を振りながら苦笑する。


「だってあの子、同性愛者じゃない」


 店内には公大たちの他に客はいない。それでも、彼にとって今この瞬間、時間が凍りついたような錯覚を覚えてしまった。
「何を……言ってるんだ、梓さん」
「そう言うのはね、意外と周りには分かっちゃうものなのよ」
 梓の口調は柔らかい物だったが、見つめる視線は真剣なものだった。
 いつもこうだったのだと、公大は思い出す。
 彼が何か失敗をしでかした時、母親はあまり声を張り上げたりはしない。ただ理路整然と、何がいけなかったのか。それがもたらす危険などを諭してくる。
 つまり彼女にとって、今自分が口にした事は「失敗」だという事なのか。
 テーブルの下で、公大はきつく手を握り締めた。
 喉元まで競りあがった激情を飲み込んで、公大は別の言葉を口にする。
「……梓さん、まさかその事、あいつの母親には」
「言えるわけないじゃない。そんな事聞いたら、多歌音ってばひっくり返るわよ」
 自分と玲菜がそうであるように、梓と、玲菜の母親である多歌音も中学校時代からの付き合いだと公大は聞いていた。離婚する前は、互いの家に行き来している様子もよく見ていた。今もなお、その付き合いは続いているのだろう。
「玲菜ちゃん自身、それほど真剣に隠している様子はなかったけど、多歌音には知られたくなさそうだったし。その件に関して別段私が誰かに吹いて回る必要はないものね」
 梓はコーヒーを一口呷って、ソーサーに戻す。磁器が擦れ合うその音が、公大にはひどく耳障りだった。先ほどまでは、気にも留まらなかったというのに。
「あなたも、知っていたんでしょう?」
「何がだよ」
「知っていたから、あれだけ側にいても本当に付き合おうとはしなかったんじゃないの?」
「別に……それだけが理由じゃないよ。付き合いが長すぎて、距離が近くなりすぎてたんだよ」
「まあ、ちっちゃい頃は一緒にお風呂まで入ってた仲だものねぇ」
 目を細めて懐かしそうに梓は言う。
「まあある意味あなたと入ってる分には安心だったけど。玲菜ちゃんが亜里沙と入りたいって言ってきてたら、ちょっと考えちゃってたかもね」
「悪い、梓さん……結局何が言いたいのか、俺にはよく分からないんだけど」
 それでも公大は冷静さを保とうとして、今度は失敗した。テーブルに置いた右手の勢いは彼の想像以上で、鈍い音とともに互いのコーヒーカップが揺れる。
「分からない?」
「分からねぇよ!」
 それでも梓の表情は変わらなかった。荒げた公大の言葉は、彼女の前で空しく跳ね返され、消えていく。
「自分の子供が同性愛者と付き合ってるって言われて、素直に諸手を挙げて受け入れられる母親って、いないわよ」
「何でだよ。俺は男であいつは女だ。何も問題ないだろ!」
「そうね。傍で見てるだけでは、そう言えるわね」
「大体、玲菜本人の事だって、梓さんはよく知ってるだろう。外見の事を脇に置いておいたって、誰よりもしっかりしていて、頭も回る。あんなやつが幼馴染だって言う事が、奇跡としか思えねぇよ」
「だから、なのよ」
 梓は小さなため息をついた。
「玲菜ちゃんは頭が良すぎるのよ。私が見ている時からそうだったわ。頭が良すぎるから、誰よりも早い段階で自分の差異に気づいてしまって、悩んで、そして折り合いをつけてしまってる」
「それの……何が悪いんだよ」
「折り合いをつけたのよ? 自分は、同性愛者である事を認めて、受け入れてしまったの。それだけの意志力と判断力を持った子と、自分の息子が付き合いだしたなんて聞かされれば、一体何事かって思って当然でしょう?」
 そう言って、梓はハンドバッグからコンパクトミラーを取り出した。
「公大。この後いくらでも怒って構わないから、今は私の話を聞きなさい」
 ミラーを持った梓の手が、公大の前に翳される。
 鏡に映るのは、嫌と言うほど見慣れた公大自身の顔だった。
 少女と見間違えられた事も一再ではない。柔らかく整いすぎた顔立ちの少年が、不機嫌そうに眉をひそめている。この容姿が元で、夏にはとんでもない事件に巻き込まれた。そこだけ見れば疎ましい限りであっても、その事件のお陰で玲菜と付き合っている事を思えば、受け入れるしかない容姿。
「私とあの人のいいトコ取りかしらね。少なくとも、今の所、その顔だけ見れば男らしさとは無縁でしょう?」
「……それで?」
「分かるでしょう?」
 コンパクトミラーを再びハンドバックにしまいこんで、梓は諭すように言う。
「あなたが玲菜ちゃんにとって都合の良い扱いをされてるんじゃないかって、心配してるのよ」
「俺がこの顔だから、玲菜が男と付き合う練習代わりにしてる、とでも言いたいのかよ」
「そこまでは言わないわよ。玲菜ちゃんがそんなに腹黒ければ、もっと早い段階であなたたちは付き合ってると思うもの」
「じゃあ……何で俺の顔の事なんか引き合いに出すんだ、梓さん」
 一語一語、噛み締めるように公大は言った。そうしなければ、今にも爆発してしまいそうだった。
 ここが家の中ではなく喫茶店であるなどと言うだけでは押し殺す理由にはならない。
 ただ、今ここで声を張り上げてしまえば、負けてしまうのではないか。そんな意地のような物だけが、公大を押しとどめている。
「――牧羊犬っているでしょう?」
「は?」
 しかし突然出てきた耳慣れない単語に、思わず公大は間の抜けた声を上げてしまう。
「ほら。人間の手が回りきらないほど広い牧場で、牧場主の代わりに羊の群れを連れて移動監督する犬の事なんだけど」
「……ごめん、梓さん。それは本当に何が言いたいのかさっぱり分からないんだけど」
「あなたが羊で、玲菜ちゃんが牧羊犬よ。犬はものすごく優秀なんだけど、優秀すぎて、自分の考えでお気に入りの羊をどんどん奥へ奥へと進めてしまう。でもそれは、牧場主が望んだ方向と常にイコールなわけではない。そう言えば分かる?」
「……ああ」
 公大は深いため息をついて、椅子の背もたれに体を預けた。
 得体の知れなかった母親の危惧がようやく理解出来て、彼の口元が緩んだ。
「公大?」
「ああ、うん――多分、梓さん勘違いしてるわ、それ」
 公大は梓に向き直った。
 冷静で物分りが良くて、でも言うべき事は言う。
 父親と別れてもなおそういう姿を貫こうとする母親を、ようやく真正面から見る事が出来たと、公大は思う。
「その牧羊犬は、誰の言う事も聞きやしない。自分が正しいと思ってるから、そもそも言葉なんか通じているわけが無い。梓さんはそんな風に思っているんじゃないのか?」
「違うのかしら?」
「違うよ。全然違うんだ」
 公大は、遠くを見るように目を細めた。
 夏の事を。そしてその前の事も。
「その羊と牧羊犬は、ちゃんと言葉が通じてる。めちゃめちゃ苦労して、時折すれ違うけど、ちゃんとお互いの言いたい事を言い合ってるんだ」
「あら。私が覚えてる限りは、とてもそうは思えなかったけれど」
「まあ、実際振り回されてる事が多いけどさ。でも別にそれだけじゃない。何より、梓さんは知らないだろう?」
「何を、かしら」
「あいつが自分の性癖の事をどれだけ悩んで、悩み抜いてきて、それでも勇気を出して俺を受け入れてくれたのか。意地っ張りでエエカッコしぃのあの女が、ちゃんと素の自分を俺に見せてくれたんだ」
 あなたに言われる筋合いはない。
 俺たちの何が分かるんだ。出て行ったくせに。
 そう言うのは簡単であったし、鏡を突きつけられた瞬間、そう言おうと公大は思っていた。
 しかし母親の心配事に対して、それでは答えにならないではないか。
 だから、公大は別の答えを口にする。
「三年も経てば、子羊だって子犬だって立派に成長するんだ。お互いに話し合って、そうしたいって決めたんだ」
「主観と客観は違うのよ? それが間違っていたのだと気づいた時、取り返しのつかないくらいの時間を引き換えにしちゃうかもしれないのよ? しかもその可能性は、あなたが普通の女の子と付き合うより遥かに高いわ」
「ああ、そうかもしれない。あっさり喧嘩別れするかもしれないし、グダグダと関係だけが長続きするかもしれないし。そんな事はない、なんて断言は出来ないけど」
「だったら――」
「でも、仮にそうなったとしても、そんな負債も背負い込むのは俺と玲菜の責任なんだ。それ位は分かってる」
 決めた事は進学先ではなく、もっと深い事。
「だから、さ。色々考えてくれてるのはあり難いんだけど。でもそんな心配は余計なお世話なんだよ――母さん」
 公大がそう口にすると、梓は目を見開いて、まじまじと彼の顔を見つめた。
 公大はもう何も言わずに、すっかり冷めてしまったコーヒーを口に運ぶ。先に立ってしまった苦味が舌を刺すが、それがどこか心地よかった。
「……困ったものねぇ」
 深い、深いため息の音が、公大の耳に届く。
 続いてコーヒーカップを持ち上げる音も。先ほどは耳に障ったそれが、今はもう、気にならなかった。
「いざ久しぶりに「母さん」なんて呼ばれると、なんだかずいぶん年をとってしまったように感じちゃったわ」
「……なら、もう呼ばない事にするわ」
「それは駄目。次は亜里沙にそう呼ばれるように頑張らないと」
 苦笑した梓は、公大に向かって深々と頭を下げた。
「ちょ、何してるんだあ……か、母さん!」
「ごめんね、公大。玲菜ちゃんにも、謝っておいて」
 顔を上げた梓は、ぽん、と公大の肩に手を置いた。
「本当に、しばらく見ない間に大きくなったのね、公大。」
「……次に会う時も、そう言ってもらえる様に頑張るわ」
 そう言って、公大も口元を緩ませた。



■ 



「そう、梓さんってばそんな事言ってたんだ」
 ノートにシャーペンを走らせていた手を止めて、玲菜は感慨深げに呟いた。
 平日の恒例行事とも言える、放課後の図書館での受験勉強中である。多目的室が三年生用に開放されているためか、こちらで勉強する人間はそれほど数がいるわけではない。二週間ほど前から代任で来ている司書目当ての生徒は、彼女の不在を確認するとそのまま回れ右して出て行くので、図書室自体は静かなものであった。
「もう三年くらい顔を見てないけど、相変わらずねぇ」
「……怒らないのか、玲菜」
 向かいに座る公大が恐る恐るそう問いかけると、彼女はきょとんとした顔で小首をかしげる。
「怒る? 何でよ」
「何でって、どう考えてもお前、ひどい事言われてると思うんだが」
「言葉だけみればね。でもそれを分かっていてあえて言って、それで律儀にこちらに謝罪の言葉まで付け加えられてしまえば、私としては「ははぁ、ご丁寧にどうも」という感じよ」
 そう言って玲菜は背中を反らして伸びをする。割と目の毒に過ぎるその光景からさりげなく視線をそらして、公大は頬を掻いた。
「まあ、お前がそう言うんならいいんだが。逆に怒りの言葉を伝えろと言われても、次に会うのなんかどうせ卒業の頃だろうしなぁ」
「何よ、単純にあんたが苦手にしてるだけなんじゃない、それって」
「苦手っつぅか……結局あの人は、オヤジと別れてるわけだし。亜里沙ほどじゃないけど「捨てられた」って言うわだかまりみたいのが残ってないかって言われりゃ嘘になる」
「相変わらずシスコンねえ。妹の前ではエエカッコしい?」
「うるせーよ。てか、梓さんだって、もうあの人なりの幸せみたいのを手に入れつつあるんだろうし。あんまりコブがチョロチョロするのも良くないだろ?」
「……あの人なりの幸せ、ねえ」
 意味ありげにそう呟く玲菜を見て、公大は口元をゆがめる。
「何だよ、玲菜。お前だって結局言いたい事あるみたいじゃねぇか」
「ねえ、公大」
「うん?」
「私ね、自分が同性愛者だって言う事、それなりにはカモフラージュできていると思うのよ」
「何だよ、突然。その割には結構とっかえひっかえだったイメージなんだが」
「言っとくけど、その気がない人に本気でアプローチかけた事はないわよ?」
 亜里沙相手にはかなり真剣だったように公大は思えたが、とりあえずは口を挟まない事にした。
「いい? 大体において普通の性癖の人って、私みたいな真性相手でも「怪しい」って思う止まりがせいぜいなの。いくら頭の中ではそうに違いないって思っていた所で、「こいつは絶対同性愛者だ!」って断言は中々出来ないものなのよ」
「……そんなものなのか?」
「あんただってあんな事件がなければ、いくらそういう素振り見せていても、柚原の事をそうは思えなかったでしょう?」
「……ああ、まあなあ……」
 あまり思い出したくない相手の名前を出されて公大は顔をしかめたが、玲菜の言いたい事は分かる。
 後から考えれば思い当たる節がいくつもあったが、仮にその時点で気づいていても、友人の性癖がそうなのだと認める事は出来なかっただろう。
「私の性癖に関して、初対面で完璧に一発で口にしたのはあの女だけね。もっとも彼女は普通どころか特殊例に過ぎるからカウント外」
「それに関しては異議はないが、結局何が言いたいのかね玲菜さんや」
「わからない?」
「分からないって……」
 言いかけた公大は、玲菜の言葉を一つ一つ噛み締めて、考えてみる。
 普通の性癖の人は、特殊な性癖の持ち主の事を、そうであると断言しづらい。
 にも拘らず、玲菜の性癖を看破して、それに疑いを持つ様子もなかった。
「……って、おい」
 導き出された答えに愕然として、公大は顔を抑えて絶句する。
「大体ね、息子の相手が同性愛者だったとしても、私は正真正銘女なのよ? 息子と付き合っている時点で「元」って言葉がつくか、バイやポーズだったって考える方が自然でしょう?」
「…………や、待て。ちょっと待ってくれ、玲菜。それは、さすがに……」
「にも拘らず、あんたに向かって私と付き合う事の危険性を言って聞かせようとした。それって、ある種の経験則からきてる物だって考えられない?」
「ちょ、待て! 聞きたくねえぞその先はーっ!」
 図書館にいる事を忘れて叫んだ公大に、玲菜は意地の悪い笑みを浮かべる。
「まあ、あくまで私の勝手な想像に過ぎないけれどね。でもそう考えると色々しっくり来ないかしら?」
「――っ! お、前な……!」
 その言葉が逆に頭の中をかき回して、公大は玲菜に食って掛かろうとした。
 そこに、彼女の手が重ねられる。
「……ごめんなさい、公大。悪ノリしすぎたわ」
「……性格悪すぎだ、お前」
「怒ってないつもりだったけど、やっぱりどこか腹が立っていたのかも。反省してる」
 公大を見つめる玲菜の目に、後悔の色が浮かぶ。
「でも、腹が立っているのと同じくらい、感謝してるわ。梓さんにも、あんたにもね」
「何がだよ」
「羊と牧羊犬の例えよ。あの人の心配ももっともだし、私自身、強引に引っ張りすぎてしまってるのかもしれないと思う時はあるわ。美味しすぎる草の匂いに釣られて、足踏み外して一緒に崖から真っ逆さまじゃ牧場主は頭抱えるわよね」
「落ちねえよ」
 憂いに満ちた玲菜の顔に向けて、公大はきっぱりと言った。
「何度も言うけど、お前と付き合う時点でそういうのは全部織り込み済みなんだ。周りから何言われたって、それこそ馬耳東風だっての」
「公大……」
「先に牧場ほっぽりだして、俺らに心配かけたのは向こうなんだから。その位の反撃は許されるだろ?」
 悪戯っぽい笑みを浮かべてそう言うと、公大は再びシャーペンを握って参考書とノートを広げた。
「ええ、そうね。なら公大、次に梓さんに会った時に伝えておいて頂戴」
 再びノートに視線を戻しながら、玲菜も口元を緩ませる。
「お預かりしていたあなたの大切な子羊の毛並みに、何かご不満はお有りですかって」
「……せいぜい努力いたします」
 つまりは、目の前のこの程度の問題に苦労している場合ではないという事らしい。
 心の中で気合を入れて、公大はシャーペンを走らせ始めた。





【おしまい】


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