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 宿より程近い所にある民俗資料館。
 土地柄、様々な伝説や伝承を伝える資料や物がそこに残された鬼女紅葉の伝説に、一行は見入っていた。
 鬼の加護を受け生まれた少女、呉羽。
 長じて輝かんばかりの美貌を備えた彼女は、都へと上り、紅葉と名を変え、やがて権力者の目に止まる。
 栄華を極めた半生が一転、罪を負い、戸隠へと流される悲劇へと転じる数奇な人生。
 やがて、遠い都への望郷の思いが彼女を鬼へと変え、討伐隊によってその生涯の幕を下ろす。
 ――普通の人ならば、良く出来た伝説であると興味深くは思っても、話以上の物としては考えないだろう。
 しかし秋葉は『魔』の血を引く『混血』であるし、志貴は本来その『魔』を狩る退魔。
 その事実が、伝説をあたかも真実の物語であるかのように彼らに重く圧し掛からせる。
「……『魔』の加護を受けたと言う所を、『魔』と交わったと考えれば――『混血』の誕生そのままね」
 呟くように言う、秋葉。
「そして名前が紅葉……秋に紅く染まる葉。何か本当に自分の事を言われているみたいじゃない」
 そう言って彼女は自嘲気味に笑った。
 その『力』の為に都から追われ、そして二度と都に戻る事無くその生涯を終えた紅葉。
 自分ももし、血に――『魔』に飲みこまれたら、この女性と同じ道を辿ってしまうのだろうか。自分の事も、大事な兄の事も忘れ、血を求めて殺戮を繰り返す鬼と化す人生。
 そんな事は到底耐えられなかった。
 周りに他の観光客はいない。ここで話す事は、家族である三人以外に聞かれる心配は無い。
 だから秋葉は志貴に向き直り、その目を見て言う。
「兄さん、お願いがあるの」
「……何だ、秋葉?」
「もし私が遠野の血に飲まれたら、無辜の人々を手にかける前に、兄さんが私を……」
 秋葉は最後まで良い終える事は出来なかった。彼女の頭を、かなり強く志貴が叩いたからだ。じわっと、痛みが響いてきて、思わず彼女は大声を上げた。
「痛い! 何するんですか兄さん!」
「妹が道を間違えかけたら、止めるのは兄の役目だろ?」
 口調は茶化すようだったが、志貴のその目は真面目に彼女の事を見つめている。
「こんな伝承を真に受けてアホな事を言い出す妹がいたら、兄としては体を張って叱ってやらないとな」
「そうです、秋葉様!」
 翡翠が、彼女としては本当に珍しく、怒りを露にして秋葉に詰め寄った。
「秋葉様は強い方です! 遠野の血に負けるなどという事は無いんです!」
 普段は見られない、本気で怒った翡翠の顔。それを見た秋葉は思わず苦笑を浮かべた。同時に、あまりにも自分らしくない事を口走っていた自分に、知らず吹き出しそうになる。
 ――ああ、何て、無様なのかしら。こんなの全然、遠野秋葉らしくないじゃない。
「ごめんなさい、皆。何か、変な事を口走ってしまって」
「分かれば良いさ」
 そう言って志貴は、軽く秋葉の頭を撫でると、そのまま先に向かって歩き出した。
 そこは先ほど叩かれた所。自分を子供扱いするその所作に、秋葉は妙に嬉しいものを感じた。
「大体、伝説だって良い所だけ真に受けとけば得した気分になるじゃないか。絶世の美女と似た名前だなんて、凄く良い事だと思うぞ、秋葉」
「……それって、似てるのは名前だけだって言う事ですか?」
 余計な一言を付け加えた志貴に対する目線も、どこか優しいもので。
「いや、そう言う事でなくてだな……ちょっと、グーで殴ろうとするのは止めて欲しいんだけど……」
「こら、待ちなさい兄さん!」
 冷や汗を流しながら後ずさる兄を追うその足取りは軽いものであった。期せずして始まった二人の追いかけっこを、慌てて翡翠も追いかける。
 だから、三人とも気付く事はなかった。
 普段の明るい顔はそのままに、けれどどこか違った視線で、紅葉の伝説を見ていた琥珀の視線を。
 しかしそれも一瞬の事。
「あ、置いていかないで下さいよ〜、皆さん!」
 そう言って志貴達を追いかける琥珀の姿は、やはりいつもの琥珀に戻っていた。




 資料館から帰ってきて、軽く宿の風呂で汗を流した四人を出迎えたのは、旅館の板前が丹精こめて作り上げた夕食であった。思わず感嘆の声を上げる志貴と琥珀。季節柄か、牡丹鍋を中心に体が温まるような料理を並べてくれた配慮も心憎いばかりであった。
 一方、残りの女性陣は机の真中に乗せられた大きな鍋に思わず目を丸くしている。洋風びいきの遠野家で、生粋のお嬢様育ちであった秋葉にとっては人生で初めての鍋物であるし、翡翠も話位は聞いた事があったが、今まで鍋料理など口にした事がない。二人とも席に着いたは良いが、何をどうしたら良いのか分からない様子で途方に暮れていた。
 その様を見た志貴と琥珀は、顔を見合せ苦笑する。
「そうか、秋葉は鍋をするのは初めてだったんだな」
「ええ……屋敷ではこういった料理を食べる機会はなかったから」
「よし、器を貸してくれ、よそってやるから。本来鍋ってのは仁義なき戦いなんだが、初心者の秋葉や翡翠にそれは難易度高いからな」
「あら、志貴さんにそんなことさせるわけには参りませんよ。私がよそいますから」
そう言って手を伸ばした琥珀を押し留める志貴。
「いいっていいって。旅先で家の関係は無し。琥珀さんや翡翠だっていつも大変なんだし。たまには羽伸ばさなきゃ」
「そうですか。ではお言葉に甘えちゃいますね。それに……」
 琥珀は一旦言葉を切って、秋葉や翡翠の顔を見ると悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「秋葉様や翡翠ちゃんも、志貴様によそってもらった方が嬉しそうですし」
 その言葉に、顔を赤らめ俯いてしまう翡翠。秋葉は琥珀を睨みつけるが、頬を赤らめたままでは迫力があるとは言い難い。琥珀は琥珀で、「きゃー、怖い!」などと言って面白がっている。そんな様が、志貴の目にはひどく新鮮に映った。
 考えてみれば、遠野の屋敷に戻ってから、こうして四人で食卓を囲むというのは初めてだった。
 彼が有間の家にいた時はひどく当たり前の光景だったが、遠野に戻ってからはずっと秋葉と二人だけで食事を取っている。それが作法といわれればそれまでなのだが、やはり食事はこうやって皆でわいわいと食べた方が、志貴にとっては楽しかった。
 と、その時ふすまの向こうから声が掛けられる。妙子の声であった。
「皆様お待たせいたしました。お飲み物、お持ちいたしましたよ」
 その声と共にふすまが開けられ、運び込まれる大量の日本酒。思わず目が点になる志貴。
「…………あの? 妙子さんこれは一体?」
「やはり鍋には日本酒だと思いまして。戸隠の地酒を中心に、熱燗とお冷、両方用意させていただきました。もし日本酒がダメでしたらお申し付け下さい。一通り用意してますよ」
「いえそうではなくてですね」
「一応皆様まだ未成年ですので、最初の量は加減させていただきました。足りないようでしたら又お申し付け下さいね」
「いや、だから……」
「あら、これ良い味してるわ」
「秋葉様、こちらもなかなか美味しいですよ」
「おい、しい……です」
「って、もう始めてるし!?」
 色々と言いたそうな志貴を差し置いて、秋葉は既に熱燗に口をつけていた。しかも琥珀や翡翠まで。勿論志貴の分も既に用意されていた。
「秋葉、お前な……一応まだ未成年だろう。何だその慣れた飲みっぷりは」
「適度のお酒は淑女のたしなみですよ。兄さんこそ、随分とお固いんですね」
「旅先のお酒が醍醐味なのは認めるけど、こんなに堂々と飲むのもなぁ……」
 そう言って呆れた視線を妙子に送る志貴。妙子はからからと笑って、
「大丈夫ですよ。遠野の方はみんなお酒に強いですし。その飲みっぷりですと秋葉様も相当ですね。それにお正月なんですから、志貴様もどうぞお気になさらず」
 そういって、彼女は部屋を出ていってしまった。思わず頭を抱える志貴だったが、目の前に突き出された秋葉の手と声に現実に引き戻される。
「折角ですから注いでもらえませんか、兄さん?」
「あー、もう。仕方ないな」
 苦笑を浮かべた志貴は、徳利を手に取ると秋葉のお猪口に注いでやる。いつに無く素直な雰囲気の妹の姿に対する物珍しさもあるのかもしれない。
 そんな志貴の思いを知ってか知らずか、秋葉は注がれたそれを一息で飲み干し、今度は自分が徳利を手に取った。
「さぁ、御返杯ですよ兄さん」
「待て待て。俺はお前ほど強いわけじゃないんだから」
「志貴さん、私にも注いでもらえないんですか?」
 横から掛けられた声に志貴がそちらを向くと、既にお猪口を空にした琥珀が期待の眼差しで志貴を見つめている。翡翠はまだちびりちびりとなめるように口にする程度だったが、時折志貴に見せる視線から、何を期待しているかは明白だった。
「あー、もう分かった分かった! 今日は何にも考えずに飲んで食べて楽しもう!」
 覚悟を決めた志貴は、自分の猪口に注がれていた分を飲み干し、まずは琥珀に勺をする。そのまま、秋葉から返杯を受け取ると、猪口を眼の辺りに掲げた。
「なんかこれで乾杯ってのも変だけど。とにかく、乾杯〜」
「「「乾杯〜」」」
 志貴の言葉に三人の声が重なる。
 それが旅の一日目の締めくくり、夕食兼飲み会の始まりの合図となったのだった。




「……いくらなんでも飲み過ぎたな、これは……」
 ふと部屋を見回した志貴は、散乱した空徳利の数に呆れかえった。
 時刻はそろそろ十時を回ろうとしていた。元からそれほどお酒の強くない翡翠は完全にダウンし、今は部屋の片隅で、琥珀が膝枕をして軽く団扇で仰いでいた。こんな季節に団扇を持っている辺り、琥珀の用意の良さに感心した志貴だったが、この結果も彼女の予想の範囲内だったのだろう。
「本当は翡翠ちゃん、志貴さんの膝枕の方が嬉しかったんでしょうけどねー」
 にこにこと笑いながら、からかうような口調で志貴に向かってそう言う琥珀だったが、今だフル稼動中でお酒を飲みつづける秋葉の鋭い視線に舌を出した。
「琥珀さんも良い感じで酔ってるなぁ……まぁ、秋葉が強すぎるんだろうけど」
「何か言いました、兄さん?」
「いや、何でもないよ」
 口ではそう言った志貴だったが、自分の妹の圧倒的な酒豪っぷりに舌を巻いていた。下戸である自分と比較するのも間違っているのかもしれないが、間違いなく十数倍は飲んでいるのにせいぜい顔が赤くなった程度。少し目はとろんとしていたが、意識も口調もはっきりとしている。
 先ほど女将である妙子が、「遠野の血族は皆酒が強い」と言っていたが、確かにそれが事実であると認識させられる飲みっぷりである。
「……ここまで来るとザルって言うか、枠だよな。網すら張ってない気がする」
「……可愛い妹の悪口を言う、いけない口はこれですか?」
 思わず呟いた志貴の口に、テーブルの向かいから秋葉が手を伸ばす。志貴が止める間もなく、秋葉は彼の頬っぺたを軽くつねるように伸ばした。
「いひゃ、いひゃいっへ、あひは!」
「ふふふ、何を言ってるか分からないから、止めてあげません」
「ひ、ひふ! ひふあっふ、あひは!」
 白旗を掲げた志貴は、降参の意を示すため机を二、三回タップする。実際はそれほど痛い訳ではないけれど、さすがにずっとつねられたままでいるのは御免被りたい。秋葉は名残惜しげに指を離すと、さするようにニ、三回彼の頬を撫でた。
「ひどいな、別に悪口のつもりはなかったのに」
「さてどうだか。そんな事より兄さん、聞きたい事があるんだけど」
 秋葉の行動にちょっと照れを感じた志貴は、そっぽを向きながらぼやいてみせるが、急に秋葉の顔が真剣になった事に気付き、こちらも真顔で秋葉に向き直った。
「ん、どうした?」
「どうして、兄さんはアルクェイドさんを選んだのですか?」
 その言葉に、思わず志貴の動きが止まる。
「今更、あの方との結婚に関して文句……は色々とありますけど、反対する気は無いです。でも、聞いておきたいんです。何故私や琥珀、翡翠ではなくアルクェイドさんだったのか。私も、琥珀も翡翠も。皆兄さんの事が好きだったのに、勝負すらさせてもらえなかったんですよ? だったら、その理由くらい聞かせてもらっても良いでしょう?」
 自分を見つめてくる秋葉のストレートな物言いに、思わず志貴の方が赤面してしまった。
「あ、秋葉。お前酔ってるだろ? そろそろ寝た方が良いぞお前!」
 いくら血が繋がってないとはいえ、自分の妹からいきなりそんな事を言われても、志貴としてはどう答えようか対処に困る。だから取りあえず酔いのせいにして、この場を流してしまいたかったのだが。
「兄さん。はぐらかさないで答えてください」
 秋葉はしっかり彼の姿を見据えて、逃してくれない。
 普段なら絶対に言い出さないような、ストレートな物言いをする秋葉。普段はいろんな仮面を被っていて見せない本当の彼女は、こんなに直情的だったのか。志貴は少し新鮮な驚きを覚えていた。
 これで自分が追い詰められていなければ何の問題も無かったのだが。
「志貴さん、私も聞きたいです。是非是非教えてくださいな」
 クスクスと笑いながら言う琥珀。しかし志貴には、その姿に何故か狐の尻尾と耳が見えた気がした。この状況を心の底から楽しんでいるのだろう。
 なんだって自分はいつも退路を断たれる状況に放りこまれるのか、彼は天に向かって恨み言の一つも言いたい気分に襲われたが、言った所で状況が変わることなどありえない辺りがまた腹立たしい。
 どう答えたら良いものか、頭を抱えて苦悩する志貴に向かって、秋葉は喋り出した。志貴の答えを聞きたいというよりは、むしろ自分の思いをぶつけたい気持ちの方が強かったらしい。
「兄さんが琥珀や翡翠を選んだのだったら、まだ納得したんですよ。どう取り繕っても、私は遠野。『混血』である自分では、『退魔』たる七夜と添い遂げる事は出来ないのだ、と」
「秋葉……」
「でも兄さんは、純粋たる『魔』であるアルクェイドさんを選んだ。私はダメで、何であの人は良いんだろう? そんな嫉妬にものすごく苦しめられました。いえ、正直今も苦しんでいるんですよ?」
 そう語る秋葉の顔は本当に寂しげで。思わずその顔に手を伸ばしかけた志貴は、必死で自制する。今それをしてしまう事は、アルクェイドだけにではない。秋葉に対してもひどい裏切りになってしまうだろう。
 だから志貴は、代わりにしっかりと彼女の目を見て、言った。
「違うよ、秋葉。『魔』だからとか、『退魔』だからなんてのは関係ないんだ。俺は、アルクェイドがアルクェイドだったから好きになった。あいつが真祖なんかじゃなくて普通の人間だったとしても、きっと好きになっていた。あいつに初めてあった時から、遠野志貴はあのワガママ姫の虜にされたんだ。俺は、自分の一生をかけてアルクェイドを殺した責任を取る。あいつと一緒に生きていくって決めたんだ。だから、俺が七夜で秋葉が遠野だったから秋葉を選ばなかった訳じゃない。それは、わかって欲しい」
 静かに志貴が言い終えると、秋葉は深いため息をついて、お酒を煽った。
 その言葉の裏、志貴が言わなかった理由が透けて見えたから。
 それは本来は存在しない壁。しかし今となってはあまりにも高くそびえてしまっている壁であった。
「やっぱり、『妹』なんですね。私は」
「……ああ。血が繋がってなくても。一族が敵同士だったとしても秋葉は大事な妹で……そう、やっぱり妹なんだ。家族に対する愛情としてなら、俺はいくらでもお前を愛してやれるけど、やっぱり一人の女性としては見れない」
 そう、志貴が言い切った時。秋葉の頭に悪戯心が芽生えた。少しアルコールの回った頭は、その試みを後押しする。
 普段の彼女なら絶対にしない――いや出来ない行動だったが、今なら許されるだろう。周りにも、自分にも。
 そう結論付けた彼女は、テーブルの向こう側から体を伸ばし。
 羽毛が触れるほどの軽さで。
 志貴に唇を重ねた。
「――?! あ、秋葉?!」
「ふふ。妹からの親愛のキス位、良いでしょう?」
「いや、それだったらせめて頬っぺたに、ってか琥珀さんが見ている前でだな……」
「あら〜、普段はアルクェイドさんからもっと過激な事してもらってるのに、変な所で純情なんですね〜」
「……琥珀さんお願いだからその事持ち出すのは止めてください」
 先日の屋敷での一件を思い出し、本気で嫌そうな顔を向けてきた志貴に、琥珀はいつもの笑顔ですっぱり言い返した。
「あは、良いじゃないですか。志貴さん幸せの絶頂なんですから、ちょっと嫌がらせするくらい」
 そう言うと琥珀は、すやすやと寝息を立てていた翡翠の頭をそっと膝から下ろすと、志貴と秋葉の方に寄ってきて、そのまま志貴に向かって徳利を差出した。
「本当は私も志貴さんから、お年玉として親愛のキスを頂きたい所ですけど」
「だめよ、その特権は私だけ」
「……と言う事ですし、抜け駆けは翡翠ちゃんにも悪いですから。という訳で、志貴さんにはもう少しばかり女の子たちの自棄酒に付き合っていただきますね」
 その言葉に秋葉も悪戯っ子めいた笑みを浮かべて、徳利を手に持つ。
「そうね、折角のお正月だし。兄さんには朝まで付き合ってもらおうかしら。覚悟してくださいね?」
 二人とも顔は満面の笑顔だが、あんまり目は笑っていない。本気で朝までつき合わせるつもりだろう。
 志貴は天を仰いだ。残念ながら救いの神の姿は影も形もなく、部屋の天井しか見えなかったが。








 月明りが雪に白く染め上げられた庭を照らし出していた。
 夜の闇に薄く光る銀の庭。そのあまりにも幻想的な光景に、志貴は思わずため息をつく。
 時刻は既に夜中の二時を回っていた。結局圧倒的な酒豪振りを発揮していた秋葉も、限界点を突破したのか、つい先ほどダウンしてしまい、隣にとった琥珀と翡翠用に取った部屋に運び込まれた。
 さすがに、いるだけで酔いそうなほど酒の匂いが立ち込めた彼女の部屋にそのまま寝かせるのは気が引ける、という志貴の案に琥珀が賛同し、翡翠共々その部屋で枕を並べて夢の世界へと旅立っている。恐らく今の彼女は、耳元で道路工事が行われていても目覚めないだろう。
 出来うる限り注ぎ役に徹していた志貴も、自分が想像以上に飲める体質であった事に感謝していた。何となく、秋葉より先に潰れていたら危ない気がしたのだ。色んな意味で。
 幸い身の危険は起こる前に回避されたが、それでもそのまま寝たら間違いなく二日酔い確定の酒量である。少しでも酒を抜こうと、こうして志貴は旅館の庭を散歩していた。
 冬の戸隠の空気は清冽と言うには少し厳しいくらいで、コートなど着こんで歩いていても寒さが身に突き刺さる感じであったが、引き換えに彼の目の前に広がる光景は、それを補って余りある美しさだった。
 いつまでも見ていたい光景であるが、さすがに寒さも厳しい。志貴は一旦引き返して自販機でコーヒーを買って来ようと思い、踵を返した。
「あら、夜のお散歩ですか? 志貴さん」
 ふとかけられた声に振り向くと、旅館の一室、縁側になっている場所に琥珀が立って、彼に手を振っていた。どこから持ってきたのか、浴衣の上に半纏を着ている姿がとても可愛らしい。
 志貴はそちらに向かって歩いていき、彼女の隣に腰掛けた。
「なんだ、ここに繋がっていたんだね。琥珀さんも寝る前にお月見かい?」
「ええ、寝る前に少し空気を入れ替えようと思いまして。そうしたら志貴さんの姿が見えたんですよ」
「あ、じゃあ邪魔しちゃったかな?」
「いえいえ。折角ですからお茶、お入れしますよ。お酒はもう沢山頂きましたし、しばし雪を見ながらお茶を飲むと言うのはどうです?」
「大賛成です」
 志貴がそう言うと、琥珀はニッコリ笑って一旦障子の向こうに引っ込んだ。
 やがて両手にポットと、急須に二人分の湯呑茶碗を載せたお盆を持って戻ってくる。志貴の目の前で手早く急須にお湯を注ぎ、少し寝かせてから、二人の湯呑へとお茶を注ぐ。温かそうな湯気が湯呑から立ち上った。
「本当はお漬物でもあると良いのですが。この時間ですから、旅館の方に無理言うわけにも参りませんし。許してくださいね?」
「全然問題ないです。この一杯のお茶が本当に美味しいですから」
「ふふ。少しジジ臭いですよ、志貴さん?」
 そう言いながらも琥珀は志貴の隣に腰掛け、美味しそうにお茶を啜った。両手で湯呑を持つその姿が妙にはまっていて、微笑ましい。そんな志貴を琥珀は不思議そうに眺めて、
「どうしたんですか、志貴さん?」
「いや、そう言う琥珀さんも随分、縁側でお茶を飲む様が似合ってるなって思ってさ」
「あ、それって私も年寄りじみてるって事ですか?」
 むー、と頬を膨らませる琥珀に、思わず志貴は吹き出した。釣られて琥珀も笑い出す。が、すぐにその顔を真面目なものに戻し、志貴を見つめて言った。
「志貴さん、長生きしてくださいね? 本当にこういった事が似合う年まで生きてくれないと、許しませんよ?」
「そうだね。最近ちょっと貧血多かったけど、体自体は少しマシになって気た気がするよ。琥珀さんの美味しい料理のお陰かな?」
 そう答えた志貴だったが、胸の奥が少し痛む。
 自分すら騙せない嘘は相手を傷つけるだけ――分かっていても、志貴にはそう答える事しかできなかった
 勿論、その小さな嘘は琥珀には通じない。
 彼女は、普段は見せることのない、ちょっと寂しそうな笑顔で志貴に言った。
「志貴さん……やっぱり、嘘が下手なんですね」
「嘘じゃないよ。琥珀さんの料理が美味しいのは……」
「そうじゃないです! 志貴さん自身も分かっているんでしょう? 自分が、あんまり長くは生きられないと言う事」
「……参ったな。琥珀さんにもバレちゃってたのか」
 そう言って苦笑する志貴。彼は、自分に言い聞かせるようにゆっくりと言った。
「でも大丈夫だよ。まだ、俺はいなくなりたくない。アルクェイドを幸せにしてやらないといけないし、秋葉にも兄貴らしい事はまだ何にもしていない。琥珀さんにも、翡翠にも、もっと楽しい思いをしてもらいたいから」
 だから、俺はまだ死なない。
 そう言って、志貴は琥珀に向かって微笑んだ。その笑顔を見た琥珀は、少し顔を赤らめつつ、
「あは。志貴さんダメですよ? そんな顔を誰彼構わず見せたら、間違いを犯したくなってしまいますから」
 そう言って、いきなり志貴に抱きついた。
「ちょ、っちょっと! 琥珀さん!」
 アルクェイドとは異なる、小柄で柔らかい感触が志貴に伝わってくる。後の事を考えなければずっと堪能していたい抱き心地であったが、そう言うわけにもいかない。
 彼は琥珀を引き離そうとしたが、彼女はしっかりとしがみついて離れようとしなかった。
「駄目だって! 誰か見てるかもしれないだろ?」
「あは、秋葉様も翡翠ちゃんもぐっすりお休みですよ?」
 そして、琥珀は志貴の耳元に口を寄せて、言った。
「私をお抱きになれば、志貴さんの寿命が延びるかもしれません――そう言ったら、どうします?」
 琥珀の声が甘い睦言を囁くように、志貴の頭に染み渡っていく。その言葉はまるで悪魔の囁きのようだった。優しく、柔らかく志貴の心を溶かそうとする。既に彼女の右手は彼の背中に回され、左手は愛しむように志貴の胸を撫でまわし、抗い難い誘惑が彼の理性を突き崩そうとする。
「どう、いう、意味なんだ…」
「私も、翡翠ちゃんも、特別な力を持っているんです。感応と言って、契約した方に色んな力を分け与える事が出来る。志貴さんに私の生命力を分け与えれば、志貴さんはきっと長生きできます」
「……それが、どうして琥珀さんを抱く事に……」
「あは、大体想像はお付きになるでしょう? 一番簡単な感応の方法…それは相手に抱かれる事なんですよ」
 そう呟いた琥珀の声が、ひどく冷たい感じがして。
 呪縛が解けたかのように、志貴は琥珀を引き離した。「あら?」と残念そうに漏らした琥珀の顔は、何時ものような笑顔だったが、ひどく人間味が感じられない顔だった。
 ふと、その顔を見て志貴は気付いた。屋敷に戻ってきて一年以上たつのに、琥珀の怒ったり、泣いたり、喜んだり――そもそも、心の底から笑った顔を見た事がなかった。秋葉は言うに及ばず、最初は無表情だと思っていた翡翠も、実は非常に感情豊かな少女であった。
 しかし、琥珀は何時も笑顔であった。
 エガオ以外の顔をまわりに見せる事がなかった。
 まるで、人形のように。
「どうしたんですか志貴さん? 志貴さんの為なんですから、御遠慮なさらず私をお抱きくださいな。治療だと思えば、アルクェイドさんに罪悪感を持つ必要もないでしょう?」
 無表情のエガオのまま、何でもない事のように言う琥珀。それはまるで、ちょっと喫茶店でお茶でも飲んでいかないか、とでも言うような気軽な口調で。
「…琥珀さんは、それで良いのか?」
「勿論ですよ。理由はどうあれ、好きな人に抱いてもらえるのですもの」
 そう呟く琥珀の顔は、やはりエガオのままで。
 だから、志貴は首を横に振った。
「駄目だよ、そんな顔をしている子を、そんな理由で俺は抱けない。アルクェイドへの裏切りとか、そう言う話以前の問題に、琥珀さん自身が俺に抱かれたくないのに、抱ける訳がないよ」
「あは、志貴さんならきっとそう言うと思っていました」
 声だけは残念そうに、琥珀は言った。ふと、その声が志貴の耳には遠く聞こえた。
 手足が急に重たく感じられた。
 手足だけではない。頭が、そしてまぶたを開けているのが苦痛に感じられる程の眠気が、彼を襲った。
 縁側に腰を掛けているのですら苦痛に感じるほどの睡魔。志貴はとっさに床に手を突き、もう片方の手で頭を押さえ…締めつけた。痛みを与えないと、今すぐにでも眠り込んでしまいそうだったからだ。
「ふふ、お薬、効いてきましたね」
「琥珀……さん、何を…」
「だって、志貴さんからしてくれないのでしたら、こちらからするしかないじゃないですか。志貴さんには長生きしてもらわないといけないんです。そのためだったら、私はどんな事だって出来ますよ」
「薬……いつ……」
「あ、お茶に入れたわけでは無いですよ? 湯呑の口に、無味無臭の睡眠薬を塗っておいたんですよ。一部分だけ塗らずに残しておけば、志貴さんがどちらの湯呑を取られても大丈夫ですしね。結構古典的な手ですけど、上手くいって何よりです」
 あは、と嬉しそうにエガオを浮かべて手を叩く琥珀。志貴の脳裏に浮かんだのは、だまし討ちを食らった怒りよりも哀しさだった。
 彼女がそこまでして自分に抱かれようとする、その理由が分からない事が哀しかった。
 だから彼は叫んだ。やめてくれ、と。
 しかしその声は音となる事はなく、微かにその形に口を動かしただけに終わり。
 志貴の意識は、闇に沈んだ。





続く