5




 吹きこんできた風に身じろぎをして、翡翠は目を覚ました。まだ重いまぶたをうっすらと開け、顔を横に向ける

と、隣で寝息を立てている秋葉の顔が視界に飛び込んでくる。一瞬驚きの声を上げそうになった彼女だったが、

やがて昨晩の酒宴の記憶が脳裏に浮かんでくる。布団から半身を起こし、軽く頭を振ると少し頭痛がした。多少

お酒は残っているようだが、二日酔いと言うほどではなさそうだった。

 どうやら自分は早々にダウンしてしまったらしい。少し勿体無い気もしないでは無かったが、お酒に弱い体質ば

かりは自分ではどうにもならないのだから、仕方が無い。それでも、志貴とあれだけ近くの場所で食事をし、お酒

を飲みかわした記憶は、彼女の胸を熱くした。

 メイドと主人。その垣根をその一瞬だけは忘れる事が出来た。忘れさせてもらえた。あの幼い時のように。

 その事を思い出した翡翠は、自然顔が赤くなってくるのを止められなかった。

 しばし幸せな思い出に浸っていた翡翠は、再び吹きこんできた風に体を振るわせる。

 それにしても寒い。戸隠に着いた時目にした雪の量を見て、随分と寒い場所であると思った彼女だったが、こ

こまでの寒さは予想していなかった。

 こんな事だと分かっていれば、屋敷から愛用の厚手のパジャマを持ってきたかったのに。「旅館では浴衣が作

法なんですよ!」と、それを許してくれなかった姉を、翡翠は少し恨めしく思った。

 風の吹き込む方に視線を向ける。外はまだ暗く、夜はまだ明けていないようだ。開いた縁側の窓から見える

月は、煌煌と旅館の庭を照らしている。

 今は旅先であり、朝起きて仕事をする必要は無い。

 普段はあまりしない事であったが、もう一度寝なおそうか。そう考えた翡翠は、ふと気付いた。

 ――何故、窓が開いているの?

 恐らくこの部屋に自分や秋葉を運び込んできたのは琥珀なのだろうが、万事に気が効く彼女が、この寒さに気

付いていない訳が無い。戸を開け放って寝かせておくとは考えにくい。

 翡翠は布団から跳ね起きて、慌てて縁側に寄ってみた。縁側の窓は大きく開け放たれていて、そこには二人分

の湯呑茶碗と急須、電気ポットが置いてあった。湯呑にはまだ半分ほどお茶が残っている。外の寒さのお陰で

ほとんど冷めていたが、それでも少し前までここで誰かに飲まれていたことが想像出来るものだ。

 秋葉も、自分もぐっすりと寝ていたのだから、ここでお茶を飲んでいたのは琥珀と志貴と言う事になる。少し羨ま

しく思った翡翠だったが、すぐにその不自然さに気が付いた。

 外には一人分の、こちらに向かってきた足跡しかないのだから、今二人が散歩しているとは思えない。なら、何

故飲みかけで、窓も空けたまま二人とも居なくなってしまっているのか。

 その時、翡翠の耳に物音が聞こえてきた。何かが動くような物音。

 その音は志貴の部屋の方角からであった。

 迷う事無く翡翠は立ち上がり、ハンガーに掛かっていた半纏を羽織ると部屋の外に出る。屋敷の――志貴の

安全を見守るのは自分の仕事。例え旅先でも、その仕事を放棄するつもりは彼女には無かった。

 志貴や姉に害を及ぼせるような相手に、自分が立ち向かってどうにか出来る自信など無かったが、この仕事

だけは他の誰にも譲りたくない。だから彼女は歩み出した

 手に握るのは木製のハンガー。武器としては心細い事この上ないが、この際贅沢を言う暇も気もない。

 襖をゆっくりと開け、足音を殺しながら廊下へと出る翡翠。しんと静まり返り、人の気配がしないそこは、昼間と

はうって変わって不安を誘う空間であった。そんな静寂の中、主の部屋から絶間無く響いてくる物音。時折交じ

るクスクスと言う笑い声。

 それは間違いなく琥珀の声。

 と、すると何か二人の身に問題があったわけでは無いようだった。やや安堵した翡翠は、その部屋の襖が少し

開いている事に気が付いた。

 志貴の無事を確認しなければ。もっともらしい理由の元、隙間から中の様子をうかがおうとしている自分に気が

ついて、翡翠は愕然とする。

 ――何を考えているの。そんな事が許されるわけが無いじゃない。

 そう、もっともらしく理性は彼女を諭す。いけない事だという自覚は十分以上にある。しかし、「志貴が居るかも

しれない」という誘惑に抗うには、翡翠の思慕の念は強すぎた。

 すり足で、息遣いすら気を配って。

 翡翠は襖の隙間から中を覗きこんだ。





 薄暗い部屋の中、敷かれた布団に横たえられている志貴。その目の光はしっかりとしているのだが、体の自由

が効かない様子で、身じろぎを繰り返していた。

 そんな志貴を押し倒すかのように、彼の上にしなだれかかっている琥珀。その顔は普段のエガオを浮かべたま

ま、その身には一糸も纏わず、囁くように、唆すように志貴の耳元に口を寄せる。

「動けないでしょう? 逃げられちゃったら困りますから、少し別のお薬注射させていただきました」

 あは、と童女のような笑い声を上げる琥珀。その手は彼の胸元に伸ばされ、傷口の辺りを優しく、とろかすよう

に撫でまわした。

「どうして、こんな、事を…」

 薬のためか、口が上手く回らない志貴が、たどたどしくも琥珀に問いかける。琥珀はそれに答える事は無く、志貴

の耳を甘噛む。全身を突き抜けた、えもいわれぬ快感に言葉を失う志貴。

「気持ち良いでしょう? 感覚を鋭くなるようにしてありますから、きっと今まで味わった事のない快楽になりますよ」

 琥珀はそのままゆっくりと彼の顔を、そして胸の辺りを撫でまわす。

 彼の首筋に顔を埋め、吸いつく。やがてその唇が下に下がっていく。胸の傷跡を愛しげに、猫が傷を癒すか

のようにぺろぺろと舐める。

 志貴は声を出す事も出来ない。今まで味わった事もない快楽に,意識すら飛びそうになっていた。それでも、

全身の気力を振り絞り、彼は叫んだ。

「止めてくれ! 琥珀さん!」

 その声の大きさに驚いたか、琥珀は身を起こすと不思議そうな目で志貴の所を見つめる。

「何故ですか、志貴さん。何でそんなに拒まれるんですか?」

「あ、当たり前だろう! 俺には、アルクェイドが…いるんだ……琥珀さんと、こういう関係になるわけには…行か

ないだろ!」

「そうですか、ここはそうは言ってないみたいですけれど」

 悪戯っぽく言う琥珀が手を伸ばした。柔らかく、股間の辺りを撫でまわす。既にズボンの上からでもそれと分か

るだけに成長を遂げているモノが、痛いほどの快楽を伝えてくるが、志貴は奥歯を噛み締めそれに耐えた。今、

この快楽に溺れてしまうわけにはいかないから。

 多少薬が抜けてきたのか、口だけはそれほど支障無く話せるようになっている。志貴は射抜く様に琥珀を見つ

め、怒りを込めて琥珀に言った。

「俺が言ってるのは,心の話だよ、琥珀さん。

 琥珀さんだって、男に抱かれるなら心の通った状態で抱かれたいって思わないのか?」

 その言葉に。

 本当に琥珀は不思議そうな顔で志貴を見つめた。

「心って、何ですか?」

「……え?」

「心って、何なんですか? だって、そんな物こういった事に必要無いでしょう?」

 そう語る琥珀の顔から、表情が消えていた。普段のエガオすらも、浮かんでいなかった。

「槙久さまも、四季様も、皆私を使われました。槙久さまなんか、まだ女にもなっていない私の体を無理やりにこじ

開けて」

「なん……だって?」

「私はあの人達にとってただの道具だったんです。

 勿論、最初は私も色々考えたりしましたよ? 何で自分がこんな目にあうんだろう。何で、槙久さまは私に痛い

事をするんだろう、って。

 でも、考えてるだけでは現実は変わらなくて。だから私は考える事を止めて、人形になる事に決めたんです。人

形になって、あの人の道具になってしまえば、痛いって考えなくてもすむって」

 堰を切ったように喋り続ける琥珀。志貴はその様をただ見つめるより他無かった。

「あの時の私では幼すぎて、槙久さまの望むだけの感応を得ることが出来なかった。そうしたら、槙久様ったら、

翡翠ちゃんにまで手を出そうとしたんです。

 それだけは嫌だった。私はお姉ちゃんだから、翡翠ちゃんを守らなくちゃって。

 だから私は泣いてすがってお願いして、私だけで槙久さまを癒し続けたんです。

 毎晩、毎晩、毎晩、毎晩毎晩毎晩犯され続けて。痛いと叫べば打たれて、涙を流せば逆に喜ばれて。遠野の

血に引きずられていた時の槙久さまは本当に悪魔のようで。そんな悪魔に毎日虐められている事を覚えていた

ら、小さな子供なんかパンクしちゃいますから、

 だから私は人形になったんです。

 不思議と、そうする事であれだけ嫌だった事がどうでも良くなったんですよ。痛みも感じない。嫌悪感も感じな

い。人形がそんな物感じる筈無いですから」

 志貴は何も言えなかった。琥珀の歩んできた過去の壮絶さに言葉を失い、ただ彼女の事を見つめる事しか出

来なかった。

「でも、そんな私にとって理解できなかった人。理解できなくて、とっても怖かった人。

 それが志貴さんだったんですよ」

「俺が……怖い?」

「ええ。

 私には、あの部屋の窓から志貴さんたちを見つめるしか出来なかった。秋葉様たちも、恐らく槙久様から言い

つけられていたのでしょう。あの部屋に近寄る事は無かった。翡翠ちゃんは私が近づけさせませんでした。

 だけど、志貴さんだけは違った。私のいる、怖い鬼のいる夜の世界。そこから、暖かい日向の世界へ連れ出そ

うとする志貴さんは、私には理解出来ない存在だったんです。

 人形のいる世界から、人間の世界へ連れ出そうとする人。人形がその手を取ってしまったら、人間に戻ってし

まう。そうしたら、二度と人形には戻れない。そう思った私にとって、志貴さんはとっても怖い人だったんです」

 琥珀の言葉に、不意に、彼の頭に一つの光景がよぎった。

 幼き日、自分たちが遠野の庭を飛びまわって遊んでいた時、屋敷の窓からそっと自分たちを見つめてくる少女。

 窓辺に佇み、何も言わずにただ、外を見つめている少女。

 「外で一緒に遊ぼう」そう誘っても、ただ、首を振って部屋から出ることがなかった少女。

「あれは……琥珀さんだったのか」

 うめくように言った志貴。そんな彼の顔に手を当て、自分の顔を寄せる琥珀。

「思い出していただけたんですね、志貴さん」

 琥珀はポツリと呟いた。一瞬その顔に、エガオではない、本当に嬉しそうな顔が浮かんだ気がして。しかし志貴

が声を上げる前に、琥珀の顔はいつもの顔に戻ってしまっていた。

「でも、そんな事はどうでも良いんです。

 志貴さんは体を直さなくてはいけないんです。だから、遠慮なさらず私をお使い下さいな。

 体を直すために道具を使う。ほら、何にも問題ないでしょう?」

「……出来ないよ」

「どうして?」

「出来るわけ無いだろう!?

 そんな話を聞いて、それでも自分の為に平然と琥珀さんを抱けるわけ無いだろ!」

「ふふ、やっぱりそう言うところは志貴さんなんですね。

 でも、ここで私をお使いになる事が秋葉様のためにもなると言ったら――それでも私をお使いにならないって

言えますか?」

 もはや唇が触れ合うほどの距離。必死に身をよじり、琥珀を押しのけようとする志貴。しかし琥珀の言ったその

台詞に彼の動きが止まった。

「なん……で、秋葉の事が」

「秋葉様が遠野の力で志貴さんを支えているからですよ」

 そう言って、再び琥珀は志貴の胸の傷痕を撫でる。

「この傷、本当だったら志貴様は助かる筈無かったんです。即死していても不思議じゃなかった。それが助かっ

たのは、秋葉様が志貴さんの命を支えているから。

 志貴さんは今秋葉様から命の『共有』を受けているから、こうして自由に動き回る事が出来るんですよ」

 その言葉に絶句する志貴。確かに今まで不思議に思わないわけではなかった。病院の先生たちですら生きて

いる事が奇跡だと言ったほどの傷。それが、ずっと妹に助けられてきた結果だったとは。

「この九年間、秋葉様は志貴さんを支えられてきました。でもそれは遠野の力を使い続けると言う事。

 強い意思で抑えてられますけど、いつ反転されても不思議じゃないんです」

 反転。それは秋葉が『魔』になると言う事。自分のせいで妹が人間でなくなる危険がある。そう聞かされ、何も言

う事が出来ないままの志貴に向かって、琥珀は微笑みかけた。

「だから、私をお使い下さい。私と契約なされば、秋葉様の負担も減らせます。いい事尽くめじゃないですか」

 志貴の目に映るその微笑みは、やはりいつものエガオのまま。

 いい事尽くめ。確かにそう思えてしまう。自分は長生きできる。秋葉も人のままでいられる。悲しむ人は誰もいな

い。そう、錯覚してしまうほどに。

 錯覚なのだ。これしか無いように思わせられた、進んではいけない道。

「……琥珀さん、一つ聞かせてくれないか」

「何ですか」

「何で、俺や秋葉のためにそこまでしようとするんだ? 琥珀さんにとって、ここまでする理由なんか何にもないじ

ゃないか。秋葉は琥珀さんにとって憎い筈の遠野の一人だし、俺の事は理解できない怖い人だと言っていた。

 なのに、なんでそこまでしなくちゃならないんだ」

「……それが、私の動く理由だからですよ」

「動く、理由?」

「ええ。人形は、理由が無いと動けませんから。

 だって、秋葉様がもし遠野の鬼になってしまわれたら、翡翠ちゃんが傷つけられてしまうかもしれないでしょう?

 志貴さんが死んでしまわれたら、翡翠ちゃんが悲しむでしょう?

 私はお姉さんだから、翡翠ちゃんを悲しませるわけにはいかないんです。だから、私は志貴さんのお体をお直

ししなければいけないんですよ」

「……そう言う事、だったのか」

 その表情を変える事無く、言葉をつむぐ琥珀。しかし志貴には、薄く透けて見えた気がした。人形のエガオに

隠された、琥珀の心が。

 ――ああ、やっぱり。

「……琥珀さんは人形なんかじゃない。ちゃんと血も通って、心も温かい、素敵な人だ」

 琥珀を見据えて、そう言い切る志貴。その言葉に、彼女の表情が、揺れる。

「……何を言ってるんですか、志貴さん」

「翡翠のために何かしてあげたいって思う事。それ自体が人形じゃない証拠じゃないか。

 『翡翠を悲しませたくない』って思う心がある証拠じゃないか」

 もし志貴の体が動く状態なら、彼は琥珀の肩を掴み、揺さぶって心に声を届かせようとしていただろう。それが

出来ない代わりに、彼はしっかりと琥珀の目を見つめた。奥底に隠され、封じられた心を射抜かんとするように。

 その視線に耐え切れなくなったかのように、琥珀は目をそらし、体を下げると志貴の服を脱がせようとする。

「……それは志貴さんの考え過ぎです。そう動く事が、私の理由なんですから。

 さて、お喋りはそろそろおしまいにしましょう。明日もあるんですから、手早く済ませて……」

「姉さん、どうしてそんな事を言うの」

 その言葉に、琥珀の動きが止まった。エガオが抜け落ち、愕然とした表情で声のする方に顔を向ける琥珀。

 そこには、ハンガーを握り締めたまま、泣き出しそうな目で二人を見つめる翡翠が立っていた。






 覗き見をしていた叱責を後で受けても良い。

 それでも、心にも無い事を言い続ける琥珀を見ている事が出来なかったから。翡翠は扉を開け放ち、二人の

いる部屋に飛びこんでいた。

 全く予想していなかったのか、自分を見つめたまま何も言えないでいる琥珀。志貴は体の自由が効かないよう

だったが、それでも驚いている気配が良く伝わってくる。しかしそんな物に彼女は構っていられなかった。

 手にしていたハンガーを投げ捨て、今だ呆然としている琥珀に駆け寄る翡翠。その肩を掴み、自らの思いを染

み渡らせるように揺さぶりながら、翡翠は姉に呼びかける。

「違うでしょう、姉さん。

 姉さんは、本当に志貴様の事が好きだから。秋葉様の事が大切だから。この戸隠に来たのだって、遠野家の

事を調べて、少しでも秋葉様のお体のお役に立ちたかった。巫淨の家の事を調べて、少しでも志貴様のお役

に立ちたかった。そう、私に言っていたでしょう?」

「翡翠……ちゃん、何を言っているの?」

 翡翠に揺さぶられながら、しかし虚ろに言葉を返す琥珀。

「それは翡翠ちゃんよ? 翡翠ちゃんがそれを望んだから、私は動いただけなのよ。

 そうじゃなければ、私は動けないもの」

 その言葉で、翡翠の堰が切れた。止めど無く涙が流れ落ち、嗚咽の声が、泣き声に変わる。そんな妹の姿を

見た琥珀は、翡翠を再び、ぎゅっと抱きしめた。

「駄目よ、翡翠ちゃんは泣いたら駄目。哀しい事は全部私が引きうけるから。翡翠ちゃんは綺麗なままでいてくれ

ないと……じゃないと……」

 人形は、目的が無いと動けないの。

 そう言ってエガオを向ける琥珀。そんな姉に向かって、翡翠が声を絞り出した。

「違う。姉さんは人形ではありません! 私の姉さんの琥珀なんです! 

 もう……もう戻って下さい。お願い、姉さんもう……」

「翡翠ちゃん、それは無理よ……だって、もう忘れてしまったもの。人間だった事なんて」

「嘘、姉さんは人形の振りをしているだけなんです! だから、元に戻る事だって出来る筈なんです」

 十一年前のあの時。翡翠を守ろうとして、琥珀の心は止まってしまった。

 自分の存在が、姉の心を止めるきっかけになってしまった。その思いで言葉が詰まってしまう翡翠。琥珀の肩か

ら手を落とし、がっくりと泣き崩れてしまう。

「……もう、いいんだ琥珀さん」

 その言葉を呟いたのは、志貴だった。既に大分薬が抜けたのか、よろよろと身を起こして。琥珀に向き直る。

一糸纏わぬ様を直視して一瞬顔を赤らめたが、それでもすぐに真剣な顔に戻って琥珀を見つめる。

「琥珀さん、もう良いんだ。もう十一年前とは違う。

 だから、琥珀さんも……もう翡翠を悲しませる事は止めてくれ」

 その言葉に、琥珀の表情がすっと変わった。怒りと、そして困惑に。

「どうして……どうして志貴さんがそんな事を言うんですか。

 私は翡翠ちゃんを悲しませたりなんかしない! 」

「それなら、それだったら! もう人間に戻ろう、琥珀さん!

 俺も約束を果たすから。琥珀さんも、もう解き放たれるべきなんだ!」

「約……束……」

 そう、掠れた声で呟く琥珀に、志貴の優しい声が覆い被さっていく。

「あのリボン、俺はまだ大事に持っているよ。屋敷に戻ったら、返させてくれ。

 約束を、俺に果たさせてくれ」

「……あの約束も……思い出していただけたんですね、志貴さん」

 困ったような、怒っているような。そんな曖昧な表情で志貴を見つめる琥珀。

「でも遅いですよ? 女の子を十年以上も待たせるなんて。少し待ちくたびれました」

「ごめん、本当にごめん……」

 心の底からの謝罪。それが声にも表れている志貴に、琥珀は静かに首を横に降った。

「良いんですよ、志貴さん。思い出して頂けただけで、もう」

 そう言って、琥珀は微笑んだ。その顔は、今までのエガオとは違っていて。

 だから、その顔を見て志貴は確信した。

「琥珀さん。俺に嘘付くの下手だって言ったけど、琥珀さんも下手だよ。

 自分の事を全然分かってないよ」

「……え?」

「だってさ、人形にはそんな顔は出来ないよ?」

 志貴の言葉に、目に見えて狼狽する琥珀。そんな彼女に、翡翠が言った。

「姉さん。約束の事を聞いた時、本当に優しい顔で笑っていました。いつもの顔じゃない、本当の琥珀の笑顔で」

「翡翠ちゃん……でも、そんな事言われても、分からない……」

「志貴様に約束を思い出してもらえて、嬉しかったのでしょう? 

 笑顔は作る必要なんか無い。嬉しい事があると自然に出るものなんです」

 そう言って、翡翠は笑った。

 それは志貴にとっては懐かしい笑顔。記憶の奥底に眠っていた、自分たちと一緒に遊んでいた頃の翡翠の笑

顔だった。

「志貴様がいなくなって、また戻られる事の八年間。私は笑う事が出来なかった。姉さんの身に起きていた事を知

って、嬉しい事を嬉しいと感じる事が出来なくなってしまっていたから。

 でも今は違う。もう私は笑う事が出来る。あの頃の翡翠に戻れます。

 だから、姉さんはもう琥珀に戻っていいんです。『翡翠』を演じる必要は無いんです」

 そう、翡翠が言った。

 しかし琥珀は寂しげな笑顔を浮かべ、ゆっくりと頭を振り立ち上がった。床に落ちた自らの浴衣をそっと拾い上

げ、羽織ると、ポツリと呟く。

「……やっぱり、無理なんですよ

 私は何も覚えていない。人形は余計な事を考えていたら、動けないから……」

 その言葉と共に、ふらりと、出口に向かって歩み始める琥珀。

 行かせてはいけない。そう思った志貴の手が伸びるが、薬の後遺症か、普段の機敏さは無かった。姉を受け

止めようとした翡翠の腕も、空を切る。

 現身のない、陽炎のように。儚さすら感じさせる琥珀の姿。それがそのまま廊下の闇に消え。

「――! 秋葉様!」

 琥珀の短い叫びが、新たな来客の到来を告げていた。





  

 琥珀を抱きかかえるようにして部屋に入ってきた秋葉は、翡翠と志貴の姿を見て苦笑を浮かべる。

「一目見ただけだと、兄さんの不埒な行いが目に浮かぶようね」

「あのなぁ、秋葉……」

「わかってますわ、兄さん」

 嘆息する志貴に向かって悪戯っぽい笑みを浮かべた秋葉は、腕を解き、琥珀を解放する。よろよろと歩み出

た琥珀に向かい、きっと表情を引き締めると、彼女は右手を翻した。

 乾いた音が部屋に響き渡り、琥珀が床に崩れ落ちる。

「秋葉!」「秋葉様!」

 志貴と翡翠の上げる非難の声。それに答える事無く、張られた頬を抑えて蹲る琥珀の向かいに、秋葉は腰を

下ろした。

「なんで、私が手を上げたか分かる? 琥珀」

「……志貴さんに、お薬を使って無理やり関係を迫ったから、ですか?」

「違うわ」

「秋葉様の事をお話したから、ですか」

「違う。そんな事じゃない」

 秋葉は一端言葉を止め、翡翠と志貴に視線を延ばした。

 そして、再び琥珀に向き直ると、思いの全てをぶつけるかのような激しい口調で言葉を吐き出した。

「いい? あなたは、翡翠を、兄さんを、そして私を悲しませようとしたの。

 私があそこで止めなければ、あなたはそのまま消えていたでしょう? 許せないのはその事なのよ!」

「秋葉、様……」

「お願いだから……兄さんと、自分の妹を悲しませるような事だけはしないで!」

 そう言って秋葉は手を伸ばすと、琥珀をやんわりと抱きしめた。

「あなたの身に起きた事を聞いた時、自分の父を軽蔑し、憎みすらした。そしてそれを知っていて止めようともし

なかった親戚一同も、私にとっては軽蔑の対象になった。

 今はもう、父は死に、あの親戚達も屋敷へと来る事は無い。でも、そうした所であなたに遠野家がした事は消

えるわけじゃない。

 だから、私の事を憎んでくれて構わない。遠野家に何をしても構わない。

 ただ、二人を悲しませる事だけは、しないであげて……」

 最後の方は消え入るように小さくなってしまった秋葉の言葉。それにかぶせるように、志貴が静かに言う。

「琥珀さん。俺は確かに約束も忘れていたようなどうしようもない男だけど、それでも、琥珀さんと一緒にいれて楽

しいと思ってる。

 もう、琥珀さんを傷つけるようなものは無いし、琥珀さん一人が翡翠を守る必要も無い。俺は皆を守ってみせる

し、俺の手に届かない部分はアルクェイドや、秋葉や――皆で力を合わせていけばいいんだ」

「志貴、さん…」

「十一年前の出来事は、本当に、男の俺がどう言っても慰めにもならないかもしれない。

 でも、遠野家は琥珀さんから色んな物を奪ってしまったけど。俺や秋葉で返していきたい。皆で楽しい思い出

を作っていく事で、罪滅ぼしをしたい。

 だから、琥珀さん。もう、人形である必要は無いんだ。人形は痛みを感じないかもしれないけど、喜びも感じても

らえない。そんなのは、俺は嫌だ。

 少しずつでいい……少しずつで良いから、俺たちと一緒に、『琥珀』として生きていこうよ」

 その言葉が、切欠となった。琥珀の目に涙がたまり、堰を切って溢れ出した。突然溢れ出した感情に、琥珀自

身もどうしたら良いのか分からない様子だった。

「ど……どうしたんでしょう、私……あれ、何で……?」

 自分で自分の様子がわからなくなっている琥珀。それでも、その涙は止まる事が無い。十一年分の涙は、今ま

での彼女を洗い流すかのように彼女の瞳から流れつづけた。

 人形の仮面が割れ、素顔の人間となった少女。

 頬に伝わる涙をそのままに、琥珀はぎゅっと秋葉を抱きしめた。

「秋葉様。私、秋葉様の事も、志貴さんの事も大好きです。

 遠野家に対して、私はどう接すべきなのか、自分の中でもまだ結論は出ていません。でも、遠野秋葉様に対し

ては、これからも、ずっとお仕えしていきたいと思っています。

 あは。嫌だと言っても、付いていきますよ?」

 そう言って、琥珀は華のように笑う。その言葉を耳にして、秋葉の目に光るものが浮かんだ。

「ありがとう……ありがとう、琥珀。

 これからも、よろしくお願いするわ」

 伝わり落ちる涙をそのままに、秋葉もまた強く琥珀を抱きしめ返した。






「でも志貴さん、本当にひどいです」

 やがて泣き止んだ琥珀は、恨めしげな視線で志貴を見上げる。その視線に訳がわからず、一歩引き気味にな

る志貴。

「やっぱりあの頃思った通り、志貴さんは私を壊してしまった。

 私はもう差し出された手を取ってしまったから、人形には戻れないですよ? 責任、取ってもらいますよ?」

「ああ。分かってるよ琥珀さん」

 あっさりとそう答えた志貴に対して、琥珀は盛大にため息をついた。心なしか翡翠と秋葉が志貴に向ける視線

も、刺のあるものに変わっている。

「もう、全く気付いた様子が無いんですから。朴念仁もここまでいくと犯罪ですよ?

 普通、女の子がこういう事言ったら、プロポーズとか告白とか、そう言う風に思いませんか?」

「…………え?」

 その言葉に、音を立てて志貴が凍った。全くそんな事を考えもしなかったのだろう、とっさに言葉も出てこない

様子で、口をパクパクさせている。そんな彼の顔を見て、琥珀は悪戯っぽい笑顔を浮かべた。

「勿論正妻の座はアルクェイドさんのものですから、私たちとしては愛人でもOKなんですけど」

「え、いや、その、あの、琥珀さん? ていうか「たち」って……」

「先ほど私が迫った時、「そんな顔をしてる人は抱けない」と、おっしゃられましたよね?

 なら、今ならOKですよね? 私は、琥珀として志貴さんに愛してもらいたいんですから」

「志貴様、志貴様に出来るだけ長生きしてもらいたいのは、私だって一緒です。

 ですから、私だって……志貴様の為ならどんな事だって……」

 琥珀とは逆に、固い決意の表情を志貴に向ける翡翠。なんというか、容易には説得できそうにないその顔に、

志貴の心の中で壮絶に冷や汗が流れた。

「あなた達! 何を言って……!」

「いや、その、えと、気持ちは凄く嬉しいんだけど、それだけは駄目、というか勘弁して。

 アルクェイドを裏切るってのもそうだけど、やっぱりそれをしてしまったら自分の事が許せなくなりそうなんだ」

 流石に二人に向かって叱責の声を上げようとした秋葉を遮って、ややしどろもどろではあったが、そうはっきり

と断る志貴。

 やはり彼は、自分が一番に愛せない女の子を抱く事は出来なかったから。

 その言葉に、姉妹は顔を見合わせて苦笑を浮かべた。

「もう、本当に志貴さんは頑固なんですね。自分の命が延びるかもしれないって言う言い訳があっても、抱いてく

ださらないなんて、本当に頑固なんですから」

「まぁ、こういう性格なんだ俺は」

 二人に苦笑を返した志貴は、一転、すまなそうな顔で秋葉に向き直る。

「琥珀さんから聞いたよ。あの時秋葉が俺に命を分け与えてくれたって」

「そうですか。知ってしまわれたのですね」

「ああ、だから謝らないといけない。

 それを知らなかった事と、そして、負担を和らげてやれない事。秋葉の事が分かっていても……やっぱり、俺

には琥珀さんや翡翠を抱く事は……」

 志貴は最後まで言い終える事が出来なかった。乾いた音が再び部屋に響く。

 両手で挟みこむように彼の頬を叩いた秋葉が、そのままじっと見つめてくる。

「もう一度そんな事を言ったりしたら、本気で怒りますよ?」

「秋葉……」

「これは私が望んでやっている事なんです。

 もし何度同じ選択をする事になっても、私は迷わないわ。だから兄さんも変に気を回すのは止めてちょうだい」

 そう、凛と言う姿はどこまでも遠野秋葉で。だから志貴はそれに答えるように首を縦に振った。

「それに兄さんは、私が遠野の血なんかに負けるとお思いですか?」

「――いや、思わないよ。秋葉は負けるのが嫌いだからな」

「ええ、こんなものに負けてやる気はありませんから」

 そういって秋葉も強気な笑顔を浮かべて、笑った。

 お互いにどこか肩の荷を下ろしたように自然に笑い合う、そんな二人に向かって翡翠がおずおずと話かけた。

「志貴様、一つお願いがあるのですが。

 ……今日は、皆で一緒の部屋で寝ていただけませんか?」

 顔を赤くしながら、呟くように翡翠は言った。

「私も姉さんも、今日この時より変わろうと決めました。

 私は、あの頃の翡翠に戻れるように。姉さんも琥珀として生きていくように。

 だから、その切欠として。子供の頃のように、皆で仲良く、一緒に寝たいと思ったのですが……ダメでしょうか」

 最後の方は消え入りそうな声で言った翡翠に、志貴は優しく微笑んだ。

「あー、うん。そう言うことなら。構わないよ。ちょっと照れ臭くはあるけど。

 ――秋葉も、そう言う事なら納得してくれるよな」

 志貴の言葉に、秋葉は少し顔を赤くしながら、すねたように言う。

「……ここで「駄目だ!」だなんて言えるわけないでしょ!

 良いわよ、兄さんの右隣も左隣も譲ってあげるわよ。私はあなた達の隣で良いわ」

 秋葉の意外な言葉に、驚きの声を上げる姉妹。

「え……」

「よろしいのですか、秋葉様」

「勿論、今日だけよ? 旅先だから羽目を外してるだけなの!

 兄さんも……わかってるわね?」

「ああ」

 自分でも照れがあるのか、そっぽを向いてしまう秋葉に苦笑を浮かべつつ、志貴は頷いた。

 空は既にうっすらと白み始め、柔らかい日の光が連なる山の尾根を照らし始めている。その光が、新しい道を

歩み出す自分達を指し示してる気がして。志貴は自然と心の中が熱くなるのを感じていた。







続く