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 ドイツ南西部、バーデン=ヴュルテンベルク。
 この地の半ばを埋め尽くす、深く黒き森は王権も教権も届かぬ禁忌であった。そこで起こる何事からも民は守られず、運良く舞い戻る事が出来たとしても、待っているのは過酷な罰である。

 森は悪魔の棲家なり。
 敬虔なれ、迷い子よ。その道過たず、闇に心を飲まれるな。
 森は悪魔の棲家なり。
 従順なれ、迷い子よ。そは人喰らい魂堕す、祈り届かぬ処なり――

 教会の司祭は人々にそう教え、他に信じる道を持たぬ者は、教えを深く心に刻み込んだ。森に足を踏み入れる事ができるのは、許された役目を追う者だけであり、それも陽光届くほんの入り口に過ぎない。禁を破って奥底に足を踏み入れた者は決して帰って来れないと、幼子すらも心に刻み恐れていた。
 だが遍く神の目の元、その森の深奥にはもはや人々が入り込む事は無かったのか。
 残念ながらそうはいかなかった。権力の剣の届かぬ場所は、逆にあらゆる束縛からの自由をも意味しているのだから。
 故郷を追われた者、罪を犯した者。教えに背いた者、頑なに教えを守る者。人を嫌う者、人に嫌われた者。人を守る法から外れるより他なかった者たちが、下界より森へ入り込む。
 森は禁忌であり人の法より外れた場所。ゆえに在るのはあらゆる自由である。そこで何が起ころうとも、もはや人の与り知るべきではない出来事なのだから
 人の世を捨て森に入り込んだ彼らをして悪魔と呼んだのか。それとも本当に人知を超えた悪魔がいるのか。それはもう問題ではなかった。人々皆が「いる」と思えば、それが真実となるのだから。
 現に足を踏み入れた者は帰ってこないではないか。死体も未だに見つからぬ。ならば得体の知れない恐ろしいモノに食われたのに違いない。
 それが野犬の群れなのか、はたまた底なし沼か足元崩れた谷底か。人々にとって事実は何の意味もない。思い描く憶測を共有した、真実こそが重要なのだ。
 ゆえに――数十年に一度、近隣の村から忽然と人の姿が消える。そのような事件も彼らにとっては悲しむべき出来事であれ、何の疑問も覚える出来事ではなかった。
 黒き森には魔物が棲む。彼らは森に近づきすぎたのだ。愚かにして哀れなる魂に安らぎを。
 森を恐れ神に祈り、やがてその事件も彼らの頭の中から消えていく。
 自らが、その当事者となるまでは――

 彼らのその迷信とも呼ぶべき想像は、その純粋さゆえに真実を捉えていた。
 森はかつてより在り、そしてこれからも在り続ける。
 物言わぬ王を称え、栄華を彩らんと人々を飲み込み続ける。
 此度目を覚ました王もまた、領地に入り込んだ獲物の気配に歓喜する。全身を打ち震わせ、空腹を満たすであろうその血の味を思い描く。
 だが王は王であるがため、外に出ることは叶わない。
 人々が王の姿を知らぬように、王もまた森より外の事は知る由もない。自身を上回る怪物の存在など、思い描く事叶わない。
 迫る滅びの足音に、決して気づく事のないまま。
 王は森を纏い、黒き世界を歩み続ける――







 埋葬機関に席を置くシエルにとって、この森は狩るべき敵と教えこまれていた。
 忌むべきその名はアインナッシュ。人の仇敵たる死徒の祖に数えられし強大なる『魔』。気の遠くなるほど昔から、数多の人の血をすすり上げてきた森の王。
 だがその名は同時に、手を出せぬ禁忌とも伝えられた。
 アインナッシュは魔術師であったという。どのような魔術を用いたのか伝えられてはいない。しかし彼は今、森を動かし森を飲み込み森を操る。シュヴァルツヴァルト全てが、彼の庭とも伝えられる。
 世界を切り分け、塗り替える魔術の秘奥――固有結界を使いこなし吸血を繰り返す死徒の祖は、そして現代に蘇った。
 腑海林アインナッシュ。思考林アインナッシュ――伝えられた忌むべき呼び名の意味を、シエルは身を以って理解する。
 空を覆いつくす木々の枝は、陽光を貯え雨を待つ事などはしない。鋼の様な腕を振り下ろし、逃げ惑う獲物を叩きつけ磨り潰して啜り上げる。下生えの草は自らの体を刃と変え、鉄糸が織り込まれたブーツすらも切り裂いてみせる。蔓草は蛇のごとき素早さと執念で獲物に巻きつき締め上げる。足元に張り巡らされた根は、網罠と化して踏み込んだ愚者を引きずり込む。
 住まう生き物もまた、全てアインナッシュの僕であった。
 羽虫は視界をふさぎ、むき出しの目や耳の穴や鼻を狙ってまとわりつく。拳ほどもある甲虫の群れは、樹液などでは満足しない。滴る血と肉を求めて弾丸の勢いで飛び掛り、大地に穴を穿いてまわる。常ですら危険な蟻や蜂の集団は、もはや物言わぬ食肉の軍勢そのものであった。
 無数に転がる錆付いた鎧や剣、そして幹にもたれかかる鎧兜は、踏み込んだかつての騎士か代行者か。柄がすでに腐り落ちた鍬や鎌の存在は、哀れを通り越して無常すら彼女に感じさせた。
 だがその屍すらも、中に入り込んだ根が操り人形のごとく自在に動かし襲い来るとなれば鎮魂の祈りも捧げる余地はない。
 シエルの体のそこかしこに、新しい傷が穿たれている。法力を持って編まれた筈のカソックには、すでに十に余るほどの穴が空けられ、その縁が黒ずんでいた。
 時間の感覚も狂わされていた。いつ踏み込んだのか。どれだけ時間が経ったのか。過酷な訓練によって鍛え上げられたシエルの感覚を持ってすら、すでに正確な時を思い出す事ができない。明らかに外界と隔絶した時間の流れが、彼女の心に戦慄を呼び起こさせる。
 なるほど、討伐かなわぬわけだ。昼なお暗きこの黒き森の最奥は、無数の敵が潜む訳ではない。そのような生易しいものではなかった。見る物見える物、その全てが敵なのだ。触れれば食われる。座れば飲み込まれる。倒れこめば取り込まれる。ただひと時の安らぎも許されなければ、鍛え上げられた代行者とてどうなるか。想像するに難くない。
 敵わぬ戦いに狩り出され、命を散らした先人達が今わの際に感じた絶望は、果たして今の自分と同じものなのだろうか。
 シエルはきつく唇をかみ締める。黒鍵を握る手に力を込める。滴る汗をぬぐう事もできない。ブーツを貫き足を切る雑草に手を向ける余地などありえない。
 このおそるべき森に踏み込んだその時から、確実なる生還など諦めていた。
 しかし今目の前に立つモノは、人喰らう森などと比較する事すら馬鹿馬鹿しい。
 人の歴史の裏側に歩み続けた、漆黒の王女。
「シュトラウトとプライミッツ・マーダーからはずいぶんと引き離されてしまったわね。見事なお手並みだったわ」
 黒いドレスを身に纏った少女が、無造作に歩み寄ってくる。
「黒の姫君直々のお言葉とは、恐縮ですね。最敬礼でお返ししたいところですが」
 己の心に活を入れるように、シエルの口から軽口が飛び出る。
「ガイアの怪物と、不死を謳われる黒騎士。彼らと共に居られては、勝負にすらなりません。今この機会を逃すつもりはありませんよ、アルトルージュ・ブリュンスタッド!」
 名を告げられた少女は腕を組み、悠然とシエルの前で足を止める。その目が冷ややかに細められた。
 その距離は五歩も踏み込めば詰まる程度。それだけの距離が、千尋の谷に等しい物である事をシエルは肌で感じ取る。餓え狂う森も、少女を取り巻くのみ。肌を突き刺すような冬の冷気が、この場だけいやおうにも増していく。
「そう……」
 少女の口元から、小さなため息が飛び出した。
「シエル……だったかしらね、代行者。日本で会った時はもう少し物分りが良い娘だと思っていたけれど。自分が何を言っているのか分かっているのかしら」
「死徒を目の前にして、見逃す代行者などありえません。それがたとえ貴女であっても」
「正論ね。ならば聞きなさい代行者」
 アルトルージュの目が細められる。研ぎ澄まされた殺意が、蛇のようにシエルの体に絡みつく。
「志貴君の優しい先輩であり続けたいのなら、退きなさい。決まりきった結末に、無為に時間を費やすのも惜しいわ」
 アルトルージュの言葉に、シエルは怒りで肩を震わせた。
 お前では敵わない。命が惜しければ背を向けて逃げ出せ。それが限りなく事実に近い言葉であることは、他ならぬシエル自身が理解している。
 周到に罠を練り上げ、あらゆる条件を整え、教会の持てる全軍勢を以ってして対峙する。それだけの準備が決して過剰ではない相手と、単身向かい合う。どれだけの無謀か、考える事も馬鹿らしい。
 しかし背中は向けられない。歩んできた代行者としての道のりを踏み外す事は、彼女には出来ない。
 決して本意ではない道だった。しかし背負った罪の十字架を、投げ捨てる事など出来はしないのだ。
「――その言葉を投げかけられて、退く代行者などいると思いますか?」
「なら好きになさい。どうせ貴女では届かないもの」
「届かぬかどうか――その身を以って確かめなさい、アルトルージュ!」
 その名を叫び叩きつけた、シエルの手が閃いた。銀の光が三条、澱んだ空を切り裂き走る。続けて三条。さらにそれを追いかけて六条、また六条。彼女の体が独楽のように回る度、引き絞られた必殺の矢がとめどなく撃ち出されていく。
 轟音が森の喧騒を砕く。反れ突き刺さる黒鍵が大地を跳ね上げる。巻き込まれた巨樹が木っ端に散り、紅い樹液を撒き散らす。蔓草が引きちぎられ炎を上げて灰と化す。鎌首を擡げた根は、黒鍵が突き立つ度に石と化した。
 濛々と立ち込める土煙の中で、荒い息をついたシエルはその奥を見据えていた。
 かわされてはいない。本命の刃はおろか、煙幕すらも何本か当たっている。
 並みの死徒なら六度撃ち滅ぼす黒鍵。それを一息に三十。
 その威力、魂すら砕き散らして余りあるのに。
「届かないと言った筈よ」
「このっ!」
 この場にそぐわぬ澄んだ声が響き渡る。舌打ちと共にシエルはその場を飛びのく。土煙を吹き散らして放たれた真紅の光弾が、彼女のいた場所を穿った。
 爆風に流されたシエルは、頭上の枝を蹴り飛ばして着地する。即座に飛びのき、襲い掛かる枝を黒鍵で切り払い、視線を今までいた場所に戻した。
 そこに、変わらぬ彼女が佇んでいる。その手には受け止めた黒鍵を無造作に握り締めながら。
 シエルのこめかみを、冷たい汗が伝う。
 並などではありえない。
 同僚たるメレムよりなお古き死徒だ。神秘と存在規模は積み重ねた年月に比例する。最も古き『魔』の姫が、この程度で倒せるなどとは思ってはいない。それでも、シエルが最も鍛えぬいた技を以ってして、纏う服に焦げ目ひとつつける事がかなわなかった。その事実にシエルは唇をかみ締めた。
 アルトルージュ・ブリュンスタッド。黒血の月蝕姫。
「一体どれほどの非常識だというのですか、貴女は」
「褒めてもらったのだと思っておくわ。だから貴女も、生き残りたければこんな黴の生えた『蛇』の技など止めておきなさい」
 アルトルージュは肩をすくめる。その紅い目が、シエルの顔を刺し貫いた。
「こんな物を見せられたら、必要がなくても殺したくなってしまうわ」
 アルトルージュの掌に力が篭る。シエルの魔力で編み上げられた刃が、澄んだ音を立てて砕け散った。
 そのままアルトルージュは、軽くシエルに向かって腕を振るった。
「くっ!」
 目の端に何かが光る。投げつけられた黒鍵の欠片だと気づいた時には、既にシエルの体が反応していた。
 違わず眉間を射抜く、銀の軌道から仰け反って逃れる。額の薄皮が割け、紅い花が宙に咲く。それでもアルトルージュから目は切れない。レースと刺繍の織り上げられた、スカートの裾が視界に映った。投げつけた刃に追いつかんばかりの速度で、アルトルージュが距離を詰めている。
「このっ!」
 仰け反り流れた体の動きに逆らわず、シエルは身を捻った。後ろに倒れこみながら、蹴り上げた右足がアルトルージュのこめかみを掠める。
 手ごたえはない。届いていない。それでも構わない。
 自らの体を影にして、シエルの左手には新たな黒鍵が握られている。この独楽は横にだけではない。縦にも回る。重力を振り切った連撃はシエルの修練の昇華。アルトルージュの視界の外から、振るわれた剣が宙を回る。
 それは無防備な少女の白い首筋へと吸い込まれ。
 そして何の抵抗もなくすり抜けた。
「なっ?!」
 呆然としたシエルが着地した、その背後からアルトルージュの声がかかる。
「前を見なさい」
 無防備にさらされたシエルの背中に、フリルで覆われた肩が触れる。瞬間、振り下ろされたアルトルージュの右足が大地を撃ち抜いた。
「――っぁあぁぁっ?!」
 シエルの体が宙を舞う。腰から上が消し飛んだかのような衝撃。痛覚が追いついてこない。視界が真白く染まる。ごろごろと無様に転がり続ける体が、大木を何本もなぎ倒していく。
 踏み込みの力を全て伝えた、肩を使った体当たり。血の塊を吐き出しながら、縺れる頭でシエルは喰らった技を認識する。体術の訓練で見せられた、東洋の武術に似た物があった筈。その時喰らったものとは、威力も切れも比較にならなかったが。
「聞く耳は持たないと思うけれど」
 這いつくばったまま呻くシエルに、アルトルージュの声が降り注ぐ。
「一応言ってあげるわ。退きなさい、シエル」
「答えが……分かってる質問を……いちいち、しないで……下さい」
「……そう、残念ね。私も時間が惜しいの。あんまり余裕は見せてあげられないわ」
 アルトルージュの声の質が変わった。シエルは血に塗れた唇を噛み締める。寛容さは無制限の慈悲と等しくはない。一秒と持たず、自分の命は吹き散らされる。
 引きつり痙攣を起こしていた臓腑の呻きが止まった。指先の痺れが消え、足に力が戻ってくる。シエルの体内を巡る魔力(いのち)が、出来うる限界で傷を癒していく。
 それでも、僅かに足りない。あと数秒、必要だった。
「な、何を焦って……いるのですか。死徒の女王たる、貴女が」
「言う必要はないわ――さようなら」
 掛けた声は、能面のようなアルトルージュの顔に跳ね返される。翳された、たおやかなその手に光が点る。
 躊躇いなど欠片も見せる事無く、その手が振り下ろされる。
 黒き森を震わせる、轟音が響き渡った。







 天を突く。聳え立つ。
 己が目の前に突き立っている脅威を前にして、リィゾ=バール・シュトラウトの脳裏に、唾棄すべき焦燥が忍び寄っていた。
 遠目に見れば、信徒の祈りを一身に集める白磁の女神像そのものである。だがその大きさが尋常ではない。リィゾの巨躯を以ってして、その像の膝にも達しない。
 像の両の手に握られた剣は、己が体ほどもある。象牙の肌をを黒と金色の甲冑で覆い、肘からも膝からも、飛び出した鋭い刃が鈍い光を放っている。肩口に備え付けられた巨大な銃剣の口は、違わずリィゾの体を捉えていた。
 足首につけられた巨大な歯車にも、丁寧に鋭い刃が嵌めこまれている、キリキリと、耳障りな音を立てながら回り続け、抉られ傷つけられた大地が赤黒い涙を流していた。
 その表情に浮かぶのは、迷い子を教え導く慈愛の微笑ではなく、能面の如き冷酷さ。しかしその目に確かな殺意を浮かべ、リィゾの姿を見下ろしている。
 古き死徒たるリィゾをして、初めて目にする強敵の秘奥。
「それが貴様の右腕か、メレム・ソロモン!」
「そうだよ、リィゾ。君には本邦初披露! かの高名たる『ブリュンスタッドの剣』には、こちらも剣を以ってお相手しないとバランス悪いでしょ? どこかの国の昔話じゃないけど、盾じゃ砕かれちゃうかもしれないものね。良い趣向だと思わない?」
「その名で私を呼ぶな。『ブリュンスタッドの剣』など、とうに砕けて錆ついた。この身は唯一、アルトルージュ様のみが振るわれる、唯の剣に他ならん!」
「相変わらず固いなぁ、リィゾってば。死徒が祖を集めたお祭騒ぎだよ? これを楽しまなくて一体どうするのさ」
 鋼の女神の肩に腰を下ろし、純白の法衣に身を包んだ年端も行かない少年が微笑む。少女と見まごう端正なその顔に、無限の歓喜と底知れぬ邪悪さを含ませて。
 誰あろう、かの少年こそメレム・ソロモン。数多の魔獣をその身に付き従える大死徒にして、朱 い 月(ブリュンスタッド)の愛し子。その右腕のあるべき場所には何もなく、垂れ下がった袖が生ぬるい風にはためいていた。
 顔を覆う兜越しに見る、メレムの顔も言葉も、記憶の中の物と寸毫変わらない。その傍迷惑な性根も、おそらく変わってはいない事だろう。
 リィゾは奥歯を噛み締め睨みつけた。篭った殺気に気づいていない筈がない、しかしメレムの顔からは、笑顔が消えることもない。
 取り繕った表情ではない。少年の姿をした悪魔は、心の底から楽しんでいるのだ。
 剣の柄を握り締めた、リィゾの指が力んで白む。知己にして仇敵たるかの死徒の、張り巡らした罠に足を踏み入れてしまった。主君たる姫とは、どれだけ引き離されてしまったのか。一刻が惜しい。すぐにでも合流せねばならない。
 だが、目の前の相手は一刻を惜しんだ刃で切り捨てられる相手ではない。
 リィゾは横目で、友たる獣の様子を見やった。
 状況は変わっていない。白銀の毛並みを怒りに震わせ、プライミッツ・マーダーもまたメレムの姿を見上げている。だがその口にもその四足にも、紫暗の光を放つ縄が十重二十重に絡みつき、動きを封じている。
 ありえない光景だった。ガイアの恩恵を一身に集めた、神霊に等しきこの獣を捕縛するなどとは。どれだけ強度を重ねようが、どれだけ丹念に魔術を織り上げ組上げようが、その上から造作もなく踏み潰す筈なのに。
 しかし現実は、少女の小指程度の太さの縄により、プライミッツ・マーダーは完全に自由を奪われていた。
 全力を込めれば切り離せるか。リィゾは素早くその縄を目踏みする。自信はある。技量は届かせる。問題は、なすべき間隙を目の前の巨像が与えてくれるかどうか――
「無理無理。何を考えてるか丸分かりだけどねリィゾ。ニアダークならいざ知らず、そんなナマクラじゃいくら君の剣技だって傷一つ付きやしないさ」
「……何だと?」
「魔術に疎い君だってさ、『グレイプニル』って言えば分かるだろ? それ、何百年か掛けた僕謹製の複製品。本物はかの"世界飲みの巨狼(フェンリル)"ですら縛り上げた逸品だよ? その系譜に連なるだろうプライミッツ・マーダーにはさぞ効くと思ってさ」
「道化が、姑息な真似をっ!」
「ははは、褒め言葉だねありがとう。舞台を盛り上げるためには何だってやるさ。君ら二人に僕一人、そのままじゃ一方的過ぎて盛り上がりにかけるじゃないか」
 肩を揺らしてメレムは笑い声を上げる。降り注ぐその耳障りな美声に、唸り声を上げてプライミッツ・マーダーは巻きつく縄に歯を立てる。巨大な爪を突き立てる。しかし僅かに綻ぶその端から擡げる鎌首が数を増やし、より堅牢に巨狼の体を縛り上げていく。
 まるで蜘蛛に絡め取られた蝶のようだった。  それをお誂え向きの獲物と見たか、森が蠢きその獰猛な口を開ける。巨狼の足元が赤黒い泥にぬかるみ、ゆっくりとその体を飲み込んでいく。とうとう立っていられなくなったプライミッツ・マーダーは、どうと大地に転げてしまう。常ならば振り切る事など容易いその穢れた顎も、今の状態ではどうにもならない。
「くっ!」
 リィゾは呻く。すぐにでも駆け寄り、引き揚げなければならない。しかしそれは目の前の悪魔に背を向ける事に他ならない。彼は自身の腕に自負はあるが、自惚れは持ち合わせていない。そのような行為は共倒れでしかないのだと、理性が感情を殴りつける。
 何より、プライミッツ・マーダー自身の目がそれを拒んでいた。
 恥の上塗りをさせるなと、何よりも誇り高きガイアの怪物が吠えている。
「ほら、助けにいかなくていいの? 間に合わなくなるよ?」
「――無用だ」
 揶揄するメレムの嘲笑に、唇を血が出るほど噛み締めてリィゾは吐き捨てた。その言葉に満足そうな光を目に浮かべたプライミッツ・マーダーの体を飢えた森が完全に飲み込んだ。閉じた顎の痕は消えうせ、薄ら寒い静寂が戻ってくる。
「うわ、薄情だねリィゾってば。本当に見捨てたよ」
「退いて得られる勝利などない。アルトルージュ様への詫びは、貴様の首で購おう」
「おお、こわ。子供を虐めるとろくな事がないってのにさ」
 賛辞に答える役者のように、立ち上がったメレムは大仰に左手を広げてみせた。そのまま、軽く神像の肩を蹴ると、羽毛のように舞い上がった体がゆっくりと大地に降り立った。
 リィゾとの間には、剣の女神が聳え立つ。絶対と恃む魔獣を盾にして、メレムの口の端が酷薄に釣りあがった。
「それじゃ始める前に聞いとくけどさ、リィゾ」
「貴様の戯言など、聞く耳もたん」
「いやいや、大事な事なんだって」
 メレムの左手が、リィゾの腰を指差した。滑らかな艶を浮かべた、漆黒の革張りの鞘に納められたままの剣を。
「今構えてる剣も業物かもしれないけどね。相手は僕だ。この首取るつもりなら、『ニアダーク』抜いた方が良いんじゃない?」
「貴様が忖度するような事ではあるまい」
「ふーん。いいけど、そんな余裕見せてたら――」
 女神像が剣を振り上げた。切っ先は森を突き破り、薄闇に閉ざされた世界に刹那光が降り注ぐ。
「――塵も残らないと思うよ」
 眩しそうに目を細めた、メレムの呟きが合図となる。
 雷が、落ちた。
 残像すら残さぬ速度で振り下ろされた巨大な刃が、リィゾに襲い掛かった。
 熱したナイフがバターの塊に潜り込むように、神像の剣は柄元まで易々と大地に突き刺さる。遅れて巻き上がった衝撃に、大地が撓み、そして爆ぜた。茂る大木がまとめて薙ぎ倒される一撃は、巻き込まれれば欠片も残さぬ威力を秘める。
 しかしリィゾはその刃を流れるように掻い潜っていた。巨体を全く感じさせない速度で、神像の足元へと潜り込む。馬の首などに興味はない。目指すは将の細首一つ。全力の一撃をそらされれば、命通わぬ神像とて、対応することなど出来はしまい。
 黒き矢が一直線にメレムへと跳ぶ。しかし少年の顔から余裕は消えない。
「甘いよ、リィゾ」
 からん、と。
 あまりにもあっけない音と共に、神像の左足が根元から外れた。
「なにっ?!」
 リィゾが思わず絶句する。さもあらん。見えない糸に引かれた振り子のごとく、その足が自分めがけて襲い掛かってきたのだから。その先端には、唸りを上げて回り続ける刃の歯車。その切れ味は鎧ごと両断して余りある。
「おのれっ!」
 土を草を抉りながら、無理やりに足を止める。体に残った勢いのまま、リィゾは剣を振るい歯車に叩きつける。無数の火花が散る。金属同士の噛みあう耳障りな音が、森の空気を引き裂く。
 拮抗は一瞬。
 斬り飛ばされた歯車の一枚が、天高く舞い上がる。しかしリィゾの体もまた、殺しきれぬ衝撃に弾き飛ばされていた。
 無防備に浮く彼の巨体に向かって、片足立ちの女神の視線が延びる。剣から離れた片手が硬く握り締められ、そのまま一直線に振りぬかれた。
「がっ、ぁぁぁっ!」
 かわす事など出来るわけがない。
 リィゾの体が、弾丸のように当たる物全てを薙ぎ倒していく。ぐしゃぐしゃと耳を打つ音は、果たしてへし折られた木か自分の体なのか。蹴り飛ばされた比ではない。大地と宙を往復しながら、撓み、弾んで転げまわる。
 視界全てが赤く染まっていた。意識すら一瞬飛びかけた。ようやく止まり、仰向けに投げ出されたリィゾの視界に、剣を振りかぶり宙を舞う神像の姿が映る。
「死なずの黒騎士たる君だけど、さ」
 メレムの嘲笑が、風に流れる。
「塵に変えてやれば、還ってくるのにも少しばかり時間がかかるだろ?」
 なるほど。
 迫り来る剣の影に、血で塗れたリィゾの口元が歪む。
 少年の外見に違わぬ内面だ。その時々の興味に全力投球し、挙句容赦が全くないらしい。跳ね起きて身をかわすには、少しばかり時間が足りない――
 再び、森に雷が落ちる。
 衝撃が大地を砕き、飛礫を天高く舞い上げる。身を引き裂かれた森の悲鳴が空気を揺らす。張り巡らされた根も粉微塵に吹き飛ばし、女神の眼前に巨大な擦り鉢上の穴が穿たれていた。
 かわせる速度ではない。かわしきれる範囲でもない。振るわれたのは剣でも、引き起こされたのは切断ではなく粉砕だ。その中心にいたのであれば、原形など留める筈もない。
「わぉ……」
 メレムの口から、感嘆と呆れが入り混じった叫び声が漏れる。
 晴れた土煙の中で、常識が黒き剣にねじ伏せられていた。
 震える巨大な剣の切っ先は、地面に届いてはいなかった。両手に握った大剣を盾と翳して、リィゾは破壊の中心でその一撃を受け止めていた。
 支える二の腕ははちきれんばかりに膨らみ、屈しつけられた片膝が大地にめり込んでいる。拳で罅を入れられた鎧のそこかしこは、この衝撃で完全に粉砕されている。兜は弾け飛び、巌のような顔は自ら流した血で真っ赤に染まっている。
 それでも女神の剣は、彼を折る事は出来なかった。
「……せめてかわしたらどうだい、リィゾ。肉体派にも程があるっての」
「生憎と、不器用な性質でな」
 口元を凶暴に歪めて、リィゾは笑う。
 気を抜けばそのまま圧力を受け止めきれず両断される。力任せに押し返せば剣をへし折られる。全身の力を腕に集めて、全身の感覚を手首に集中させ、敗北を脇に追いやる作業に心が躍る。かわす事は出来ただろう。だがそれはメレムの予想の範疇だ。仕組まれた盤上の上で必要以上に踊る事など、もはや彼には耐えられない行動だった。
 だから予想の裏を掻き、遊戯板を引っくり返す。
 この身は月を落とさんと誓った。故に紛い物の木偶人形に切り落とされるわけにはいかぬ。
 女神の表情は変わらぬが、しかし目の前の不条理をねじ伏せんと、さらに切っ先に力を込めてくる。その呼吸を完全に盗み、リィゾは手首を捻り切っ先を滑らせた。
 力を受け流された女神の体がぶれ、前にのめる。巨大な剣の腹に、身を擦り合わせるようにしてリィゾが大地を蹴った。
「あ、まずっ!」
 意図に気付いたメレムの叫びに、遅すぎるとリィゾの動きが雄弁に答える。
 身を崩した像の首は大地に近づいている。銃剣を蹴り上げ、白磁の肌に剣をつきたて、黒い風となったリィゾが女神の体を駆け上る。
 重厚な武装も、近すぎる間合いでは意味がない。石の肌も、鍛え上げた技量の前には意味をなさぬ。
 血の通わぬ石膏造りを、唯の一撃で用をなさなくするために、リィゾが狙うはただ一点のみ。
 この身は唯一の主のための一振りの剣。疾く主の元へ馳せ参ぜねばならぬ。
「邪魔立てするな、木偶がっ!」
 裂帛の気合と共に、横薙ぎに振るわれたリィゾの刃が、女神の首に打ち込まれた。







 繋がった。
 全身の回路が唸りを上げて、シエルの体に魔力を張り巡らせていく。
 バネ仕掛けのように跳ね起きたシエルは、迫る赤光と向かい合う。右か左かそれとも上か。刹那の時間も躊躇わず、彼女は光めがけて大地を蹴る。
 腹這いになるほど低く、しかし勢いは欠片も殺さず。迫る死の腕を紙一重で潜り抜けた。
 吸血草が頬に突き立ち深く抉る。光弾が背中を焼く。構いはしない。体が動けば問題ない。
 死の淵から這い上がり、迫るシエルの姿にアルトルージュの表情は変わる。余裕も嘲笑も消え、唖然と開きかけた唇を引き締める。
「往生際の悪いっ!」
 吐き捨てたアルトルージュが初めて構える。舞踏のように流した体の動きから、掬い上げる様に放たれた爪撃。畏怖すべき速度は、しかし僅かの焦りか精度が甘い。どれだけ速くても、予想していれば何とか対処できる。身を捻ったシエルの鼻先を掠め、割れた額から真紅の花が咲いた。
 待ち望んだ間合いを手繰り寄せた。この機会を逃せば勝ちはない。シエルは固めた拳めがけて、全身の魔力をかき集めた。
 小細工はない。埋葬機関に入り教えられた対魔の基本。その全てを今ここに。
 体に刻まれた忌むべき『蛇』(ロア)の魔術知識には、あるいはアルトルージュに通じる心当たりは思い浮かぶ。しかしここでは使えない。ここはアインナッシュの固有結界だ。大源(マナ)は根こそぎ森に奪われている。シエルが身に蓄えた底なしの魔力と言えど、彼女を打倒しうる大規模魔術を小源(オド)のみで執り行うなど不可能だ。そんな事が出来るのは、メレム以外には思い浮かばない。
 神秘はより強い神秘によってのみ打倒しうる。それに従うならば、今のシエルにアルトルージュを妥当できる術はない。
 しかしその越えられない壁も、一瞬ならば埋められる。この拳で打倒する必要はない。一時でも同じ位置に引きずり込めば、持ち込んだ切り札を使う事ができる。
「不義なる怨敵に鉄槌をっ!」
 聖句を引き金に撃鉄を叩き落す。振りぬかれたシエルの拳が、光の尾を引く。翳されたアルトルージュの腕をすり抜け、狙い過たずその頬を打ち抜いた。
「く、ぅぅぅっ!」
「不浄なる闇に安息をっ!」
 続けて放たれた左の拳が、アルトルージュの脇腹を抉る。苦痛の叫びを、血の塊と共に吐き出した少女の顎を、跳ね上げた膝が打ち抜いた。
「あぅっ……!」
 木の葉のように、魔姫の体が宙を舞う。重力の腕に捉えられた、この瞬間だけは完全なる無防備だ。この機を逃せば次などない。
第七聖典(セブン)――方陣励起(コード・スクエア)!」
 シエルの背中が焼けるような熱を放つ。刻まれた刻印が、唯一つの機能を成すべく唸りを上げる。
 脱ぎ捨てた法衣が姿を変える。いな、本来の姿を取り戻す。織り上げられた衣が、シエルの意を以って巨大な鉄の塊へと姿を変えていく。杭打ち機(パイルバンカー)と、その姿を知る者ならば言うかも知れない。自らの体重を遙かに超えるこの鋼鉄の化け物を、シエルの細腕がねじ伏せ振り上げる。薄闇を切り裂くその先の杭は、遙か古の聖獣の角。自らの動きを縛る重さに目を瞑り、ただ、この機をのみ狙い持ち込んだ、シエルの切り札の一つだった。
主の慈悲は、我らが罪を許したもう(カルヴァリア・ディスピアー)!」
 最後の言葉を鍵と成す。戒めを解き放たれた聖典を構え、シエルは闇を切り裂きアルトルージュに突き進む。転生すら許さぬ魂砕きが、一直線にアルトルージュの心臓めがけて疾る。
 だが突如吹き上がった根の群れが、鎌首を擡げてシエルに襲い掛かった。撒き散らされる血に誘われて、森が色気を出したのか。小煩い。シエルは踏み出す足に一層力を込めて突き進む。
 切っ先が遮る根を穿つ。腰に絡みつく蔓草は、勢いで引きちぎる。腕に突き刺さる小枝は、痛みごと思考の外に放り出す。敵はただ一人アルトルージュのみ。その小さくもおぞましき体を貫けば、終わるのだ。
 その目に映るアルトルージュの口元に、小さな笑みが刻まれた。
「そこまでよ」
 残酷な言霊の前に、闇を駆ける矢が、堕ちた。
 シエルの体は、彫像のように固まり動かない。腕にも、足にも胴にも胸にも首にも。血に塗れた根が枝が十重二十重に絡みつき、その動きを縛り上げていた。
「これは……そんな……くぅっ!」
 体を巡る魔力で強化された、シエルの力を以ってしても、戒めが解ける気配はない。
「行為は愚かだけど、その意志だけは素晴らしいわね、代行者」
 優雅に大地に舞い降りた、アルトルージュの姿が変貌を遂げていた。少女の殻を脱ぎ捨てて、幽玄なるその姿を浮かべている。闇の中にありてなお深い漆黒を身に纏い、シエルの前に向かい合う。その姿には毛ほどの傷もない。ドレスにも糸屑一つの解れもなく、その玲瓏な美を彩っていた。
「人間相手にこの姿になったのは、二度目だったかしら。ここしばらくで立て続けだと言うのが恥ずかしい話だけれど」
「小細工、を……このっ!」
「確かにそうね。でも、言ったでしょう? 届かないと」
 嫣然と浮かべた、アルトルージュの微笑みは崩れない。
「この程度の小細工で、貴女の切り札も必殺の決意も阻まれてしまうのよ」
 くすくすと小さな笑い声を上げて、アルトルージュは手を伸ばす。自らに向けられた、純白の杭の切っ先をそっと撫で上げた。
 その足元からは、森が退き乾いた地肌を晒している。まるで民が王に傅くかのように。
「ですがあり得ません! どうしてアインナッシュが捕食相手を選ぶような真似を……」
 絡みつく、血に染まった木の腕からかろうじて顔を覗かせている。苦痛と困惑に顔を歪めたシエルは、その理由に気がついた。
 辺りに飛び散った血は、自分の物とアルトルージュの物。確かに体は傷ついていたが、これほどの出血はしていない。そしてアルトルージュも、また。
 目の前の魔姫の異名を、今更ながらにシエルは思い出す。
 血と契約の支配者が、自らの血を以って森に変節を強いたという事か。
「でもこの森は全てアインナッシュの心象の筈。いかに貴女でも、同じ祖の心そのものをねじ伏せるなど出来る筈が!」
「そうね、本来ならそれは難しいわ。でも貴女たちは一つ勘違いをしているの」
 アルトルージュの手が第七聖典から離れ、シエルの首へと伸びる。素肌に吸い付く、ひやりとしたその手の感触に彼女の背中を怖気が走りぬけた。
「結果が同じなだけで、過程が一緒だとは限らない。そういう事よ」
 謎めいた言葉を呟いた、アルトルージュの眼の光が変わる。渦巻いた殺意の鏃が、シエルの眉間を射抜く。
「これが最後。志貴君の義姉として、彼の友人の命を奪うのは忍びないわ」
「似合わぬ仏心です、か、く、ぁ……っ!」
「でも貴女があくまで埋葬機関の代行者であると言うのなら、慈悲を持つ理由もないとは思わない?」
 アルトルージュの爪先が、シエルの首筋に潜り込む。脈打つ頚動脈に、爪の先が触れる。不死の失われたこの身では、脳髄が活動を止めれば逃れようのない死に囚われる。
 だが、慈悲は乞えない。漏れそうになる苦痛の呻きを噛み殺し、シエルは笑う。
「そう。本当に愚かなのね、貴女は」
 呟いたアルトルージュの指に、力が篭る。その瞬間だった。
 耳障りな金属音に振り向いたアルトルージュの目の前に、巨大な鎧が覚束ない足取りで駆け寄ってくる。ぐらぐらと揺れる兜の中には、あるべき人の頭はなく、ねじくれた枝が通っている。篭手も足甲も、そしておそらくはその鎧の中身も同じ事。
 アインナッシュの眷属に、死後も弄ばれる屍のマリオネットだった。
 支配下に置ききれなかったモノが、血の匂いに誘われたのか。
 振り上げられる錆ついた剣が振り下ろされるより早く、溜息混じりにアルトルージュが片腕を振るった。巻きあがる風が衝撃となり、鎧を砕くべく包み込む。
 だがそれよりも早く、頭上から降り注ぐ声と明確な殺意。
「そんな穢れた代行者なんかよりさ。ボクに殺意を向けてくれよ、アルトルージュ」
 アルトルージュの顔が歪んだ。澄んだ鈴の音のような声で、無限の悪意を撒き散らす道化者の顔が思い浮かぶ。ここに至る原因を作り上げた、忌むべき死徒の祖が一人。
「リタ・ロズィーアンっ!」
 吐き捨て頭上を見上げたアルトルージュの声と。
「あ……」
 それを見ていたシエルの声と。
「前を見ていろとか、さっきそこの第七位に言っていたけど」
 舞い上がる、インバネスコートの人影の嘲笑が重なる。
 死の淵に足を掛けた冷静さで、シエルは全てを見ていた。
 砕かれた筈の鎧の中から、飛び出したこの黒い影を。降り注ぐ殺意に気を向けた、アルトルージュの意識の陰に忍び込み、この女は易々と間合いの中に踏み込んだ。
「君こそしっかり見てなきゃね、アルトルージュ。このボクは、かくれんぼ鬼ごっこは大の得意なんだ。知ってるでしょ?」
 背中から胸を貫き通す、自らの血に染まった刃を。
「かっ……は……」
 呆然と、アルトルージュは見下ろしていた。




【続く】


  
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