簡素な生地とデザインのカーテンの隙間から、淡い朝日が差し込んでくる。薄闇を退かせていくその光に照らされる志貴の寝顔は、とても安らかなものだった。
 アルクェイドはゆっくりと体を起こすと、その顔を見て微笑んだ。滑り落ちたシーツの下から現れた、白磁のような裸身には、うっすらと朱が差している。
 再開を祝ったのは、互いの部屋ではなく、お世辞にも高級とはいえないホテルの一室だった。アルクェイドはこの世界では部屋などもってはいないし、忍んで志貴の部屋に入り込める時間まで待つ事など出来はしない。そもそも、誰憚る事のない場所に飛び込んだ瞬間、言葉すら忘れて獣のように求めあったのだ。場所の貴賎など問題になどならなかった。
「本当、えっちなのも変わらないんだね」
 呟いたアルクェイドはそっと手を伸ばすと、志貴の唇の辺りをなぞり上げる。一瞬むず痒そうに身じろぎした彼だったが、すぐにその寝息が落ち着いたものに戻っていく。一度眠りに落ちたら中々目を覚まさない。そんな所も変わらないままだ。
 彼女の知る、遠野志貴そのままの彼が今、横にいる。
 アルクェイドはまた彼の側に寄り添い寝そべった。彼の肩にしがみ付き、顔を埋めてその熱に体を震わせる。
「好きだよ……志貴……」
 聞こえていないと分かっていても、アルクェイドは言わずにいられなかった。誰に対して言っている物なのか、自分でも結論がつけられないのに。
 遠野志貴を愛している。今腕の中にいる彼も遠野志貴だ。だが彼はすでに旅立ち、二度と会うことは叶わない。別人なのだと言い聞かせれば言い聞かせるほどに、愛した志貴の姿が目の前の少年に重なってしまう。
「ごめんね……ごめんね、志貴……」
 頬を澄んだ雫が伝う。滴り落ちた涙が、志貴の頬を濡らしていく。すりあう頬をずらして、アルクェイドは彼と唇を重ね合わせた。点る温もりに心が焼かれていく。罪を焼き尽くす炎であるなら、いっそこのまま全て灰になってしまえ。心の中と自分の記憶、二人の志貴を今、裏切っているのに等しいのだから。
 このまま姿を消さなければいけない。これ以上、彼を裏切り続ける事は出来ない。正しい筈のその行いを、どうしてもアルクェイドは選べない。彼にとって目の前にいる女性こそがアルクェイド・ブリュンスタッドなのだから。
 彼が彼女と育み一度は傷つき荒れ果てた、その想いをまた踏みにじる事も、出来ない。
 寝息を止められた苦しさに、志貴が再び身じろぎをする。我に返ったアルクェイドは長い長い口付けを止めて、顔を上げた。
 閉じられた彼の瞼が小刻みに動き、ゆっくりと開かれていく。慌てて目元の涙を拭ったアルクェイドは、思いつく限り飛び切りの顔で出迎えた。
「お早う、志貴。起こしちゃった?」
「いや……って、何かしたのか、お前」
「ん、ずっと寝顔見てたの。志貴ってば、可愛い顔して寝るんだもの」
「この……勘弁してくれ。恥ずかしいからさ」
 苦笑して身を起こした志貴は、目を閉じて、彼女に向かって手を伸ばした。
「悪い、アルクェイド。そこの眼鏡を取って――」
 最後までその言葉を言わせずに、アルクェイドはベッドの上に膝をついて、志貴の前に立ちはだかった。豊満に熟れ張り詰めた両の乳房も、しなやかに引き締まりくびれた腰も。まろやかな曲線を描く尻も、切れ上がった小股の付け根の淡い翳りも。一糸纏わず全てを隠さず、彼の目の前に晒しだして。
「お、おい」
「やだ。あれってブルーから貰った物なんでしょ?」
 後ろめたさが擦り替わったものなのか。積もり積もった思いがねじくれた物なのか。どちらともつかないまま芽生えた嫉妬に、アルクェイドは突き動かされていた。
 太陽はようやく顔を見せ始めたばかり。今ならば彼の目に、忌まわしい線も点も映る事はないのだから。
「お前な、俺はあれがないと困るんむっ?!」
「だから、こうしてれば良いの」
 手を伸ばしたアルクェイドは、志貴の頭を抱え込んで、自分の胸に引き寄せた。あまり強く抱きしめれば彼が窒息してしまうので、包み込むように彼の背中に手を滑らせて。
「ほら、こうしていれば大丈夫でしょ?」
「ちょ、あのな、アルクェイド……これじゃ俺はどこにも動けないだろ」
 くぐもった抗議の声に、いやいやとアルクェイドは首を横に振る。
「いいの。わたしがこうしていたいんだもの。今日一日中だって、こうしていたいんだから良いの」
 離れたくない。偽りと分かっていても、手放したくない。分かっているからこそ、手放せない。
「もう志貴と離れたくないから。ずっと、ずっと……」
 アルクェイドの呟きに、志貴の溜息が答えて胸の辺りをくすぐった。
「……分かったよ」
「本当?」
「ああ、お前の気が済むまで、こうして甘えてるよ」
 志貴の手がアルクェイドの背中から首筋を這い登ると、艶やかな金糸の先を弄んだ。こそばゆさに目を細めた彼女の耳に、くぐもった志貴の声が届く。
「本当言うとさ」
「ん?」
「俺もこうしていたいんだ。もう、絶対にお前を離したくないから」
 照れたように、かすれるほど小さな声で呟く。不器用ゆえに真摯なその言葉に、アルクェイドの顔が一気に火照り赤くなった。
「一年待ってたんだ。口にしちゃうと本当にあっさりしたものなんだけど、でも気が狂うかと思った。何であの時引き止めなかったんだろうって、ずっと思ってた」
 その言葉に、彼女は小さく息を呑んだ。
 アルクェイドの様子には気づかずに、髪を弄んでいた志貴の手が、再び背中に回される。
「だからもう、今度は迷わない。もう、お前を離したりなんかしないぞ、アルクェイド」
「うん……ありがとう、志貴」
 その言葉に頷いたアルクェイドの顔に、陰が差していた。彼の頭を抱え込んでいて良かったと思う。今の表情の理由を誤魔化す自信がなかった。
 この世界で一時彼と愛を育んだアルクェイドは、自ら身を退いたのだと告げられた。自分と同じく遠野志貴を愛し、そしてその愛ゆえに側にあり続けることが出来なかったのだろう。顔も中身も力も同じ、しかし確かに違うアルクェイド・ブリュンスタッドの事が、彼女には容易に想像できてしまう。
「ん……っ」
「どうした、アルクェイド?」
「ん、大丈夫。何でもないよ」
 刺し貫かれたかのような胸の痛みに、アルクェイドは嗚咽を漏らした。
 同じ自分の筈なのに。同じ志貴の筈なのに。踏み込んではいけない場所に押し入ってしまった感覚に、心が削られていくようだった。
「なあ、アルクェイド」
「なぁに?」
 志貴の声には疑念は篭っていなかった。安堵の溜息を押し殺して、小首をかしげたアルクェイドに向かって、彼は言った。
「今日はデートしよう」
 回した腕に力を込めて、口元を緩めて彼は言った。
「とりあえず学校も秋葉の小言も、全部忘れた。とりあえず今日はずっとずっと、一緒にいよう」
「志貴……」
「何時になっても、何時まででも良いや。映画見て、街を回ってさ。お前のお気に入りのファーストフード食いに行って。今日は思う存分出歩こう」
 その言葉に、アルクェイドの顔が赤らんだ。それはかつて、まだ少年だった志貴に良く連れて回られたコースだった。
 奮発した彼に、小洒落た店に連れて行ってもらった事もある。互いの部屋で怠惰に過ごした事も数え切れない。でも、お互いに一番お気に入りだったのが、そのコースだった。
 ありえない願いが、アルクェイドの頭の中に芽吹いていく。
 やり直しているのではないか。
 どれだけの確率を潜り抜けたのかは分からない。だが此処こそが、かつて通った過去そのものではないのか。
 ある筈がないと分かっている筈なのに、切れそうな糸にすら今のアルクェイドは縋ってしまう。
「うん……そうだね、志貴」
 だからアルクェイドは微笑んだ。
 そうしなければ、漏れる声がきっと涙に濡れてしまうと思ったから。



 ■



「お前な、いくら笑える場面だからってあんなにはしゃいで見なくても良いだろ。周りの人も笑ってたぞ」
「いいの、楽しかったんだから!」
 志貴の言葉にそう答えて、アルクェイドは笑う。その言葉は紛れもなく本心だった。もっとも、志貴といる事こそが彼女の喜びだったので、見終わった映画の内容はもうあやふやになっていたが。
 夕暮れ時の雑踏に、行き交う人々の影が尾を引く。立ち止まり自分達を見送る視線に時折こそばゆい物を感じながら、アルクェイドは志貴に寄り添い歩いていた。
 手持ち無沙汰の志貴の腕を見て、アルクェイドの中に悪戯心が芽生えていく。素早く伸ばした腕を、彼のそれに絡める。一瞬浮かんだ驚きの表情がすぐに柔らかいものへと変わる。そのまま志貴は彼女の指に自分の指を絡めて柔らかく包みこんだ。
 その様子に、アルクェイドの方が目を丸くする。
「驚いた」
「ん、何が?」
「だって志貴、前はこういう事すると恥ずかしがって……」
 言いかけて、しまったと思う。あまりにも自然な空気に釣られてしまった。
 言い淀んだ彼女に一瞬怪訝そうな表情を浮かべた志貴だったが、すぐに苦笑した。
「そりゃ、出会って間もなかったんだから、照れたって不思議じゃないだろ。こんな美人と連れ立って街を歩けば、むやみやたらと目を引くんだからさ」
「そう……だったの?」
「ああ。当の本人は自分がどう見えるかを分かってないし。あの時も今もな」
「そんな事言いながら、ちゃんと最後まで手伝ってくれたんだもの」
「そういう約束だっただろ。あんな事したんだから、当たり前だって」
「ううん。やっぱり志貴は優しいよ」
 こうして共に仇敵たる『蛇』を追いかけた。重なる記憶にアルクェイドは安堵する。応えるように彼女に向けて笑いかけた、志貴の足がふと止まった。
「どうしたの?」
 怪訝そうに呟いたアルクェイドは気づいた。志貴の視線が立並ぶウィンドウの一つに吸い寄せられている。周りに比べるとやや小さな構えのその店は、ショーウィンドウの中に手作りのシルバーアクセサリーを並べていた。
「ちょっと入ってみないか?」
 そう言う志貴の目は、どこか熱を帯びている。もちろん、アルクェイドが首を横に振る理由もない。そのまま手を引かれて、店の中へを入っていく。
「いらっしゃいませ」
 ショーケースをかねたカウンターの中で、女性がアルクェイドたちを出迎える。年は三十になるかならないかと言う所だろうか。落ち着いた面持ちで二人に向ける笑顔は、必要以上の媚びも作りも無い、印象の良い物だった。
「ゆっくりご覧になってください。お手に取りたい時はお気軽に声をかけてくださいな」
「あー、その。ショーウィンドウに置いてあったものなんですけど、それも見せてもらっても良いんですか?」
「ええ、もちろんです。どちらでしょう?」
 頷いて、店員はカウンターからショーウィンドウへと向かう。その後ろをついていく志貴に、アルクェイドは小さな声で言った。
「志貴ってこういうの好きだったの?」
「ばか、俺じゃないって」
「え?」
 アルクェイドが問い返すよりも早く、
「それです。そのネックレス」
 志貴の言葉に店員が取り出したネックレスを見た、アルクェイドは小さく息を呑んだ。三日月が意匠化されたヘッドが放つ、淡い煌きに彼女の目が吸い込まれる。これ以上大きくなれば品が無くなってしまう、その手前で作りこまれたデザインは、彼女の目から見てもよく出来た品物であった。
「綺麗……」
 思わずアルクェイドの口をついて出た言葉は、紛れもない彼女の本心であった。
「つけてみてはいかがですか?」
「え?」
「良いんですか?」
「ええ、勿論。あなたみたいな綺麗な方につけていただければ、そのネックレスも喜びますわ」
 そう言った店員からネックレスを手渡された志貴が、アルクェイドの首にチェーンを回す。
 こうして彼にアクセサリーをつけてもらったのは、どれだけ昔の事だったか。懐かしさに目を細めたアルクェイドの耳に、志貴が呟いた。
「やっぱり。目に入った時からそう思ったんだ。よく似合ってるよ、アルクェイド」
「本当?」
 そう言って笑うアルクェイドに、店員が鏡を薦めた。
 鏡の中で薄く頬を染め、志貴に寄り添う女の胸に銀のクレセントが輝いている。アルクェイドの目に映るその光景は、まるで夢の中の出来事のようだった。
 人にあらねど、王族と呼ばれた身だ。彼女の城の中には一国を買い取って余りあるだけの財宝も装飾品も積みあがっている。よく出来てはいても、それらと比較しようもないこの銀のネックレスが、今の彼女には何にも変えがたい逸品に思えた。
「志貴……わたし、これ買っても良いかな?」
 呟くアルクェイドの頭を、志貴の手が軽く小突いた。
「あのな、こういう時こそお強請りしてくれよ。これくらいなら、まぁ俺にも何とかなるんだからさ」
 苦笑を浮かべながら言った志貴の言葉に、アルクェイドは目を丸くする。
「いいの?」
「当たり前だろ。幸せの前祝いなんだから」
「え?」
「これから俺はお前を幸せにしなきゃ。お前にもっともっと、世の中が楽しいんだって教えないといけないんだ。その記念なんだから、こんなの安いもんだ」
「志貴……」
「映画のようにはいかないけどな。俺はずっと、アルクェイドの側にいるよ」
 アルクェイドに言い聞かせるように。自分に言い聞かせるように。
 彼女の目から視線をそらす事無く、志貴は言いきった。そのまま腕を伸ばして、彼は彼女の肩を抱く。
 掌から伝わる温もりに、アルクェイドは目を細めた。
 間違いない。そう思った。
 こんな事を言ってくれる相手が、あの志貴以外の一体誰だというのだろう。
 辿り着いたのだ。
 顔が見られればそれで良いと思った。すれ違いだけでは済ませられない悲しみもあった。それでも諦めきれず縋りついた今、愛して看取った男に再び愛されているのだ。
 掌だけでは足りなかった。腕だけでは足りなかった。
 突き動かされる衝動のままに、アルクェイドは志貴の肩に手を回して抱きしめていた
 彼の匂いも、彼の温もりも、彼の声も彼の言葉も。全部、全部自分のものだ。
「あ、アルクェイド?!」
「いいの! こうしたくなっちゃったんだから」
「お前……ここは店の中なんだから……」
 困惑する志貴の声が、何故だか彼女には心地良かった。困らせていると言う自覚はあっても、彼を独占している喜びには及ばない。
 店員の気配がアルクェイドの耳をくすぐる。眉を顰めているのだろうか。揶揄を交えた祝福なのだろうか。どちらでも構わないとアルクェイドは思う。ここが彼の部屋でも、自分の部屋でもない事など、気にならなかった。
「志貴は側にいてくれるんでしょ? だからわたしもずっと、ずっと志貴の側にいるの。こうしていればずっと一緒だよね」
 アルクェイドの言葉に、志貴は目を閉じると小さな溜息をついて、
「……ああ」
 その口元を緩めて、アルクェイドの背中に手を回した。
「ん……あたたかいよ、志貴」
 目を細め、志貴の肩に顔を埋めたアルクェイドの頬が、志貴の頬に触れる。肌越しに伝わる熱が、彼の鼓動と共に脈打ち、彼女の中に染みこんで来る。重なる心音が絡み合い、彼女の奥底に火が点る。
 懐かしい温もりだった。
 懐かしすぎる、感情だった。
 積もり重なり続けていた衝動は、眠らせ続けていた筈だった。
「く……ん……」
 噛み締めた歯の間から、小さな吐息が漏れる。背中に回した指先が、小刻みに震える。
「アルクェイド?」
 怪訝そうに問う、志貴に答える事もできない。少しでも彼に意識を向ければ、そのまま踏み越えてしまいそうだった。
 鎌首を擡げた禁忌を、アルクェイドは必死で奥底へ沈めようとする。だが暗い闇の淵に幾度も、幾度も押し込めても、染み出した毒が全身に回り、彼女の体を奪い取ろうと攻め立てる。
 どうして。
 アルクェイドの頭の中に浮かんだ疑問符を、彼女の中の誰かが哂う。
 分かりきった結果ではなかったか。吸血衝動は、強い感情に由来する。
 真祖の姫が唯一愛した相手に、果てへの旅路の先で再び巡り合ったのだ。衝動を抑えられる訳がない。
 さあ、牙を突きたてよ。流れ出る朱き毒水をすすり上げ、ひび割れた心に染み渡らせよ。
 同じ顔で醜悪に笑う何かが、アルクェイドの心に手を伸ばす。
「うる……さいっ!」
 それを払いのけたアルクェイドは、自分の声で我に返り。
「…………っ痛ぅ……」
 自分の手が、志貴を突き飛ばしていた事に気づいた。
 尻餅をついて志貴が顔をしかめている。突然の事に呆然としている店員の姿も見える。突き飛ばした先にショーケースがなくてよかったと、間抜けな事を考えている自分自身もどこかにいる。震える手を伸ばしたまま、アルクェイドの口から、声にならない悲鳴が漏れていた。
「ひ……ぁ、う、違うの、志貴……わたし」
「っ! お前、いきなり何をするんだ!」
 怒りの声を上げた志貴が、アルクェイドに向かって手を伸ばす。それだけで、彼女の心臓が早鐘を打ち始め、視界に紅い紗が掛かっていく。
「だ、駄目……来ないで……こないで、志貴っ!」
 消え入りそうな声を漏らしたアルクェイドが、一歩、また一歩と後退っていく。鉛が詰まったように重い足を床から引き剥がし、血走った瞳を志貴から背け、身を翻した。
 自動ドアのガラスを蹴り砕かんばかりの勢いで、アルクェイドは店から飛び出した。後ろから投げかけられた、志貴の呼び声は意識して遮断した。捕食者の本能が彼女の中で暴れ周り、こらえ切れない頭痛にこめかみが悲鳴を上げている。喉の渇きが限界を超えて、掻き毟りたくなる。堪えきれず伸びた指先に、冷たい感触が染み渡っていく。
 志貴につけてもらった、ネックレス。
 その事実が理性を蕩かし、さらに本能を煽り立てていく。
 どうして。
 どうして。
 板ばさみにされたアルクェイドの心が、擦り切れながら思い続けるのは唯一つの事。
 どうして、こんな事に。
 ようやく会えた本当の志貴と、ただ、一緒にいたかっただけなのに。
 夕闇に紅く体を灼かれながら、走るアルクェイドの口から声にならない悲鳴が漏れ続けていた。









 
 日はすでに沈み、夜闇の中に煌々と、真円の月が光り輝いている。
 街灯が青白い光を放って、少しだけ昼を取り戻す中を、乾いた音だけがあたりに響いている。昼間は賑わう芝の広場にもベンチにも、今はさすがに人影はいない。
 静寂に満ちた思い出の場所を、一人、アルクェイドは歩いていた。
 かつて『蛇』を追った二人が、待ち合わせたあの公園。記憶の中と変わらぬ風景を、ここもまた保ち続けている。
 気が遠くなるほど数多くの日々を積み重ねたアルクェイドにとって、これほど濃密な時間を過ごしたのは久しぶりの経験だった。決して輝かず、変わらず、ただ朽ちていくだけの千年城で在り続けるのは、死と半ば変わらぬ状態であったと彼女は思う。
 だから、求めた。
 失い、もはや二度と手に入らないと思っていたものが、手に入ると思った。たとえ世界が違っても、志貴の顔を見る事が出来れば良いと思っていた。
 叶わぬと思っていたその願いに届いた手は、残酷に振り切られたけれど。
「志貴……」
 名前を呟く。ただそれだけでアルクェイドの中に鮮明に顔が思い浮かび、そして汚らわしい衝動も浮かび上がってくる。
 瘧を抑えるように背中を丸めた彼女は、目に付いたベンチに腰を下ろすと、深い、深い嗚咽を漏らした。
 志貴の血を、吸いたい。
 振り払えないその呪いが、憎いのではなかった。
 かつて過ちを犯してから、彼女が血を吸いたいと思った相手はただ一人しかいなかった。だから今、血を求めていると言う事は、違わず彼が遠野志貴であるという証明だった。
 だからこそ、もう二度と会うことは出来ない。
 アルクェイドはきつく唇を噛み締めた。
 もう一度志貴の顔を見てしまえば、その喉に牙を突き立てない自信がなかった。
 うつむいたアルクェイドは、スカートのポケットの中に手を滑り込ませる。変わらず指に伝わるのは、宝石の翁に与えられた秘奥の礼装。冷たく滑らかなその感触は、しかし今の彼女には何の価値もないものだった。
 空いたもう片方の手が、首に下がった銀の三日月を握り締める。ありえないはずの温もりは、込められた思いの深さのせいなのか。
「帰る前に、お金払っていかないとね」
 大変な騒ぎになっていただろう、あの後の店の事を思い浮かべて、アルクェイドは苦笑した。暗示で少しつじつま合わせもしておいた方がいいかもしれない。
 潮時と言う事なのだろう。
 願いは叶わないと、ゼルレッチは告げた。そんな事はなかったと、彼女は思う。たとえ事実と異なっていてもいい。彼女にとって、この二日間をともに過ごした男は、紛れもなく遠野志貴だったのだから。
 過去の思いを羅針盤に、ようやく辿り着いた。今度は、今の思いを糧にして、果てへと戻ろう。
 もう二度と目にすることの叶わない、この景色を。愛した男の顔を思い出に変えて。
 もう、会う事は出来ない。噛み締めたアルクェイドは、押し込めていた事に思い至り、嗚咽を漏らした。
 彼女にとって、この二日間共に過ごしたのは、紛れもなく遠野志貴本人であった。だが、遠野志貴にとって自分もまた、「彼の」アルクェイドであったのか。
 彼女がアルクェイドと過ごした時が在る事は間違いない。共に重ねた思い出もある。だが、重ならない思い出もありはしなかったか。
 別れは辛い。それが突然の物であるなら尚更だ。このまま立ち去れば、遠野志貴の心は深く傷つけられる。彼は思うだろう。また、アルクェイドを失ったと。
 彼と最初に思いを育んだアルクェイドが、「また」別れを告げたわけではないのに。
「あ……ああ、あ……」
 震える声を漏らして、アルクェイドは頭を掻き毟った。
 鏡合わせの数だけ遠野志貴がいるのと同じだけ、アルクェイド・ブリュンスタッドもまた居る筈だというのに。
 かりそめの客たる自分が、彼女の育んだ場所を奪おうとしていたのだと、何故認められなかったのか。
 悔恨とやり場のない怒りがぐるぐると、アルクェイドの中を回る。
 どうすればいいというのだ。罰を与えられるならば、いくらでも受けるのに。どうして傷つくのが志貴になってしまうのか。
 会いに行く事は出来ない。彼の屋敷に会いに行けば、募る想いがこの身を堕してしまうだろう。
 この場所にいる事など、当然告げていない。人間の足では、この町は広すぎる。何の手がかりもなしに見つける事など、出来るわけがない。
 答えを見つける事が出来ないままうつむいていたアルクェイドは、近づいてくる人の気配に顔を上げた。
「なんか、さ」
 そのまま言葉を失い、彼女は呆然と見つめてしまう。
「俺はいつもいつも、お前の事を探しまわってる気がするよ」
 眼鏡の奥の目尻を下げて、アルクェイドに向かって笑いかける。
 そこにいるのがさも当たり前のように。彼女の視線の先、十歩ほどの距離を置いて、遠野志貴が立っていた。



「どうして……どうして、ここに……?」
「いつも約束してただろ。ここで待ち合わせだって」
 街灯の脇に備え付けられた時計を見上げて、志貴は頭を掻いた。
「十時か。随分遅くなっちまったけどな」
 そのまま彼女の元に駆け寄ろうとする彼に向かって、、アルクェイドは必死に手を突き出して、叫んだ。
「ダメっ! 来ちゃ、来ちゃダメだよ、志貴!」
 今すぐ来て。抱きしめて! もう二度と離さないで!
 口から溢れそうになる、言葉全てを飲み込んで、彼女は搾り出すように思いと反対の事を口にした。
 たたらを踏んだ志貴は、何か叫ぼうとして――アルクェイドの表情に、理由を悟って唇を噛み締める。
「……吸血衝動、か」
「ごめんね……今は何とか抑えてるわ。でも、もう限界なんだ。もし志貴に抱きしめられたら、わたし、きっとあなたの血を吸っちゃう」
 立ち上がり、アルクェイドは笑った。精一杯の力を込めて、志貴に向かって微笑んだ。
「ごめんね。あの後、大変だったでしょう?」
「あ、ああ。そりゃあな。一歩間違えれば泥棒だったんだからな、お前。宥めすかして、何とかお金払ってきたから大丈夫だと思う」
「うん、ありがとう。お金、手渡しできないからここに置くね。いくらだった?」
「だから言っただろ。それはプレゼントなんだ。大事にしてくれ。そのくらいの甲斐性は発揮させてくれよ」
 顔をしかめて、アルクェイドを睨みつける。志貴の困ったような、拗ねたような表情は彼女の大好きなものだった。
 踏ん切りをつける御代としては充分だと、思った。
 旅立つ前に見れて、とても幸せだと、アルクェイドはそう思った。
「二日間、本当に楽しかったよ」
「やめろ」
「だけどもう、行かなくちゃ」
「だめ、だ。だめだ。そんなの許さない。許さない、から――」
 駆け寄りたい。手を取りたい。抱きしめたい。そう思う心を志貴が全身の力でねじ伏せているのが、アルクェイドにも分かる。それが恐れでも嫌悪でもなく、ただ、純粋に「アルクェイド・ブリュンスタッド」を愛してくれているからだと言うのが伝わってくる。
 だからこそ、伝えなければいけないと、アルクェイドは覚悟した。
「一つだけ、聞いて欲しいの」
「何をだ。いくらでも聞くぞ。いつまでだって聞いてやるからさ。だから……」
「うん、ありがとう」
 アルクェイドは小さく息を吐き出して、そしてじっと彼の目を見つめた。
「わたしね、本当は違うんだと思う」
 ネックレスを握り締めて、彼女は声を絞り出す。
「あなたが出会って、愛したアルクェイド・ブリュンスタッドは、きっとわたしじゃないの」
「は……?」
「もちろん、わたしだってアルクェイドだよ。それは間違いないわ。でもわたしは、ここのアルクェイドじゃないのよ」
「お前、いきなり、何を……何を言ってるんだよ。わけが分からないぞ」
 呆然とした表情を浮かべる志貴に向かって、アルクェイドはポケットからあの宝石を取り出して見せた。
「平行世界って、聞いた事ある? 選ばれなかった可能性が生み出した、近くて遠い、別の世界。合わせ鏡のように連なって、今も無限に生み出されているその一つから、これを使ってわたしはあなたに会いに来たの」
 アルクェイドの言葉に対して、返事はなかった。無理もないと思う。唐突に告げるには、あまりにも荒唐無稽な話に聞こえるだろうから。
 それでも、全てを告げなくては旅立てないと思った。彼にどう思われてもいい。ただ、残す思い出に虚飾を交えたくない。そう、アルクェイドは思ったのだ。
「わたしのいた世界では、あなたはずっと側にいてくれたわ。わたしにとっては午睡のような、あまりにも短くて幸せに満ちたあの時間を、ずっと一緒にいてくれたの。それで満足しなければいけなかったのにね。わたしはどうしても、志貴に会いたくなっちゃった」
 視界が滲んでいる事に、アルクェイドは気がついた。頬に一筋ずつ、熱い流れが生まれている。静かに、落ち着いて伝えなければいけないと思ったのに、結局は溢れ出す感情を抑える事が出来なかった。
「遠くから、顔を見るだけで良いと思っていたわ。わたしは招かれざる旅人だから、立ち入っちゃいけないって。でも、色んなあなたを見ている内に、どうしても我慢できなくなっちゃって、声を掛けた事もあるのよ」
「……どうなったんだ、その時は?」
 初めて口を開いた志貴に向かって、アルクェイドはゆっくりと首を横に振った。
「その世界のあなたは、わたしの事なんか全然知らなかった。当たり前よね。数え切れないくらいある可能性の全てで、あなたがわたしを知ってるなんてありえないもの」
 世界を渡る宝石を仕舞い込み、アルクェイドは流れる涙を拭った。そのまま溢れる涙で濡れた手で、首に掛かるネックレスのチェーンに指を絡めた。
「昨日あの教室に辿り着いたのは、本当に偶然だったわ。いつかまた来ようって、約束したのに果たせなかった、そんな想いが引き寄せてくれたのかもしれないわね。だからあの時、あなたに声を掛けられて、本当に嬉しくて。抱きしめられた時は、幸せすぎて死にそうになっちゃった」
 つい昨日の事が、遙か過去のようにアルクェイドには思えてしまう。セピア色に縁取られたそれが、きゅっと、胸の奥を締め付けてくる。
 志貴は再び口を閉ざして、彼女の顔を見つめている。怒っているのだろうか。それも当然だろう。
「志貴。本当に、ごめんなさい。わたしはあなたの思い出に、勝手に上がりこんでしまったのよね」
 一歩、そしてまた一歩。せめぎあう吸血衝動を無理やり押さえ込んで、少しだけ距離を縮めたアルクェイドは、深々と頭を下げた。
「謝って許されることじゃないって、わかってる。でも、でもごめんなさい。志貴……本当にごめんなさい……」
「なあ、アルクェイド」
 閉ざしていた口を再び開いた、志貴の声は澄み通っているものだった。
「一つ、頼みがあるんだ」
 そう言うと、志貴は襟元のボタンを外した。淡い街灯の下で、無防備な首筋がアルクェイドの目に晒される。
 どくん、と。彼女の心臓が一際大きな高鳴りを見せた。
「俺の血を吸ってくれ。俺も、一緒に連れて行ってくれ」
 志貴の声は、実際はそんなに大きなものではなかったかもしれない。しかしアルクェイドにとっては全てを押し流してしまうほどに激しく、壷惑的な誘いだった。
 血を与えて死徒に変えれば、混沌の海を乗り越えて、共に千年城へ変える事も出来るだろう。朽ち果てるまでの、気の遠くなるほど長い日々を、愛する者とずっと一緒にいられる。
 彼が望んでいるのだから、良いのではないか。その事こそが、彼にとっても自分が「アルクェイド・ブリュンスタッド」であるという、何よりの証明ではないか。
 彼が望んでいる。一緒にいたいと言っている。
 それが彼女の枷を、外した。
「あ、あぁああああああああああっ!?」
 咆哮が、世界を切り裂いた。
 アルクェイドの視界が一瞬で朱に染まる。体が風に変わったかのよう。瞬きすらも許さない。蹴りつけた大地が揺らぎ、伸ばした腕は空を砕いて一直線に志貴に向かって放たれる。
 悲鳴すら上げる隙も与えなかった。勢いで体ごと砕いてしまわなかったのが、彼女のなけなしの理性だったかもしれない。押し倒し、馬乗りになり顔を近づけ、荒い息を吐きながら志貴の顔を見つめている。
 紅いセカイの中、大地に叩きつけられた衝撃で、苦悶の悲鳴を漏らしている。自分の下で無防備な姿を晒している志貴の姿が、たまらなく彼女の情欲を掻き立てていく。
「怖い……? 今から志貴は、全部わたしに食べられちゃうんだから。何も残してあげない。血の一滴も、他の誰かの記憶も、大事な思い出も、全部食べてあげる。わたしの事だけ見ていて。わたしの事だけ考えて。ずっと、ずっとずっとずっと、時が擦り切れて燃え尽きるまで、一緒にいるんだから」
 返事はない。当然だと思った。暴力的に全てを奪いつくす。こんなやり方は望んでいなかったはずだ。だけどもう、アルクェイドは自分を抑えられなかった。泣き喚かれても良かった。死の恐怖に取り乱して、命乞いをされても構わなかった。最後の最後に自分を鬼と恐れた志貴を、魂の一片まで吸い尽くす。今の彼女にはそれすらも、気をやってしまいそうな誘いに思われた。
 柔肌につきたて食い破るため、鋭く伸びた歯を押し当てる。隙間から舌を出し、志貴の首筋を舐め上げる。舌先に伝わる命の脈動が、彼女の脳髄を蕩かしていく。
 あと少し。ほんの少し力を込めれば、全てが終わる。
「ああ――それはいいな。ずっと、ずっと一緒だ」
 朱に染まり穢れたアルクェイドの耳にも、その声は確かに届いていた。
 よろよろと伸ばされた志貴の腕が、彼女の背中に回されていた。
「どうして……?」
 突き飛ばすのでも、押しのけるのでもなく。どうして彼は引き寄せるのか。
 牙を突きたてる事を忘れて、アルクェイドは呟いた。
「全てを失うのよ? 二度と戻ってこれはしないわ。そんな事を考える、貴方の意志だって消し去るもの。それなのに怖くないの?」
「怖い? そんな訳、ないだろ」
 擦れた声で答える志貴の言葉には、だが確かな意思が篭っていた。
「ああ、ああ。そりゃ秋葉の事も、翡翠や琥珀さんの事も大切だ。有彦は馬鹿だけど大事な友達だし、有間の家の事だって、捨て去るには重過ぎる。俺が今まで築き上げてきた物は大して多くはないけれど、どれもこれも掛け替えのない物ばかりだよな」
「そうよ。それを今あなたは失うの。わたしが勝手に奪いつくすの! だから恐れなさい。憎んで、恐怖して、泣き叫んで!」
「馬鹿! それを全部失ったって、俺はもうお前に置いてけぼりにされるのは嫌なんだよ!」
 血の滲むような、志貴の叫びがアルクェイドの心を打ち抜いていた。
 好きだからこそ。愛しているからこそ。その誘いは抗いがたいほど強力で。
「――ダメだよ、志貴」
 激しい動悸も、渦巻く情欲も今だ治まってはいない。
 だが彼女の視界は朱から、薄闇の静寂を取り戻していた。
「そんな事言われたら…………もう吸えないよ」
 アルクェイド自身が驚くほど、その言葉が自然と口から滑り出た。
「志貴の事が好きだから、吸わないよ」
 耳に届いた彼女の声を、志貴は目を閉じて受け止めていた。そのまま深い、深い溜息を一度つき、彼は笑った。
「アルクェイド、お前さ。一つ間違ってる」
「どうして? 何かわたし、おかしな事を言った?」
「お前、自分は俺が知ってるアルクェイドじゃないって言ったけどさ――俺の知ってるアルクェイドも、同じ事を言ったんだ」
「え?」
「あの教室で、そう言って、静かに笑って消えていったんだ」
 何かを懐かしむように、志貴は目を細めた。
「ああ。お前は俺と一緒にあの二週間を過ごしたアルクェイドじゃないのかもしれない。その仕組みとか、理由とか、そう言うのは俺には分からないけど。でも、今の言葉で分かる」
 そのまま志貴はきつく彼女の体を抱きしめて、言った。
「誰が何と言おうと、お前はアルクェイドだ」
 俺の愛した、アルクェイドだ。
 言葉の裏に篭った彼の想いに、アルクェイドの心が耐え切れないほどに熱く火照る。だけどそのまま、身を委ねるわけにはいかない。
「だめ、だめ! だめだよ、志貴……二度は耐えられないよ……」
「吸わないんだろ? 我慢しろ。こんな時に聞き分け良くなんか、なる気はないからな!」
 荒れ狂う呪いは、再び彼女の体全てを奪い取ろうとしている。
 邪魔をしないで。そんな事、許さない。聞き分けのない心の闇に、想い全てをぶつけて黙らせ、アルクェイドは志貴の頭を抱え込み、抱きしめた。
 数え切れないほど繰り返した筈の、抱擁の味は格別だった。
「ひどいよ、志貴……今わたしがどんなに苦しいかわかってる?」
「これから俺が苦しくなるんだから、おあいこだろ。それとも、吸うか? それならそれで俺は一向に構わないんだからな」
「ふんだ、そんな我侭な志貴の言う事なんか聞かないもの。絶対に吸ってあげないんだから」
「それだってお互い様だろ。会いたくなったからって世界まで超えてくるなんて、どれだけ我侭なんだ、お前は」
 台詞とは裏腹に、互いの目尻に涙を浮かべて、アルクェイドと志貴は睦み合った。口付けはいらなかった。交わす言葉を解け合わせ、一つに変えればそれでいい。最後の時まで一瞬たりとも無駄にしないように。
「なぁ、アルクェイド」
「ん?」
 耳をくすぐる自分の名前に、アルクェイドは目を細めてしな垂れる。
「俺は……お前の知っている「俺」は、ずっとお前と一緒にいたんだな?」
「ずっと、一緒にいてくれたよ」
「笑ってお前に別れを告げられたのか? ありがとうって、言う事ができたのか?」
「……うん。しわくちゃの顔をもっとしわくちゃにして、「一緒にいてくれてありがとう」って。変だよね、それを言うのはわたしの筈なのに」
「そうか、うん、よかった。俺はちゃんとお前を幸せにしてやれたんだな」
「うん。だから……だからあなたも、わたしを幸せにしてあげて……」
 それはあまりにも叶いがたい願いだと、お互いに分かっている。だけどそれを願う事に、何の疑問もためらいもあろう筈は無かった。現に会いたい人のために、女は世界を超えたのだから。
 そのまま互いに目を閉じて、温もりだけを分かち合う。どれだけそうしていたのか。抱擁を解いて、二人は立ち上がった。
「……そろそろ、行くね」
「ああ」
「ねえ、戻ったら浮気したって、怒られちゃうかな? あなたに」
「かもな。でも俺も一緒だ。先に行くからその時に、俺に謝っておくよ」
「だめだよ! 志貴は長生きして。沢山、沢山生きて! そしてわたしに謝って、愛してあげて」
 身の張り裂けそうな筈の別れの瞬間が、何故だろうか、アルクェイドにはとても幸せなものに思えた。それは志貴も同じなのだろう。
「それじゃ、ね?」
「それじゃあ、な」
 互いに踵を返して、背を向けあう。右手に宝石を握り締め、そしてアルクェイドは胸に思い浮かべる。
 愛して、愛されて、そして愛し続けている男の顔を――





 ■




 主の帰還を受け入れて、千年城はつかの間の息吹を取り戻していた。
 玉座へと続く回廊には、澱みに取って代わって静謐が満ち溢れている。その中を二つの人影が歩いていく。胸を反らし自信に満ちた女王と、背後に寄り添う老人。だが間に纏う空気に立場はなく、ただお互いへの親愛へと満ち溢れていた。
「本当、待たせちゃったわね」
「今更時間など気にするような年でもないさ。生憎と掃除を終えておくと言う訳にはいかなかったがね」
「ゼル爺にそんな事頼んだら、後が怖いわ」
 くすくすと肩を揺らして、アルクェイドが小さく笑う。
「その様子だと、何かを得られたようじゃな」
「ええ」
 足を止めたアルクェイドが、ゼルレッチに向かって振り返った。
「本当に、夢のようだったわ。悪い夢も悲しい夢も沢山あったけど、最後にとても、とても楽しい夢を見られたの」
「ふむ。望む世界に、辿り着けたのかね」
「そうね。あそこは、わたしの夢の結晶だったのかもしれないわね」
「だが、お主は戻ってきた」
「ええ。爺やの言葉の理由もよく分かったから」
 天を仰いだアルクェイドの顔に、一筋の光が差した。遙か上の天蓋から、呆れるほど大きな月が顔を見せていた。
「「願いは叶わない」――あなたの言葉の意味が、今なら身を以って理解できる。ええ、わたしにとって、その世界は追いかけた夢の結晶かもしれない。でも、そこで暮らす人々にとって世界は唯一の現実で、余分な物を受け入れる余地などなかった。彼らにとって、わたしこそが紛れ込んだ夢の欠片でしかないものね」
 寂寥を纏わせて、アルクェイドは呟いた。ゼルレッチは何も言わずに、彼女に倣って月を見上げた。かつて禍々しくも朱色に染まっていた月は、今、玲瓏な硝子細工のように蒼白に輝いている。主の心をそのままに、曇りなく透き通っていると言う事だろう。
「後悔は、しておるのか」
「そんな事ないわ。願いはちゃんと叶ったもの」
 天から地へ。視線を戻したアルクェイドは悪戯っぽい笑顔を浮かべると、胸元に輝く銀の三日月を掲げて見せた。
「たとえ世界が違っても。たとえ彼が愛したわたしがわたしじゃなくても。志貴はやっぱりわたしの愛した志貴だった。お人よしで、ちょっとエッチで、一途で、そして誰よりも優しい男の子だったの」
 まるでそれが志貴その人であるように、大切に両手で包み込んで、アルクェイドは祈りを捧げていた。
 それを見たゼルレッチは、心の奥底に芽生えた感情に僅かな戸惑いを覚えていた。
 帰ってこないかもしれないと思っていた。それと同じだけ、悲しみに打ちひしがれて戻ってくるものだとも思っていた。
 しかし、今目の前にいる彼女は、そのどちらでもない。悲しみを携え、喜びを振り切り、それでも確かに、あるべき場所に戻ってきてくれた。
 最初で最後の遠き旅路の果てに、掛け替えのない物を手に入れて、そして帰ってきたのだ。
「悪くないものじゃな」
「ん? どうしたの、爺や」
 彼の言葉に我に返ったアルクェイドが、小首をかしげた。
「いや、なに。いつも旅をしてばかりじゃったからな。偶には、誰かの旅の話を聞くのも悪くはない」
「ふふ、それならもう少し爺やは腰を落ち着けないと」
 微笑んだアルクェイドは、優雅に身を翻した。再び静寂が回廊に満ち、やがて二人の前に巨大な門が聳え立った。
 この門の向こうには、月の王のための玉座が備え付けられている。アルクェイドのみが座る事を許されたそこは、同時に彼女を縛りつける、檻のない牢獄だ。
 アルクェイドが手を掛けると、軋んだ音と共にゆっくりと扉が開いていく。
 十年か。はたまた百年か。それともこの大地が朽ち果てるまでか。それはゼルレッチとアルクェイドの、一時の別れを意味していた。
 それは幾度となく繰り返した光景だ。
 しかしアルクェイドは背を向けたまま、小さな声で呟いた
「ずっと、ずっと前に、爺やが言っていた言葉があるの」
「うん?」
「お前の人生は眼が覚めているだけで楽しいのだって。覚えてる?」
「――ああ。覚えておるよ」
 忘れよう筈もなかった。初めて彼女と会った時に、告げた言葉だった。
 何も知らずにおり、未来もそうである事を強いられた彼女への、せめてもの祈りであった。
「あれはね、本当は違うんだよ」
「ふむ?」
「だって、もうわたしは眠っていても悲しいなんて思わないもの。わたしが想っていれば、志貴はそこに居てくれる。たとえ目を閉じていても、わたしは幸せなの」
 そう言って、アルクェイドは振り返り、笑った。
 それはかつてゼルレッチ自身が彼女に向けた、屈託のない澄み切ったものであった。
「だからもう大丈夫。わたしは、寂しいなんて思わないわ」
「――ああ。もう、大丈夫じゃな」
 それを目に焼き付けたゼルレッチは、ゆっくりと身を翻した。その背中に、軋んだ扉の音が重なり、消える。
 もうしばらく、ここへ来る事はないのだろう。胸の内で呟き、ゼルレッチは歩みだした。
 この城の輝きは、もはや褪せる事はない。その眩しさを懐かしく思った時に足を向ければ、それでよいのだから。







 ――地上にありて最も月に近いその場所で、彼女は今も眠り続ける。
 その体を戒める鎖はない。その表情に憂いも悲しみもない。
 ただ一人、アルクェイド・ブリュンスタッドは眠り続ける。
 果てへの道標を。愛し続けた男への想いを胸に抱いて。




【END】






・後書き

 Fateでは割と目にする「平行世界」と言う素材を月姫で使ってみた場合どうなるのだろうか。それがこの話を思いついたきっかけでした。本編における各ヒロインルートは、そのままありえたかもしれない可能性の世界でもあるわけですから。
 アルクェイドが抱えた葛藤や、それを乗り越え、一つの答えを得た喜びが伝わっていれば幸いです。
 お読みくださり、本当にありがとうございました。