酒と風呂場と男と女  








「うわ、これは見事というかなんと言うか」
 浴室に一歩足を踏み入れた天城夏夜(あまぎ かや)は、思わず感嘆のため息を漏らしていた。
 それだけで普通の家のリビングほどはありそうなスペースは、床も浴槽も磨き上げられた大理石が敷き詰められ、天井の光にきらきらと輝いている。飾られた観葉植物の鮮やかな緑も目に眩しい。こうして裸で立っていても震えが来ない、快適に保たれた浴室の温度も心憎い。
 普段利用している銭湯とは比較にならない。少なくとも、こんな光景を一般的な家庭の浴室で目にするというのは、何か間違っているのではないだろうか。
 肩をすくめた夏夜は、隣に立つ女性に振り返って言う。
「確かにずいぶん工事に時間かかってたけどさぁ。姫様気合入れすぎじゃない?」
「こうしてあなたたちに使わせるつもりでしたら、もう少し手を抜いて作ってましたわよ!」
 艶やかな明るい茶色の髪を振り乱し、姫様と呼ばれた女は夏夜に向かって叫んだ。無論本当に姫というわけではなく、澤嶋姫緒(さわしま ひめお)というのが彼女の名前である。ただ、こと財力に限って言えばそのあだ名は間違いというわけでもなかったが。
「そもそも、あなたに遠慮という言葉はないのかしら? そんなにあけっぴろげな格好で恥ずかしくないの!」
 両手を腰に当て、姫緒はじろりと夏夜の姿をねめつける。かく言う姫緒自身は純白のバスタオルを体にきっちり巻きつけている。別に見たい訳ではなかったが、風呂で無粋な真似だと夏夜は思う。
「お風呂にバスタオル持込なんて、銭湯だとマナー違反なんだよ? まあ、姫様行った事ないから分かんないんだろうけど」
「せ、銭湯ではそうかもしれませんが、ここは私の家なの! 次からはそんなこれ見よがしに揺らしながら歩き回らないで欲しいわね!」
「別に見せ付けてるわけじゃないんだけど。まあ、次から気をつけるわ」
「次って! 何度も使う気なのかしら!?」
「だって、直らない事にはどうにもならないじゃない。そもそも姫様だって、もともと大家さんに使ってもらうためにこんな場所作ったんでしょ?」
 夏夜の言葉に、姫緒は眦を吊り上げる。
「ええ、勘違いしないで欲しいんだけど、トコちゃんだけにね! あなたたちは頭数に入っていなかったわよ!」
「おー、それはご立派な目的。で、その成果は?」
「……めでたく本日初めて使ってもらえるのよ! だからあなたたちはあくまでゲストなんだから、少しは遠慮というものを知ってほしいわね」
「その、すいません姫緒さん。こんな、急にお世話になっちゃって」
 ため息をついた姫緒の背後から、申し訳なさそうな声が掛けられる。
 そこに立っているのは、非常に小柄な茶髪の少女だった。やはり白のバスタオルを抱えたその少女は、じっと姫緒の顔を見上げてぺこりと頭を下げた。
 少女は陽坂(ひのさか)美都子(みとこ)といい、夏夜の住むアパートの大家にして姫緒の通う大学の付属校の生徒でもある。二人ともにとって可愛い妹のような存在であり、そしてある事柄の好敵手でもあった。
「あらー、そんなの気にしなくていいのよトコちゃんは! いつも言ってる通り、あなたは私の妹同然なんだから。遠慮なく使って頂戴」
 にへら、と相好を崩した姫緒が言うと、美都子も照れくさげに笑顔を浮かべた。その露骨な対応の違いに、夏夜の口元にも苦笑が浮かぶ。
 自分が炊きつけた事とは言え、一頃は険悪になってしまった二人の関係がこうして元に戻ったというのは、見ていて微笑ましい。
「もっとも、大家さんとしてはまだ色々複雑なんだろうけどねぇ」
「何か言いまして?」
「い〜え〜、何にも」
 負け犬としては遠くに座って、あるかも分からないおこぼれを見やりながらちょっかい掛ける位が関の山。諦めは悪い方だが引き際は心得ているつもりの夏夜としては、せいぜい勝者をからかう権利を行使するだけに留めている。
 もっとも、世の中には彼女とは考えの違う人間も存在する。美都子の後ろに現れた人影を見やって、夏夜はため息をついた。いっそ見上げた諦めの悪さだと思う。自分には色々な意味で真似出来そうになかった。
「ちょっと、後ろが痞えているから中に入ってもらえないかしら?」
「……そもそもどうしてあなたがここにいるのか、お聞かせ願えないかしら香野さん?」
 困惑した表情で、タオル片手に裸で入り口に立ち尽くす妙齢の女性に向かい、姫緒が不機嫌な声を上げた。
 香野(こうの)麻実(あさみ)。美都子の元担任であり姫緒の恋人の元妻であり、そして一番この場にいる理由のない人間である。
 スーツを着て凛とした立ち居振舞いが似合うくせに、元旦那が絡むと途端に身に着けた仮面も着込んだ猫皮も剥がれ落ちてしまう。幾度となくその様を見せ付けられた夏夜としては、間違いなく彼女も「こちら側」だという認識を抱いていた。
「なんでって、それは、ほら。向かいの銭湯が使えなくなっちゃったって聞いたから心配になって」
「誰をですか? ここにも陽の坂にも香野さんが心配するような立場の人なんていませんが?」
「いるわよ! 陽坂さんは教え子だし、ほら、理だってお風呂入れなければ困ると思ったから」
「今更馴れ馴れしく理だなんて、恋人の前で呼ばないでくださらないかしら!」
「だ、ダンナ名前で呼んで何が悪いの!」
「元だって事脇にほっぽり投げないで頂戴!」
 喧々囂々と言い合いを始める麻実と姫緒の姿に、美都子と顔を見合わせた夏夜は肩をすくめた。
「……まあ、結局断りきれずにこうしてる時点で」
「姫緒さんの負けだよね。そこがいい所でもあるんだけど」
 お互いに吹き出すと、夏夜は二人に背を向けて洗面台の方へと歩き始めた。その後ろを付いてくる美都子が、
「ごめんね、夏夜さん。本当はウチに最初からお風呂があればよかったんだけど」
「あはは。まあ、最初銭湯使えなくなっちゃったって聞いた時はどうしようかと思ったけど。とりあえずは何とかなりそうだしね。それに……」
 夏夜はバスタブ……と呼ぶにはいささか大きすぎるそれの先に視線を向けた。壁の部分は全面ガラス張りだが、今はブラインドが下りている。その先にあるのは、住めば都のテラスハウス陽の坂。
 その庭先で行われているだろう喧騒に満ちた光景が、夏夜の目に映るようだった。
「まあ、男性陣は男性陣で楽しんでいるだろうし。あたしたちはゆっくりあったまって、それから戻ろう?」
「賛成!」
 耳に心地よい答えを返してくれる美都子につられて、夏夜の顔にも笑顔が浮かんだ。










 竹の湯臨時休業のお知らせ。
 無造作に貼り付けられていたその紙の意味を理解し、陽の坂住人が頭を抱えたのがその日の昼過ぎの事であった。
 老朽化に老朽化を積み重ねていたボイラーが朝方突然ストライキを起こしてしまったのだと事。復旧には三日ほど掛かりそうだと告げられ、美都子と夏夜は途方にくれた。何しろこの近所に竹の湯以上の格安の銭湯など存在しない。あったとしても、四月の夜の風は風呂上りの体には少しばかり寒々しい。
 そこに差し伸べられたのが、姫緒の手だったというわけだ。
「そんな事遠慮しないで言ってくれなきゃ! トコちゃんのお願いなんだから、三日といわず一週間だって一月だって構わなくてよ!」
 普段なら無償の施しは渋る美都子であったが女心はまた複雑な話。それに、つい数ヶ月前の複雑な関係を、また一歩ずつでも元の様に戻したいという思いも抱えている。住人である夏夜にもという条件付で、めでたく姫緒宅の豪勢なお風呂は建築目的を達成されたというわけだった。
 もっとも彼女の手が差し伸べられたのは女性陣だけ。
「甲斐性なしなのは知ってますけど、そこまで面倒見切れません。あなた方はご自分で汗臭さの解消法を見つけなさい!」
 すげなく言い捨てられた男性陣であったが、思わぬ解決法を導き出したのは八須永(やすなが)文太郎(ぶんたろう)の一言だった。
「良い物あるからさ、ちょっと大学行ってくるわ」



「いい湯だな〜、ときますねぇ若旦那」
「本当ですか。それなら良かった。もう少し薪、足しましょうか?」
「あー、いえいえ。わたしゃこれくらいの温度の方が好みですから」
 頭に手ぬぐいを載せた上坂(かみさか)喜兵衛(きへえ)が、皺だらけの顔に愉悦を浮かべて、縁に背中を預けている。所々赤茶けた錆が付いたそれは、上蓋の取り除かれた大きなドラム缶であった。その下には器用にブロックが組み上げられ、くべられた薪がぱちぱちと音を立てながら炎を上げている。
 喜兵衛の言葉を聞いた芳村(よしむら)(おさむ)は、額から滴り落ちる汗を腕でぬぐい、抱えていた薪を足元に下ろした。袖を捲り上げたワイシャツには所々汗の染みがつき、填めている軍手も黒ずんだ汚れが目立ち始めている。
 八須永が後輩のオンボロ車で運んできたドラム缶によって、テラスハウス陽の坂に即席の露天風呂が誕生したのがつい一時間ほど前、夜の七時半頃の事であった。
 珍しく、本当に珍しくそんな時間に家に帰り着いた理が渡されたのが、軍手と薪。
「まあ、リストラいつも豪華な姫さんとこの風呂使ってるわけだしな。よろしく頼むわ」
「……は?」
 意味のわからぬまま、こうして理は火の番を仰せつかっているというわけだった。
 それでも、始めてみるとこれはこれで楽しい。どこか童心に返る思いで、理は火加減を調整したり水を足したりと飛び回っていた。
 後ろではすでに入り終わった八須永が、熊崎と一緒にブルーシートを広げてせっせと酒盛りの準備を始めている。
「って、八須永くん! 外で酒盛りするつもりですか!?」
「当たり前じゃん。もう桜は散っちゃったけど、そこで火炊いてるんだし。こんな機会、生かさなきゃ嘘でしょ」
「いや、それはそうかもしれませんが」
「まあ、俺も本当は家の中の方が良いんだが。流石に中で焚き火は出来んからなぁ」
熊崎(くまさき)君まで……」
 三升入りの焼酎のビンを三本、シートの上に下ろして笑う熊崎の姿に理は溜息を付いた。もちろん酒がそれだけであるわけもなく、シートの中央には小山のように各種類取り揃えられている。
 幸いというべきか不幸にもと言うべきか、明日は日曜日である。おそらく何の気兼ねも手加減もなく、彼らは飲み続けるだろう。なにせ女性陣もウワバミが二人いるのだから。
 シートの上に腰を下ろして、理は頭を振った。
「それにしても、なんで麻実まで姫緒の家に行ったんだろう……」
「いじましいというか、何というか。ある意味若旦那としては冥利に尽きるんじゃないですか?」
「からかわないでくださいよ、喜兵衛さん。冥利に尽きるも何も、僕はもう手一杯ですよ」
 上から投げかけられた言葉に、理は苦笑を浮かべる。
「今の僕には、その、姫緒がいますし。美都子ちゃんの事もありますから。麻実も早くいい相手にめぐり合ってもらいたいですけど」
 それは彼にとって偽りのない気持ちだった。大切な恋人と、そして掛け替えのない娘。誰とも血の繋がりのないどこか歪なその関係は、しかし今の彼にとって掛け替えのない大切な絆その物である。
「おやおや、二号さんの事は名前すら出てこないなんて。中々に女泣かせだ」
「そこでなんで夏夜さんの名前まで出てくるんですか! 実は喜兵衛さんもう飲んでませんか? 飲んでますよね!」
「おや、バレちまいましたか。せっかくの星を見ながらの風呂ですからねぇ。熱燗で、こう、きゅうっと一本」
「いつの間に……」
「リストラはもう少し我慢なぁ。火の番水の番する人間まで酒入ると危ないしね」
「まあ、いざって時はそのドラム缶ひっ繰り返しゃ良いんだけどな」
 そう言って笑いあう八須永と熊崎の手にも、すでにしっかりビールの缶が握られている。
「もう少し遠慮とか、せめて待つって言う気持ちはないんですか。向こうの皆もそろそろ戻ってくると思いますよ?」
「大丈夫大丈夫。どうせ大家さんたちだって俺たちが我慢できるなんて思ってないからさ」
「女は長風呂だしな。そうは言ってもさすがに三分の一くらい飲んだ頃には来ると思うが、まあ始めてても罰は当たらんだろう」
 なんと言う駄目人間たち。
 もう出来上がりつつある面々を見回して、理は肩を落とした。
 珍しく早く帰れると思ったら、これだ。人間、慣れない事をするものではないらしい。
 理は何気なしに隣の姫緒の屋敷を見上げた。分別が備わっているとは断言しづらいが、流石にここよりは節操ある空間だと信じたい。
「というか、冷静に考えると僕が風呂に入る時間、ないんじゃぁ……」
 思わず呟いたその言葉に、当然返ってくる答えはなかった。








 浴槽の縁に背中を預けた夏夜は、両手をいっぱいに広げて伸びをする。火照りうっすら赤く染まった肌の上を、湯が小さな玉になって滑り落ちていく。
「ん〜、気持ちいい。やっぱり大きなお風呂って良いわぁ。姫様の財力と突っ走った行動力に感謝ね」
「……あんまり褒められてる気がしないわね」
 その隣に座った姫緒は、夏夜の仕草に眉をひそめてそう言った。
「それにしても。そんな真似してはしたないとか思わないのかしら?」
「んー、そんな真似って?」
「そんな真似と言ったらそんな真似よ! 何よ、これ見よがしに揺らしたり浮かべたり! 大きければ良いって物じゃない筈なんだからっ!」
「姫様ってば何を言って……って、あー」
 いぶかしんだ夏夜は、姫緒の視線が一点に集中している事に気づいて納得した。
 なるほど、確かに大きく張り出した乳房はお湯に浮き上がって波打ち揺れている。姫緒も形よく整ってはいるが、いかんせん夏夜と比べればつつましい。しっかりとお湯に沈んだそれは、水面に合わせて揺らめいている
「んふふ、羨ましい?」
「だ、誰がそんな事を言いましたか!?」
「だってさっきからじーっと見てるんでしょ? 残念ながら貸し出しはできないから、頑張って自分で大きくしてね」
「だから、誰も羨ましくなんかっ!」
「でもまあ。いくら大きくても、本当に欲しい相手に触ったり吸ったり揉んだりしてもらわなければ意味ないのよねぇ……」
 不意に口をついて出た言葉が思った以上に湿っぽかった事に、夏夜は自分で驚いた。麻実の諦めの悪さも大概だと考えていたが、なかなかどうして。自分も似たり寄ったりであったらしい。
 夏夜は湯船の反対側に背を向けた。やはり自分たちと同じようにして、麻実と美都子がしゃべっている。時折聞こえるのは学校の事が主だった。卒業生と元担任として、それなりに実のある話を繰り広げているらしい。
「姫様、ちょぉっといいかな?」
「夏夜さん?」
 ならば、反対側で身もなく後ろ向きな話を繰り広げてもバランスが取れるだろう。勝手にそう結論付けて、夏夜は姫緒に笑顔を向けた。
「すこーしばかり変な話に付き合ってもらいたいんだけどな?」
「……内容によりますわよ?」



「姫様はあんまり見た事ないかもしれないけどね、理くんてば私と出会った頃はもう今にも倒れちゃいそうで。そのくせ歩く道歩く道苦労する方ばかり選んでたんだよ? やっとの思いで就職したと思った場所で一月ただ働きする結果になった時だって、自分の事なんか一言も文句言ったりしないし」
「……まあ、確かに最初の頃は頼りなくしか見えませんでしたけど。なんでトコちゃんもこんな男の事を頼っていたりするんだろうって、不思議で不思議で」
 いつの間にか姫緒の表情もまじめな物に変わっている。夏夜は肩を竦めて視線を外に向けた。遮光が施された窓は、ブラインドが下りていなくても外から見える心配はない。墨が流されたような夜空に浮かぶ、鮮やかな月の輝きが目に眩しい。
「姫様も大家さんも、理君の中の良い所を見つけて、頼って、知ってか知らずか引き出そうとするからね。でもあたしは、別にそんなのいらなかった。駄目なままでも、弱々しく頼りなくても、そういう顔をあたしに見せててくれればそれで良かったんだけどね」
「それって、ひどく後ろ向きな考え方じゃないかしら?」
「もちろん。伊達に二号ちゃんとか言われてないわよ?」
 意地の悪い微笑を口元に浮かべて、夏夜は姫緒の姿を見やった。茶色というよりは金髪と見まがうような長い髪も、彫りの深い顔立ちも、彼女に似合った物だと夏夜は思う。先ほどは胸の話で茶化したが、均整の取れたプロポーションは申し分のつけ様がない。それでも出会った頃は端々に子供っぽさを覗かせていたが、いつの間にか、しっとりとした大人の色気のようなものまで漂わせ始めている。それが誰によって育まれている物かなど、言うまでもない。
「な、何よ。何か私の顔に書いてあるの?」
「ううん。ただ、羨ましいくらいに理君に愛されてるんだなぁって」
「な、なななななっ!」
 一気に顔を真っ赤にした姫緒は、ばしゃばしゃとお湯を跳ね上げ夏夜に向き直る。
「夏夜さん、いきなりあなた何をっ!?」
「あれー、愛されてるって言っただけだよ? 一体何を考えちゃったりしたのかなぁ、姫様ってば」
「な、なな何をって、この、くぅー、この性悪女っ!」
「ふふ。もう少しね、もう少しだけ理君の心が自分自身に向いていてくれればねぇ。頑張らなくてもいい時だってあるんだ、とか思ってくれれば、あたしがいくらでも甘えさせて上げられたんだけど」
「そこで甘えたいという言葉が出てこないのが、あなたのすごい所で駄目な所だと思いますわよ!」
「姫様は甘えたがりだからね。今の理君には、やっぱり姫様みたいなのが合っちゃうんだね。好きな女の子のために頑張ろうって、明日への活力になってるんだと思うよ?」
 どれだけ優柔不断で、押しや勢いに弱くても。
 そんな、どこまでも前向きな姿は。
「……ちょっとね、あたしが幸せにするには眩しすぎるかな」
 夏夜は肩を竦めてそう言った。
 いまだ顔を赤らめ、何かを叫ぼうとしていた姫緒だったが、その姿を見ると小さくため息をついた。そしてそのまま、最初のように隣に並んで湯船に背を預ける。
「私だって」
「ん?」
「私だって、別に最初からそんな事考えていたわけじゃありませんし。トコちゃんの大切な人を好きになってしまったという事で悩んだりしましたから、あんまり胸を張れる筋合いはないですけど」
 そういう、姫緒の顔に寂しげな微笑が浮かぶ。
「それに今の理さんはどこまでもトコちゃんの幸せありきですし。もちろんそれはそれで私も望むところですけど、娘と恋人二人纏めて一遍の悔いなく幸せにするほどの甲斐性なんか、まだまだ期待できませんから。ほっとけばこっちの事を忘れて倒れるまで仕事するのも変わりませんし」
「あー、もうそのあたりは病気だからね。せいぜい皆で目を離さないようにするしかないかなぁ」
「そういう訳ですから、理さんのキャパシティはもう一杯一杯なのよ。夏夜さんももう無駄な愛人属性なんか発揮している暇なんかあったら、別の方向に目を向けた方が良いですわよ?」
 作ったように高飛車な態度の姫緒の姿に、夏夜は小さく吹き出した。
 言葉ほどには辛らつな痛みも気持ちも伝わってこない。それは覆しようのない結果を指し示されているからだと、夏夜は気づいていた。妬ましいとかそういう気持ちが浮かばなければ、物事は割とすんなりと受け入れられるものだ。
「あーあ。姫様の言うとおりよねぇ。家庭が充実している相手には、さすがに愛人の入り込む余地はないものなぁ」
 あっさりと白旗を掲げた夏夜の表情は、どこまでも清々しく透き通った物だった。




 そして心地よい敗北感に浸っていた夏夜が、ふと視線を外に向けた時だった。
「……んー?」
 姫緒の家とテラスハウス陽の坂は隣同士である。何かと物騒な昨今、道路に面した部分の塀は割と厳重に作ってある姫緒邸だったが、互いの家の境界はそれほどしっかり作ってはなく、せいぜい垣根が植わっている程度であった。
 だから、彼女たちのいる浴室から陽の坂の庭がおぼろげながら目に入るのだが。
「あれ、ひょっとして理君じゃない?」
「え?」
 思わず呟いた夏夜の言葉に、隣の姫緒が反応した。しかし夏夜は気づかず、窓の外をじっと見つめる。
 垣根の隙間をちらりちらりと行ったり来たりする、見覚えのあるひょろ長い人影。見慣れたスーツ姿ではなく、夜の闇に浮かぶ姿は明らかに肌色の割合が多い。
「あー、これからお風呂入るんだねぇ」
「ちょ、ちょっと夏夜さんー!? 何を見ているのかしら!?」
「何をって。陽の坂の庭、ここから見えるみたいだから。ああ、今からやっと理君お風呂なんだなって」
 振り返った夏夜は、意地の悪い笑みが口元に浮かぶのを止める事が出来なかった。これから先の光景が、容易に想像できて仕方ない。
「な、何を言ってるの! というか、何しれっとして見続けてるのよー!」
「やだなあ、姫様。見ようとしてるんじゃなくて、たまたまここにいると見えちゃうだけだもの」
「そういいながら、窓にかぶりついて身を寄せてるのはいったいどう説明してくれるのかしら!」
「だって、理君の裸見るの久しぶりだしねー。まあ役得という事で」
「何のよ! というか、久しぶりって、いったい何時見たのよあなたは」
「だって、一週間くらい同棲したりしてたしねぇ。それはこう、それなりに」
 夏夜がわざと普通より声を上げてみせると、湯船の反対側からばしゃばしゃとお湯を掻き分けて美都子と麻実が寄ってくる。
「夏夜さん、それってどういう事なのかなっ!?」
「あなた、理といったい何をしたって言うのっ!?」
「だから、言った通りの事だけど? 大家さんは知ってるはずだよね?」
「知ってるし一部見たけど! やっぱり、やっぱりそんな事してたのっ!?」
「ちょっと、聞き捨てならない言葉がさっきから飛び交ってるんだけど!」
「くぅ……泣く泣く目を離したと思ったら、人のダンナにこんなに悪い虫がいっぱい……理ぅ……」
「だから元だって事いい加減自覚しなさいこのダメ教師ーっ!」
「そうだよ香野先生! というか、やっぱりなんでここにいるのよっ!」
「そんなの、不断の努力結んどかないと理と関係切れちゃうからに決まってるじゃないっ!」
「だからいい加減諦めなさいといってるでしょっ!」
 仁王立ちで吼え猛る女三人の姿に、夏夜は笑いをこらえる事が出来ない。
 家庭も仕事も充実している人間は、周りからやっかみを受けて色々いじられる運命なのである。
「まあ、陽の坂住人ならこれもまた人生、よね」
 そろりそろりと輪から抜け出した夏夜は、口元を緩ませて呟く。一足先に行けば、最初の一杯くらいは杯を交わせる筈だろう。ひょっとしたら、慌てふためく彼の姿も見られるかもしれない。
「色恋沙汰の需要はなくても、酒飲み友達の場所くらいは、まだ開いてる筈だものね?」
 浴室に満ち溢れる女友達の喧騒に背を向けて、夏夜は忍び足で脱衣場へと抜け出したのだった。






【おしまい】





■ あとがき

 Fate/hollow ataraxia以降、珍しくほぼ自力でコンプした18禁ゲームがこの「世界でいちばんNGな恋」でした。
 コンパクトに纏められていながらも、描きたい事訴えたい事をきっちり描ききったシナリオに引き込まれ、あれよあれよと気づけばのめりこみ。非常に楽しませてもらったゲームです。
 登場人物が軒並みダメ人間ばっかりなんですが、ダメ人間なりに答えを見つけようと前向きに頑張っている様は、感情移入せずにはいられません。今回は姫緒ルート後の物語なのですが、他の三人のヒロインそれぞれ、語りつくせない魅力がありましたね。
 ……ただまあ、美都子だけは主人公との年齢のギャップがきつすぎて個人的にはしんどかったですが。良い子なんだけどね!

 そんな訳で物語の雰囲気に合わせたつもりの、ちょっとした一幕でした。楽しんでいただければ幸いです。


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