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 雪に彩られた、杉と熊笹の並木通り。

 戸隠中社へと続く参道は、白地に緑のアクセントが景色を織り成す、長野の山らしい風景であった。中途な寒さ

の所では、踏まれ砕かれた雪が泥水となり道行く人の足を汚すものであるが、ここは既に積もり重なった雪が踏み

固められていて、そう言った心配はそれほど必要無かった。

 それでも、踏み固められていると言う事は逆に滑りやすいと言う事でもある。

「きゃっ!」

 屋敷には無い、初めて見る風景に気を取られていた翡翠が、馴れぬ雪道に足を取られてしまう。バランスを崩

し、思わず手をばたつかせたが当然そんな事で態勢を立て直せるわけも無く。とっさに伸ばされた志貴の腕もや

やタイミングが遅く、彼女は派手に転んでしまった。

「大丈夫か、翡翠?」

 尻餅をつき涙目になっている翡翠だったが、差し伸べられた志貴の手に気付くと、顔を赤らめながらも手をとり

立ちあがる。

「翡翠は雪道に慣れてないから仕方ないか。つま先に体重掛けた方が転び難いよ」

「あ、ありがとうございます、志貴様……」

 笑顔でアドバイスする志貴の顔を見て、ますます顔を赤らめてしまう翡翠。そんな様をすぐ後ろで微笑ましく見

つめる視線と、ちょっと悔しそうに見つめる視線。

「秋葉様。翡翠ちゃんに先を越されてしまいましたね」

「……そんな事別に考えていないわよ」

 そう言ってそっぽを向く秋葉だったが、その顔が少し赤らんでいる様を見逃す琥珀ではなった。だが、口に出し

てその事は言わず、秋葉に向かってニッコリと微笑みかける。

「この調子ですと、中社につくのはお昼を回った頃になりそうですね

「そうね。

 兄さん、翡翠。景色に気を取られるのは帰りにしましょう。今は兄さんの合格祈願が第一なのよ?」

 秋葉の声に振りかえった志貴が、苦笑する。

 確かに当初の予定よりは遅い時間であった。ずれ込んだ理由は単純なもので、四人揃っての寝坊である。

 前夜寝ついたのがあまりに遅かったせいか、女将の妙子が声を掛けるまで四人はすやすやと眠り続けていた

のである。彼らが枕を並べて眠っている様があまりに微笑ましかったのか、妙子も無理して声を掛ける事が出来

ず、結局九時頃まで彼らは眠ったままであった。

 ――もう十何年も前に幼い秋葉様の寝顔を拝見した事がありますが、今日の顔も正にそんな感じで。本当に、

可愛らしいお顔でしたよ。

 そう微笑み交じりに語る妙子の言葉に、思わず赤面してしまう秋葉。その姿に思わず笑いを浮かべる志貴だっ

たが、彼を含めて残り三人もすぐに妙子に似たような事を言われ、赤面組と相成るのであるが。

 結局、部屋で少し遅目の朝食を頂いた後、予定より幾ばくか遅れて、四人は旅の目的地でもある戸隠神社中

社へと向かったのである。

「さぁ、急ぎましょう兄さん」

 そう言うと、他の皆を急かすようにてくてくと先を急ごうとする秋葉。志貴は彼女の側に歩み寄り、

「まぁ、良いじゃないか秋葉。急いでも神社がなくなるわけじゃない。

 それにこんな綺麗な景色、素通りする方がバチが当たりそうだ」

 ぐるりと辺りを見まわして言う志貴の言葉通り、頭上に上りかけた太陽に照らし出される雪景色は、きらきらと光

輝き、溜息の出るような光景だった。

 彼らのみならず参拝客たちは足を止め、その景色に見入ったり、カメラのシャッターを切ったりしている。ここに

くる者たちの殆どが、お参りというよりは観光目的なのだからそれも当然の光景かもしれない。

 そんな様を見て、やれやれ、と苦笑する秋葉。その視界を朱が横切った。

「?」

 視線の先、参堂の少し離れた先を朱い着物姿の女性が歩いていた。と言っても秋葉に見えたのは後姿だけな

ので、本当に女性なのかどうか分からない。ただ、雪に映える鮮やかな着物の朱と、腰まで伸ばされている艶や

かな髪で、女性だと思ったのだったが。

 そう、雪の降り積もる道なのに、その人影は着物だった。普段和装の琥珀ですら、今日は妹とおそろいのダウ

ンコートとジーンズという動きやすい格好であるというのに。

 違和感に背を押され、見間違いなのか確かめようと、兄に声をかけようとする秋葉。

「兄さん、ちょっと…」

 言い掛けた秋葉の体に、ぽふ、と何かが当たる感触。

 何事かと目を向けると、クリーム色のコートの袖の部分に、白い雪の跡がしっかりと残されていた。

「秋葉様。隙あり、ですよ〜」

 その言葉に彼女が振り向くと、そこには両手に雪玉を抱えてにっこりと笑う琥珀の姿が。

「ちょっと、こは……」

 文句の声を上げようとした秋葉だったが、その笑顔につられるように可笑しさがこみ上げてきた。今までの、どこ

か作り物めいた笑顔ではない、本当に楽しそうに笑っている琥珀の顔はまるで向日葵のようで。雪の中なのに、

見ている者の心を暖めてくれるものであった。

 見れば志貴も、翡翠ですらもいつのまにやら雪玉の投げ合いに興じている。そんな様を見せられて、時間が

どう、などと考えていた自分がバカらしくなって。秋葉もまた参道の脇に積もっていた雪を手に取り、琥珀にむけ

てにんまりと笑い返す。

「琥珀? もちろん、私に雪玉ぶつけて、そのままでいられると思ってはないでしょうね?」

「あは〜、秋葉様、どうかお手柔らかに〜」

「問答無用よ!」

 そう言って、笑いながら三人の輪の中に飛び込んでいく秋葉。そうやって四人ではしゃぎまわる時間は、まるで

子供の頃に戻ったように楽しくて。

 だから、既に彼女の頭の中から、ちょっと視界に入っただけの朱い着物姿の女性の事などきれいさっぱり消え

さっていたのだった。





「うわ、これは……ずいぶんと立派だなぁ」

 日が少し西に傾き始めた頃。中社に到着した四人の目に飛びこんできた本殿の姿は、彼らの想像以上に大き

く、威厳のある姿であった。思わず感嘆の溜息を漏らす志貴。

「山間神社だと言うから、もう少しひっそりした佇まいの物を想像してたんだけど。結構すごいのね」

 やはりその姿に驚きの声を上げる秋葉に、琥珀が説明する。

「戸隠神社の歴史は千二百年前くらいからあったそうで、最盛期は高野山や比叡山に匹敵する位の霊場として

崇められていたそうです。近くには善光寺もありますし、天岩戸の伝説や紅葉姫の伝説もある土地です。信仰を

集めるのは自然だったんだと思いますよ。これでも小さい位かもしれないですね」

「姉さん、なんか生き生きしてる……」

 なかば呆れたように呟く翡翠。その言葉に琥珀はあはは、と笑い声を上げて、

「だって、折角調べた事なんだもの、話したくなるのは当然だと思わない? 翡翠ちゃん」

 そんな琥珀に志貴は少し考える仕草をしながら話しかける。

「うーん、中社って事は、例えば上社というのもあるのかい、琥珀さん?」

「ええ、この上にも奥社というものがあるのですが、冬は参拝する事が出来ないんですよ。

 だから志貴さんの合格祈願はこの中社で、と言う事になりますね」

 そう言うと琥珀は、跳ねるように一行の手を引き、本殿へ向かっていく。

「さあさあ。お参りをした後におみくじを引いて絵馬を書く! これこそが由緒正しい日本の合格祈願の図です!

 参りましょう、皆さん!」

「……そうなんですか、兄さん?」

「まぁ、間違ってはいない気はするけど」

 そう苦笑する志貴に向かって、秋葉は真剣な顔で、

「そう、だったら買い占めるくらいのつもりで買った方が良いかしら……」

「あのな、秋葉。おみくじも絵馬もそう言うもんじゃないから……」

「あの、志貴様。志貴様の健康祈願も絵馬でよろしいのでしょうか?」

 やはり真剣な顔で彼に向かって聞いて来る翡翠。その顔に浮かぶ、自分を気遣ってくれる彼女の心に心打た

れ、志貴は彼女の目を見て礼を言う。

「ありがとう翡翠。でも、その気持ちだけでも十分だよ」

 その仕草に、顔を真赤にしながらも翡翠は首を横に振った。

「いえ、志貴様のお言葉でも、それは聞くわけには参りません。

 志貴様のお体が早く良くなるよう、誠心誠意書かせていただきます」

「ふふ、志貴さんの負けですね〜。勿論私や秋葉様も書きますから、三人分、しっかり祈願されてくださいね?」

 そう言って志貴に笑いかけた琥珀が、「あら?」とある方向に向けられる。

「どうかしたかい? 琥珀さん」

「ええ……あちらに綺麗な着物の方がいらしたので。今日は晴れてますけど、足元が雪なので珍しいな,と思っ

たんですよ」

 その言葉に,他の三人もそちらに目を向ける。

 本殿の側,注連縄の張られた御神木の前に佇む一人の女性が、目にも、周りの景色にも鮮やかな朱い着物を

身に纏い、艶やかな黒髪を風に靡かせていた。

 それを見て、秋葉がはっと息を飲む。

「あの人だ……」

「知り合いか、秋葉?」

 志貴の問いかけに首を振る秋葉。

「いえ、そう言う訳では無いのですけど。さっき私もあの人を参道で見たんです。

 やっぱりあの朱い着物が凄く印象に残って。でもそれだけじゃない、なんか不思議な感じがして」

「不思議な感じ、ね……」

 その言葉に、志貴が注意深くその女性に目を向ける。

 年の頃は二十代半ばか。その黒髪のせいか、雰囲気がどことなく秋葉に似ているように思われた。

 そんな志貴の視線に気付き、にこりと、微笑みを向けてくる。思わず愛想笑いを浮かべようとした志貴の中

で何かがざわめく。

 どくり、と強く脈打つ鼓動。ひりひりと,渇きを訴えてくる喉。彼の中の血が、強く囁きかけてくる。

 務めを果たせ、と。目の前のモノを祓え、と。

 思わず彼女より目をそらし、荒い息を吐く志貴。その様に怪訝な表情を浮かべる秋葉。

「兄さん……? どうしたんですか兄さん!」

「人じゃない……」

「え?」

「アレは人じゃない。何か、別のモノだ」

 その言葉に慌ててそちらに向き直った秋葉。しかし既に女性は木陰から姿を消していて。

「そう身構えないでもらえると嬉しいのだがの」

 いつのまにか。正にそう言う表現しかしようがない間に、女性は彼らの目の前に現れていた。

 とっさに秋葉達の前に立ち、庇うように腕を広げる志貴に向かって、彼女は嫣然とした笑顔を浮かべる。

「だから、身構えるなと言うておる。別に妾はそなた達と争いに来たわけでは無い故に」

 そう言ってくすくすと口元に手を当て笑う様は、その古風な話し方と相俟って、どこか独特な雰囲気を彼女に

与えていた。

 勿論、そんな言葉一つで素直に警戒を解く志貴ではなく。戦う術を持たない琥珀や翡翠をより庇いながら、彼

は恐る恐る口を開く。

「お前は……一体何者なんだ?」

 女性の答えは簡潔だった。

「亡霊じゃ。懐かしさに惹かれてつい出てきてしもうた」

 そう言って、秋葉に向かってどこか優しげな視線を向ける彼女。その視線は不思議と安心感を与えるもので、

何時の間にか志貴の体を揺さぶる血の呼びかけは鳴りを潜めていた。彼の体から緊張がやや抜ける。

 その気配に満足げな顔を浮かべると、彼女はつい、と踵を返し、すたすたと歩いていこうとする。

「付いてまいれ。妾の姿は普通の者には見えぬ筈。おぬしらを好奇の視線に晒しておくのも本意では無い」

 その言葉に志貴達が慌てて辺りを見まわすと、確かに幾人かの観光客が奇異の視線を向けてきている。思わ

ず赤面した彼は、照れ隠しのように頭を掻くと、やはり顔を赤らめている秋葉達に向き直った。

「……どうする?」

「行ってみましょう、兄さん。彼女の正体が何であれ、少なくとも悪い感じは受けませんでしたから」

「俺はそれで構わないが、翡翠に琥珀さんはどうする」

「勿論お共しますよ志貴さん。ここまで来て仲間外れだなんて事は言わないで下さいね?」

「志貴様、今更そのような事は仰らないで下さい」

 むーっと、ちょっと怒った視線を向けてくる二人。その顔を見て、志貴も腹を決めたのだった。





 積もったばかりの雪が、木に、笹に覆い被さり行く手を阻む。参道から外れた山中は、今もなお人の立ち入りを

拒む聖域である。

 その筈なのに。

 志貴達の前を何事も無いかのように歩いて行く女性。新雪に足跡を残す事も無く、体に当たった筈の葉や笹

が揺れる事も無い。あたかもそこには何も無かったかのように、自然に歩を刻んでいる。そして彼女の通った後

は、まるでそこが元からあったわき道であったかのように、志貴達をたやすく迎え入れていた。

「そこじゃ」

 彼女が立ち止まり、指で指し示したそこは。

 うっそうと生い茂る林がぽっかりと切り開かれ、日の光が温かく照らし上げる広場となっていた。中ほどには東屋

が組み上げられており、その質素な外観は周りの風景に良く解けこんでいた。

「妾には必要の無いものじゃが、そなた達は腰を下ろす所があった方が話しやすかろう?」

「ありがとうございます。だけど、このような山の中に何故こんな場所が?」

 志貴の言葉に女性はくすくすと笑い、彼らに向き直る。

「一時の夢じゃ、あまり気にするでない。おぬし達が去れば、ここも林に戻るだけの事」

 そう言って、志貴達に腰を下ろすよう促す。気にはなったが、恐らく追求してもはぐらかされるだけだ。そう思っ

た彼らは、素直にそこに腰を下ろした。

「ところで、そろそろ名前を教えてくださっても良いんじゃないですか?」

 秋葉が疑うような視線で女性を見つめ、問いかける。

 その視線を涼しい顔で受け流した女性は、少し意地の悪い笑みを浮かべ、詠うように自らの名を口にする。

「紅葉じゃ。もっとも、肉ある身の時の名、今となってはさほどの意味をなさぬものではあるがの」

「紅葉?!」

「紅葉って、あの言い伝えの紅葉姫、ですか」

「まさか……信じられません」

 驚きの顔を浮かべる三人。しかし秋葉だけは、秋葉はどこか納得した表情を浮かべている。

 その顔をみて、少し意外そうな表情で紅葉は秋葉に言う。

「なんじゃ、既に分かっておったようじゃな」

「いえ、確信も何もありませんでしたけど。ただ、そんな気がしただけなんです」

「そうかそうか。

 もう少し驚いてもらった方が張り合いがあったのじゃが、まぁ仕方ないかの」

 意味ありげな口調で言った紅葉に対して、琥珀が今だ半信半疑の顔で彼女に問いかける。

「紅葉さん……で、よいでしょうか?

 ええっと、どうやって、千年もの時を生き長らえたのですか?」

 琥珀のあげた疑問の声に、紅葉は少し表情を真顔に戻した。

「生き長らえた、という訳では無い。もとよりこの姿も仮初のものであるしの。

 都の軍勢に討たれた後、妾の魂はここに根ざして、この御山と一つとなった。今の妾は……そうさの、山の守

り神とでもいった所かの」

 そう語る紅葉の姿は、確かに神気、とも言える清冽な空気に包まれていて。志貴は彼女を祓おうと考えてしま

った自分を恥じ入るかのように、深く頭を下げた。

「先ほどはすみません、紅葉さん。思わず、身体が勝手に身構えてしまって……」

 その言葉に紅葉は口元に袖をあて、嫣然と微笑む。

「よい、気に病むな。

 今まで千の年月人の世を見守ってまいったが、このような席を設ける事が出来るとは思っておらなんだ。こうし

て束の間、楽しき時が過ごせれば妾は満足ゆえな」

 それまでの年月を思い返すかのように、紅葉はその目を細めた。

 彼女の語る事はつまり、この地に伝わる言い伝えが事実であったと言う事。

 俄かには信じ難い話である筈なのに、その様には不思議と説得力があった。再び呆けたように自らを見やって

くる彼らの視線に、紅葉はその顔に再び笑みを湛えて言う。

「まぁ、そんな深刻な顔をするでない。先ほども申したが、この姿を現したのに深い意味は無いのじゃ。

 ただ、懐かしさより現れ出でた、それだけの事」

「懐かしさ、ですか」

 そう呟く秋葉に、柔らかく問いかける紅葉。

「すまぬが、名を教えてもらえぬか」

「……遠野秋葉と申します」

「あきは、か。よい名じゃの。本当に、よい名じゃ」

 そう呟き、優しい目で秋葉を見つめる紅葉に、彼女は確信した。

「紅葉さん、あなたは、やはり私の御先祖様と言う事なのですか」

「うむ。お主に我が子の面影を見出してしまっての、居ても立ってもいられなくなってしもうた。

 本当に、よく来てくれたの」

 そう語る様は、とても鬼女と呼ばれ恐れられた者の顔ではなく。まるで子供を見る母親の表情であった。あまり

に邪気無く向けられる笑顔に、思わず照れくささを感じた秋葉はそっぽを向いてしまう。その様子を見て紅葉は

からからと笑い声を上げる。

「ほれ、そうやって照れるとそっぽを向く姿なぞ、本当に妾の息子に瓜ふたつじゃ」

 その言葉に一瞬きょとんとする秋葉。徐々にその眉尻が吊りあがり、肩がふるふると震えだす。

「わ……私は女なんですが……」

「おや、ささやかな胸ゆえ気づかなんだわ。それはすまぬ事を」

 にまりと笑って言う紅葉。 

「よ…よ……余計なお世話ですー!!」

 山の静寂を、秋葉の悲痛な叫びがうち破った。

「ちょっ! 秋葉、落ちつけって秋葉!」

「は、離して兄さん! ご先祖さまであろうと何であろうと、その発言だけは許すわけには!」

「だからって『略奪』は止めー!!」

 髪を赤くして、今にも暴れ出しそうな秋葉を必死で抑える志貴。その様を面白そうに眺めている紅葉に向かっ

て、志貴は恨みがましい視線を向ける。

「ええっと、紅葉さん、流石にその発言は配慮が足りないと言うか何というか……」

「配慮って何ですか兄さん! 私の胸は小さいわけではなくて、ただ周りに外国産が不必要に多いだけで!」

「待ておい秋葉、俺にまで『略奪』向けるなー!」

「あはー、久しぶりの大暴走ですね秋葉様!」

「姉さん、そこにこやかに言う所違うと思うの……」





 狂乱状態に陥っていた秋葉も、皆の必死の説得でようやく落ち着きを取り戻す。一人涼しい顔をしている紅葉

に、彼らの冷たい視線が向けられる。

「ふむ、冗談であったのだが、いささか悪い事をしたかの」

「ええ……かなり」

 疲れた顔で溜息をつく志貴に向かって、ふとその顔を真顔に戻した紅葉が言う。

「お主も、そこの双子も、遠野の血脈では無かろう? 事にお主は、深く我らと対立する血筋のように見受けられ

るが、なにゆえ妾の末裔と共におるのじゃ? それも兄などと呼ばれて」

「それは……」

 答えようとした志貴を遮って、秋葉が毅然と紅葉に向き直る。

「兄さん――志貴は、確かに元は七夜と呼ばれる退魔の家の血筋です。彼の家を私の父が滅ぼし、唯一生き残

った彼がうちの家に養子として引き取られました。

 ですが、血が繋がっていようがいまいが、私にとって兄さんは志貴だけです。例え御先祖様であろうと、これば

かりは文句は言わせませんわ」

「ふむ……志貴とやら、お主はそれで良いのか? 自らの一族を滅ぼした敵の家系であるぞ?」

「ええ、勿論」

 そう答える志貴の顔は、この戸隠の空気にも似た清冽さであった。

「秋葉は最愛の妹ですから。血の繋がりなんか関係なしにね」

 その言葉に、紅葉はどこか満足そうな笑顔を浮かべる。

「本当に……良い家族を得たの。妾の血が、このような未来を得る事が出来るとは思っておらなかった。

                     すえ
 志貴よ、どうか妾の末裔を、よろしく頼む」

 そう言う紅葉の瞳は、うっすらと潤んでいた。その様は慈愛に溢れつつもどこか扇情的で。思わず顔が赤らん

だ志貴は、それを振り払うかのように問いかける。

「はい。兄として、全力で秋葉を大事にしますから」

 志貴がそう言うと、ひときわ温かい風が彼らの体を包みこんだ。それと共に、目の前の紅葉の姿が徐々に薄れ

ていく。

「紅葉さん!」

 そう叫んだのは誰であったのか、名残を惜しむ響きに、紅葉は目を細める。

「ふむ……妾も名残惜しくはあるが。そろそろ時間かの。仮初の姿を保つのも存外骨が折れるものでな」

 朱い着物も、その豊かに波打つ髪も。ゆっくりと、戸隠の空気の中に溶けこんでゆく。

「再びこのような形で会い見えられるかは分からぬが、また来る事を楽しみに待っておるぞ」

 そう言って、再び彼らに向け微笑を浮かべて。

 紅葉の姿は、夢が覚めたかのように静かに消えていった。

 後に残れた東屋だけに名残を留め置いて。

「夢じゃ……無かったんだよな」

 ポツリと呟く志貴に、秋葉が答える。

「例え夢であったとしても、良いじゃありませんか。お正月くらい、こんな素敵な夢を見ても」

 そう言って、秋葉は笑顔で志貴達に向き直った。

「兄さんに琥珀、それに翡翠。ちょっとお願いがあるんだけど」

「ん?」

「何です、秋葉様?」

「先に、中社に戻っていてくれない? 後からすぐ追いかけるから」

「それは……危なくないか? 昼とは言っても冬山の中なんだぞ?」

 不安げな顔の志貴に向かって、秋葉は苦笑して。

「大丈夫ですよ。ただ、紅葉さんに遠野当主としてお別れとお参りをしたいだけですから」

「それでしたら、私達も一緒に……」

 言いかけた翡翠の言葉を遮り、秋葉は真剣な顔で志貴を見つめる。

「お願いします、十五分ほどで戻りますから」

「……分かった。出口で待ってるから、すぐに戻ってこいよ」

 その顔をする秋葉の考えを変えることは出来ない。それを悟った志貴は頷いた。

「それじゃ先に戻ろう、琥珀さん、翡翠」

「ですが!」

「志貴様、それはあまりに危ないのでは?」

 なおも不安げに二人を見遣る姉妹に、優しく彼は微笑んだ。

「大丈夫だ。秋葉がもし迷ったとしたって、俺が必ず見つけて見せるから。だからここは秋葉のしたいようにさせ

てあげよう」

「……ありがとうございます、兄さん」

 深深と頭を下げる秋葉。

 志貴は二人の背を押すように、元来た道を戻り始めて言った。




 彼らの背が秋葉の視界から消えた頃、彼女はポツリと呟く。

「まだ、そこに居られるのでしょう、紅葉さん」

 その言葉がただ、風に溶け、消える。その直前、秋葉の耳がその声を捉えた。

 姿は見えない。ただ、その声だけが秋葉の耳に飛び込んできた。

「……何じゃ?」

 意外そうな声。実際に響いた声なのか、ただ、秋葉にだけ聞こえた言葉なのか。一瞬考えこんだ彼女だった

が、大した問題では無い事に気付き苦笑する。ここにいるのは自分一人なのだから、それが違ったからと言って

どうという差も無いであろうから。

 だから、秋葉は自分の聞きたい事だけを聞く事にした。

「恨みは、無かったんですか?」

 答えは、無い。だから秋葉は言葉を続けた。

「どんな理由であれ、戸隠に流され、鬼として討たれ。そんな最後を遂げれば、世の中の全てを恨んだって不

思議じゃない。いえ、そもそもその『力』を自分に与えてしまった両親を恨んでも不思議では無いでしょう?

 だけど、先ほどのあなたからそう言うものは感じられなかった。何故なのですか?」

「それが聞きたいが故に、一人残ったというのか」

「はい。私、わからない事があると確かめずに入られないんです」

 そう真剣な声で言う秋葉。

「……そう言った所は妾に似ておるのやも知れぬの」

 姿があれば苦笑を浮かべていただろう、そんな紅葉の声が秋葉の耳に届いた。

「確かに、妾は都を石もて追われた。人とは違う『力』を持つ事で、鬼として恐れ疎まれた。その孤独に負けて、

妾は心よりの鬼と化してしまった。

 じゃがの、この地の人々は、鬼と化し、討たれた妾を篤く奉ってくれた」

 聞こえるのは凛とした声だけ。

 しかしそれでも秋葉には、遠く,昔を懐かしむ紅葉の姿が目に浮かんでいた。

「そんな心遣いの前には、妾のちっぽけな恨みなどいかほどのものでもなかった。人により与えられた恨みは、

人の情けにより癒された。ただ、それだけの事じゃ」

 紅葉の言葉に、静かに目を閉じ、考えこむ秋葉。

 辺りが再び静寂に包まれる。

「……不安じゃったのだろう? 兄の命を支え続ける事が」

 その静寂を破るかのように、ふいに投げかけられたその言葉。はっとする秋葉。

「その力を使い続ける事で、自分が鬼に堕ちてしまうのではないか。そう恐れているのであろう?」

「……どうして、その事が分かったんですか?」

「それくらい分からんで、この地の守役など出来ぬ。

 お主とあの兄との間には、まこと綺麗な生命の流れが出来ておる。お主の気持ちが、ほんとうによう伝わってく

る、美しい流れじゃ」

 そう、優しくかけられた紅葉の声が一転する。

「このたわけ、自らをそう卑下するでない!」

 秋葉の背に、紅葉の叱咤の声が叩きつけられた。

「身に持つ『力』が悪いわけでは無い。

 寂しさが、絶望が――そしてそれに屈する心が人を鬼へと変えるのじゃ!

 妾はそれに負け、鬼となった。ただそれだけの事。他の誰でもない、妾は妾自身に負けたのじゃ」

「紅葉、さん……」 

「じゃが、お主は一人ではなかろう? あの双子の従者がいて、そして兄も側におる。

 それで鬼へと堕ちるじゃと? 甘えるのは止めよ! もっと自信を持て!」

 その言葉と共に、温かい風が優しく秋葉を包み込む。

 まるで紅葉に抱きしめられているようで。思わずその温かさに身を預ける秋葉。

「志貴と言うたか。あの男の事が好きなのであろ? 兄としても、男としても」

 不意に囁くように言われた言葉。秋葉は顔を赤らめつつも、ゆっくりと頷く。

「はい。兄さんは、私にとって誰よりも大切な人です」

「それならば大丈夫じゃ。お主は負けたりせぬ。

 自らより大事なものを抱えた人間は、決して己に負けたりはせぬものじゃ」

 そう語る紅葉の声と共に、ぽんぽん、と、まるで優しく秋葉の背を叩くように風が吹きつけた。それを最後に、

風の抱擁が秋葉の身から離れる。

 名残惜しげに空を見上げた秋葉に向かって、再び、紅葉の声が響き渡る。

「妾は戸隠の鬼姫。仏ではないゆえ、お主を優しく労わるような事はせぬ。時には激しく突き放すであろう。

 それでも、自らの立つ瀬に不安を覚えたならば、いつ何時でも会いに来るがよい。いくらでも、その話に耳を

傾けてやるゆえ」

 言葉は厳しいが、あくまでその声は優しく温かい。

 込められた思いが胸に染み渡った秋葉の瞳に、知らず涙が浮かんでいた。

「はい……ありがとうございます、紅葉さん」

 そう呟いた秋葉は、やがて涙を拭い、空に向かって笑いかける。

「それでは、兄さん達をこれ以上待たせるわけにはまいりませんから」

 その言葉に返事はない。ただ、ひときわ強く吹いた風が木々を揺らし、秋葉の髪を舞い上げた。それに身を任

せたまま、彼女はゆっくりと、家族が待つ元へと歩き出していった。






エピローグへ、続く