少女には向かない生き方




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 汚れたローファーが霙に濡れて重くなる。細かい粉雪は踏みたびにぎゅっと鳴る。乾いたアスファルトに立てる足音よりも大きく響いてそうで、少女はぶるりと背中を奮わせた。
 頭の脇に二つ結んだおさげが、不規則に踊っている。滲んだ汗のせいで、柔らかい髪が額に張り付いていた。電灯もまばらな、暗い一角で赤い両眼が焦りに揺れている。
 少女は必死に走っていた。
 振り返らず逃げていた。両手が使えないので走り難いことこの上ない。けどつかまっちゃったら一巻のお終いだ。逃げなきゃ、何とかして逃げきらないと。
 無人の公園を横切って、さつきは一路繁華街の裏へと向かっていた。この街は、どうしてか路地裏が多い。人気がない細道の向こうは放棄されて久しい廃墟が広がっている。本当に無駄な土地の使い方で、ここまで来ると意図的なのではないか、と疑う人間がいてもおかしくない。現にさつきはそう思っている。
 おかしな街は、更に奇妙な事態を迎えていた。
 湿気ばんだ空気の下は、白く染まっていた。真夏の夜の底には雪が積もっていた。
 近年稀に見る異常気象に、街は沈んでいた。
 逃げるには最悪の夜だ。何処へ行っても足跡は残り、追跡者は決して少女を見失わない。ならば立ち向かおうという意思は皆無だった。正確には、先刻皆無にされたばかりだ。
 弓塚さつきは、悪夢に追われている。
 アレが、わたしが最も恐れる相手なんて知らなかった。何故って、だってわたしは気が付いたらこんな身体になっちゃってたんだし。
 だから判断が遅れた。悪夢に勝てるわけがないのだ。克服できるなら、其の夢は悪夢の定義を満たさない。けれど夢を見ている本人は苦悶を骨に刻むまで、自分が忌避すべき影を見ているとは気付けない。――逃げる他ない。
 一瞬でも対峙してしまった代償は重かった。
「はっ、はっ、は――あ」
 吸血鬼となった体が、悲鳴を上げている。運動量は体した事はない。普通の高校生でも体育会系ならなんとかなる位だ。だってのに、体中の関節が軋んでいた。腿の筋肉が張り裂けそうだった。血液が全て水銀に変わってしまっていた。
 そう、まるでわたしの身体は別人に乗っ取られかけているみたい。不吉な想像にさつきは頭を振った。いくら吸血鬼の体が嫌いだからって、無くしてしまうのはもっと嫌だ。
 けど現実に、彼女の身体は主人の言う事をなかなか聞かない。
 もう一度さつきは頭を振った。おさげがぶんぶんと振り回されて、ぺちりと背中に乗っている少年の、血に塗れた頬を叩いた。
「……人を背負っているのを忘れて、何をする」
 さつきの背中から、忌々しそうな呟きが漏れた。
「わ、忘れてたわけじゃないもん。だいたい、女の子に負ぶさっているのに偉そうに言わないでよねっ」
 赤面しながらさつきは返した。すると背後の少年はますます不機嫌になって、
「貴様が勝手に運んでいるだろうが。俺は願い下げだと言った。不愉快だ――とっとと下ろせ。駄賃にバラしてやる」
「しょうがないじゃない、あのままだったら吸血鬼に殺されちゃってたんだよ、殺人鬼さん」
「妙な話を。貴様も吸血鬼だろうが」
 頭から血を流し、学生服の端々を真っ黒く炭化させた少年はぐったりとしていた。威勢が良いのは台詞だけで、声は弱弱しく、四肢は力を失って振り子の如く揺れている。そんな状態でも、彼の右手は無骨なナイフを離そうとしていなかった。指の合間から覗くナイフの柄からは、辛うじて『七つ夜』と読める。
「うるさいなぁ、もう!」
 頬を膨らませて、さつきは振り返った。蒼く底冷えする光を放つ両眼と、至近距離で視線がぶつかり合った。
 途端、さつきは不自然な勢いでまた前に向き直る。
「同じ顔って凄く困るよね……」
「この身は奴の悪夢だ、文句があるなら張本人に言え。……さあ、離せ。いい加減我慢できん」
「まだ言ってる。放っといたらやられちゃうのに、置いていけないじゃない」
「俺を悪夢、殺人鬼と知って、よくもそんな甘いことを吐ける」
「だーかーら、黙ってて! 喧嘩なら後でしてあげるから。まずはあの――」
 さつきは肩越しに――自分のではなくて、背負った七夜志貴の肩だ――白い底をした夜の先を振り返る。
 人影はない。ただ水銀灯の列が続いているだけだ。
 だが、絶対にいる。死徒の視力も通じない闇の向こうに、あの吸血鬼はいる。わたしを人間じゃなくした存在が追ってくる。
 名前だけは、シオンから教えられていた相手。二十七祖番外位・転生無限者――ミハイル・ロア・バルダムヨォンが『子』であるわたしを、追いかけてくるのだ。




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 ――腹の最も奥から、硝子の手が伸びてくる。冷たくて鋭い五本の指がわたしの心臓を掴んで離さない。
 腕は無言のまま、ただ一言命じる。『来い』と高圧的に告げてくる。
 同時にわたしの脳髄を直接掴んでくる手があった。五本の指がずぶずぶと脳神経に食い込んで、こう述べてくる。『行くな、無視しろ』と、何処かべらんめえ調で伝えてくる。
 夜を迎えて、二つの抗いがたい声に苦しめられていた弓塚さつきは、考え抜いた末に前者の意思を選択した。
 元々、街に出るつもりだったのだ。三咲町を包む怪夜の理由を突き止める為にだ。知己である黒猫の夢魔に頼まれた件でもある。
 わたしの精神を揺さぶる声の正体も、きっと関係している。
 あり得ざる不可視の腕も、白い怪夜が帳を下ろして以来に現れたのだ。
 さつきは惹かれるままに歩いていった。自分の意志で動いているようで、空から降りてきた電波に操られていた気もする。夢心地でもある気分だった。廃墟を出て、苔むした路地を通り抜けて、三十分ほど裏通りを進んだ。
 気が付けば、さつきは公園の入り口に来ていた。繁華街も近い場所にある、都内にしては大規模な公園だった。緑豊かで、中央の噴水部は老若男女の憩いの場である。尤も夜になれば明かりが少ない事もあり、無人の空間となるのだが。
 日常なら人気が皆無である場所からは、激しい金属音が鳴り響いていた。
「――何?」
 丁度公園中心付近の林からだと判断したさつきは、どうしてか急いで走り出した。取り分け正義感に駆られたつもりもないし、勇気が沸いていたのでもない。ごく自然に大変なことが起きていると感じただけだ。人の良さが反射的にでた、というところだった。
 見当をつけた場所から入り口は数百メートル離れている。さつきの足はものの数十秒で走り抜けた。聴覚も身体機能も、不十分ながら吸血鬼ならではのものだった。
 さつきは電灯の柱を掴んで、行き過ぎかけた身体を止めた。ローファーのつま先が積もっていた雪を盛大に蹴っ飛ばした。
 傾いた視界に飛び込んできたのは、二人の男の影だった。
 男達は殺しあっていた。ナイフ同士を打ち付け合って、互いの肉を切り裂こうとしていた。学生服の少年は身体を屈めて、不可思議なことに消えたり現れたりを繰り返して相手に向かっていっていた。地面を四肢で駆けたかと思えば、餌に食いつく猛禽類の如く空を滑空していた。凡そ人間離れした動きだ。
 対峙する男は、体の動かし方こそ人間だが、一挙動全てが人外の速度を誇っていた。四方八方より迫り来る無骨なナイフを、大ぶりのアーミーナイフで弾き返している。時折少年の刃を身に受けるが、傷を負った気配はない。
 死徒の動体視力を以ってしても、追いきれない攻防だった。
 さつきは少年に見覚えがあった。片時も忘れない少年と同じ風貌だったのだ。そしてもう一人は――。
「え――あ。あぁぁ、う、あ?」
 認知症の老人に似た呻き声を漏らしてしまった。さつきは大きな瞳を限界まで見開いて、遠野志貴と思わしき影とナイフで斬り合う男に釘付けになった。
 背中しか伺えない。波打つ長髪は荒れていて、真白い首筋を隠したり曝け出したりしている。前を留められていないのか、男が腕を振るう度に、白いワイシャツが外套のように裾をたなびかせていた。
 心臓を掴む手の力が、一層強まった。
「ほう」
 長髪の男が、殺し合いの最中だというのに背後を省みる。その残虐な深紅に染まった獣の眼球で、直立しているさつきを視界に捕らえた。
 ひっとさつきは息を呑んだ。びくりと背骨を本能的な怖気が這い上がって、逃げたくなった。けれど恐怖のあまり、体の筋繊維は悉く凍り付いてしまう。五体が言う事を聞かない。
(どうして、どうしてわたしは――こんなに)
 理解できなかった。判りたくなかった。怖かった。心臓が更に握り締められて、血の滞りが極端に悪くなる。頭の中が煙ってくる。
「やっと来たのか――」
 ただ友達であるシオンより、別れる際に告げられた言葉が思い出された。
『いいですか、さつき。今日は外を出歩いてはいけません。今宵は居てはいけない存在、出逢ってはならない者達が闊歩する怪夜ですから』
 やっと忠告の意味を理解できた。
(ねえ、シオン。いうこと聞かなくて御免ね。どうやらわたし)
 出逢ってはならない悪夢に捕まってしまったみたい。
 震えがやまない少女の視線の先で、ワイシャツをはだけた魔性の男は禍々しく唇を歪めた。
「――我が『子』よ」
 彼女の死徒としての部分が理解した。眼前のこの男は、自分にとって反逆を許されない絶対者である真実を。




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「殺し合いの最中、何処を見ている」
 さつきにとって薄氷が張った時間を破ったのは、芝居がかった音調の、気だるげな声だった。
 長髪の吸血鬼、ロアが他愛ない仕草で首を傾げる。自らの両肩に乗った二本の脚に気付いたからだ。
「虚仮にしてくれるな、吸血鬼」
 額の中央に、無骨なナイフが根元まで突き刺さった。硬い頭蓋骨を貫通して、前頭葉にまで達する深さに思われた。通常の人間であれば、一度だけ痙攣した後、意識を永遠に手放しかねない致命傷だった。無慈悲にも、更に抉ろうと少年の手首が捻られる。ところが、殺人者の腕は感電したかのように突発的に弾かれた。
 舌打ちと共に志貴は跳躍する。ロアのナイフが刹那遅れて、両足があった空間を無造作に切り払った。
「もう退屈凌ぎは終わりだ、志貴」
 億劫げに振りかえったロアの額には、まるで第三の目とでもいうように、赤い肉の裂け目が出来ている筈だった。しかし傷はまったく存在していない。血の一滴すら滲んでいなかった。
 志貴は返事もせず、ロアに斬りかかる。対峙する魔性は、今度はもう反応すらしなかった。殺人鬼の刃が吸血鬼の体を容赦無く斬りつける。喉元を付き、頚動脈を裂いて、肋骨の間より心臓を付き、鳩尾から臍にかけて縦に切断する。瞬きの間に全てが行われた。
 だが吸血鬼に痕は微塵にも残らない。痛みは多少あるのか、微かに眉根を寄せただけで棒立ちしている。
「『死』が見えないお前では、些かも話にならないな」
 ロアがナイフを振り降ろした。志貴とは違い、急所を狙ったものではない。だが少年は必死に身を翻した。ロアの一撃は、学生服のボタンを真っ二つにしただけで終わる。
「は――大層な体をしているな、吸血鬼どもは」
 回避した勢いで五メートルほど距離を取った志貴は、事態を理解していないのか薄く笑っていた。
 未だ硬直から脱していないさつきは、それでも辛うじて動く眼球で志貴を見やる。おかしい。違和感以上の齟齬が感じられた。
 まるで遠野くんの皮を被った別の生き物がいるみたい。
「遠野くんじゃ、ない?」
「アレと一緒にするな」
 耳ざといのか、志貴は苦々しい顔付きになった。ふん、とロアが鼻を鳴らす。
「人しか殺せない殺人鬼などを何故畏れるのか、理解に苦しむな。自身の方がよっぽど化け物だろうに」
「アレに殺されたモノが言うのだから、間違いないだろうよ。不様この上ない男だがな」
「やはり志貴の悪夢か、ならば消えろ。悪夢同士が食い合ってもしかたあるまい。一夜限りの己を全うすればどうだ」
 第三者には理解し難い応酬だった。死者が加害者の悪夢を語り、悪夢が夢の主を罵る。確かに悪夢のような光景だ。さつきはシオンより説明されていたので、まだ辛うじて把握できた。紫に変色した唇を手で覆う。
「遠野くんの悪夢……と、わたしの」
 ロアが徐に首を反らし、さつきを見下してきた。
 ――ぞっとする。それだけで蛇に睨まれた蛙となってしまう。さつきはやっと自分の膝が笑っていると気付いた。止めようにも、そもそも体が動かない。
「だから」
 さつきの視界の端で、遠野志貴の悪夢が腰を溜めた。
「全うしている。この身は、出会った者全てを殺す行動原理――」
 そして志貴の悪夢、七夜志貴は再度姿を消す。今度はロアの頭上に現れて、脳天を串刺しにする。続けて背後に回り、背骨にそってナイフを滑らせる。
「殺せぬ相手を殺す? そんな事は自己矛盾も甚だしい」
 全身を膾切りにされながら、でも瞬時に復元しながらロアは呆れ果てていた。空いた口が塞がらないと言わんばかりである。
「仮初めとはいえ不死者を、摂理の鍵もなく異能もなくてどうするというのだ? 意地という奴か。もうとうに理解出来ない感情だが」
 スニーカーの靴底が饒舌な頬を蹴り飛ばした。それでも、吹き飛ばされたのは七夜志貴の方だった。
「まったく、どうして貴様等『魔』は理解できないのか……」
 レンガ色のアスファルトで舗装された地面に、両手をも使って着地した七夜志貴は蜘蛛のようだった。その表情は、逆にロアを嘲っている。
「まあいい。不死だと謳うなら、教えてやる。それは不可死だと同義だと。死にたいと願うまで――朝まで殺し続けてやるさ」
 強がりなのか、相手を理解できていないのか。少なくとも七夜死貴は本気だった。真剣に、自身が消滅する時間までロアを切り刻んでやると、彼の浄眼が告げている。
「もういい」
 はじめてロアが不快を顕わにした。そして何事か、異国の言葉を紡ぎ始める。
「私は自負やら信念、自己になどに価値を認めない。ただ目的を果たせば良い。ようやく『子』も来た。速やかに施術を終わらせねばならないのだよ」
 知った事かと七夜が動く。またしても姿を見失わせる。
 ロアが呟きを終えた。途端に七夜の姿が現れた。自ら急制動したのだ。殺人鬼はここではじめて焦りを垣間見せた。
「あまり理解していないようだが、私は本来――」
 呟きは詠唱だった。吐かれていたのは言葉であり、数字である古い言語だった。
 ロアの周囲には、無数の鬼火が浮かんでいる。濁った黄色の発光はふわりふわりとたゆらいながら、時折放電している。数は数百にも及ぶか。まるで今までロアに犠牲にされてきた人間達の魂が、恨みがましく鬼を取り囲んでいる様だった。
 死者の魂を束ねる鬼が嘯く。
「――錬金術師、魔術師でね。この国では見せた事がなかったか」
 同時に鬼火の群が動いた。ただ直進するだけではなかった。ロアからして右翼は七夜の側面をつくように、左翼は背後に回り込もうと動く。上空の火は覆い被さろうと降ってくる。
 発光体の一つが電灯の柱に触れると、小さな雷と解けて鉄柱を溶かしてしまう。ゆっくりと鉄柱は折れ曲がり、倒れる。
「くっ」
 ロアの魔術が生み出した鬼火――球電体に包囲される一瞬前に、七夜は真横に跳躍した。行く先は林。獲物を追って無数の球電が木の檻へと殺到した。
 続いて起こったのは、戦場の銃声を一時に圧縮したような、凄まじい爆発音の連鎖。木々が悉く倒れていく。倒れていく木は地面につく前にまた弾かれる。砕かれては跳び、跳んでは砕かれるを繰り返し――数十メートル一帯に広がっていた林は、数秒後には黒焦げた焼畑の跡と化していた。
「ひ、酷い……」
 観客とされていたさつきが言葉をなくした。いくらなんでも出鱈目だろう。破壊の規模もそうだが、やり方がえげつない。あの球体は一撃では大したことがないかもしれない。とはいっても人間一人を軽くショック死させるだろうが。寧ろ意図的にそう調整されている、最低限のエネルギィ量に洗練された魔術だ。
 それを数百用意する。一度に放てば相手に死を気付かせる事もなく、消滅させられるエネルギィをわざわざ分割して、叩きつける。
 常人レベルに例えれば、裸にされた上でスズメバチの大群の真っ只中に放り投げられるようなものだ。なんとか避けようとして回避しきれず、削られていく。無数とはそれだけで吐気を催させる恐怖に足りうる。
 吸血鬼は、殺人鬼を嬲ったのだ。
 火事の跡を検分していた魔術師の死徒は、やれやれと微苦笑した。
「生き汚いのは志貴と一緒か」
 炭化した木の破片に覆われた地面に紛れて、人の形が横たわっている。胸は辛うじて上下していた。
「ぬかせ、殺す者が殺されては、下手な冗談にもならん」
 そう言ったつもりなのだろうが、実際には口が弱々しく開閉しただけだった。
 ロアは読み取れたのか、声を立てて笑った。愉快そうだった。
「まあ、ショック死しなかっただけ見事、と賞賛してやりたいが。――ではさようならだ、七夜志貴」
 伏せた七夜へと大仰に歩み寄っていくロア。その光景を、さつきはただ見守るしかなかった。
 助けようと思わなかった、訳ではない。
 目の前で悪夢とはいえ、人が殺されるのを黙ってみてはいられない。けれど果敢に向かっていけるほど勇気があるかと問わたら、そうでもない。正義感が強いのではなくて、人の心に自然と涌く感情として「助けなきゃ」とは思う。
 でもどうすればいいのか、と考えると何一つ思い浮かばない。
 第一、さつきはあの吸血鬼には叶わない。ほぼ絶対の真理として、死徒としての本能が理解している。逆らう意志だって捻じ伏せられてしまっていた。
 一歩一歩ロアが、やはり相手を焦らすよう、嬲るように歩いている。さつきはただ見ている他ない。無力感に嘆く権利しか持ち合わせていなかった。両手を強く握り締めている。
 どうしよう――。どうすればいいのかな、遠野君。人が、殺されようとしているのに、わたしは何もできないの――。
 その時だった。
「あうっ」
 いつしか忘れていた。もう一本の腕が自分の脳髄を掴んでいる事を。その五本の指がギリギリと握力を強めてくる。
「あ、い。痛い、痛いよいたい」
 見えない人差し指が、深く脳の中に陥没していく。そのままさつきの精神を掻き混ぜる。あまりの激痛に涙が出た、涎も垂れる。
「あ――ぃあ、や、止めてお願いやめてやめて」
 指が致命的な部分に突き刺さった。あ、とさつきは全身を仰け反らせる。そして小指が言語野を引っ掻いた。
 痛みが言葉に変換される。
『――嫌がらせだ。逆らえ』
「あ」
 痛みが電気信号に変換される。そしてさつきは、
「――ああああぁぁぁっ!」
 血をニトログリセリンに摩り替えて、狂った雄牛の如く突貫した。蹴り飛ばされた雪が空を隠すほどに舞いあがる。急速に、彼女の絶対者の姿が拡大されていく。
「ぬ――?」
 ロアが不可解だ、と眉を寄せたのを尻目に、さつきは転がっていた電灯の柱を両手で掬い上げた。全身の力を篭めて、
「このぉ!」
 死徒の王へ投げ槍の如く投擲する。馬鹿馬鹿しいほどの馬力だった。
 さつきの決死の攻撃にロアは意表を付かれて、思わず後ろに下がってしまった。眼前を鉄柱が轟音を発てながら行き過ぎる。
「何故動けるのだ、魔眼で呪縛していた筈がッ」
 咄嗟にナイフを構えるアカシャの蛇。けれどさつきは『親』に向かっていってはいない。鉄柱がロアの視界を一瞬遮った隙に、七夜の元へと走りこんでいた。
「逃げるよ、殺人鬼さん!」
「ぐ? 何を」
 反論など聞く暇はない。さつきはベルトを掴んで、七夜の体を吊り上げた。
 まるで荷物を抱える格好で、一目散に逃げ出す。後から撃たれるかもしれないといった当たり前の危惧すら、考えもつかずに頭の中が真っ白なまま駆け抜ける。
「こ――こら貴様……ふざけるな。降ろせ。こんな不様を許せるかっ……!」
 走りながら背負った七夜が、呼吸音と聞き分けつかない程小さい声で抗議する。けど応える余裕はない。
 だって怖くて怖くて、しょうがないのだ。さっきのは、ただキレちゃっただけなんだもの!
 追撃はない。けどさつきは振り向けなかった。後を見たら、呼気が届く場所にあの吸血鬼がいる気がしてならなくて、首の筋肉が凍り付いている。
 ただ声だけが追いついてきた。
「おかしいな。どうして『親』に逆らえる?」
 耳元で言われた気がした。ひゃあと悲鳴を上げて、さつきはその場で蹲りたくなった。でも逃げないと、逃げないと念じてひた走る。
「いくら短期間で自立した死徒とはいえ、まだ未熟。私に直接命じられて、意志を持てる筈がないのだが。まあ、いい」
 もう喋らないで。声を聞くだけで、心臓が軋みを上げて苦しくてしょうがない。
「まだお前は私の支配下にある。何処へ逃れようと無駄だ。とはいえ、私にも時間がないのでな。この夜が終わるまでに、姫君に気付かれる前に」
 だからお願い、もう口を動かさないで。
「――魂の器を用意しなければならない」
 それっきりロアの言葉は聞こえなくなった。さつきは安堵するばかりで、言葉の意味にまで頭が回らなかった。




/3



「つ、疲れたー……。取り敢えずここに隠れよう?」
 体力測定の千五百メートル走でもこんなに疲れなかったよ、とさつきは他愛もない愚痴を零した。七夜は返事もしなかった。
 二人は四階建てのビルに入り込んでいた。とはいっても廃墟である。廊下の窓に嵌められてあった硝子は全部割れており、破片が床に散らばっている。壁には紅いスプレーでよく判らない落書きがしてある。たまに卑猥なマークも書かれていて、さつきはそこだけは意図的に無視した。恥ずかしいからだ。
 階段を上って四階に辿り付くと、やや周囲の様子は変わった。廃墟には違いないが、荒れたものではあまりなくなっている。硝子の破片は掃除してあり、空っぽの窓枠にはビニールが目張りしてあった。落書きは白いペンキで下手糞ながらも消されてある。
 さつきは心なしか顔色を良くしていた。狭く惨めながらも我が家に戻って来たからだ。
「ここはね、わたしが一生懸命片付けたんだから。シオンと友達になってからは、人避けの結界だとか用意してもらったの。暴走族とか不良さんに来られたら怖いなあって思ってたから、凄く助かっちゃった」
「まず、お前が奇妙な存在だろう。不良? そいつらの方が逃げ出すさ」
「ふんだ。せっかくうちに入れて上げるんだから、憎まれ口叩かないでよねっ」
 むくれていたさつきは、はたと立ち止まった。自分が喋った内容に気付いたからだ。
 そのまま赤面しながら項垂れて、うううと唸ってみせる。
「うう……考えてみれば、男の子を自分の部屋に入れて上げるのって、はじめてなのにー」
「……知るか。そもそも頼んですらいない。俺は降ろせと言ったんだ。嫌なら早く離せ」
「嫌ってわけじゃないけど、わかんないかなあ。わかんないよね、別人でも遠野君なんだし」
「だからアレと一緒にするなと言っている」
 愚痴る七夜を尻目に、さつきはあるドアの前で立ち止まった。ダンボールが標識としてかけられていて、「弓塚さつきの部屋」と丸文字で書いてある。ミッフィーやらツインテールにした女の子(おそらく自分のこと)の絵で縁取られていた。
 さつきは可愛らしく唸りながら、ドアノブにつけた南京錠の鍵を取り出そうと、七夜の脚から腕を抜いた。
「あれ?」
 首を傾げた。南京錠など何処にもない。ドアと壁には螺旋が力づくで剥ぎ取られたような痕跡があった。
 さつきははっと顔を蒼褪めた。
「……まさか、泥棒!? わたしの部屋に盗る物なんて何もないのにっ」
「――馬鹿か貴様は」
「な、なによっ」
 火がついた顔でさつきが振り向くと、背中には殺人鬼の瞳があった。殺意に充ちていて、空気を張り詰めさせる迫力を放っている。思わずさつきは息を飲んだ。
 七夜の意識はさつきにではなく、ドアの向こう側に向けられていた。
「降ろせ」
「どうして? だってまだ痺れているんでしょう? 動けるんだったら、もうとっくに自分で降りているものね」
 だが七夜は返答しなかった。蒼く冴え渡る浄眼で、壁一枚を隔てた先を見つめている。
「誰か、いるの?」
 やはり返事はない。さつきが根気良く見つめても、反応すらしなかった。
 無視されきったさつきは、困惑して眼を右往左往させた。
「えっと、きっとシオンだよ。シオンって言うのは私の友達で学者さんで。ここを知っているのはシオンしか――」
「入り口でがたがた喋ってんじゃねえよ。とっとと入ってこい」
 ぶっきらぼうな怒鳴り声がさつきを遮った。
「えっ?」
 瞳を満月の様にするさつき。彼女を尻目に、七夜は三日月に似て眼を細める。
「だ、誰なの!」
 おい、と七夜が静止する間もなく、さつきはドアノブに跳びついてドアを開け放った。やや臆病な彼女らしからぬ行動ではあったが、本人にしてみれば気にしてなどいられない。
 なんといっても、自分の部屋に勝手に上がりこんでる男がいるのだから。乙女として大変な危機なのだ。他人に見られたくない物だって、一つや二つあるんだから。
 室内は廃墟には思えない程整理されていた。リノリウムばりの床はダンボールを一面敷いて、更に絨毯が敷かれてあった。壁もコンクリート剥き出しだったものに、薄い桜色の壁紙を張りつけてある。ちなみに絨毯と壁紙は、さつきが深夜にせっせと集めたダンボールを換金して買ったものだ。
 家具も多少ある。アクリル天板の小さいテーブル、沢山のシールを剥した跡がある学習机、どうしてか自家発電機と冷凍室のないワンドアの冷蔵庫、つまみを回転させてチャンネルを代える骨董品的テレビが置かれていた。これらは粗大ゴミを持ってきたものだ。自家発電機はシオンに修理してもらった。
 苦労して積み上げた、少し惨めだけれど愛着ある我が家。いつもはさつきしかいない空間に、現代では珍妙な格好の男がいた。机の椅子にふんぞり返っており、ちょうど座ったまま伸びをしている。顎を無防備に反らしていた。
「あーあぁ、とろいんじゃねえよ。待ちくたびれただろうが」
 着慣れたとするより、長年着続けて色褪せてしまったという風の、紺色の着物姿がぼやいた。さつきは最初きょとんとして、次に噛み付こうとしたが、また不意に体が硬直する。
 先刻、ロアに出会った際と同じ金縛りだった。今回はまだ動けるが、同質の異常であるのには変わりない。
 さつきは無意識に後退しながら、唾を飲み込んだ。
「貴方――誰なの?」
「ああ? わからねえのか。俺もお前の『親』だよ」
 白髪頭をぼりぼり掻きながら、若い容貌の男は赤い虹彩で二人を睥睨した。
「え? あの、えっと――え?」
 意表をつかれたさつきは目を白黒させている。一方で七夜は、醒めきった様子で男を覗っていた。
「混血――遠野の食人鬼か」
「いい格好だな、志貴。いや――七夜の殺人鬼」
 食人鬼が億劫そうに立ち上がる。錆びた椅子のスプリングがギッと軋んだ。
 さつきは背後の少年が、歯を悔しげに噛み締めるのがわかった。
 この人も、もしかして悪夢なのだろうか。
 どうやら七夜と旧知である男――遠野四季は、にたにたとしながら、首を大きく鳴らした。
「女は呼んだが、お前には用がねえんだけどよ。なあ、お前もそう思うだろ、志貴」




/4



 どうしてこんな事になっちゃったんだろう。わたしは、凄い怖い存在――吸血鬼としての『親』に追われていて、隠れていないといけないのに。
 項垂れながらさつきは廊下を歩いていた。傍目にも情けない俯き加減で「はあ」と何度も嘆息している。とぼとぼ、という表現が良く似合う姿だった。
 部屋の前に着いたさつきは、両手が塞がっているのでドアを開けるのに手間取ってしまう。長細い円筒を沢山抱え込んでいるので、片手を自由にし難いのだ。下手すると、するりと円筒が落ちていかねない。そしたらすごく怒られる気がする。
「うんしょ、と。あの、買って来たよ……?」
 おそるおそる自室を覗き込んだ。
「遅せえよ。どうしてとろいんだ、オマエは」
 白髪の食人鬼は椅子の上に胡座をかいて、ふんぞり返っていた。微かに苛立った眉が、さつきにはちょっと怖かった。
「とっとと持ってこい」
 まるで五十年前によく居た家長みたいな振舞いだった。さつきはやっぱり何処か恐る恐る部屋のテーブルまで歩いていき、胸一杯に運んでいた缶コーヒーを置いた。天板と缶がぶつかって硬い音がする。
「えと、銘柄これでよかったのかな……」
「ん? ああ、よく判らねえから何でもいいんだ、コーヒーなら」
 急に機嫌よくなった遠野四季は缶コーヒーを二本掴み取り、
「ほれ」
 黙って壁際に凭れかかっていた七夜志貴に一本放り投げる。七夜は危なげなく空中で受け取った。
 片手で開詮して、四季はぐびぐびと咽喉を鳴らして一気に飲み干す。すぐ二本目を手に取った。
 七夜は最初呆れたように四季を眺めて、次に缶コーヒーをまじまじと確かめてから、一度だけ口をつけた。
 そんな殺人鬼の様子に、食人鬼はかーっと江戸前の親父になった。
「コーヒーに何気取ってんだオマエ。もっとぐびっと行けや、ホレ」
「お前の呑み方がおかしい。人の血じゃあるまいし、混血の鬼ががっついてどうする」
 小生意気な表情で七夜が鼻を鳴らした。
 二人の様子をやや離れた場所で眺めているのは、さつきだった。引き攣った笑顔を貼り付けている。
「ふ、普通人の血を飲み物だなんて、思わないんじゃないかなあ……?」
「――あぁ?」
「ごごごめんなさいっ」
 凄まないで、とさつきは両手を顔の前で交差させて、身を竦めた。
 ち、と四季が舌打ちしてコーヒー缶をぶらぶらと振る。コーヒーの飛沫が微かに飛んだ。
「オマエだって吸血鬼だろうが。何イイコぶってやがる」
「好きでなったんじゃないもん……。血だって殆ど飲まなくてもいいんだもん」
 蚊の鳴く程度の反論は、四季達にあっさりと無視された。七夜は人外と話すつもりなどないのか、やはり沈黙していた。
「ちっ、辛気臭せえな」
 四季はまたぐいっと缶コーヒーを飲み干す。またまた次の缶に手を伸ばして、不意に恨みがましそうな視線に気が付いた。
「んだよ、つまらん顔してるじゃねえか」
「だって」
 さつきはしょんぼりとテーブル上にある十二本の未開封の、二本の空き缶を見つめていた。
「わたしのお金なのに」
「みみっちい事言うな。大した金額じゃないだろ」
「そんなことないもん!」
 急に身を乗り出して、さつきは唾を飛ばした。四季は意外そうに目を見開く。
「お金稼ぐのって大変なんだからねっ。そのコーヒー買う金額、千六百八十円もしたんだよ。一体どれだけ頑張ったか判る? アルバイトできないから、ダンボール集めるくらいしかなくて、太陽が昇る前まで街中リアカーを引いて走り回ったんだから! こんな山盛り集めたって一日数百円にしかならないの……あうー……」
 熱弁は少しずつトーンダウンして、最後には脱力して俯いてしまった。四季からの憐れみの視線が乙女心に痛い。
「で、でも!」
 めげずに握り拳と共に顔を上げるさつき。
「最近はアルミ缶のほうがお金になるんだよ、知ってる? 自動販売機のゴミ箱から取れば沢山集まるし」
 腕を一杯広げて集めた量を示した。なるほど結構な量らしい。
「こーんなに集めれば一日で二、三千円位にはなるん、だか、ら……ううう」
 またしてもさつきは、しおしおと拳を引っ込めて肩を落とした。七夜までが、市場に売られていく小牛に投げかける憐憫を向けてきたからだ。
「もういい……ほっといてよ、もう」
 社会の底辺だと思い知らされた。さつきは体育座りになって、顔をうずめてしまった。
「あー……、いいじゃねえか。俺なんてガキの時分からずっと座敷牢に閉じ込められてたんぞ。自由な分有難く思いやがれ」
「衣食住あるだけましだよぅ。ホームレス生活は女の子には辛いんだから」
「いい加減、日陰者自慢は止めろ。こっちまで滅入る」
 コン、と小気味いい音がした。七夜が空き缶を床に置いたのだ。
「大体鬼が三人集まったというのに、馴れ合ってどうするつもりだ」
 胡散臭げに顔を微かに顰めている。それはそうだろう、とさつきは上目遣いのまま思った。
 さっきの説明だと、殺人鬼さんと四季さんは敵同士みたいな感じだし。もしかして、殺人鬼さんが動けるようになったら、ここで殺し合いになっちゃうのかなあ。
 頭を抱えてしまうのもしょうがなかった。一体なんでこんな目に会うのだろう。何時ロアに見つかるかわからないのに、わたしの隠れ家では二人の鬼が小康状態で対面している。地雷ばかりが転がっていて、身動き取れない状態だ。
「うぅぅ。シオン、お願いだから帰ってきて〜」
 ぼそりと泣き言が漏れてしまった。半泣きになるもの致し方ないと自分を慰めた。


 さつきが七夜を背負って部屋に戻った際、殺人鬼は今にも白髪の鬼にナイフで踊りかかりそうな雰囲気だった。電撃を受けたショックで、体の自由が効かない状態ではなかったら、事実そうしていただろう。
 翻って遠野四季には今すぐ殺し合いを演じるつもりはないらしかった。七夜志貴をにやつきながら眺めてから椅子に戻り、勢いよく座り込んだ。
「まあ、しばらくは見逃してやる」
 自分が部屋の主のような振舞いだった。手首を振って、さつきたちを座らせたのだ。
 さつきには意外だったのだが、四季は質問されると何処か嬉々として答えてくれた。
「つまりよ、俺は"蛇"――ロアって野郎と同一人物だったわけだ。だからお前の『親』でもあるんだよ。俺と蛇は同じ魂で、でも人格は違う。転生先の遠野四季が俺で、転生してきた奴が蛇だ。オイ、わかっててるか? でよ、今は別々の悪夢として再現されているって訳だ。蛇はオマエの悪夢で、俺は琥珀って奴の悪夢だ。でよ、これが面倒でな」
 と、べらべらと問わないことまで喋りつづけた。話し好きな人なんだね、となぜかさつきは正座して聞いていた。正確に理解できた自信はないが、機嫌を損なうと怖いので取り敢えず相槌していた。
 七夜は沈黙して呼吸を整えていた。時折掌を握っては開き、と繰り返している。体の調子を確かめているのだろう、とさつきは思っていた。
「不可解だな」
 四季の話が「秋葉に会いに行きたいがいけない、この苦しみがわかるか」と愚痴に脱線していた頃合に、七夜が初めて口を開いた。
「あぁ?」
「貴様、悪夢であり人食いの鬼だろう。何故襲いかかってこない? 俺は貴様にとって忌むべき存在だろうに」
「なんだ、食われたいのかテメエ。女に負ぶさってた軟弱なヒトがよ」
「反転者が。汚い犬歯が届く前に、殺しきってやろうか?」
「ち、ちょっと。や、やめてよ」
 肌が痺れる程に空気が張り詰めた気がして、さつきはおろおろと右往左往してしまった。七夜と遠野は数秒間にらみ合っていたが、不意に四季の方が興味を無くして、自分の右肩を揉み始めた。
「俺が殺してやりたいのは、俺から『遠野シキ』を奪った連中だ。テメエは遠野志貴か? 違うだろ。別に敵でもなんでもねえ」
「――人食いが退魔を敵でないとのたまう、可笑しな話だ。あー……、壊れているんじゃないか、お前」
「ああ、らしくてな」
 あっさりとした口調だった。さつきだけではなく、七夜までもが首を傾げた。
「例えば、人殺しの悪夢って一体なんだと思うよ? オイ、答えてみろ」
 四季はいきなりさつきを指差した。え、と話を振られたさつきはしどろもどろになってしまう。
「わ、わたしは、その――まだ、誰も殺してないから」
「オマエ本当に吸血鬼か。じゃあ志貴」
「悪夢に悪夢の定義を尋ねるな、下らん」
「ったく、ノリが悪い奴だな。いいか、普通の人殺しにとって悪夢は最初にバラしちまった奴だろうよ。よく言うだろ? 初体験は忘れがたいのさ」
 のけぞっていた四季は身体を乗り出して、さつき達を覗き込むようにした。応じてさつきは顔を引いてしまうが、四季は気にしなかった。
「ここからが問題だ。じゃあ人殺しが微かにでも改心していたら、どうだ? そいつはこう思うだろうさ、『犠牲にした奴に謝りたい』と。そんな相手に悪夢は姿を見せられるか」
「夢を見る者に救いを授けるなど、悪夢ではない――」
「それだっ」
 乾いた拍子は四季が自分の足を叩いた音だ。大仰に首を振ってから、食人鬼は天を仰いだ。
「改心した奴の前には、悪夢は現れてはいけねぇんだ。しかもよ、悪夢は悪夢らしく振舞えねえ。犠牲者がどうしようもない悪者だったら、言い訳にされちまう。ああ、あいつを犠牲にしたのはしょうがなかったんだってな。そういうこった」
「く――、無様な話だな四季」
 七夜は底意地悪く破願してみせた。
「なんという愚かさだ。悪夢が悪夢たる条件を満たせば、悪夢が果たすべき目的を永遠に達せられない。矛盾が矛盾を呼んで螺旋を描いたような悪夢――それがお前か」
「けっ」
 不貞腐れたように四季は他所を向いた。
「いらいらする。なんで反転した俺がイイヒトごっこしなけりゃならねえんだ。まともに人も食えやしねえ。おい、オマエ!」
「ひゃ!? えっと、その――何かな?」
 四季は噛み付いてきそうな形相だった。ストレスが溜まっているのは間違いなさそうであった。
 もう一人の『親』に睨みつけられて、さつきは反射的に縮み上がった。一体何をされるんだろうと考えると、震えそうにすらなる。相手は『親』だ。強く命令されたら逆らえない。例えば俺の代わりにヒトを殺して、遺体を持ってこいと言い付けられたらどうしよう。したくないのに、しないといけないかもしれない。嫌、そんなのは絶対やりたくない。けど相手は、どうも人を食う鬼なのだ。
 まさしく鬼面のままで、四季はこうさつきに命じた。
「咽喉が渇いた。コーヒー買って来い」
 数秒、さつきは意味がわからなかった。ぽかんと口を開けてしまう。
「……え? ど、どうしてわたしが?」
「しばらく暇なんだよ、飲み物ぐらいなきゃやってらんだろうが」
「だから、なんでわたし……」
 忌々しそうに吐き捨てる親に、さつきは逆らえなかった。
 そういった理由で、さつきは四季のパシリにされたのだった。