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「なんだ、オマエ本当に人食った経験ないのか。よく我慢できるな」
「う、うん。ないよ。ちょっと血を貰ったことはあるけど」
「意味わからねえ奴だな、食事を我慢する生物が何処にいるんだ」
 四季があまりに呆れるので、さつきは反射的に申し訳ない気持ちになった。
「……って、別に人をその、殺しちゃうことないんじゃないかなって」
「吸血鬼が人道主義か? 愚かしい。化け物は化け物らしく振舞え」
 横から皮肉げに七夜が口を挟んできた。
「化け物じゃないもん! 頑張って人やってるんだもの。もう二度と言わないでっ」
 ぐさりと来た。そしてここは譲れないとばかりに、さつきは大声を張り上げた。
「人だから食事に犠牲を払わないか? 人間だからこそ食う為の殺戮に明確な愉悦を見出す。娯楽として狩猟が存在するのが証明だ。貴様の偽善は人をも否定する」
「そ……そんな人ばかりじゃないよ」
「食う為に殺す。生きる為に殺す。それが何が悪いってんだ? 別段人間が食物連鎖の頂点じゃねえ。強者が弱者を喰い散らかすのは普通だろうか」
「かもしれないけど……」
「ふん、種として優れていたからとて、殺しが巧いわけではあるまい。総じて貴様等魔はどうにも下手過ぎる。児戯じゃあるまいし、もう少し趣向を凝らしたらどうだ」
「喰いもせずただ殺すのが愉しい変態にはわからねえんだよ。獲物を殺して喰うからいいんじゃねえか。巧かろうが下手だろうが、んなものは人肉の味を知ったら大したことじゃない。なあ?」
「ううぅ、だからわかんないってばあ」
 気が付けば殺人談義になっていた。物騒この上ない話題であり、そんなものわたしに振られても困るよと、さつきは眉をへの字にして部屋の隅で小さくなっていた。
 どうして殺人鬼さんと食人鬼さんにお説教されないといけないんだろう。
 しかも主張がすれ違ってるし、酷すぎる内容だし。どっちにも頷けやしないよぅ。
 殺害の過程と結果、どちらに喜悦を求めるか。両者は根本的に違う。そもそも『悦楽』という感情を絶対の前提として疑わない点、少年二人は確かに鬼だった。加えるなら、『人を演じる』といったさつきの発言を当たり前の如く流してしまう辺り末期である。
 十四本買ってきた缶コーヒーはもう残り四本を除いて、空になって床に転がっていた。殆ど四季が飲み干してしまっていた。
「お腹たぷたぷしないかなあ」
 と、さつきは要らない心配をしていた。
「さて」
 なんだかんだと三本目を空にして床に置いた七夜は、徐に立ち上がった。
 さつきが不安げに遠野志貴の外見を持つ殺人鬼を見上げる。正直に感想を述べると気持ち悪い。片思いの相手と瓜二つ、けど中身は対極。双子だと思えばやり過ごせるが、同一人物と考えると収まりの悪い感情が湧いてくる。純粋に生理的な感情だった。
 七夜が鉄の棒を取り出す。親指が棒の一部を推すと、バチンと白刃が飛び出てきた。
「そろそろ、かな」
 蒼く火をともし始めた浄眼に、「ひっ」とさつきは短い悲鳴を押し殺した。
 異能の眼球に映る四季は、手にしていた一本を一気に飲み干すと、空き缶を適当に投げ捨てた。
「だな。じゃあ始めるとするか」
 面倒臭げに立ち上がり、七夜と対峙した。白髪鬼はややだらしなくも不敵に頬を吊り上げた。一方、七夜は怪訝に眉を顰める。
「何――かな。えっとえっと、トイレは駅まで行かないとないんだけど……違うよね、やっぱり……」
 壁に背中を擦り付けるようにして、さつきもまた腰を上げた。漸くではあるのだ。対極の鬼が顔を合わせていて、殺し合いが始まらない訳がない。
 しかし二人は敵を眼前に迎えている状態で、意外にもさつきに視線を向けた。
「オマエ、鈍いのな」
「なっ!」
 意味も判らず馬鹿にされて、さつきも今度ばかりはむっときた。紅潮した顔で噛みつき返そうとする。その時だった。
 ――不可視である硝子の手が、心臓を強く握り締めた。
「あう――っ」
 さつきは胸を押さえて蹲ってしまう。耐えがたい痛みが襲ってきた。物理的に心臓が傷つけられている訳ではないのに、湧き上がった痛覚は現実としか思えない。
 来た。来てしまった。やっぱり見つかった。シオンは帰ってきてくれなかった。蛇がわたしの足元に絡みついて、心臓まで昇ってきた。
 血の気が滝のように下がっていく。呼吸も多少乱れてきた。さつきは軽度の恐慌状態に陥りかける。
「あー、オマエ神経鈍いな」
 気軽げな物言いを不快に感じる余裕は、さつきには皆無だった。再度筋繊維の全てがぎしぎしと氷結していく。ああ、もうすぐ真下まで来ているんだ。
 蛇が。わたしにとっての悪夢。最も怖い鬼が歩み寄ってくる。
「おい」
 四季が近づいてきたようだったが、さつきは面を上げられなかった。痛いのだ。怖かった。如何していいか判断つかない。へたりこんだ四肢は脱力したままで、糸の切れたマリオネットより酷い体たらくだった。
「おい、聞こえてんのか」
 抗えないし、助けもない。隠れるんじゃなくって街中を走り回って、シオンを見つけるべきだったのだろうか。けど、今宵は怪夜。先日から苛立っているアルクェイドさんや秋葉さんに出会ったら、問答無用で消炭にされていた。
「あー、ったく。しょうがねえ女」
 どうしよう。どうしたらよかった? ああ、もう何も考えられない、頭の中まで真っ白になって――。
「コラ!」
 突然さつきは顎を捕まれて、無理やり引き起こされた。涙目を鬼の紅い目に覗き込まれる。それで幻痛が一つ増した。脳髄までもが握り締められて、泡を吹きかけるも『親』の瞳から目を背けられない。
 遠野四季が命じた。
「とっとと消えろ。逃げちまえ」
 たった一言で、脳髄と心臓、精神や魂が宿るとされる臓器の痛みが霧消していった。僅かに左胸がちくりとする程度になる。
 呪縛より解放されたさつきは、けれど四季の言葉が理解できずに何度も瞬きした。
 白髪をぼりぼり掻きながら、もう興味を無くしたとばかりに四季はドアへと向かう。
「ど――どうして? 何でかな?」
 振り返ろうとしない四季の背中に少女は呟きかけた。
「何でわたしを、逃がしてくれるの?」
「あぁ? 邪魔だからに決まってんだろうが、俺が蛇をぶっ殺すのによ。臆病者にうろつかれたら、興が醒めるじゃねえか」
 自分を殺すと宣言した四季に驚いているのは、何もさつきばかりではなかった。様子を窺っていた七夜までもが不思議そうにしている。
「正気か? 貴様は遠野四季だが、蛇でもあるだろうに。悪夢が主を殺すのと訳が違う」
「手前こそ人の話を聞いてたか? 俺はなあ、俺から『遠野シキ』を奪った"連中"が憎いと言ったんたぞ!」
 いきなりだった。癇癪を起こした四季が右手を振り上げる。鬼の爪がドアのすぐ横の壁を、コンクリートを易々と切り裂いた。壁紙が割けて剥がれ、皺がよる。五本の爪跡がくっきりと刻まれた。
「親父は憎かったから殺してやった! 志貴も散々苦しめた挙句刻んでやりたかった! だがなあ、ロアも俺から俺を奪いやがったんだ。『遠野四季』は『ミハイル・ロア・バルダムヨォン』に溶かされちまった、アイツが転生してきたから俺はこんなチンケな羽目になったんだろうがッ」
 成層火山が突発的に噴火したような怒気の噴出だった。気が狂ったように壁を両の爪で削りつづける。コンクリートが削れる音は奥歯で砂を噛んだに似ていて、感覚的な嫌悪を覚えさせる。つぶてが霰となって部屋中に注いだ。四季は激情を壁に刻み込むのを、何度となく繰り返す。
 遠野の鬼は爪を研いでいた。蛇の肉体を剥ぎ取り、魂を引き摺りだして己の怨念を抉りこむ凶器を研いでいるのだ。
 半ばも理解できないまま、さつきは恐怖も忘れてあっけにとられていた。化生の存在が手の届く処で猛け狂っている。それが何故だか畏怖ではなく、哀しさを彼女にもたらした。
 きっと、子供が泣いているみたいだからだと思った。
「ああそうだ、結局俺とロアは同一の魂になっちまってる。生前は恨む気持ちもなかった。何せ自分だからな、しょうがねえ。けど今はどうだ? 俺とあいつは同一か? 遠野四季はなあ、死んで悪夢になって初めて蛇を憎めたんだよ」
 振り返った四季は、死んだ魚の目をしていた。狂犬病の犬じみた頬の緩ませ方で、
「――殺してやらないでいられるか」
 深い狂気を垣間見せた。
「あー……勝手に盛り上がっているところ、悪いが」
 さつきでは身動きできない死に絶えた時間の中で、七夜はごく平然としていた。さっさと一人で部屋を出ようとまでしている。
「あの吸血鬼は俺の獲物だ。邪魔すれば先に殺すぞ」
「はっ――、お前の得物じゃアイツにかすり疵一つ付けられやしない。俺は違うがな。自分の爪だ、蛇もさぞかし痛たいだろうよ」
「だからお前達は理解していないといっている」
 氷で死神の鎌を拵えたら、七夜志貴の唇の形を模倣するだろう。
「朝まで斬刑に処せられる獲物なんぞ、滅多にお目にかかれん。貴様等に無駄な体力を使わなかったのは、全て蛇を殺しつづける為。つけあがるなよ、四季」
 七夜志貴は殺気立つ食人鬼を一瞥して、刹那だけさつきに顔を向けた。
「運があったな、女。気が変わらないうちに、この刃が届かない千里へ消えろ」
 さつきはぽかんとしてしまった。本気であの吸血鬼と戦うつもりなのだろうか。ちっとも太刀打ちできなかったのに。わたしを見逃す? 逃がしてくれるの、殺人鬼さんが。四季さん(でいいのかな)まで逃がしてくれると言っている。
 何故か四季までもがきょとんと七夜の横顔を眺めていた。狂犬の姿から一瞬だけ憑き物が落ちた風であった。
 それもあくまで刹那。四季はすぐ犬歯を剥き出しにして、
「けっ。とことんイっちまってるな、殺人鬼。手前がくたばるのは知ったことじゃないが、俺の邪魔をするんじゃねえぞ」
「食人鬼、貴様こそ無様にも尾を食む蛇となるか。……ふん、まあいい。悪夢は悪夢らしく道化を演じるまでだ」
 二人の鬼は奇妙にも、結果的にだろうが肩を並べていた。ぶつくさと罵りあいながら、さつきの部屋を出て、廊下へと曲がっていった
 少女は唖然としてしまう。
 ――相反する鬼が一緒に戦うなんて、なんておかしな光景なんだろう。
 さつきは独り床に座り込みながら、呆然と少年達の背中を見送った。




/6



 濁ったルビーの明かりが階段の踊り場から、下階の廊下に充ちている暗黒を睨みつけている。
 遠野四季は雪明りを通す窓を背後に、ただ独り腕を組んで仇敵を待っていた。既に苦虫を噛み潰した様子で、しかし微かに笑いを浮かべている。
 鷹揚なテンポで足音が近づいてくる。他には蟲の気配すらしない。夏に生を謳歌する小さな者達は、殆どが怪夜の雪で氷付けにあっているからだ。常人では見通せない光の無い空間に人型の影が浮かび上がって、全く同一の紅い眼球が四季を射抜いた。
 遠野の鬼は臆するどころか、満面の笑みを浮かべて――勿論悪意に歪んでいる――、気軽にもう一人の己に呼びかけた。
「よう、遠野シキ。随分とご機嫌斜めじゃねえか」
「遠野四季か。よもや自分に邪魔されているとは思いつかなかったな」
 階段の下よりアカシャの蛇が首を曲げ、四季を視線で掬い上げた。ナイフを持った右腕を億劫そうにぶらり垂らしている。
「一体何のつもりだ? 貴様にはあの娘に用等あるまい。七夜志貴もだったが、お前も悪夢としての自己存在を全うすればいいだろうに」
「五月蝿えよ。俺が何をしようと俺の自由だ。オマエの指図は二度と受けない。大体悪夢とか謳ったところで、小娘一人追い掛けまわすのがジコソンザイとやらかよ」
 せせら笑う四季だったが、出来の悪い生徒に途方に暮れる教師に似た仕草、つまり気だるく投げやりな肩の竦め方をするロアに、不快げに眉を引き攣らせた。
「……オマエ、何企んでやがる」
「判らないのか。お前とて私だろう。まあ意思も意識も違うのでは理解できないか、私を焦がす屈辱が」
 小刻みに肩を揺らしながら、ロアは表情を消して能面となっていく。
「私は永遠を志した者だ。魂を記号化し転生を可能とし、神の理を打破して不死となった筈だった」
「あー、つまりよ、志貴に殺されたのがよっぽど癪だったってか」
「死には敬意を払おう。克服するべき現象である故にな。私が許せないのは今の存在だ。怪夜の幻、悪夢たる自身だよ。――何故永遠を目指す私が一夜という刹那に限定されねばならない? 看過し難い侮辱だよ」
「だから、何考えてやがる」
「怪夜から抜け出す。その為に『子』が必要なのだよ。もう解るか、四季?」
 渋面していた四季は目を丸くして、眼前の異なる自分に呆れ果てた。大げさに頭を振るう。
「正気か? 悪夢たる俺達に魂なんざねえだろう。ただ再現されているだけで、転生なんざできやしねえぞ」
「転生の術が可能ならば『子』に拘る理由は無かろう。だが魂を加工するならば、霊的にも肉体的も私に汚染されている素材が都合が良い」
「……やっぱり狂ってやがる。他人の魂を自分の容に作り変えるだぁ? 意味がねえ、ただのコピーを残してどうする」
 ロアの知識は四季も有しているが、果たして魂の他者への加工などが可能か判断できなかった。知識と思考方法は別であり、継承された術を用いる事が可能としても、それを基礎に新たな理論を構築するのは、知識を操る頭脳がなければならない。四季は結局は門外漢であるのだ。蛇が実行しようとする内容も意図する彼の精神も、四季には狂っているとしか思えない。
「自己を殺ぎ落とすのが私の目的でもあるのだよ。自らに執着するお前では判らないだろうが」
 話の途中でロアは不意に「ああ」と得心した。軽い驚きに眼を見晴らせながら、可笑しそうに腹を抱える。
「そうか、だから貴様は邪魔をしようというか! 復讐のつもりかね? 遠野シキを乗っ取ったと勘違いしているか? 現状では個々に再現されているから別人だと認識する訳か」
「はん、あのガキ逃がしておいて正解だったぜ。嫌がらせには丁度良い――意味ねえか、アカシャの蛇は今ここで、遠野四季に八つ裂きにされるんだからな」
 四季は腕を解くと、両手を強張らせて爪の形を変化させる。骨肉を切裂く鋭さを生み出して、仇敵に歯を剥いた。ロアはナイフを徐に持ち上げて、切先を己が転生体へ向ける。
「エレイシアといいお前といい、私の子は存外反抗が好きらしいな」
「一つだけ感謝してやる、吸血鬼」
 膝を曲げてバネを溜める四季は、肉食獣の本性を丸出しにして、
「自分の肉を食うのは初めてだ――!」
 踊り場よりロアへと跳んだ。両腕を振り上げて、小細工なしに襲いかかる。
「吸血鬼にもなりきれてない人食いが」
 対する蛇は唇を開き、古い言葉を唱えつつナイフを突き出そうとする。魔眼が捉える生命の路を断つ為に。雷で死体を焼き払う為に。
 と、ロアの視界を覆う鉄があった。
「ほう?――」
 鉄の棒から直接刃が飛び出た、無骨で単純な短刀。逆手に持たれた凶器がZの機動を描いた。途端、ロアの視界が一瞬断絶する。詠唱も断ち斬られる。アーミーナイフの先が目的地を見失った。
 空中で四季が怒鳴った。
「手ェ出すんじゃねえ、殺人鬼!」
「勘違いするな、貴様の為ではないっ」
 ロアを背後から襲撃し、たった一瞬だとしても眼と声を奪ったのは七夜志貴だった。身動きが止った吸血鬼の後頭部を蹴り飛ばし、自らは反動で跳び下がる。
 一方の四季は既に爪の間合いにロアを納め、
「ひゃは――ッ」
 頭蓋の内容物をぶちまけようと振り上げた。ロアの瞼が開いて、紅い虹彩が爛々と輝き始める。喉仏にも傷はない。しかし遅い。四季には詠唱もナイフも間に合わないと思われた。
 だが七夜は小さく舌打ちし、
「馬鹿が」
 自分は更にロアから遠ざかる。
 ロアがたった一言、カナンの地の言葉で『設置』とだけ呟いた。
 ドッペルゲンガー達の間に濁った黄金の華が咲き乱れた。四季はギ、と悲鳴にならないうめきを上げて、振り下ろしかけていた右腕が、ついで全身が痙攣して吹き飛ばされる。背中をしたたかに階段に打ち付けた。
「キ、貴様っ」
 恐らくは七夜を嬲った球電体だった。何故一言で魔術が発動したのか――自然と浮かぶ疑問などかなぐり捨てて、四季はすぐさま立ち上がった。無事である左手を槍の様にしてロアの胴体へと突き出す。
 吸血鬼は、今度は一切反応を見せなかった。
「ひ――ッ」
 またしても何もない空間で、球電体が突如現れて四季の前に立ち塞がった。左手は弾けた雷によって孔だらけにされ、黒焦げにされる。
「何だ、何しやがった!?」
 軽いパニックを起こして、両腕を潰された四季は後退する。だからまったくの無防備だった。
「転生体がこうまで不様だと情けない」
 相手を軽蔑しながらロアは先程と同じ姿勢で立っている。つまらん、と言い捨てて、
「『親』が二人いては、支配力が薄まる。消えろ、四季」
 短く詠唱し、自らの手前に球電体を十近く作り出す。その全てを四季の体に叩きつけた。室内で落雷が起こり、四季は無言のまま崩れ落ちる。
 止めと言わんばかりに更に詠唱し始めるロアは、しかしがくんと姿勢を崩した。目を落とせば、刹那だけではあるが膝が切断されていた。ロアは苦笑しながら振りかえる。
「無為に励むな、志貴」
 言った先から蛇の顔面を縦にナイフの刃が走る。再度眼球を潰そうとする七つ夜をアーミーナイフが受け止めた。
「復元呪詛で時間を巻き戻すとはいえ、切り刻まれるのも良い気分はしないのでね」
 人外の腕力を存分に振るい、七夜の体を吹き飛ばそうとする。七夜は、ロアに紙を殴った程度の手応えだけを残して、影のように後退する。
 ただ退くのではない。まず横に跳び頭を下げて、半歩体を後にずらすと今度は天井に張りついて、窓側の壁へと跳躍してから、床に立つという迂遠さをみせた。敵が何もしていないにも関わらず、だ。
 ロアは感心した風に顎を反らした。
「そうか、『死』は見えずとも『あり得ざるモノ』は視認できるか。にしても器用なものだ。獣や蟲よりも余程節操がない動きだな。流石、臆病な暗殺者の係累ではある――逃亡の為に必死で駆ける、な」
「真実『見えぬ』暗器たる魔術か。保証してやる吸血鬼、貴様も充分暗殺者足りうる。なかなかにみみっちいものだ」
 膝を限界まで曲げつつ、七夜はロアを見据えていた。彼の視界にだけは、奇妙な物体が空気中に満ちている。シャボン玉だった。汚れた黄金で縁取られた半透明の球体がロアの周りを浮遊している。四季はこれに当って消し炭にされたのだ。
 半透明の球体は、ロアが廃墟に現れてからずっと引き連れていたものだった。四季とまみえる前より、ロアは既に魔術による布陣を完成させていたのだ。物影より吸血鬼を覗っていた七夜は、だからこそ正体不明の泡が発動する前に、せめて一撃食らわせておいたのだ。
 殺意を篭めた浄眼に射抜かれながらもロアは気にした風はなく、七夜の台詞もただの強がりと解釈した。
「ただの蚊帳代わりだ。羽虫に纏わり付かれるのもいい加減不快でね。球電体とは目に見えるものとは限らないのだよ」
 泡達がロアへと集まって、密度を濃くしていくのが解った。七夜は侵入経路を探して、泡の動きと数を追って、忙しなく眼球を動かしている。
「そう閉じこもっては、短刀も魔眼も無用の長物だな。まあ下手が有していても無意味なモノではあるが――!」
 安物のスニーカーが埃だらけの床を蹴った。虚をついて静から動へ移行する体術は、一瞬殺人鬼の姿をロアの認識外へ消し去る。しかし数メートルも離れていない場所で七夜は姿を顕わにし、ボールとなって床と天井と壁を跳び回り始めた。泡をかわして、少しずつロアへと接近していく。
 人間としては驚異的な、三次元を限界まで生かす七夜を、蛇と呼ばれる死徒の王はひたすらに蔑視していた。憐れんですらいた。
「無駄だな。いつ来るか見て取れる貴様の攻撃など、ただの人間ですら防げる」
 正面からですら不意打ちを可能にするからこそ、七夜志貴は人間でありながら混血、或いは魔に対抗できる。それだけが七夜志貴の能力なのだ。唯一の武器を剥ぎ取られては、ロアに痛みを憶えさせる事すら不可能だ。
「蚊に関わっている余裕はない」
 次の瞬間に七夜が現れる場所へ、ロアがナイフを振おうとした瞬間だった。ロアの側面で泡の地雷原が突如連鎖的に爆発する。何事かと振り向いたロアの鼻先で、雷光に混ざって鋭質の紅が煌びやかに散っていた。
「手品のタネをべらべら喋ってるんじゃねえ!」
 四季だった。球電体に穴だらけにされ、炭化させられた鬼が仁王立ちして、血に濡れた腕をがむしゃらに振っていた。飛び散る血液は空気中で刃部のみの短刀となって、ロアに霰として降り注ぎ続けている。ロアが忌々しそうに眉間に皺を寄せた。
「しつこいな、拒死性か!」
 穴開きチーズとなった四季の五体は、彼の異能故に問題なく生きている。球電体による傷は炭化しており、出血を殆ど伴わないのも幸いした。今彼が撒き散らす血は、四季が自分の牙で噛み千切った掌からのものだった。
 四季が血で化粧した唇を大きく歪めた。
「どれだけ在るんだ、手品は。あぁ?」
 さしもの吸血鬼も、同じ存在である食人鬼の刃は無視できない。四季との間に泡が集約される。
 つまりそれは、殺人鬼の枷を外すを意味した。七夜の姿がゼロコンマの間だけ鮮明になり、そして霞と消える。
 もし七夜のナイフが再度ロアの動きを止めたなら、四季の血刀は球電体の地雷原を突破し得る。あるいはロアにさえ届く。四季ならばアカシャの蛇を殺し得る。
「――単純だな、まったく」
 だがロアはぼそりと零して、呆れ果てた。四季へとナイフの先端を向ける。ナイフの腹に異国の言葉が浮かび上がり、照明弾を打ち上げたような強烈な閃光がほどばしる。
 紫電が溢れ出てくる。飢えた大蛇がのたうって、空間に白い軌跡を刻んだ。
 ナイフに刻まれていた魔術が解放されたのだ。高圧電流の牙が四季へと打ち付けられる。落雷が叫ぶ轟音の最中、ロアは四季の状態を確認すらせずに、振り向きざまの一撃を既に決めていた場所へ打ち放つ。
 ざくりと肉が裂ける感触を得た。アーミーナイフが通過した場所から七夜が突然現われて、胸板より血を滴らせながらロアとすれ違う。
「く――誘われたか」
 七夜が痛みを噛み殺しながら、苦々しく呟いた。
 泡の数が少なくなり、自由を得たはずだった。ロアの延髄を切断する絶好の立ち位置へ踏み込んだつもりだった。だが、其処はロアによって意図的に空けられた場所だったらしい。我ながら不様だと七夜は歯軋りした。生命の線を斬られなかったのは幸運だった。馬鹿にしていた魔の下手さに助けられるとは。
 鼻をつく焦げ臭さが充満する。七夜は視界の端に四季の姿を確かめた。下半身を真っ赤な火傷で覆い、ひやぁひやぁとのた打ちまわっている。
「テメエ……どれだけ手品し込んでやがる」
「お前が無知なだけ、いや頭を使えてないだけだよ、四季。魔術師や錬金術師の類が、扱う短剣に細工をしていない訳がないだろう?」
 平然と、そして底意地悪くロアが肩を竦めた。素早く口を動かし、地雷の泡を無数に生み出していく。
「さあ、いい加減にしてくれよ二人とも。夜は短い。お前達と遊ぶのももう飽き飽きだ」




/7



 それから数刻の間、戦いは一方的な様相を呈した。
 一つ一つの球電体の動きは遅い。しかし密になり、雪崩れとなってきてはロアに近づくどころか逃げるのすら危ぶまれる。現に七夜は屈辱にも、後退しか行なっていない。『視覚する』のみの異能では、回避し続けるのが限界だった。
 それも、まだ避けられる空間を結果作っているのが、四季であるからまた腹立たしい。四季は間断なく血刀を投げつけては、辛うじて全身が焼き扱がされるのを防いでいた。
 宙で破裂する紫電の発光量に、もはやロアの姿は覗えない。まともに見ていると焼付けで、目が役に立たなくなる。
「おいコラ、シキ! テメエ逃げるだけなんだったらよぉ、とっとと消えろ!」
 四季は右手を真っ赤に染め上げながら愚痴った。罵倒された七夜は眦を研ぎ澄ました刃物のようにして、
「貴様こそ自殺する気なら、そこらのビルから飛び降りればいい。その錆臭い血も邪魔なんだよ」
 眼前に迫り来た雷の珠から身を逸らして叫んだ。
 腹立たしい。光熱の壁と化した四季とロアの間が、どうしても超えられない。
 このままでは嬲り殺しだ。
 七夜はちらりと四季を覗った。形相にはやはり焦りが浮かんでいる。
 舌打ちは七夜の物だった――しかたあるまい、か。
「食人鬼!」
「あぁ、なんだぁ? オレは忙しい、消えるなら勝手に――」
「馬鹿を言うな」と七夜は吐き捨て、上着を脱いだ。襟元を左手で握り締める。頬にはただの飛沫となって巻き散らされた四季の血が、べっとりとついていた。右手で拭う。
「テメ、人の事馬鹿扱い出来る頭かよ!」
「いいか、俺の背中に当てるなよ――」
 言うが早いか、七夜は限界まで姿勢を低くし、一直線に電撃と血が舞い散る壁へ突貫する。
「ハッ――」
 四季は目を丸くしながら鼻で笑い、
「やっぱり馬鹿はテメエだ!」
 両手から可能な限りの血刀を投げ飛ばす。一瞬だけ、紅い刃の群れは、球電体の群集を押し戻し、
「ほぉ?」
 ロアの姿を露わにする。その間隙へ、暗殺者の血統が駆け抜ける。
 しかしそれも一瞬だった。すぐさま球電体は姿を増やし、七夜の周囲を包囲し、破裂した。
「小細工を。よくもまあ、足掻く」
 ロアがナイフを構える。意味するところは、一つだった。七夜の姿が目前に、五体満足で現れたのだ。
 殺到して来た球電体に学生服を叩きつけ、衝撃で他の珠も連鎖して破裂させる。過分に無茶な策だった。直撃は避けられても、放電現象を浴びて筋肉は麻痺してしまう。
 だん、と不恰好に七夜は踏み込んだ。頭も上がらない。辛うじて肘が曲った程度だ。ただ斬首を待つのか、無防備な後首を見せつけている。
「覚悟したということか? 手を煩わせる」
 ロアがナイフを無造作に振り下ろそうとした時だった。七夜は、密かに苦笑していた。
「全くだ。まさか俺が」
 ひゃっと四季の笑い声が聞こえた。どうも癪だったので、舌打ちをもう一回する。
「混血の手をここまで借りるとはな!」
 辛うじて上げた、ナイフを持った右の拳。四季の血がべとりとついた手から――真っ赤な短剣ほどの長さで、刃が伸びた。七夜が運んだ血刀は、ロアの脇腹の下へ突き刺さり、一路心臓へと向かう。
「カ――ヒッ、この、」
 ちっと三度目の舌打ちが漏れた。ぬかった、届かないか。
「人間が――!」
 ぶおんと軌道上の大氣を跳ね除けて、ロアの腕が今度こそ振り下ろされた。しかし下手。七夜はタイミングを合わせて左手を上げる。袖を掴んだ。そして、
「シッ」
 極短い呼気と共に、ロアの身体を自身を中心に投げ飛ばす。同時に自分も回転。床に叩きつけたところで相手の身体に乗る形となる。今度こそ、と右手より生えた血刀を振り下ろそうと。
「――なんだと!?」
 七夜は必死で飛び退いた。ロアの行為が問題なのではなかった。押し倒した床には、つうっと血が流れてきていたのだ。
 があ。ロアが目を向いた。その腹部から胸、頭部までにかけて、剣山のように血の刀が生えたのだ。串刺された身体が痙攣する。
 七夜が覚束無い足取りで着地した。
「貴様、どさくさに紛れて獲物を横取りする気か!」
「知るか、そいつはオレが殺るんだよ」
 四季が駆けつけてくる。球電体は増殖を止めていた。脳へのダメージが、停止させたのか。隙と見て四季は自ら長刀サイズの血刀を握り占め、
「ひゃは――っ 脳味噌ぶちまけてみろ、吸血鬼!」
 嬉々として振り下ろした。切先が額を割って深くめり込む。相手は吸血鬼、致命傷になり得なくとも深手の筈。
「……あん?」
 だというのに、ロアはにたりと笑って見せた。怪訝げな四季を傍目に、はっと七夜が周囲を見渡す。
「見誤った――罠か!」
 七夜は喉で唸るようにして、
「あらかじめ、囲んでいたかっ」
「やはりお前達は、愚か極まりないな」
 ロアの一言がスイッチだった。球電体が、床から天井から壁からを刷り抜けて、ロア達を中心に押し囲んでいく。其れはもう電撃の檻だった。廃ビルの一フロア全てが白光に包まれ、続いて落雷の轟音が建物全体を震えさせた。
 電雷が止んだ後、埃塗れだった廊下は煤塗れに様変わりしていた。所々に突き刺さった血刀までも炭化して、ぼろぼろと崩れていく。
 立ちあがった影は一つだけだった。
「余計な消耗を強いてくれるものだ。姫君に捕捉される前には、事を終わらせねばならないというのにな」
 ロアは既に癒えつつある、四季の罠による傷を撫でながら、足元に転がる四季を見下ろした。着物どころか肌まで黒く、一見生きているとは思えない。
「未熟ながら、死を厭う性質は、我ながらたいしたものだ」
 生命の線はまだ健在。遠野四季は未だに生存している。ふと気付いて、ロアは首を巡らせた。もう一体、今度は恐らく死体となっている者がいるはずなのだが。
「窓から飛び降りでもしたか。それでも人間の身体ではただで済むまい。ふむ――」
 顎を一撫でしつつ、思いついた事がある。そう、この未熟な自分の分身の使い方だ。
「囮には使えるか」
 四季もまた蛇である。故に、真祖の姫に自らの復活を勘付かれた際、デコイになり得る。
 ロアはしゃがみ込み、四季の首へと手を伸ばしていった。
「遊んでやった代償だ、せいぜい役に立ってもらうぞ」
 その爪が四季の肉に食い込む寸前だった。こつり、と天井が崩れてその破片がロアの肩を打った。
「……ん?」
 気にも止めないのが常だった。しかしその時ばかりは、息吹のようなものを感じたのだ。ロアは天井を見上げる。まさにその時。
「う――わああぁぁあぁあぁあ―――!」
 悲鳴のような雄叫びと共に、天井が瞬時に罅割れ、崩落し、
「こ、このぉおお!」
 瓦礫と共に不恰好どころか無理矢理な体勢で拳を、絶対の親たるロアの額へと繰り出してきた。
 愛らしいとさえ言える姿の少女が、兎の目をしながら、必死の奇襲を成し遂げた瞬間だった。




/8



 ――無謀だってわかってるけど、でも。
 さつきはロアの額を捕らえ、勢いはそのままに床に叩きつけながら、思う。
 ――逃げたって、駄目なんだ。
「わああぁぁあーー!」
 吸血鬼に馬乗りになって、半吸血鬼は自分を鼓舞する。がちがち歯は鳴りっぱなし、拳は幾ら握っても震えがとまらない。眼は紅くて必死に涙を堪えている。声も、どちらかというと泣き声に近い。
 それでも勇気を振り絞る。逃げたって、四季さんがやられちゃったら、わたしはすぐさまこの吸血鬼に捕まるだろう。
 だから、今。シオンを待っている時間はない。
「やあぁああぁっ!」
 がむしゃらに拳を振り下ろし続ける。何処を殴っているのか解らないけど、殴る。本当はこんなコトしたくない。けれど、けれど。
 両手を組んで、背中を弓なりに反った。
 やっつけなくちゃ、わたしはわたしでいられなくなる。
 話は聞こえていた。逃げろと言われてもどうしていいか解らず、しゃがみ込んでいた際、耳にしてしまった。
 わたしが、これ以上わたしとして存在できなくなる。とてつもなく怖い事だった。今度こそわたしが消える。想像するだけで泣いてしまった。
 だから。
 渾身の一撃を以って、わたしを否定する存在を拒絶する――!
 金剛石のハンマーと化した自分の両手を、ロアの首――人体でも柔らかく華奢な部位に落下させる。御願い、終わって。
「全く」
「……え」
 しかし手応えは、想像と全く違っていた。
「私の子は、どこまでも反抗の性質を有しているらしい」
 さつきの決死の攻撃は、しかしロアの片手にしっかりと受け止められていた。ひっと意気を呑んで、さつきは身を引いた。だが、
「いたっ」
 ロアの爪が食い込んで、両手から離れない。
「魂を加工する前に、しつける必要がありそうだな」
「なんで、そんなっ」
 そのまま、さつきの身体が浮いた。不意に強烈な加速度がかかり、頭頂部から壁に叩きつけられる。
「うあ……っ」
「なに、安心するがいい」
 揺れる世界の中、さつきは立ちあがったロアに首を掴み挙げられた。呼吸が苦しい、と思う前にまた壁に叩きつけられる。ぐちゃりと後頭部で嫌な音がした。必死に掴んでくる腕を握り締め、引き剥がそうとするも、びくともしない。万力じみた力がますばかり。ぼこんと喉仏辺りが落ち込んだ。
「仮にも死徒。物理的な衝撃では」
 首筋に自分の血の温さを感じた。再度叩きつけられる。視界が真っ赤になった。
「死にはしない。尤も痛みはあるだろうが、希少な悦びだと思えばいい」
 叩きつけられる。壁に押しつけられ、摩り下ろすように擦りつけられた。カツカツと吸血鬼が歩く度に、頭蓋骨の質量が減っていく。背中が壁より離れると、次には床へ鼻から落とされる。
「やっ……あー―」
「何せ、自身が感じられる最後の感覚となる――」
 全身が痛い。暇なく痛み続ける。何処が無事なのかなんて、わからない。拷問じみた攻撃は終わらない。
 さつきはもう、ロアが囁く声も理解できなかった。痛い、嫌だ、止めて。脳裏の全ては埋め尽されている。
 どうしてわたしがこんな目にあうんだろう。家に帰れない身体になって、どうしていいか解らないまま町をさ迷い歩いて、我慢できない程喉が焼けていた。渇きだと気付くまで数時間がかかった。本当は本能的に理解していた。けれど、吸いたくなかった。
 痛い。
 嫌なのだ。シオンと会うまで独りぼっちだった。似たような境遇と身体。色々教えてもらったし、こんなところだけど住む場所だって出来た。友達が出来たのだから当然、呼ぶ部屋がないといけない。喉の熱さを少し忘れられる。
 寒い。
 それでも寂しい。だって吸血鬼になる前の大事な人には会えないからだ。直ぐ傍にいるのに、姿を見せる事だってできない。家族は、級友はどうしているのだろう。もうわたしなんて忘れてしまっただろうか。考えるたび、喉が灼ける。
 ごんごんごんと外から音が響いてくる。そのたびに痛いし、熱い。けれどそんなモノ、飲み込んでしまう程どうしようもなく寒い。なのに喉だけはいつも焦げ付いている。
 だから欲しい。何も解らずなくしてしまった――否、奪われてしまった太陽の下が。痛いから、寒いから、寂しいから欲しい。どうしてわたしは、こんなに。
 外の世界から、途切れ途切れに問いかけられた。
「何……程から、……いて……」
 さつきは気付かない。五体全ての痛みが喉に集約されていく感覚に、ただ喘いでいる。
 そうか、と突発的に自覚する。自分を現す言葉を。
 わたしは今も、今までも、あの暗闇の中で目覚めた時からずっと。

 渇いているのだ。

「なんだ――ヒィ!?」 
 切られたような鋭い痛みに、ロアは咄嗟に腕を引いた。傷はない。だが、確かに異常は在った。乾涸びて、風化さえしつつある。
 解放されたさつきは力なく床に座り込んだ。ロアにはだが、構う余裕がない。
「これは、まさか」
 突風が巻き起こっていた。風は竜巻となってさつきとロアを取り囲んでいた。屋内だというのに、竜巻は勢いを増すばかりであらゆる物を巻きあげていく。次第に土埃を吸い上げて、向こう側が見えなくなる。
 土など、廃ビルの中にはなかった。つまり、ここにはあり得ぬ場所より吐き出された土。
 ゆっくりと異変に首を巡らせながら、ロアは渇いた笑いを上げた。
「は、ははは。まさか、ここまで異常だと?」
 竜巻は一度大きくうねり、立ち尽すロアを叩いていった。流石にタタラを踏む。
 視線を戻すと、彼等が立つ場所は一変していた。
 晴れる事ない垂れ込めた暗雲。草木の跡、雨の痕もなく砂漠一歩手前の、罅割れた大地。他にあるのは身を切るほどに渇いた風だけであり、吹きすさぶ風は全天の包囲から、ただ一点弓塚さつきへと流れ込み続けている。
 大気は流れているのではなく、一人の少女に吸い込まれているのだ。
 がっくりと首を項垂れたまま、動かないさつきにロアは、感嘆とも畏怖とも取れる呟きを投げかけた。
「律した詠唱もなく、魔術も知らず、神秘を身に刻みもせずに異界を顕すか。なるほど大した才能だな、方向性は異なるが、エレイシアに匹敵する素材というわけか!」
「……う」
 漸くさつきは反応を返した。ぶるぶると震える両手で喉を掻き毟りはじめる。
「う、あ――ああああ、あ、あ」
 まるで自分を縊り殺すよう、両手で細い首を掴んだ。
 そして絶叫する。聞く者が身を凍らせる悲哀を滲ませて、世界に号令をかける。風が勢いを増す。大地が風化し始める。厚い雲が落ちてくる。世界の全てが一点へと吸収され始める。
 ロアも例外ではない。若々しかった容貌は一刻一刻歳をとっていくかの如くだった。細胞は乾き、萎縮して崩壊していく。全身のサイズが一回り二周りと削られていく。ロアという存在から、生命というエネルギーが抜け落ち、吸われる。
 放っておけば魂さえも、この世界は吸い尽す。
 だというのにロアは泰然としていた。特異点と化したさつきを凝視して暫らくの後、渇ききって崩壊しつつある唇の片端を吊り上げる。
「く、くくく。躾だけではなく、教育も必要か? 世界を世界で塗りつぶすなど無意味だと。そのような無駄、必要がないと」
 どんどん木乃伊に近づきつつ、ロアは呟き続ける。遥か遠い異国の言葉、数字でもある言語を短縮して、己を作り変えていく。
「そしてもう一つだ。どれほど世界を作り変え、あらゆる魔力を吸収したとしても――自らの許容量は変えられないのだよ、我が子よ」
 ロアは、頬の肉と皮が完全に砂塵へと変わる寸前、密やかにある異界、或いは現象の名を呼んだ。

固有結界、過負荷(オーバーロード)