「凄い雪ですね、兄さん」
「本当だ、こりゃ凄いな」
 バス停に降り立った遠野秋葉は、一面に広がる雪景色に感嘆の声を上げた。相槌を打った彼女の兄である志貴も、道路の両端に積み上げられた雪のあまりの量に、感嘆の言葉より先が出てこなかった。本格的に屋敷の外に出たのが初めてだった翡翠は、目の前を行き交うスキー客や観光客に目を丸くしているし、琥珀も普段の笑顔を浮かべているが、その実かなりの驚きを浮かべているのが見てとれた。
 長野県戸隠村。夏はキャンプや登山を楽しむ客、そして冬はスキーを目当てに来るお客が数多い、長野県の中でも有名な観光地の一つ。そこに志貴達四人は来ていた。
 二泊三日の旅の目的は、志貴の大学合格祈願。そして勉強で疲れた志貴に、柄の間の骨休めをしてもらう事。
 志貴は腕時計に視線を落とし、秋葉に問いかける。
「えーっと、旅館の人が迎えに来てくれるのは何時ごろだったっけ?」
「バスの時間は伝えてありますから、もうすぐ来るとは思いますけど。でも、わざわざ電車やバスを乗り継がなくても、そのまま屋敷から車を出しても良かったのに……」
「分かってないぞ、秋葉!」
「秋葉様、それじゃ駄目なんですよ!」
 声を合わせて秋葉にダメ出しする、志貴と琥珀。その勢いに思わず一歩引き気味になる秋葉。
「鈍行列車やバスを乗り継いで、途中の風情を楽しみながら目的地に向かう、それこそが旅行の醍醐味なんだ」
「列車の中で食べるおやつ、また格別でしたねぇ〜」
「おお、琥珀さんわかってるねぇ」
「ふふふ、勿論ですよ志貴さん」
 秋葉そっちのけで、旅行談義に花を咲かせだす志貴と琥珀。そんな二人に対して苦笑を浮かべた秋葉は、ふと空から雪が舞ってきているのに気がついた。
「あ……雪」
 そう呟くと手の平を広げ、それを受けとめる翡翠。
 普段の彼女がとらない、どこか童女めいた微笑ましい仕草。それを目にした秋葉は、兄たちが言う「醍醐味」と言うものが少し分かった気がして。自分も手の平を広げ、天からの小さい白い華をその手に抱きとめた。
 きっかけは決して喜ばしいものではなかったけれど。秋葉はこれからの三日間が楽しくなるように、その華に向けて祈りを捧げた。
 そんな彼女達に向かってクラクションの音が鳴らされる。どうやら、迎えが来たようだった。





雪 月 花






−1−



 冬の日の柔らかな日差しの差し込む部屋。まどろみから目覚めた志貴の目に飛び込んできたのは、心配そうに自分を見つめる秋葉とアルクェイド、その姉であるアルトルージュの顔であった。
「おはよう……って、どうしたんだ皆ぁぁぁぁあ?!」  志貴が呟くように言いかけた所に、アルクェイドが押し倒さんばかりにしがみつく。
「よかった、目が覚めたんだね志貴ぃぃ!」
「ちょっ、アルクェイドさん! 何をやってるんですか!」
「アルクェイド! そんな急に抱きついちゃダメ! 又志貴君倒れちゃうわよ!」
 状況が飲みこめず、目を白黒させている志貴に代わって慌ててたしなめる秋葉とアルトルージュ。しかしアルクェイドは子猫のような目でふるふると首を横に振る。
「だって、志貴がやっと目を覚ましてくれたから……」
「……その気持ちは分からなくも無いですが! 兄さんは今貧血から目を覚ましたばかりなんです! また倒れさせるつもりですか!」
 噛み付くように秋葉が言うと、渋々志貴から離れるアルクェイド。その言葉で、志貴は自分の状態を察した。
「ああ……またやっちまったのか俺」
 頭の中が徐々にクリアになっていき、記憶も鮮明になってくる。
 昨夜机に向かって勉強している最中に、突然襲いかかってきた貧血。どうにかベッドまで辿りつこうとした記憶はあったのだが、そこから先が良く思い出せなかった。
 代わりとでも言わんばかりに、視界に飛びこんでくる黒い線。自分の妹の体を容赦無く走るそれに吐き気を伴う嫌悪感を覚え、志貴は目を閉じ瞼を手で覆った。
「悪い、秋葉……眼鏡、とってくれないか」
「これですね、兄さん」
 サイドボードの上に置かれていた黒縁の眼鏡を彼に手渡す秋葉。それを掛け、二、三度瞬きしてから彼は秋葉に向き直る。
「うーん、途中でぶっ倒れちまった記憶はあるんだけど。こうしてベッドの上に寝てるって事は、誰か見つけてくれたんだな」
「ええ、昨日の夜、ベッドメイキングに来た翡翠が見つけたんです。私達だけでは大変でしたから、アルクェイドさんが兄さんをベッドに寝かせてくれたんですよ。それから今まで兄さんずっと意識が無くて……琥珀が言うには最近の疲労が出てしまったんだろう、と言う事だったんですけど」
「そうか……ありがとうな、アルクェイド」
 そう言って傍らの彼女の頭を軽く撫でる志貴。子供相手にやるような仕草であったが、アルクェイドは目を細めて彼の手に身を委ねる。
 その様をちょっと羨ましげに見ていた秋葉の視線には気付かぬまま、志貴は苦笑しながら言う。
「まぁ、確かに最近勉強忙しくて、あんまり良く寝てなかったからなぁ。秋葉や皆にも迷惑かけたみたいで、ゴメンな」
 その、のほほんとした言い方が秋葉の心の回路をひっくり返したらしい。秋葉の目じりは見る見る釣りあがり、彼を見る視線は怒りの熱を増していく。加速度的に温度を上げていった言葉のマグマが、ついに彼女の口から噴出した。
「どうしていつもいつも兄さんは! 自分の体の事に無頓着なんですか!」
 部屋を揺らさんばかりの大音声で、今にも志貴に掴みかかりそうな勢いで叫ぶ秋葉。その声のボリュームと勢いで、一瞬志貴の意識が飛びかける。
「あ……秋葉、声でか過ぎ……」
「声だって大きくもなります! 毎回毎回いつもいつも兄さんは私達に心配かけて、口では悪かったなんて言っても実際そんな事思ってないから健康に無頓着なんでしょう!」
「いや、そんなつもりは無いし、そんな事思っても無いから……」
「妹こそ少し落ちつきなさいよ。志貴、ビックリして気失っちゃうわよ!」
 少し落ちつかせようと声を掛けたアルクェイドだったが、頭に血が上った秋葉には逆効果だったようだ。
「あなたに妹なんて言われたくありません!」
 噛み付くように怒鳴り返す秋葉。その勢いに一瞬鼻白むアルクェイドだったが、そこでおとなしく黙っているような性格ではない。
「言われたくなくてもなんでも、私は志貴と結婚するんだからあなたは私の妹じゃない! 大体、貧血なんて自分でどうにも出来ないことなんだから、志貴に当たるなんておかしいわよ」
「それとこれとは別です! 私は、兄さんの自覚の問題を言っているんですから!」
「自覚自覚って、自覚で病気が治るならお医者様なんて要らないじゃない! 志貴が無事に目を覚ましてくれた、その事以上に何を望むって言うのよ!」
「でも普段からもう少し気を配っておけば、こんなに倒れる事だって無いでしょう!」
「――アルクェイド、それに秋葉ちゃんも。二人とも少し落ちついた方が良いんじゃない?」
 エスカレートする二人の口喧嘩。しかしそれを遮るかのように、やんわりと仲裁の声をかけるアルトルージュ。だが秋葉はキッと彼女の姿を睨みつけて吠えた。
「アルトルージュさんは黙っていてください! 今日と言う今日は兄さんにきっちり言っておかないと!」
「ん〜、でもこればっかりはねぇ。確かに志貴君も少し大人しくしていた方が良いとは思うけど。今秋葉ちゃんが怒っても解決しない問題だと思うわよ」
 そう静かに言うアルトルージュ。決して声高に言っているわけでは無いのに、その言葉には不思議と迫力と説得力が篭っている。思わず一瞬言葉に詰まる秋葉だったが、幾分声のトーンを落としつつも強い口調で彼女に向かって答えた。
「確かに普通の人が貧血を起こした位だったら私も何も言いませんが、兄さんは明らかに体が弱いんです! なのにそれを気にも止めずに無茶ばかり……しかもそんな状態で、アルクェイドさんと旅行に行こうとしてるんですよ? 家に残される者の身にもなってください。不安で食事も喉を通りません!」
 その言葉で、ようやく志貴にも秋葉が何に腹を立てていたのか納得がいった。
 一週間ほど前、思った以上に志貴の勉強の進みが良かったので、初詣と合格祈願を兼ねてちょっと旅行に行こうという話をしていたのだ。
 最初は勿論、今遠野家にいる六人全員で行こうと話をしていたのだが、翡翠が「私はメイドですから」と難色を示した上に、アルトルージュや琥珀が、「二人の邪魔しちゃ悪いから」と言う事で離脱を表明。そうなると無理に付いていくのも気が引ける、と秋葉も渋々ながら身を引いたのである。
 しかしここの所の志貴の健康状態を見れば、秋葉が気に病むのも無理からぬところだろう。
「もし兄さんが旅先で貧血を起こされたら、アルクェイドさんお一人でどうするおつもりですか!」
 そう、叫ぶように言う秋葉の顔には、怒りだけでなく確かに彼の身を案じる表情が浮かんでいる。
『う……それは……』
 その言葉に顔を見合わせ言葉を詰まらせる志貴とアルクェイド。
 体の事を言われてしまうと志貴は弱い。確かに今の状態では、旅先で貧血を起こす危険性は十分にある。
 だがしかし、その事を引き合いに出されて旅を中止させられると言うのもまた酷な話である。これから先、新婚旅行も二人で行けないと言う事になってしまう。と言っても秋葉が一度思いこんでしまった事をそう簡単に変える人間でないこともまた事実。
 これは、説得に難儀しそうだ――志貴が嘆息した時、アルトルージュがぽんと手を叩く。
「そうだ。それだったらこうしたらどう? 志貴君と秋葉ちゃん、それに琥珀ちゃんと翡翠ちゃんで行ってくれば良いじゃない。今まで四人で旅行に行ってきた事、ないんでしょ?」
「えっ……」
「ええっ?!」
「えー!?」
 その言葉に、志貴が驚き秋葉が動転し、アルクェイドが不満の声をあげる。
「ちょっと、最初に私と旅行するってもう決まってたじゃない! 確かに志貴の体の事は心配だけど! いきなりそれで私が行けなくなるのって、納得いかないわよ!」
「ん〜、でも秋葉ちゃんの様子見ると、このままでも旅行に行けないんじゃない? それに秋葉ちゃんの言うとおり、今志貴君が倒れたら、あなたじゃ的確な対処できないでしょ? 受験とか終わった後なら良いけど、この時期にそれはよくないんじゃないかな?」
 冷静に突っ込みをいれるアルトルージュの言葉に、思わず口篭もってしまうアルクェイド。
「うっ……それはそう……だけど」
「勿論新婚旅行の時は邪魔するつもりはないから、ここは折れておきなさいな」
「うー……でもなんか凄く騙されてると言うか勿体無い事してる気がする……」
 両手で口元を覆って、不満げに姉を睨むアルクェイド。その仕草が妙に子供っぽくて、思わず志貴は噴き出してしまった。アルトルージュはそんな志貴に向き直り、
「志貴君はそれで良い? この子と行かせてあげられないのは悪いな、と思うけど。本来の気分転換の目的は果たせると思うし」
 アルトルージュの提案に、苦笑しつつも頷く志貴。良く考えてみれば、それは意外に素敵な思い付きに思われた。確かに環境を変えて一家団欒をすると言う機会は今までなかったのだから。
「ええ、まぁ。こう言う事なら問題ないですよ。あんまり妹孝行、というか家族サービスしてこなかったから、良い機会だと思います。秋葉も、それで良いか?」
 その言葉に、秋葉がびっくりした顔で志貴を見た。
「兄さん……それでいいの?」
「ああ。勿論琥珀さんや翡翠が良いと言ったら、だけどな。家族四人で旅行なんて、ちょっとウキウキしないか?」
 その言葉に、秋葉の顔が少し赤らんで、ぷいとそっぽを向いてしまう。いくら鈍い志貴でも、それがただ照れているだけだ、位の事は分かる。
「もう、志貴さんたら本当に女泣かせなんですから!」
 と、いきなり声をかけられ、ビックリしてそちらに振り向く志貴。そこには、急須と薬、そして志貴の分のお粥をお盆に載せ、いつもの明るい笑顔を浮かべた琥珀が立っていた。
「琥珀さん、何時の間に!」
「あはっ、割と前からいましたよ。志貴様も大事無くお目覚めで何よりです〜」
 そのままテキパキとサイドボードの上に食事の用意をする琥珀。扉を開けてくる気配すらなく部屋に入ってきた辺り、割と琥珀さんって只者ではないんじゃないだろうか、などと思いつつ志貴は彼女に問い掛ける。
「……じゃあ話の流れは分かってると思うんだけど。どうする? 一緒に行くかい?」
「そうですねぇ。喜んで、と言いたい所なんですけど」
 そこで琥珀は一旦言葉を切り、アルクェイドとアルトルージュを見やった。
「そうしますとアルクェイド様とアルトルージュ様、お二方だけをこの屋敷に残してしまう事になるのですが」
『あ』
 思わず同時に声をあげる志貴と秋葉。確かに、今使用人が琥珀と翡翠しかいない以上、二人を連れていったら残されるのは新人同居人二人だけである。どちらもお姫様などと呼ばれてる以上、生活力に溢れているとは言い難い。
 さりとて、秋葉と二人だけで旅行に行くというのも、志貴は気が引けた。妹とは言っても、やはり他の女の子と二人だけで泊りがけの旅行と言うのは、アルクェイドも良い気分はしないだろう。それに、立場上主人と使用人の関係ではあっても、彼にとっては琥珀も翡翠も大事な家族である。彼女達に二人の世話を押しつけて楽しんでくると言うのも、やはり何か違う気がする。
 そんな志貴の葛藤を見て取ったか、アルトルージュがニッコリ笑って言った。
「あら、それなら問題ないわよ。あなたたちが旅行に行ってる間、私もアルクェイド連れて旅行に行ってくるから」
「ちょっと、姉さんそれどう言う事?!」
 いきなりの宣言に度肝を抜かれたアルクェイドは、姉に向き直って抗議の声を上げるが、アルトルージュはしれっとした顔で言葉を続けた。
「だってあなた、まだしっかりゼルレッチに結婚の報告してないんじゃないの? 私もあの人と話したい事があるし、丁度良い機会だと思うんだけど?」
「う……確かに、まだ報告してない…けど。でも、姉さんだって知ってたんだから、ゼル爺なんかとっくに知ってると思うし……」
「そう言う問題じゃないの。こう言った事は本人の口からしっかり聞きたいものなんだから」  アルトルージュは志貴たちに振り返り、意味ありげに微笑を浮かべる。 「という訳で、私たちは一週間くらいヨーロッパに行って来るから。心配しないでゆっくりしてらして」  その行動にも論理にも隙が無く、周りが口を挟む余地などまるで無しであった。アルクェイドはまだ何か言いたそうだったが、ペースに巻き込まれたかなし崩しに納得してしまっている。
 と、アルトルージュがアルクェイドに気付かれないように、志貴にウィンクを送ってきた。
 それで志貴にも合点がいった。
 要はアルトルージュも、妹と二人旅がしたかったのだろう。仲直りして日が浅い彼女たち、当然二人で旅行など行った訳もない。大体アルクェイドが「旅行」などという物に興味を示し出したのはここ一年ほどの事なのだから。妹を溺愛している姉としては、目に見えたチャンスは生かしておきたいと言うのが本音であったのかもしれない。
 それにしても、周りに全く不自然に思わせる事無く自分の策謀を推し進める辺り、流石はアルトルージュというべきなのか。感心半分、呆れ半分の視線を向ける志貴だったが、彼女は気付いた様子もなくアルクェイドに向かってニコニコと笑顔を浮かべている。
 ――まぁ、アルクェイドも一応納得してくれたのなら、良いか。
 そう思った志貴だったが、ふとある事に気付いて表情が暗くなる。
「どうしたんですか、兄さん?」
「なぁ、これから四人で旅行するとして……この時期、今から急に宿ってとれるのか?」
 志貴とすれば当然の心配だったのだが、その言葉を聞いた秋葉は呆れたように嘆息する。
「兄さん、あなたは遠野家の長男で、私は遠野家の当主なんですよ? ウチのグループの系列から捜せばすむだけの話です」
「……そうなの?」
「ええ。大体日本全国の有名所の観光地には系列の宿や懇意にしてくださっている所がありますから。だから兄さんは安心して行き先を選んでくださって構わないですよ」
 妹の言葉に、改めて志貴は自分が一般人とは違う世界にいる事を自覚する。と、お盆を小脇に抱えた琥珀が軽く右手を上げた。
「秋葉様、志貴さん、私行き先に案があるのですが」
「あら、珍しいわね琥珀。言ってみて?」
「たしか戸隠に、遠野の遠縁の方が経営されている旅館がありましたよね? そこでしたら多少の無理も効くと思いますし、何よりその足で戸隠神社に志貴さんの合格祈願も出来ます。それに年越し蕎麦とはまいりませんが、志貴さんの健康を祈って美味しいお蕎麦をいただくと言うのもなかなか良いと思うのですが?」
 琥珀の言葉に、考えを巡らせる秋葉。確かに悪くない考えのように思える。惜しむらくは戸隠の方だと良い温泉に入るという訳にはいかない事だったが、由緒ある神社で、合格祈願を兼ねた初詣が出来るというのはそれを補うだけの魅力が感じられる。
「どうします、兄さん?」
「良いんじゃないかな? 勿論翡翠にも聞いてみて、だけどね」
「それじゃ私は翡翠ちゃんを呼んできますね?」
 そう言うと琥珀は一礼し、志貴の寝室を出ていった。そのままとてとてと廊下を走っていく音が、残された四人の耳に聞こえてくる。秋葉が苦笑を浮かべて志貴に向き直った。
「あきれた。結局あの子が行きたいだけなんじゃないかしら?」
「まぁ良いじゃないか。それに戸隠だったら、ここから遠すぎず近すぎずだし。悪くないよ」
 その言葉に、秋葉はちょっと面白くなさそうに唇を尖らせて言った。
「まぁ――兄さんがそう言うなら、行き先は決まりみたいなものですけど」
「例えそうだとしてもね。四人で決める事に価値があるんだよ」
 そう、柔らかな笑みを浮かべて言う志貴。その様を見て、寂しそうに呟くアルクェイド。
「……姉さん、なんか志貴とか妹とか、凄く楽しそうなんだけど……」
「駄目よアルクェイド。今回は家族サービスさせてあげましょう」
 そう慰めるアルトルージュの言葉にも今一つ沈んだままのアルクェイドに向かって、志貴はすまなそうに声を掛ける。
「折角二人で旅行行く筈だったけど……ごめんな、アルクェイド。埋め合わせは、必ずするから」
「……新婚旅行」
「ん?」
「新婚旅行の時は、絶対に二人きりだからね? ずっとずっと一緒にいてもらうからね?」
 そう、頬を膨らませながら言うアルクェイドの姿が妙に愛らしくて。志貴はニッコリと笑って、
「ああ、分かってるよアルクェイド。その時は、いやって程一緒にいてやるよ」
 その言葉に、アルクェイドはようやくいつもの笑顔を取り戻した。にぱっと、その太陽のような笑顔を志貴と秋葉に向けて、明るく言う。
「うん! それじゃ今回は妹に譲ってあげる! 私と姉さんが帰ってきたら、旅のお話、ゆっくり聞かせてね?」
「ああ。そっちの話も楽しみにしてるよ」






 旅館に着いた志貴達を出迎えたのは、初老の夫婦だった。玄関先まで彼らを出迎え、深々と頭を下げる。
「ようこそおいで下さいました、秋葉様、志貴様。この鷺沼(さぎぬま)旅館の女将をしております、鷺沼妙子と申します。こちらは夫の良平。出来うる限りのおもてなしをさせて頂きますので、どうぞごゆるりと羽を伸ばしていかれて下さい」
「良平です。当旅館の支配人をしております。お初にお目にかかりますが、どうかよろしくお願いいたします」
「いえ、こちらこそ急に予約をお願いして、御迷惑をお掛けしました」
 そう言って頭を下げる秋葉に、むしろ鷺沼夫婦の方が慌ててしまう。
「秋葉様! どうかお気になさらずに。御本家の方のお頼みですもの、当然の事をしたまでです。それでは、中へどうぞ。お部屋に御案内させていただきます」
 そう言うと、妙子の指示で仲居が素早く志貴達の荷物を受け取る。その所作には無駄が無く、従業員の教育が行き届いている事を伺わせた。
「あ、じゃあ俺が宿帳書いておくよ」
「お願いしますね、兄さん」
「それでは志貴様、こちらへおいで下さい」
 良平の案内で受付に向かいかけた志貴だったが、ふとある事に気付いてその動きが止まる。そのままぎこちない動きで、女性陣三人を呼び集める。何事かと口を開きかけた秋葉に向かって、志貴は小声で言った。
「なぁ……琥珀さんと翡翠の名字、どうするんだ?」
 事ここに至るまで、志貴は二人の苗字を自分が聞いていない事に気づいていなかった。屋敷の中では「翡翠」「琥珀」で全て用足りてしまっていたし、それを不思議と思わせない雰囲気を、あの屋敷は持っている。
 しかし一歩外に出てみれば、姓も無く名前だけというのはおかしい。相当におかしい。
「う〜ん……遠野でいいのかな。 琥珀さんや翡翠が良ければ、だけど」  志貴の言葉に、少し考えこむ仕草を見せた琥珀だったが、ゆっくりと首を横に振った。
「さすがに私達まで遠野の姓を名乗るのは問題があると思います。秋葉様さえよろしければ、「巫淨」と名乗らせて頂きたいのですが」
 その言葉に、一瞬秋葉が考えこむ仕草を見せるが、ややあって、「ええ、それが良いわね」と頷く。そのまま彼女は、取り出したメモ帳にサラサラと二文字書きつけた。
「……では、兄さん。琥珀と翡翠の名字は「巫淨」でお願いします。こういった字ですから」
「あ、ああ。分かった」
「私たちは一足先に部屋に行っていますね。兄さんも自分の部屋に荷物を置いたら、私の部屋に来て下さい」
 秋葉の様子にちょっと不自然なものを感じながらも、志貴は頷き、受付の方に向かう。良平の差出したペンを受け取り、四人分の名前を書いていく。
「今代の遠野の当主様は、本当に綺麗な方ですね」
 ふと掛けられた良平の言葉に志貴が顔を上げると、彼は年相応の優しげな微笑を浮かべて彼に語りかけてきた。素直に同意するのも照れくさいものがあるが、彼の言葉は志貴も同感であったので、苦笑を浮かべながら頷いておく。
 本当に、兄の贔屓目無しで見ても秋葉は綺麗だ。志貴は常々そう思っている。確かにアルクェイドに比べればスタイルにはいささか(控えめに表現すればだが)起伏に乏しいものがあるのだが、むしろそう言う体型の方が着物は良く似合うし、艶やかな黒く長い髪は、正に日本美人の象徴とも言えるものだろう。顔の造作については今更言うまでもない。アレで性格さえもう少し素直になれば、お兄ちゃんとしてはもう言う事が無いのに…
 やや危険な方向に流れ掛けた志貴の心は、良平の言葉で現実に引き戻された。
「古の紅葉(くれは)姫も、秋葉様のようなお姿だったのかも知れませんね」
「クレハ……ヒメ?」
 志貴の聞いた事の無い名前だった。その様子を見て取った良平が続けて説明してくれた。
「戸隠に伝わる民話ですよ。平安時代、都から流されてきた絶世の美女。しかしその真の姿は、鬼の血を引く者であったと言われています。逆にいえば、人ならぬモノの血を引くからこそ、人間離れした美を誇ったのかも知れないですね。まぁ、実際の所は、鬼なぞいる訳もなし。戸隠のような田舎の人間が、常には見ない都育ちの貴人の美を見てそう思ってしまったのだと思いますけれど」
 あくまで良平からすれば、客でもあり格上でもある本家の人間に対する、地元の案内の延長のような物であったのだろう。しかし、遠野の裏の歴史を知っている志貴からすれば、単純に笑って済ませるには、題材が現実を捉えすぎていた。
「鬼の血を引く、姫ですか…」
 そう呟いたきり押し黙ってしまった志貴。彼の深刻な顔を見た良平は、内心冷や汗を流しつつ呼びかける。
「あの……どうかされましたか?」
「……ああ、すみません」
 その言葉に我に返った志貴。しかしこの場限りで流すにはあまりにも気になる話であったから、彼は良平に聞いてみる事にした。
「すみません。このあたりでその『紅葉姫』について詳しく分かる所ってあるんですか?」
「そうですね、この近くの民俗資料館ですと詳しい話が残っていると思いますよ。場所は……」
 そう言うと良平は手元のメモ用紙にすらすらと簡単な地図を書き、志貴に手渡す。
「あ、ありがとうございます」
 そう答えた志貴がふと時計に目を落とすと、秋葉達が部屋に向かってから随分と時間が過ぎていた。その仕草に良平は苦笑を浮かべて、
「ああ、済みません。少し引きとめすぎてしまったようですね。では部屋までお連れいたしますね」
「お願いします」
 そのまま良平に連れられて、自分の部屋に荷物を置いた志貴。
 隣の秋葉たちの部屋に入ると、ちょっと御機嫌斜めな彼女の視線のお出迎えが待っていた。
「遅かったですね、兄さん」
「あ、ああ。ゴメン。良平さん、だったっけ。あの人とちょっと話をしてたんだ」
「まぁ、そう言った事でしたら構いませんけど。とにかく座ってください。旅先に来てまで立ち話も無粋ですし」
 秋葉の言葉に、用意された座布団に腰を下ろす志貴。琥珀が慣れた手つきで彼にお茶を注いだ。
「それで志貴さん、どんな話をされていたんですか?」
「ああ、この辺りの民話をね。さすがにこういう仕事をしてると詳しいよね。秋葉の事も美人だって褒めてたぞ」
「……民話の話から何でそう言った事に繋がるのかが良く分からないんですが」
 文句を言いたげな秋葉だったが、褒められて悪い気はしないのか、その表情はまんざらではなかった。
「ははぁ、すると紅葉姫のお話ですか?」
「あ、琥珀さんも知ってるの?」
「結構有名な伝説ですからね。私は聞きかじったくらいですけど」
「何なの、その紅葉姫って?」
 先ほどの志貴と同じような反応をする秋葉。
「ああ、この辺りに古くから伝わる伝承でさ。ちょっと気になる話だったんだ。何でも、鬼の血を引く姫の事らしい」
 志貴の言葉に、秋葉の顔色が変わった。
「それって……」
「やっぱり、気になるだろ?」
 そう言って志貴は時計に目をやる。午後二時前をちょっと回った所。時間は十分にある。
「だから、この後近くにあるって言う民俗資料館に行ってみないか? 俺も又聞きのレベルだから詳しい説明は出来ないし。それだったらちゃんとした所でその話を見た方が早いだろ?」
「そうね。じゃあ貴方たちもそれで良い?」
「あはー。勿論ですよ。戸隠の民話や伝承って、面白いものが多いんですよ」
「行ってみたい、です」
 ノリノリで答える琥珀に対して、翡翠の口調は固かったが表情を見ればまんざら興味が無い訳でもなさそうで。とっさの思い付きだったが思ったよりすんなりと受け入れられて、志貴は安心しつつお茶に手を伸ばした。





続く