/13

 
 下のフロアどころか、廃ビル一帯が既にネロの手に落ちていた。獣達の源泉たる混沌が悪性の沼として地上を汚染しているのだ。恐らく、踏み込めば即座に獣の餌となるに違いない。
 さつきは腕一本で耐えながら、ごくんと唾を飲んだ。
「あ、危なかった〜……」
 でも、どうしよう。秋風に揺られる蓑虫になった気分。
 彼女はぷらりと、電線にぶら下っている。かつて廃ビルへの配電線だったもので、今では通電していない。おかげで高圧電流の餌食という筋書きは逃れた。
 屋上を仰ぐと、バイコーンが歯を剥き出しにして威嚇している。
「このまま、伝ってあっち側に行けば。よっと」
 左腕を伸ばして、両手で捕まろうとする。するとガクンと電線が揺れ、たるんだ。「わ、何?」と左右を忙しなく覗うと、廃ビル側の電線の端に、嫌なものを見つけてしまった。
 B級映画に出てくるような大蛇だった。無機質な眼球をさつきに向けて、緩慢な動作で電線に乗ってくるではないか。しかもその重みで、電線自体が千切れかかっている。
「ちょ、ちょっと待ってよ……っ」
 落ちたらお終い。血の気が下がって、背筋が凍った。慌てて両手で電線を掴み、必死で横に移動する。
 蛇の威嚇する声が近づいてくる。急がなきゃ。けれど乱暴にする度、ガクンと電線が延びるのだ。
「待って、待って。お願いだからっ!」
 出来るだけ大人しく、震動を与えない様に急ぐ。でも急げない。確認するのが怖いけれど、と電線の端に視線をやると、
「も、もう殆ど千切れかかってるよぅ……」
 自分がいる位置は、丁度ビルとビルの中間点といった辺りだった。おまけに大蛇は、あと2メートルほどまで接近している。
「来ないでっ いいコだったら、あっち行って」
 さつきは震える瞳で、しかし意思を込めて蛇を睨んだ。魔眼――は持っていないが、威嚇ぐらい出来るのではと思ったのだ。
 逆効果だった。大蛇は、牙を見せびらかすと、突如飛び掛って来た。
 蛇にとって、2メートルなどないに等しかった。さつきの腕に噛みつこうとする。咄嗟に退くさつき。片手に戻って辛うじて避けた。その所為で大きく揺らしてしまう。
 ぶつんと死刑宣告が響いた。
「――やっ」
 身体が無重力感に包まれる。むしろ浮いた気さえした。次に腰の辺りから寒くなり、風を切り始める。当たり前だが落下している。
 地上の様子が飛び込んでくる。ぐんぐんと近づいてしまう。と、湛えられている混沌が粟立った。併せてさつきの肌も、絶望に粟立った。
 猛然と、矢を打ち出す如く蛇の群れが、天を突いた。逃がさない。もう一刻も待たないとばかりに、空中にいるさつきへ食らいつかんとする。
「ひ――ぃ」
 さつきに選択肢はない。じたばたと幾らもがいた所で、無為。出来る事はただ一つ。
 もう――駄目。終わっちゃう。……ごめんね、シオン。いいつけ守れなくって。
 せめて恐怖からほんの少しでも逃れるため、目を瞑るだけだった。
 なのに。
 ぐんと手を引かれた。当たる風の方向が変わった。慣性の係り方が違う。宙を、スライドしている。
 さつきはおそるおそる目を開けた。
「借りは」
 信じられないものを見た。
「これで、返したぞ」
 滑空する人。逆さになってさつきに手を伸ばしている誰か。蒼く光る双眸は、間違えようがない。
 七夜志貴が、弓塚さつきを救い上げている。
 さしもの七夜も、二人分の体重を抱えては優雅に着地とはいかない。二人はもつれ合い、叩きつけられる形で背の低い、隣接する廃ビルの屋上に転がった。
「あ痛っ、」
 五メートルに渡り、ごろごろと雪を巻き込んでから、さつきはようやっと静止できた。驚きの表情が取れないまま、面を上げた。
 七夜志貴はもう構えていた。彼の浄眼は自分達がいたビルの屋上、その更に斜め上を捉えている。
 さつきは問えなかった。危険が既に、襲来していたからだ。
 バイコーンが跳躍し、魔力漲る二つの角を七夜に向けて、飛び掛って来る。
 砲撃と変わりない速度。だが殺人鬼は、
「畜生どもが、舐めるか」
 静から動へ、拍子を掴ませず進み出て、バイコーンの死角即ち腹部へと潜り込んだ。
 血の短刀が一閃する。バイコーンの角が床に突き刺さり、大穴を明けた。瓦礫が空高く舞い、一拍をおいて降り注ぐ。
 頭を抱えながら、さつきは目撃した。
 一振りで幻想獣の腹部を掻っ捌き、打ち倒した光景を。
 バイコーンは頭を床にめり込ませたまま、痙攣していた。内蔵はほぼ全てぶちまけていた。七夜が歩み寄り、無慈悲にバイコーンの首筋を深く裂く。
 血を浴びながら、なおも七夜はつまらなさげに天を仰いだ。
 周囲が静まり返る。あのビルでは死闘が繰り広げられている筈なのに、物音一つしない。
「……どうして?」
 七夜は微かにだけ、横顔をさつきへ向けた。
「どうして、殺人鬼さんがわたしを、その、助けてくれたの?」
「……言っただろう、借りを返すと。ただそれだけだ」
 公園で、ロアから逃げ出した時の話だろうか。借りだなんて、思ってたんだ。けれどしっくりこない。府に落ちないのだ。
「で、でも。……殺人鬼さんなんだよね?」
「何が言いたい。いくら道化の身とて、戯けた話に貸す耳は持たん」
「だって、変じゃない! ……えっと、殺人鬼が、誰かを助けるなんて」
 七夜は無言だった。さつきはおどおどしながらも、七夜から視線を外さない。
 その時、三千世界の烏全てが鳴き叫んだ。
「な、なに? 今度は何?」
 さつきは首を縮めて、細い肩を抱いた。ビルの下より、黒い影が百単位、いや千単位で沸き上がって来る。全てが大形の烏だった。
 一羽の巨大な怪鳥にも採れる烏の群れは、空高くで旋回し、一直線に志貴達へと急降下してくる。
「ちぃ!」
 多数であるだけで暴力だと証明するかのような攻勢に、七夜は苛立ち、
「おい、貴様!」
「は、はい? 何!?」
「ぐずぐずするな、化物の遺骸を盾にしろッ」
 指図されて、さつきはあわててバイコーンの死体に手をやった。「う……んっ」と気勢と共に持ち上げ、自身に立て掛けるようにする。七夜は屈辱だといわんばかりに、バイコーンの影に隠れた。
 途端に、嘴の嵐が吹き荒れた。烏達はバイコーンに刺さり、或いは屋上にぶつかりながら砕けていく。特攻だった。
 さつきはぞっとした、手に伝わってくるバイコーンの重みが、一刻一刻と少なくなってきている。保つのだろうか、果たして。
 さつきは腹の前にある、七夜の顔をちらりと覗った。張り詰めた形相で、まるで仇を待ち伏せているかのようだ。
 自然と問いが漏れた。
「ね、なんでかな?」
「……やれやれだな」
 七夜志貴は呆れた風だった。さつきは反射的に赤面する。
「――遠野志貴はな」
「え?」
 意外だった。さつきは目を丸くした。殺人鬼さんが、わたしの質問に、ちゃんと答えようとしているなんて、と。
「最初から間違えている。みっともなく、悪夢を想定し違えている」
 理解し辛い話だった。悪夢を間違える。最も畏怖される者が悪夢の具現となり、故に夢の主は悪夢に叶わない。悪夢を決めるのはやはり夢見る人。そこが、間違っているというのだろうか。
「簡単だよ」
 殺人鬼の声は、寸前とは全く印象が異なっていた。
 まるで、ではなくて。背伸びしたがる年頃の少年が、大人びて装っているような。それでいて不貞腐れている調子で、
「――名前には意味がある。『七夜志貴』というのは、もともと殺人鬼の名前じゃあないんだ」
 言い終えると、七夜はバイコーンの影から飛び出た。烏の大群が降り注ぐ中、顔も庇わずに走り出す。
「あ! ちょっと、危な……っ」
 あっという間に、七夜は全身を打たれた。頭は腕で庇ったが、肩から背中から、鮮血を華と散らす。
「姑息なんだよ、畜生ども」
 代わりに、七夜は――屋上すれすれを旋回し、さつきや七夜を背後から打とうとしていた巨大な鷲の首を跳ねていた。すかさずターンし、鷲の死骸で烏達に突かれるのを防ぐ。
 作戦の失敗を悟ったのか、数が尽きたのか。烏達の落下は鷲の死後、数秒で終わった。
 七夜も傷が堪えたのか、がくりと膝を着く。
「大丈夫!? 殺人鬼――ううん、七夜さん?」
 さつきは急いで駆け寄った。
「……気安く呼ぶな。うっかり殺しそうになった」
「え、え? でも、名前には意味があるって……あの……」
 驚いて、また萎縮した様にもじもじし始める。七夜は心底呆れたと嘆息した。
「えっと。駄目だった、かな?」
「全く、お前は」
「んっと、何だろ……?」
「お前――鬼には向いてないな」
 ぼそりと七夜は零し、眦をきつく引き絞った。
「……網を張られたと気付かないのではな」
「え――!?」
 さつきは七夜が睨む方向、屋上の出入り口を省みた。
「まあそう言うな、志貴。その娘は、それでもなかなかの素材なんだ」
 ドアの前には、鷹揚で気だるい態度で、さつきの悪夢が立ち塞がっていた。


「迂闊に動くな。奴の手品に囲まれている」
 心底うんざりだと七夜は肩頬を引き攣らせた。ゆらりと身体を起す。
 さつきは腰が退けつつも、懸命に踏ん張っていた。何故か逃げよう、とは思わなかった。勿論怖くてしょうがない。けど、けれど。
「まあ人間にしては健闘した方だ。だからもう終幕で良いだろう?」
 ナイフの柄で肩を叩きながら、ロアは余裕だった。七夜志貴だけでは、球電体の設置魔術を突破できない。子であるさつきが居た所で状況に変化はない。もう一度固有結界を試みたところで、今度は即座に潰してしまえばいい。寧ろ一度展開させた方が好都合だった。過剰なマナ或いはオドにパンクして、無抵抗になるからだ。魔術が無効化され、隙ができるが、この屋上では七夜も不意打ちなど不可能だと計算していた。だったなら問題なく対処出来る。
 七夜も同じ結論なのか、容易には動こうとしない。
 空気が腐り落ちていくような緊張感の中、さつきは懸命に頭を働かせていた。思い出す。理解は出来ていないが、感触は掴んだ。そして確認する。自信はないけれど、やるしかない。
 覚悟は、不思議ともう決まっている。
「ねえ、七夜さん」
「……殺人鬼でいい。なんの用だ」
「あ、あのね。わたしが雷の魔術をもう一度打ち消すから――あの吸血鬼を、その……お願い出来るかな?」
 囁きはロアにも届いていた。にやりと笑う。
「折角教授してやっても、理解出来ないなら無意味だったな。まあいい、なら気がすむまでやってみるといい」
「ふ、ふんだ。ねえ、お願い出来る?」
 さつきはちらりと覗った。七夜は憮然としていたのが一転、
「く――は、はは。貴様、誰に向かって話している?」
 俯き加減となり、禍禍しく頬を吊り上げた。
「頼まれずとも。奴は六文銭が不要なまでに――極彩と散らしてやる」
 刃物で首筋を撫でられた思いがする。今だけは味方であっても、鬼気迫る気配はとても恐ろしかった。さつきは固い調子で首肯する。
「う……うん。じゃあ――」
 瞼を強く閉じ、決心して。そしてロアへと向き直る。
「行くよ……殺人鬼さん!」 
 さつきは、己が悪夢に決戦を挑む為に、己が最大の瑕に自ら触れた。


 ネロ・カオスは怪訝げに佇んでいた。実の所、自分から発生した竜足る鰐を注視していたのだが、自我の薄い彼である。眼差しは何処が茫洋としている。
「解せぬ」
 不快げに吐き捨てた。意思は未だ健在である証拠の感情だった。
「何故だ。いかな外法を用いて」
 牙を剥く。先の交戦ではあり得なかった形相であった。即ち、
「――貴様、どうやって我が混沌を『食ら』った!」
 遠野四季を障害と認めた証左。
「ハッーー」
 鰐がびくりと痙攣する。背中が裂けて、内側より血みどろの手が突き出た。両手が生えて、傷口を無理矢理押し広げて、遠野の鬼が姿を現す。鬱憤を晴らすように喚いた。
「馬鹿言うな、オレは人専門だ。頼まれたってケモノなんざ食うか!」
 孔だらけであり、黒焦げで、瀕死としか映らなかった四季の五体は、全くの無傷に戻っていた。拒死性だけではない。再生能力では足らない。
「オレの能力は死に難いってだけじゃねえ。融合呪詛――『蝕離』。他人の生命を啜り取るってのがあるのさ」
 鰐の体内から踏み出して、血と体液で塗れた顔を手で拭う。手も勿論べたべたで、四季は居心地悪そうに眉を顰めた。
「でまあ、テメエの一部と生命を共有したって訳だ? 判ったか学者崩れ」
「あり得ぬ。混沌とは無色の概念。用意もなく融合すれば自我が溶け身体を保つ事も叶わぬ――!」
 強く四季の言葉を拒絶して、目を剥くネロだったが、憤怒とは別に有する冷静さによって、すぐさま真偽を察知した。
「……そうか、貴様」
「ご明察ってか? テメエも自分で言ったろうが。自分の身体を作りかえるオレなら、形を保つのも可能だったんだよ。自我はまあ、あれだ。一応オレも蛇の転生体なんでな」
 げらげらと笑う。小気味良い意趣返しだ。
「知識はある訳よ。自分のモンじゃねえから何処にあるか判らないんで、使えないけどな。だが言われりゃ探せる。どうしてロアがテメエと話す時、口調を変えたか不思議でな」
 一代前の記憶を模索したのだ。丁度都合の良い話であった。そう、アカシャの蛇が混沌に『創世の土』を教えた。不完全なれど、意図した形を混沌に与えるアプローチは成功していたのだ。
「奴はもう、混沌の系統樹を管理する術を考案してやがったんだ。大体、オレは混沌と融合したわけじゃない。そこに溶けている生命の因子と共有しただけだから、ちょっとした基礎で十分だった。鰐ってよ、消化が遅いんで暇だったお陰だな」
 ネロは冷静さを表面上も取り戻していた。重く頷いて、
「ならば、蛇には是が非でも今宵の試み、成功してもらわねばならんな。だが、まずは」
 言うが早いか、再度ネロの身体からは魔獣の数々が涌き出てくる。
「我が肉体を一部とはいえ掠め取る貴様を食らい尽し、生命を取り戻してからだ」
「ワカラネえのか? 今のオレはな、お前でもあるんだよ。自我の弱いテメエじゃ生命を奪えまい。つまり――共食いだ。ネロ・カオス、貴様が死ぬまでオレも死なねえんだ」
 四季の爪が鋭利に伸びる。右手の掌を斬って、血刀を生み出す。
「抜かせ。魂ごと飲み込めば済む事――!」
 百鬼夜行が四季へと向かい始める。四季もまた、獣王の巣へと牙を剥く。
 甲高く吼えた。
「いいぞ、夜明けまで食い合ってやらぁ、ネロ――行かせねえぞ、テメエはよぉ!」




/14



 さつきにとって喉の渇きは、自我を崩壊させる急所である。普段は勤めて忘れようとしている。人である為に、吸血衝動を抑えているのだ。
 抑圧された欲望、死徒にとって最低限の行為であり最大の悦楽は、さつきの中でがんじがらめにされ、凝縮している。
 だからだろう。渇きは、彼女の心象風景にすら干渉する。
「は――ハ――は、ぁ」
 自らの喉を絞め始めるさつきの吐息は、酸素に喘ぐ魚そのものだった。
 喉が熱い。自覚したなら止められない。吸いたい、欲しい、耐え切れない。自らは心の芯まで渇いているとしか思いつかない。
 渇いている。
 この一念だけが彼女を暗示の様に占有してやまない。魔術の徒が自らが選択した呪法という理念で、己を暗示し作り変えていくプロセスを原初にまで遡った、シンプル過ぎる自己再構成法。
 さつきには、もう血だけでは足りない。
 風が巻きはじめた。一片の水分すら含まない、乾ききった大氣が流動しはじめる。雪が巻き込まれていく。
 ロアはさつきの苦悶する姿を、愉しそうに嘲っている。無駄に全力を着くし、無駄と知り絶望して心が折れる様だけが悦楽なのは、永遠を生きようと志し、長く生き過ぎた者達の悪癖だった。
 つむじ風が竜巻となり、風圧に七夜がややふらついた。彼の視線だけは揺るいでいない。
「はっは――っはっ、はっ……ぁ。だ、め」
 さつきは胸の奥に、ある広がりを感じる。虚ろという広大な空間だ。空虚である故に、周りにあるもの全てを呑み込もうとする。広がっていく。喉を絞める力が強まる。瞬間気を抜いただけで、体内に飼っている渇きという暴虐は、一斉に世界を侵食するだろう。
 それを、許しちゃ駄目だ。
「あぅ、う、ぅぁ――あ!」
 喘ぐ。苦しくってしょうがない。
「ん。ぅうん……あ、はぁ――ッ」
 手放したくて、楽になりたくて。
「ッ……ん――ひぁ……あぁああぁ!」
 けれど、わたしが秘める怪物が、解き放たれるべきなのは外じゃない。
 ロアがさつきの様子を怪しんで、ぴくりと片目を痙攣させた。
「……ん? まさか」
「ぅん、ぁああああ、わぁああぁあああ!?」
 身体を押し込めるよう曲げていたのが、破傷風の痙攣を起こした患者となって、さつきは仰け反りかえった。絶叫。
 さつきの瑞々しかった肌が、途端に皺だらけになっていく。縮まっていく。乾燥していく――。
「誤ったか、我が子よ。固有結界の暴走だと!?」
 ロアが苛立って舌打ちした。
 固有結界とは魔法の域にあるとされる秘術だ。勿論操作は容易ではない。術者を滅ぼしかねない禁呪でもあった。外なる世界を侵食する筈が、自身の身体を侵食し、崩壊させてしまう自壊現象。まさしく、さつきに襲いかかった異常た。
「―――ぁ――っ」
 既に悲鳴すら渇いて、誰の耳にも届かなくなった。さつきは木乃伊と化しつつある。あと数刻も保たず、砂の山となって崩壊する。
「か」
 だが、彼女は違った。
「からだ、が」
 稀代の錬金術師に、希少とさせた、才がある。
 再び大氣が唸った。竜巻ではない。風とは気体が密度の高きから低きに流動する現象だ。風は、ただ一点――弓塚さつきへと、全天の方向より流れ込んで、吸い込まれている。
 さつきは渇いている。
「馬鹿な――まさか、一度知っただけで!?」
 ロアが驚愕の声を上げた。
「異界の常識だけを抽出し、己が体内に展開したというのかッ」
 さつきと七夜を囲んでいた雷の珠が、ことごとく霧散して風に溶け、さつきへと運ばれる。吸収の威力は、先の『枯渇庭園』より各段に弱い。ロアや七夜からは殆ど吸えていないが、エネルギーそのものとしてあった魔術は、抵抗なく生贄となっていく。
「ハ――」
 暴風の真っ只中で、凶笑が木霊した。
「まさかな。ここまで使ってやれる魔がいるとはな。誉めてやるぞ、女」
 吸血鬼とは呼ばず、七夜四季はナイフを握った腕で天頂を指し示した。
 ロアが鬼の形相でナイフを構え、迎撃の構えをするのを七夜は待ってから、
「教えてやろう、吸血鬼。――魔を殺すという事をな」
 全身を弓なりにして、七夜は手にした刃を投げた。真っ赤な軌跡が、魔にすら視覚できない位の速さで打ち出される。
「あ? 血迷ったか志貴!」
 ロアは内心でせせら笑う。と同時に刹那目を疑った。
 七夜は投剣した姿勢のままに、自身すら宙へ放り投げたのだ。想像だにしなかった、意表を突く挙動。それこそが混血をも餌食とした暗殺を可能とした業。
 真正面からですら不意打ちを可能とする技術だ。
 しかし――この場において、ロアにとっては無意味でしかない。
「バカか、お前は」
 吸血鬼の王は呆れてすらいた。ただの悪足掻きだったかと蔑んだ。
 ロアが人の身であれば、必殺の一撃たりえたかもしれない。投剣が致命傷を刻めるのなら、仕掛けられた相手は飛来する短刀に気を取られる。そこに意外に過ぎる動きをして、死角である頭上より攻める。曲芸であるからこそ、対応が難しい。
 この戦いにおいては前提が全く違う。四季の短剣ならロアは傷を負う。けれど一刀投げつけられた程度では深手など受けはしない。投剣に注目などせず、折角の跳躍による不意打ちも成立しない。さらに、無手になった七夜では、ロアに傷一つつけられない。
 正しく無為な業。ロアは舞って来る七夜を正確に捉えている。
 アーミーナイフを掲げた。
「二度と這いあがれないよう、今度はその線、断ってやろう」
 真っ赤なナイフが飛来する。七夜が弧を描いて近づいてくる。
 ロアは、待ち構えている。絶対の勝機として舌なめずりした。短刀が着弾寸前に、頭上に七夜が迫りきったその時、相手の額から走る生命の線へ、丁寧にナイフを走らせようとして。
 紅の双眸に、疑問の光を走らせた。
 刺さらなかったのだ。短刀は、まったくとしていい程、ロアに食い込まなかった。何故。
 全てが滞った時間の中で、ロアの視界に跳ね飛ばされる短剣が引っかかった。
 真っ赤に血を塗りつけられた『七夜の短刀』だった。
「キ――、」
 腕はもう振るっている。無手だと思われた七夜の利き腕から、四季の血で構成された短刀がすみやかに顕れる。
「――サマ」
 暗器術。暗殺者の基本だった。全ては多段にし込まれていた。もう、ロアの腕は止まらない。
 七夜は暗殺者の係累である。虚を突き不意を突くのが暗殺者の御業だ。暗殺者の技を、極限の状況下で可能にしたのが、七夜という一族。
「斬首」
 血刀が疾る。まず無防備に、丁寧に奮われたロアの手首を裁断。空いていた手がロアの額を掴み、短刀の切先は後首に突き刺さる。回転。勢いを殺さず利用して、刃を走らせ――獲物の首を斬り上げ、切断する。
 だん、と七夜はロアの背後に着地した。右手に刃を、左手に死徒の王が首印を持って、吹き出す血飛沫を背負い。
「……強大が故に慢心。故に雑。下手過ぎるんだよ、お前らは」
 七夜志貴は、刃物を連想させる弧を口元に描いた。
「屑、がァ」
 声帯を断ちきられてなお、凶暴に牙を剥くロア。「首を、狩った程度で――再セイ、すれ、バぁ」
 ロアは口上を止めた。引き離されてなお伝わる身体の感触に、小さな二つの手を感じたからだ。
 さつきだった。まだ老婆のような姿のままだった。震える指でロアの身体を掴み、
「あ……ああぁ、いやぁああぁあ!」
 未だ稼動する異界常識を叩きつける。
 瞬時に二人の状態が入れ替わった。さつきは若々しい身体を取り戻し、ロアの首無しの五体は、発掘された木乃伊となる――吸い尽したのだ。
「ふぅ……」
 さつきが崩れ落ちた。木乃伊は倒れて、粉々に砕け散った。
「余計な仕業を。だが、どうだ蛇。これでもまだ再生できるか?」
「キ、貴様、ラァが、人間ド――モに」
 千年の呪いを残しかねないロアの頭を、七夜はせせら笑った。
「宣言した通りだ、アカシャの蛇」
 ボールを気軽に上へと投げるようにして、
「――極彩と散れ」
 堅い頭部を、七夜は手際よく解体せしめた。


 ネロ・カオスは廃ビルの中で、あらぬ方向を見据えた。
「……破れたか、アカシャの蛇」
 猛獣魔獣、あらゆる獣が充ち満ちる中で、混沌の王はさして感慨もなさげに呟く。
「幾ら出来損ないの身とはいえ、人間と自らが子に討ち果たされるとは。流石は常世なりし怪夜。あり得ぬ因果があり得ぬ結末を呼び、正統な朝に繋がるか」
 ならば、もうここで時間を費やす必然性はない。永遠を追求する為に、速やかに他の手段を得る必要があった。
 踵を返す。百鬼夜行もまた、背後に付き従った。
「命拾いしたな。貴様を全て食らうには時間がかかる。その生き汚さ、賞賛してやろう」
 最後の興味も失って、ネロ・カオスは歩み始めた。タタリを食らう戦場へと赴く。
 共有された生命の因子だが、片方が死滅すれば自然と生き残りが占めるのが道理だった。もう気にする必要もない。
 ネロは立ち去っていった。後には、血塗れにデコレーションされた廊下が残る。
 ずるり、と粘液に塗れながら、壁に手を着いて立ち上がる影があった。
「へっ……言ってやがれ」


 吸血鬼が塵へと帰っていく。夜空へ砂塵が溶けていくのを眺めていた七夜は、足元が覚束無くふらついた。何歩がよろめいて、屋上の柵に寄りかかる。
「やれ、不様だな」
「だ、大丈夫……? 殺人鬼さん」
 さつきもへたれこんだまま脱力していたのだが、思ってもいない姿に心配してしまった。案の定、
「黙れ、馴れ合うなと言っている」
 素っ気無いどころか冷徹に拒絶されるのだが。
「あうぅ。何よ、怖がらせようったって、そうはいかないんだからっ」
「――あぁ? 貴様、寝言は死んでからも言えたか?」
「ご、ごめんなさいっ」
 全力で謝っておく。何しろ本当に殺されかねない。
 背後で錆びついた蝶番が鳴いた。
「なぁに乳繰り合ってやがる、テメェら」
「……貴様も誰に物を言っているのだ、四季」
 無事だったんだ。さつきはおさげを勢い良く振りまわしつつ振り向き、
「四季さん!? 大丈夫だった……わわわわわぁあ!?」
 泡を吹いて卒倒し掛けた。
 何せ四季は、
「煩せえぞ、女。身体が半分しか残ってないからって、びびるんじゃねえ!」
 左半身がごっそり無くなっていた。何故首が据わり、左足が着いているのか不思議なくらいの欠損だ。
「蛇の言では無いが」
 七夜は半眼になり、呆れ半分賞賛半分といった調子だ。
「死に難いにも程がある」
「黙りやがれ。志貴、おめえロアの止めは残しておけって言っただろうが」
「貴様こそ、獣どもはどうした。気配すら無くなったが」
「あー……ロアが死んだら用がねえって消えたぞ。なんなら追っかけてけよ」
「ちっ、使えん奴だ」
「……なんでそんなコト、頼みあってるのかなぁ」
 さつきが渇いた愛想笑いを浮かべていると、四季は気だるげに屋上に入り、べたっと座り込んだ。あぐらを掻く。
「まあ、蛇の野郎は邪魔しきったから良しとするか。なあ、奴ぁ死に際、どんな面したよ?」
「あぁ、多分貴様の想像通りだろうよ」
「ひゃはは、そりゃあいい!」
 意地悪い笑みに、親父臭く膝を叩いた。今度は「はぁあぁ」と疲労の嘆息をついたと思えば、
「おい、女」
「ん――はい? なにかな」
「缶コーヒー残ってただろ? アレ持って来い」
「え、えー!? どうしてわたしが」
「さっさと持って来いってんだよ、愚図!」
「ひぇっ! もう、人遣い荒いよー」
 ぷうと頬を膨らませてから、さつきはよたよたと立ち上がって出入り口へと向かった。
「あ、でももう温いと思うんだけど」
「あー冷えてる方がいいが、まあ構わねえ構わねえ。ほれ早く行け」
「う、うん」
 多少危ない足取りで、さつきは階段を降りていった。
 ふう、と七夜は息を漏らした。ずるずると柵に寄りかかったまま、床に座り込む。四季がその様子を見て、笑った。
「伊達ぶるのも楽じゃねえか?」
「喧しい。魔に弱みを見せられると思うか?」
「んだよ、オレだって混血だろうが」
「はっ」と七夜は鼻で笑って、「もう無理だろう、四季。お前は」
「テメエもな」
 四季は鼻を掻いて苦笑していた。
「しっかし、駄目な女だな、ありゃ。本当に吸血鬼かよ」
「アレを鬼と呼ぶと、真実鬼の立場が無いな」
「確かに、一緒にされたくはねぇな」
 誰も居なくなった屋上の出入り口を見つめてから、四季はがっくりと肩を落した。
「あー……人食えなかったわ」
「自分だけだと思うな。俺とて殺人を逃した」
「お前は殺し合いが出来れば良いだろうに。……ちっくしょう。コーヒーぐらいもう一杯呑みたかったわ」
「あんなモノの何処が……まあ、鬼で良いなら、あちら側で食えるだろうさ」
「あ……? なんだ、そりゃ」
「彼岸の方が楽しいという話。耶麻や獄卒相手に殺り合うのも一興だという、ことだ……」
 声はお互い、随分と掠れていた。そもそも、四季も七夜も身体自体が、透けつつある。
 七夜はつまらなさげに口にした。
「暇なら付き合え。そこで借りを返してもらおう」
 四季は目を丸くして、「はっ」と微かに照れながら、
「地獄の鬼相手に大暴れかぁ? ま、いいかもしれねえ、なあ」
 月の位置は低くなったが、まだ空は暗い。夜明けまでにはまだ時間がある。けれど、夜中に醒める夢もある。
 少年二人は、どちらからともなく言った。

「では――あちらでな」
「じゃあよ、あの世でな」


「うぅ〜。わ、わたしもかなり、疲れて、いるん、だけど、なー」
 階段がつらいなんて、十代と思えないなあ、わたし。吸血鬼が年齢を気にするのもおかしな話だが、さつきは真剣にぼやいていた。
「廊下は血みどろだし、黒焦げだし、罅だらけだし。引越しかなあ、あうぅー」
 凄惨極まる殺し合いが起きた場所に住むのも、なんとなく嫌だった。自殺者が出たアパートが無人になるのと同じ心理だ。
 ひへーひへーと肩で息をして、さつきはやっと屋上への階段を上りきった。
「た、ただいま〜。持ってきたよー……あれ?」
 三本の缶コーヒーを抱えて屋上に出ると、そこには誰もいなかった。
「何処いったのかな? おーい、殺人鬼さーん。……四季さん? ねえ、何処かな?」
 歩いて声をかけたのだが、返事はなかった。床に目を落すと、四季やら七夜の血痕までも無くなっている。
「あ――あれれ? ねえ、何処に隠れてるの、二人とも」
 暫らくさつきはきょときょと周囲を探った。自分と二人の分の缶コーヒーを胸に、知らないうちに何時間も廃ビルの周りを歩きまわった。
 もう一度屋上に戻った時、さつきは東の空に目を細めた。
「あ……朝だ」
 まだうっすらと夜の端が闇から藍に変わった程度。しかしさつきにとっては間違いなく夜明け。
 わたし、もう帰らないと。そう思いつつ、さつきは暫らくの間、今夜の悪夢を見送っていた。




エピローグ




「――そうですか。それは災難でしたね、さつき」
 ガラス天板に右の頬をベタりとくっつけながら、表情はクールにシオン・エルトナム・アトラシアは長い話に感想を述べた。彼女にも、高温多湿な日本の夏は堪えるらしい。
「う〜ん。本当に死ぬかと思っちゃった……ねえシオン。どこか扇風機落ちてないかなあ……」
 さつきはさつきで、何故か体操着姿でシオンの前に座っていた。理由は簡単、夏物の服を買うお金は無い。吸血鬼になった時、手に持っていたのが体操着とジャージだったのだ。ちなみにブルマではない。
 ここは例の、さつきとシオン手製の部屋である。
「いいアイデアですが、事はそう上手くは運びません。団扇を効率良く使う方法について研究した方がいいかと」
「じゃあモーターで回してよぅ」
「それを扇風機と呼ぶのです」
 可愛らしい少女二人は、この上なくうだっていた。
 結局さつきは、「引越し」と彼女が呼ぶ、新たな不法占拠はしなかった。夏の夜に雪散る怪夜が終わると、建物の傷は兎も角として、血痕は全て消え去ったからだ。それに、何故か名残惜しかった。
「にしても、さつき。私の忠告を無視するから大変な目に会うのです」
「分ってる。もうしません。こりごりだよぅ、もう」
「まあ、不完全とはいえ死祖が二人と会って、生き残れたのは幸いです」
 怪夜は、シオンや遠野志貴達の奮闘の末に解決したらしい。街の至るところで、あのような戦いがあった訳だ。
「やっぱり人間、平穏が一番だね〜」
「そう願いたいものです」
 二人はこの上なくだらけていた。暑さの所為だった。吸血鬼としては未熟以下なので、常夏でも平気でタートルネックセーターを着たりはできない。かといって丘の上のお嬢様のようにロングスカートを貫く程意地も無い。暑いものは暑かった。
「しおーん。冷たいもの買って来ようか〜」
「……冷蔵庫の中に缶コーヒーがあった筈ですね」
 ちゃんと友人の蓄えも記憶しているシオンである。だがさつきはぶんぶんと頭を振った。
「あれはね、駄目なの。もう予約済みなんだ」
「はあ、私の他に客が来るとは初耳です」
「うん。何時来るか判らないんだけど」
 さつきは人差し指を顎に当てて、小首を傾げた。
「でも勝手に呑むと、きっとすっごく怒られるから。もう考えただけで震えちゃうよ」
 そして柔らかく微笑んだ。

 そういった事情で、今もさつきの冷蔵庫の中には缶コーヒーが三人分、いつも冷えたまま置いてあるのだった。




fin





後書いてみる。

『Arcadia』で掲載させてもらっていたものを、訂正したり弄る為にこちら移動し、更に保管してもらいました。謝謝。