手にした剣を指が白くなるほどに握り締め、気合と共に振り下ろした。
 そのまま逆袈裟に斬り上げて、横薙ぎに走らせる。
 その全てが完膚なきまでに躱され、あるいは防がれた。
 攻め切れなければ、次に襲いくるのは相手の反撃。返礼とばかりに突き込まれる刃は雷速。この体勢ではそのまま弾く事は叶わない。通されれば致命の光線から身を捻り躱し、体の流れた相手の刃を切り上げて、崩す。
 逆に追いすがり、打ち下した剣はしかし空を切った。予想以上に相手の動きが良い。
 剣を弾かれ流された勢いに身を任せて、相手は体を半回転させ俺の必殺の斬撃を躱してのけた。その勢いのまま、こちらの胴を薙ぎ払ってくる一撃。それを、刃を楯にして弾き返す。
「お見事」
 不意に後ろから掛けられたその声に、俺は溜息を一つ付いて振りかえった。
 白い衣に身を包んだ男が、壁に背を預けて笑みを湛えている。長く伸ばした金髪を後ろに流したその顔は、まごう事無く完璧な造形と言えるものだろう。
 フィナ=ヴラド・スヴェルテン。共に我が主、アルトルージュ・ブリュンスタッド様にお仕えする騎士。
「日々の鍛錬もそこまでいけば芸術だね。君の『相手』が僕にもはっきり見えたよ」
 拍手のつもりか、パンパンと手を叩いてくる。しかしこちらとしては無様な姿を見られたのだ、今一つ格好がつかぬ。
「……自分の思い描いた相手に押されているようではな。埒も無い物を見せた」
 手にした剣を壁に戻して、張り詰めた緊張を解きほぐすように軽く両の腕を揉む。
 別段、特別な訓練を行っていたわけではない。幾十万の日々、ただ続けてきた剣の稽古。向かい合う相手を想像し、その動き、太刀筋をも想像し、それを打倒する事を想像する。雑念を洗い流し、ただその事のみに没入する。
 人間のスポーツ選手がよく行う『イメージトレーニング』とやらを、ほんの少し前から続けていた。それだけの事。
「いやいや。戦から帰ってきても欠かさずにそれを行える所が、君の凄さだね。僕だったらそのままベッドに転がり込んでしまうよ」
「戦、か……」
 ほんの数時間前の記憶を呼び起こす。
 アルトルージュ様の所領にて、分を弁えず暴れているはぐれ死徒。このような愚か者に身の程を知らしめる事が我々の務め故、その地へ足を運んで処断した。戦いとも呼べぬ、唯の掃除のようなもの。
「別に君が行く必要も無い仕事だったろうに」
「さりとて下の者ばかりに働かせておくわけにもいかぬだろうよ」
「僕らはでんと構えているのも仕事だよ。あんまり上司の腰が軽いと、下の者も落ちつかない」
「かといって貴公のように肉欲に耽る気にもならぬ」
「ははは。まぁ気持ちは分かるけど。実際の所、憂さばらしなんじゃないのかい?」
「……何?」
「姫様がこれほど長くお一人でこの地を離れられた事は無かったから、落ちつかないんだろう?」
 揶揄するような彼の言葉に思わず顔をしかめてしまう。むやみに同意はしかねるが、言いたい事は分からなくも無い。
「……アルトルージュ様がお戻りになるまでに、腕を落としていては目も当てられぬ」
 そのような返し文句しか思い浮かばぬ自分の語彙も恨めしいが、その思い自体に嘘偽りは無い。
 アルトルージュ様は遠く日本の地で、初めてとも言って良いであろう休暇を楽しまれているのだ。であるならば、留守を預かる我々は姫のお心を煩わせるわけにはいかぬ。城をお出になられた時以上の状態で御帰りを待つ義務があるのだ。
「君が腕を落とす、ねぇ」
 呆れた声を上げるフィナをじろりと睨み付けるが、それで反省するような男でもない。
「そんなに決まり切った一日ばかり繰り返していて、退屈で死にそうにならないかね?」
「退屈など感じる暇もない。やらねばならぬ事は多く、その道行きははるか遠い。立ち止まっている暇などない」
「……君らしい答えだね」
 苦笑を浮かべたフィナが手を振りながら背を向けた。
「まあいいや。後で会議室に来てくれ。軍制の刷新や、幾つかの勢力との提携関係の見直しを図りたいんだ。君の意見が無いと話が纏らない」
「一時間後に向かおう」
 俺の言葉を背中で受けて、中庭を後にするフィナ。その去り際に、ポツリと呟いて。
「君もねぇ。そこまで己を律しなくてもいいだろうに」
 その一言が、なぜか酷く胸に残った。
 ふと仰ぎ見た空には、玻璃細工のような月が浮かんでいる。煌煌と大地を照らし上げているその様が、埋もれていた記憶を思い起こさせて。
 力任せに壁を殴り付けた。
 鈍い音とともに堅牢な石組の一部が砕け粉々となり、勢いに耐えかねた拳もまた潰れ赤く染まり上がる。しかしそれも一瞬。何事もなかったかのように元の無骨な手が取り戻される
 人ならざるこの身。世界に死を否定されたこの体は、この程度の傷では存在する事すら許されない。


「お前は、面白い」


 その言葉と共に俺を変えた者。それの顔が脳裏に浮かび、音がするほど強く奥歯を噛み締めた。






黒き剣








 鬱蒼と茂る森もない。
 行く者の足を遮る岩もない。
 そして、先ほどまで会話を交わしていた友もない。
 愛を交わした妻もない。愛を注いだ娘もない。
 忠誠を誓った父もない。剣を教えた従僕もない。
 彼らであった、死体すらない。
 目の前の者が腕を振るった。ただそれだけで。
 俺の後ろにあった者、俺が守らなければいけなかった者。それらは全て消えうせた。
 全て伝わってくる。それらは永遠に、喪われたと。
「ふむ、未だ剣を落とさぬか」
 金色。そう表現する他ない者が、男の声で笑い声を上げる。
 闇に浮かび上がる髪、闇を切り裂く瞳。煌煌と光り輝く瞳。いずれも、天に輝く月よりもなおまばゆい金色。それらを受け止める面もその体躯も信じられぬほど美しい。
 闇夜になお映える白き衣。鎧も兜も身に着けていない。そんな無粋なもので守る必要の無い身は、俺よりも頭半分ほど低いというのに、聳え立つ巨岩のような威圧感でそこに佇んでいた。
 ただそこに在るだけで、世界を己が物に変える。
 その事が男の全てを表わしていた。
 目の前の存在は人ではない。俺の力ごときで敵う相手ではない。いや、人などがその前に立つ事すら許されない存在だ。
 そして確信した。バール・シュトラウトは今この時死するより他ないと言う事を。



「バール、頼りにしておるぞ」
 誇らしげな父の言葉。期待と親愛に溢れたその瞳に深く頷いた。
 他より一際大きい宿営は、父が部族を率いる長である証。その中に居るのは、俺と父、そして妻と今だ幼い娘の姿だけ。
 ここに居る間だけ俺は父に夫に、そして息子になることが出来る。ここを出たら果たすべき責任がある。それには、その二つの立場は不要でしかない。
 だから、今この時が最後の安らぎ。その決意を固めて、俺は妻の体を引き寄せる。
「すまぬな、次にこうしてやれるのはしばらく先になりそうだ」
「いえ。あなたは我々の、いえ、私の希望ですから」
 この期に及んで無骨な抱擁しか出来ない自分が恨めしいが、それに文句を言うわけでなく、妻はそっと寄り添ってくれた。その思いに答えるように、俺は背に回した腕に軽く力を込める。
「とおさま、だっこ、だっこ!」
 舌足らずな言葉で足にしがみついてくる娘の姿に、妻と顔を見合わせて吹き出した。左腕を伸ばすと喜んでしがみ付いてくる娘を担ぎ上げて、肩に乗せた。きゃっきゃと喜んで俺の髪や頬を引っ張ってくる痛みも、またどこか心地良いものだ。
 宿営の外から、歓声が聞こえてくる。どうやら皆の準備も整ったらしい。
 名残惜しげな妻を一度強く抱きしめて、俺の髪を玩具にしている娘を彼女に預ける。父として、夫としてはしばしのお別れだ。
 そして宿営から出た俺は、周りから寄せられる歓呼の声に、剣を振り上げて答えて見せた。
 剣を扱うならば誰にも負けぬ自信が有った。三百にも満たぬ我らが部族が、他から支配を受ける事無く自らの土地を守って来れたのは、ひとえにその剣の力ゆえ。そしてその中で俺はまごう事無く頂点にいたのだから。
 しかしその孤高の力が、今日の窮乏を招いてしまった。
 昇る太陽のごときローマ(カエサル)に付き従うか、ガリアの自由のため立ち上がった若きアルウェルニの族長(ウェルキンゲドリクス)に付き従うか。
 いずれにしても膝を折るしかない選択をつき付けられ、部族を束ねる我が父は、そのどちらも選ばなかった。
 孤高である事。その誇りの為に、守り育み愛してきた土地を捨てる。その決断を下した父の心中はいかばかりであったろうか。
 座すれば確実に死を待つのみ。ならば可能性に懸ける。血の滲む声でそう告げた族長に、誰も反論する事はできなかった。
 我々の行く道は決まった。ならば父を尊敬する息子として、族長に仕える戦士として、俺が成すべき事は唯一つ。皆を安住の地へと導くまで、この剣で守り切る事。
 今だ知られぬ東方の地。恐るべき『魔』が棲むと伝えられる深き森の彼方。しかし俺には守るべき者がいる。負けるわけにはいかず、また負けるわけも無かった。



「いぇあああああああああっ!」
 裂帛の気合を込めて、剣を振りかぶり目の前の者に斬りかかる。
 分かっていた。気合ではない、悲鳴なのだ。
 怖い。どうしようもなく怖かった。
 今までどのような相手と相対しても感じた事の無かった『恐怖』が込み上げてくる。背中を向けて逃げ出したい。剣など放り捨てて脇目もふらず遠くへ。
 しかし振りかえれば否応も無く確認してしまう。
 父もいない友もいない妻もいない娘もいない。自らの拠り立つ物が全て消えうせた世界に、自分が放り出された事を認識してしまう。
 だから、目の前の者に挑みかかった。
 勝つ想像など論外。自分がどのように負けるのか、その想像すらも思い浮かばない。浮かぶのは死。絶対の死の幻視。彼の腕の一振りで、この世にバール・シュトラウトがいたという事実が消えうせる。
 それと分かっていて俺は剣を振り下ろし。
 彼は一寸も動く事無くその身に一撃を受けて。
 甲高い音と共に、俺の愛剣は粉々に砕け散った。



 黒き森には魔の王が住む。そこに旅立ち、帰ってきたものはいない。
 その伝説がガリアに住まう者には染みついており、故にこの森は我々にとって禁忌であった。
 長老はどちらの使者にも、軍門に下らぬ事を既に伝えていた。どちらが早いかは分からない。しかし確実に追手は掛けられるだろう。ことにウェルキンゲドリクスは勇猛で、そしてそれゆえに残忍だ。ガリアという寄木細工を纏め上げるためならば、全力を持って我々を血祭りに上げるだろう。残酷に、容赦も一片の慈悲すらも無く皆殺しにする様を見せつける事で、他の部族は恐れおののき、彼の元に馳せ参じる。
 それから逃れるには逃げるより他無い。遠く、はるか遠く。追う事など考える余地も無いほど遠くまで。
 そのためには、どうしてもこの森を抜けなければならなかった。
 我らにとっての禁忌は、すなわち追手にとっても禁忌である。我らがこの地を抜けるとは敵は思うまいし、よしんばそれを見抜いたとしても容易に踏みこめる筈も無い。目論見通りならば、時を稼ぐ事は容易であろう。
 しかし現実が目論見通りに進むことなど、残念ながらありえない。
 陽すら差し込まぬ深い森の中を、これだけの人数を連れて進まねばならない。禁忌への畏怖が心を縛り、人の踏み込んだ事の無い深い森が歩みそのものを縛ってくる。それでも、生きるためにはこの森を抜けるしかないのだ。
 女と子供、年老いた者は内に集め、襲いくる野狼、名も知らぬ化け物どもから守り抜く。夜の見張りも、身を守る火も絶やす事は出来ない。
 俺を初めとして、ここ数日男達はまともに身を休める暇さえなかったが、誰も不平は言わなかった。自身の誇りに掛けて一人の脱落者も出すわけにはいかない。それが剣を取りし男達に科せられた義務であり、それを率いる俺に与えられた使命なのだから。
 しかし道無き道を進むのに、この人数はそれ自体が重荷となる。どうしても、日々の歩は遅々とせざるを得なかった。
「間に合うと思うか」
 闇夜に目を配せながら、潜めた声で友が問いかけてきた。森の中での野営は危険が伴う。死角が多いし、見張りの視界も利かぬ。何よりこの大所帯だ。どうしても目の行き届かぬ場所が出来てしまう。自然、見張りの数は多くなり、それを指揮する俺と友の手に掛かる責任も大きくなる。
 一日二日ならいいだろうが、これでもう十日を越えている。図太さを地でいく友も、いい加減参っているようだった。俺に問いかけてくる言葉も先ほどから同じものが多い。
 だから俺は静かに頷くだけ。何が、などとは問わない。もはや何度も繰り返された、その質問に対する答えも決まっていた。
「間に合わせる」
 状況は決められているのだ。ならば結果を掴み取るしかない。
 俺は傍らに眠る妻に視線を送る。宿営に戻っていろと言っても聞く耳を持たず、そのまま今は火の前で安らかに寝息を立てている。これが、ただ彼女が我侭を言っているだけであったなら、尻を叩いてでも娘の元に追い返していたのだが、彼女もまた戦いを繰り広げていた。
 恐怖に怯える者、疲れて座り込む者。長老の娘として、彼らを時には励まし、時には叱り付け。気力を奮い起こさせ足を進ませる我が妻の姿。
 彼女も立派に戦っているのだ。それも俺が相手にするよりなおも手ごわい物。人の心という形なき強敵と。
 彼女が根を上げていないのに、俺が負けるわけにはいかない。ささやかな意地を背骨に通し、剣を持つ手に力をこめる。
「いいカミさんじゃないか、お前にゃあ勿体無い」
 笑いをこらえきれぬとばかり、くくくと下品な声を上げる友を半眼でにらみつける。もっとも、効果を発揮したとは言い難い。
「『あなたの傍が一番安全ですから』――なかなか言えん台詞だなぁ、おい。男冥利に尽きるだろう?」
「……やかましい」
 おしゃべりをやめさせようと手を閃かせたが、ひらりとかわされてしまった。苦虫を噛み潰した顔でやつの顔を見やると、いつの間にかその顔から笑いの成分が引っ込んでいた。
「佳い女、可愛い娘さん。それだけあってもお前は変わらないんだな」
 唐突にその言葉で現実に引き戻された。顔を上げればそこには、見た事の無い顔で見つめてくる友がいる。羨望とも違う、嫉妬とも違う。どこか理解できないものを見る目で、彼は俺を見ていた。
「変わらない?」
「ああ、お前はどんな状況でも不平も漏らさず、淡々と課せられた荷物を片付けている。俺が見てきたお前は、いつも何かを背負わされて、いつもそれを片付けてきた。どんな時も、こんな時ですらも変わらずにな」
 それは俺に問いかけると言うよりは、自らの考えを纏めるために口に出しているかのようだった。
 彼が口にする、彼の目に映るらしい俺の姿。それを自らに当てはめてみたが、正直ピンとこない。
「別にそんな事は無い。妻や娘の前では随分と我侭を言わせてもらってるし、何より不平を漏らした所で、現実が変わる事などありえない」
 そんな暇があれば、一つでも自分に出来る事をする。皆の期待に答える事が俺の仕事であり、それを裏切る事は出来ない。そのためには確固たる自分を持ちつづけなければならない。それが当然では無いのか。
 だがそんな俺に向かって、友は首を振った。
「それでもだ。それでも、こんな時くらいは不平を漏らすのが人間って言うものなんだ」
「ふむ……」
 友の言葉を噛み締めるが、飲みこむには今一つ俺の口には合わないようだ。
「それなら、少なくともここを抜けるまでは人間でなくても良いな。それで皆を守れるならば、言う事は無い」
 皆を守るために剣を取り、今まで振るってきたのだ。この後に及んでその思いを果たせないようでは、今までの俺の生に価値などないではないか。人でなくなるくらいでそれを果たせるならば安い買物だ。
 しかし彼は心底呆れた顔で、深々とため息をついた。
「もういい、お前は心底の大馬鹿野郎だ。せめてその背中くらいは守ってやるから、そのまま突き進め」
 そのまま一方的に話を打ち切るかのように。彼は剣を構えて夜の闇に視線を向けた。
 散々な言われようだが、確かにあまり無駄話にかまけているわけにはいかない。我々の見張りに、部族の皆の命が掛かっているのだから。
 そして俺も森の奥に目を向けて。
 そこにソレが、いた。



 砕け散った剣の柄を投げ捨てる。こんな物が、目の前の男に対して効果がない事など分かっていた。人が使うどのような武器を振るったところで、目の前のモノなど毛ほどの傷もつかないに違いない。俺がどんな攻撃をした所で、蚊に刺された程の痛痒も感じない事だろう。
 しかし、そんな事は関係がなかった。
「バールよ、皆を守るにはお前の力が必要だ。頼むぞ」
 節くれだった指で俺の手を握り締めて、そう語った父。
「あなたの手が好きなんです。皆を守るために傷ついて、血に塗れ。でもあなたの手はこんなにあったかい」
 俺の手を胸に抱いて、顔を紅くして囁いてきた妻。
「とおさま、たかいたかいして!」
 甘えん坊だった娘を、皆に笑われながらもこの手で抱え上げた。
「お前一人にゃ任しておけん」
 憎まれ口を叩く友と、固い握手を交わした。
 もはやそれらはない。全て、喪われた。
 俺の手で皆を守る事は、もはや永久に叶わなくなってしまった。
 それならば、こんな手などいらない。バール・シュトラウトという存在など、もはやこの世界に必要がない。
 固く、ただ固く。自分の手を石に変える気持ちで、固く拳を握り締める。牙が折れたから爪を使う。獣のそれに等しい衝動で、ただ目の前のモノを殴り付けた。一歩も動く事は無く、微笑を浮かべているその顔を、腹を、胸を脇腹を顎をこめかみを頬を鳩尾をただがむしゃらに殴り続けた。
 人を殴ってる感触などない。そもそも肉を殴り付ける感触ではなかった。まるで岩壁を叩いているかのような固く冷たい手応えが拳に伝わってくる。手の皮が破けて肉が抉れて、指の骨すらも剥き出しになっていく。
 不思議と痛みは感じなかった。感じられるような心など残っていなかった。
 大事な者、俺を頼ってくれる者。それらが全て失われた俺に、物を感じる心など残っている筈も無い。
「ぁぁぁあっ!」
 衝動に突き動かされるままに叫んだ。
 もはや意味のある言葉など口を出ない。言葉を喋るのは人間だ。俺はもう言葉を話す理由が無い。
 しかし、そんな行為全てを嘲るかのように、男の笑みが深くなる。顔も、服も真っ赤に染まっているが、それは全て俺の血だ。毛ほどの傷もその身に受けてはい無い、彼の瞳が一際強く輝きを増した。
 その瞬間、まるで冗談のように体の動きが止まってしまった。肩も腰も膝も指も声帯も瞼も。意識していなければ肺も心臓も止まってしまうのではないか。そう思うほどに、全く体が動こうとはしなかった。
「ふむ……」
 口元に付いた俺の血を、ぺろりと舐め上げて男は呟いた。酷く蠱惑的なその仕草。
「意外や拾いものやも知れぬ。散歩とやらも悪くはないな」
 その言葉が、その口調が全てを語っていた。
 この男がここに現れた理由。それは自らの地を荒らした愚か者達に対する鉄槌ではなかった。それならばまだ良かったのだ。敵として、侵入者として認められたと言う事なのだから。
 しかし違う。男の顔は残酷な真実を如実に告げてきた。
 たまたま目に付いた者を、気まぐれに踏み潰した。彼が行ったのはそう言う事だった。俺達が目の前の虫に対してそうするように。
 全てを否定されて、全てを奪われた。俺の大事な者達は、存在すら認められなかった。
「――――っ!」
 動かない喉を振るわせて、声にならない叫びが吹き上げる。流れない涙が頬を下る。
 憎かった。
 ここまで何かを憎んだ事がなかった。体全てが怨嗟と悔恨で出来ているような、そんな錯覚すら覚えるほど。
 ただひたすらに憎かった。
 全てを奪った目の前の男と、守る事が出来なかった自分自身がどうしようもなく憎かった。
 それを嘲笑うかのように、くすくすと目の前のモノが笑い声を漏らす。何もできぬ虫が、一丁前に憎しみを向けてくる事がおかしくてしょうがないのだろう。
 潰すなら潰すがいい。もはや俺に生きる望みも価値もない。この憎しみを抱えて、貴様の顔を目に焼き付けて、死出の旅路へ向かうのが相応しい末路だ。
「お前は、面白い」
 男は玲瓏に、理解できないことを口にした。
「自らの命を放り出し、憎悪を抱えて私にぶつけてくる。それがひどく心地いい」
 澄んだ声が夜のしじまに染み渡る。しかし、そこに込められているのは隠しようもない悪意だった。
「これを失うのは惜しいものよな」
 一歩、男が踏み出してくる。吹き付けてくる圧力に、指ひとつ動かぬ俺の背中がじとりと濡れた。
 よせ、やめろ。止めてくれ!
 声にならぬ必死の叫びをあげる。
 哀願など届くはずなどない。そもそも、そのような惰弱なまでは今まで考えた事もなかった。
 それでも叫ばずにはいられなかった。何をされるかは分からなかったが、俺がどうなるかだけは恐ろしいほどによく分かってしまったのだ。
 これは、この男は――俺から死すらも奪う気か。
 その手が俺の首筋に伸ばされてくる。吊り上げられた唇の端から、鋭く伸びた犬歯が鈍い光を放っている。
「朱い月――その名を身に刻んでおけ」
 ぷつりと首筋に走る痛み。
 ナニカが流れ込んできて、俺が塗りつぶされていく。俺が俺であるために必要だった物が、砂のように崩れていってしまう。
 父の顔が消えた。
 友の顔が消えた。
 娘の顔が消えた。
 妻の顔が一瞬揺らめいて、やはり消えていった。
「――永劫、お前が憎しみを向ける者の名だ」
 その声と共にバール・シュトラウトもこの世から、消えた。