果てへの道標







 蒼く輝く月が、地に落ちてきそうなほどに近い。吹き抜ける風はただ静寂のみを運び、かさついた土埃を舞い上げる。
 濠は枯れ、城壁には無数の皹が刻まれている。この場所がかつて華やかりし頃には決して見られなかった滅びが、時に姿を変えて、しかし確実に歩み寄ってきている。
 地上にありて最も月に近い場所は、捨て去った故郷と同じ道を歩もうとしているようだった。
「変わらぬ、か」
 峻厳に突き立ち、固く閉ざされた城門の前で、老人は呟いた。漆黒に銀の縁取りがなされたローブが、強い風にはためく。悪戯に弄ばれた純白の髪の下で、深く刻まれた皺だらけの顔に陰が落ちた。
 天を貫くほど高く聳えた尖塔には、十重に二十重に巨大な鎖が絡みつき、頂より中へと入り込んでいる。
 この城は、ただ一人の住人の心そのものだ。あの時より今に至るまで、彼女の心は変わらず囚われ続けているのだろう。
 我ながら矛盾に満ちた事だと、老人の口が小さく歪む。この城は不倶戴天の敵の玉座であった。だが同時に、血の繋がらぬ愛娘の終の棲家でもある。唾棄と共に二度と足を向けぬ事も出来る筈だし、あてどない旅などに流れず落ち着くことも出来る筈だ。どちらも決められぬままに気の遠くなる程の時を重ねて、そしてまた気づけばここにいる。
 それも構うまい。何度も何度も言い聞かせた理由を、老人はまた思い浮かべた。美しい物はたまに見るからこそ、その秘めた価値を楽しむ事ができるのだろう、と。
 だが今この場所からは、最期の輝きすら失われようとしている。
 老人は、自らの掌に視線を落とした。かさつき皺が覆ったその手に、つかめない物などないと思っていた事もあった。五つの奇跡が一つをこの手に収め、月の王にすら膝を屈させた。しかし今、彼の手に残されたものはあまりにも少ない。その中でもっとも気に入っていた物すら、失われると言うのか。
 彼はきつく、きつく掌を握り締める。そのまま、震える拳で門を殴りつけた。
 乱暴なノックに軋んだ抗議の声を上げて、門は閉ざした口を開く。ゆっくりと、封じ込まれていた時の歯車を回し始める。
 晴れた視界の中、目に映るのはやはり変わらぬ光景。そう老人は思っていた。
 花枯れ果て、ひび割れた大地が広がる中庭が広がっている。そこまでは予想通りだ。
「久々に来たのに。乱暴ね、ゼル爺ったら」
 老人は息を呑む。聞く事などないと思っていた声が、彼の耳を揺さぶる。
 目の前で、月が佇んでいた。
 白と群青のドレスの裾をはためかせている。月光を織り上げたかのような金髪が、夜闇に浮かび上がっている。その下の肌はぬけるように白く、ただ、彼を見つめる瞳と唇が鮮やかに紅い。
 老いた魔法使いが。キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグがただ一人心を砕く眠り姫が、つかの間の目覚めを迎えていた。
「起きておったのか、アルクェイド」
「うん、今日は特別な日だから」
 ようやく絞り出した彼の声は、驚くほど弾んでいる。
 皺だらけの顔に久方ぶりの笑顔を浮かべる老人に向かって、月の娘もまた澄みきった微笑を向けた。



「楽しい夢を見ようと思って、ずっと眠り続けてたの。妹も、メイドたちも、シエルも錬金術師も。皆出てきてくれるんだけど、志貴だけ出てきてくれないんだ」
 本当、優しいくせにこんな時ばっかり意地悪なんだから。
 城の中庭の噴水は、水が枯れ無残な姿を晒している。その縁に腰掛けて、アルクェイドは寂しげに呟いた。
「ゼル爺はそういう事ってある? 会いたい人にだけ会えないって事」
「私はお主よりも長く歩み続けてきたからな。大概の相手は置いてけぼりだ。出会う者全てが一期一会と思わねば、いささか長いこの生を歩むのは苦しいな」
「……寂しくないの?」
「そう思っていた事も、あった気がするな」
 ゼルレッチの視線が、月の輝く天空へと向けられた。
 この呪われた体をもたらした相手は、今もあの場所でほくそえんでいるのだろう。
 同じ階に辿り着ける者などまずおるまい。それが分かっていてもなお弟子を取り続けたのは何故なのか。
 合わせ鏡のごとく無限に連なる、泡沫の世界を歩み続けているのは何故なのか。
 分かっている答えから目を背けている気がして、ゼルレッチの口元が小さく歪んだ。
「わたしは、寂しいよ」
「……ふむ」
「どれだけ志貴が長生きしてくれても、人間と真祖にとって時の流れは違いすぎる。わたしにとっては瞬きするような時間なんだって、そんなの分かってたのにね。でも、それでもあの一瞬は、それまでの時間なんか比べ物にならないくらい楽しかったわ」
 アルクェイドは顔を伏せた。白皙の美貌に陰が落ちる。
「楽しかったから、寂しいの」
 銀の雫が一滴、また一滴と、彼女の膝を濡らしていく。
 その姿に、ようやくゼルレッチは思い至った。
 彼女が目を覚ましていた理由を。
 アルクェイド・ブリュンスタッドがただ一人、その愛を傾けた相手の命日だと言う事を。
「墓参りには、行けぬのか」
 真祖の体には、吸血衝動という呪いが積み重なっていく。それはアルクェイドとて例外ではない。この地において落ち着きを見せていても、一歩外に踏み出せばとたんに牙を剥く。それがもはや限界まで積み重なっていると言う事か。
 だがゼルレッチの言葉に、アルクェイドはゆっくりと頭を横に振った。
「志貴の家族だった人たちも、志貴の住んでいた屋敷も、志貴のお墓も。目を覚ます度に少しずつ消えてったわ。だからもう、何も残ってないんじゃないかって。それを確認してしまうのが怖いの」
「そうか」
「皆先に行ってしまって、わたしだけ取り残されてる。もう、追いつく事は出来ないんだって言われるのが怖くて、だから行けないの」
 アルクェイドは立ち上がり、一歩、また一歩と足を進める。
 ゼルレッチの目の前で足を止めると、彼女は涙を拭い、口元を引き結んだ。
「今日はね、姫から爺やに、我侭なお願いがあるの」
 紅い瞳に溢れんばかりの哀惜を湛えて、アルクェイドはその言葉を口にした。
「キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ。貴方の魔法を見せて欲しいの」
 憂いに満ちた顔で、しかし翻らぬ決意を携え、アルクェイドはゼルレッチの顔を見つめていた。
「お願い、か……」
 苦渋に満ちた顔でゼルレッチは呟いた。
 思えば彼女が自分に頼み事をするのは、これが初めてだった筈。彼女が何を望んでいるのか。それはただひとつを置いて他にない。できる事ならばかなえてやりたい。否、彼女の頼みならば叶える事はできる。
「じゃがな、アルクェイド。私ではお主の願いを叶える事は出来ぬのだ」
「どうして? わたし相手では、見せる価値がないという事?」
「そうではない。願いはわかっておる。お主が歩んだ道と、近しい世界を見つけ出す事も可能だろう。じゃがな、どれだけ近くても二つは決して交わらぬ。それはお主が喜びと共に歩んだ世界ではないのだぞ」
「わかってる! そんなのわかってるの!」
 叫んだアルクェイドはゼルレッチに駆け寄り、その肩を揺さぶった。
「ええ、爺やの魔法はあくまで合わせ鏡の世界を作り歩む物。死者を蘇らせる物でも、時を遡れる物でもないって分かってるわ!」
「ならば……」
「それでも! それでもわたしは志貴に会いたいの! 志貴の声が聞きたいの!」
 アルクェイドの手から、力が抜けた。溢れた想いが声を洗い流し、彼女はゼルレッチの足元に崩れ落ちる。
「見るだけでも良いの……志貴が元気に生きている姿を、一目見るだけでも構わないのよ……」
 土に塗れてもドレスの純白は汚されない。涙で顔を汚しても、天上の美しさは穢れない。何者をも寄せ付けぬ筈の真祖の姫が、今はただ童女のように声を上げて泣いていた。
「いやなの……みんなわたしを置いてくの……もう、いやぁ……」
 嗚咽と共に吐き出される彼女の生の願いに、ゼルレッチは天を仰ぎ目を閉じる。
 初めて彼がこの場所で合間見えた時のアルクェイドは、笑うという事すら分からずにいた。無駄と決め付けられたことを徹底的にそぎ落とされて、ただ発条仕掛けの機械である事を求められていた。何かを求める事も知らず、自分がなぜ在るかも分からずにただ動かされていた。
 それが今はどうだ。人を愛し喜びを表し、失われた悲しみに泣き崩れている。覚えた愛の気高さのまま、失うことすら受け入れてみせた。
 血を吸えば、愛する男を留め置けたのだ。共に時を歩む伴侶を、アルクェイド・ブリュンスタッドは得る事が出来た筈だった。しかし彼女は吸わなかった。身を蝕む吸血衝動(呪い)をねじ伏せ、人の子のままの男を愛した。
 いずれその深き愛ゆえに苦しむと分かっていても、そのままの彼と、刹那共に歩む事だけを願ったのだ。
「……私の魔法は、誰かを幸せに出来るようなものではない」
 天空に輝く硝子の月が、ゼルレッチの目には朱く染まっているように見えた。アルクェイドの裏側で、アレは無駄な事をとほくそえんでいるのかもしれない。
 笑うがいい、朱い月。
 かつて葬り去った月の王に向かい、ゼルレッチは心の中で吐き捨てた。
 苦悩と喜びが、彼女を育てるのだ。
 一人であり、完全である事を望む貴様と、失った事に嘆き苦しむアルクェイドが、相容れる筈などないのだ――
 頬を伝う雫を拭う事も忘れ、顔を上げたアルクェイドの傍らに、ゼルレッチは片膝をついた。
「お主は必ず、今よりもなお深い悲しみに襲われる事になるだろう」
「爺、や……?」
「それでも、旅する事を望むかね? かつての幸せを、再び目にするために」
 不器用な微笑を浮かべてみせる。その手には月の光よりなお眩い、輝く多面体の宝石が握られている。
「無限に連なる世界を選ぶのは、お主自身だ。想いが深ければ、あるいは届くかもしれぬな――」
 それは他ならぬ、自身の願望ではなかったか。
 告げるゼルレッチの掌に、アルクェイドの繊手が重ねられる。
「ありがとう、爺や」
 涙は消えうせ、鮮やかな赤い唇が、柔らかい弧を描いている。
 温もりと共に、彼女の言葉が、ゼルレッチの心に染み入ってくる。
「思う事なら、わたしは誰にも負けないわ。アルクェイド・ブリュンスタッドは遠野志貴を愛している。誰よりも、何よりも彼の全てを愛しているもの」
 だから、絶対に会える。それが、わたしの知っている志貴でなくても。
 そう笑うアルクェイドの姿に、ゼルレッチは満足そうに目を閉じた。
 それがどれだけ細い糸でもいい。無限の時と世界の果てに、彼女の願いが届く事を願って。







 千切れ飛びそうになる体の形を、強く思い続けることで繋ぎとめる。アルクェイド・ブリュンスタッドという存在を一時も失わせぬよう、彼女はその髪の一筋まで掛ける事無く思い描く。
 海原に降り注いだ雨の雫がすぐに混ざり消えてしまうように、世界と世界の境界が、異物を飲み込み混沌に戻そうと荒れ狂う。なしえぬはずの奇跡の代償は、招かれざる客の魂すらも消滅させる。
 志貴に会いたい。呟く言葉も音にならない。だがそう言い聞かせる事でアルクェイドは必死に自らを保っていた。
 たゆたい流される彼女にとって、羅針盤は自らの思い出唯一つ。
 愛する男の笑顔がある世界へ。その単純にして純粋な思いだけが、無と有の狭間を導く光となる。
 無限と刹那の判別がつかぬほど繰り返される責め苦の中で、アルクェイドが手に握り締めた宝石が一際強い光を放った。
 何もなかったその場所が、切り分けられ形を成していく。光は影を生み、熱が放たれ時が刻まれる。
 アルクェイドの知覚すら全く追いつかぬ速度で、急速に世界が形作られる。彼女の足が踏みしめる大地を捉える。体を包み縛り付ける重力を感じる。瞼を刺し貫く、不快にして懐かしい陽光の感触に、彼女はゆっくりとその目を開いた。
 そこにはアルクェイドの記憶と変わらぬ町並みが、広がっていた。
 せわしなく行き交う人々。排煙を吐き出しながら飛び交う自動車。無機質なコンクリート造りのビルが立ち並び、その下では溢れんばかりの物が並べられている。活気に溢れ雑然としたその光景は、彼女が志貴と過ごしたそのままの三咲町であった。
 アルクェイドの口元から、小さな吐息が漏れる。それは安堵と歓喜が混じったものであった。
「わたし、着いたんだ……」
 数多の世界を渡り続ける覚悟をしていた。どれだけ繰り返しても、彼の顔を見るまで諦めるつもりはなかった。
 だけど分かる。ここなら志貴がいる。この世界の時の流れは、彼が暮らしていた時に等しい筈。
 急く足を止める事が出来ない。すれ違う人々の、奇異や驚嘆の表情など気にならない。早く。一刻も早くあの場所へ。坂の上の屋敷を目指して、アルクェイドは駆け続ける。
 息が切れる。疲労のせいではない。志貴がそこにいる。彼の顔を見る事が出来る。声を掛ける事は出来なくても、ただ聞けるだけで構わない。でも少しだけ。叶う事なら言葉を交わしてみたい。
 アルクェイドの視界に懐かしいあの屋敷が映った。逸る心を必死で押さえつける。一飛びで塀を乗り越えて、彼女は林の中を駆け抜ける。幾度となく志貴や彼の妹にたしなめられても、止める事は出来なかった行動だったと思い出し、頬が緩んだ。今回は見つかるわけにはいかないのだから、行儀の悪さは大目に見てほしい。
 いつもの部屋にいるのだろうか。志貴の気配を探るアルクェイドの耳に、懐かしい声が風に乗って流れてきた。
 ただそれだけの事が、アルクェイドの胸を歓喜で埋め尽くす。痛いほど顔が熱くなる。音だけを立てないように気をつけて、彼女のは声のする方へ足を向ける。
 林を切り開いて作られた、広場の中央に石造りの東屋がある。降り注ぐその陽だまりの中に、彼がいた。
 志貴――!
 うっそうと茂る木立の影、思わず上げそうになった声を、アルクェイドはかろうじて飲み込んだ。
 初めて会った時より、幾分背が伸びている。少年ぽさは抜け落ち、若さに思慮を纏わせ始めた青年の顔で志貴は立っている。
 東屋の柱に背中を預けた彼の隣には、しかし先客が存在していた。
 艶やかな長い黒髪を風に靡かせた、清楚な女性が寄り添っている。アルクェイドの記憶の中で、その顔が遠野秋葉のものと重なっていた。
 柔らかい、蕩けるような笑顔を兄に向ける秋葉。その肩に手を回して、志貴は眼鏡の奥の目を細める。そして二人の視線の先には、幼い少年がサッカーボールと戯れていた。
「あ……」
 小さな、小さな声がアルクェイドの口から漏れた。
 誰の子供かなど、決まっている。志貴と秋葉があれだけ優しい視線を向けているのだ。自分達の子供以外ありえない。
 合わせ鏡の彼岸と此岸に、無限に連なる世界なのだ。同じだけの可能性の中、その全てで志貴が自分を選ぶ事などありえない。だからここの志貴は、秋葉を選んだのだ。
 分かっていた。アルクェイドは分かっていたつもりだった。他の者が彼の隣にいる。その光景を見る覚悟はしていた筈だった。
 志貴が息子を抱え上げる。秋葉に向かって笑いかける。分かっていた筈の光景に、アルクェイドの心が刺し貫かれていく。
 風に乗って聞こえてくる声に、アルクェイドは耳を閉ざした。記憶の中で何度も言われた、慈しみ愛される言葉がここでは自分に向けられていない。
 しかし目は反らさなかった。
 どうして反らせるというのか。たとえ自分に向けられたものでなくても、たとえ姿形が同じ別人なのだとしても、愛する男が笑っているのだ。
 再び目にする事を望み続けた物が、今目の前にある。手の中から失われた過去が、形を変えて今目の前にある。そこから目を背ける事など、出来るわけがなかった。
 日が西に沈み、三人が笑いあいながら屋敷へと戻っていく。やがて夜闇が世界を包み込み、月明かりが淡く地上を照らし出していく中で、アルクェイドはようやく踵を返した。
 その手に握られた宝石が、淡い輝きを放つ。彼女の姿が陽炎のように淡く揺らめき、そして闇に溶けていく。
「うん、良かった。志貴は幸せなんだね」
 最後に残された呟きも、風に流され、誰の耳に届く事もなく消えていった。



 辿り着く世界の先々で、アルクェイドは様々な志貴を目にしていた。
 ある時は咲き誇る向日葵の畑の中で、老いを重ねた赤髪の女性と共にいた。同じだけ時を重ねた彼は、女性を支えあるいは支えられながら、やがて来る死を泰然と受け止めてようとしている。
 紫暗の髪の錬金術師と共に、世界を巡る彼もいた。人でなくなった体を人に戻す。無謀ともいえる彼女の望みを叶える為、共に夜を駆ける彼の姿は、アルクェイドが見た事もないほどに苦悩に満ち溢れている物だった。
 彼女が見た事のない、栗色の髪の少女と笑いあう彼もいた。吸血鬼も知らず、己の血の意味も知らず、だが平凡な日常の価値を良く知るがゆえに少女との一日一日を大切に育んでいく。幼さが残る志貴のひたむきさが、アルクェイドの目にはとても新鮮に映っていた。
 アルクェイドの知る女性もいた。アルクェイドが知らない女性も同じだけいた。伴侶を作らず、ただ一人で孤独に生を終える姿もあった。
 共通しているのは二つ。
 いずれの志貴も、望んでその道を選んだ事。
 そしてその傍らに、アルクェイド・ブリュンスタッドの姿だけはなかった事。
 彼の元気な姿が見れれば良い。もう一度、志貴の笑顔が見られれば満足だ。そう思っていたアルクェイドが、何故数多の世界を巡り続けるのか。
 自分でも答えが見出せないまま、アルクェイドは世界を巡り続ける。
 そして今、アルクェイドの目の前で、怒りに肩を震わせた代行者が彼女に向かって剣を突きつけている。
 夜もまだ更け切っていはいない。しかしアルクェイドたちが向かい合う公園に人の気配はなかった。卓越した感覚が、人払いの結界の存在を嗅ぎ取る。かつて幾度となく目にした秘蹟。目の前の女の得意技だった。
 それが意味するところは一つしかない。彼女が殺し合いを望んでいると言う事だ。
 不浄を滅する摂理の鍵を構え、法衣を風にはためかせ剥き出しの殺気をぶつけてくる。その姿を見つめるアルクェイドの頭の中を、疑問符が埋め尽くす。彼女とは決して良い関係ではなかった。しかしこうまで激しい殺気を向けられる理由も思い浮かばなかった。
 ここでの自分と彼女の間に一体何があったのか。問い質しても答えなど得られまい。
 そも、その余裕すら与えられはしなかった。
「どうして! どうして戻ってきたんですか、アルクェイド・ブリュンスタッド!」
 叫んだ彼女の手から三条の銀光が放たれる。それを困惑に満ちた顔で、アルクェイドは払いのけた。黒鍵と呼ばれる投擲剣が、乾いた音を立てて地面に転がった。腕に広がる痺れに、アルクェイドは顔をしかめた。たとえ世界を隔てていても、その腕にはいささかの陰りもないらしい。
「待って、シエル。あなたと戦うつもりなんかないわっ!」
「世迷言をっ! 不浄者と代行者の間に、戦い以外の何が必要だと言うのですかっ!」
「聞いて! 一目で良いわ。会いたい人がいるの。志貴の顔が見られればそれで良いの!」
 繰り出される黒鍵をかわし、あるいは弾き飛ばしながらアルクェイドは叫ぶ。
 それを聞いたシエルの手が、ようやく止まった。
 話を聞いてくれるつもりになったのか。胸を撫で下ろしたアルクェイドの体を、視線が刺し貫いた。
「…………どの口で、そんな事を言うのですか。貴女は」
 シエルの顔から、表情が抜け落ちていた。凍てついた殺気が彼女の体から立ち上る。
「彼を殺そうとしておいて、よくも」
「え…………?」
「遠野君をあんな目にあわせておいて、よくも言えたものですね!」
「なん、ですって……?」
 困惑がアルクェイドの体を縛りつけ、そしてその隙をシエルは逃さなかった。
 踏み砕かんばかりの勢いで、シエルは大地を蹴る。黒い矢と化した彼女の体が闇を駆ける。
「滅びなさいっ!」
「く、ぁっ……っ!」
 かわせなかった。アルクェイドが身を捩って逃れるよりも早く、シエルの両手に握られた黒鍵が、その胸を刺し貫いていた。
 滴り落ちる紅い血が、アルクェイドの白いセーターを汚していく。体の中が焼けるように熱い。胸を穿った銀の刃は、不浄を罰する神の拳。だが内より焼かれる痛みより、なおアルクェイドを痛めつけるのは、シエルの怨嗟の篭った呟きだ。
「分かりますか、アルクェイド・ブリュンスタッド。貴女が遠野君を傷つけたのと、同じ場所ですよ」
 知らない。そんな事する筈がない。
 アルクェイドの心は、しかしシエルには届かない。
「不浄者は不浄者らしく、在るべき場所へ帰りなさい。もうロアは滅んだんです! 貴女が現れる理由なんかない! 貴女が遠野君を殺す理由なんてないんですっ!」
「違う、そんな事、わたしは……」
「もう奪わせません! もう沢山です!」
 飛び退ったシエルの両の手に輝く黒鍵。 「滅べ! 滅びなさい、アルクェイド・ブリュンスタッドォォッ!」   間髪入れず放たれたそれが。
 アルクェイドの背中に突き立ち、しかし潜り込めずに地面に転がった。
「な……っ!」
 シエルの叫び声がアルクェイドの耳を打つ。黒鍵が弾かれた事か。それとも背を向けられた事か。アルクェイドにはどっちでもいい事だった。
「どうして、どうして、わたしが……そんなのおかしいよ……」
 口元を汚す血を拭う事も、胸を刺し貫いたままの黒鍵を抜く事も忘れて、アルクェイドは大地を蹴った。
 高く、速く。誰もついて来れないくらいに遠くまで。一瞬たりともその場所にいる事が耐えられなかった。
「に、がしませ――!」
 追いすがるシエルの姿を振り切り、纏わり着く殺意も途切れて消え、それでもアルクェイドは足を止められなかった。
 この世界の自分と、今の自分は違う。それが分かっていても、身を裂くような苦しみには何の慰めにもならなかった。
 鎖に掛け、胸から吊るしていた宝石をアルクェイドは取り出した。血が纏わり着いていてもなお、その輝きは薄れる事はない。
 志貴が誰を好きになっても構わない。でも、自分が彼を好きになるのは変わらない。それだけは誰にも汚させない、貴い想いだとアルクェイドは信じていた。
 信じていたのに。
 悪い夢だと思いたかった。志貴の笑顔が見たかった。自分だけに笑いかけてくれる、彼の優しさをもう一度確かめたかった。
 さもなければ、今抱えている想いすら、紛い物だと思ってしまいそうだから。
 アルクェイドは願う。志貴の元へと、次こそはと。その思いの全てを込めて。



 ――ゆえに。
 堪えきれなくなったのは仕方のない事だったのかもしれない。
 夕暮れ時の雑踏の中で、気がつけばアルクェイドは志貴の目の前に飛び出していた。
 傍らに立つ、赤髪に灰蒼の目をした少女が、不安そうに彼の影に隠れる。確か志貴の家でメイドをしていた少女の筈だとアルクェイドは思い出す。この世界で志貴が選んだのは彼女だという事か。でも今のアルクェイドにとってはどうでもいい事だった。
「こんにちわ、志貴。わたしの事、知ってる……?」
 そう呼びかけるのが正しいのかどうか、アルクェイドには分からない。ただ、この世界の彼に自分と出会っていて欲しかった。たとえ隣に立つ相手として選ばれていなくても、共に時を過ごしたという答えが欲しかった。
「あの……すみませんが。その、お会いした事はなかったと思うんですが」
 しかし顔一杯に困惑を浮かべた志貴が、残酷な言葉を告げる。
 決まっていた筈の答えを突きつけられて、しかしアルクェイドはどうしても諦める事が出来なかった。
「……本当に? 本当に分からない? わたしの事、本当に分からない、かな?」
 気づけば志貴の肩に手をかけ、アルクェイドは必死の表情で彼の顔を見上げて縋る。
「アルクェイド・ブリュンスタッド。長い名前だからアルクェイドでいいって、話さなかった?」
「ちょ、ちょっと」
「何も知らなかった私に、色々教えてくれたよね? 映画の面白さも、ハンバーガーの美味しさも。一緒にいるだけで楽しいって、教えてくれなかった?」
「待て、待ってくれ。その、アルクェイドさん、少し落ち着いて……」
「忘れててもいい! でももし出会っていたのなら、ほんの少しで良いから思い出して! お願いだから……」
 突然の事に振りほどく事も出来ないでいる志貴に、アルクェイドは縋りつく。彼の中に埋もれているのかも分からない記憶が、そうする事で掘り起こされるのではないかと信じて。
 その時だった。
「あの、すみません……」
 どうする事も出来ずに立ち尽くしていた少女が、困惑する志貴の姿に意を決して、アルクェイドの前に進み出た。
「アルクェイドさん、でよろしいでしょうか?」 「ええ、ごめんなさい。邪魔してるのは謝るわ。すぐ帰るから、だから今だけはもう少し志貴と話をさせて」
「申し訳ありません。ですがあなたの事情はどうあれ、志貴さまがお困りになられてます。どうか少しだけ、落ち着いてください」
 少女からすればそれは当然の言葉であったろう。普段のアルクェイドであれば、聞く耳は持てた言葉の筈だった。
 しかし今の彼女に、その言葉に耳を傾ける余裕を持つ事など出来るわけがなかった。
「この――知った風な口を利かないでっ!」
「きゃっ!」
 乱暴に振り払われた少女がよろけて、地面に尻餅をついた。
「あ……」
 一体何をしているの。彼女の悲鳴に冷静さを取り戻したアルクェイドより早く、
「翡翠!」
 声を上げた志貴がアルクェイドの腕を振り解いて駆け寄っていた。
「翡翠! 大丈夫か!」
「は……はい。大丈夫です。大丈夫ですから、その」
 慌てて立ち上がろうとする少女の声を無視して、一通り彼女の体を撫で回した志貴は、怪我のない事に安堵の表情を浮かべた。そして何も言えずにいたアルクェイドに向き直ると、硬い声で言った。
「あんた、いい加減にしてくれないか」
 志貴の表情は、アルクェイドが見た事もないほど冷たく乾いている。それを見たアルクェイドは、小さく息を呑んで首を振った
「し、志貴。ごめんなさい、その……」
「あんたが何で俺の名前を知っているのかとかはどうでも良い。どうせ久我峰か刀崎の関係者なんだろう? あんたらはこの上何を望むんだ。もう俺達は渡せる物を皆渡した筈だろ」
「ち、違うのよ、志貴。わたしはクガミネやトウザキなんて知らないわ。そうじゃなくて、わたしは……」
「帰ってくれ。俺だけならいい。でも翡翠を傷つけるんなら、たとえあんたみたいな女の人でも、きっと俺は許せない。だからもう、顔も見せないでくれ」
 はっきりと言い切った志貴は、そのままアルクェイドに背を向けると翡翠の肩を抱き、歩き始めた。
「大丈夫か? もう行こう」
「はい、ですが志貴さま……」
「構わないよ。彼女の事なんか知らない。俺達には関係のない事だ」
 アルクェイドの存在を背中で跳ね除けて、集まり始めた野次馬を強引に押しのけながら、志貴と翡翠は去っていく。
 喧騒がアルクェイドを包んでいる。無責任な事を言い合う輪の中心で、へたり込んだアルクェイドの頬を涙が伝っていた。
「違う、違うの。志貴……志貴……」
 うわごとのように彼の名を呟き続けるアルクェイドの視界の中で、滲んだ二人の姿が人波に飲まれて、そして消えていった。
 怒られた事など数え切れない。常識外れた行動の度に、「馬鹿おんな」と怒鳴られた。
 しかし、拒絶された事など一度もなかった。
 渦巻くやり場のない悲しみに、アルクェイドの心も体も張り裂けそうになる
 愛した男と同じ顔で同じ声で、お前など知らないと撥ね付けられる。かつてこの体を十七に切り刻まれた時よりも、憎むべき「蛇」に命奪われた時よりも痛かった。目の前で志貴の死を見取った時よりもなお苦しかった。
 嗚咽を漏らしてうずくまる、アルクェイドの脳裏にゼルレッチの言葉がよぎる。
 理解していたつもりでも、本当に分かってはいなかったのだ。
 彼は言っていたではないか。願いは叶わないと。どれだけ近しくてもそこは望んだ世界ではないのだと。
 志貴の笑顔が見たいだけだった。それが見れただけで満足しなければいけなかった。だからこれは、膨れ上がった欲望に負けて、声を掛けてしまった罰なのだろうか。
 取り巻く人々は声をかけられずにいる。その中でアルクェイドはずっと、ずっと泣き続けていた。



 もう帰らないといけない。
 そう思っていた筈なのに、目を開いたアルクェイドの前に広がっていたのは、馴染み朽ち果てたあの千年城ではなかった。
 広い部屋の中に、スチールの机と椅子が立ち並んでいる。一度だけ、志貴に連れられてきた事がある、彼が学んだ教室だった。
 ――またこようね。
 ――それはきっと、きっと楽しいよ。
 志貴に逢う事は出来ても、その後にこの場所に戻る事はなかった。それでもあの時初めて、本当に彼と心が触れ合えた場所なのだと彼女は思っている。
 アルクェイドは記憶をたどって、志貴の机の場所を見つけ出した。今もまだ使っているのかは分からない。ここの志貴はもう学校に通っていない可能性だってあるだろう。それでもそこに彼の温もりが残っているのではないか。そう思ったアルクェイドは、椅子に腰を下ろした。
 目を閉じて、深い、深い溜息をつく。
 目的は果たせたのだ。たとえ自分の知る彼とは違っていても、志貴は確かに生きている。どの世界でも、精一杯に毎日を駆け抜けている。志貴が志貴である事を、確かに目にする事が出来たのだ。
「ありがとう、志貴」
 机の上をそっと指でなぞって、アルクェイドは呟いた。
「きっと寂しいと思うことはあるし、心残りな事だって沢山あるけど。でも、これ以上未練を残してたら、もっと悲しい事になっちゃうから」
 だからもう、帰るね。
 そう、別れの言葉を口にするより早く、入り口の方に立ち上った気配にアルクェイドは振り向いた。
 誰かまだ残っていたのだろうか。形や目的はどうあれ、不法侵入に変わりはない。全ての場所が、あの懐かしい二階の部屋のように行かない事くらいは覚えたのだ。
 謝罪の言葉を口にしようとした、アルクェイドの動きが止まった。
 教室の扉を開けて、彼女の姿を呆けたように、生徒らしき少年が見つめている。黒い髪が揺れる。眼鏡の奥の目が、飛び出さんばかりに見開かれている。出会った頃とほとんど変わらない姿をした、遠野志貴がそこにいる。
「あ……」
 小さな呟きが、どちらの口から漏れたのか。彼女には分からなかった。
 駆け寄りたくなる。抱きしめたくなる。際限なく涌き上がる思いを無理やり押し殺して、アルクェイドは微笑んだ。どれだけ似ていても、彼は「違う」のだから。
「ごめんなさい、すぐ帰るから――」
「アルクェイド、なのか」
「え……?」
 あまりにも意外な言葉を耳にして、アルクェイドの口から間の抜けた呟きが漏れる。
「帰ってきたんだな! そうなんだな、アルクェイド!」
 志貴の叫び声が、アルクェイドの耳を打つ。その言葉の意味を理解するより早く、彼は弾かれたように彼女の目の前に駆け寄ってきた。
「し……き…………?」
「俺を覚えてるんだな。俺の見間違いじゃないよな。お前は今、俺の前にいるんだな」
 アルクェイドが答える間もなく、伸びた志貴の両腕が彼女を抱きしめていた。
 失い、諦め、そして求めてしまった、懐かしい温もり。封じ込めていた思いが、解き放たれてしまう。
「し、き……わかるの? わたしの事、分かるの?」
「――ったり前だ、馬鹿おんな!」
 耳元で思い切り叫ばれて、志貴の怒声が頭の中に鳴り響く。変わらないその声に、アルクェイドの目の端に、うっすら涙が浮かんだ。
 痛いほどきつく抱きしめてくる、志貴の腕の感触。鼻先をくすぐる志貴の髪の毛。整髪量に混じった彼の匂い。どれもどれも、遙か昔に失われて、もう取り戻せないと思っていたものだった。
 おずおずと伸ばされたアルクェイドの腕が、彼の背中に回る。華奢なようで広かった、彼の背中を思い出す。
「志貴、なんだね……今、わたしは志貴に抱きしめられてるんだね……」
 くぐもった声で呟くアルクェイドに答えるように、背中にまわっていた彼の手が、彼女の髪の毛をくしゃくしゃと弄んだ。
「もう逃がさないからな。もう、勝手に帰らせたりなんかしないからな。あんな別れは、もう沢山だ……」
 振り掛かる、志貴の声も震えている。彼の胸に顔を埋めたアルクェイドは、小さく息を呑んだ。
 彼はアルクェイド・ブリュンスタッドを知っている。同じ時を僅か過ごして、しかし彼は共にいる事は出来なかったのだろう。
 彼の愛したアルクェイドと自分は違う。同じ声で同じ顔で、同じだけ愛していても違う。
 それでも、それでも志貴を愛する気持ちに違いなど、あろう筈がない。
 「彼」との再会を、振り捨てる事なんかできるわけがなかった。
 思い出してしまった温もりを、拭い去る事などできる筈がなかった。
 だからアルクェイドは、その言葉を口にする。
「うん……もう、ずっと一緒だよ、志貴」
 抱きしめる腕に力を込めて、アルクェイドは彼の耳元にそう、囁いていた。




続く。