/9


 傷は癒え、痛みは消えても、渇きが満たされはしない。
 枯れ果てた世界に鞭打って、雷の珠を飲み込んで、親たる吸血鬼からすら生命力を吸っても尚喉は焼けついている。
 まだ、まだ。足りなさ過ぎる。
 さつきは己が心象風景によって構成された固有結界――近い将来に『枯渇庭園』と称される常世を以って、必死に餓えを満たそうともがいた。悲鳴の変わりに大氣があらゆる力の源を運んでくる。傷は癒え、痛みは消えてもまだ吸い尽す。身の回り全てが風化して、砂塵と変わるまで。
 だが、突如流れ込んで来た洪水によって、あっけなく世界は覆い尽された。
「あ」
 ぽん、とあっけない音が、頭の奥でした。間抜けな破裂音はだが深刻に、全身に連鎖していった。
 最後に身体が膨れ上がった気がした。
「あ、れ?」
 血の華がパッと咲いた。さつきの身体、その孔という孔から鮮血が吹き上がった。ぐらりと視界が揺らいで波打つ。
 特異点であったさつきが外へ生命の証である血を溢れさせた事で、世界は終焉を迎えた。地平線まで広がっていた暗雲と荒涼とした大地は、瞬時に壁紙に描かれた絵に摩り替わる。その壁も薄いガラスで作られたように細かく罅割れて――がらりと崩壊した。周りの光景は再び、黒焦げた廃ビルの廊下に舞い戻る。
「さて、解説が必要かな?」
 さつきが血塗れの顔に、震えながら両の掌を触れさせた時、ロアが言った。さつきは呆然と見上げる。
「この星に世界には二つ存在するのだよ。ガイアとアラヤ、外と内、無限に広がる宇宙の一部と、生命により完結する人体。お前の固有結界は、外側にある世界をウチなる精神世界で塗りつぶした物だ」
 ロアの手が優しげにさつきの頭を握った。そのまま押し倒す。さつきは抵抗しない、いや出来なかった。全身の筋肉という筋肉、及び血管が千切れて用を成さない。
 成すがまま、さつきは床に横たわった。
「だが世界は異変を許さず、調和を重んずる。故に発生した異世界を押し潰すのだ。固有結界はだからこそ、短時間でしか顕現できない。しかし――」
 大形のアーミーナイフがさつきの襟元に寄せられて、リボンを縦に切り落した。刃はゆっくりと滑り、シャツを裁断していく。
「塗りつぶす世界はもう一つあるだろう? そうだ、人体だ。己を己に作りかえるならば、世界の修正を免れる。私の同士が考案した方策だが、よくできているだろう? 尤も、お前のような、物理法則すら曲げる現象を生み出す世界では、自身を破壊してしまいかねないがね」
 下着を切断したところで、ナイフは静止した。
「私の固有結界はそうしたものだ。異界その物ではなく、異界の常識だけを抽出し、自身の身体の中に展開する。生命力より転換される魔力を、等価交換を超えて増倍する。単純なものだ。だが魔術師にとってこれ以上のメリットはそうないのだよ。そして、だ。魔力を扱える量、自身に蓄えられる量とは生を受けた時より定まっている」
 さつきはぼんやりとした反応しか見せなかった。頭の中に霧がかかっているよう。肌を露出されて、何をされるのか考えもつかない。
 ナイフの切先が白い肌を傷付けて、丁寧に線を描きはじめた。線は文字であり、数字。
「私が放出した魔力は、お前と言う特異点を超えた物だったのだよ――まったく興味深い魂だが、弄んでいる余裕はない。速やかに削り落させてもらおうか」
「――……あ、嫌! あうっ」
 初めて言葉を理解して、さつきははっと身体を起そうとした。けれど頭を押さえつけるロアの手が直ぐ押し戻してしまう。
「往生際が悪いな、我が子よ。折角の切り札も無為に終わったのだ。抵抗のしようもなかろう。つくづく思うな、不出来な子を持つと苦労する……?」
 ぺちゃぺちゃと、背後からする水音にロアは不快げに振り向いた。さつきも反射的に視線をやる。
「……ああ、そうでもねぇかもなぁ」
 ぺちゃぺちゃと、紅い舌が紅い液体を舐め取っていた。さつきが巻き散らした血を、食人鬼が、無心に舐めとっている。
「生き汚さも極まるな、四季よ。もう動くか……いささか呆れるな」
 ロアは頭を振りつつ、ゆっくり立ちあがった。ナイフを逆手に握り締める。四季は、たった一歩手前ではいつくばっていた。
 四季も緩慢な動作で起き上がる。けれどロアを無視するように、
「おい、女」
「……えっ。は、はい」
「誉めてやらん事もねぇぞ?」
「え、え――え?」
 さつきは豆鉄砲を受けたみたいに、目を白黒させた。あれ、なんで誉められてるのかな、わたし。絶体絶命なのに、わたし達。
 ロアは鼻で笑っている。
「戯けた事を。貴様のその姿で、何が」
「――まあ、吝かではないな。化生を賛ずるのは居心地が悪いが」
 ぴたり、ロアの口が固まった。頭上から声がする。
 天井に、ヒトガタの蜘蛛が巣を張っている。その位置、その距離。全てが敵の死角であり、嘗て死神と同義であった暗殺者の家系にとって、絶対の間合い。
「ようやっと邪魔なー――」
 七夜が嘲る。
「手品がなくなったんだからなぁ!」
 遠野が吼えた。
「チィー――ッ」
 ロアはまず振り向こうとした。それを許す殺人鬼ではない。
「ギッ、アァ!?」と濁った悲鳴が響き渡った。ロアが上体を捻るより先に、七夜が握り締める刃が首裏のくぼみに突き刺さった。刀身は紅い。先程拳より延ばした四季の血刀だった。刃しかないそれを直に握り締めて、掌を染め上げながら真っ直ぐ下へと切断する。延髄を両断し、背骨にそって腰まで拓く。
 仰け反るロアに、すかさず四季が襲いかかった。手の甲を合わせた、奇妙な抜き手で胸の中心を抉る。そのまま傷口を掴み、
「しゃはぁっ!」
 肋骨を、押し開けた。血が噴水のように上がる。
「ク――」
「ひゃはぁあァアア!」
 七夜が禍禍しく唇の肩端を吊り上げて、四季は人ならぬ壮絶な笑みを浮かべる。
 そして解体ショーが始まった。
 ナイフ代わりの血刀が肩甲骨を抉り取る。露わになった頚骨を切断する。脇腹を切裂いて腸をはみ出させる。それを鬼の手が掴み、引きずり出す。肺の臓を千切り取り、心臓を握りつぶした。内蔵という内蔵を掻き出す。支えきれなくなった首が落ちる。床に着くまでに真っ二つに切られる。西瓜になった頭蓋は鬼が踏み潰した。
 これ以上は、さつきにはわからなかった。目を背けたわけではない。そんな余裕、なかった。全身が恐怖に硬直して、瞬きすら出来なかった。ただぶち撒けられる血の量が多過ぎて、見えなくなっただけ。
 べとりと固まった頬に赤い物が飛んで来た。なかなか垂れ落ちない。既に液体というよりペーストになっている。血と肉片がミックスされた。
「い……いや、だ」
 震えながら、頬に触れた。拭う勇気はなかった。
「もう、もう――」
 さつきは頭を抱え、蹲った。刃が爪が、延々と肉を引き裂く音から逃れようと、腕で耳を塞ぐ。少しでも遠ざかりたくて、へたり込んだまま後ろに下がる。
 違うんだ。解ってたのに、違うんだ。
 さっき、ほんの少しだけ二人を、いい人――とは言えなくも、何処か優しさをまだ持っている人達だと思った。思ったよりもましな人なんじゃないかって。都合が良過ぎたんだ、そんなの。
 違う、二人とも人らしいモノなんて、持っている筈がない。
 塞いでも聞こえてくる。悲鳴なんてとうに消えている。哄笑と楽しげな呼吸が、柔らかくて堅い何かを裂き続けている。
 殺人鬼さんも、四季さんも変わりない。
 やっぱり二人は、鬼そのもの、なんだ。
「もう嫌、嫌だよシオン――遠野君! 嫌だぁ!」
 悲鳴は解体の音に掻き消される。
 真実鬼である殺人鬼と食人鬼は、吸血鬼を存分に殺し尽くした。




/10



 どれほども経ってない後、自身の血か敵のものかわからない赤で手を染め上げた七夜は、ぴたりと腕を止めた。四季も手を引いて、爪にこびり付いた肉片を上手そうに舐め上げる。
 周辺は、血みどろだった。散らかっているものはミンチに他ならない。中心に立つロアだった物は、腰から上がない状態で立ち尽していた。
「いやぁ、もう止めてよぉ……」
 さつきは壁際で蹲ったまま、震え切っていた。七夜と四季は当然のようにさつきを無視し、ロアの腰と足を注視している。
 さつきはおそるおそろ顔を上げ、「お、終わった……の?」とか細く呟いた。
 耳ざといのは四季である。
「あ? お前、ホンット馬鹿か?」
「ひっ」
 四季はロアの一部から目を離さず、罵倒した。七夜は苛立たしそうに唇を噛んでいる。
「だ、だってぇ……もう、身体、なんて」
 残ってない。死んだ、殺した以外何があるのか。
 けれど二人の鬼は全く警戒を緩めなかった。
 七夜は血刀を一振りして、
「いい加減に死んだ振りはよせ、魔。興ざめだ、殺したての死体が立ったままでいるか」
「……え」
 唾棄されて居直ったのか、ロアの下半身は上体が無いままに歩きはじめた。
 さつきは息を飲んだ。自分の身体を抱いて、もう下がれないのに必死に腰をずらして後退しようとする。だって、ありえない。
 少しづつ、しかし加速しながら、腰から上が生えてくるのだ。まず下腹部が現れ、鳩尾より上、胸部が再生する。肩が出来ると腕が伸び、数歩歩いた段階でもう首が出来つつあった。頭が無いままに、ロアは血塗れの床に手を伸ばして、何かを拾い上げる。
 儀礼の呪を刻んだ、アーミーナイフだった。
「はん、むざむざ待ってるか、ボケが!」
 四季がロアの顎が見え始めたところで、爪を振り下ろした。再度解体しようと言う腹積りなのか。
 七夜はというと、つまらなさそうにロアではなく寧ろ四季を一瞥し、ぼやいた。
「阿呆が。これだから混血は理解出来ていないという。殺し甲斐のない相手をバラして、どうすると……!?」
 七夜の表情が、吐露の途中で一転した。急に翻って身体を傾け、回転しながら宙を一閃する。
 ギャン、と獣が鳴いた。シャツの肩が裂ける。爪は七夜の肩にかすり傷を、血の短刀は獣の首筋を切裂いた。
 それは一匹ではなかった。もう一頭、角を持つものが七夜の傍を通りぬけ、
「ガッ――んだぁ! 邪魔するんじゃねえよっ」
 爪を振り下ろしかけていた四季を横へと弾き飛ばす。礼だとばかりに四季の爪が旋回し、獣の後首を抉った。その隙に首無しであるロアが一歩飛び退く。
 四季達に手厳しい洗礼を受けた二頭は、怯んでいない。踵を返して、七夜や四季、そしてさつきを威嚇する。受けた傷は普通ならば致命傷。だが問題なく動こうとする。故に、これら”黒い”獣どもは異常に属する。
 ロアの背後である廊下の奥より、絶望的な数の息遣いと、絶望そのものの気配が近づいてくるのが、さつきにもわかった。震えが増す。止めようとも思えない。
「おいおい、マジか。ちょっと具合が悪いんじゃねえか?」
「……これは、これは。今宵は怪夜だけあるな。大漁極まりないものだ」
 四季は焦燥を隠さなかった。比べて七夜はまだ不敵であったが、こめかみ辺りに滲む冷や汗は隠せていない。
 蟠った闇より、低く尊大な声音が届いた。
「懐かしい魔術の発動を辿ってみれば――衰えたか。不覚を取ったな」
「お前――いや……そう貴方か」
 生えたばかりのロアが頭痛を堪える素振りをして、言い直した。そして肩を竦める。
「不覚とは酷い。常世たる今宵では、我らを完全に再現するのは不可能でしょう。責は私には無い」
「ふむ。確かに不都合が多いが、死者の再現とは常に不細工なものよ。久しいな、志同じくする者、アカシャの蛇。まさか再会が叶うとはな」
「貴方もまだ記憶を保てていたとは僥倖だ。個人的なパーティですが、歓迎しますよ――混沌」
 三人にとっては、最悪の再会が成し遂げられていた。




/11



 あれは一体、誰。
「して蛇よ。貴様ならこの千載一遇の機会、どう生かす」
 混沌。666によって顕される、無数である獣の要素による集合体。人が持ち得る幻想では殺せぬ神秘の体現者。死祖二十七祖が十位――ネロ・カオス。だがさつきは知らない。
「勿論、我が命題を追求しましょう。私の魂は霧散消滅し、根源へと落ちていったが、まだ手はあります。私という霊的汚染を利用し、そこな『子』を『ミハイル・ロア・バルダムヨォン』の複製へと加工するのです」
 わたしにとって絶対に近い化物に、対等に会話する化物は、何。
「自身への執着を捨てたのが、貴様の追及において最大の異端にして賞賛するべきものだった。なるほど、理解した。では貴様の叡智を借りたい。我が命題を継続させる術、一計案じてもらおうか」
 命題。同志。賞賛。まるでロアと知り合いで、認め合っているようなアレは、何。
「もう一人再生されている祖がいるでしょう。彼とある種同じ行動をとれば良い。未だ存続する己が自身に、再生された意思という方向性を植え付ければよいのです。混沌の一部は未だある。遠野志貴の一部としてね。姫君に一度受け入れられ、人体に擬態していますがその本質は混沌。私が処置すれば本来を取り戻すでしょう――故に、私は貴方の力を借りたいのですが。流石に時間を消費し過ぎた」
 在るだけで、あのロアとは違う、より大きな恐怖を押しつけてくるアレは一体誰なのー―。
「心得た」
 ネロ・カオスは首肯して、一歩前に出た。
「この身が貴様を感知した以上、死祖の処刑人たる真祖の姫が、我らを認識するに猶予はなかろう。その前に事を終わらせようというのだな」
 四季と七夜が期せずして同時に構える。ちらりとお互いを不服そうにねめつけたが、不平をいう場合ではない。
 今から開幕するのは、絶望的な戦いなのだ。感慨は様々であっても、状況は同じ。
 分が悪過ぎる。
 さつきにも悟れたからこそ、立ち上がる事すらできないでいる。
「無……理だよ。だって、あの人は」
 ネロが纏うコートがはためいた。内側のヒトガタをした混沌の表面が、途端に粟立つ。
 ――鬼ですらない。正真正銘の、怪物だ。
 ネロの身体が一瞬膨れ上がった。涌き出てくるのは、無数の獣である。強靭な狂犬、人を一飲みする猛虎。あり得ぬ程巨大な蟲。そして人が知らぬ系統樹に属する何か達。
 それらは一斉に襲いかかり始める。
 さつきは、身動ぎだに出来なかった。得体の知れない深い沼に腰まで浸かっている。
 だって無理だ。あの数。一頭だけでもきっと凄く残虐で、怖くて、強い。それが無数に雪崩れてくる。生み出す怪物はもっとおぞましいだろう。結果は変わらない。無数の牙で食まれるのだ。
 いやだ。でも、もう抗うのも嫌だ。怖いのも、痛いのも嫌だ。死ぬのはもっと嫌だけど、どうしたって同じならいっそ――。
 さつきは歯を鳴らしながら、廊下を埋め尽し疾走して来る獣の大群を眺めた。他に許される行為など無いとばかりに。なお前進する鬼二人の背中を捕らえた。
 獣の咆哮と爪がコンクリートを掻く音に紛れて、二人が言った。
「良いだろう、アンタとは一度試してみたかった。その暴食と俺の腕、どちらが上か、な――」
「本当にイカレてやがるな、テメエはよぉっ ああ畜生、邪魔するんじゃねえよ獣クセぇ!」
 さつきは信じられなかった。
「ど、どうし、て?」
 まだ戦おうとできるのか。
 鬼だからだろうか。生き残る為ではなく、一方は殺し合い自体を愉悦とし、一方は殺し食らうを喜悦とするからか。
 わからない、だけど。
 七夜志貴と遠野四季は、血風を再度吹かせ始めた。
 横殴りの雨として放られる血潮は、獣達に付着した途端爆発するように、棘の密集体となる。なお怯まず突撃してくる三頭を持つ狗は、人である蜘蛛に頚部を断絶させられる。霞となって姿を消し、天井に現れての奇襲だった。その七夜志貴に食らいつかんと顎を開いたのは豹。誇るべき脚力で踊りかかる。
 しかし七夜は天井に貼りついたまま後退。足を伸ばして壁を蹴り、豹の一撃をかわす。がら空きになった腹部は、四季から伸びる血の刀が裂いていた。
 個々の能力は鬼達が上。だが敵の数は減る事を知らない。現に、減らない。殺しても殺してもただ混沌に帰り、違う形状を持って現れる。
 四肢を切る、頭蓋を断つ、背中を割る。鬼の爪が止まるなど刹那も無く、短刀は休まるを知らない。それでも、全ては無意味だった。
「い――ひあ!」
 ごりっと鈍い音がして、四季の右足が妙な方向に曲った。巨大な何者かの腕がしたたかに打ちつけたのだ。体勢を崩したところに、獣どもはここぞとばかりに殺到する。歯を噛み締めて堪える四季を嘲うか、全身隈なく歯型を刻む。
「ギギっ」
 四季は悲鳴を押し殺して、
「調子に乗るんじゃねえ」
 冷淡に吐き捨てた。すると食らい付いていた獣の全ての頭部が弾け、赤い刀剣を水晶のクラスターの如く生やした。あるモノは息耐えて、生ある者は急いで離れる。
「――そらっ」
 後退する獣。だがそこは蜘蛛の巣でもあった。赤い軌跡が縦横無尽に走り、逃げようとした獣達は悉く解体される。だが、数は減らないのだ。倒れこみ、或いは混沌へと解けていく中から、歪な一角を持つ巨獣が現れ、七夜を突き上げた。
 殺人鬼は宙を舞う。声を漏らさないのは意地からだった。床に落ちるのを待っていられない獅子が爪を繰り出した。 
「世話やかすな!」
 四季が獅子を長刀サイズの血刀で両断する。その背中を灰色熊が押し潰した。
「がうぁ!?」
「く――っ、貴様もな!」
 未だ宙にある殺人鬼が蹴りを繰り出した。灰色熊の鼻先を叩きつけ、その勢いで回転する。天井に立つ形となって、熊の頭を串差しにした。
「は、アー―」
 荒い呼吸は誰のものか。見上げれば、獣はますます数を増加させている。
 さつきはまだ蹲ったまま、震えていた。
 まだ獣達は彼女の場所まで来ていない。それはさつきを生きたまま捕えなければならないから、ではなかった。単純に、鬼である少年二人による決死の抗戦の賜物だった。
 それもここまでだった。七夜を弾き飛ばした巨獣が、雄叫びを上げると他の獣を吹き飛ばしつつ特攻して来たのだ。四季が喚きながら血刀を投げる。深く突き刺さりはするものの、止められはしない。
「わ、わぁああぁ!」
 ビルそのものを壊しかねない。さつきは思わず両腕で頭を抱えた。すると、「はあ」と生臭い吐息が耳傍でした。
 咄嗟に顔を上げると、眼前に血に餓えた双眸をした狗が立っている。
「ぁ、や――だぁ!」
 顎はさつきの頭を丸々呑み込める。まさに噛みつこうとした。さつきは、ただ腕で顔を庇う。
「困りますね。アレは生きたままにしてもらわないと」
 苦笑混じりの一言がして、ぼんっと犬の頭が弾けた。放電を浴びながら溶ける狗の影より、より悪い相手が現れる。
「一度解き放たれたなら、手綱など用意できぬ。注意するのだな、魂さえ健在なら良かろうとも」
「貴方であったなら魂すら食い尽しますからね」
 ロアは飄々としながら、さつきを睥睨していた。
「やっ……!」
 反射的に逃げようとするさつき。動けたのは、自由を麻痺させる恐怖を、忌避すべき恐怖が上回ったからだ。
 ロアが異言語を呟くと、小さく稲妻が走った。規模が小さいのではなく、収斂された魔術である証拠。
「あうッ」
 直撃だった。さつきはびくんと痙攣し、壁に背を叩きつける。
「さて速やかに」
 ロアがナイフを掲げる。さつきを斬り付けるかと思いきや、急に方向を変えて首筋に立てられた。金属が噛合う音が響いた。
「いい加減、何度しつこいと言わせるのだ? 七夜志貴。私に構う余裕などなかろう」
 七夜は無言だった。代わりにとばかりに膝を、ロアの頬に打ち付ける。効き目などない、嫌がらせだった。
 ロアはそれを無視しようとする。七夜はもうロアではなく、襲いかかってきた獣の対処に追われていた。が、もう一人の横槍に渋面した。
「させっかよ、蛇が!」
 左半身に虎を噛み付かせたまま、四季がロアへと踊りかかった。ナイフと爪が交錯し、ロアの頬が千切れ飛んだ。ナイフは、四季ではなく虎を貫いている。
 四季が嘲った。
「何処狙ってんだ、女のケツばかり追っかけてるんじゃねえぞ」
「貴様――!」
 ロアの怒号が、球電を数珠繋ぎに呼んだ。獣、鬼へ判別なく発射され、手当たり次第に蒸発させる。
 肉が焦げ、血が巻き散らされた。異臭漂う空気を裂いて、また血刀のナイフが最も近い場所に肉を斬る。
 もう、ぐちゃぐちゃだ。さつきは茫然と思った。次の瞬間、泣きそうになる。畏れからだ。数センチ前で、鬼達と怪物達が殺し合う。絢爛な残虐劇。気持が悪い。吸血鬼な自分、けれどこんなの、もう耐えられない。
 逃げたい。
「もう、いやだよ……」
 震える膝がなんとか身を起した。さつきの顔すれすれに、獣の生首が飛んで壁に叩きつけられる。まだ動く目玉がさつきを睨みながら、落ちていく。
 限界だった。
「嫌――ぁ。うわあああぁぁ!」
 背中を向けた。脇目も振らず駆け出した。一秒もいられないよ、こんな地獄に。わたしには無理。鬼じゃないんだもの。血飛沫浴びて踊れない。
 四つん這いになりながら、さつきは遠ざかりたい一心で、空気に溺れる格好で逃げ出した。
 さつきの後姿を、ロアはつまらなさげに振り向いた。
「チ――だが、好都合か。手間は増えたが。ではこちらはお任せしますよ」
 踵を返して、自分の子を追いかけようとする。
「させるかって言ってんだろうが! 俺をシカトするんじゃねえ」
 四季は噛みついたが、実際ロアへ手を出す余裕はない。さしもの拒死性も翳りが見えてきていた。ぜいぜいと呼吸は荒く、肩が上下していた。身体の皮膚は七割がた炭化しているし、空いた孔の数は手の指では足らない。加えて血も使い過ぎている。吸血鬼ではないのだから、再生の速度も遅かった。
 ロアへと手を伸ばしかけた際、大蛇が四季の脇腹を打った。そのまま巻き付き、締め上げようとする。
 動きを止められたなら終わる。四季はぞっとする焦りに襲われながら、両の爪を立てて、大蛇を引き千切った。おかげで刹那だけ、上体ががら空きになる。狙い澄ましたかのように飛びかかる肉食獣の数々。
「シィッ」
 呼気すら鋭く、七夜は獣達が描くアーチを潜った。柔らかい胎を断つ。四季へのフォローなのか、ただやり易い獲物を狩っただけか判断はつかない。
 七夜の姿も、気がつけばボロ布に似ていた。白かったワイシャツは一面どす黒く変色している。自身の出血は少ないようだが、獣やロアと比較しての話だ。人間としては、危険な量に挿しかかっている。呼吸は整っているようで、不規則になりつつあった。血刀を握る指は、所々白いものが覗ける。
 無限を誇る獣達に、確実に削られていっていた。
「奴の子は去ったか。ならば遠慮は要らぬ――私が貴様等の終焉だ」
 獣の軍勢の背後で、巨躯の外道が更なるモノを生み出そうと両腕を広げた。
「遠慮なんてする性質かよ、化物が……」
「出し惜しみなどするとは、舐められたものだな全く」
 四季が口内に溜まった血を壁に唾棄した。七夜すら忌々しげに眉を顰めると、短刀を逆手に握り直した。
「我が深淵はこんなものではない。……人間、貴様はアヤツとは別物らしいな。ならば用もない。食う者と殺す者の決着、まず一つつけよう――!」
 ネロ・カオスが叫ぶ。次いでよりおぞましい形状の、蟲か獣か判別不可能な生物――言うなれば蜘蛛である蟹が這い出て来た。
 恐らくは幻想に住む生命。戦いにおける暗黒の濃度が、より濃くなっていく。
 四季と志貴は、それでもなお戦意を失わなかった。




/12




 さつきは階段から飛び降りようとして、ひっと息を呑んだ。階下には赤い光彩が爛々と、しかも幾つも輝いている。もう獣で充満しているのだ。
「包囲されているんだ……そんな」
 うろたえて一歩下がった。途端に背後から近づいてくる致命的な畏れが背筋を刺して、振り向く事もできなかった。吐気さえする。唾を呑み込んで逆に階段を駆け上がった。
 だったら屋上から隣のビルに飛び移れば。仮にも吸血鬼である。数メートル程度の跳躍など軽いものだ。
 屋上は二階上だった。大丈夫、すぐだ。ビルから離れてシオン達を探すんだ。そしたら助かるかもしれない。助けられるかもしれない……?
 奇妙だと思った。蹄の音が追ってくる。だが直ぐ寒気が腰の辺りから駆け上って来た。おかしくなんてない。獣達がやって来たんだ。
 喚きたくなったのを、すんでのところで留めて、懸命に走った。走っているのに、馬蹄はどんどん近づいてくる。
 もう真後ろにいる。
「開いてっ……やぁ!」
 鍵が掛かっているドアに体当たりして、さつきは屋上へ文字通り転がり込んだ。ぶおん、と風が唸る。背中近くを巨大な砲弾が掠めた。
 さつきを飛び越して着地したのは、想像通り馬だった。けれど、科学上は存在しない種であった。
 一目でわかる。何故なら角があるからだ。しかし清純、神聖さを象徴する一角ではなく、逆だった。汚濁と淫放を意味する二角獣(バイコーン)。混沌より顕れし、幻想獣。
 さつきにはそんな知識はない。魔力も知覚出来ない。だが、発する圧迫感から後ずさった。雪塗れの服を払う余裕はない。わかるのだ。
「なんでこんな化物ばっかりなのっ」
 バイコーンは一度前足を持ち上げ、威嚇する。さつきが身を守るように腕を交差させると、魔力漲る角を向けて突っ込んで来た。
「ひゃぁあ! なに、なんなの、もうっ……!」
 辛うじて避けられた。が、シャツの表面が焦げている。目を落しながらぞっとする。 
 触れるだけで、危ないなんて。
 バイコーンは屋上の端まで行くと急に止まり、踵を返して再度突入してくる。先程より速い。かわせ、ない――? 
「う」
 もう嫌だ。さっきから、ずっと。なんでこんな。
「わああぁぁあん!」
 こんな酷い目ばっかり、わたしが遭うの。
 やけくそだった。脅えが反転して、無謀に化ける。さつきは両手を伸ばして、バイコーンの角を掴んだ。掌が焼鏝で灼かれる。「あうぅ」と苦悶したが、それは力む為だ。バイコーンの突撃を、さつきは全力で踏ん張って受け止める。ローファーの底が雪を巻き上げて、屋上を滑る。さつきの体勢は崩れない。バイコーンも足を止めない。靴底の摩擦熱だけが過熱する。水蒸気が上がる。
 あと数メートルで、屋上の柵に押し込まれる。
「とまっ……止まってよぉおおおお!」
 奥歯を噛み潰し、力一杯叫んだ。足が柵に触れる。めり込む。逆に足がかりにして、後退を止める。上体が押し込まれそうになる。けれど、辛うじて耐え、拮抗する。
「ううううぅう〜……っ」
 ここから相手がかけてくる力の方向を逸らして、脱出する。あとはタイミングを計るだけ。
「いち、にぃ、のぉ……え?」
 ――だったのだが、さつきの目の前には、くるりと屋上の床が広がった。
 ひょい。バイコーンはあっさりと首を上げて、角を掴んだままのさつきを持ち上げたのだ。予想外の出来事に、さつきは瞬きを繰り返した。
 ふと間抜けな事を思った。ダイエットしてたっけ、わたし。
 バイコーンはヒヒィと鳴くと、
「あ、あれ?」
 全身をしならせて、さつきを放り投げた。軽々と飛ぶ彼女。
 丁度、ビルとビルの間へと振り落とされた。慌てて地上を覗う。
 空き缶や塗れてぼろぼろになったダンボールが転がっている、アスファルトの路面が待っているのが道理だった。いつも通る道なのだ。
 しかし、今。路上は一面の沼と化していた。黒く光を吸収する粘液が湛えられている。
 さつきでも一瞥しただけで看破出来た。
 あれは、『混沌』だ――。



 四季の血刀が、甲羅に弾き返された。火花と共に刃毀れする。
「おい、志貴。モノは相談なんだけどよ」
「なんだ、俺は今バラすので忙しい」
 繰り出された脚を紙一重でかわし、甲羅の隙間に血で出来た短刀を刺し込んだ。器用にも魔獣の脚を切り落とす。だがあっという間に脚は生えて来た。駄賃だとばかりに繰り出された脚の一撃を屈み込んでやり過ごし、七夜は口を開いた。
 甲羅で被われた蜘蛛達は、ぞろぞろと増殖し、他の獣を呑み込みながら徐々に四季達を追い詰めていた。動きが鈍いのが唯一の救いだった。
 四季は新たな刀を掌より創り出しながら、
「テメエ、脚はええだろ。だったら、蛇殺してきやがれよ」
 七夜は心底怪訝、さらに不快そうに振り向いた。
「誰に向かって命じている。第一、俺は解体している最中だと言った。混血が、錯乱したか」
「五月蝿えよ、志貴」
 魔獣である蜘蛛は、床や壁のみならず、天井をも埋め付くしている。七夜が駆けられる空間も徐々になくなりつつあった。
「――蛇は貴様が殺す気だったのだろうが。俺は、怪夜を使い果たし、獣どもと雌雄を決しても構わん。獲物を横取りする気か?」
「だったら、蛇は逃がす……いやアイツから逃げるのか」
「下手な挑発だ」
 言いつつも、七夜はきつい眦で四季を撫で斬った。
 四季は楽しげに笑っている。
「オレはなあ、蛇が憎い。この手で殺してやりてぇ。だけどこのままじゃあ、オレがロアを殺す前に、アイツの妄想が実現しちまう。邪魔したいんだよ、とことんなぁ。だから譲ってやるって言ってんだ」
「はん――だから俺を使うか? 混血が、退魔の一端を担った一族の末裔を? 戯けた話だ、ありえん」
 がしゃがしゃと魔獣の節足が煩い。殺し尽くせぬ異様な生命の群れは、鬼を咀嚼せんと行進を止めない。
 四季が長刀を構え直す。
「いいから、一度ぐらい兄貴の言う事聞きやがれ」
 七夜は珍しく、ぽかんとしてしまった。
「――四季。お前、本当に気が違ったか」
「あ? 間違ってないだろうが。遠野シキを奪わなかったお前は、俺の弟分だろーが。あぁ? 呆けたかお前こそ。そもそもよぉ……お前も壊れた悪夢だろ?」
 ぴたりと七夜の動きが止まった。蜘蛛を眼前にしてあり得ない。
「遠野志貴の悪夢なんだろ、お前。ならまずアイツに姿を見せないとならない。その癖どうしてこんな所で魔と遊んでやがる。殺人ですらねえ殺し会いに。殺人鬼なんだろうが、お前は」
「……良く囀るな、四季。やはりまず貴様を殺すべきだったか」
「はっ。矛盾する悪夢たぁ自分だろうが。この先言われたくなけりゃ、大人しく言う事聞きやがれ」
 四季は何処か穏やかだった。七夜は至極不機嫌だったが、業とらしい舌打ちを一つ漏らし、
「まあいい。どうせ四季、貴様では俺が戻るまでに始末をつけられまい。精々殺されずにいろ、でなければ獣どもに逃げられる」
「お前こそ返り討ちにあうんじゃねえぞ。できれば瀕死にして飾っとけ。俺がロアを嬲れるようにな」
「都合の良い話を」
 苦笑を浮かべて、七夜は一歩その場から引いた。代わりに四季がずいっと前進する。
「何処へ行く」
 混沌の体現者が眉を逆立てた。
「ここが貴様等の終焉だといった。逃走などありえん」
「黙ってろ、ケモノ。食う者を名乗るんなら、まずオレが相手ってのが道理だろう」
「戯け、転生体とはいえただの混ざり者が、この身と同列だと思い上がるか」
 ネロの激情に応じたように、甲羅ある蜘蛛達が一斉に速度を上げた。
 殲滅する心積もりが明らかだった。異形の大軍は、容赦なく前にあるモノを噛み砕こうとする。
 されど、四季は顎を上げて笑う。
「良く見やがれ。テメエらの周りをよぉ」
 爪を伸ばし、なんと自分の胸を掻っ捌いた。血が一瞬噴出する。
「――まだ変えてない血が、ごまんとあるだろうが!」
 先ほども口から血を吐き出していた。四季は身体を作り変え、武器と出来るのに、そうせずに。
 吹き出した血、巻き散らした血が、一斉に毒刃に換わった。ネロと魔獣を囲む全ての面から氷柱の様に、棘の如く、地獄の針山として紅い刃が突き出る。だが甲羅は堅く、完全に貫けてはいない。食い込んだだけであり、魔獣達は脚止めされてもがいた。
 まだ終わりではなかった。突如魔獣達は、内側から爆ぜた。体内から現れたのは、やはり血の刃。次々倒れていく。
「ぬ、謀ったか」
 ネロも例外ではない。五体の隅々から刺され、また内側より射られる。
「行け、志貴!」
 言われるまでもないと、七夜は既に動いていた。途中の道すがら、まだ息を残している獣を切り殺しながら、廊下の窓から飛ぶ。隣のビルの壁に貼りつく。
「貸しておいてやる、高くつくぞ」
 素っ気無く言い残して、姿を消した。
「……そりゃ逆だろうが」
 四季はふん、と鼻をならしてネロに向き直る。
「成る程。自身の組織を構成し直す異能か。容貌を擬態するのは死徒にも多いが、別物にまで変態させるのは珍しい」
 ずるりと形を崩したヒトガタが、興味深げに喋った。ネロを構成する混沌はずるずると流動し、人の形をまた取り戻す。
 ネロ・カオスに傷という概念は最早存在しない。
 一方四季の身体は限界だった。貯めに貯めた罠も、ネロ本体には無駄に終わった。血はあとどれ程も残っていないので、随分くらくらしてきた。
 だが悪態は忘れはしない。
「けっ。ご大層な身体してやがるな」
「ふむ。貴様の因子、我が秘める系統樹の操作に一役買うかもしれんな――髄まで食らうとしよう」
「テメエばかりが食らう側だと思うな――!」
 四季は渾身の力を膝に溜め、一挙に詰め寄った。もう数は裁けない。なら人の形をした本体と遣り合う他在るまい。
「――愚か。所詮人間の域に在る存在が、このネロ・カオスに抗うか」
 片手を上げ、コートを翻す。内なる世界より、この世界にはいないケモノを導き出す。
 四季は歯噛みした。間に合わねえか。しかたない、一体程度さっさと殺っちまって。
「……あ?」
 浅はかだったのか。目の前は、廊下の床から天井まであぎとで占められている。
 ネロより出現したのは、ネロよりも巨大な――鰐だった。否、既に鰐という種を超えている。竜と呼ぶ方が相応しい程の、『食いつく』魔獣。
「さあ」
 ネロが無感動に四季へ話しかけた。
「貴様の生、我が体内に流転させよ」
 息を呑む間も与えなかった。鰐は顎を閉じる。血は左程出なかった。
 巨獣が嬉々として首を振るう。
 四季だったモノは、鰐の胃袋の中以外には、床に転がる膝から下の足しか残っていなかった